1711328646322 3月23日(土)雨。今年は2月に異常なほど暖かな日が続いた。この分では春は早いかと思われたが、3月に入るや寒い日が続き、お彼岸には雪が降った。20日の春分の日は凍るような寒さで、翌日は晴れたが山は真っ白に冠雪していた。21日は用事があって大阪へ出かけたのだが、急いでいたため関空行の特急はるか号に乗ったら8割が外国人だった。いまはどこへいってもこんなふうで、京都の市営バスも同じ、自分の町にいながら国籍不明という感じ。バスの中でも町を歩いていても聞こえるのは外国語ばかり。
 例年ならもう満開になる京都御苑の近衛桜が今年はまだちらほら程度だという。毎年いちばん早くここの桜を楽しんできたのだが、この寒さではやむをえまIMG_7781い。
「枕草子」ではないが、「空さむみ花にまがえてちる雪に すこし春あるここちこそすれ」の気分。いつもなら花を追って京都のそこかしこを巡っているころなのだが、こういつまでも寒いと出歩くのが躊躇われる。
●津村記久子『水車小屋のネネ』(毎日新聞出版)を読む。いわゆる毒親がいる家を出て、新しい生活を始めた姉妹の40年にわたる物語。ネネと言う名のインコ(ヨウム)がキイパーソン(鳥だからキイバードか?)で、物語は静かにそして穏やかに語られる。人間の言葉を操る鳥が中心にいて一見ファンタジーになるところを、シリアスな人間関係がリアリティをもたらしている。近年、小説とは縁遠くなっていたが、久しぶりに読んだこの物語には、少なからず心を動かされた。     
 写真は京都御苑旧近衛邸のイトザクラ。上の写真は今日のもの。下は去年の同じ日に撮影したもの。満開でした。

IMG_9662 3月17日(日)雨のち曇り。数日前から春休みで孫たちがやってきている。いちばん下の子がこの春高校を卒業したので、もうみんな大人なみ。小さいころのように手がかかることはないが、みんな大きくなって場所をとるのが悩ましい。4月から美大に進む子は、京都では美術館や骨董屋、古着屋を覗こうかなという。路地裏探検も面白いよと言うと前日東山辺りを徘徊してきたと言い、面白いものを見つけたよと仁丹マークの町名版の写真を見せてくれた。私も京都に移り住んだころ、この町名版が気になってせっせと写真に撮ったものだ。この町名版と家々の軒に立つ鍾馗さん、それと町の辻々にあるお地蔵さん、この三つを京都の町の風物三点セットとひそかに名付けて。  
 この日の夕食は木屋町の店ですきやきをいただく。部屋の窓から東山が見渡せて、目の前には鴨川の流れが。この日もまだ寒かったが、河原には若い人たちが肩を寄せ合う姿があった。ここのところ人の出入り多く、別れや見送りが続いて落ち着かない。仕事も先送りにしたままだから来月はどうなることか。
 ニュースで日本の出生数が減り続けて、去年、わが国に生まれた赤ん坊は75万人だったという。戦後のベビーブームには確か年間260万人もの赤ん坊がうまれていた。少子化は日本だけでなく、中国でも出生数が減っていて、去年は1000万人だったそうだ。桁が違いすぎてどこが少子化なのかと思ってしまうが。
 夜、ブラームスの交響曲を聴く。ずいぶん前に「ブラームス・ツィクルス」で第1番から第4番まで一挙に聴いた。そのとき録音したものを時々聴き返している。前にも書いたが、ブラームスは交響曲はベートーベンに、歌曲はシューベルトに、協奏曲はモーツアルトに先を越されて、どうも諦めの境地にいたのではないかと思う。ブラームスを聴いていると「諦めよう諦めよう」という気分になるからだ。(あくまで私の場合)それでもブラームスはいい。陶然としていつの間にか眠っていた。
 写真は仁丹マークの町名版。ファンが多くて写真集も出ています。そうそう京都仁丹楽會というのもあって、歴史など詳しく調べているそうです。

line_137257804924405 3月15日(金)晴れ。卒業シーズンとなり、毎日のように袴姿の女子大生を見かける。京都市内には40近い大学・短大があり、145万市民の10人に一人が大学生なのだという。単純にいえば、毎年3万人を超える新入生がやってきて、同じ数の学生が巣立っていくというわけ。我が家に来ていた女子大生たちもいよいよ卒業し、引っ越し準備に追われている。彼女たちが入学した年はコロナ発生の時で、入学式もなく、授業もほとんどリモートだった。京都にいながら他大学との交流もできず、旅行もはばかられたようで、気の毒なことだった。最後の年度はコロナも落ち着いたおかげで自由に動けたようだが。
 大阪に住むKさんから手紙が届く。「3月12日は伊東静雄の命日でした。氷雨が降る寒い日でしたが、三国ヶ丘を散策してきました」とあり、静雄の詩「春の雪」が記されていた。

「みささぎにふるはるの雪
 枝透きてあかるき木に
 つもるともえせぬけはひは 
 
 なく聲のけさはきこえず
 まなこ閉ぢ百ゐむ鳥の
 しづかなるはねにかつ消え 

 ながめゐしわれが想いに
 下草のしめりもかすか
 春来むとゆきふるあした」

 堺市三国ヶ丘では毎年伊東静雄を偲んで「菜の花忌」が行なわれている。7年ほど前、そこで小さな話ーー詩人の故郷である諫早が生んだ詩人伊東静雄と作家野呂邦暢についてーーをしたことがある。和やかで温かな集まりで、みなさんの親和力に感動したものだが。今年も開催されたのだろうか。
 写真は卒業式へ向かう女子大生。折口信夫の歌をまたここで。
「桜の花ちりじりにしもわかれ行く 遠きひとりと君もなりなむ」  

477705648_2b-eTIRdoT0IgGp0shY5TK5UHhD8rwzbT1e6zqwCUaw 3月12日(火)雨のち曇り。アカデミー賞を受賞したからというわけではないが、映画『君たちはどう生きるか』を観てきた。近所の映画館ではまだ毎夕1回の上映が続いているのだ。昨日は受賞のニュースがあったせいか7割ほどの席が埋まっていた。去年、この作品が上映されたとき、今度こそ宮崎駿監督の最後の作品だというので大きな話題になった。見た人に感想を聞くと、「ようわからない映画だった」「ファンタジーといえばそうなんだろうけど、要するにこれからの若い人たちには争いのない平和な世界を目指してほしいと言いたいのだろうな」「われわれが生まれてくる前の世界と現世を行ったり来たりして、ユングのいう無意識の世界を思ったね」など人それぞれで、ふうんと聞いたものだ。で、実際に映画を観た感想はといえば、何か寓話のような下敷きがあるのだろうが、この世の終わりを妨げて主人公が新しい環境を受け入れていく、母親の死を認めて新しく母となる女性を受け入れる・・主人公と意識下の世界を繋ぐ役目をするアオサギが最後に叫ぶ「ともだちだあ」という言葉がこのドラマの希望するところを象徴しているよう。画面の展開が目まぐるしいので思い出すのも困難なのだが、印象に残ったのはアイルランドにあるドルメンを思わせる大きな石の墓。インコの群れにペリカンの群れ、やがて地上に出て人間の赤ん坊となるふわふわの群れなど、ぎゅうぎゅうのかれらがいい。またキリコ婆さんが木彫りの人形からにゅうっと人間になるところや、主人公を助ける若い頃のキリコが颯爽として凛々しいのがよかった。これも少年のビルディングスロマン(成長物語)の一つだと観ました。

IMG_9558 3月11日(月)晴れ。東日本大震災から13年目の日。神戸も東北の大震災もまだ記憶に新しいのに、いままた能登の惨状が生々しく迫って、やりきれない思いでいる。神戸も東北も町は復興したとはいえ、人々の心に受けた傷が癒えたとは到底思われない。あの時、当たり前の日常がいかに大切かということを、いやというほど思い知らされた。しばらくは緊張した日々を送ったものだが。能登の知人からメールあり。住まいは半壊したが、なんとか復旧して仕事を再開したいとあった。みんな疲れ果てている、いまはまだ気持ちも張りつめているが、これがいつまで保つことか、とあった。中途半端な慰めは何の役にも立つまい。とにかく体を壊さないように、きちんと食べ、ちゃんと休んで、英気を養って・・と書いて送る。手間いらずの食糧を明日にでも送るつもり。  
 ●大岡信『うたげと孤心』(岩波文庫)を読む。なかでも後白河院について書いたくだりを面白く読んだ。後白河の今様狂いと後鳥羽の和歌への打ち込み方には想像を絶するものがある。両院の時代には遊女が皇子を産んだりもしていたのだ。このころの天皇の即位年齢は8歳、5歳、3歳など(数え歳で)、六条天皇などまだ生後7ケ月だったというから、ひどい話。『うたげと孤心』を読んだら、またもや丸谷才一の『おっとりと論じよう』を読みたくなった。古典の世界へ遊びたくなるのは、一種の現実逃避もあるのかもしれない。やれやれ。
 写真は近所の花屋の店先で見かけたミモザの花。3月8日の国際女性デーの日、この花をあちこちで見かけた。早春はサンシュユやマンサク、エニシダなど黄色い花が目立つが、なかでも最も輝いているのがこの花ではないだろうか。

IMG_9564 3月9日(土)晴れ。昨日は寒かった。関東は雪だったようで、TVニュースはどこもそればかりだった。あのくらいの雪で大騒ぎするなんてと北国の人たちに笑われたのではないかしら。久しぶりに青空が見えたので、朝のうちに花見にでかけることにした。淀の水路沿いにいま河津桜が満開だという。去年も見たからいいかと思ったが、家籠りが続いて座り切り老人になりかけているので、少しは歩かなければ。京阪電車で淀へ着くと、目の前の競馬場が一新していた。いまだに入ったことはないが、広大な公園になっていて、競馬場というより、お洒落IMG_9566なテーマパークのよう。若い人や家族連れが来るのを期待しているらしい。水路沿いに植えられた河津桜は満開だった。花の下を1キロほど歩く。途中、長園寺という浄土宗のお寺あり。この門前に「鳥羽伏見戦幕府野戦病院の地」や「戊辰之役東軍戦死者之碑」の碑がある。去年歩いたときこの碑を見かけて胸衝かれたものだ。お寺の門前にはひと月早いが、花まつりの幟と釈迦像が立っておられた。
 ●木山捷平『酔いざめ日記』(講談社文芸文庫)を読む。時々思い出したように読みたくなる本。旧知の編集者の名前などがたびたび出てきて嬉しくなる。地味な作家だったが、没後全集が出版され、故郷笠岡市に彼の名を冠した文学賞があったりして根強い愛読者がいることがわかる。幸せなこと。

IMG_20240308_104837 3月6日(水)NHKの大河ドラマが紫式部を主人公にしているというので、書店には平安時代関連の本があふれている。漫画から学術書まで、実にさまざま。『源氏物語』千年で沸いた2008年を思い出す。あのときも書店には源氏物語ゆかりの本が山のように積まれ、京都の町のそこかしこに平安京の遺跡を示す標識が設置された。今回もしばらくは源氏物語で賑わうのだろう。つくづく紫式部は偉大な遺産を遺してくれたと思う。平安古記録を読んでいる身としては、これまで知る人が少なかった平安貴族の日記のことが広く知られるようになったのは嬉しい限り。藤原道長の『御堂関白記』、実資の『小右記』、行成の『権記』などを読んでみようかと思う人が増えるのは心強いことだ。ドラマの考証を担当している倉本一宏さんが「平安時代を語るとき、文学作品を根拠にされる場合があるが、歴史家としては受け入れ難い。歴史を語る場合は古記録などの一級史料に拠るべきだと思う」と言明しておられるのは頼もしいことだ。『栄花物語』や『大鏡』などの歴史物語や『十訓抄』『古事談』などの説話集をそのまま歴史的事実だとして語ることには疑問がある。文学作品は歴史書とは区別しなければと思う。ゆえにドラマはあくまでフィクション、当たり前のことですが。
 ●倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(講談社学術文庫)を読む。古記録の注釈書には普通、翻刻文(原文)、読み下し文、現代語訳と解説がつくのだが、この本には読み下し文はなく、原本の写真版が載っている。道長自筆のものと後世の写本のものがあるが、やはり自筆の部分には迫力がある。著者にはすでに『御堂関白記』の現代語訳全3巻、『権記』同全2巻、『小右記』同全16巻がある。同時代に書かれたこの3つの日記を読み比べると、立場の違い、記主の性格の違いなどが推測されてなかなか興味深いものがあります。

DSC06578 3月3日(日)晴れ。桃の節句。年に一度は外の空気を吸わせてあげなければと、今年もおひなさまを出す。去年は前日に飾って、さすがに申し訳なかったので、今年は早々と並べた。我が家のおひなさまは内裏雛のみ。夕食に女子大生たちが来るというので、ちらし寿司を作る。彼女たちが来るのもそろそろ終わりになる。みんな卒業していよいよ社会人となるのだ。それぞれ就職先に移り、みんな離れ離れとなる。折口信夫の歌をはなむけに。「桜の花ちりぢりにしもわかれ行く 遠きひとりと君もなりなむ」。  
 桃の節句というが、まだ寒い日が続いている。今日、3月3日は竹内好(1910~77)の命日。前年の秋に学生時代からの盟友武田泰淳が亡くなり、自らもガンを患っていた竹内好は一気に弱ったらしい。泰淳を見送って半年も経たないうちに亡くなった。「中国文学研究会」の仲間はよほど結びつきが強かったのか、竹内好の葬儀で弔辞を読んでいた増田渉はその途中で倒れ、数日後にみまかっている。(友引という言葉を思い出しました)。そういえば平安時代のことだが、藤原道長が亡くなった日に権大納言の行成も死没。二人の長い道のりを思うと、ここまで付き合うことはないのになあと言いたくなる。
 ●石牟礼道子資料保存会『残夢童女 石牟礼道子追悼文集』(平凡社)を読む。残夢童女というタイトルを考えた渡辺京二さんもすでにない。会いたい人、話をしたい(聴きたい)人の多くは世外の人なってしまった。寂しい限りです。

IMG_9555 3月1日(金)曇り。今日から3月、春も間近と思えば少し心が弾む。二条駅近くの佛教大学キャンパス前にミヤマガンショウの白い花が咲いている。毎年ひなまつりのころ、4本あるうちの一本が満開になるのだが、今年は揃って満開となった。いつも早く咲く木はもう盛りを過ぎている。ミヤマガンショウは中国産のモクレン科の木。あまり香りはしないがマンサクと同じで、我が家の周辺では真っ先に咲く花なのだ。この花が咲くと、ようやく周りのコブシや沈丁花のつぼみがほころびはじめる。まだ寒い日が続いているので、余程のことがない限り家籠りを続けている。古いスクラップを読み返したり、積んだままになっている本に目を通したり、家にいても退屈することはない。このまま座り切り老人になっても「なんのことがあらすかえ」だ。友人に教えられて、You tubeで佐々木閑という人の『ブッダの教え 仏教哲学の世界観』という講座を視聴する。京都には学僧、お坊さんで大学の先生という人が少なくないが、この人もその一人のようだ。仏教の歴史がわかりやすく語られていて、興味深く聴いた。
 ●秋山虔『古典をどう読むか』(笠間書院)を読む。副題が「日本を学ぶための『名著』12章」とある。著者が選んだ名著は、藤岡作太郎『国文学全史 平安朝篇』や、西郷信綱『日本古代文学史』など、私がこれまで読んだことのない本ばかりだが、巻末にようやく馴染みの名前があった。寺田透『源氏物語』、大岡信『あなたに語る日本文学史』、竹西寛子『日本の文学論』の三冊。そのうち読んでみることにしよう。  
 写真はミヤマガンショウ(深山含笑と書くのでしょうか?)の花。

1709171311797 2月29日(木)曇り。今年は閏年なので、2月が29日まである。今日が誕生日のKさんに「おめでとう」とメールを送る。4年に一度しか年をとらないので、彼女は今年まだ16歳か。しばらくして返事があり、「昔、Happy birthday sweet sixteenというアメリカの歌があったけど、とてもスイートという気分ではありません。毎朝新聞の一面を見るたびに気分が悪くなります。政治家の質の低下はどうしようもないけど、そんな人を選んだのは選挙民だものね(私は選んでいないけど)。日経平均株価が最高になったといっても、庶民生活には実感がないし。戦争に地震、とても誕生日を祝う気分にはなりません」。これにはさらに返す言葉無く、「全くね」と書いて送る。
 こういう時には浮き世離れした本を読むに限るというので、●丸谷才一対談集『おっとりと論じよう』(文藝春秋)を再読。日本文化をテーマに、いろんな識者と語り合ったもので、なかでも「桜うた千年」と題する大岡信・岡野弘彦との鼎談がいい。ここで丸谷才一が源頼政の歌をいくつか披露していて、彼が頼政びいきだということを知った。頼政の「深山木のその梢とも見えざりし 桜は花にあらはれにけり」「近江路や真野の浜辺に駒とめて 比良の高嶺の花を見るかな」などは私も好きな歌で、歌に「駒」が出てくると、何となく気持ちが晴れ晴れとなる。
 本格的な桜にはまだ早いが、今日、三条大橋のそばに満開に近い河津桜を見た。京都の町なかにもこの花を見かけるようになって久しい。濃い花の色が遠くからでも目立つ。確か一条戻り橋近くにも大きな河津桜の木があった。今年はまだ見ていないが、淀の並木もそろそろ見ごろなのではないかしら。
今日で2月もおしまい。明日から3月と聞けば、いよいよ花が待たれてなりません。「花をのみ待つらん人に山里の 雪間の草の春を見せばや」と藤原家隆に諭されそうですが。
 宿りして春の山辺に寝たる夜は 夢の中にも花ぞ散りける (紀貫之『古今集』)
   
 写真は三条大橋そばの河津桜。向こうは賀茂川と三条大橋。手前の小川は禊(みそそぎ)川。夏にはこの上に床が出ます。

IMG_20240228_111159 2月28日(水)晴れ。1週間ぶりに青空を見る。昨日は比叡山も愛宕山も雪で真っ白だったが、今日の日差しで雪は消えるのではないか。午前中、文具品を買いに大丸へ行くと、玄関に大きな人だかりあり。何事ならんと覗いたら、舞妓が都をどりのPR中だった。デパートの一階に都をどりの展示場が設けられていて、祇園甲部の芸舞妓の顔写真が一面に展示されている。コロナも落ち着き、祇園の歌舞練場も新装なったというので、みなさん張り切っているのだろう。壁のパネル写真に顔なじみの芸舞妓をみつけて、「おきばりやす」と声をかけてきた。
 ●石垣りん『石垣りん詩集』(岩波文庫 2015年)を読む。去年中公文庫になったこの人の『朝のあかり』というエッセイ集を読み、衝撃を受けた。地に足をつけて誠実に力いっぱい生きた先達、という思いがした。この詩集の編者は伊藤比呂美。巻末に収められた彼女の解説がいい。

IMG_20240228_162418 2月27日(火)曇り。山は雪。今日、2月27日は網野善彦(1928~2004)の命日。歴史家としていろんな問題提起をし続けた網野さんが亡くなって、もう20年になるのだ。京都の橘大学(当時は橘女子大)で網野善彦さんの話を聴いたのは1998年のこと。歴史文化学会主催の講演会で、演題は「日本中世における女性の社会的地位について」だった。江戸時代、百姓が日本の人口の8割とされるが、百姓=農民ではないということを、いろんな史料をひいて話された。能登の例、山梨の例など。そして民衆生活史をやるなら「柿」を調べるといい。資料はたくさんあります、といわれたのを覚えている。歴史を専門家の世界に閉じ込めるのでなく、広く一般に開いて新しい視点を示し続けた人。『日本の歴史をよみなおす』(筑摩書房)はよく若い人への贈り物にしたものだ。没後岩波書店から『網野善彦対談集』全5巻が刊行されているが、このたびセレクト版として『網野善彦対談セレクション』全2冊が出た。これを読むと、対談する二人のそばにいて、身近に聞いているような気分になる。網野さんも対談相手の司馬遼太郎、森浩一、石井進、永井路子、永原慶二らもいまはもう故人となってしまった。●網野善彦・鶴見俊輔『歴史の話』(朝日新聞社)、●網野善彦・森浩一『この国のすがたと歴史』(朝日新聞社)を読み返す。鶴見俊輔の「網野さんの先生は誰れですか?」という質問に、網野善彦は「しいて言えば、私です」と答えたという。若いころの自分の仕事から離れたところをめざしている、ということだったと鶴見は理解したそうだ。
 一昨年能登を訪ねたとき、平時国の子孫が住んでいる時国家へも行ってきた。ここに伝わる中世文書の研究で網野さんの歴史観は生れたのだ。25代続く家は幕末に建て替えられているが、大きな茅葺に唐破風の玄関があってそれは威厳のあるものだった。今度の地震で大きな被害が出ていなければいいのだが。

IMG_7673 2月24日(土)曇り。ロシアによるウクライナ侵攻から2年目となる日。いまだ終戦の見通しはたたず、TV画面に瓦礫となったウクライナの町が映るたびに居たたまれぬ気分になる。能登半島地震の被災地の様子も同じで、気が晴れぬことおびただしい。明るいニュースといえば、身近な若い人たちが無事大学を卒業して社会へと出ていくことになったことか。かれらが代わる代わるやってきて晴れ晴れとした表情を見せてくれるのが嬉しい。これからどんな道が待っているのか、理不尽なこともあるだろう、納得できないこともあるやもしれない、でもまずは謙虚に学ぶこと、知らないのが当たり前なのだから何度でも聞いて、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」など当たり前のことしか言えないのが情けない。
 この日は恩ある先生の誕生日。大病を患い、難しい手術をされたのがこの日だった。手術は成功し、無事生還されたこの日が先生の第二の誕生日となった。いのちの重さをひしと感じる日でもある。

 東日本大震災のあと、石牟礼道子さんが書いた「花をたてまつる」を読み直す。

「春風萌すといえども われら人類の劫塵いまや累なりて 三界いわん方なく昏し
 まなこを沈めてわずかに日々を忍ぶに なにに誘わるるにや 虚空はるかに 一連の花 まさに咲かんとするを聴く ひとひらの花弁 彼方に身じろぐを まぼろしの如くに視れば 常世なる仄明かりを 花その横に抱けり (中略) 灯らんとして消ゆる言の葉といえども いずれ冥途の風の中にて おのおのひとりゆくときの花あかりなるを この世のえにしといい 無縁という
 その境界にありて ただ夢のごとくなるも花
かえりみれば まなうらにあるものたちの御形 かりそめの姿なれども おろそかならず ゆえにわれら この空しきを礼拝す 然して空しとは云わず 現世はいよいよ地獄とやいわん 虚無とやいわん
ただ滅亡の世せまるを待つのみか ここにおいて われらなお 地上にひらく 一輪の花の力を念じて合掌す」
 これは熊本の真宗寺で行われた親鸞聖人750年遠忌法要の際、「表白(仏への言葉)」として書かれたもの。石牟礼さんは真宗寺と深い縁があった。私が初めて石牟礼さんにお会いしたのもこのお寺においてだった。この表白を読むと、西行の歌が浮かぶ。「仏には桜の花をたてまつれ わがのちの世を人とぶらはば」。

 ウクライナの人々に、ガザの人々に、災害で亡くなった方たちに、「花をたてまつる」。 

古典を歩くDSC00043 2月22日(木)雨のち曇り。今月8日(木)に投函した手紙が、大阪の友人に届いたのは翌週の13日(火)だった。京都から大阪まで5日間もかかっている。というのも、その間に3連休がはさまったため。これまでは大阪だと翌日に届いていたのだが、確実ではなくなった。九州や関東へは2日間かかっていたが、郵便配達の事情が変わってからは3日、週末をはさむと4,5日かかるようになった。これではますます手紙を書く機会が減るのではないか。ただでさえメールやラインでやりとりをするのが日常的になっているのだ。だが私の場合、そのせいで漢字を忘れ、文字は前にも増して拙くなり、ペンを持つのが躊躇われるほど。機能の退化は老化とパラレル、自然のままでいくしかありませんね。
 丸谷才一の『後鳥羽院』を読んだあと、ふと思い立って水無瀬を訪ねてきた。30年ほど前、初めて訪れたときと比べると町は宅地化が進み、「見渡せばやまもとかすむみなせ川」の風情はない。だが淀川べり近くから対岸の石清水や橋本あたりを眺めると、後鳥羽院や定家たちが船で行く姿を想像できなくもない。ここはまた谷崎潤一郎の『蘆刈』の舞台でもある。『蘆刈』では、主人公の男性が水無瀬を訪ね、後鳥羽院の歌を思い浮かべながら水無瀬宮址を歩き、川の中州で月待ちをしている間に現れた男から夢のような話を聞く。実際に谷崎潤一郎はこの辺りを歩いたのだろう。川辺に蘆刈の碑があるそうだが、この日は見つけることができなかった。(石清水八幡宮がある男山の展望台にも谷崎潤一郎「蘆刈」の碑がある)。ここは木津川・桂川・宇治川が合流して淀川となる三川合流地点で、春には長く伸びる背割堤が桜の帯となる。
 夕方から古記録演習。藤原道長の日記「御堂関白記」を子孫が写した「御堂御記抄」を読んでいる。偉大な父であり祖父である道長の日記を書写しながら、相当手抜きというか省略しているのがおかしい。儀式などくだくだしいと思われる部分は「具不記」(つぶさに記さず)として省いてしまっているのだ。原本である道長自筆の日記と比べると、手抜き加減がよくわかって面白い。   
 写真は水無瀬宮址とされる水無瀬神宮。ここが洪水で流されたあと、少し山側に新しい離宮が再建された。藤原定家もこの新しい離宮に通ったのだろう。

IMG_9547 2月21日(水)雨。あちこちから梅のたよりが届く。今年は例年より開花が早いというので蕪村ではないが、「梅遠近(おちこち)南すべく北すべく」という心境。蕪村には梅の花が似合う。亡くなったのは陰暦の1783年12月25日、新暦でいえば今年は2月5日にあたる。蕪村の辞世の句「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」はちょうどいまごろの梅を思わせるよう。蕪村はこの句を弟子に書き取らせたあと、「この三句を生涯、語の限とし、睡れるごとく臨終正念にして、めでたき往生をとげたまへり」(几菫「夜半翁終焉記」)。梅の花といえば、拾遺和歌集にある「勅なればいともかしこしうぐいすの 宿はと問はばいかが答えむ」が思い浮かぶ。拾遺集には読み人しらずとあるが、「大鏡」によると、この歌の作者は紀貫之の女(むすめ)紀内侍という。詞書によると、見事に咲いた庭の紅梅を内裏から強引に求められたが、この歌を詠んで訴えたところ、梅の木は召されずにすんだという。そういえば藤原定家も自宅の庭に植えていた柳の木を後鳥羽院に持っていかれて、それは恨んだという。歌で抵抗はできなかったのですね。のちに定家が詠んだ歌が、この時のことを根に持って詠んだものではないかと疑われて、定家は蟄居させられている。だがそのおかげで承久の乱には巻き込まれずにすんだ(のではないかしら)。
 ●永江朗『消える本、残る本』(編書房)を読む。1997年から2000年にかけてベストセラーとなった本について「どうしてこの本は売れたのか」を解読したもの。およそ30冊ほどのベストセラー本が紹介してあるが、その中で私が読んだ本といえば、網野善彦『日本社会の歴史』、ベルンハルト・シュリンク『朗読者』の2冊のみ。昔も今も自分は世の流行とは遠いところにいるんだなあ、と改めて思ったことだ。ちなみに当時のベストセラー本の一部を記しておくと、『レディ・ジョーカー』『血と骨』『理由』『五体不満足』『ああ言えばこう言う』『永遠の仔』『だから、あなたも生きぬいて』『命』などです。

IMG_9526 2月19日(月)曇り、のち雨。数日前の新聞にこんな記事があった。掌に乗るほどのブタの赤ん坊の写真と共に「臓器移植向けブタ誕生、社会の理解重要に、明治大発新興」。記事によると、「日本のベンチャー企業が、人に臓器を移植するために遺伝子改変したブタ3頭を誕生させることに成功した。拒絶反応の起こりにくいブタの細胞をアメリカから輸入し、クローン技術で誕生させた。人への移植を想定したブタとしては国内で初めてという」とある。一読後パッと頭に浮かんだのは、帚木蓬生の小説『臓器農場』(新潮社 1993年)とカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(早川書房 2006年)。どちらも臓器移植に関する話で、移植用の臓器を提供するために生かされる子どもたちが登場する。小説では臓器の提供者は人間だが、現実ではドナー不足が深刻で、移植希望者は何年も待つ必要があるという。人の命を救うためなのだから必要だとは思うのだが、臓器移植に関して、どうしても抵抗感がある。角膜移植や皮膚の移植などは何とも思わないのに、脳や心臓などの臓器移植には未だに抵抗感がある。医学の進歩は喜ばしいが、それはもう「神の領域」だと思う時もあるのだ。  
 写真はキク科のオステオスペルマムの花。水滴が水に落ちて弾けたような形をしています。府立植物園で。 

17081430312961708238574454 2月17日(土)晴れ。今年も招待状が届いたので、北野天満宮へ梅の花を見に行く。今出川通に面した大鳥居の周りには梅花祭の大きな幟が立てられて、華やか。参道を歩いていると、すぐに馥郁たる香りに包まれた。境内の梅はもう7から8分咲きというところか。梅林に入って、色とりどりの梅の花を愛でる。25日の梅花祭にはもう花は盛りを過ぎているかもしれない。うぐいすの声は聞かなかったが、メジロの姿は見た。花を楽しんだあと、上七軒の小さな料理屋で昼食をとる。梅が満開に近かったよと言うと、女将さんが「今年はなんでも早よおすな」。帰途、六軒町通を下っていきながら、この近くにあったカライモブックスを思い出す。
 午後から長崎のランタンフェスティバルの様子をYou tubeで見る。今年は長崎出身の人気歌手が皇帝パレードに出るというので、話題になっているらしい。仕事をしながら横目で画面を眺める。このパレードを見るのに全国から17万人もの応募があったそうだ。抽選に当たったのはそのうちの2万6千人とのこと。なにごとにせよ「推し」だの「熱狂」だのとは無縁の老体としては、羨ましいような、哀しいような。
 ●大江健三郎・小沢征爾『同じ年に生まれて』(中公文庫)に、大江健三郎が語るこんな言葉があった。「僕が思うのは、すごい学者や作家、詩人でも、だいたいその人が生きた年齢まで生きれば、その人の作品や思想は全部分かる、ということです。渡辺一夫は73で亡くなりましたから、僕も生きられたら73まで生きてやろうと思っているんです」。それに応えて小沢は「文学と演奏家とだいぶ違うと思うのは、やっぱり文学というものは書いたものが残ってて・・。音楽というものは、まあレコードなんか残るかもしれないけど、演奏しちゃうと終わってしまうという、刹那の芸術ですからね。これの違いがあるから、年に対する感覚はちょっと違うかもしれないですね」。なるほど、早逝した作家の作品を読むと(芥川龍之介の場合だって)「若いなあ」と思う時がある。でも当方、大江健三郎ほどの読み手ではないから、作家の年齢に追いついたとしても、全部を理解できるものやら。今日、その話をいっしょに『小右記』を読んでいるKさんにしたら、「私たちも藤原実資の年まで頑張って生きましょう」。実資の享年は90歳でした。90歳はまだまだ遠い先のことです(そうでもないかしらん)。  
 写真は北野天満宮(天神さん)の梅。

IMG_9542 2月16日(金)曇り。ここのところずっと小澤征爾を聴いている。今日はチャイコフスキーの交響曲4番、5番、そして弦楽セレナーデを。繰り返し聴いて飽きない。もうずいぶん前のことになるが、サントリーホールができた時、オープニングの演奏会にカラヤンが来るというので、張り切ってチケットを買った友人がいた。仕事も休んで東京へ出かけたが、カラヤンは来れなくなり、代わりにベルリンフィルを指揮したのは小澤征爾だった。確か1986年ごろの秋だったと思う。サントリーホールのこけら落とし演奏会はそれは贅沢なものだったようで、演奏会から帰ってきたときの友人の興奮ぶりをいまでも覚えている。プログラムを貰った記憶があるのだが、どこへ紛れてしまったものやら。  
 ●永江朗『51歳からの読書術 ほんとうの読書は中年を過ぎてから』(六耀社 2016年)を読む。「おじさんになると、なぜ時代小説が好きになるのか」「和歌と漢詩をしみじみと」「少年文庫を読む」「山川の教科書とちくま評論選」「散歩のコースに古本屋を」「文学館への旅」「図書館を使う」など、おおいに共感しながら読んだ。「迷ったときの文学賞」では、ベストセラーは読まなくてもいい、またたいていの新しい文学賞作品は急いで読まなくてもいいと言い、読むとしたら、「野間文芸賞」、「谷崎潤一郎賞」、「泉鏡花文学賞」、「大佛次郎賞」だと記している。同感ですね。
 写真は西本願寺南隣にある興正寺の梅。今年は暖かなせいか開花が早かったようです。

IMG_20240211_124806DSC06446 2月14日(水)曇り。●丸谷才一『後鳥羽院 第二版』(ちくま学芸文庫)を読む。藤原定家と切っても切れない縁があった後鳥羽院をその歌を通して論じたもの。定家の『明月記』からは、若き日の院の奔放さが窺えるが、新古今和歌集の真髄を具現化したのはこの院だった。新古今に多用される本歌どりという手法には伝統と新しさの緊張関係がある、それは西洋のモダニズム文学にあるパロディやパスティーシュの手法に通じる、ゆえに「後鳥羽院は日本的モダニズムの開祖である」と丸谷才一は言う。後鳥羽院といえば私な古典を歩くDSC00034ど「見渡せば山もと霞むみなせ川 ゆふべは秋と何思ひけむ」や「我こそは新じま守よ沖の海の あらき浪かぜ心してふけ」が思い出される。承久の乱に敗れて院が流された隠岐の島はまだ訪ねたことがないが、院が通い詰めた水無瀬宮へは何度も出かけた。水無瀬宮は大阪と京都の府境近く、大阪府島本町にある。JR駅は島本駅、阪急だと水無瀬駅で降りてしばらく行くと、緑に包まれるようにして水無瀬神宮がある。ここはかつて後鳥羽院の水無瀬離宮があったとされる場所。建保4年(1216)の大洪水でこの離宮が流されたあと、少し山よりの場所に新しい離宮が建てられた。いまそこに「後鳥羽上皇水無瀬宮址」の碑が立っている。最近、ここにマンションが建つことになった。きちんとした発掘調査が行なわれないまま建設工事が始まるのではないかというので、史跡保護を求める声が出ているという。淀川をはさんだ東岸には惟嵩親王の渚院があるが、いまは小住宅に囲まれた保育園の隅に石碑があるばかり。(水無瀬宮址も)せめて後世のためにも調査結果を残しておいてほしいと思う。
 写真上は「後鳥羽上皇水無瀬宮址」の碑。下は水無瀬神宮。

2014_0225_134651-P2250040 2月12日(月)晴れ。北山にある京都コンサートホールの近くに小澤征爾がよく行ったという小さな食堂があった。カフェでもなくレストランでもなく、食堂というのがぴったりという感じの店だが、中に入ると壁やカウンターの前のパネルに小澤征爾のサインがあって、幸せな気分になれた。この店でマエストロに出会う機会はなかったが、サインや一筆書きの自画像を見るのは楽しかった。店の人によると、小沢征爾さんは気さくで実に庶民的だった、とのこと。本物だね、音楽家としても人間としても本物、ああいう人はなかなかいないね、と。
2014_0225_134911-P2250042しばらく無沙汰している間にこの店はなくなってしまったが、あのサインはどうなったのだろう。 You tubeで小澤征爾を見る。なんと、1987年、サイトウ・キネン・オーケストラが初めてヨーロッパで演奏した時のドキュメンタリー番組もあった。次々に見て(聴いて)しまう。やはりブラームスがいい。ブラームスが好きだということもあるが、この二人は相性がいい。今日はエンドレスで聴くことにします。
 写真は北山にあった食堂の壁に書かれた小澤征爾さんのサイン。いまはいずこにあるのかしらん。

  

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