IMG_20210406_105646 4月6日(火)晴れ。作品のすべてを読んでいるわけではないが、気になる作家がいる。初めて読んだのは文芸誌に掲載された「若冲の目」という作品で、京都に住み始めて数年になるころのことだった。黒川創、以後、鶴見俊輔関連の本でこの人の名をよく見かけるようになり、彼の父親が「思想の科学」会員だった北沢恒彦で、作家の秦恒平は叔父だと知った。小説家としてのこの人の作品では「もどろぎ」や「明るい夜」、「かもめの日」などが印象深いが、去年出版された「暗い林を抜けて」はとくに心に残るものがあった。うまく説明できないのだが、作品の底にある孤独、憂愁、諦観、言葉にすれば違和感があるが、透明の悲哀というものが感じられてならないのだ。最新刊『ウイーン近郊』(新潮社)は自死した実弟のことを描いた小説である。もちろん創作だから、小説の主人公は妹で、彼女の視点で語られるという形で話は進む。兄がウイーンで亡くなったため、幼い養子をつれて妹は渡欧する。異国の習慣や法に戸惑いながらも親切な大使館の職員に援けられて、彼女は無事兄を葬ることができた。話の語り手は時に妹から大使館の職員や兄の友人に変わったして、時空の広がりが伝わってくる。オーストリアの歴史が背後にあり、兄のそこでの歳月が淡い色合いで語られる。作者にとって弟の死は衝撃的なものだったに違いない。共に暮らした女性はいたが、家族をもったわけではない。個として生きた弟の最期を作者はどう受け止め、引き受けたのか。作品としては前作『暗い林を抜けて』の方が私は好きだが、この作品にもある明晰さに惹かれた。口ごもりつつも語る・・という感じが気になる作家なのだ。
 明日からしばらく留守にします。またまたブログはお休みです。今年は比良八荒はありましたか?

IMG_20210406_084924 4月5日(月)晴れ。中国文学者の高島俊男さんが亡くなった。1937年生まれだから享年84歳。この人が週刊文春に連載した『お言葉ですが・・』シリーズは面白かった。私は連載が本になるのを待って愛読したのだが、言葉に関する知識の豊富さと見識に魅了された。歯に衣着せぬ物言いはときに爽快で、思わず手を叩きたくなる時もあった。もちろん教えられること多く、毎回「へえ、そうだったのか」と感じ入ったものだ。このシリーズ、なぜか最後は文春文庫には入らず、連合出版という所から出ている。この人のことは丸谷才一のエッセイで知った。丸谷才一がべた褒めしていたので読んでみる気になったのだが、大当たりだった。『お言葉ですが・・』シリーズ1の巻頭は「ミズもしたたる美女四人」で、「一月の大半をすごす琵琶湖畔の勉強部屋では、我輩地元の新聞を読む」と始まっている。高島先生は当時、琵琶湖畔にも住居があったようで、JR湖西線がときどき登場するのも好もしかった。冥福を祈りつつ、『お言葉ですが・・・』シリーズを読み返すことにしよう。
 

IMG_3578 4月3日(土)晴れ。午後の新幹線で最後の泊り客が去り、2週間ぶりに静かな日常に戻る。例年春は人の出入りが多く、落ち着かない日々を送るのだが、今年はコロナ禍もあり、ゆっくりできるかと思っていた。予想に反して入れ替わり立ち代わり泊り客が続き、ピーク時は書斎まで占領されてしまった。コロナは怖いけど折角だからと、みんなと花見に出かけ、ミュージアムを巡り、美味しいものを食べて過ごしたのだが、今年は春の過ぎるのが早いこと、早いこと。待ちし桜もうつろいにけり・・ではないが、ソメイヨシノは早々と咲いて、あっという間に散ってしまった。だが、あちこちのしだれ桜は時間差で咲いていくので、いまからでもまだ楽しめる。ベニシダレ、御室桜、御衣黄桜、サトザクラはいまからが見ごろ。

 伊東静雄の「春のいそぎ」に「送別」という詩がある。

 みそらに銀河懸くるごとく
 春つぐるたのしき泉のこゑのごと
 うつくしきうた 残しつつ
 南をさしてゆきにけるかな

友人の田中克己が出征するときの送別の詩。田中克己といえば、「この道を泣きつつ我の行きしこと わが忘れなばたれかしるらむ」という歌の作者。そしてこの歌で思い出されるのは小沢信男の『わが
忘れなば』(晶文社)。10年ほど前、この人の『通り過ぎた人々』(みすず書房)を楽しく読んだが、今年の3月3日に93歳で死去。貴重な語り部がまた一人世を去りました。
 写真は近所に咲いているベニバナトキワマンサク。

IMG_3577 3月26日(金)晴れ。昨日、頼まれていた仕事をすませ、メールで送稿。ほっとして今日は居候中の孫娘をつれて三井寺へ行く。京阪電車の三井寺駅を降りて西方を見ると、琵琶湖疎水の背後の山は満開の桜で白く煙っている。まるで吉野のようだと思ったが、吉野はすべて山桜でソメイヨシノはないのだ。疎水の入口に船が浮かんでいるのは、びわ湖疎水船だろう。大津と京都の蹴上の間を行き来する遊覧船で、桜の時期は片道8000円。狭くて暗いトンネルが怖いので、まだ試したことがない。いい機会だから乗ってみようかと近づいIMG_3574て乗務員に尋ねてみたら、桜の時期はもう予約で満杯とのこと。花が終わるころには空きがでますと言われたが・・・。三井寺を訪ねるのは何年ぶりのことだろう。堂々とした仁王門をくぐり、国宝の金堂を経て、三井の晩鐘で知られる鐘を衝き(いい音でした)、三重塔がある唐院へ。大師堂や灌頂堂の周りも満開の桜。広い境内のそこかしこに椿の花が咲き、赤い椿と白い桜がいいコントラストを見せている。ここは西国観音霊場の14番札所でもあり、白衣を着けた霊場巡りの人の姿もあった。観音堂からは展望が開けて琵琶湖が一望できる。花に埋もれた疎水べり、その向こうに青い琵琶湖が広がって、湖面には白いヨットも見えた。湖の水は少し緑がかった春の色。思わず、「重たき琵琶の抱きごころ」と言いそうになったが、蕪村が言う「重たき琵琶」は勿論かき鳴らす琵琶のことでこの湖のことではない。私はずっと、たっぷりと淡い緑の水をたたえた春の琵琶湖のことだとばかり思っていたのだ。
 境内に芭蕉の句碑があった。「三井寺の門たたかばやけふの月」。芭蕉の頭に「鳥は宿す池中の樹 僧は敲(たた)く月下の門」があったのでしょうね。
 写真上は大津琵琶湖疎水。下は三井寺の仁王門。

IMG_3502 3月23日(火)晴れ。朝、CT検査のため病院へ。怖がりなので、できるだけ病院へは行きたくない。検査を受けて変な病気がみつかったらどうしようといつも怖れているのだ。見つかった時は「手遅れです」ということになったらどうしよう、でもその時はその時、「What will come , will came」といつも言っているくせに、肝心の覚悟ができていないのだ。こわごわ検査を受ける。検査の結果、いまのところなんとか無事らしい。少し元気が出たので、気になっていた桜に会いに千本釈迦堂へ行く。もう8分咲きというところだろうか。枝に手を差しIMG_3537伸べて、「今年も無事に会えましたね」と挨拶す。年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず、あと何回この花に会うことができるだろうか。
 北野白梅町から嵐電に乗って嵐山へ。天龍寺の桜を見に行く。車内は観光客らしき若い人でいっぱい。着物姿の女性たちに交じって、卒業式帰りの親子連れの姿も。3週間ほど前歩いたときは、観光客はまばらで、ほとんどの店が閉まっていたが、この日はコロナ前に戻ったような賑わい。
 天龍寺のしだれ桜はいまが見ごろだった。「琴、花、酒のあるものを とどまりたまへ旅人よ」、いつまでも花を見上げていたいものだが。
 緊急事態宣言が解除されたせいか、我が家には関東からの来客が続いている。大学も企業もようやく出張が解禁になったのだろう。春休みで子どもたちも来るという(実は既に一人、春休みで居候中の子がいるのだ)。やれやれ。
 ●『遠藤周作全日記』の1962年4月11日条に、「日本の現代作家の日記では、荷風のそれに及ぶものはないように思われる。しかし荷風の日記は時代や風俗の変遷とこの作家の生活態度にたいする興味は読者にみたしてはくれるが、「三田文学」に連載されたグリーン(ジュリアン)のもののような感動を与えない」とある。「ジュリアン・グリーンの日記は、一人の作家の長い人生にわたる精神の思索の発展がしみいるように読者につたわってくる」と。この全日記は創作日記でもあり、とくに晩年の長編「深い河」を書くために読んだ本の記録などは興味深いものがある。仏教とキリスト教の接点、キリスト教の根拠と本質を探るーーそのために密教の本をよく読んでいる。作家にとって読むことと語ることは車の両輪のようなもので、創作には欠かせないようだ。
 写真上は千本釈迦堂の桜。下は天龍寺のしだれ桜。遠くの山は比叡山です。 

IMG_3483 3月18日(木)今年は桜の開花が早い。今日は旧暦でいえば2月6日。西行が願った「願はくば花の下にて春死なむ その如月の望月のころ」の旧暦2月15日は新暦でいえば3月27日で、今年はまさに花の盛りになるのではないか。京都でいち早く見られる桜といえば京都御苑の中にある旧近衛家のイトザクラ。毎年、春の彼岸のころには満開となるのだが、今年ももう見ごろだった。ちょうどこの日は御苑の北側にある女子大の卒業式の日で、式を終えた袴姿の学生たちが花の下で記念写真を撮る姿が見られた。近衛の桜も台風でずいぶん傷んでいるが、けなげIMG_3487に枝を拡げ、花をつけている。26年前、初めてこの桜を見た時の感動が甦った。京都の友人にいわせると、「ソメイヨシノは桜ではおへん」なのだそうだ。平安神宮や円山公園の枝垂桜、そしてこの近衛のイトザクラなどが京の桜というわけ。
 現在、京都御所は予約なしで見学することができる。花見のついでに御所見学(いや御所見学のついでに花見か)という人も多いようで、御苑はたいそうな人出であった。
 京都御苑にはたくさんの種類の桜がある。いち早く咲く大寒桜、大島ザクラ、マメザクラからヒガンザクラ、ソメイヨシノ、最後に紅しだれ、八重桜、サトザクラが咲き、5月半ばまで花に会うことができる。遠くに行かなくても御苑の中を歩くだけで十分楽しめるのだ。そうそう、御苑の北側にある冷泉家の桜も満開でした。
 写真は旧近衛家のイトザクラ。花よりもなお、華やかな女性たちの姿がありました。

IMG_3469 3月17日(水)晴れ。つれあいに誘われて醍醐寺の桜を見に行く。まだ早いのではないかと思ったが、枝垂桜がもう咲いていた。醍醐寺は拝観箇所が三宝院、霊宝殿、金堂・五重塔と三か所に分かれている。この日は霊宝殿がまだ閉館中で、20日からの公開を前にいろんな作業が行われているところだった。ここの枝垂桜はそれは見事なものだが、3年前の台風で枝が折れ、以前の絢爛豪華さはない。それでも滝のように落ちかかる花の華麗さには、毎回目を奪われる。この日、霊宝殿の庭の枝垂桜はまだ三分咲きという感じだったが、五重塔の周りにIMG_3454は見ごろの桜があった。3月9日のブログ「釈迦堂の春」に書いたように、京都で最古の建物はこの五重塔である。この塔を見るたびに、クレーンも重機もない時代に、よくもまあこんなに複雑で美しい塔を建てることができたものだ・・と思う。
 朝10時前に寺に入り1時間ほど散策して、正午ごろには帰宅。午後からオンラインで会合に参加。かたわらAmazonで届いた本を拾い読み。●斎藤美奈子『中古典のすすめ』(紀伊国屋書店)、●薬師院仁志・はるみ『公共図書館が消滅する日』(牧野出版)など。前者は1960年代から近年までのベストセラーを中心に、著者がつけた中古典としての評価を面白く読んだ。社会性のある作品に対する評価が高いのは共感できるが、井上ひさしの『青葉しげれる』の評価が低いのには微苦笑。辛口評論家の面目躍如というところか。後者の『公共図書館が消滅する日』は大学教授による公共図書館の現状分析で、戦後の図書館行政と現場の歩みが論じられている。図書館法の変遷が詳しく語られているが、果たして著者たちはどれほど現場を体験したのだろう、という疑問が拭えなかった。学者の論理と現場の(利用者たちの)思いには大きな隔たりがあるという印象を受けたのだが。
 写真は醍醐寺の桜。上は五重塔。下は三宝院の桜。

IMG_3427 3月15日(月)晴れ。書店で開高健の『オーパ!』(集英社)完全復刻本を見た。私が持っているのは文庫版(集英社 1981年)だが、繰り返し読んでずいぶんくたびれている。この本が復刻されたということは、いまも熱心な読者がいて、また新しい世代の読者もいるということだろう。森羅万象に心を寄せ、グルメにしてグルマンドであった開高健の魅力が全開、という感じの本。一昨年の冬、開高健が愛したというセコ蟹を食べに越前へ行ったことがある。海沿いの料理旅館で、開高丼と名付けられたセコ蟹の丼を食べた。館内にはいたるところに開高健の写真や色紙が掲示してあって、同伴者の作家たちの寄せ書きや色紙もあった。グルメ開高健お気に入りの宿だったらしい。つい先だって、『オーパ!』取材に同行した調理師が、現地を再訪するというTV番組を見た。当時を知る人たちはみな年を重ね、風景IMG_3444も少し変わっていた。それにしても『オーパ!』に漲る熱気はどうだろう。まさに大人の味ですね。
 この日、散歩の途中、二条城の西側に満開のコヒガンザクラを見た。これはマメザクラとエドヒガンザクラを交配させたもので、彼岸のころに咲くのでそう名付けられたという。今年は桜の開花が記録的に早く、京都御苑の近衛桜はもう満開に近いという。この分では3月中に咲き終えて、4月の入学式のころにはもう桜は散ってしまっているのではないかしら。
 写真上は「オーパ!」文庫本。下は二条城そばのコヒガンザクラ。

IMG_3425 3月14日(日)晴れ。小説を読まなくなって久しい。好きな作家は大半がいなくなって、もう新しい作品を読むことはできない。いま出来の小説を読んでも目新しい仕掛けばかりで、なかなか心に響くものには出会えない。だが世間には新しい文学だともてはやされているのだから、こちらが時代遅れになったということだろう。中村光夫ではないが、「歳はとりたくないものだ」。だが久しぶりに小説らしい小説を読んだ。増田みず子『小説』(田畑書店)。この本は彼女の19年ぶりの小説集だという。19年前に出た『月夜見』(講談社)は薄暗く静かな物語だったという記憶があるが、『小説』には明るさと穏やかさが加わったという印象を受けた。一言でいうと、好もしい語り口とでも言おうか。若い頃の作品は本人によれば「暗くて陰気」だったが、評論家の秋山駿が「群れずに暮らす夜行性の小動物のようだ」と大きく取り上げてくれて、それで書き続けることができたという。1970年代も終わりのころのことである。『小説』には、小説が書けなくなった50代終わりから71才までの日々が綴られている。家族との確執、親の介護、高校の先輩だった人との結婚、大学や短大で文学講座を担当し、老いてスポーツを愉しむ、それらの日々が緩やかなリズムをもって語られる。驚くような事件もなく、タイムスリップもITも出てこない。あくまで自分の身辺で起きた事を同じような筆致で綴ったもの、そこには「生老病死」が深くかかわっていて、良質の私小説を読んでいるような気分になった。それにしても長く書けなかった原因はなんだったのか、病気や親の介護などが一因だとあるが、その他にも何かあったのではないか、などと思ってしまった。

IMG_3300 3月13日(土)雨のち晴れ。今朝の新聞の訃報欄に遠藤順子さんの名前があった。享年93歳。遠藤周作の妻で、夫との日々や思い出を綴った著書がある。ちょうど『遠藤周作全日記』(河出書房新社)と『影に対して』(新潮社)を読んでいるところだったので、感慨深いものがあった。遠藤周作は1996年9月に亡くなったが、晩年の3年間は腎臓病のため入退院を繰り返す闘病生活が続いた。1993年5月の日記には闘病の辛さが記されている。「今まで5回にわたって手術を受けたが、今日の手術ほど痛く、辛く、堪えられぬものはなかった。途中でこのまま殺してほしいと何度も思った。病室に戻っても腹部の痛みつよく、家内の献身的な看護がなければとても持ちきれなかったに違いない。夜中も家内がそばにつきっきりで、手足をさすってくれたが、苦痛に満ちた一晩だった」。痛みを紛らわすため書き上げたばかりの「深い河」のことを考え、「今のぞむのはあの小説の出来上がりだ。早く表紙をなでてみたい。この小説のために文字通り骨身を削り、今日の痛みをしのがねばならなかったのか」と書いている。「深い河」はこの翌月、刊行された。
 『影に対して』は副題「母をめぐる物語」が示す通り、亡き母を描いた短編集。満州大連にいたころ両親が離婚、10歳だった周作少年は兄と共に母親に連れられて帰国し西宮に住んだ。この地で母親がカトリックに入信し、次いで兄弟二人も受洗している。のち浪人中の周作は経済的理由から母親の元を離れ、上京して再婚した父親の家に同居。戦後、母親もまた上京したが、1953年、脳溢血で急逝(58歳)。臨終に間に合わなかったこともあり、孤独な母の死は終生作家の魂に影をおとしている。全日記を読むとそのことがよく分かる。この日記に通底しているのは「母への想い」で、彼の文学の根幹である「母なる神」に繋がっているからだ。ある時は「私の母は一人で死んだ。この頃、私は母の孤独にやっと気が付き、その孤独に無力であったことに泪をながすのである」(1961年)と書き、またある日曜日のミサでは「朝、ミサ。いつもと違って今朝のミサは母や兄がその秩序にいる神(キリスト)の愛をひしひしと感じた。というより少年時代のあの夙川の教会の思い出が蘇り、私は幸福感に充たされた」(1992年)と書いている。彼にとって「キリストとは母のなかにあって母を母たらしめるもの」ではなかったか。
 遠藤周作は「日本人とキリスト教」について考え続けた人だと思う。「深い河」には輪廻思想があり、仏教とキリスト教の融合が感じられる。この人の、ペドロ岐部の生涯を描いた『銃と十字架』(中央公論社 1979年)から受けた衝撃(感動)は、40年を経たいまでも忘れ難い。

IMG_3406 3月11日(木)晴れ。東日本大震災の日。もう10年になるのだ。あの日は京都も揺れた。部屋で本を読んでいたのだが、ゆらりとして目まいかなと思っていたら東北で地震が起きていたのだった。未曾有の天災は原発事故によってさらに被害が拡大し、10年経ったいまもなお先が見えないまま。絶対安全のはずの原発が事故を起こしたらどうなるか、私たちは身に染みてその怖さを知ったはずなのに。いつになったら本当にすべてを「アンダーコントロール」することができるのか。政治家が忘れっぽいのは承知しているが、「復興五輪」がいまは「コロナに勝った証拠の五輪」というのはねえ。情けないやら腹立たしいやら。故郷を離れざるを得なかった人、帰りたくてもいまだに帰れない人、家族が離散したままの人、膨大な復興基金は果たしていずこへ?
IMG_3409 「巡り来る 東北の春を 忘れめや」朱雀。
 午前中、向日市の文化資料館へ開催中の「寿岳文章 人と仕事展」を見に行く。英文学者の寿岳文章(1900ー1992)と妻で文筆家の静子(1901ー1981)は向日市の自宅を「向日庵」と名付けて住んでいた。夫妻はここで「向日庵本」と呼ばれる本づくりをはじめ、和紙の研究、工藝、翻訳、書誌学と幅広い仕事を成した。私はこの夫妻の手になるウイリアム・ブレイク詩集、『無染の歌』『無明の歌』を持っている。1990年に集英社から彩色版画付きで出た向日庵本の複製版で、本文用紙は越前武生の特漉和紙、表紙は手織福光麻布というまるで工芸品のような本。展示品の中にこの原本を見て感慨しきりだった。寿岳文章はまた和紙の研究家としても知られ、全国各地の紙の産地を訪ね歩いた旅の記録や和紙現物が展示されていた。中でも「杉原紙」の源流が兵庫県加美町(現多可町)にあることを突き止めたことは、町の復興の力になった。以前、平安時代を専門とする知人と加美町を訪ねたことがある。町には娘の寿岳章子さんから寄贈された夫妻の蔵書を収める「和紙博物館 寿岳文庫」がある。小さいが気品のある建物で、貴重な向日庵本など、その美しさに目を奪われたものだ。夫妻の家に遺された資料は現在英文学や美術工芸史、近現代史などの研究者によって調査中とのこと。日記や書簡も興味深いが、手作り感が伝わる雑誌「工藝」などに見とれた。資料館のスタッフによると、今年の秋に国際フォーラムが開催されるそうで、それに合わせてこの展覧会が再度開催されるという。楽しみに待っていよう。
 写真は向日市文化資料館で。「寿岳文章 人と仕事」展の看板と展示された書物の一部。棚上はダンテ『神曲』3巻(集英社)、ブレイク挿絵。

IMG_3401 3月9日(火)晴れ。西陣へ行った帰り、千本釈迦堂へ寄ってきた。境内のしだれ桜(阿亀桜)はまだ蕾だが、何本もある椿は満開だった。千本釈迦堂は通称で、正しくは瑞応山大報恩寺。ここの本堂は安貞元年(1227)の建立で、いまも創建当時の姿を残す市内(京洛)最古の木造建築(国宝)。応仁の乱にも焼けなかった貴重な建物だが、中におられる仏像も素晴らしい。御本尊の釈迦如来坐像をはじめ、快慶作十大弟子、定慶作六観音像など、鎌倉時代の仏像は平安のものと違うリアルさがあって力強い。ここが市内最古の木造建築だと書いたが、京IMG_3433都市内最古の建築物は伏見区にある醍醐寺の五重塔がそうだ。醍醐寺の五重塔は天暦5年(951)の創建だから、大報恩寺よりも276年も前に造られている。つまり広く京都で最古といえば醍醐寺で、京洛(平安京域)最古といえば大報恩寺ということなのだろう。洛中は度重なる火事や戦火に見舞われて、大法恩寺のように800年も前の姿を留める建築物は少ない。いまは狭い境内だが、このお堂の前に佇むと心がのびやかになる。もう2週間もすればしだれ桜が咲きだして、ここも賑やかになることだろう。
 写真は千本釈迦堂に咲いている椿と樒の花。樹の下に何匹も猫が昼寝をしておりました。下は京洛最古の建物である釈迦堂。

 2016_0316_161353-IMG_53633月8日(月)雨。今日、3月8日は国際女性デー、ミモザの日。国際女性デーは国連によって1977年に定められたもの。まだ新しい記念日です。またイタリアやフランスではこの日、身近な女性に感謝をこめてこの花を贈る習慣があることから、ミモザの日とされています。同じように愛する人にスズランの花を贈る5月1日がスズランの日というのと同じですね。京都でもこの黄色い花をよく見かけますが、とくに洛西の桂坂では庭木にしている家が多いせいか、今の時期通りかかると眩しいほどです。福王子交差点を周山街道へ入ったところにある三宝寺というお寺の駐車場にそれは大きIMG_20210227_111819なミモザの木がありましたが、いまも健在かしら。このお寺には見事なしだれ桜があって、以前はたびたび訪ねたものですが。
 春は黄色い花が目立ちます。春いちばんにまんず咲くマンサク、サンシュユ、トサミズキ、ロウバイ、クロモジ、レンギョウ、キブシ、野には一面に菜の花。そのあとから桃や桜、アンズとピンクの花が続き、モクレン、コブシなどのあと梅雨が近くなると白い花、リキュウバイやバイカウツギ、ウツギ、ヤマボウシなどが咲き出します。町のそこかしこに馴染みの木(花)があるのは楽しみです。
 ●内田樹・白井聡『日本戦後史論』(朝日文庫)を読む。2015年に出た対談集だが文庫化するときに新しく一章が加えられた。時評的なものなので、前半の5年前の話は「ああそうだったなあ」と読み返したが、最終章の「安倍退陣、アメリカ大統領、そしてコロナ危機」はまだ熱い話なのでストレートに理解することができた。「日本の近代化が失敗した理由」という項での内田樹の言葉、「近代日本の最初のボタンのかけ違いは、戊辰戦争の総括だったと思っている。あのときに敗者の処遇を誤ったことによって、それからあと近代日本には”怨霊”のようなものが取り憑いてしまった。戊辰戦争から150年も経って、まだどこの藩であるかが問題になる。東京以外のところではいまだに藩が地方行政の本質的な区切りなんです」に頷いてしまった。とくに東北へ行くとその思いを強く感じるせいか、「福島第一原発の事故と東日本大震災の復興問題を通じて、一挙に表面化してきました」という白井聡の言葉にも。
 写真は洛西桂坂のミモザの花。

IMG_20210301_102729 3月6日(土)雨のち晴れ。図書館に関する本を続けて読む。この日読んだのは、●嶋田学『図書館・まち育て・デモクラシー 瀬戸内市民図書館で考えたこと』(青弓社 2019年)。著者は大阪府豊中市立図書館や滋賀県永源寺町立図書館、東近江市立図書館などを経て、瀬戸内市新図書館解説準備室長から同図書館長となった人。その後現場を離れて、現在は奈良大学文学部教授。タイトルが示すように、ここに書かれているのは公共図書館のあらまほしき姿である。瀬戸内市民図書館をつくるとき、指針とした七つの言葉が紹介されている。それは、「市民が夢を語り可能性を拡げる場、コミュニティづくりに役立つ場、子育てを応援する場、高齢者の輝きを大事にする場、文化・芸術との出会いの場、すべての人の居場所となる場、瀬戸内市の魅力を発見し発信する場」で、市民が「持ち寄り、見つけ、分け合う広場」となる図書館を目指すというもの。瀬戸内市民図書館は誕生後多くの市民に支持され、町の知名度も上がった。各地の先進的な図書館で働いた経験がある著者にとって、現在の滋賀県内の図書館に活気がないのが気になるという。どんなに立派な建物を造っても、図書館の魅力を支えるのはやはりそこで働く「人」なのだ。豊かな資料もそれを活かすのは「人」。専門職の力が発揮できる場であってほしいものだ。
 最近の新しい図書館はいかにして人を集めるか、にぎわい創出の場となっているものが多い。カフェや雑貨店はもう当たり前、だが、だれもが行きたくなる場所であることは大事なことだろう。理想の公共図書館とは、とあらためて考えさせられたことだ。久しぶりに図書館づくりに関するすぐれた教科書を読んだ気がしました。
 

IMG_3384 3月4日(木)晴れ。昨夕のTVニュースで伏見区淀の河津桜のことを知った。なんでも地元の人たちがこの桜を伊豆から取り寄せて植え続けてきたそうで、20年になるいま、見事な並木に育ったという。河津桜は早咲きなので、いまが見ごろとのこと。一昨年の春、伊豆の本場を訪ねたがもう花は終わったあとだった。伊豆に行かなくても花に会えるなら、見ばや、行かばや、というので、朝食後すぐに出かける。地下鉄~京阪と乗り継いで、京阪淀駅で下車。そこから歩いて15分ほどのところに水路があり、それに沿ってピンク色の帯IMG_3395ができていた。濃いすぎる花の色にちょっとたじろいだが、桜は桜、今年初の花見なのだ。時間が早かったので、花見客もまばら、ゆっくりと花を楽しむことができた。私たちが帰るころ、続々と花見客がやってきていたから、昼前には密状態になったのではないか。
 京阪淀駅が立派なのに驚いたが、競馬場が目の前にあり納得。帰りの電車に乗る前、駅近くにある淀城跡に寄ってきた。城内に淀藩稲葉家の初代正成を祀る稲葉神社があった。案内板によるとこのお城は江戸時代に入ってから徳川秀忠の意向にIMG_3373よって築城されたものという。私はここがあの淀殿の城とばかり思っていたのだが、秀吉が淀殿のために築いた城はここから北方の納所にあったとのこと。これまで京阪電車が淀駅を通過するとき、窓から見える城址の石垣を眺めては淀殿の城かと思ったものだが、あれは全く的外れだったと知ってがっかり。何事も先達はあらまほしき・・と思ったことでした。
 写真上と下は伏見区淀新町にある淀水路の河津桜。中は淀城跡の碑。

IMG_3340 3月3日(水)晴れ。前日の雨が上がって気持ちのいい朝になる。ベランダから嵐山方面を眺めているうちに出かけたくなった。久しぶりに嵐電に乗る。車内には旅行者らしき若者たちの姿がちらほら。嵐山の手前にある車折神社前で降り、ここの花はいかならむと見に行く。富岡鉄斎はかつてここの宮司だった。最近は境内にある芸能神社が有名なようだが、私には鳥居前の寒緋桜が親しい。この日、寒緋桜はまだ5分咲きというところ、しだれ梅や早咲きの桜が見ごろだった。沖縄に多い寒緋桜が京都でも見られるのは嬉しいこと。大鳥居が無くなっIMG_3355たのは寂しいが(台風で倒れたのか?)この桜が健在でよかった。
 嵐山は人通り少なく、閉店中の店も少なくない。改装工事を行っている店がいくつかあった。かつては通りを埋めるほどの人で、地元の人間は足が向かないと言われたものだが、こう閑散としていると寂しすぎて気が沈みそうになる。というわけでどこへも寄らず、嵐電に乗って昼前には帰宅。
 ●八木正自『古典籍の世界を旅する』(平凡社新書)を読む。著者はこの道50年の古書店主で、体験をもとに明治以前IMG_20210301_102718の書物である古典籍の魅力について語っている。著者によると、古代の写本が豊富に伝わる国は日本以外にないという。そこから国宝級のお宝を発見する喜びがいかなるものか、生き生きと記されている。古書業界の重鎮・反町茂雄に師事し、その薫陶を受けたことなど、貴重な思い出も綴られている。新発見の長崎版画オランダ船図のことや、ロンドンにあった川原慶賀の長崎出島図のことなど、そうだったのかと思いながら読んだ。コレクターに頼まれて、坂本龍馬の書状を鑑定の上、1633万円で落札した話も面白い。奈良・平安時代の古典籍は殆どが筆写本が伝わるのみ、「源氏物語」も「枕草子」も原本は現存しないのだ。紫式部の筆の跡が出てきたら断簡でも龍馬の手紙どころではないかもしれませんね。
 写真上は車折神社のしだれ梅。中は嵐山の渡月橋。ほとんど人影なし。寂しいものでした。

IMG_3324IMG_3330 3月1日(月)晴れ。今日から弥生、いっぺんに春が来た気分になる。千本今出川に用事があって出たついで、一条通りを西へ歩いてきた。一条通は平安京の北辺一条大路にあたる。平安末期にはこの通りには貴族たちの邸宅が並び、一条天皇の里内裏である一条院もここにあった。一条天皇の中宮藤原彰子も里内裏にいたから、彼女に仕えた紫式部もここにいたわけだ。院の跡はいま名和児童公園になっていて、公園の入り口近くに一条院里内裏跡の説明版がある。今日歩いたのは千本通りから西側なので、大宮通にある一条院後へは寄らなかった。千本通りを西へ入るとIMG_3333「大将軍商店街 妖怪ストリート」の看板に会う。平安時代、京の町に出没したという百鬼夜行伝説を町のシンボルとしたそうで、各商店の前にいろんな妖怪人形が置いてある。古い町家の軒に立つ鍾馗さんや、老舗餅屋のウインドウに並んだ陶器のお内裏さまなどを見ながら歩いてゆく。大将軍神社の前を通り、この日の目的地、地蔵院へ。地蔵院は別名「椿寺」。726年、聖武天皇の勅願で行基により、摂津に建立されたもの。その後1589年に豊臣秀吉の命で、現在地(一条紙屋川)に移転。江戸時代に浄土宗となり阿弥陀如来を本尊としたが、その前は地蔵菩薩がご本尊だった。地蔵堂の前庭にある五色八重椿が有名で、この日もこの花に会うのを楽しみにしていたのだが、まだ半分しか咲いていなかった。ここには蕪村の俳句の師である夜半亭巴人(1676ー1742)のお墓がある。蕪村は師の死から28年後(1770年)に夜半亭の名を継いだ。蕪村も墓参に来たのではないかしら。
 写真上は一条千本通の町名板。ここからスタートしました。右は通りの中ほどの民家で見かけた大将軍神社の疫病退散の護符と「遺族の家」の札。下は地蔵院の五色八重散椿。

IMG_3313 2月28日(日)曇り。日中は15℃と暖か。先日百万遍まで用事があって出かけたおり、京大吉田寮の前に立て看板をたくさん見かけた。以前は百万遍の京大前に大小さまざまな立て看板を見かけたものだ。クラブの行事案内や研究会や講演会の案内が多く、政治的なものは少ないように思われたが、景観上の理由から大学が禁止。学生たちの抵抗があってすんなりとはいかなかったようだが、いまでは見られなくなった。学生の立て看板くらい賑やかでいいではないかと思うのだが、これも大学の管理社会化というわけか。以前、私はこの看板を見て京大のIMG_3314能楽部の公演を観に行ったことがあるから、役に立つこともあったのだ。吉田寮も大学側と寮生の間で軋轢があったようだが、この日見ると、新しい寮が建っていた。奥にはまだ古い寮が残っているが、中はどうなっているものやら。数年前になるが、学生時代この寮にいたというMさんとここを訪ねたことがある。いまは北海道に住むMさんはおよそ30年ぶりだといいながら寮の前で写真を撮り、西部講堂はいかならむとカメラを向けていた。まあ、わが青春というわけなのだろう。
 二次試験の前日だったせいか、下見に来た学生や家族に不動産屋(住まいの案内)や学生アルバイトの紹介屋みたいな人たちがパンプや資料を配っていた。みんなに桜が咲くといいですね。
 午前中、TVでびわこ毎日マラソンを見る。この日は天候などベストコンディションだったこともあり、驚異的な記録が出た。富士通鈴木健吾選手が2時間4分56秒の日本新記録でトップ。以下も15位までが7分台という好記録だった。琵琶湖でのこのマラソン大会は今年で最後、来年は大坂マラソンと合同となるという。亡くなった姉がマラソンファンで、何度か姉のお供でこの大会の応援にいったものだ。姉が元気だったらこの記録を喜んだことだろう。最後に相応しいラストランではなかったかしら。
 写真は京大吉田寮とその前の立て看板。

IMG_20210301_102740 2月26日(金)雨のち曇り。昭和11年に起きた「二・二六事件」の日。この事件に関しては澤地久枝の『妻たちの二・二六事件』で読んだことぐらいしか知らない。自国の歴史なのに、現代史はさっぱりなのだ。幕末維新も同じく、さっぱり。半藤一利の『昭和史』が出た時、熱心に読んだつもりだが、いやな事件は忘れたいと思ったものか。この事件、三島事件とよく語られることが多いが、どうなのだろう。クーデターは一日で鎮圧され、首謀者は処刑、反乱軍にいた兵士たちはその後戦場の最前線に出され、多くが戦死したという。兵士たちの多くは上官の命令に従っただけで、詳しいことは何も知らなかったのではないか。そのことは野呂邦暢の『失われた兵士たち』に繰り返し記されている。
 ●伊藤清彦・内野安彦『本屋と図書館の間にあるもの』(郵研社)を読む。先日、くまざわ書店の平台に積んであるのを見つけて買ってきたもの。伊藤清彦は盛岡さわや書店の店長から一関市立一関図書館の副館長を勤めた人。内野清彦は鹿嶋市立図書館や塩尻図書館の元館長で、現在は同志社大学大学院の講師。どちらも本に関するエキスパートとして出版界や図書館界では広く知られた存在。カリスマ書店員と呼ばれた伊藤清彦の持論は体験に裏打ちされているので、説得力がある。閉店寸前だった盛岡さわや書店を再生させ見違えるほど売れる本屋にした、その体験談が実に面白い。本屋と出版社の取引の内情が詳しく語られていて、これでは町から小さな書店が消えていくわけだと思われたことだ。鳥取の今井書店のこと、本の学校のこと、八戸のブックセンターのこと、私も訪ねた図書館や書店の話が出てくるのも嬉しかった。本屋と図書館は敵なんかじゃない、出版社と図書館もまた同じという言葉に賛成。しかしこんな書店員や図書館員はなかなかいないのではないかしら。毎年夏には、岩波書店の本を全部揃えている風樹文庫(諏訪市図書館)を訪ねるのだが、近くの塩尻市立図書館へは行ったことがない。今年の夏、ぜひ訪ねてみたい。

IMG_3311 2月24日(水)晴れ。籠居がつづいているせいで歩くのが億劫になった。医者から最低一日6000歩は歩くようにと言われているのだが、ここのところせいぜい一日数百歩というところ。このままだと足から衰えて(頭はもうとっくに)動けなくなりそう。そうなる前にというので、今日はスニーカーで外歩き。用事を記したメモを手に市内を巡る。しばらく見ない間にあちこちの梅が咲きだしている。西本願寺隣の興正寺の梅も満開に近かった。
 花といえば千本三条の佛教大学前に今年もミヤマガンショウの白い花が咲いた。ここにはこの木が4本植えられているのだが、毎年そのうちの一本が2月のうちに満開となる。このミヤマガンショウ(多分「深山含笑」だろう)はこの辺で真っ先に春を告げる花、この花を見ると、そろそろ春と思う。
IMG_3312 (2) ●米本浩二『魂の邂逅 石牟礼道子と渡辺京二』(新潮社)を読む。この人の本は前作『渚に立つ人 評伝石牟礼道子』がよかった。石牟礼さんに関しては、亡くなった後いろんな人が書き、また本にしているようだが、本人の書いたものを読むのがベストだと思う。さっかにとっては作品がすべて、作品の中にすべて書かれているのではないか。

 写真はミヤマガンショウの花。モクレン科アガタマノキ属。

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