8月9日(木)晴れ。長崎原爆忌。もう15年ほど前のことになるが、8月9日に、作家の林京子さんと被爆地長崎を歩いたことがある。長崎の総合科学大学の学生たちが林さんと共に、彼女の作品『祭りの場』を追体験するというのに同行させてもらったのだ。47年ぶりに現地を歩くという林さんは、炎天下、何度も記憶を確かめるようにしながら出発点となる、被爆地点の旧三菱兵器製作所(現長崎大学)に立っておられた。学生たちはおおよそのルートを記した地図を持参していて、小説に書かれた地名と風景を林さんに確認している。すっかり変ってしまって・・・と林さんは何度も首を傾げ、遠い記憶を呼び戻そうとしておられた。その後、林さんは同じルートを再び知人と歩かれたそうだが、15年前の学生たちとの試みが印象深かったせいではないかと私は思っている。1945年8月9日、15歳の林さんは動員先の三菱兵器製作所で被爆、九死に一生を得て、家族が住む隣市諫早まで避難。そのときの体験を描いた『祭りの場』で、1975年、芥川賞を受賞。その後も一貫して8月9日を原点とした作品を書き続けている。2005年には、日本図書センターから全8巻『林京子全集』も出た。これらの作品は、優れた原爆文学として今後も読み継がれていくに違いない。
今日はやはり長崎で被爆した詩人の福田須磨子『われなお生きてあり』(ちくま文庫)を読み返そうと思う。健康でつつましく生きるという当たり前の生活を奪われた若い女性の生々しい戦後の生活記録。戦争さえなければ、原爆さえ落されなければ、幸福な人生を歩んだであろうに・・。
京都は先の戦争で爆撃を受けなかった、とよくいわれるが、そんなことはない。記録によると20回ほどの空襲があり、300人近い死者が出ている。また、当初、原爆投下の第一目標でもあった。私はこのことを、立命館大学国際平和ミュージアムの展示で知った。
昨日、バス停でバスを待っている間に耳にした、数人のおばあさんたちの会話。(みんな80前後か)。もし戻れるなら何歳のころに戻りたいか、というので、「40歳かな」「娘時代」「60歳のころ」といろいろ出ていたが、「娘時代に戻りたいが、戦争はいや」「もうこりごり」「戦時中より戦後がひどかった」「食べるもんがなんもなかった」とひとしきり話が弾んだところにバスが来ておしまい。
写真は植物園に咲いていた泰山木の花。この花を見ると、昔見た舞台劇『泰山木の木の下で』を思い出す。9人の子どものうち3人を戦死、6人を広島原爆で失ったという母親が主人公で、北林谷栄がその女性を演じていた。