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 8月9日(木)晴れ。長崎原爆忌。もう15年ほど前のことになるが、8月9日に、作家の林京子さんと被爆地長崎を歩いたことがある。長崎の総合科学大学の学生たちが林さんと共に、彼女の作品『祭りの場』を追体験するというのに同行させてもらったのだ。47年ぶりに現地を歩くという林さんは、炎天下、何度も記憶を確かめるようにしながら出発点となる、被爆地点の旧三菱兵器製作所(現長崎大学)に立っておられた。学生たちはおおよそのルートを記した地図を持参していて、小説に書かれた地名と風景を林さんに確認している。すっかり変ってしまって・・・と林さんは何度も首を傾げ、遠い記憶を呼び戻そうとしておられた。その後、林さんは同じルートを再び知人と歩かれたそうだが、15年前の学生たちとの試みが印象深かったせいではないかと私は思っている。1945年8月9日、15歳の林さんは動員先の三菱兵器製作所で被爆、九死に一生を得て、家族が住む隣市諫早まで避難。そのときの体験を描いた『祭りの場』で、1975年、芥川賞を受賞。その後も一貫して8月9日を原点とした作品を書き続けている。2005年には、日本図書センターから全8巻『林京子全集』も出た。これらの作品は、優れた原爆文学として今後も読み継がれていくに違いない。
 今日はやはり長崎で被爆した詩人の福田須磨子『われなお生きてあり』(ちくま文庫)を読み返そうと思う。健康でつつましく生きるという当たり前の生活を奪われた若い女性の生々しい戦後の生活記録。戦争さえなければ、原爆さえ落されなければ、幸福な人生を歩んだであろうに・・。

 京都は先の戦争で爆撃を受けなかった、とよくいわれるが、そんなことはない。記録によると20回ほどの空襲があり、300人近い死者が出ている。また、当初、原爆投下の第一目標でもあった。私はこのことを、立命館大学国際平和ミュージアムの展示で知った。

 昨日、バス停でバスを待っている間に耳にした、数人のおばあさんたちの会話。(みんな80前後か)。もし戻れるなら何歳のころに戻りたいか、というので、「40歳かな」「娘時代」「60歳のころ」といろいろ出ていたが、「娘時代に戻りたいが、戦争はいや」「もうこりごり」「戦時中より戦後がひどかった」「食べるもんがなんもなかった」とひとしきり話が弾んだところにバスが来ておしまい。

 写真は植物園に咲いていた泰山木の花。この花を見ると、昔見た舞台劇『泰山木の木の下で』を思い出す。9人の子どものうち3人を戦死、6人を広島原爆で失ったという母親が主人公で、北林谷栄がその女性を演じていた。

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 8月8日(水)晴れ。猛暑というのに、今日はもう立秋。午前中、醍醐で「小右記」講読会。帰途、伏見の図書館へ寄って資料を受け取り、寺町の歴史資料館へ。建物の中は冷房が効いているからいいが、一歩外へ出るとまるでオーブンの中にいるような暑さ。まるで「熱いトタン屋根の上の猫」状態、「灼熱」という言葉を実感する。調べ物を終えて、息も絶え絶えに帰宅。
 昨日から五条坂で陶器まつりが始まった。六道まいりと同時期なので、珍皇寺や六波羅密寺へ行ったついでに立寄ることができる。最近は清水焼に限らず、若い陶工や陶芸家の出店が増えたようで、いろんなやきものが見られて、なかなか愉しい。五条坂の老舗もバーゲンセールをやるので、清水焼が好きな人にはいい機会だろう。五条坂の中ほどにある若宮八幡宮には陶祖大神の椎根津彦が祀られていて、この期間中に陶器大祭がある。若宮八幡宮の祭神は八幡宮という名からわかるように、仲哀天皇・応神天皇・神功皇后の三神で、のちに陶祖神が合祀されたもの。
 昨日のブログに、8月7日は長谷川四郎の命日と書いたが、長谷川四郎が亡くなったのは1987年4月19日が正しいので訂正しておく。指摘してくださった方、ありがとうございます。なぜかずっと8月7日と信じていて、この暑い日に、独り「山猫忌」と、長谷川四郎を偲んでおりました。函館の市文学館に長谷川四郎のコーナーがあって、彼の本や遺品が展示してある。2002年に長男・長谷川元吉による『父・長谷川四郎の謎』(草思社)が出版されたが、私にはいよいよ謎が深まるという読後感でした。
 
 写真は五条坂の陶器まつり。本当はもっとすごい人出なのですが、このときはたまたま空いていました。 

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 8月7日(火)晴れ。東山の珍皇寺へ六道まいりに行く。いつもは静かな門前に、今日は高野槙を手にした人が次々に集まってくる。この寺は冥土まで音が届くという鐘が地下にあって、地上の紐を引いてその鐘を撞く。お盆に帰ってくるおしょらいさん(精霊)を迎える「迎え鐘」なのだ。極楽にいる夫の両親と私の父親に届くように思い切り力をこめて撞く。珍皇寺があるこの辺りは鳥辺野の入り口にあたる。『徒然草』に、「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世はさだめなきこそいみじけれ」(7段)とあるように、鳥辺野はかつては葬送の地であった。平安時代は風葬だったから、そこかしこに髑髏が散らばっていたのではないかしらん。珍皇寺の小野篁とお薬師さんにお参りして、六波羅密寺へ。こちらでも地下にある迎え鐘を撞き、水塔婆をあげる。ここは平家ゆかりの寺で、国宝の十一面観音像や平清盛像がある。いちばん有名なのは口から阿弥陀仏が現れる空也上人像だろうか。西国三十三観音霊場の一つで、第17番札所。

 今日、8月7日は長谷川四郎(1907−1987)の命日。シベリア抑留の体験をもとに書かれた小説「鶴」を初めて読んだときの、なんともいえない清冽な気分を忘れることはできない。あれほど透明で無垢な文章にその後会ったことがない。自由で掴み所がなくて、時には無国籍のコスモポリタンで、それでいて「知恵の哀しみ」を溢れるほど胸にたたえた多才多芸の人。でも最後は長く寝たきりで無言のままこの世を去った。晶文社から『長谷川四郎全集』が全16巻で出たが、まだ足りず、没後、枕のように厚い『山猫の遺言』が出た。晩年はブラックユーモアに満ちた箴言のような、軽妙な文章を書いていたが・・。1987年は悲しい年で、長谷川四郎の二日前には澁澤龍彦が亡くなり、この年だけで、深沢七郎、高田博厚、臼井吉見、上野英信、森茉莉などが鬼籍に入った。

 写真は六道珍皇寺の境内。

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 8月6日(月)晴れ。62年前の広島の朝も、今朝の京都のように暑かったにちがいない。週明けの朝、掃除、洗濯と家事に追われながらも、8時15分には仕事の手を休めて黙祷。原爆で亡くなられた人たちは勿論のこと、戦争の犠牲となったすべての人に鎮魂の祈りを捧げる。戦争も原爆も人類にとって未曾有の出来事だったゆえに、60年を過ぎた現在もなおその体験は繰り返し語られ、証言集や手記が発行され続けている。人間は歴史に学ばない生き物であるゆえに、過ちを繰り返さないためには、過去に犯した罪を繰り返し語る必要がある。二度と同じ過ちを犯さないために、過去に何があったかを知る必要がある。
 詩人の原民喜(1905−1951)は爆心地から1キロの地にあった自宅で被爆、地獄さながらの町を逃げ延びて、その体験を「夏の花」に書いた。戦後の被占領時代、原爆を扱った文章の発表は禁止されていたため、2年後の1947年、「三田文学」に掲載される。以後、被爆体験を基にした詩や小説を発表し続けたが、朝鮮戦争が勃発し再び戦争が始まると、耐えられないとばかりに、線路に身を横たえて自ら命を断った。

 写真は峠三吉の「原爆詩集」。1951年に自費出版されたもの。「序」に、

「ちちをかえせ ははをかえせ
 としよりをかえせ
 こどもをかえせ

 わたしをかえせ わたしにつながる
 にんげんをかえせ

 にんげんの にんげんのよのあるがぎり
 くずれぬへいわを
 へいわをかえせ」
 
 という有名な詩がある。

 峠三吉(1917−1953)は大阪豊中市生まれ。爆心地より3キロ離れた自宅で被爆。戦後、若者たちの文化活動の指導者となり詩人としても活躍したが、36歳のとき病没。遺された妻も原爆症の後遺症に悩み、1960年、夫の後を追って縊死。1970年、風土社から刊行された「峠三吉全詩集・にんげんをかえせ」は毎日出版文化賞を受賞している。
 広島平和記念公園に「ちちをかえせ ははをかえせ」の詩碑があるそうだが、私は未見。また、出生地の豊中市立岡町図書館にも1995年に「にんげんをかえせ」の詩碑が建てられている。
 この詩集は福岡に住む詩人のIさんからいただいたもの。「1951年に孔版刷りで限定500部発行されたものです。表紙は広島の画家・四国五郎の絵で、いまは正田篠枝の『さんげ』とともに、原爆文献の稀覯本となっています」と同封の手紙に書いてあったが、先年、Iさんは病気のため亡くなられた。遺品と思って、大事にしている。

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 8月5日(日)晴れ。昨日の土曜日はマンションの夏祭りで、一日裏方を務めた。(今年は自治会役員なのです)。新築のマンションに入居して8年になる。入居と同時にマンションの住民による管理組合の理事会や自治会が発足した。同じ建物に住む住民同士の親睦のため、最初の年から夏祭りが行われている。子どもたちやシニアのためのイベントあり、住民によるフリーマーケットあり、夕方からは中庭に設けられた舞台の上で、沖縄音楽の演奏ありと、盛りだくさんのプログラムで、宵闇と共に「ビンゴゲーム」が始まり、午後9時にすべてが終了。マンションのピロティには近所の商店街からの出店もあり、大人も子どもも愉しんだ一日だった。地域共同体の存在理由は、まずみんなが安心して暮せること、住民の安全が守られること、ではないだろうか。顔見知りだと助け合いもスムーズにいく。
 自治会の最大行事である夏祭りが終って、ほっとする。さっき大丸まで買い物に出たついでに、ウイングス京都へ立寄ってきた。ウイングス京都の南側にある御射山公園では、セミの大合唱。あまりの鳴き声にふと傍らのトチノキを見上げたら、大きな葉の裏になにやら茶色の塊がいくつもみえる。へえ、こんなところにカタツムリが、と思ってよくよく見ると、セミの抜け殻だった。子どもの頃よく見かけたが、最近見なくなったものにカタツムリがある。カタツムリはどこへいってしまったのやら。
 カタツムリといえば、澁澤龍彦に「クレタ島の蝸牛」というエッセイがある。澁澤龍彦がギリシアのクレタ島へ旅行したとき、クノッソス宮殿の廃墟でカタツムリの殻を拾った。そのことを忘れたまま旅行を続け、帰国後思い出して殻を水に漬けたところ、カタツムリが動き出したというもの。カタツムリは一月余も水なしフィルムケースの中で生きていたのだ。さすがクレタ島のカタツムリと作家は感じ入っていた。
 澁澤龍彦はカタツムリそのものよりも、あの螺旋状の殻が気に入っていたのではないかしら。ぐるぐるらせん状に回転するものをなによりも偏愛した作家だもの。
 今日、8月5日はその澁澤龍彦(1928−1987)の命日。私はこの人の博覧強記のエッセイや、晩年さかんに書いていた「高丘親王航海記」をはじめとする歴史小説が好き。

 写真は澁澤龍彦の『玩物喪志』と『魔法のランプ』。

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 8月3日(金)曇り時々雨。台風5号の影響で、生暖かい風が吹く。午前中、マンションの夏祭りの準備を手伝う。明日が本番。今日、8月3日は作家吉田健一(1912−1977)の命日。戦後の総理大臣吉田茂を父に、母は牧野伸顕の娘という政治家サラブレットの家に生まれた吉田健一だが、彼は政治家にはならず、英文学をベースに、翻訳、文芸評論、小説などを書いた。段落のない、長々と続く文章が特徴で、晩年の作品「金沢」「時間」には特にその傾向が顕著。「書架記」もいいが、「私の食物誌」のようなエッセイも味わい深い。大岡昇平のエッセイにたびたび登場して、銀座あたりの小料理屋での飲みっぷりを活写されている。吉田健一は食通と思われているが、専ら酒専門で、ただし酒の肴や料理が並んでないと機嫌が悪かったそうだ。目で愉しんでいたのだろう。
 私は吉田健一といえば、かん高い笑い声の人、という印象が強い。勿論、遭遇したことはないが、だれもが吉田健一といえば、その笑い声を忘れずに書いているからだ。
 吉田健一には翻訳の仕事も多くあり、その中で、私の手元にあって、しばしば読み返しているのは、リンドバーグ夫人の『海からの贈物』(新潮文庫)。この本は、もう20年ほど前、山口県のマツノ書店店主・松村久さんからプレゼントされたもの。松村久さま、大事にまだ読んでます。

 写真は京都府立植物園に咲いていたアメリカフヨウ。アオイ科。直径が25センチもある。大人の顔より大きいのではないかしら。

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 8月2日(木)曇り。南風強し。国立近代美術館で開催中の「麻田浩展」を観る。麻田浩(1931−1997)は京都生まれの洋画家。父も兄も日本画家という家庭に育ち、同志社大学の経済学部在学中に、新制作協会の桑田道夫に師事し、31歳で画家となる決心をする。1971年から11年間パリを拠点に制作を続け、国内外で高い評価を得る。帰国後は京都市立芸術大学教授となり、1995年には宮本三郎賞を受賞するも、1997年、龍安寺のアトリエで自死。今回、画家の没後10年を記念して回顧展が開かれたもの。
 麻田浩の名前を今回初めて知ったが、作品は何度も目にしたことがある。独特の心象風景を描いた静かで非常に内省的な絵で、高橋たか子や木崎さと子の本の表紙に使われている。「原風景」というタイトルの作品は月面のような凹凸のある土の上に水滴や鳥の羽が散らばる寂寥感漂う絵。存在の不安が伝わるような画面で、作者の内面の闇を垣間見るような印象を受けた。1991年、60歳のとき洗礼を受け、クリスチャンになっているが、パリ時代に知り合った高橋たか子の影響もあったのではないかと、これは私の個人的推察。
 会場には年配の女性たちがかなりいたが、生前の画家をよく知る人たちらしく、思い出話など語っておられるのが、切れ切れに耳に届いた。宮本三郎記念賞の受賞作「窓・四方」は他の作品には見られない明るさと拡がりがあって、私は心惹かれたが、全体には何か求め続ける魂というものが感じられる回顧展だった。絵画でしか表現できないものを確かに描いた人という気がする。

 写真は西京区にある松尾大社本殿。今日、近くまで出かけたので、久し振りにお参りしてきた。晴れ着姿の母子がいたので、何かのお祝いかと思ったら、「七五三」のポスター用写真の撮影中であった。松尾大社は秦氏ゆかりの神社で、701年の創建。境内にある亀ノ井の水は、酒に加えると腐敗しないといわれ、醸造家の信仰が厚く、普段から水を汲みにくる人が絶えない。私は京都に来て最初の4年間をこの近くに住んでいたので、春の松尾大社の神幸祭など馴染み深い。桂川を船に乗ってお神輿が渡っていく「船渡御」はなんともいえぬ眺め。この神社の庭園「松風苑」は1975年、重森三玲作。独特の石組による、景色が異なる三つの庭がある。

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 7月31日(火)晴れ。早朝、西の空に大きな白い月が残っていた。満月。月が傾いてゆく西山に白く靄がかかっている。西山の向こうの亀岡盆地は霧の中ではなかっただろうか。
 町へ出たついでに八坂神社の夏越祭を見に行く。たいていの神社では6月30日に行われる夏越の祓が、八坂神社では月遅れの今日、行われる。そしてこの行事でひと月続いた祇園祭も終了となる。八坂神社の境内にある疫神社の鳥居に大きな茅の輪がかけられて、参詣の人が列をなしている。お祓いをすませた人が茅の輪から思い思いに茅を引き抜いて持ち帰るので、茅の輪は痩せていくばかり。行列がなかなか進まないので、茅の輪くぐりは諦めて引き返す。バスで北山の総合資料館へ。バスで隣合せたおばあさんが「いま何時ですやろか」と話しかけてきた。時計を見せると、「高野まで行きますのんやけど、12時に間に合いますやろか」という。「大丈夫ですよ。まだ40分もあります」。おばあさんは独り住まいらしく、「家賃が33000円。払ってしまうと年金は残らしまへん。息子は別に暮しておりますのやけど、おかあはん、月2万で暮せるんとちがうか、言いますねん。なかなか月2万円では暮らせしまへん。こう暑いと冷たいもんが欲しなりますけど、よう買わしまへんね。」(記憶にもとづいて書いているのだが、京都言葉はほんにむずかしおす) 人なつこいおばあさんで、47歳になる息子の話を聞かせてくれる。「時々、息子の家に遊びに行くと、小遣いをくれますのや。僅かなもんどすけどな。それでも嬉しおすな」。おばあさんは私より先に下車した。席を立つとき身をかがめて、「お先に。お姉さんもお達者で」。お姉さんだって。笑いかけたつもりが思わず涙が出た。バスで隣合せただけの私にまるで身内のように語り掛けてくれたおばあさん。月2万で暮すために一日一食なのだという。うーん。おばあさんは市が発行する敬老パスを持っていた。こんなふうに税金が使われるのは歓迎。このおばあさんはお年寄りが乗ってくると、さっと席を立って「ここにお座りやす」という。慌てて私も席を立ったのだが、いやはや参りました。
 それにしても立派なおばあさんだった。愚痴を言わず、政治を嘆くでもなく、子どもにも甘えず、実に雄雄しいおばあさん。お姉さんも見習わなければ・・・。

 今日、7月31日は作家の吉村昭(1927−2006)と社会学者鶴見和子(1918−2006)の命日。昨年の今日、二人は亡くなった。この二人も雄雄しく生きた人であった。

 写真は八坂神社の中にある疫神社の夏越祭。大きな茅の輪をくぐってお祓いを受ける。

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 7月30日(月)。今朝、目が醒めたときは雨が降っていたが、7時前には上って薄日がさす天気となる。昨夜は参議院選挙の開票結果を報じるTVを点けたまま本を読んでいて、気がついたら午前3時だった。格別興味があるわけでもないのに、だらだらとTVを点けっぱなしにするなんて、珍しいこと。おかげで今朝は寝不足気味。
 昨日、北海道から友人が出てきた。その日の朝、余市の海で採れたというエゾバフンウニをお土産に。「都会で売っている生ウニはミョウバンに浸けて加工してあるけど、これは採れたまんま」といって、生ウニが詰まったタッパーを取り出し、「今日中に食べること」と厳命。というわけで昨夜は至福の時をすごしました。

 今日、7月30日は幸田露伴(1867−1947)の命日。幸田露伴は明治の文人にして歴史家、国文学者。30歳のころは尾崎紅葉と共に「紅露」と並び称されるほどの人気作家だった。しかし若い読者にとっては露伴は幸田文の父親ーいや幸田文を知らない読者もいるかもしれないー青木玉の祖父といったほうが早いのかしら。青木玉の娘の奈緒もエッセイストだそうだから、露伴から4代、作家の脈は続いている。若い頃、私は露伴の代表作「五重塔」をまず芝居で見て、それから原作を読んだのだが、「木理美しき槻胴、縁にはわざと赤樫を用ひたる岩畳作りの長火鉢に対ひて話し敵もなく唯一人、少しは淋しさうに坐り居る三十前後の女、・・・」という冒頭の文に仰天して、最後まで読み通すことができなかった。なにしろ20代の始めの頃のことである。いま読むと、まるで江戸の芝居本を読んでいるような愉しみがあるのだが、そして「五重塔」は露伴の作品の中でも最も読みやすい作品だと解るのだが、いかんせん、昔を今になすよしもがな。その代わり、娘の幸田文の本はよく読んだ。その文章に描かれた露伴の暮らしぶりは清貧そのもので、なにがなし幕臣としての矜持が感じられるのだった。露伴の兄弟姉妹は英才揃いで、長兄は実業家、次兄は海軍軍人で探検家、弟は日本史学家、上の妹はピアニストで下の妹はヴァイオリニストと錚々たるもの。旧幕臣の家からどうしてこれほどの英才がまとまって生まれたのか、明治維新という時代のたまものかしら、不思議でならない。まあ、近年も雁・健一がいる谷川4兄弟、隼雄・雅雄の河合6兄弟、などというウルトラ兄弟もいることだし、環境と才能でしょうか。
 露伴は友人狩野亮吉に請われて、1908年、京都帝大の国文学講師となったが、一年で辞職し帰京。帝大教師というのが窮屈だったのだろうが、江戸っ子露伴にはまったりとした京都の町は合わなかったのかもしれない。若い頃から学校を何度も中退し、仕事も長続きしなかった。たびたび引越しをしたのでカタツムリにちなんで向島の自宅に「蝸牛庵」と名付けた話は有名。いま、この蝸牛庵は歴史的建造物として明治村に移築保存されている。
 1937年、第一回文化勲章を受章。露伴大先生と呼ばなければならないのだろうが、私には娘に雑巾がけやお使いの仕方を伝授する質実な父親、という印象の方が強い。

 写真は京都島原に遺る揚屋の角屋(国重文)。江戸時代、文人墨客が集まって宴を開いた。蕪村や池大雅、応挙描くところの襖絵や屏風絵がある。 

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 7月29日(日)晴れ。昨日、京都市の図書館でこんな男性を見かけた。カウンターで本を返却しながら「この本を借りて読んだのだが、中身は全くのポルノだった。こんな内容の本を、だれもが借りられる公共図書館が購入して書棚に並べている理由を聞きたい」。70前後だろうか、真面目そうな男の人。男性の言葉に興味を持ったが、肝心の書名を確かめるのを忘れた。これはぜひとも書名を確認しておくべきであった。公共図書館は選書が命、いかにいい本を提供しているかで図書館の魅力は決まる。それと勿論、人。図書館ウオッチャーとしては図書館の職員がどう返事したか聞いておくべきであったが、先を急いでいたせいで、聞き逃したのは惜しいことだった。

 昨日読んだ本。
●大林太良『私の一宮巡詣記』(青土社 2001年)
●岡留安則『噂の真相イズム』(WAVE出版 2005年)
●徳永進『野の花の入院案内』(講談社 2006年)
●元木泰雄編『王朝の変容と武者』(清文社 2005年)

 ●丸谷才一の『双六で東海道』(文芸春秋)を読んでいたら、「たまにはお金の話」という項に、京都塩小路の遺跡から出土した中世の「銭」のことが書いてあった。この発掘銭に関しては学者によっていろんな説があるといい、そのいくつかが紹介してある。この辺り(現在の京都駅北側辺りか)は鎌倉期には金融業者が多い商工地域だったゆえに、これは「貨幣流通の中核」から出土したもの(野口実説)、南北朝の両軍が抗争する噂を聞いて、土倉(室町期の高利貸し業者)が埋蔵したもの(三上隆三説)、いやいや、そのころここは墓地だったから共同墓地設置に当たって埋められた土地の神への挨拶金(橋口定志説)などなど。備蓄か呪術か、二手に意見が分かれているそうだが、丸谷才一は備蓄もあると認めた上で、呪術説に気持は傾く、としている。古来、貨幣には呪術性が色濃くあったからという。
 この本にはまた「森浩一さんの研究を推薦する」という項もあって、●森浩一の『食の体験文化史』(中央公論社)を絶賛しているのも嬉しい限り。

 今日、7月29日は作家森敦(1912−1989)の命日。森敦は1973年に発表した「月山」で第70回芥川賞を受賞した。61歳での芥川賞受賞は最高齢記録。この時、同時に受賞したのが「草のつるぎ」を書いた野呂邦暢。二人とも長崎生まれというので、受賞後、県内では二人の講演会が何度か開催された。

 写真は京都府立植物園に咲いているトケイソウ。英名パッション・フラワー。三つに分かれたオシベが時計の針のように見えるところから。いま、何時でしょう?

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 7月28日(土)晴れ。朝からセミの声がかまびすしい。しかしセミの声を聴くと、いかにも夏休みという感じがする。以前、セミが、鳴くのはオスだけでメスは鳴かないと知って、「羨ましい」と言った男性がいたっけ。昨日、このブログに初めて読んだ奥本大三郎の本のことを『本を枕に』だと書いたが、そうだったかしらと書棚を見たら、もっと古い本があった。青土社から出た『虫の宇宙誌』(1981年)。これは「ユリイカ」に連載された文章をまとめたもので、虫と自然と書物に関する本。格別虫が好きというわけではないのに、一読して魅了された。奥本大三郎の名前を知ったのはこの『虫の宇宙誌』だった。久し振りにページを開いたら、セミについて書かれた文章があった。

 蝉が詩人の象徴であるのは、ギリシアと南仏プロヴァンス地方である。ここに日本をつけ加えることも出来ようし、東南アジアの国々にも定めし蝉を歌った詩や民話は数多くあるであろう。 といい、真昼の太陽の下で蝉が声を限りにヤケクソに鳴いている感じから、芭蕉の「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」を連想し、芸術的な激しい昂揚は、生命の燃焼によって得られるということなのであろう、と書く。

 この本には数々の昆虫コレクターや研究家のプロフィールが紹介されているが、いずれも奇人変人の類に近いのが面白い。虫に「魅せられし魂」を持つ人はみんな浮世離れしているということなのかしらん。

 今日、7月28日は山田風太郎(1922―2001)の命日。忍者ものやミステリーなど、数多くのエンターティメント作品を書いたが、晩年は『戦中派不戦日記』などの日記やエッセイで多くの読者を得た。私もその一人で、彼の小説は読んだことがないが、「日記」は愛読した。生きている間に自分でつけた戒名が「風々院風々風々居士」。関川夏央や森まゆみが彼との対談というか、聞き書きを書いているのを読んだが、<●関川夏央『戦中派天才老人・山田風太郎』(マガジンハウス 1995年)●森まゆみ『風々院風々風々居士 山田風太郎に聞く』(ちくま文庫)>とぼけた語り口で後輩たちを煙に巻いているところが面白い。7月28日は、奇しくも風太郎の師である江戸川乱歩(1894−1965)の命日でもある。

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 7月27日(金)晴れ。集英社のPR誌「青春と読書」8月号に奥本大三郎と田辺聖子の対談が載っている。奥本大三郎による「完訳ファーブル昆虫記」の第一期完結を記念する対談なのだが、このなかで、奥本大三郎が「去年、双子の男の子が生まれた」と語っているのには驚いた。彼は確か1944年生まれだから今年63歳になる。62歳で父親になるとは、なかなか勇気があるなあ、と感心した。初めて彼の文章に接したのは、『本を枕に』(集英社 1985年)だったと思う。昆虫好きのフランス文学者だとばかり思っていたが、夏目漱石もかくやと思われるほどの正統派の知識人。世間知も豊富で、お坊ちゃんのようでいて開明的。私財を投じて「虫の詩人の館」を創ってしまうところなんぞ、他の口舌の徒には真似できないこと。ファーブルは91歳まで生きた。奥本ファーブルも本家に負けず長生きしてほしいものだ。

 写真は下京区の島原大門。昔は門前に橋があって、ここで客たちが郭に入ろうかどうかと思案したことから、思案橋と名付けられていたそうだ。いまは川が暗渠になったため思案橋はもうない。そういえば長崎の丸山遊郭近くにも思案橋という橋があった。やはり川が暗渠になったため橋はもうないが、電停や地名として残っている。いこかもどろか思案橋、と子どものころ聴いた覚えがある。
 

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 7月25日(水)晴れ。暑い一日。午前中、「小右記」講読会。たった2行を解読するのに、四苦八苦。ちょっと考えれば解ることなのに、全体を把握していないから読み解けないということを痛感。反省。帰途、竜谷大学の図書館に寄って本探し。夕方から留学生Eさんの母親と会食。1週間の予定で来日し、あさって帰国するという。せっかく娘に会いに来たのに、Eさんは目下大学のテスト中で、母親の相手どころではないとのこと。急なことで鴨川の床はどこも空席がなく、祇園白川のSに座敷をとってもらう。「京料理は工芸品のようですね、美しいけど高すぎます」とKさんが言うので、「そうです。京料理の値段の半分は、高価な器代とお座敷のお軸や置物代、女将さんの着物代なんです」と私。先週の新聞に、「京都市を訪れた観光客の数が2006年度は4800万人」という記事があった。もちろんリピーターも含めてだが、それにしてもすごい数字ではないだろうか。4800万人、単純に考えても、毎日13万人もの観光客が訪れていることになる。実際には桜と紅葉のシーズンに集中するので、春と秋は毎日数十万の人が来ているのではないだろうか。しかし観光用の京都はどうだか知らないが、古い京都の町は少しずつ姿を消しつつある。古い町家が壊されて跡地にマンションが建っていくのを見るのはなんとも複雑な気持。

 7月26日(木)晴れ。昨日の京都は34度もあった。今日も暑い。今日はおとなしく家事に勤しむ。久し振りに針仕事をしようとしたら、糸通しがスムーズにいかない。目の焦点が合わない感じ。ついに老化現象かとがっかりする。他のことはどうでもいいが、目だけは丈夫でいてくれないと困る。本が読めなくなったら愉しみがなくなる。というわけで針仕事は中止して、読書に勤しむ。

●内田樹『下流志向』(講談社 2007年)
●畠中恵『しゃばけ』(新潮社 2001年)

 畠中恵という人は漫画家だそうだが、妖しの世界をこれほど愉快に描くなんて、なかなかの才能。内田樹の理論も明快とは言い難いが戦後民主主義が基本にはあって、共感できる。増加するニートについて語られたくだりに、
戦後60年もかかって、日本社会は弱者のセーフティネットであった中間的な共同体を次々と壊していった。地域共同体も親族も主従関係も師弟関係も全部壊してしまった。(中略)いまは孤立した個人と個人が中間的な緩衝地帯抜きで向き合っている。これを風通しがいい関係だと思っている人もいるが、これほどストレスフルな環境に人間は長くは耐えられません」。
 本当にそうだ。最近、35歳になる男性が妻子を道連れに自殺したという記事を新聞で読んだ。失業して生活苦からだという。妻は三人目の子どもを身ごもっていたが、「いまのままでは子どもも産めない」と遺書にあったそうだ。なんということだろう。この夫婦には親兄弟はいなかったのだろうか。親身に相談に乗ってくれる友人知人はいなかったのだろうか。若い夫婦が追い詰められる前になんとかできなかったのかと思うと胸が締め付けられ涙があふれる。苦しくても生きていればまた笑える日も来るだろうに。弱者ばかりが痛みを引き受けさせられる世の中はノーマルではない。だが、弱者のセーフティネットを復活させるにはどうしたらいいのだろう。

 写真は京都府立植物園に咲いていた青花。ツユクサよりずっと大きな花で、この花からとった染料が昔から友禅染の下絵描きに使われていた。水に濡れると色が消えるのだ。滋賀県草津市は青花の名産地で、いまも栽培されているそうだ。

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 7月24日(火)快晴。朝、久し振りの青空と眩しいほどの太陽を見る。いよいよ梅雨明け。午前中、用事があって市役所近くへ出かけたら、御池通りで祇園祭の花笠巡行に出会った。子ども神輿を先頭に、花笠や祇園太鼓、騎馬、獅子舞、鷺舞、先斗町や祇園東のきれいどころ、菊水鉾のお囃子などがゆっくりと巡行していく。炎天下、人も馬もぐったりという感じ。派手な布をはぎ合わせた球形の幌を背負った男性たちの姿は「洛中洛外図」にも描かれている。夏休みに入ったせいか、沿道には子どもたちの姿が目立った。今夜は還幸祭で、三基の神輿がお旅所から八坂神社へ戻る。三条通商店街の中にある御供社へも巡行があるはず。鳩居堂と高島屋で買い物を済ませ、祇園のやよいから友人たちにちりめん山椒を送って帰宅。

 今日、7月24日は芥川龍之介(1892−1927)の命日。たった35歳で死ぬなんて、しかも三人もの幼い息子たちを置いて先に逝くなんて、妻にしてみればたまらなかっただろうな、と思う。龍之介といえば14歳年上の片山広子との恋が思い出される。片山広子(1878ー1957)は別名松村みねこ、歌人・翻訳家で裕福な家庭の未亡人だった。龍之介は31歳のとき、軽井沢で彼女と出会い、その聡明さに惹かれ、ひんぱんに手紙のやりとりをしている。龍之介と広子たちをモデルに書かれたのが堀辰雄の小説『聖家族』『物語の女』『ルーベンスの偽画』。二人は惹かれあってはいたが、お互い踏み出すには障害が多すぎた。龍之介の遺稿となった『或る阿呆の一生』の中の「越し人」は広子のことを書いたものといわれている。

   三十七 越し人

 彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。が、「越し人」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍った、かがやかしい雷を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

  風に舞ひたるすげ笠の
  何かは道におちざらん
  わが名はいかで惜しむべき
  惜しむは君が名のみとよ


 龍之介にシバの女王と称えられた広子も苦しんだにちがいない。広子の手紙にある「たった一年のあいだに、一世紀もとし老いたやうな気がしました。知るといふ事ほど、人をとしよらせるものはありませんね」という一文ほど、切ないものはない。広子は龍之介より30年長生きし、1957年に79歳で亡くなった。広子と娘の宗瑛に関しては、川村湊の『物語の娘 宗瑛を探して』(講談社 2005年)に詳しい。
 龍之介が描いた河童の絵が長崎の博物館にあって、河童忌のころはいつも公開展示されていた。中学生のころ夏休みの宿題で、彼の短篇「蜜柑」の読書感想文を書いた記憶がある。「トロッコ」「鼻」「杜子春」「蜘蛛の糸」など、子どものころ面白く読んだが、「河童」はあまり好きではなかった。子どもには皮肉と風刺が強すぎたのかもしれない。

 写真は御池通りを行く花笠巡行。後の車は祇園東の花車。

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 7月23日(月)快晴。昨日の夜、DVDに録画していた映画『宋家の三姉妹』を見た。長女は孔子の末裔という大富豪の妻、次女は辛亥革命を指導した孫文夫人、三女は国民党総統蒋介石夫人というウルトラ三姉妹の物語。2003年に三女の宋美齢(1897ー2003)がニューヨークで亡くなったとき、「激動の中国で華々しく活躍、外交で能力を発揮した永遠のファーストレディ」という見出しで訃報記事が出たのを覚えている。1936年に起きた西安事件(張学良に蒋介石が監禁された事件。現代中国の歴史に疎い私はこの事件のことを映画を見るまで知らなかった)では、妻の美齢が危険を冒して現地に急行し、周恩来との交渉に参加して夫を解放させたそうだ。その後、彼女の説得で蒋介石は国共合作に同意、内戦を中断して抗日戦争に向っている。一方、孫文と結婚した次女の慶齢は政治的には蒋介石と反対の立場にあり、次女と三女は相反するそれぞれの道を歩むことになる。激動の現代中国を生きた三姉妹の物語だが、この映画を見ると、現代中国は彼女たちによって作られたのではないか、少なくとも動かされたのではないか、などと思われるほど。日本の戦国大名ではないが、政治向きのことに妻が自分の意見を言い、夫婦共働きで国を治め、政治を行う。三姉妹はそろってアメリカに留学し、優秀な成績で卒業している。とくに美齢はその英語力をフルに発揮して、ロビイストとしても活躍したらしい。1943年に彼女がアメリカ議会で抗日戦争への支援を訴える演説を行ったときは、5分間も拍手が鳴り止まず、「ジャンヌ・ダルグ」と称えられたという。いやはやすごい姉妹がいたものだ。わが国でいうなら、お市の方が産んだ浅井三姉妹か。長女の茶々は豊臣秀吉の側室となり、次女の初は京極高次夫人、三女の江は徳川二代将軍・秀忠夫人となった。時代が違うから単純に比較はできないが、宋家の三姉妹のダイナミックさには敵いそうにない。
 孫文が日本に亡命したときのシーンは京都でロケしたらしく、大覚寺や嵐山など馴染み深い場所が出てきた。次女の美齢が亡命中の孫文を追って来日し、京都で結婚式を挙げるシーンは山科の毘沙門堂で撮影されていた。そういえば嵐山の亀山公園に孫文の記念碑があるが、あれはその時を記念して建てられたものかしらん。先だって中国の首相が来日したとき、この碑を訪れるというので、当日、市内では交通規制があったはず。

 写真は近所で見かけたラズベリー。

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 7月22日(日)曇り。近畿の梅雨明けはまだなのだろうか。祇園祭の山鉾巡行が終った後も、京都は曇り日が続いている。今朝、TVをつけると新潟地震の被災地の様子が報じられていた。16日に起きた新潟地震ではまだ3000人近い人たちが避難所暮らしを強いられているとのこと。体育館などでの雑居生活はプライバシーも守れず、さぞ苦しいことだろう。緊急避難ゆえ、我慢も仕方がないだろうが、それも1週間が限度。(いや、よく保って3日か)。近在のホテルや旅館、保養所などを借り上げて、希望する人に提供するということはできないのだろうかと思う。経済大国日本ではないか。
 日本の地震に関するデータを集めた●宇佐美龍夫『日本被害地震総覧』(東京大学出版会)という本がある。これによると京都の町も過去には何度も大きな地震を経験している。とくに江戸時代の文政13年(1830)7月2日に起きた地震では、京都での死者280人、負傷者1300人とあり、京都の町なかにある土蔵で被害を受けないものはなく、御所も破損、二条城の石垣崩壊、築地倒壊などと記録されている。当時は火事も多く、「地震、雷、火事」は怖いものの筆頭だったにちがいない。日本はまさに火山列島。温泉が多いのはその証拠で、恩恵も受けてはいるのだが、大地の揺れは困る。なんとかうまく付き合っていく方法はないものだろうか。

 昨夜、長崎大学付属図書館が公開している「幕末・明治期日本古写真データベース」を見ていたら、先週購入した●『幕末・維新 彩色の京都』(京都新聞社)に収められた写真がいくつも出てきた。『彩色の京都』にある京都の観光写真「丸山公園から遠く望む京の街」や「丸山世阿弥ホテル」などを撮影したのは日下部金兵衛という写真家らしい。このデーターベースにはわが国初のプロカメラマンである上野彦馬(1838−1904)の写真も収められている。上野彦馬の代表的な写真といえば、あの坂本龍馬の肖像写真だろうか。長崎の中島川沿いにあった上野彦馬写真館には「大津事件」の主人公ニコライ二世も訪れて肖像写真を残している。中学生のころ私はこの写真館の近くを通学路にしていた。

 写真は立本寺のハスの花。朝露に濡れて。

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 7月21日(土)曇天。昨夕、北海道の友人から「いま15度。札幌は寒いです」と電話あり。追って携帯電話に「いま食事中」と、写真付きのメールが届く。てんこ盛りのウニの写真。ウニは私の大好物なのだ。「写真ではなく本物を送ってね」とメールを返す。夜に入って東京の友人から「神保町の書肆アクセスが11月に閉店するらしい」と電話あり。いささかショッキングなニュース。書肆アクセスは地方小出版専門の書店で、上京したときは必ず立ち寄ることにしている。全国の中小出版社の本や雑誌がぎっしり詰まった本屋さんで、何年か前、ここの棚に『野呂邦暢・長谷川修往復書簡集』(葦書房 1990年)を見つた時は、まだ置いてくれているのかと感激した。大きな書店にはない品揃えで、うまく棲み分けているなと思っていたのだが、やはり厳しいものがあったのだろうか。いっそ中小出版専門の古本屋になるというのはどうだろう。いや神保町にはそれこそその専門店はたくさんあるから無理か。「谷根千」も2009年の春号で終刊するという。寂しい限り。

 今日、7月21日は江藤淳(1932−1999)の命日。剃刀で手首を切り自死。前年に妻を亡くし、自身も病んで入退院を繰り返す日々だった。遺書に、
「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る6月10日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ」 
とある。石原慎太郎などと共に、文学、国家、政治を意気軒昂に論じていた人とは思えぬ文章。最近、『藤田省三対話集成(1)』(みすず書房 2006年)で、そこに収められた若き日の江藤淳の文章を読み、若いころはこんな文章も書いていたのだなあと作家の思想遍歴に思いを巡らせたばかり。生活者としての自立ができていないと、妻に先立たれた男性は途方にくれるばかり、ということなのではないかしらん。

 写真は京都御苑と寺町通りの間にある同志社大学ハワイハウス。長崎の旧居留地あたりでよく見かける木造の洋館に似ている。「フレンド・ピース・ハウス」の看板があり、留学生のための施設ではないかと思うが、いつごろの建築かなど詳しいことは不明。ここを南に少し下った所に梨木神社がある。

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 7月20日(金)曇りのち雨。昨日、河合隼雄さんが亡くなった。去年の夏、脳梗塞で倒れて入院中だったが、とうとう最後まで意識は戻らないままだったのではないか。みすず書房から出ている『ユング自伝』(2巻 1973年)の訳者の一人が河合隼雄で、若い頃はこの人の本にずいぶんお世話になった。子どもの本に関する著作も多く、また対談の名人で『あなたが子どもだったころ』(光村図書 1988年)などは、子育てに悩んだときによく読み返したものだ。晩年の仕事はあまり知らない。享年79歳。ユーモア精神にみちた心理学者だったから、どんなお別れの言葉を残してくれるかと思っていたが、意識不明のままでのお別れは寂しく、不本意なことではなかったか。昨日の新聞には宮本顕治の訃報もあった。享年98歳。「まだ生きていたのですか」というのが正直な感想。妻の宮本百合子は半世紀も前に亡くなっている。いまごろ「遅かったわね」と言われているのではないだろうか。二人の『十二年の手紙』は中野重治の『愛しき者へ』(中公文庫)と並ぶ名書簡集。

 今日、7月20日はアメリカのアポロ11号が月に着陸した日。1969年のこの日、私は何をしていたか全く記憶にない。TV中継を見ていたと思うのだが・・・。最近、あの月面着陸は偽装だったという声あり。その後、一度も成功していないからだというが、いまのアメリカは宇宙開発どころではないのではないかしらん。

 写真は壬生寺に咲いていた朝顔の花。壬生寺は律宗で我が家とは宗派が異なるが、毎年お盆には、この寺に万燈を供えることにしている。今年も万燈の代金を納めにいった。我が家の仏さまは夫の両親だが、お盆には迷わず京都に来てくれるかいつも心配になる。というのも、二人が元気なころ私たちは九州にいたので、二人にとって京都は全く未知の場所なのだ。人文学者の丸山静だったか、晩年、家が老朽化して引越しを進められるたびに、早世した息子の魂が帰ってくるのはこの家しかないのだからといって、動こうとしなかった、と何かで読んだ覚えがある。逆縁の哀しみを思ったことだった。

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 7月19日(木)曇り。今日、7月17日は梅崎春生(1915−1965)の命日。梅崎春生は福岡出身の作家で、1954年、「ボロ家の春秋」で直木賞を受賞した。この作品は「渡る世間は鬼ばかりーボロ家の春秋」というタイトルで映画化されている。なにやら聞いたことがあるような題名。1974年、「草のつるぎ」で芥川賞を受賞した野呂邦暢のペンネームは、この梅崎春生の「ボロ家の春秋」の登場人物の名前からつけられたもの。野呂邦暢は梅崎春生の、悲惨さと隣合せのユーモアというものが気に入っていたらしい。梅崎春生の代表作は「桜島」や「幻化」だと思うが、戦争の記憶を引きずったまま新しい時代を生きなければならない人間の底知れぬ悲しみが伝わる作品。私は「幻化」を読んだとき、地獄を見た人は地獄について書かない、ということを知った(と思う)。
 梅崎春生は第一次戦後派といわれるが、私には檀一雄などの無頼派と呼ばれる作家たちに近いのではと思われる。というのも「地の塩の箱」運動で知られる江口榛一の文章に登場する梅崎春生は、無頼派そのものに描かれているからだ。第一次戦後派作家の梅崎春生、椎名麟三、野間宏、中村真一郎、武田泰淳、堀田善衛、埴谷雄高からなる「あさって会」という会があって、筑摩書房から座談会『わが文学、わが戦後』(1973年)が出ているが、この本が出たのは梅崎春生が亡くなった後のこと。もっとも、あさって会のメンバーはもう全員、鬼籍に入った。戦後は遠くなるばかり、それどころかいまは新たな戦前、という人もいて、心が寒くなる。戦争を知らない世代に「幻化」を読んでもらいたいものだ。もっとも、自分だって戦後生まれで戦争を知らない世代の一人なのだが。戦争を知らない、と言うと「そのために人間には想像力というものがあるのだ。体験しなくてもわが身のことのように感じるために想像力というものが備わっているのだ」と先輩からよく叱られたものだ。

 写真は嵐山の渡月橋。向こう岸に十三詣りで有名な法輪寺がある。 

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 7月18日(水)曇りのち晴れ。朝、自転車で西陣七本松通りの立本寺へ蓮の花を見に行く。7月3日のブログで「立本寺の蓮の花が切り取られていた」と書いたが、その後の様子が気になっていたので。花は無事に咲いていました。すでに先客があって、カメラで熱心に撮影中でした。
 
 蓮の香や 水をはなるる 茎二寸  蕪村

 この前からやたらと蕪村の句を引用しているのは、ここのところ傍らに「与謝蕪村集」を置いて、暇があれば開いて読んでいるせい。蕪村は京都に住んでいたので、京の町や周辺の地名がしばしば登場するのも嬉しい。

 夏山や 京尽し飛 鷺ひとつ

 などという句もある。京都の町を斜めに飛んでいく鷺の姿が目に浮ぶよう。夏山は東山かしら、では鷺は鴨川から飛び立っているのかな、などと思いを巡らすのも愉しい。

 半日の 閑を榎や せみの声

 も、いまの時期は親しい句。町なかにいても、晴れた日は、早朝からセミの声が湧き上がってくる。子どもたちの夏休みもそろそろ。セミにとって受難の時期到来か。

 帰り、二条駅前の大垣書店で、
●姜尚中『ニッポン・サバイバル』(集英社新書)
●小林信彦『花と爆弾ー人生は五十一から�』(文春文庫)
●阿満利麿『仏教と日本人』(ちくま新書)
など購入。

 写真は立本寺の蓮の花。琵琶湖の東岸、草津市水生植物公園には広大な蓮の群生地があるが、そろそろ花の見ごろではないかしらん。

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