2006年02月

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 1998年10月23日、京都の橘女子大(現在は共学の橘大学)で歴史家の網野善彦氏の話を聴いたことがある。「中世における女性の社会的地位について」という演題で、さまざまな古文書をテキストに、当時の人々の暮らしや女性の仕事について丁寧に話された。この時も氏の持論である「百姓=農民にあらず」に触れ、中世の荘園・公領における年貢に米が占める割合は4割程度に過ぎず、残りには絹、生糸、鉄、金、塩、紙、材木などさまざまなものがあった、という話が印象に残っている。また、柿に関する研究はあまりないから、誰か「柿」を調べてみないかとも言われた。終始うつむきがちで、お世辞にも雄弁とは言いがたい話ぶりであったが、著書からもうかがえるように情熱のこもる講演であった。8年も前のことを昨日のように覚えているのは、長く氏の著書に親しみ、多くのことを教えられてきた自分にとって、幸せな時だったからに違いない。
 2月27日はその網野善彦の命日である。仏教式にいえば今日は3回忌ということになろうか。歴史の研究には古文書の読解は欠かせない。全国各地から借用した文書を40年かけて返却して歩いた記録『古文書返却の旅』(中公新書)からは学者としての良心や誠実さが伝わってくる。膨大な論文や著書を遺したが、氏は民衆の生活にねざした視点から中世を捉えなおした歴史家だった。甥である中沢新一の『僕の叔父さん』(集英社新書)に魅力的なその素顔がよく描かれている。
 写真は京都祇園の新門前にある骨董屋のウィンドウ。桜が飾られていたので、思わず撮影した。この一帯は骨董屋通りで、私のお気に入りの場所である。

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 金曜日に続いて、昨日の土曜日も図書館行き。外は日差しが眩しいほどの快晴。コブシやモクレンの蕾が大きくふくらんでいる。例年なら桃の節句のころにはもう満開なのだが、今年は遅い。25日は北野天満宮の天神市の日で、1500軒もの店が出て賑わう。初天神にも行ってないので少し迷ったが、来月25日にと思いなおして図書館へ。京都の府立図書館は数年前に改築され新しくなった。歴史のある建物だけに壊されてしまうのを惜しむ声が多く、旧館の前壁を残し、後に4階建の新館を建設するという折衷様式となった。旧館が新館を背負っているようにも見える。京都の府立図書館は府内の図書館のバックアップ基地という役割を重視しているせいか、利用者にはあまり使い勝手がよくない。公共図書館につきものの児童図書室もない。しかし歴史があるだけに蔵書は豊富なので、調べものをするときは助かる。ただ蔵書のほとんどが書庫にあるので、申し込んで出してもらう必要がある。開架図書は少ない。東大阪にある大阪府立図書館の巨大な開架図書が羨ましい。以前訪ねた関西学院大学の新しい図書館も素晴らしかった。学生が本と出会う機会をより多くするためにと、蔵書のほとんどを開架にしてあった。それは壮観なものであった。図書館の本はできるだけ開架にしてほしい。類書や思いがけない本と出会う楽しみはそこから生まれるのだから。
 今日は日曜日。70年前の今日、東京は大雪だった。2・26事件の朝である。70年後の今日、京都は雨の日曜日となった。

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 調べ物があって府立図書館へ出かける。図書館へ行く前に祇園の小間物屋に寄って、ちりめん人形を購入。初節句のお祝いに。軽いがかさばる包みを下げて図書館へ。荷物をロッカーに預けて地下の閲覧室へ降りていく。お目当ての本は見つかったが、机が全部ふさがっていて、資料を広げるスペースがない。仕方がないので、書棚のそばの小さな椅子に腰掛けて、膝の上でノートをとる。府立図書館は座席が少なすぎるといつも思う。今日の主な目的である昭和30年前後の文芸誌や新聞などを閲覧。目次にある三島も川端も大岡昇平もみんな鬼籍に入ってしまった。湯川秀樹と広津和郎の「ヒューマニズムについて」という対談録を見つけて、つい読んでしまう。時間がないというのに。
 府立図書館の前庭に二宮金次郎の像がある。薪を背負って本を読む立ち姿ではなく、ここのはただ本を読んでいる半身像。私が通った小学校の玄関にも二宮金次郎の像があった。奮励努力のお手本だったのだろうが、いまこんなことをしてたら車にはねられてしまう。もっともいまの子どもたちは本ではなく電子ゲームをしながら歩いているようだが。
 写真は祇園白川の柳。この一角に吉井勇の「かにかくに 祇園は恋し 寝るときも 枕のしたを 水の流るる」という歌碑があって、毎年「かにかくに祭」が行われている。柳の芽が淡い緑にふくらんでいた。この白川沿いには大きなしだれ桜が何本もあって、花のときは見物客でごったがえす。もうあと一月もすれば、早咲きの桜がみられるだろう。

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 昔は本によく書き込みをした。赤線を引いたり、思いついたことを書いたり。ずいぶん後で再読して、へえ、こんなところに赤線など引いて、と微苦笑することが少なくない。若いころ読んだ本のほとんどはもう手放してしまったが、それでも少しは残っていて、例えば中尾佐助の『秘境ブータン』を開けば、ブータンの少女の写真の横に「私とそっくり」などという書き込みがあったりする。桑原武夫の『一日一言』にはわざわざ書き込み用の紙を貼り付けて、私製の「一日一言」を記している。これは高校生のころのもの。いま見るとまるで紙背文書のごとき、である。書物の欄外の書き込みをマルジナリアというらしいが、最近はもう本に書き込みをすることも少なくなった。以前ほどには本を読んで感動したり共感したりしなくなったせいかもしれない。若いころは何事も目新しくて忘れまいと努力したものだが、このごろは格別努力しなくても、自分にとって大事なことは覚えているだろうと楽観している。日常の暮らしにおいても、旅などに出たときでも、記憶に残っているものだけでいいという気分でいる。といいながら備忘録と称してこんなブログを書いているのだから、身勝手なものだが。
 少し早いが、お雛様を出した。我が家は内裏びなのみ。何年か前、滋賀県の五個荘町の旧家で見事な雛飾りを見た。かつての近江商人の屋敷だったと思うが、何世代にわたり何組もの雛人形が飾られていて、繁栄ぶりが偲ばれた。
 ひなの節句には京都の下鴨神社で流しびなが行われ、宝鏡寺でも舞が奉納され人形供養が行われる。まだ見たことはないが、流しびなで有名なのが和歌山市の淡嶋神社。ここには年間なんと5万をこえるお雛様が全国から寄せられ、3月3日に、このうちの約1500体が白木の舟で海に流されるそうだ。
毎年TVのニュースでその様子を見ているが、なんとも盛大なひな流しで、春とはいえ海水はまだ冷たかろうと思うばかり・・・。さすが、かつて舟に乗って常世を目指す補陀落渡海という捨て身行があった紀州という土地だけのことはある。 

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 遅き日の つもりて 遠き昔かな 今日は「御堂」教室で朝から宇治行き。暖かなのでコートなしで出かける。窓を開けて車を走らせていたら、かすかに花の香りがする。姿は見えねど・・・。一昨日、古い知人の訃報に接す。病気のことを誰にも知らせず、ただ家族だけに看取られて逝ったとのこと。生きている人たちを煩わせたくないから密葬にしてと最後まで言い張ったそうだ。最後に会ってから何年になるだろうか。
 写真は昨日の夕方。京都の嵯峨野方面の風景。黄昏の愛宕山、その手前にいくつもの丘が重なって、墨絵のような美しさ。いちばん手前が双ケ丘。「遅き日のつもりて遠き昔かな」とは晩春をよんだ蕪村の句だが、こんな薄墨色の風景にぴったりの句ではないかと思う。
 20日、考古学者の田辺昭三氏が逝去。72歳はまだ若い。もう20年近く前のことだと思うが、TVのある番組でこの人が話しているのを見たことがある。大阪で開催中のある展覧会に中国から特別に出展された兵馬傭が日本人によって壊されるという事件があった直後のことだ。たしか兵馬傭を観客の一人が叩き壊したのではなかったかと記憶している。田辺氏は目に涙を浮べ、文化財破壊、しかも外国から借りた貴重な文化財を、招いた側の国民が破壊したことに対して、憤懣やるかたなしという思いを述べておられた。その率直さに胸打たれ、この人は情熱の人だなという印象を受けたのだった。書棚から田辺氏の著書を取り出して、今夜は読み返すことにしよう。
 

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 昨日、詩人の茨木のり子さんが亡くなった。享年79歳。自宅で独りで死んでいたとのこと。自分の青春時代が戦時下にあったことへの異議申し立てを「わたしが一番きれいだったとき」という詩にかいて、「わたしが一番きれいだったとき/わたしはとてもふしあわせ/わたしはとてもとんちんかん/わたしはめっぽうさびしかった/だから決めた できれば長生きすることに/年とってから凄く美しい絵を描いた/フランスのルオー爺さんのように ね」と宣言した。精神の自立をきっぱりとうたった「倚りかからず」という詩に、どれほど多くの女性たちが励まされたことだろう。のり子さん、もう十分長生きされましたか? ルオーのように美しい詩が書けたでしょうか? 独りで死ぬのも覚悟のうちだったのでしょうね。まさに倚りかからず、見事な最期でした。
 私は茨木のり子の「自分の感受性くらい」という詩を自戒の言葉としている。

 和歌山の梅はまだ5分咲きという感じだったが、白浜で満開の桜の花を見た。海岸沿いの道路を走っていると、道路のそばに一本だけ花をつけた桜の木が目についた。早咲きの桜だろう。ちょっとピンボケの写真。


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 2月19日(日)
 朝起きると小雨。しかし空は明るい。海を眺めながら朝食を摂る。タチウオ、アマダイ、カマスの焼いたのが出る。勿論、切り身が少しずつ。本場だけに大粒の梅干が美味しい。お目覚めの飲み物といって梅ジュースがでる。そういえばハウステンボスのホテルヨーロッパでは、朝食時、モーニングシャンパンがでたっけ。ホテルを出て白浜へ引き返し、「とれとれ市場」で海産物を購入。タイ、ハマチ、ナマコ、メカブ、アマエビ、etc. マグロの解体ショーに人だかりがしていた。唐津産のシロウオが1500円、長崎産のアンコウが4800円、長崎では「ミナ」と呼ぶ巻貝が「ガンガラ」という名で売られている。全国各地の海産物があって、1メートルものサワラに、春を感じた。
 高速を飛ぶようにして京都へ戻る。TVの録画予約を忘れたため、午後2時からのラグビーの試合に間に合うように帰宅しなければならない。幸い間に合って日本選手権の準決勝2試合を観ることができた。早稲田は東芝府中に完敗。しかしハイパントでゴールを狙ったり、飛ばしパスで果敢に攻めこんだりと思い切ったプレイの連続で、学生チャンピオンらしい堂々たる試合ぶりであった。フォワードも対等に押していたし、最後まで諦めず攻め続けた選手たちに拍手を送りたい。
 旅先で丸谷才一対談集『おっとりと論じよう』(文藝春秋)を読了。おっとりと談論風発といった趣。

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 2月18日(土)
 足の怪我の全快祝いと称して紀州南部へ出かける。阪和道が南部まで開通したので、我が家から2時間半もあれば行けるようになった。しかし海南から先の湯浅御坊道路は片側1車線の対面道路なので走りにくいこと。御坊から南部までが再び阪和道になるという変則さ。期待していた梅はまだ3分咲き程度、畑によっては5分咲きというところか。田辺の南方熊楠邸を訪ねると、隣に建設中の南方熊楠顕彰館がもう9分通り出来上がっていた。今年の5月ごろ開館予定という。並行して熊楠邸も昔の姿に戻すよう復元工事中であった。庭の大きなクスノキやセンダンの木は健在。安藤みかんの実が黄金色に輝いている。熊楠亡き後、屋敷内に収蔵されたままになっている2万点を超える資料が顕彰館に移されれば、今後の研究活動も格段に進むのではないだろうか。すぐ近くにある田辺市立図書館に立ち寄る。小さいが町の人たちに愛されている様子。1階は開架図書と閲覧室、2階に田辺生れの武蔵坊弁慶に関する資料が展示してある。図書館を出て白浜の南方熊楠記念館へ。何度も訪れているが、熊楠が残したノートを見ると、その精進ぶりに毎回感動して涙ぐんでしまう。南部や田辺の海岸沿いの道を走っていると、長崎の島原半島を思い出す。植生や海岸の様子がよく似ているのだ。記念館へ到着したらもう閉館時間だった。仕方がないので昭和天皇の「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」という歌碑の写真を撮って引き返す。歌碑の前に植えられた紅白の梅が満開だった。
 記念館のすぐ近くに丸い穴が開いた島、円月島がある。折から引き潮で、島には釣人の姿があった。この円越しに沈む夕日を狙って、何人もアマチュアカメラマンが待機している。明るいうちにホテルへ入りたいので、日没を待たずに退去。

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 京都の町を歩いていると、町家の軒の上に恐い顔をした鍾馗像をよく見かける。魔除けの像だそうだが、大きさや形がいろいろで見て歩くだけでも愉しい。町歩きを始めたころは珍しくて一つ一つ写真に撮ったものだが、このごろはすっかり馴染んでしまった。沖縄のシーサーみたいなものか。鍾馗は玄宗皇帝の夢に現れて魔を祓い病を癒したという唐の進士。わが国でも疫鬼を退け、魔を除くという神さまになっている。そういえば五月人形や節句ののぼりによく見られる。
西陣のある民家では、軒ではなくむくり屋根のてっぺんに大きな鍾馗さんが乗っていた。あれではいかな鬼でも近づけまい。
 昨日はなんとか約束の原稿を書き上げて送稿。宿題を果せてほっと一息。午後から松尾の美容院へ。四条通りの西端、桂川のほとりにあるマンションに住んでいたころよく通っていた店で、いまも引き続きそこでお世話になっている。予約の時間まで少し間があったので、松尾神社へお参り。初詣のつもりなり。山茶花の花が満開。薄黄色の蝋梅の馥郁とした香りを愛でる。
 午後6時、雨の中を河原町今出川の料亭Hへ。京大のSさんと会食。料理は早春の味がした。

 今日は一日在宅。本当は山城町へいごもり祭を見に行く予定だったが、急用ができて断念。去年のこの日、御堂教室の仲間と山城町へ歴史散歩にでかけ、たまたまいごもり祭の最終日にいきあった。いごもり祭は山城町棚倉にある涌出宮の祭で、毎年2月15日から三日間行われる。祭の期間中、氏子は物音を立てずに斎み籠ることから「いごもり」と称された。戸を開ける音がしないように、祭の間は戸をはずして莚を垂らしたという。最終日の今日は神社でお膳だしやお田植えなどが行われる。去年、初めてこれらの古式豊かな行事を見てすっかり心惹かれたため、今年も行こうと思っていたのだが。木津川をはさんだ西側にある祝園神社でも同じように「いごもり祭」が行われているが、こちらは1月。涌出宮の「いごもり祭」まで、またあと一年待たなければならない。

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 2月15日は『徒然草』の作者・吉田兼好(1283―1350)の命日。吉田兼好は本名を卜部といい、吉田神社の神職の家に生まれたため、吉田と称されるようになった。鴨長明と同じように、兼好も若いころは宮仕えをし、歌人としても活躍したが、30前後に出家。しかし日野の山の中に方丈の庵を建てて清貧生活を送った鴨長明とは異なり、兼好は市中に住んで世間づきあいを続けながら自分流の世捨て人生活を送った。兼好が住んでいた京都の双ケ丘は仁和寺や龍安寺の近くにある。双ケ丘というが実は三つの丘が並んでいて、遠くから見ると豆のさやのように見える。兼好の住まいの跡と思われる辺りにはいま長泉寺というお寺がある。普段は拝観謝絶で入ることができないが、命日の前後に行われる兼好忌のときだけ公開されるそうだ。
 高校の古文の授業で『徒然草』を習ったが、若いころは説教臭い文章だと反感をもったものだ。馬齢を重ねるうちに共感を覚えるようになって、いまではどのページを開いても「全く」と頷いてしまう。
「ひとり灯火のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むるわざなる」(13段)、「何事も、古き世のみぞ慕わしき。今様はむげにいやしくこそなりゆくめれ」(22段)、「いやしげなるもの。居たるあたりに調度の多き」(72段)etc.・・・。
「命長ければ恥多し。長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそめやすかるべけれ」(7段)という兼好自身は67歳まで生きた。晩年は「命あるうちは生を楽しめ」というようになり、世捨て人はエピュキリアンに変身。古典を読み、風流を尊び、精神の自由人として生きた兼好。彼が残したエッセイの数々が700年後も読み継がれ愛されていると知ったら、兼好はどんなに喜ぶことだろう。
 高校時代に読んで印象深かったのが、「延政門院、いとけなくおはしましける時、院へ参る人に、御ことづてとて、申させ給ひける御歌」という段(62段)。後嵯峨天皇の皇女悦子内親王が幼い頃、父帝に贈った歌について記したもの。その歌とは「ふたつもじ 牛の角もじ すぐなもじ ゆがみもじとぞ 君はおぼゆる」で、「こいしく思ひまいらせ給ふとなり」。なるほど、ではありませんか。
 写真は長崎名物の古賀人形「キリシタン尼乗り馬」。古賀人形のルーツは伏見の土人形だと思うが、長崎のものには南蛮中国などの異国趣味があるのが特徴。キリシタン尼とは修道女のこと。11年前、長崎から京都へ引越す際に、友人から贈られたもの。

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 今朝午前7時ごろの京都の西の空にかかる月。いつものように朝6時過ぎに部屋のカーテンを開けると、まだ暗いはずなのに、窓の外が明るい。ふと空を見ると、西の空に丸い月が煌々と浮んでいる。冴え冴えとした空に、白く輝く残の月。朝食の支度も忘れて、しばらく月が傾くのを窓越しに眺めてしまう。7時近くようやく空が明るくなり、月の色も薄れてきたときに撮影。右側の高い山は愛宕山。
 今日はバレンタインデイ。この日にチョコレートを贈る習慣はいつ、どこで始まったのやら。これも菓子業界の仕掛けなのではないかしら。記念日や祭りが例外なく商業主義と結びついてしまうのは残念なことだ。
 北海道の摩周に住む知人からホッキ貝が届く。生でもいいとのことだが、バタ焼きにする。知人の生業は陶器づくりだが、料理もするし、木工もやる。鹿撃ちにいって、自分の店で鹿料理を出したりする。北海道の人はマルチタレント、さすが開拓者の子孫というだけのことがあるといつも感心する。アウトドアライフが身についていて、野草でもなんでも口にする。動物は動物園にいるものだと思っていたので、初めて野生の鹿を見たとき、どこの動物園から逃げてきたのだろうといって大笑いされたことがある。去年の秋も京田辺の甘南備山で野生の雉を見かけて、どこの動物園から逃げてきたのかなあ・・・とさすがに声には出さなかったが・・思ったのだから馬鹿は死ななきゃのたぐいらしい。
 立春を過ぎると日に日に日が長くなるのがわかる。いよいよ、垂水の上の早蕨の萌えいづる春、が近づいたようだ。

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 昨日の日曜日はFさんとの今年最初の歴史散歩で、兵庫県小野市の浄土寺へ行ってきた。いつもは気ままな二人旅なのだが、昨日はFさんの知人二人が同行。朝9時半に京都を出発。名神の高槻辺りで小雪がちらつき心配したが、神戸に入るころは青空が広がる好天となる。阪神高速の須磨で降り、須磨寺と須磨浦公園へ立ち寄る。須磨寺は「平家物語」ゆかりの地で、境内のいたるところで源平の歴史が見られる。平敦盛と熊谷直実の像はまるでテーマパーク風。「一の谷の戦やぶれ、討たれし平氏の公達あわれ・・・」という唱歌「青葉の笛」の碑があったので、あれ懐かしやと口ずさむと連れの三人は知らないという。20代のT嬢と30代のK氏はともかく、私と同年のFさんが知らないとは。ついでに「金鵄輝くニッポンの・・」はどうかと尋ねると「知りまへん」。京都の祇園育ちのFさんと、九州は長崎育ちの私とでは文化に時間差があったのかしらん。
 須磨浦公園ではロープウエイで展望台へ上り、明石大橋や関西空港、今週開港予定の神戸空港などを遠望。紺碧の海の上に点在する船影。車に戻って垂水の五色塚古墳へ。マンションや住宅に囲まれて兵庫県下最大の前方後円墳がある。築造は4世紀末から5世紀初というから、あの仁徳天皇陵と同時期のもの。昭和40年からおよそ10年がかりで築造当時の姿に復元された。古墳を覆う丸い葺石の数は推定で223万個という。海岸から運んできたのだろうか、当時これだけの墓を造らせる力を持った人物がいたわけだ。円筒埴輪が立ち並ぶ後円の上に立つと明石海峡が目前に広がる。当時ここが交通の要所だったことがよくわかる。
 海辺の蕎麦屋で遅い昼食を摂り、明石から国道175号線を北上して一路浄土寺へ。午後3時半ごろ浄土寺へ到着。車を降りると風が冷たい。桜並木の参道をお寺に向う。お目当ての国宝浄土堂(阿弥陀堂)の扉を開けてもらって中へ入る。堂内には巨大な阿弥陀三尊像があるのみ。おお、その大きさ、美しさにまず目を奪われる。阿弥陀像は5・3メートル。光背が天井の梁に届いて、文字通り、お堂いっぱいに仏様がおわす、という感じ。背後の蔀戸から西日が差し込んで、お堂の中に光が満ちている。堂内の柱も梁もすべて朱に塗られており、日に照り映えて金箔の像も赤く輝いている。背後から光を浴びて雲の上にすくっと立つ三尊を仰ぎ見て、思わず手を合わせた。こんなふうにお迎えがあるのなら、死ぬのも恐くないかもとふと思う。
 浄土寺は東大寺の中興の祖といわれる重源上人の開山。源平の戦で焼失した東大寺再建の折、大勧進職についた重源が1192年に領所であるこの地に建てたもの。阿弥陀三尊像の作者は鎌倉初期の名仏師である快慶で、雲の動きなど実にリアルで躍動的。落日までいたかったが、冬場は午後4時閉門とのことで、心を残しながら退去。境内には立派な拝殿を持つ八幡神社や本堂、開山堂などもある。浄土堂をはじめ本堂(薬師堂)や開山堂の建物から大陸的な印象を受けた。案内板に「和・唐・天竺様式の建物」とあり、なるほどと納得。このお寺が京都市内にあったなら連日拝観客で賑わうだろう、というのが4人の感想。でもこれほどの仏像が都から遠く離れた鄙(小野市のみなさんごめんなさい)に守り伝えられてきたからこそ尊いのかも知れぬと思う。寺の周囲には桜の木が目立ったので、花のころにまた来ようと話す。
 滝野・社ICから中国自動車道に乗り京都へ戻る。南ICまで1時間もかからなかった。
 帰宅するやいなや録画していたラグビーの早稲田―トヨタ戦を見る。なんと28対24で早稲田が勝つ。トヨタは学生を甘く見たのか、反則の多さが敗因の一つと思う。審判と風が早稲田に味方した。それにしても学生たちの捨て身の気迫には感動した。早稲田の選手たちの動きのいいこと、相手をよく研究したのか、ボールへの集散の早いこと、タックルの確実なこと、フォワードが押しまくって社会人を圧倒したのには驚いた。インターセプトの応酬といい、展開の速い試合で、久々に興奮。東西大学対抗戦であごの骨を折ったフルバックの五郎丸はヘッドキャップをつけて参戦。15人が力を出し切る、見事な勝利であった。次の準決勝戦は今期2冠をあげている東芝府中が相手。学生たちの戦いぶりに期待したい。
 浄土寺の堂内は撮影禁止なので、お寺でもらったパンフレットの写真を転載させていただく。

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 名にし負はばいざ言問はん都鳥わが思う人はありやなしやと

 四条河原町へ出たついでに鴨川沿いの道を三条まで歩いてみた。風はまだ冷たいが川端通りの梅の木に紅いつぼみを見て、少し春ある心地になる。冬の間、川面を埋めるように群っていたユリカモメの姿が今日はずいぶん少なくなっている。ユリカモメは冬の渡り鳥で、夜は琵琶湖で休み、朝になると比叡山を越えて京都の鴨川へやってくる。餌やりを日課にしている人がいて、三条や四条大橋付近はいつも賑やかだ。『伊勢物語』に東下りをした主人公が隅田川付近でユリカモメを見て、京を思う歌がある。都鳥とはユリカモメのこと。真っ白な姿に細くて赤い足、離れて見る分にはなかなか可憐な鳥だが、近づいて見ると、数千キロの距離を飛んでくる渡り鳥だけあって、思ったより大きく力強い。
 2月11日は亡き父の誕生日。生きていたら96歳になるはずだが、21年前の正月に亡くなった。元気なころは、自分の誕生日を国中が祝ってくれると威張っていたものだ。いまは建国記念日だが、かつてこの日は「紀元節」という祝日だった。まあ、どっちにしてもあまり根拠のない神話をもとにしたもののようだが。
 今日は友人との今年最初の歴史散歩の日。兵庫県の小野市にある浄土寺へ行く。詳しくはまた明日。

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 2月10日(金)、伏見稲荷大社の初午大祭に行く。JR稲荷駅で電車を降りると、ホームは人でいっぱい。臨時の改札が設けられ、応援の駅員が汗だくで乗客を整理している。人に押されるようにして改札を出、そのまま流れに乗って大社の鳥居をくぐる。正月の三が日には250万人もの参拝客があるというから、初詣の混雑はこれ以上なのだろう。この大祭は2月の初午の日に稲荷大神がこの山に鎮座したことにちなむもの。この日に杉の枝を持ち帰ると幸福になるといわれている。祈祷の順番を待つ人や「しるしの杉」を求める人の長い列を横目に見て、境内を一回りする。足にまだ自信がないので、お山巡りは断念。『枕草子』に初午の日、稲荷詣でに出かけた清少納言が、お山巡りの途中で疲れ果て先を行く人たちの健脚を羨んでいると、後からきた同年輩の女性に自分はもう三度巡ったと言われ嘆息するというくだりがある。平安時代の女性たちにとって、神社仏閣への参詣・参拝は自由に外出できる数少ない機会だったのだろう。和泉式部や道綱の母などの日記にも長谷寺詣でや稲荷詣での記述がある。
 『雨月物語』の作者・上田秋成も伏見稲荷に参詣したのだろうか、こんな歌を詠んでいる。
「年ことに あゆみをはこふ いなり山 しるしの杉よ我をわするな」
 
 帰りて『ブックカフェものがたり』(矢部智子他 幻戯書房)読了。本のある飲食店や雑貨店を紹介した本。京都のブックカフェも何軒か登場しているが、わが家の近くにある小さな喫茶店の名前もあった。古い町家を改装したいかにも手作りといった感じの小さなカフェだが、店内に大きなテーブルがあるのが気に入って時々人と会うときに使っている。資料を拡げるのに便利だからだ。書棚に島尾敏雄や埴谷雄高などの本があるのも嬉しい。まだ20代と思われる店の主の蔵書らしい。この店の本は商品ではないから気軽に手にとることができるが、売り物の本だと、コーヒー片手に新刊書を物色するというのは難しいのではないか。しかし最近は図書館のように椅子やテーブルが設置されている書店(ジュンク堂など)もあるから・・。

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 平安京遷都は794年。以来1200年余の歴史が京都の町には積み重なっているわけだが、その間には幾多の戦あり、火事あり、建設と破壊ありの繰り返しで、まさに栄枯盛衰、地上の様子は変化し続けてきた。その中で平安京ができた当時の場所に変わらずあるのが東寺、堀川、神泉苑の三つだと何かで読んだことがある。我が家から神泉苑までは歩いて10分もかからないので、時々散歩のついでに立ち寄る。神泉苑は平安遷都からまもなく天皇や貴族たちの遊宴地として造られ、かつてはここに龍頭鷁首の舟を浮かべて優雅な舟遊びが行われていた。旱魃のとき東寺の空海と西寺の守敏が雨乞いを競い、空海が勝ったためその後西寺は寂れたという伝承がある。863年、疫病流行の原因を怨霊の祟りとしてそれを鎮めるために行われたのが神泉苑御霊会で、これが祇園祭のはじまりだといわれている。
 江戸時代に北側に二条城が造られ、そのとき池の大半が削られた。現在は小さな池が残るだけだが、そう思ってみると水面に緑が映えて、優美な感じがしないでもない。御池通りに面して大きな鳥居があるので一見神社のようだが、東寺に属する真言宗の寺である。ここにはその年の恵方をあらわす恵方社がある。今年は南南東だそうで、関西では節分の夜にその年の恵方を向いて巻き寿司を食べる習慣がある。京都にきて驚いたことの一つにこの「節分の丸かぶり寿司」がある。どう考えても寿司と海苔業界の陰謀としか思えないのだが、いまは郷に入れば郷に従えとばかり節分には巻寿司を食べている。
 神泉苑の祭礼は5月の3日で、5月の1〜4日に神泉苑狂言が上演される。その時はお堂の前に剣鉾が立ち、池の周囲にはツツジが咲いて、なかなか晴れやかだ。
 それにしてもこの神泉苑の中には料理屋があって、どうみてもここが料理屋の庭にしかみえないのが不満。国史跡を自分の店の池庭にしている料理屋も相当なものだと思わずにはいられない。
二条駅前の大垣書店で岩佐美代子『宮廷文学のひそかな楽しみ』(文春新書)を購入。以前読んだこの人の『内親王ものがたり』が面白かったので。

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 2月8日(水)晴れ。久し振りに車を運転して宇治へ行く。もう足は大丈夫のようだ。午前中みっちり古文と格闘す。午後から先生や先輩たちと国立博物館へ。新春特集の狛犬と神像展を見る。神社やお寺に左右一対で鎮座している狛犬だが、本来は頭に角があるのが狛犬で、無いのは獅子なのだそうだ。いつもこの時期展示される高山寺の三対の狛犬たちに会う。こぶりだがそれぞれ表情豊かで愛らしい狛犬である。高山寺からは修復を終えた神鹿像も展示されていた。明恵上人が愛した神鹿像は清らかでいまにも語りかけてきそうな感じ。今回は狛犬に守護される神像も出ていた。松尾大社蔵月読宮の女神座像は彩色がよく残る美しい像で、当時の理想的な女性像ではなかったかと思われた。
 2階にある常設展示の中の絵巻物と書の部屋を覗く。今月の展示は「松崎天神絵巻」「遊行縁起」「光明真言功徳絵巻」「壬生地蔵縁起」など。鎌倉・室町時代のものなのに、その色の鮮やかなこと、毎度のことながら感心する。群集図など、一人一人がよく描き分けられて当時の風俗を理解する手助けになる。書跡は後醍醐天皇や後光厳天皇の宸翰など。目に一丁字もない私のために先生や先輩方が一つ一つ読んでくださる。何とも有難いことなり。
 博物館の中の小さなレストランで昼食を摂る。一番早くできるものをといって注文したら、カレーが出てきた。なるほど。博物館の庭にはいろんな石造物――キリシタン墓碑や石仏――などがある。小さな梅林もあって例年ならもう花を咲かせているのだが、今年はまだ固い蕾。西側の門近くの桜は京都でも開花が早いので知られているが、今年はいつごろ咲き出してくれるのやら。
 帰り立ち寄った古本屋で石原吉郎の『断念の海から』を見つけて購入。このごろは新刊書も古本もインターネットで購入することが多いが、犬も歩けば、ではないが、出歩くことも必要なようだ。

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 大阪の四天王寺から北へ上町台地を歩いたことがある。この辺りは生玉寺町という名の通り寺院の多いところだ。通りの西側は急な阪になっていて、真言阪、源清阪、口縄阪、愛染阪、津水阪、天神阪など古くからの坂道がいくつも残っている。藤原家隆(1158―1237)の墓がこの愛染阪の近くにあるというので掃苔に行ったことがある。家隆は新古今和歌集の撰者の一人で、『古今著聞集』に家隆が臨終に七首の歌を回向したという話が載っている。七首の歌の内の一首は「契りあれば難波の里にやどりきて浪の入日ををがみけるかな」。家隆は極楽浄土に向うべく四天王寺に赴き、そこで臨終を迎えた。私はこの人の「花をのみ 待つらん人に 山里の 雪間の草の 春を見せばや」という歌が好きである。
誰に知られなくても黙って自分の仕事を積み上げている市井人の心意気というものを思うからだ。
 午後から用事があって京都駅へ。久し振りに駅ビルを歩く。1997年に開業したJR京都駅ビルは、高さ59.8メートル、幅が約470メートルもある。巨大な壁が立ちはだかって町の景観を壊すのではないかという反対意見もあったそうだが、9年経ったいまは違和感はない。このビルの魅力はフリースペースが多いことだろう。無駄な空間がたくさんあるのである。ぼーっと座り込んでいる若者やひしと寄り添う二人連れ、休憩中のシニアグループなど、世代を超えた寛ぎのスペースとなっている。空中に浮んだガラス張りの通路から北山を遠望する。眼の前には京都タワー、右手に比叡山がそびえる。うっすらと雪化粧した北山の奥に白く輝いているのは比良の山々だろう。

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 週末は雪の京都だったが、週明けの今日も小雪が舞っている。立春というのにまだ春は名のみである。傘をさして中央図書館へ調べ物に行く。千本通り沿いにある平安京の朱雀門跡や大極殿跡などを覗いたあと、図書館へ行くと今日から10日まで臨時休館の張り紙。がっかりしながら隣のアスニー(中央公民館)へ入る。ここのロビーに展示してある平安京模型を見ていくことにする。この模型は1994年、平安建都1200年を記念して開催された「甦る平安京」展のために制作されたもの。復元模型は平安京全体が造られたのだが、ここに展示されているのはその中の平安京城部分のみ。ゆえに天神川から西、鴨川の東側はない。しかし碁盤の目のような大路小路に内裏や貴族の邸宅、池庭などが実によく復元されていて、平安ものを読む際の参考になる。たとえば、藤原道長の『御堂関白記』などで貴族たちの足取りを辿ったりするときなど、距離感や方向感覚が掴めてなかなか便利である。
 ロビーの奥の壁の絵は上杉本「洛中洛外図」。これも丁寧に見ていくと半日は遊べる屏風絵で、まさに神は細部に宿り給う、中世の庶民の生活が活写されていて見飽きることがない。犬狩りの様子、祇園祭りの様子、風流踊りに念仏風流など、風俗画としても貴重なもので、原本は国宝。
 平安京の京城だけでも常設展示されるようになって喜ばしいが、できれば制作したときの姿で、平安京全体の展示を望みたい。大きすぎて展示する場所がないなんて言ってほしくないものだ。
 河原町の六角通角にあった書店ブックファーストが閉店した。ここは以前老舗書店の駸々堂だった所。今回はビルの建て替えに伴う閉店とのことだが、復活はないようだ。河原町の四条通から御池通までの間には20軒ほども書店があったが、いまは半分に減った。消えた書店は記憶しているだけでも、京都書院、オーム社書店、ミレー書房、河原書房、丸善、そして駸々堂に今度のブックファースト。今月、ジュンク堂が3500平方メートルもの大型店を河原町のBALビルにオープン予定というから、本探しに困ることはないだろう。最もこの通りには何軒もの古書店が健在で、本を探す楽しみはこちらのほうが大きい。
 たまたま入ったショッピングセンターの一角で本のワゴンセールが行われていた。新刊書が半額以下で出ている。数少ない文芸書の中から、学研M文庫の加藤郁乎『後方見聞録』と種村季弘『偽書作家列伝』を購入。なんとどちらもたったの100円。『後方見聞録』を開くと、伏見桃山城の前に着物姿で立つ稲垣足穂の写真があった。澁澤龍彦、矢川澄子、いずれも還らぬ人となって久しい。

 1597年2月5日、長崎で26人のカトリック信者たちが処刑された。26人のうち外国人宣教師たちが6人、あとの20人は日本人キリシタンで3人の子どもも含まれていた。彼らは京都で捕えられ、はるばる長崎まで処刑されるために連行された。1981年、来日したローマ法王パウロ2世は2月5日、処刑地跡に立つ二十六聖人記念館を訪れ、ミサを行われた。その日は長崎でも記録的な寒さで、凍りついた地面で足をとられる信者が続出した。私の友人もミサに参加した帰り滑って手首の骨を折り、尊い怪我だと強がりを言ったものだ。処刑の日も寒かったのだろうか。記念館前の広場には舟越保武の手になる26聖人像がある。深い精神性が伝わる、いい像である。京都市堀川四条の南側にある四条病院の入り口脇の壁に「二十六聖人発祥の地」の顕彰板がある。堀川通りを西へ渡った綾小路の北東角にも「妙満寺跡 二十六聖人発祥の地」の石碑が立っている。この付近は日本のキリスト教徒にとって聖地ともいえるのではないだろうか。 

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 袖ひぢて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらん  紀貫之

 昨日は朝から雪が舞う厳寒の立春だった。吹く風も凍えそうに冷たく、これでは凍った水をとかすことなどできそうにない。百万遍に用事があって二条駅前からバスに乗る。ずいぶん遅れてきたバスはすでに超満員。かろうじて乗り込んだが、乗客の殆んどがシニア。北野の天満宮に天神市が立つ25日なら北野方面行きのバスがシニアで満員という光景には慣れているが、はてなと思い傍らのおばあさんに尋ねると、「吉田さんへ節分のお参りに」とのこと。吉田神社の節分祭へ行く人たちなのだ。やれやれ。百万遍での用事を済ませた後、吉田神社へお参りに行く。東大路から近衛通りを東に入ると、参道には露店が並び、参詣人があふれんばかり。まるで初詣のような賑わいである。2日の夜には鬼やらいが、3日の夜は古いお札を焼く火炉祭が行われたそうだ。京都大学の正門にも露店が並び、この期間は大学もオープンキャンパス状態である。
 帰りて林博道著『幻の都 大津京を掘る』(学生社)を読む。667年、天智天皇によって遷都された近江大津京は、長いことその場所が特定されていなかった。著者は大津市錦織地区の発掘調査で出てきた建物遺構(門と回廊)を大津京の遺構と判断、いまではこの錦織(御所の内)に大津宮があったと考えられている。
 昨年の秋、友人と大津宮跡から崇福寺跡を歩いた。天智によって建てられた崇福寺の金堂、塔、弥勒堂の址は三つの尾根の上に分かれて残っている。塔の基壇下から瑠璃壷や水晶などが入った舎利容器が出土しており、国宝に指定された出土品はいま近江神宮で見ることができる。
 崇福寺はかつて志賀寺ともいわれ、平安貴族もよく参拝した。三島由紀夫の「志賀上人の恋」はこの寺の僧にまつわる伝説を彼流に書いたもの。崇福寺は滋賀里から志賀越え道を山手に少し入ったところにある。志賀越え道の手前に古墳時代の百穴古墳があって、あちこちに石室がのぞいている。そこを過ぎて山道にさしかかる処に道祖神のような大きな石仏がある。崇福寺はいまは礎石が残るだけだが、そこに立って1300年前の近江を想像するのは愉しいことであった。大津京の全貌が現れるまでにはまだまだ時間がかかることだろう。
 写真は今朝の嵯峨野の鳥居形。雪が積った白い鳥居。我が家から直線で5、6キロだろうか。望遠で撮った。 

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