2006年03月

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 空を寒み花にまがえて散る雪に 少し春ある心地こそすれ
 朝、窓を明けると外はうっすらと雪化粧していた。愛宕山はと見れば、白銀の峯に雪雲がかかっている。3月のつごもりに雪いたう降りて・・・と思わずつぶやく。「枕草子」に「2月つごもりごろに、風いたう吹きて」というのがある(102段)。藤原公任から「すこし春ある心地こそすれ」と書いた手紙が清少納言のもとに届けられた。この歌の上の句をつけよ、というわけだが、歌壇の第一人者の公任の申し出だけにためらっていると、早く早くとせきたてられてしまう。そこで清少納言はとっさに「空寒み花とまがえて降る雪に」と書いて渡した。それがあまりにも見事だったので、高官たちの間で「内侍に任命しよう」などと評判になった・・・ということを少納言が書いている。自慢話ととれないことはないが、少しも嫌味はない。機知に富み、頭の回転の早い少納言の魅力がよく伝わる一段である。それにこの歌はちょうど今の時期に合っているので、私はよく引用させてもらっている。
 『わがひとに与ふる哀歌』や『春のいそぎ』などの詩集で知られる詩人の伊東静雄、今年は彼の生誕100年にあたり、生まれ故郷の長崎県諌早市の図書館で記念文学展が開催されている。そこに小説家三島由紀夫が伊東静雄に送った手紙が展示されているそうだ。1948年というからまだ三島由紀夫は23歳、書簡には傾倒する伊東に対する尊敬の念が綴られているという。伊東静雄は萩原朔太郎に絶賛されて詩人としてのスタートを切り、詩誌「コギト」同人として清冽な抒情詩を書いた。大阪の住吉高校に国語教師として勤め、戦前の教え子に作家の庄野潤三がいる。諫早市では毎年3月最後の日曜日に詩人をしのんで「菜の花忌」が開催されているが、庄野潤三は2度ほど招かれて恩師の話をしている。私が聴いたのは2度目の講演だが、語られる内容は本で読んでよく知っていることでも、実際に聴くと理解が深まるという気がした。師と同じ文学の道に進んだ庄野さんの恩師に寄せる敬愛の深さに打たれるいいお話だった。ちなみに伊東静雄は1953年3月12日、肺結核のため死亡。享年46歳。桑原武夫・小高根二郎・富士正晴編『定本 伊東静雄全集』(人文書院)は我が愛蔵書の一つ。
 写真は今朝の雪雲に隠れた愛宕山。

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 昨日の雪には驚いたが、今朝も小雪がちらついていた。なかなか一気に春となってはくれそうにない。それでも桜はけなげに咲いて、季節を教えてくれる。写真は御苑のシダレ桜。近衛邸跡の糸ザクラではなく、御苑のなかほど、梅林近くに一本だけ大きく花をつけたシダレザクラである。この日は曇りだったので、きれいに撮れなかった。
 桜を見ると9世紀の唐の詩人、于武陵の詩「勧酒」を思い出す。
「勧君金屈扈 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離」
井伏鱒二の名訳はこうだ。
「コノサカヅキヲ受ケテクレ ドウゾナミナミツガシテオクレ ハナニアラシノタトエモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ」。
 全く春は別れの季節。また新しい出会いへと期待が膨らむ季節でもある。いったいこれまでどれほどの「サヨナラ」を言ってきたものか。盛者必衰会者定離。桜の花ほど時の巡りを感じさせるものはない。遠い山に白く浮びあがるヤマザクラを見ると、ああ、もう一年が過ぎたのかと思う。あと何回あの花に会うことができるかと思うのも桜ならでは。見る者は代わっても花は同じように咲く。「さまざまのこと思ひ出す桜かな」芭蕉に共感。

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 今朝、愛宕山の山頂付近は真っ白だった。今日の京都は冷え込んで、昼間、みぞれが降った。嵯峨野は雪ではなかったか。こんな日は外出を控えて溜まった仕事を片付けるのがいちばん。とにかく油断しているとモノが無限大に増えていくので、定期的に処分する必要がある。衣類、本、資料類、手紙や写真の類も整理が必要だ。身の回りはできるだけ簡素にしておきたい。
 モンゴルの遊牧民のように、最低限必要なモノだけを持って移動して廻るという生活に憧れたこともあった。自分の頭の中に収められた知識だけで生きていくことができたら、どんなに清清しいことだろう。知識と知恵は別物だから、生きる知恵さえあればいい。
 京都の知人から一人息子が無事大学に合格したという電話があった。地方の国立大学と京都の私大の両方に合格したが、京都の私大を選んだとのこと。なんといっても自宅から通えるのがいいそうだ。青年は荒野を目指す、というのはもう過去のことらしい。息子の受験のためにひたすら精進潔斎、学校と塾への送り迎えのために常に自宅待機という一年間を過してきた知人を、心からねぎらう。
 「御堂」教室の仲間が中心になって「枕草子」の通読会を始めた。歴史を学ぶ若い学究たちも参加して、初回は4時間で40段までを読んだ。「枕草子」37段「木の花は」の書き出しは次の通り。「木の花は、こきもうすきも紅梅」。清少納言は梅が好きだったらしい。最も奈良時代、そして平安初期までは、花といえば梅であった。万葉集にいちばん歌われているのは萩で140首、梅が118首、桜は40首しかない。だが、古今和歌集になると逆転して、桜が134首、梅は20首と減ってしまう。内裏の紫宸殿の前に植えられた左近の桜も以前は梅であった。仁明天皇のとき(834〜850)に桜に植え替えられたといわれる。
 しかし清少納言は「花は紅梅」と言っている。御苑の梅林はいま梅の花が満開。辺りには馥郁たる香りが漂っている。
写真はその一枝を写したもの。まさに「花は濃きも薄きも紅梅」である。

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 京都御苑の近衛サクラを見に行く。ここのシダレ桜は市内でも最も早く咲く。今出川御門から入ると旧近衛邸はすぐ。明治維新後、公家たちは天皇に伴ってほとんどが東京に移った。いまは京都御所と仙洞御所を残すのみだが、維新までは御所の周辺には公家屋敷が建ち並んでいた。近衛邸もその一つで、しだれ桜と池がそのまま残っている。それは見事なシダレ桜で、近くの同志社大学の卒業式の日など、この花の下で振袖姿の卒業生が記念写真を撮っている。
 雨が降る前にと思って朝から出かけたのだが、もう桜見物のツアー客が団体で来ていた。京都を訪れる観光客は年間4500万人もいるそうだが、その大半が桜と紅葉の時期に集中しているのではないか。京都の人は桜といえばヒガンザクラ、シダレザクラ、ヤマザクラのことで、ソメイヨシノは桜だとは思ってもいない。なるほどどこへ行ってもシダレ。
 鶴見俊輔の『回想の人びと』がちくま文庫になった。金達寿、黒田三郎、武谷三男など、時代を共有する印象的な人物の想い出が書かれた中に、民族音楽者の小泉文夫のものもある。小泉文夫は世界の民族音楽を採集し、東京芸大でそれを教えた人だが、なかなか情熱的な面もあって、19歳のときたしか一回りも年長の女性にプロポーズした。彼が55歳の若さで亡くなったとき、夫人がそのことを何かに書いていたのを読んだ覚えがある。その夫人の死亡記事が最近新聞に出ていた。冬樹社から1984年に出版された小泉文夫の『小泉文夫 フィールドワーク』をいまも時折読み返す。彼は多くの音楽家に影響を与えたが、坂本龍一や細野晴臣も彼の影響でアジア音楽に関心を持ったという。
 写真は京都御苑の旧近衛邸跡にあるシダレ桜。まだ5分咲きだろうか。

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 ものの本によると、今日は「さくらの日」だそうだ。なんでも1992年に「日本さくら協会」(そんな会があるのですね)が定めたのだとか。なぜ3月27日かというと、サクラサク=サ(3)×ク(9)=27、だから。3月14日は数学の日(これはわかりますね、円周率からきてる)と同じくらい、あまり意味がないというか・・・。
 富山の市立病院で外科部長が患者の人工呼吸器をはずした、これは尊厳死か安楽死かというので問題になっているようです。患者の家族は了承していないといい、医者はそうすることがベストだと思ってやった(らしい)、病院側は外科部長の独断行為であるとして、すべてを警察の手にゆだねる方針。以前、京都京北町の町立病院でも似たようなことがありました。院長が顔見知りの患者を尊厳死させたというので、問題になったもの。このときも院長は病院内部で孤立していました。もう治る見込みはない病気で苦しむ患者をみるのは誰しも辛いものです。それでも自然に死を迎えるのであればいいのですが、人工呼吸器をつけること自体がもう不自然で、その時点で、自然死を諦めるということになります。こういう場合、患者本人はもう何も言うことができないのですから、前もって無駄な延命治療はしないでほしいという意志表示が必要なわけ。昔のようにできるだけ自然に死にたいというのは贅沢なことでしょうか。
 安楽死を扱った小説で古典的なものが森鴎外の『高瀬舟』、すぐれて現代的な作品に深沢七郎の『極楽まくらおとし図』というのがあります。面白くてためになる、ではない、面白くて怖くなる小説です。
 写真は北野天満宮の梅。もう満開。

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 昨日の京都は眩しいほどの青空が広がる快晴。風は冷たいが日差しはもう十分春のもので、家にいるのがもったいないという感じ。「そうだ、京都行こう」ではないが、「そうだ、天神さん行こう」と出かけることにする。25日は菅原道真公の命日なので、北野の天満宮では「天神さん」の市が立つ。同じように、毎月21日は弘法大師の命日で、東寺に「弘法さん」の市が立つ。京都ではこの二つの他に百万遍の知恩寺、因幡堂、六孫院、妙蓮寺、豊国神社などでも毎月市が開かれているが、最も有名なのが天神さんと弘法さん。どちらも1000軒以上の店が出るが、弘法さんでは骨董が多かったことから「東寺の骨董市」と呼ばれている。いまは骨董だけではなく、古着、雑貨小物、塩干物、手作り品、などが目立つ。外国人ツーリストが多いのも天神さんの特徴で、女性たちは着物や帯などを物色している。羽織や訪問着などガウンに仕立てて着るのだろうか。着物は一枚5百円からある。このごろは古い着物で小物を作るのが流行っているので、古着売り場は各地からの仕入れ客でごった返している。大漁旗で仕立てたジャケットを羽織った女性がいたり、久留米絣のコート姿の人もいる。みんな商品見本を身に着けているのだ。
 天満宮の梅は満開。菅原道真は宇多天皇に重用されて右大臣まで出世したが、それを快く思わない政敵たちの讒言によって太宰府へ追われた。903年、都への思いを抱いたまま太宰府で病没。その後京都では内裏に雷が落ちたり、疫病で道真の政敵たちが亡くなったりという災害が続き、道真のたたりではないかという噂が立った。道真の霊を鎮めるために彼を天神として祀ったのが天満宮の始まり。優秀すぎて天皇に重用されすぎたのが不運だったのか、しかし死んで神様になったのだからよしとするかは人それぞれ。天神はもともと稲作に縁が深い農業の神様で、雷がもたらす雨が農作には欠かせぬことから信仰があった。天神さんといえばほとんどが道真公ゆかりのものだが、道真とは全く無縁の天神社もある。京都の北白川にある北白川天神宮がそうで、ここの祭神は少彦名命で平安京以前からあった産土神といわれている。
ここには見事なシダレ桜があって、4月初が見ごろ。
 北野の天神さんへ歩いて往復する。途中市立図書館へ立ち寄り、何種類かの唐詩選に目を通す。「来亦布衣」の句を含む岑参(しんじん)の詩を探すが、目指す詩は見当たらない。
 彼岸は過ぎたが、帰途、掃苔としゃれこむ。立本寺の墓地で島左近の墓を見て(お参りではない)、大雄寺では映画監督山中貞夫のお墓に参る。境内の大きな顕彰碑の文は小津安二郎によるもの。大雄寺の境内には、何種類もの椿、紅白の梅、気の早いミツバツツジが色とりどりに咲いていた。

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 昨日の3月24日は、1185年、壇ノ浦の戦に敗れた平家の滅亡の日でもあった。この日、源氏に追い詰められ、敗戦を覚悟した平清盛の妻二位尼は六歳になる孫の安徳天皇を抱いて入水。『平家物語』では、この時幼い天皇が「尼前、われをばいづちへ具して行かんとはするぞ(どこへ連れて行くのか)」と尋ねたとある。尼の答えは「波の底にも都の候ぞ」であった。
 『平家物語』は「平家の栄華と滅亡」がテーマだが、物語に通底しているのは「諸行無常」であり「因果応報」の思想である。と同時にこれは壮大な叙事詩でもあり、恋あり、親子の葛藤あり、仏教の教えあり、と実に盛りだくさんな、いまでいう大河ドラマで、琵琶法師が語る物語はさぞ人々を魅了したことだろう。現在でも京都では義経を除いて源氏はあまり人気がない。武士そのものがあまり好まれないからだろう。都の公家文化を愛でた平家に心を寄せる人が多いのだ。『平家物語』は滅びの美学と鎮魂の物語。敗者への想像力を持つということは人を複雑かつ魅力的にする。
 22日、雨の中を平家ゆかりの厳島神社へ行ってきた。最近、この神社が人工の入り江に都の寝殿造りを模して造られたものではないかという論が発表されたので、「御堂」教室の仲間と現地探訪とあいなったのだ。私にとっては初めての宮島行き。あいにくの雨だったが、得るものは少なくなかった。宮島へ渡る前に、3駅ほど手前にある地御前で下車、宮島に人が住む前は遥拝所だったという地御前(外宮)に参詣。厳島神社は推古時代の創建というが、島に人が住み出したのは鎌倉時代だという。それまではこの地御前にある宮から遥拝していたそうだ。いまはここが厳島神社(内宮)の外宮となっている。立派な拝殿があり、目の前を広島電鉄が、背後をJRが走っている。神社の眼の前はすぐ海で、牡蠣の養殖筏が目に付いた。広島でもここの牡蠣が一番美味しいそうで、通りすがりの人から何度も「牡蠣を食べに来たのか」と声をかけられた。
 牡蠣ではなく、宮島へ渡るフェリー乗り場近くの店で「アナゴ飯」を食べる。これが香ばしくてなかなかのものであった(1580円)。
 国宝の厳島神社は雨だというのに観光客がいっぱい。修学旅行生も目立つ。本殿の前では結婚式がちょうど終ったところで、白無垢姿の花嫁が観光客の注目を浴びていた。
 厳島神社の傍にある清盛神社にお参り。清盛はここに京以上の極楽を実現したかったのだろう。清盛がここに収めた「平家納経」の見事さといったら。料紙の素晴らしさ、細工の見事さは言うに及ばず。狭い海峡を渡りながら、雨に煙る水面を見ていると、どこからともなく「波の底にも都の候ぞ」という声が聞えてくるようだった。ここは壇ノ浦ではないけれど。

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 中国では8と9はいい数字だそうだ。なかでも「8」は最高に縁起がいいそうで、8のつく日は結婚式が多いという。そういえば私が上海に出かけたのは18日で、夕食をとったレストランは結婚式の披露宴で賑わっていた。宴会場ではなく広いレストランの同じフロアでやるので、周りには一般のお客もたくさんいる。華やかなドレスにタキシード姿の主役や正装した客たちの様子は日本と全く同じで、なかなか華やかなものだ。舞台で延々と歌が続くのも同様。いやでも耳に入るので聞くともなく聞いたが、その夜の客は総じて歌が得意ではなかったらしく、部外者としては正直いって辛かった。折角の料理が・・・。
 翌日、杭州へ行く途中、何台もの派手な車を見かけた。町のそこかしこを、花で飾られた車が連なって走っているのだ。先頭をゆくひときわ大きな花飾りをつけたのが新婚の二人の車なのだろう。リムジンあり、ベンツあり、結婚式は上海の若者にとって相当大きなイベントなのだろう。 
 写真は花飾りのついたリムジンをすれ違いざまに撮ったもの。花嫁が写ってないのが残念。
 今日、3月24日は作家・梶井基次郎(1901〜1932)の命日。名作『檸檬』にちなんで、「檸檬忌」と名付けられている。『檸檬』には梶井が三高生として京都に住んでいた頃のことが書かれている。とくに二条寺町の果物屋で買ったレモンを、河原町の丸善書店の棚に置くシーンが有名。寺町二条の果物屋はいまも健在で、ウインドウにはレモンが飾ってある。昨年の秋、閉店した河原町の丸善書店では閉店前、レモンを添えた『檸檬』の文庫本が山積みで売られていた。
 昨日は黄砂で空が霞んでいたが、今日は真青な空が広がる久し振りの快晴。昨日、四条通りを車で走っていて、有栖川の橋のたもとに三分咲きの彼岸桜を見かけた。毎年、他の桜に先駆けて咲く桜だ。ああ、この花が開いたなら御苑の近衛桜も咲いているなと思う。博物館のしだれ、祇園白川のしだれ、岡崎は象彦のしだれなど、早咲きの桜に会いにいかなければ・・・。仕事を早くすませて、心おきなく花に会いにいかなければ。


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 3月19日。朝7時にホテルを出て、杭州へ出かける。上海―杭州間は約200キロ。飛行機だと30分だが、この日は車で行く。ガイドのGongさんは50歳になる元教師で現在は作家・翻訳家。該博な知識の持ち主で、日本の歴史・文学にも詳しい。杭州は越の時代に都があったところで、呉王が寵愛した美女西施に例えられたほど美しい湖・西湖がある。芭蕉は雨に煙る象潟の風情を西施にたとえて「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んだ。湖の近くにある緑茶の名所龍井(ロンジン)で一服した後、屋根つきの小さな船で舟遊びを楽しむ。かつて役人として赴任した白楽天や蘇東坡が築いたという堤には桃の並木がある。しかし船頭が銜えタバコで船を漕ぎながら、絶えず湖に唾を吐くのには閉口した。柳の新緑が細やかに風に揺れ、穏やかな水面に桃の花が映えて時を忘れそうになる。周りの景色は白楽天の時代そのままなのに、湖の向うに林立する高層ビルの群れがまるで蜃気楼のように見える。船を下りて、すぐ近くの西冷印社という所で印鑑を造ってもらう。印鑑ができあがるまでの時間に昼食を摂る。連日中華料理だが、同じメニューがないのには感心する。今日の昼食は四川料理でちょっと辛い。レストランの前に浙江大学付属中学校がある。ガイドのGongさん曰く「ここはいい学校で、受験の時、2、3万元寄付する必要があります。合格してもしなくても払わなくてはなりません。エリート校では教師の勤務評定があり、評価が悪いと先生はその学校をやめさせられます。中国では子どもの教育に熱心で、小学生は朝7時半から午後5時まで授業があり、帰宅後も3時間は勉強します」。中国の子どもたちは遊ぶ暇がないねと言うと、「中国の子どもはよく勉強します。遊ぶ暇はないけど、引きこもりもいじめもありません」だそうだ。
 午後から10世紀ごろ立てられた六和塔へ。すぐ傍を流れる銭塘江は8月の大潮の時、海水が高波となって逆流するので有名なのだそうだ。その川の向うに魯迅の故郷紹興の町が見える。高さ60メートル、八角十三層の塔に登って、その紹興の町を遠望する。魯迅は近代中国の苦悩を生きた文学者。夏目漱石も同じように近代日本の苦悩を背負った知識人だった。ともにアジアの近代化の中で、東洋人としてのアイデンティティの確立に苦しんだ人、という気がするのだが。
 最澄や栄西が訪れたという霊隠寺へ。ちょうど清明の時期で、中国では墓参を兼ねた旅行のシーズンとのこと、名刹霊隠寺への道はすごい車の列。栄西は霊隠寺を訪れたとき、龍井のお茶の種を手に入れてそれを日本に持ち帰ったそうだ。栄西が持ち帰ったお茶の種を高山寺の明恵上人が育てたものが、宇治茶の源となった。龍井は宇治茶の故郷という「わけだ。この寺には5世紀ごろに彫られた磨崖仏がたくさんあった。境内には国内外のツーリストがあふれんばかり。色とりどりのツアーの旗が行き交い、迷子にならぬようガイドの背を追うのに必死になる。この寺は文化大革命のとき徹底的に破壊されたそうで、現在の建物も巨大な仏像もすべては文革の後に造られたものだという。「中国人は親が死んだら郊外の墓地に埋葬するが、十年もしたらお墓参りにも行かなくなる。現在の中国人には宗教も信仰心もないから、あるのは現在のみ。いかに稼いで楽をするかだけです」とはGongさんの言葉。これは桁外れの経済成長を遂げている上海人にいえることで、すべての中国人にあてはまらないことは承知している。上海も杭州も、椿、ボケ、レンギョウ、紫色のアラセイトウ、桃、桜、エニシダなどの花が満開だった。
 高速道路を130キロのスピードで走り、2時間で上海に戻る。午後7時、ホテルに迎えに来てくれた上海在住の知人Tさんの案内で夕食に。元は裕福なヨーロッパ人の邸宅だったというレストランは外国人の接待用に使われることが多いようで、洗練された雰囲気。鮑のステーキ、上海蟹、エビと蟹ミソの和え物、フカひれのスープなどが少しずつ供されて、まるで京懐石の赴き。さぞ高かったことだろう。Tさん、ご馳走さまでした。
 写真は上海の町で見かけたオートバイに乗る少女。合弁会社があるので上海の町にはフォルクスワーゲン、ホンダ、いすゞ、などの車が目立つ。とにかく車が多い。そしてそれにもまして、自転車、バイクも健在。信号などあってもなきが如し。とくに歩行者は唯我独尊。赤信号でもどんどん渡るし、自転車、バイクも突っ込んでくる。空がどんより霞んでいるので「黄砂か」と尋ねると、「黄砂は全部日本に行く。これはスモッグ、排気ガスとビルを壊すときの粉塵です」。
そういえばTさんはうがい薬を常備していると言っていた。
 

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 上海はいたるところで新旧が混在し、日々変化を続ける不思議なエネルギーに満ちた町だ。しかしこの町をもって、現在の中国を語ることは無理だろう。上海は特殊な町なのだから。まるで明治維新の日本、いや、戦後の日本はこんなものではなかったかと思われるような物凄いエネルギー。しかし文化の違いは歴然としていて、とても現在のわれわれは敵いそうにない。逞しい生命力、生活力を上海の女性たちに感じた。
 今日はいまから広島行き。続きはまた今夜。

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 友人に誘われて上海へ行ってきた。往復とも中国国際航空を利用したのだが、まさに往きはよいよい帰りは怖いで、上海からの帰りの便が3時間遅れの出発となり、関空に着いたのが午前零時近く。航空会社手配のバスは梅田までしか行かず、梅田からはタクシーに乗り換えて、午前2時近くようよう家に辿り着いた。上海の空港では何のアナウンスもインフォメーションもなく、ただ遅れるとの案内が一度あったきり。明日、京都で開かれる学会で発表をする予定だというある大学の先生が、もっと詳しい事情を説明してくれと係員に詰め寄っていたが、のれんに腕押し状態。関空到着後、長野や鳥取へ移動するという人たちもいて、だれもが乗り継ぎの心配をしていた。飛行機の場合、発着時間の変更は珍しいことではないが、航空会社によって対応に差があることを再認識させられた。もう「再見(サイチェン)」はないかも。
 最後に思いがけないハプニングがあったが、今回の旅そのものは楽しいものだった。上海は2010年の万博を前にして、町の再開発が進行中で、古い家並がどんどん姿を消している。美しいフランス租界も一部の建物を残して、殆んどが取り壊されるという。徹底したスクラップ&ビルド。風情のある古い建物が容赦なく壊される一方で、新しいビルが雨後のタケノコの如く建てられ、見上げるほどの高層アパートやマンション、オフィスビルが競争するように天を目指している。古いアパート群はお世辞にも美しいとは言えないが、上海らしい風情を漂わせていたのにと残念でならない。
 夜は上海のシンボルともいえるテレビ塔そばの海鮮料理店で食事。食後、黄浦江の対岸へ渡り、20世紀初頭、欧米列国によって建てられた美しい建物が並ぶ外灘を歩く。戦前の上海には日本人が大勢住んでいた。作家の林京子もその一人、昭和5年生れの彼女は父親の仕事の関係で上海で育っている。長崎の女学校に進学し、独り帰国して8月の原爆に遭った。そのときの体験をもとに書かれた小説『祭りの場』で芥川賞を受賞。その後も一貫して8月9日にこだわる作品を書き続けている。被爆60年の昨年、その仕事が全8巻の全集に纏められたのは嬉しいことだ。彼女には幸せだった少女時代の思い出を書いた「上海もの」と呼ばれる一連の作品があるが、これらには家族との甘やかな思い出などが描かれていて読むものは慰められる。彼女が政治的なものに左右されることなく「原爆」を書き続けてこられたのは、あくまで自分の体験と知りえた事実だけを記そうという姿勢を貫いたからではないか。私はこの人の作品では「やすらかに今は眠りたまえ」「上海」「三界の家」などが好きだ。旧日本人租界を歩きながら、少女時代の林京子さんはどの辺りに住んでいたのだろうかとふと思った。写真は外灘から見た対岸風景。ランドマークのテレビ塔は高さが468メートル。運河には華やかなイルミネーションの遊覧船が行き交っていた。

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 寺町二条にある三月書房へ行くつもりだったが、河原町に新しくできたジュンク堂へ寄ったら時間がなくなった。四条通りに以前からある店に加えて、さらに大型化した店舗を出したのだ。書店が大型化するのは構わないが、本を探すのに各階を上ったり降りたりするのはかなわない。本屋は見渡せるほどの広さがいちばんだ。哲学、歴史、文学、社会科学、いま流行の数学、地理、その他もろもろの本が歩いて回れる範囲にあれば、一冊の本を選ぶついでにあれもこれもと手が伸びる。宗教と音楽、文学と歴史などは重なる部分が多いから、近くにあったほうがいい。私など大型書店に行くと疲れてしまう。そういう意味で三月書房はありがたい。ごくごく小さな本屋さんで、人文書が主だが、詩やサブカルチャーの本も豊富に揃っている。何より有難いのは地方出版の本があること。また新刊書がすぐに消えずにずっと置いてあることである。もちろん店主によって選び抜かれたものばかりだが。消えた出版社の本が値引きされて売られているのも嬉しい。私もそれで篠田一士の書評集など、小沢書店の本をいくつか手に入れた。
 三月書房で面白いのは、よく古本屋と間違えて本を売りにくる人がいること。この前も中年の男性が「古い経済の本を引き取ってもらえないか」と店主に言っていた。店主いわく「古本屋なら河原町通りにたくさんありますよ。でも、経済書の古いのはあまり値打ちがないのではないでしょうかねえ。私はわかりませんが」。
 帰り、近くの武信稲荷に立ち寄ってお参り。旅の安全祈願。武信稲荷には市の天然記念物に指定された大きなエノキがある。高さ約20メートル、幹の周りは4メートルという大木で、平重盛が安芸の宮島から移植したという伝説がある。もしそれが本当なら樹齢800年ということになり、平家物語の世界である。いまは葉がおちて空が見えるが、夏場は見上げるほど豊かな緑が空を覆っている。壬生は古くは水生といったほど地下水が豊富だった地域で、それゆえこのような大木が育ったのだろうと駒札に記してあった。
 町なかにこれほどの大樹があるのは嬉しいことだ。京都にはエノキやムクノキの大木が多い。水が豊かな証拠なのだろう。
 八木誠一著『ふくろうのつぶやき』(久美出版)を読む。著者は聖書学専門の宗教学者。これはある新聞に社説として書かれた文章をまとめたものだが、現代社会の問題点が具体的に書かれていて読みながら頷くことが多かった。しかも問題点を指摘する場合、常に人間としての在り方に立ち戻って書いてあるので、ただの文明批判とは大違いなのだ。宗教論にしてもごく平明な文章で記されているので、信仰を持たない者にもよくわかる。キリスト教と仏教の交わるところに立って両者の重なる部分を説いてあり、決して排他的でない。「人間が享楽を求め、社会が人間に専ら経済的役割を果すように求めているところに問題がある」「人類に起っている悲惨を自分たち自身のこととして痛むことのできる立場」こそ世界宗教への道だというくだりに共感を覚えた。
 写真は武信稲荷のエノキ。幹しか写ってないのが残念。

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 京の町角によく見かけるものとして、町家の軒の鍾馗さんと仁丹マークの町名板のことを書いた。それと同じくらい目に付くものにこの地蔵堂がある。お地蔵さんは子どもを守る仏さまで、昔から辻々にあって幼い人たちを見守ってくれていたのだろう。市内にお地蔵さんは数千もあるそうだ。京都では8月24、25日の両日に地蔵盆が行われる。子どもたちにとっては夏休み最後の最大のイベントである。地蔵盆の間、子どもたちは地蔵堂の前に集まって、大人たちの世話でいろんな遊びを楽しむ。地域共同体のあらまほしき姿が見られるのだが、最近は町なかに子どもの姿が減ったせいで、お地蔵さんの前には世話係りの大人やお年寄りばかりというところも少なくない。
 さて、その地蔵堂だが、これも人間の住まいと同じで、その形もさまざま。写真のお地蔵さんは中京区西月光町付近で見かけたものだが、タイル貼りのお堂あり、ビルの壁に嵌め込まれたお堂ありで、お地蔵さんを観て歩くのも楽しい。お堂の中のお地蔵さんは、形も定かならぬ石仏というのが多いが、中には真っ白に化粧したものもあって、お世話をしている町の人たちの心が偲ばれるのだ。町家が取り壊されてビルになっても、お地蔵さんは同じ場所に在るというのは小さくてもそこが聖域として認識されているからだろう。若い人がお地蔵さんの前でちょっと立ち止まって手を合わせている姿を見るのはいいものだ。
 最近、子どもが対象となった痛ましい事件が多すぎる。これでは若い人たちが子供を産むことに不安を覚えても仕方がない。何にせよ次の世代にバトンタッチしたくても受け手がいないということになっていくのだろうか。
 デパートの園芸コーナーで座禅草を見た。確かに達磨禅師が坐っているように見える。滋賀県今津にこの花の群生地があるが、まだ花のときを見たことがない。一昨年の4月、飛騨高山の曳山祭に行ったとき、帰りの高速道路沿いにこの花を見た。残雪の中に黒っぽいこの花がいくつも顔を出していた。この時、飛騨高山の桜はまだ固い蕾だったが、車が名神高速に入るやいなや周りがパッと明るくなって満開の桜並木が迎えてくれたのを覚えている。
 今年は梅と桜が同時に見られるのではないだろうか。

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 3月15日はお釈迦様の命日、いわゆる涅槃の日。この日京都の寺院では涅槃図を掲げ、一般公開するところが多い。有名なのは泉涌寺や東福寺、真如堂など。東福寺は涅槃会の期間中、国宝の三門が公開されるので、年に一度の機会を待って訪れることにしている。昨日も仕事を済ませて出かけようとしていると電話があった。なんと、催促されるまですっかり忘れていた。締め切りをとうに過ぎた仕事があった。大急ぎで片付けて、速達で送る。電子メールだと速攻なのに、相手がメールをやらないのでこんなときはもどかしい。
 結局、家を出たのは2時近く。今日は嵯峨釈迦堂のお松明の日でもある。嵯峨釈迦堂(清涼寺)のお松明は京の三大火祭りの一つで、涅槃会の夜、境内に立てた大きな松明に点火してその火勢で稲作の豊凶を占うというもの。この日は境内にある狂言堂で大念仏狂言もある。東福寺の三門は諦めて、嵯峨釈迦堂へ行くことにする。京福電車で嵐山へ。久し振りの嵐山は結構な人出で、まるで四条河原町のごとく老若男女が行き交っている。
 天竜寺の門前にミツマタの花。桃や梅の花もきれいに咲いている。清涼寺が近づくと門前に露店が並び、祭の雰囲気が伝わる。清涼寺はもともとは嵯峨天皇の皇子源融の山荘だったところ。それが清霞寺となり、中国から請来した釈迦如来を安置して清涼寺としたもの。このお釈迦様は胎内に絹でできた五臓六腑が収められていて、それもろとも国宝に指定されている。阿弥陀堂前の梅が満開。軒端の梅もけなげに咲いていた。狂言堂の前にはこれまで見たことがないほどの見物客がいて驚いた。何年か前は小雨が降っていたせいもあるが、観客は10数人ということもあったのに。楽しみにしていた狂言堂の裏のマンサクはもう咲き終えていた。
 清涼寺のお松明が終ると嵯峨野に春が来るという。明るいうちに去ったので点火を見ることはできなかったが、梅の花を見、桜のつぼみを見て、季節を実感することができた。
 

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 近所に新しい映画館が出来たので、映画を観る機会が増えた。最近流行のシネマコンプレックスで、スクリーンが11もある。しかし書店と同じで、いくら大型化しても中身は流行りものメジャーなものばかりであまり食指は動かない。京都の町からユニークな書店が消えてしまったように、映画館も激減した。まあ、映画が娯楽の王道だったのはもう半世紀も前のことだから仕方がない。でも京都にはまだ京都シネマやみなみ会館のように個性的な映画館が頑張っているから救われる。昨年のことだが、みなみ会館で見た「いつか読書する日」という映画はよかった。主演の田中裕子は勿論のこと、その相手役を演じた岸部一徳が何ともいえないいい味をだしていた。しかしTVでやってた日本アカデミー賞にはこの作品は全くノミネートされていなかった。「三丁目の夕陽」は私も見て、コンピューターグラフィックがよくできていると感心したが、賞を独占するほどのものとは思えなかった。まあ、お祭だと思えばいいのだろうが。
 本場アメリカのアカデミー賞では、フィリップ・シーモア・サイモンが主演男優賞を受賞した。癖のある役を演じさせると上手い俳優だが、トルーマン・カポーティを演じての受賞という。昨年は確かレイ・チャールズを演じた男優が受賞したと思うが、しばらくは伝記映画が続くのかしらん。しかしトルーマン・カポーティの伝記は見たい。カポーティは孤児として育ち、幾重にも屈折した心を抱えてアメリカの光と影の世界を生きた作家である。繊細な感受性と幻想性に満ちた作風。『ティファニーで朝食を』が有名だが、私は孤児のカポーティが、ずいぶん年長のいとこと暮したころのことを書いた「草の竪琴」や「クリスマスの思い出」が好きだ。カポーティの作品に通底しているのは「孤児」の哀しみではないか。カポーティはスキャンダラスで華やかな社交界に生きたが、素顔はあくまで「孤独」だった。マリリン・モンローと踊る写真が残っているが、表面はともかく見えないところにガラスのような壊れやすい魂を持ったこの二人の姿に、アメリカの光と影を感じる。
 カポーティは1984年に59歳で亡くなった。「今度生まれ変わるとしたら何になりたいか?」と問われて、「(誰もその存在を気にもとめない)ノスリという鳥に」と答えたと、伝記作家のローレンス・グローベルがその著書『カポーティとの対話』(文藝春秋)に記している。
 写真はマンションの庭に咲いた沈丁花。甘い香りが漂って、ようやく春の気配。

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 今日の正午近く、窓の外はこんなでした。なごり雪でしょうか。いまはもう晴れ上がって、窓越しの日差しはまさに春です。今日、3月13日は大阪大空襲の日でした。1945年3月10日は東京大空襲で何万人もの市民が犠牲になりましたが、その3日後に大阪が空襲に遭い、数千人もの犠牲者が出ました。この後も終戦前日までアメリカ軍による空襲が続き、多くの市民が亡くなりました。しかし殺された市民は軍人軍属ではないため、遺族には何の補償もありません。戦地で死んでいなくとも等しく戦死なのに、です。正確には8月15日の戦没者慰霊の対象にもなっていません。軍人・軍属ではないがゆえです。
 戦後60年、犠牲者を忘れないでいることが唯一の慰霊なのかもしれません。

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 昨日の日曜日、雨の中を東大寺のお水取りへ行く。お水取りは東大寺二月堂の修ニ会で、二月堂のご本尊である十一面観音に五穀豊穣、天下泰平、万民快楽を祈願し、人々に代わって懺悔の行を勤める「十一面悔過(けか)」というもの。松明は3月1日から14日まで毎晩あげられるが、大きな篭松明があがる12日が有名なので、この日に参拝客が集中する。昨日も3万人の人出があったそうで、招待客以外は立ち止まることなく移動しながらの見学となった。午後5時半に招待者席である本堂下へ行くと、もういっぱいの人。さながらラッシュ時の満員電車、立錐の余地なしという状態。待つこと2時間、午後7時半に鐘の音と共に松明があげられる。周囲は関東からのツーリストばかり。篭松明から火の粉が散るたびに大きな歓声があがる。待っている間、「本日は多くの方に参拝していただきましてありがとうございます。お松明は期間中毎晩あがっております。来年からは12日を避けてお参りくださいますよう、心からお願い申し上げます」という案内が繰り返し流れていた。同感なり。
 8時すぎに11本目の松明が点火されて今夜のお松明は終了。二月堂そばの茶屋で甘酒をいただく。冷えた体が温まったところで本堂へお参りに。招待券を見せて堂内へ上る。男性は内陣まで入れるが、女性は格子の外の局まで。暗い堂内にゆるやかな読経の声が流れ、時折ひときわ朗々とした声が響く。鍛えられた声明の響き。午後9時、堂を出て、南大門の前にたむろする鹿の間をぬって駅へ向う。今年で1255回目の修ニ会、奈良時代から一度も途切れることなく続いている仏教行事である。
 今朝は晴れ。愛宕山の山頂は雪が降ったのか真っ白。

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 昨日の土曜日は暖かな一日だった。冬の間、部屋に入れていた観葉植物の鉢を久し振りにベランダへ出す。この暖かさは一時的なもので、彼岸まではまだ油断はできないと思いながらも柔らかな日差しに気持が和む。11年前、京都へ引越してきたときは4月に入って雪が降った。桜の花に雪が積るのを初めてみて驚いたものだ。花冷えとはいうが、桜に雪とは。「ここらあたりは山がゆえ、紅葉があるのに雪が降る」とは言うが。今年も忘れ雪が降ることだろう。
 中沢新一の『アースダイバー』(講談社)を読む。縄文時代の地形を下敷きにして東京の町を歩くという面白い試みの本である。民俗学に造詣の深い著者のことだから、縄文人と現代人をつなぐ土俗的な信仰・生活が想像豊かに語られる。
数千年前は湿地だった新宿だから、湿り気の多い肉体サービスが売られているのだ、という説には俄かには賛成しかねるけれど。この本を読んで思ったのだが、私の日々はまさに京都アースダイバーではないか、と。私も常に京都の古代地図を下敷きにして京都の町を歩いている。平安京ができる前の京都、平安京ができた後の京都、応仁の乱の後の京都、江戸時代の、近代以降の京都・・。というふうにいくつもの時代の層の一枚一枚をめくりながら、この京都の町を歩いているのである。
 古い知人から悲しい手紙が届く。新婚時代お世話になった近所のおばさん。息子一家と住んでいたが、91歳になったいま、老人ホームに入った。耳が遠くなった他は元気だが、話し相手がいないのが寂しいとある。だれもが迎える老い。子どもがいてもいなくても最後は独りという覚悟がいるようだ。しかし戦中戦後を必死で生きてきたお年寄りにそれを言うのは酷なことではないか。鉛筆で書かれたたどたどしいカナまじりの手紙を読み直してはため息をつくばかり。

 写真は昨日の夕日。日ごとに夕日が沈む位置が北上している。

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 雨があがって、穏やかな週末。今日の暖かさで梅の花もずいぶん開くことだろう。時間があったら御苑の梅林をのぞいてみたいものだが。いつものように今日も岡崎の府立図書館行き。今日は昭和28年から30年ごろまでの新聞を閲覧。岡崎には美術館や図書館、動物園などがあって年中人の姿が絶えないが、平安神宮があるせいか観光客の姿も目立つ。今日など春休みに入ったのか、学校を卒業したあとなのか、若者のグループが多い。
 近代美術館で開催中の「エルンスト・バルバラ展」を観る。ドイツの彫刻家のもの。この近代美術館には私の大好きな長谷川潔の版画のコレクションがあるので、ときどき覗くことにしている。長谷川潔はマニエール・ノワール(メゾチント)による銅版画の第一人者。大正時代に渡仏し、フランスで版画家としての名声を得、かの地の女性と結婚したが、日本には帰らぬまま1980年に客死。享年89歳。彼の作品は優美で繊細。静謐でかつ哲学的。アトリエに立つ晩年の写真を見たことがあるが、まるで求道者のような雰囲気だった。
 府立図書館前の二宮尊徳像。金次郎のころの像。手にしているのは何の本だろうか。

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 調べもののため府立図書館へ出向く。鴨川に架かる御池大橋を車で渡る途中ふと北山を見やると、春霞の中幾重にも山肌が重なって見える。ああ、もう春だなあと思う。九州にいたころ、こんなふうに空がぼんやりと霞み始めると春を実感したものだ。関東から遊びにきた友人が、「春の長崎の空は黄色い」と驚いたのを思い出す。中国大陸から日本海を渡って飛んでくる黄砂のせいだ、といったらさらに驚いていた。このごろは温暖化のせいか、中国では砂漠化が進み、黄砂の量が増えて、北海道でも観測されるようになった。黄色といえば、早春の花には黄色が多い。マンサク、エニシダ、レンギョウ、ロウバイ、サンシュユ、ミモザ、・・・。そして、梅雨時には白い花が多い。クチナシ、シャラ、ウツギ、エゴノキ・・・。
 8日のブログに仁丹マークの町名板のことを書いた。8日の写真に現在は中京区だが、昭和2年にかけられたときはまだ下京区だった西の京の町名板のものを載せた。今日の写真は通りの名前が入った最もポピュラーな町名板である。いつも大丸などへの往き帰りに前を通るお宅の玄関前にかけてあるもの。この数軒東側に、わが国最初のキリスト教会・南蛮寺跡がある。この辺りは祇園祭の山鉾町で、7月の宵山のときは身動きできないほど人が出る。
 図書館から戻り、車を12ヶ月点検に出す。ついでにナビのDVDを最新のものと交換する。まだ3年しか経ってないのに、新しい道路がどんどんできて、ナビの画面で車が空を飛ぶことがたびたびだったので。
 今日は雨。ここのところずっと資料読みに専念して疲れ果てた。疲れると涙もろくなって困る。三好達治の「志おとろへし日は」という詩に思わず涙ぐんだり、横になればなったで「来し方を思ふ涙は耳へ入り」という有様。やれやれどころか、全く困ったものである。

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