2006年04月

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 昨日は風邪気味のため、大人しく籠居。薬をのんでじっとしていると夜にはずいぶん気分がよくなった。古代の人物�『王朝の変容と武者』(清文堂)を読む。横になったまま読むには重すぎるので、仕方なく起きる。北海道のTさんより、「山ワサビ」が山のように送られてくる。北海道ではこの山ワサビを薬味としてなんにでも使う。洗って少しおろしてみる。目と鼻にツンときて涙。
 今日は爽やかな日曜日。気分がよくなったので植物園まで出かける。1週間前、観察会で来たばかりだが、この前は見逃したボタン園や紅葉池などを歩く。紅葉の新緑が目に眩しいほど。牡丹の花はもう開ききって、「牡丹散って打ち重なりぬニ、三片」という状態。桃の花、遅咲きの里桜がまだまだ見ごろ。桃の花の近くに、ハンカチノキがあった。枝先にハンカチのようにひらひらと白い花が咲いている。花びらのように見えるところは苞(ホウ)片。真ん中の黒い部分が花である。ヤマボウシなどと同様。例年はもっと葉が繁っていて、緑の葉の間に白いハンカチのような花がひらひらと目立つのだが、今年は何故か葉が少ない。
 開催中の山野草展を覗く。ウラシマソウ、ユキザサ、オダマキ、コマクサ、チングルマ、シライトソウ、エビネラン、ダイモンジソウ、イカリソウ、以下、たくさんの山野草を見る。植物園を出て賀茂川べりを南下。賀茂川と高野川が合流する下鴨の河原で若者たちがバーベキューを楽しんでいる。この合流点から川の名は鴨川となる。右岸の土手道をゆっくり散歩。ケヤキ、ムク、エノキなどの芽吹きが美しい。葵祭りの行列が行くころは、この新芽もしっかり緑を広げていることだろう。
 河原にはセイヨウカラシナの黄色い花が広がり、水の上にはサギ、カモ、アオサギなどの姿がある。市中にこんなゆったりとした川があるなんて、本当に贅沢なこと。川沿いの道には八重桜や月桂樹の並木があった。月桂樹の花はいまが満開。
 御池橋で川と別れて地下鉄で帰宅。留守電5件。メール十数件。来月の予定の確認なり。写真はハンカチノキの花。

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 4月28日は日本の独立記念日。第二次世界大戦に負けた日本は、戦後、連合軍(ほとんどアメリカ軍)の占領下にあったが、戦争放棄を掲げる新憲法のもと復興の道を歩み、1951年には連合軍との間に平和条約(サンフランシスコ平和条約)を締結、それが1952年4月28日に発効となって名実共に主権を回復、独立国となった(はずである)。この日の毎日新聞に詩人の草野心平が「独立」と題する詩を寄せている。
「天と海と陸に ひしめいた凄烈も遠く去り 鉛色の死の群像もとうに消え果て 独立の 平和の 新しい甦りが来ようとする。 まるでちがった人間の歴史がはじまろうとする。 光よなだれこめ。二十世紀の日本の暗い大きな陥没に…(後略)」。52年前の日本は貧しいけれど希望に満ちていた。今日より明日、明日よりあさってはきっといい日にちがいないと信じていたと思うのだが。いまの若い人たちにとって、戦争とはイラク―アメリカの戦争くらいしか思い浮かばないのではないか。過去の戦争より未来の戦争の方がリアルになっているのではと思うと怖い。
 先日、TVの「なんでも鑑定団」とかいう番組を見ていたら、藤原定家の「明月記」の断簡を掛け軸にしたものが登場した。持ち主はこれを180万円で購入したという。鑑定人は愛知文教大学の増田孝教授で、定家の明月記に間違いないとして500万円の値をつけていた。「明月記」といえば冷泉家所蔵で全巻国宝。かつて戦乱期に持ち出されたものが流出したものだそうだが、断簡一枚が500万円とは。まあ、茶碗一つ、棗一つが一城に値する時代もあったわけで、まこと骨董の世界はあぶない。
 写真は仁丹マークの町名板。これは西洞院通上長者町下ル土御門町の角にあるもの。現在の上長者町通はかつての土御門大路で、これをずっと東に行ったところに藤原道長の土御門邸があった。「この世をば」と道長がうたった邸宅である。現在の京都御苑・仙洞御所あたりになる。

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 昨日は午前中、宇治で「御堂関白記」の講読会。まだ長和2年11月のくだり。久し振りにメンバーが揃うと、近況報告で話が弾む。あまり丈夫とはいえない先生がいちばんアグレッシブ。長和2年(1013年)11月23日の道長の日記に、勧学院学生歩」のことが記してある。道長の娘で三条天皇の中宮である研子が勧学院に寄進をしたので、その礼のために学生たちが参賀したというもの。勧学院は藤原氏の大学寮で、三条通から坊城通りを少し上ったところにあった。いまは小さな公園になっていて、その一角に「勧学院址」の碑が立っている。三条通商店街のすぐそば。三条通商店街は千本通と堀川通にはさまれた長さ800メートルのアーケード街。アテネオリンピックの女子マラソンで金メダルをとった野口みずき選手が雨の日はここでトレーニングをしていた。肉屋のおばさんの話では、雨の日は朝5時ごろからチームメイトたちと野口みずきさんが走っていた、とのこと。
 宇治からの帰途、京都国立博物館へ。開催中の「大絵巻展」を見る。結構な人。それでも人の肩越しではなく、ちゃんと展示ケースの前に立って見ることができた。「粉河寺縁起」「華厳宗祖師伝」「当麻曼荼羅縁起」「地獄草紙」「餓鬼草紙」「病草紙」「鳥獣戯画」「源氏物語絵巻」など国宝の絵巻がずらりと並んだ中で、私がいちばん面白く見たのは12世紀に描かれた「信貴山縁起 飛倉巻」。托鉢の鉢が、ある分限者の家の倉にまぎれこんだため、鉢が倉ごと飛んで主の所へ帰ってしまう。それを追いかけていった分限者が鉢の持ち主にわけを話すと、僧は鉢に米俵を入れてもとのところへ戻すという話。校倉つくりの倉がゆらりと浮き上がって飛んでいくのを見て驚く人々の姿が生き生きと描かれている。子どもを背負った女、庭で瓜を採る女、驚き慌てる屋敷の中の女たち、一人一人の顔が詳しく描き分けられていて、見飽きることがない。また別の絵巻には、女房が読む物語を聴きながら絵を眺める姫君の姿が描かれている。当時はこのようにして物語を楽しんだのだろう。いまでいう「読み聞かせ」だろうか。
 平安時代の絵巻物には犬がよく出てくる。また、獣の皮が干してある場面も。女たちが洗濯するシーンでは、シンシバリを使って反物を干している。平安時代、既にこのころからシンシバリはあったのかと感心する。絵巻物は時代風俗画としてみても面白い。会期中、展示替があるようだから、後半にもう一度行ってみよう。
 写真は「大絵巻展」を開催中の京都国立博物館。

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 昨日の午前中、岡崎の京都市美術館と国立近代美術館へ行ってきた。市美術館ではコレクション展「京都美術地誌案内」が開催中。官展や既成の画壇からはみ出して新しい創造の場を築いた美術家たちの歴史を特集している。当時は反官展・反画壇の旗手だったものが、時が移れば中心に在る、という側面もうかがえて、なかなか興味深い展示だった。向かい側にある近代美術館ではオーストリアの美術家フンデルトヴァッサー(1928−2000)展が開催中。名前を知らなくても関西人なら「大阪舞洲にあるごみ処理工場の建築デザイナー」といえばその奇抜さで作品群が想像できるだろう。ぐるぐる渦巻きや派手な色彩、建物の壁にとりどりの色を塗り絵を描く、色彩豊かな細密画にクリムトを連想したが、フンデルトヴァッサーは若いころエゴン・シーレに影響を受けたという。若いころのデッサンも数点出ていたが、なかなかリリックな味わいのあるいい絵だった。日本の彫師・摺師の名前が刻まれた木版画にも目を引かれた。エコロジストとしても知られ、古い木造船に黒い犬と猫と共に暮らす様子が映像で流れていた。ガラスとコンクリートの直線だらけの建物はまるで刑務所だといい、植物と共存するらせん形の建物をデザインした。21世紀を予言するものになるのかもしれないが、いや、あのような建物に果たして人は住めるだろうかと自問自答。常設展でお気に入りの長谷川潔の作品をじっくり観る。美術館のレストランで軽い昼食。明るい日差しを浴びながらテラスで食事するグループが目立つ。疎水べりの桜はもう葉桜。
 帰宅して杉本秀太郎の『太田垣蓮月』(筑摩書房)を再読。前の日、西賀茂の西方寺で蓮月のお墓に参ったばかり。蓮月に関する資料は多々あるが、私はこの本を最上のものとしている。
 写真はマンションの中庭にあげられた鯉のぼり。いま八重桜が満開。 

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 久し振りに映画を観た。ブロードウエイ・ミュージカル『プロデューサーズ』。ユダヤ人コメディ作家メル・ブルックスの作詞・作曲・脚本になる作品で、以前舞台化して大ヒットしたものを再び映画化したもの。時代は50年代末か60年代初め。落ち目のプロデューサーが、失敗間違いなしの駄作を上演して、集めた制作資金を横取りしようと企んだが、駄作のはずが大当たりして目算が外れるというもの。劇場に貼られたポスターに「west side story」があったり、二人が成功してからの作品に「セールスマンの凍死」なんていうタイトルがあったりと、パロディあり、ドタバタあり、毒気ありのミュージカル。品がない、ゲイのオンパレード、と眉をひそめるむきには駄作。馬鹿馬鹿しいが懐かしいと楽しめるむきには佳作。私は三谷幸喜の「有頂天ホテル」などよりも数倍楽しめました。ヒトラーを演じた役者のなんともいえぬおかしさ、ダンサーたちの踊りの見事さ・・・。エンドロールの最後に本物のプロデューサーが顔を出すのもご愛嬌。
 昨日も黄砂のせいで京都の町は霞んでいた。長崎から友人のIさんが出てきたので北山のコンサートホールで待ち合わせ。Iさんは前日まで大分の別府にいたという。毎年別府で開催される「アルゲリッチ音楽祭」のため。6月20日の五嶋龍のヴァイオリン・リサイタルのチケットを買おうとしたら、窓口分はもう売り切れだった。タクシーで西賀茂の西方寺へ。ここの墓地にある太田垣蓮月と北大路魯山人の墓にお参り。太田垣蓮月の墓に植えられた桜の木が大木となり、根に持ち上げられた墓石が傾いていたのを、昨日訪ねてみるとまっすぐに直してあった。新しい花が供えてあるところをみると、墓参の人が絶えないのだろう。墓の字は彼女が育てた富岡鉄斎のもの。
 魯山人(1883―1959)の墓は西方寺の北後方にあった。そこから細い道を北に上っていくと、正伝寺という禅寺がある。ここの方丈は伏見城の御成殿を移したもの。広縁にはその遺構の血天井が使われていて、今尚点々と血痕が残っている。関が原戦の前に伏見城に立てこもり果てた徳川方の武士たちの血だそうだ。生々しい歴史の痕跡である。
 夜は河原町今出川の「はやし」へ。相変わらず、遠方からの客多し。ミュンヘンから来たというドイツ人男性と日本人ピアニストのカップルと知り合う。10年ほど前から、来日した際は必ずこの店に寄ることにしているとのこと。あとは東京からの夫婦づれ、千葉からの客、みんな「朋遠方より来る」の口であった。若竹煮、うすい豆腐、カツオもでて、季節を満喫。
 写真は上賀茂神社の鯉のぼり。今朝も黄砂のせいか町は霞んでいる。

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 命二つの中に生きたる桜かな 芭蕉

 昨日の土曜日、午後から北山の府立植物園へ行ってきた。週末に開催される植物観察会に参加するためである。昨年のいまごろ、この観察会で植物園にあるサトザクラをつぶさに教えてもらった。いまそのサトザクラが満開だが、昨日は自然植物生態園の案内。日本各地に自生する山野草が自然な状態で育ててある。一人の時は見落としてしまいそうな地味な木の花や山野草を詳しく見ることができて楽しかった。昨日この生態園で見た花を覚えている限り記しておく。ホンシャクナゲ、シャガ、トキワマンサク、○○スミレ、ザイフリボク(シデザクラ)、ムベ、ドウダンツツジ、ミツバツツジ、ミズバショウ、フタバアオイ、クリンソウ、エンコウカ、リュウキンカ、オモダカ、ミツガシワ、サワオグルマ、バイモ、レンプクソウ、ヤマアイ、ヤマシャクヤク、ヤマブキソウ、ラショウモンカズラ、ツクバネウツギ、ヒメウツギ、キランソウ・・・。まだいろんな花が咲いていたが、名前を失念。参加者の中には専門家並みの知識を持つ人もいて、目に付く植物の名前を片端から教えてくれるのには感嘆。マンション暮らしになって庭の草むしりからは解放されたが、やはり土と植物が身近にないのは物足りない。植物園を自分の庭と思ってせいぜい通うことにしよう。
 63年ぶりにウクライナから帰国した元日本兵が故郷岩手で弟や妹と再会する場面をTVのニュースで見た。長い間使うことがなかったので日本語が出てこないのは当然だが、両親の墓参に行き、自分の名前が刻まれた墓石を見てどんな気持がしたことか。63年は長すぎる。それにしてもご弟妹が長寿でよかった。お元気なうちに兄と再会できたのはなによりのこと。戦後も戦地に残り(残され)かの地で生きざるを得なかった人がまだいるのではないだろうか。行方不明になった後のことは「何も話さない」という上野石之助さんの来し方を思うと胸が塞がる。
 写真は植物園の桜林で見た満開の「御衣黄桜」。緑色の桜で、身近なところでは西陣の雨宝院が有名。
 命二つ・・・の句は芭蕉の「野ざらし紀行」にある。近江の水口で19年ぶりに古い友人に会い、この句を詠んだ。別れたときはまだ10歳だった土芳という青年で、芭蕉の喜びと感慨にみちた句。63年ぶりに肉親と再会した元日本兵も「年たけて またこゆべしと 思ひきや 命なりけり さやの中山」(西行)という心境ではなかっただろうか。 

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 昨日は寒い一日だった。朝、嵯峨野はしぐれて虹がたつ。かつてチベットやエスキモー、ネイティブアメリカンの人々は「人が死ぬと虹が立つ・・・死者の魂が虹の橋を昇っていく」と考えていたという。同じモンゴロイドとして、平安時代の日本人はどうだったのろう。虹について記した文献があるかしら。探してみなければ。終日、家にいて読書。

丸谷才一『いろんな色のインクで』(マガジンハウス)
高橋輝次『古書と美術の森へ』(新風舎)
『半歩遅れの読書術 �、�』(日本経済新聞社)
北方謙三『水滸伝(1)』(集英社)
笙野頼子『徹底抗戦!文士の森』(河出書房新社)

 笙野頼子の純文学論争はついにフェミニズム論争をも巻き込んだようだが、なかなか決着がつきそうにない。高橋輝次の『古書と美術の森へ』はもう10年ほど前に出版された本だが、野呂邦暢の名前がたびたび出てきて、嬉しい限り。野呂邦暢の『古い革張り椅子』や『小さな町にて』のような素晴らしいエッセイ集がどうして文庫にならないのか不思議だ、とある。同感。『水滸伝』は今年の司馬遼太郎賞の受賞作。初めて読む作家だが、司馬遼太郎賞にふさわしく、血涌き肉躍る、といった感あり。読み物のもつ魅力十分である。
 ついでに古い本を出して読み返す。

坂崎乙郎『イメージの狩人』(新潮選書)
柴田南雄『聴く歓び』(新潮社)
   
 坂崎乙郎は美術評論家。柴田南雄は作曲家。共に鬼籍に入って久しいが、彼らが遺した著書を未だに読み返している。こういう本を読んでいるときがいちばん楽しい。
 写真はマンションの中庭に咲いたシラユキケシの花。何とも可憐。マンションのガーデニングクラブの仲間が教えてくれたので、写真を撮りにいく。この庭にはつい先日までショウジョウバカマが見事に咲いていた。吉野でニリンソウの群生を見たが、この庭にもほしいなと思う。

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 昨日は久し振りに終日家にいて、溜まった仕事を片付ける。手紙やメールの返事を書き、取り散らかしたままのスクラップ等を整理する。長崎に住む姉から16日に生まれた孫の写真がメールで届く。丸々としてなんとも元気そうな男の子。姉の次男の第一子なり。赤ん坊が生まれるというのは本当に嬉しいことだ。この子の未来が希望に満ちたものでありますようにと祈る。そういう未来を創るのは大人の責任なのだが。
 高槻市の阿武山古墳の近くから、八角形の墳丘を持つ7世紀中ごろの古墳が見つかったというニュース。阿武山古墳は中臣鎌足(のちの藤原鎌足)の墓とされるもので、この古墳からは漆器に納められた金糸をまとった貴人の遺骸が出土している。発見されたのは戦前だが、1987年に遺体を写したX線写真が見つかって、遺体の足に骨折のあとがあったことから、落馬して死んだといわれる鎌足のものに間違いないとされた。遺体とともに残っていた大織冠と思われる冠や玉をつないでつくられた枕なども、それを証明するものとなった。阿武山古墳は京都大学の地震研究所のすぐ裏手にある。鎌足の墓がここにあるのは、若いころ鎌足が神祇官としてこの攝津三島に住んでいたこと、もともとこの地は中臣一族が勢力を持つ土地だったことなどから。この古墳を教えてくれたのは祇園のFさん(私の歴史散歩の同行者)だが、以来、歴史好きの客があれば案内することにしている。日本史の知識があるならば、中大兄皇子(のちの天智天皇)と共に蘇我氏を倒して大化改新の立役者となった鎌足を知らない人はいないだろう。藤原氏の祖となった人物でもある。古墳がある丘に立ち、飛鳥と攝津三島を行き来する鎌足を想像するのも楽しい。当時は陸路ではなく淀川などの水路を用いたにちがいない。
 今回発見された八角形の墳丘をもつ古墳も、中臣一族のものに間違いないだろう。鎌足と同時代に造られたものというからいまからおよそ1300年以上も前のものだ。今週の土曜日に現地説明会があるとのこと。さぞ見学者が多いことだろう。
 写真は京都市右京区梅ケ畑にある西明寺の槙尾山のミツバツツジ。高雄神護寺と栂尾高山寺の間にある山である。紅葉で有名なところだが、春のミツバツツジも美しい。これは今月16日、京北・美山へ行く途中で撮影したもの。

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 16日(日)、祇園の友人Fさんと京北の常照皇寺へ樹齢600年の九重桜を見に行ってきた。京北町は去年京都市と合併して、京都市右京区となった。京都市内から国道162号線を高雄経由で京北へ向う。高雄は紅葉の名所だが、この時期は西明寺のミツバツツジが美しい。寺の背後の山の斜面一帯が鮮やかな紫色に染まっている。国道沿いの桜はまだ5分咲き。京北に入ってからも、ソメイヨシノはまだ半分も咲いていない。常照皇寺の門前には観光バスが行列をなし、警官が交通整理をしていた。樹齢600年の九重桜は5分咲き。後水尾天皇が思わず車を返して見直したという御車返しの桜はまだ蕾。このお寺は南北朝の北朝初代天皇・光厳天皇が隠棲したところ。光厳天皇は19歳で即位したが、建武の新政により2年もたたないうちに廃帝となった。南北朝の内乱期には囚われの身となり、各地で幽囚生活を送った気の毒な天皇である。寺の背後に御陵がある。清らかな山陵は水尾にある清和天皇陵を思い出させる。
 常照皇寺を出て、美山町へ。美山町も市町村合併で南丹市美山町となった。美山町の最西部にある大野ダムへ。由良川沿いの桜が美しい。途中、「野々村仁清生誕地」の看板あり。江戸時代の京焼の陶工。彼の作で国宝に指定された壷を熱海のMOA美術館で見たことがある。大野ダムの桜は植栽されてからまだ10数年という若い樹で、これからが楽しみ。家族連れや若者のグループが満開の花の下で弁当をひろげていた。桜の並木を抜けて美山かやぶきの里へ向うと、同じ美山町内なのに、こちらの桜はまだつぼみ。開花はまだ数日後ならむ。
 帰りは花背、鞍馬、上賀茂を経由して京都へ戻る。あちこちの桜を見たが、結局は賀茂川の桜がいちばん素晴らしい、と思ったことだ。写真は京北町常照皇寺の九重桜。月末ごろが見ごろだろうか。

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 先週はずっと曇天か雨という日が続いたが、週明けの今朝は久し振りの快晴。少し肌寒いが、陽射しはうららか。いつものように嵐山を見やると、山肌の桜は色褪せて周囲の緑に混じり始めている。竜安寺はいかにと眺めれば、こちらは濃いピンク色がまだ鮮やか。駐車場上と庭園にあるベニシダレだろう。これから仁和寺の御室桜も咲き出す。しかしそろそろ「桜の奴」はおしまいにして溜まった仕事を片付けなければなるまい。購入して積んだままになっている本を整理する。書棚にあるのを忘れて再度購入した本が何冊もある。そろそろ危ないなあと思いながら処分する本の山へ。
 今週届いた「書評のメルマガ」に内澤旬子さんが『バスラの図書館員』(ジャネット・ウィンター著 長田弘訳 晶文社)という本を紹介している。イラクはバスラの図書館に勤務する女性が、戦火に見舞われる前にこっそりと図書館の蔵書を自宅に持ち帰って隠したという実話。その本の数は約2万冊。2万冊という本の量を想像してみる。6千冊の書籍をある屋敷から運び出す作業に立ち会ったことがあるが、それでもすごい量であった。その約3倍。図書館員のマンションがどれほどの広さかは分らないが、多分、天井まで積み上げられたのではないか。想像するだに怖ろしい。バスラ図書館は彼女が本を運び出した後、炎上したという。この本を買うと、その一部がバスラ図書館の再建資金にまわされるという。図書館受難ときけば、たとえ遠い国のことであっても見過ごすことはできない。阪神大震災のとき、神戸の各図書館も被災した。そのとき、全国の図書館や図書館のユーザーたちから支援があった。図書館が人々の心の砦になることもあるのだ。
 なんだか文章が妙な具合になったので今日はこの辺で終わり。写真は岡崎桜回廊十石舟巡りで、夷川ダムの桜の下をゆく舟。
 


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 吉野山 こずゑの花を見し日より 心は身にもそはずなりにき 西行

 吉野へ行って来た。桜の時期に訪ねるのはまだ2度目のこと。去年の春に初めて吉野の桜を見て、西行ではないが、「心は身にもそわずなりにき」という体験をした。山全体がヤマザクラに覆われ、花の雲、花の峰である。「昔たれかかる桜の花植ゑて 吉野を春の山となしけむ」と詠んだ藤原良経の気持がわかるというもの。吉野の桜を楽しむなら蔵王堂、吉水神社、勝手神社を経て竹林院のそばからケーブルバスで上千本を上り、金峰神社入り口からゆっくり歩いて降りてくるのがいちばんだろう。今年は肌寒い日が続いているせいか、上千本の桜はまだ蕾だったが、水分神社のしだれ桜は満開だった。佐藤忠信ゆかりの花矢倉展望台からの眺望も素晴らしく、立ち去りがたい気分。
 以前、御堂関白記の勉強会で金峰神社を訪ねたことがある。藤原道長は寛弘7(1007)年8月に吉野の金峰神社に詣でているが、その足取りを辿ろうという企画だった。この時道長は、一条天皇の中宮となった娘の彰子に皇子誕生を祈願して、法華経などの経典を埋納している。江戸時代になって、道長が納めた経筒が経塚から出土して、「御堂関白記」が歴史資料としても一級品だということが証明された。道長の経筒は国宝に指定され、時々国立京都博物館で見ることができる。高さ30センチほどの立派な金銅製経筒で、筒の側面には銘文が金泥で刻まれている。道長のその日の日記と照らし合わせて見ると、一層感慨深いものがある。
 毎年桜の季節になると落ち着かない日々を過しては、一生分の桜を見たと言い放ち、そのくせ再び春が巡れば、またぞろ懲りもせず桜に会いに行く。本居宣長ではないが、「わが心 やすむまもなく つかれはて 春はさくらの 奴なりけり」である。本居宣長も「狂」の字がつくほどの桜好きで、桜の歌を200首あまりも詠んだ。彼は遺言に自分の墓の絵を描き、土盛りの墓の背景に一本の桜を植えるようにと書き残している。まさに、満開の桜の下には死体が埋まっている!というわけだ。
 吉野の桜が美しいのは、その殆んどがヤマザクラだからではないだろうか。花の色も白から濃い桜色までとりどりで、また花びらも大小さまざま、ソメイヨシノのように一色でないのが私には好もしく思われるのだが・・・。
 それにしても連日出歩いて、さすがに疲れ果てた。桜の奴もそろそろ打ち止めにしなければ。

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 昨日に続いてジュンク堂へ本を買いに行く。アゴタ・クリストフの新刊が出たというので。アゴタの自伝『文盲』(白水社)、堀江敏幸『回送電車』(中央公論新社)、金時鐘『わが生と詩』(岩波書店)などを購入。町まで出たついでに、高瀬川のサクラを見る。木屋町を高瀬川沿いに北上し、船入り辺りから右折して賀茂川を渡り、夷川の発電所のサクラを眺めに行く。疎水に花見の船が出ている。花吹雪とまではいかないが、風にはなびらが散って、なかなか風情がある。「あわれはなびらながれ おみなごにはなびらながれ・・」という三好達治の詩を思い出す。
 本が重たいので躊躇ったが、ついでに哲学の道まで足を伸ばす。平日ながらかなりの観光客が歩いている。サクラはまだ美しい。サクラと共にミツマタ、シャクナゲ、山吹、ミツバツツジ、木瓜、ドウダンツツジ、連翹などが咲いて、まさに百花繚乱。オオシマザクラの白い花がひときわ目立つ。
 銀閣寺前からバスに乗り、ベニシダレの並木が続く半木(なからぎ)の道へ。植物園の西側、鴨川沿いの半木の道に植えられたベニシダレはちょうど見ごろ。花を見上げながら歩いていると、大きな声で名前を呼ばれた。驚いて声の方を見ると、なんと長崎の友人である。「どうしてこんなところに」と尋ねると、遊びに来たとのこと。大学時代の友人と二人連れであった。友人は奈良に住んでおられる由。昨日は二人で吉野へ行ってきたという。相変わらず元気で、魅力的。以前と少しも変らず若々しい彼女を見ていると会わないでいた何年という歳月が嘘のようだ。
 シダレザクラの下でしばし立ち話して別れたが、どうしてどこか近くの店へでも誘わなかったかと後悔しきり。それにしても本当に彼女に会ったのだろうか、夢ではなかったか、サクラの精に騙されたのではないだろうかといまも半信半疑の気分。
写真はその半木の道のベニシダレ桜。

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 河原町に新しくオープンしたジュンク堂へ行ってきた。いつもは四条通りの店を利用しているのだが、新店はどんなかと覗いてみた。小林信彦の「にっちもさっちも」が文庫になっていたので購入。これは週刊文春に小林信彦が連載している「人生は五十一から」の2002年度版で、シリーズ�にあたる。週刊誌は読まないので、この連載が一年分まとめて本になるのを待って読む。そしてそれが2年後に文庫化されると文庫を手元に置いて、親本は処分する。少しでも本棚のスペースを確保するためである。高島俊男の「お言葉ですが…」シリーズも同様。マンション暮らしにはこのような努力が必要なのです…。同じく文藝春秋のPR誌「本の話」に連載された山口文憲の『団塊ひとりぼっち』も新書になっていたので購入。連載中は笑いなしには読めなかったが、再読はいかに。
 小林信彦の「にっちもさっちも」の「文庫版のためのあとがき」に「自分の文章を読みかえしていて、胸が痛くなることがいくつかありました」とあり、鷺沢萠の書評を断ったことが記してあった。鷺沢萠の『私の話』を読んで感動したことが本文中に書かれているが、この一筋縄ではいかぬ都会っ子の作家が『私の話』のどこに感動したのか、ぜひこの本を読んでもらいたいと思う。同じ箇所で私も胸打たれたからだ。
 月曜日からずっと雨。今日は「御堂関白記」の日。いま長和2年(1013年)11月のくだりを読んでいる。この時、道長の土御門邸には三条天皇の中宮である道長の娘・研子が生後4ヶ月になる禎子内親王と同居していた。皇子誕生を望んでいた道長をがっかりさせた姫である。皇室に嫁いだ女性の仕事はなによりもまず世継となる男子を産むことであった。千年後のいまも変りは無いのだなあと、と妙な感慨。 
 写真は「都をどり」のフィナーレ。左の花道のかぶりつきの席だった。祇園版宝塚みたいね、とは初めて見るという東京から来た友人の弁。まさしく。 

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 武蔵野大学文学部の日本文学科研究室が編集した『鷺沢萠―現代女性作家読本 別巻」を読んだ。くしくも今日は鷺沢萠の命日である。2004年4月11日、彼女は自宅で首をつり自殺しているのを発見された。私は彼女のいい読者ではなかったが、彼女の死後、早すぎる自伝の『私の話』や小説『ウエルカム・ホーム』を読んだ。『ウエルカム・ホーム』には血縁関係のない者たちによって築かれた家族像が描かれている。血縁を超えた新しい家族像、これは作者の願いでもあったのではないか。昨年評判になった宮崎駿監督のアニメ映画『ハウルの動く城』にも新しい家族像が希望と共に描かれていた。『ウエルカム・ホーム』はなかなか感動的な物語である。18歳で文壇にデビューし、35歳で亡くなるまで、彼女は47冊の本を世に送り出した。これは決して少ない数ではない。私は彼女の韓国留学記『ケナリも花、サクラも花』と芥川賞候補となった『君はこの国が好きか』くらいしか読んでないので、何も言う資格はない。ただ、才気溢れ、凛として強いところのあった鷺沢萠の不在を惜しく思うばかりだ。彼女なら日韓の新しい架け橋になれたのではないかと思うからだ。内心はともかく、彼女ならフットワーク軽く言いにくいことも言えたと思うのだが。
武蔵野大学文学部編の『鷺沢萠』は彼女の死後、時をおかず緊急追悼刊行として出されたもの。若い世代に支持されていた彼女にふさわしく、学生を中心とした若い読者たちの声が集められている。短期間によく纏められた労作で、鷺沢文学にとって今後のよき手引きになると思う。

 昨日・今日と京都は雨になった。この雨でソメイヨシノは散ってしまうだろうが、鴨川半木の道のシダレザクラや植物園、鴨川川端通りのベニシダレはいまからが見ごろ。竜安寺や上賀茂神社のシダレザクラも今からが一番美しい。写真は9日(日)に撮った二条城のシダレザクラ。着物姿の若者が目立ったのは、和装だと入場無料だったかららしい。和装産業復興のための方策の一つならん。

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 春なれや 名もなき山の 春霞  芭蕉

 8日の土曜日は黄砂のせいで、ぼうと霞んだ一日だったが、9日は快晴。『明月記』にならえば、終日「天晴」。午後おそく山科へ。毘沙門堂のシダレ桜を見たあと、疎水べりを四宮まで歩く。疎水べりには多種多様な桜があって、まるで桜の見本市のような趣。花の下には途切れることなく花見の宴が続く。山科の疎水べりには篤志家の手により毎年菜の花が植えられ、桜のときに黄色の花が咲く。今年も美しい彩を楽しませてもらった。
 疎水べりの桜は四宮の一燈園の前辺りがいちばん美しい。橋の上からしばし水に映える桜を愛でる。一燈園は1905年、西田天香によって創始された宗教団体で、「無所有・懺悔・奉仕」をモットーとする。西田天香を頼っていろんな人が訪れたようで、かつて山頭火や尾崎放哉もここに滞在(居候)していた。河井寛次郎はじめ、芸術家や哲学者たちとの交流も多い。近江というところは、日本を代表するような商人を生んだことで知られるが、一方で、障害児教育の「近江学園」やこの一燈園のような無私の精神を生みだす土地でもあるようだ。(一燈園は京都山科にあるが、西田天香は近江長浜の出身である)。近くにある諸羽神社は通称四宮とよばれる。仁明天皇の第4皇子で琵琶の名手の人康親王が858年に失明したあと出家隠棲した所、といわれている。この辺りを歩くと、蝉丸やその姉の逆髪の話が思い出される。四宮から京阪電車―地下鉄で帰宅。
 1684年、芭蕉は千里を伴って「野ざらし紀行」の旅に出た。「春なれや」の句はこの旅の途中、奈良へ向う道で詠まれたもの。穏やかでのどかな心持が伝わる春らしい句ではないだろうか。
 写真は毘沙門堂近くの疎水べりに咲く桜と菜の花。

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 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮れし 蕪村

 昨日の京都は黄砂のせいで一日中ぼんやりと霞んでいた。視界5キロとニュースで言っていたが、そんなにあったかしらん。愛宕山や比叡山はもとより双ケ丘はじめ、ずっと近くのビルも霞んでいた。山が見えないので、京都盆地というよりも京都平野という感じ。昨日はまた風もひどく、一日中、風と黄砂に悩まされた。
 午後も3時近くになってからJR嵯峨野線で嵯峨嵐山まで出かけた。ここは現在、複線化の工事中。花園駅を過ぎた辺りから線路の横に細い溝がずっと続く。発掘調査が行われているのだ。調査中の溝の中に点々と穴が出ている。建物の跡だろうか。この辺は平安京の右京なのだ。太秦駅あたりまでずっと調査が続いていた。
 嵐山の人出は予想通り。午後4時近くというのに四条河原なみの賑わい。保津川下りの船も次々にやってくる。船着場に人だかりがしているので覗いて見ると、白無垢姿の花嫁が花婿に手を取られて船を下りるところだった。船上結婚式でも行ったのだろうか。満開の桜の下で船遊びをしながら挙式だなんて、粋なものだ。
 晴れ着姿の少女を伴った、十三参りらしい家族づれも目立つ。4月13日は嵐山にある法輪寺への十三参り。昔で言う元服(男)、着裳(女)、いわゆる成人式にあたる。法輪寺の虚空菩薩に知恵を授かったあと、渡月橋を渡りきるまでに振り返ると授かった知恵を失うというので、子どもたちは神妙な顔で橋を渡ってくる。
 吉兆の玄関前のベニシダレはまだ3分咲き。嵯峨釈迦堂(清涼寺)で花まつりのお参り。もう遅い時間だったので、張子の象の飾りは片付けられ、甘茶のお接待も終っていた。
写真は大覚寺の大沢の池。黄砂のせいで暗く、強風で池の面は波が立っていた。大覚寺は花見客も少なく、名古曽の滝近くの芝生広場で家族連れがのんびり遊んでいるだけ。近くの畑で諸葛菜を見る。ムラサキ色の美しい菜の花である。
 以前、嵐山に住んでいたころ、遠くへ花見に出かけ疲れ果てて帰宅し、ふと蕪村の句を思い出したことがある。花の名所である嵐山に住んでいながら、何故わざわざ遠くへでかけることがあろうか・・、全くであった。



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 仏には桜の花をたてまつれ わが後の世の人とぶらはば
 
 桜といえば西行、西行といえば桜。吉野の桜を見て「花あれば西行の日と思ふべし」と詠んだのは角川源蔵だが、まさに言い得て妙。あまりにも有名で引用するのも恥ずかしいが、「願はくば花の下にて春死なむ その如月の望月のころ」という西行の歌は日本人の死生観としてすっかり定着したのではないか。如月の望月のころとは釈迦がねはんに入った2月15日のことだが、西行は文治6年の2月16日に望みどおり世を去った。
 京都には西行ゆかりの地が多いが、花見客で賑わう円山公園の近くにも西行庵がある。円山音楽堂に沿って南へ歩いて行くと、突き当たりに芭蕉堂が、その東側に西行庵がある。かつて西行がこの近くに住んでいたことから建てられたものだが、いまも歌人たちによって花供養や西行忌が行われている。西行庵はいまは双林寺という天台宗のお寺の管理となっているようだが、境内はきれいに掃き清められていて、清清しい雰囲気だった。一歩庵を出ると、花見客が列をなして歩いていて、静と動の対比が面白かった。庵の前の坂道を上ると見事なシダレ桜があり、まっすぐ行くと東大谷の墓地になる。シダレ桜の下を右に折れたところに曹洞宗の開祖道元の墓があった。ちょうど西行庵の裏側にあたる。写真は西行庵を裏側から撮ったもの。西行桜がほっそりと写っている。
 西行庵を出て、人ごみの中を縫うようにして祇園へ向う。「都をどり」の時間までまだ間があるので、建仁寺の境内を散策。栄西の像がある開山堂の前のベニシダレはまだ蕾。いつも4月は半ばを過ぎないと花が咲かない。建仁寺の垣根は茶の木。わが国にお茶を伝来した栄西のお寺だけのことはある。
 夜、久し振りに山本健吉の『いのちとかたち』をひもとく。「花の美学」の章に西行のことが書かれてあったのではと思ったが、「春風の花を散らすと見る夢は さめても胸の騒ぐなりけり」という歌があるのみ。花が散るということと人の死とを関連させて人の心の不安を詠んだもの・・・というようなことが書かれてあった。

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 京都御所の一般公開に合わせて、京都府庁の旧館も公開されている。府庁は御苑を出て烏丸通りを西に入ったところにある。旧館は1904年の竣工というから102歳になる。ルネサンス様式の美しい建物で国の重要文化財に指定されている。去年放送されたあるTVドラマのロケ現場にもなっていた。バルコニーのある正面も素敵だが、裏側の造りもなかなか趣があって、TVドラマではここが舞台となっていた。
 旧館には回廊があり、中庭に数種類のシダレ桜が植えられている。白いシダレはもう咲き終わりに近く、ベニシダレはいまからという感じ。旧館はいまも一部が役所として使われていて、現役の庁舎としては日本最古ということだ。建物は使ってこそ生き続ける。飾り物で保存するだけでは命のない標本になってしまう。京都の町を歩いていると、古い町家が壊されているのによく出会う。間口は狭いのに、奥に細長い町家が壊されると両側の建物の壁に屋根の形が残る。壁を共有しているところなどは悲惨なものだ。先日も近所の古い家が壊されているところに行き会った。近所のお年寄りがたたずんで作業を見ている。「ここはお茶室もあるいい家どした。町内の寄り合いもここでやったんどす。先代はんがのうならはって・・・相続税をぎょうさん払わはったそうで・・・」。ゆくものはかくの如し、である。そういう一方で、京都ではいま古い町家を商業施設に再生するのがブームになっている。それも木造の建物の持つよさが見直されているからだろう。ただのブームに終らず、人間の住まいとしても定着してほしいと思う。
 4月7日、今日は放哉忌。尾崎放哉は自由律の俳人。山頭火と同じく「層雲」の同人で、放哉もまた山頭火と同じように放浪の人生を送り、小豆島で極貧と孤独の中、病没。(1885〜1926)「咳をしても一人」の句が痛ましい。山頭火は無一物で放浪していてもどこか楽天的で明るいが、放哉は人間不信が強く、どこまでも「陰」という印象。だが世間から離れたところでぎりぎりの句を詠んだ。命と引き換えの句ではなかったか。 

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 昨日から京都御所の一般公開が始まった。毎年春と秋に行われるもので今回は9日まで。昨日の雨も上っていいお天気になったので、朝から御所へ出かける。市バス201号に乗って同志社前で下車。今出川御門から入り、旧近衛邸の桜はいかならむと見れば、すでにカメラを手にした花見客がいっぱい。写真は人の合間を縫って撮ったもの。ベニシダレはまだこれからという感じであった。京都御所はもう何度も見ているが、折角だから参観。ぞろぞろ行列の後をついて廻る。御学問所に束帯姿の公家や十二単をまとった女房たちが朗詠を行っている場面が展示してあった。外国人のツーリストがさかんにカメラのシャッターを押している。一巡したところに満開のシダレ桜が数本あった。乾御門を出る前に宮内庁の京都事務所へ行き、仙洞御所の参観申込をする。今月はもう空いてないとのことで、5月の希望日を書いて申し込む。
 御苑にはいろんな種類の桜があって、開花の時期が少しづつ異なるので、5月の八重桜までたっぷりと桜を楽しむことができる。シダレもいいが、ヤマザクラが特にいい。赤い葉と薄い桜色の花が調和して、華やかなのに楚々としているところがいい。
 帰途、バスの中から交通事故を見る。バイクの青年が救急車で運ばれるところ。洲之内徹の三男もたしか京都市内で交通事故に遭い亡くなった、とふと思う。『絵のなかの散歩』の冒頭にそのときのことが書いてあったはず。洲之内徹は小説を書いて芥川賞候補にもなったが、のち画商に転じ、卓越した美術エッセイの書き手として名をなした。「芸術新潮」に連載した『気まぐれ美術館』はこの人にしか書けない実に魅惑的な美術エッセイである。画商としては独特の審美眼で多くの無名の画家たちを見出し、その文章には絵よりも人間に関しての記述の方が多いのだ。彼に魅せられ、もう一つの人生を歩んだ女性も少なくないらしい。
 帰宅して書棚から洲之内徹の本を取り出してみる。『気まぐれ美術館』『絵のなかの散歩』『帰りたい風景』の三冊を。

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 花に嵐ではないが、今日は雨になった。咲き出したばかりなので桜が散ることはないだろうが、と思いながらいつものように望遠鏡で嵐山を見やる。嵐山の稜線が白くなってきた。ヤマザクラが咲き出したのだ。御室の仁和寺の方はと見れば、こちらの山は目立って変化はなし。仁和寺は桜もいいが、同じ時期に咲く紅紫色のミツバツツも美しい。用事があって祇園のFさんを訪ねる。途中、祇園白川を通ると、それはすごい人出。ここのシダレは早咲きなのでそれを目当ての花見客ならん。旗を持った添乗員とその後をゆくツーリストの群れでごった返している。この辺りに戦前まで「大友」というお茶屋があった。ここの女将の多佳は吉井勇や谷崎潤一郎、新村出、志賀直哉などの作家や、浅井忠、横山大観、竹内栖鳳などの画家たちと交流があった文人女将。夏目漱石も大友に通った客の一人で、漱石は多佳にこんな句を贈っている。
「木屋町に宿をとりて 川向こうのお多佳さんに
   春の川を 隔てて 男 女かな」

漱石生誕100年の年、御池大橋の南西にこの句碑が建てられた。目立たないのでつい見逃してしまうが、江戸っ子漱石の句碑が京にあるというのも面白い。漱石は京大教授にと懇願されたが、固辞した。小説「虞美人草」に主人公たちが比叡山に登る場面があるが、漱石は京都という町をあまり好きではなかったのだろう。
 花見小路を南に入ると、ここもまたすさまじいほどの人の波。都をどりが始まったせいもあるが、このごろは昼夜を問わず祇園には人通りが絶えない。

 清水へ祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢ふ人みなうつくしき

とは与謝野晶子の歌だが、老若男女の群れはすさまじい限り。
 京都の円山公園のしだれ桜を有名にしたのは谷崎潤一郎でもある。彼の「細雪」に四姉妹が揃ってこのシダレ桜を見に行くシーンがある。なんとも絢爛豪華な場面で、「贅沢は敵だ」コールの戦時中にこんな小説を書いていたのだから、谷崎潤一郎はやはりただ者ではない。Fさん宅の帰り、ちょっと心を動かされたが、八坂神社の石段下の人込みを見て円山公園に寄るのは諦めた。高山彦九郎の像がある(皇居遥拝の)三条から地下鉄に乗ってまっすぐ帰宅。

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