2006年06月

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 今日6月29日は、ビートルズが初めて日本に来た日。1966年のことだから、もう40年になる。アメリカンポップスで育った世代としては、ビートルズの出現は驚異的なものだった。彼らの音楽がいかに衝撃的だったか伝えるのは難しいが、この40年間、繰り返し聴いても飽きることなく、いまなお新しい。ビートルズは世界中に旋風を巻き起こし、デビューから8年目の1970年には解散した。ビートルズが活躍したころは、ベトナム戦争、学園紛争、中国では文化大革命と、世界中が大きく揺れていた時代。クロニクル風に言えば、そうなる。音楽家の3大Bといえば、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスだが、私はそれにビートルズも加えて偉大な4大Bと名付けている。
 ちなみに私のベスト3は、「ロング・アンド・ワインディング・ロード」「イン・マイ・ライフ」「レット・イット・ビー」だろうか。選ぶのが3曲というのは難しい。だって、「ノルウェイの森」も「ひとりぼっちのあいつ」も「レディ・マドンナ」も「イエスタデイ」もあるのに・・。
 そうそう、1974年にアフリカ(エチオピア)で発見された人類最古の骨格化石―350万年前の女性のもの―、この化石が見つかったとき、調査隊のテントから流れていたのがビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウイズ・ダイアモンド」だったことから、この化石はルーシーと名付けられた。我々の遠い祖先。
 写真は近所の玄関先に咲いていたネジバナ。別名モジズリ。螺旋形に花が咲く。愛らしい花がぐるぐる廻って咲いている。実によくできているなあと感心する。DNAもこんな形をしているのかしらん。螺旋形の花をみていると、澁澤龍彦を思い出した。澁澤龍彦も螺旋や渦巻きがが好きな作家だった。

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 昨日の27日は、上田秋成(1734〜1809)の命日だった。秋成といえば『雨月物語』が有名だが、大阪に生まれた秋成は晩年を京都で過ごし、生前南禅寺山内の西福寺に墓を建て、そこに眠っている。秋成は「無双の才子だが白眼にして世に交わらず」と評されたほど、狷介で偏屈な男だったようだが、養父母に孝養を尽くし、妻を労わり、可愛がっていた隣家の子どもが死ぬと悲嘆にくれて引越してしまう、という一面もあった。本居宣長との論争もよく知られていて、宣長の「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」という歌をからかって、「敷島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」と詠んだ。「やまとだましいと云ふことをとかくに云ふよ。どこの国でもその国のたましいが国の臭気なり」という秋成の言葉を、「愛国心」をことさらに言い立てはじめた政治家たちに聞かせたい。
 11年前、京都に転居して最初に住んだのは右京区梅津大縄場町、四条通りの西端で、桂川に架かる松尾大橋の東詰辺りだった。近所に梅宮大社があり、買い物の行き帰りにその参道を通るのだが、その途中に「橋本経亮宅跡」という駒札があった。橋本経亮(1755〜1805)は梅宮大社の神官で、有職故実に詳しい国文学者でもあった。駒札によると、本居宣長や滝沢馬琴、上田秋成、谷文兆らと親しく、上田秋成もよく通ってきていた、とある。へえ、あの秋成がこの道を歩いていたのか、と嬉しくなったものだ。
 秋成は維新の60年前に亡くなったが、自国の神話を他国に押し付けることはできぬ、という世界観を持った近代人であった。(と私は思っている) 寺町の梨木神社の大鳥居のそばに、秋成の歌碑が立っている。反権威主義の権化のような秋成の書く物語はあくまで妖しく美しい。
 ついでに書いておくと、昨日は○○回目の結婚記念日だった。○○年前の6月27日は「長崎は今日も雨だった」という歌の通りの一日で、その後も雨が降り続き、新婚旅行中に新居近くで土砂崩れがおき、死者が出た。まさに「帰ってみるとこはいかに」、忘れ難い新生活のスタートであった。
 写真は京都市山科区にある勧修寺の庭に咲いていた「シャラ(夏椿)」の花。よく沙羅双樹といわれるが、全く別の花。清楚で涼やか。樹木葬をしてもらえるなら、私はこの木を植えてもらいたい。

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6月25日の午前7時、北野天満宮の楼門の茅の輪は原型を留めてなかったが、本殿の前に小さな茅の輪があった。八の字にくぐって、夏越の祓いをする。
 京都白川にある京都造形芸術大学の芸術館へ行く。ここには宗左近の縄文土器のコレクションと江上波夫のシルクロード・コレクションが常設展示してある。今月20日に亡くなった詩人で美術評論家だった宗左近(1919〜2006)には『私の縄文美術鑑賞』(新潮選書 1983年)という情熱的な本がある。日本人のルーツを縄文人とし、縄文土器の形容を媒体にして、日本人のこころを解き明かそうとしたもの。宗左近の日本人論ともいえようか。久し振りに書棚からこの本を取り出して読む。

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25日の天神さんに、厄除けの茅の輪が出ていた。楼門の茅の輪は直径5メートル。無病息災を願ってくぐる。朝7時に行ったら、参拝客が茅を抜き取っていくので、もうこんな状態だった。携帯電話で撮影。

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 九州は大雨というニュース。日本は山国だから、川は普段だっていつも急流。わが故郷長崎は傾斜地に階段状に家が建っているので、崖崩れがいちばん心配。雨が降らないと水不足に悩み、降りすぎると水害に苦しむ。毎年同じ苦労をしなければならないが、自然をコントロールするのは難しい。コントロールできるものでもないのだから、うまくつきあう方法を考えるしかない。
 
 今朝の京都は雨。こんな日は家に籠るにかぎる。溜まったスクラップを整理したり、本を読んだり、手紙を書いたり・・・。京都暮らしの楽しみの一つに古本屋巡りがある。川本三郎が住むのにいい町の条件として、「古本屋があること、美味しい豆腐屋があること、銭湯があること」をあげていた。京都の町はその3つの条件を十分満たしている。地下水が豊富なので、その水を使った豆腐がおいしいし、銭湯は町の辻辻にあるといっても言いすぎではないほど。古本屋は一時期に比べると幾分か減ったそうだが、それでも大きな古本市が開かれて、本を探す楽しみは尽きない。このごろは新刊書のサイクルが滅法早いので、出たかなと思って本屋へ行っても、みつからないことが多い。だいたい、年間に7万点もの本や雑誌が出版されるなんて、異常なのではないだろうか。毎日200点もの本が出ているなんて、そのうちのどれほどが本当の読者に届くものやら。新刊書店へ行くと、あまりにも本が多くて、私などめまいがする。古本屋はその点、安心。このごろは新刊も古本もネットで購入することが多いのだが、やはり店の書棚を眺めるのは楽しい。探している本のそばに、思いがけない本を見つけたりするのも本屋の書棚ならでは。
 写真は手元にある出版社のPR誌。ちなみに出版社名を記しておくと、「図書」(岩波書店)、「ちくま」(筑摩書房)、「本の話」(文藝春秋)、「未来」(未来社)、「青春と読書」(集英社)、「本の旅人」(角川書店)、「きらら」(小学館)、「本の窓」(同)「ウフ」(マガジン・ハウス)、「UP」(東京大学出版会)、「春秋」(春秋社)、「一冊の本」(朝日新聞社)。写真にはないが、「波」(新潮社)、「みすず」(みすず書房)、「本」(講談社)などという老舗PR誌にもファンが多い。また、最近光文社も「本が好き」というPR誌を出したそうだ。以前は新刊購入の手引きとしてこれらのPR誌を利用していたが、最近は眺めるだけになった。新刊情報もネットで入手できるようになったから。この写真の中にはいまはもう出ていないPR誌がある。数年前に消えた(倒産した)小沢書店の「Poetica」。ここはいい文学書を出していたのだが…。

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 映画は好きだが、劇場へ足を運ぶ機会は少ない。たいていDVDになってから自宅で観るというケースが多いので、映画ファンを自称するのは後ろめたい。淀川長治さんはどんなつまらない映画でも一箇所はいいところがあると言い、そこを褒めていたそうだが、私は寛容ではないので、つまらない映画を観たときは「時間とお金を損した!」と思ってしまう。たかが1800円、同じ値段でもこれが本の場合だと、つまらなかったなあと放り出して終わりなのに、映画だと「損した」と思うのは何故かしらん。
 でも、久し振りに「面白かった!」と満足した映画を観た。是枝裕和監督の『花よりもなほ』である。元禄時代の江戸。父の仇を討つために江戸へ出てきた青年武士が主人公なのだが、実はからっきし剣の腕は弱く、武士道とは遠い気分。彼が住み着いたオンボロ長屋の住民たちは貧しいながらも逞しく生きていて、次々におこる騒動に青年は巻き込まれては感化されてゆく…という滑稽かつ痛快な物語。長屋の住民の人情劇といえば山本周五郎の『青べか物語』を思い出すが、向うが正統派ドラマなら、こちらはすこぶる現代的フットワークのエンターティメント時代劇。
 オンボロ長屋が舞台なので登場人物も住まいにふさわしく実に汚い恰好をしている。最初はこの凄まじいボロぶりに圧倒され、物語どころではなかったが、慣れてしまえばこれだけリアルなセットや衣装を作った担当者を礼賛したくなった。私がいちばん感心したのは、出演者の着る衣装で、とくに主人公の青年武士が着用する藍染の着物に目を奪われた。父親の法事に帰郷した際の主人公は真新しい藍の小袖を見につけ、見違えるほど清清しく凛々しい。同じ長屋に住む武家の未亡人である宮沢りえも色あせてはいるが、こざっぱりとした綿の着物を着て、まさに「掃き溜めに鶴」といった風情。エンドロールで衣装担当・黒沢和子とあって、なるほどと納得した。
 毘沙門堂や大原野神社など、馴染みの京都の神社仏閣がロケ地になっていて、見慣れた風景がチラチラするのも楽しかった。多彩な役者の個性的な演技にも満足した。暮れに見てがっかりした「○○ホテル」の数倍、楽しみました。
 
 昨日は61回目の沖縄慰霊の日。1945年6月23日、米軍と戦っていた日本軍の司令官が自決して、沖縄戦が終結した。この戦での日本人犠牲者は約20万人。半分は戦争に巻き込まれた島民。沖縄戦がいかに悲惨なものであったかは、真尾悦子の聞き書き『いくさ世を生きて』などに詳しい。私は長いこと観光が目的では沖縄へいくことができなかった。(東京の友人は同じ理由で長崎に観光客として来るのが躊躇われたと言った)。本土決戦とならずにすんだのは、沖縄の人たちが犠牲となってくれたからだ。しかし戦後も長いこと沖縄はアメリカの統治下にあり、本土復帰の後も基地はなくならない。いまもなお沖縄は犠牲を強いられ続けているのだ。初めて訪ねたとき人並みに沖縄病にかかり、以来、年に一度は出かけているが、年々町の様子が本土並みになっていくのが悲しい。それでも沖縄は魅力的。島のあちこちにいい図書館があるのも嬉しい。沖縄そば、紅型、座喜味城の城門、竹富島の夕陽、石垣の図書館、那覇の亀甲墓や公設市場、読谷の登り窯……。
 
 写真は近所の家の門前に咲いていたクチナシの花。馥郁とした香りが届くといいのだけど。

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 22日の夕方、雨の中を今出川の同志社大学学生会館へ行く。この4月に亡くなった同大出身の映画監督・黒木和雄(1930〜2006)の「美しい夏キリシマ」の上映会に。この作品は同監督の「Tomorrow/明日」「父と暮せば」と共に戦争レクイエム3部作とよばれ、2003年のキネマ旬報ベストテン1位となった作品。監督の体験をもとに、緑豊かなキリシマで、戦時下を生きる人々の姿を描いたもの。当たり前の生活を破壊する戦争の理不尽さ、命の軽さ、生き残った者たちのやるせない胸の内…、戦争がなかったらみんな平凡だけどそれなりに幸せな暮らしをしていたはず、誰もが死者と隣合せにいて、理不尽さに耐えるしかない。家族を失くしてキリシマの親戚に預けられた沖縄の少女。主人公はその少女の兄と同級生で、動員先の工場が空襲に遭い少女の兄が死んだとき、彼を見捨てて逃げたという負い目をもっている。主人公が敗戦間際、裏山にタコツボを掘って、その中に籠るシーンは滑稽だがなんとも痛ましい。自分だけが生き残って申し訳ない、という気持。人々の当たり前の生活を破壊するのが戦争。何百万という戦争犠牲者の死に報いるには、もう二度と戦争はしない、ということに尽きるとつくづく思う。

 映画を見る前に学生会館(寒梅館)の1階にあるレストラン「アマーク・ド・パラディ」で食事。ここはいわゆる学食だが、新設なったデザイナーズ学食だけあってなかなか洒落た造り、フロアには学生以外の一般客がかなりいた。隣の席では、70歳くらいの婦人客が一人でワインを片手にゆうゆうとディナー中。学食だけあって値段はリーズナブル。時間があったら7階のセカンドハウスでもよかったのだが。6時半ごろ男性二人が現れて、ギターとフルートのデュオ演奏を始めた。聞きたかったが時間切れ。京都にはジャズのライブハウスがいくつもあるが、こんな風なミニライブまでいれたら相当数あるのだろう。ライブはまさに一期一会。

 写真は南区にある西寺跡。平安京には羅生門がある朱雀大路の左右に、東寺と西寺があった。東寺は空海が出て栄えたが、西寺は度重なる火災で焼滅、再建がならなかった。いま西寺跡は公園になっていて、緑の基壇の上に礎石が残るばかり。平安京はその上に町があり、1200年もの間人々が暮し続けているので、平安京の跡といえば、石碑や標柱があるばかりで平城京のような広い空間がない。しかしここ西寺跡は公園として残されたため、京都市内の遺跡としては珍しく広々とした空間がある。基壇の上の大きな木が緑陰を落とし、礎石は子どもたちのいいベンチになっていた。草むらの中に残る礎石を見ていると、1200年前の京がどんなだったか想像されて楽しい。再建ならずとも、このまま礎石と空間が残れば十分と思う。
 今朝は午前4時に起きて、サッカーの日本対ブラジル戦を見た。先取点をとったのは日本だったが、やはりというか予想通り4−1で敗戦。とにかく日本は速攻、素早いシュートで攻めるしかないのになあ。
『戦争と難民―緒方貞子の回想』(集英社)を読む。1991年から2000年まで国連難民高等弁務官をつとめた緒方貞子の回想記。この人が「公」だとすれば、「私」として難民問題に取り組む人に犬養道子がいる。カトリック(普遍)精神に支えられた、見事なコスモポリタン。

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 今日は21日、弘法大師の月命日で、東寺の弘法さんの日。25日の天神さんへはたまに出かけるが、弘法さんはずいぶんご無沙汰。四条大宮から市バス207号に乗り、10分ほどで東寺前に到着。バスは元気な老人で満員。その殆んどが東寺前で下車。天神さんのときにも書いたが、乗客の9割が敬老パス持参。まあ、老人が元気なのは幸せなこと。いつも思うのだが、京都の縁日や市では、どこから湧いてくるのかと不思議なほどぞろぞろと人が集まってくる。今日もしかり。九条通りに面した南大門を入ると、境内にはたくさんの露店が建ち並び、買い物客、参詣客でごった返している。骨董品や古着を出している店の前には外国人ツーリストの姿が目立つ。この日は金堂(国宝)が開放されていて、薬師三尊像を拝することができる。薬師如来の頭部から発見された願文から、この像は1603年に義演大僧正が豊臣秀頼の武運長久を願って入魂したものということが分っている。この金堂は桃山時代のもので、堂々たる大建築。
 骨董にはあまりめぼしいものなし。暑くなってきたので、大師堂にお参りして外へ出る。ついでに近くの六孫王神社や羅生門跡、西寺跡などにも寄って帰宅。
 石牟礼道子『不知火―石牟礼道子のコスモロジー』(藤原書店)が届いていたので開いて読む。熊本の真宗寺へ、石牟礼さんの話を聞きに行ったのはいつのことだったか。渡辺京二さんも同席して、含蓄のある話を聞いたはずなのに、もうしかとは覚えていない。石牟礼さんの印象は「まるで巫女のような人」だった。渡辺京二さんの名著『逝きし世の面影』が平凡社ライブラリーに入って、また新しく出た。日本の近代について考察を続けている評論家らしい本。
 夏至の今日、京都は実に暑かった。月曜日、上賀茂神社で蛍を見たが、和泉式部や清少納言を引きながら、紫式部のことを書くのを忘れていた。『源氏物語』には「蛍」という章があり、なによりも主人公が蛍そのもの、だって、「光源氏」なんだもの。
 写真は東寺の弘法さん。大きな建物は薬師三尊がおられる金堂。

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 昨日の夜、長崎から出てきた友人と仏光寺烏丸近くの京料理店「桜田」で食事をした。ハモを食べたいという友人のリクエストでこの店を選んだのだが、合格だった。祇園のFさんが推薦するだけあって、見てよし、食べてよし、ゆっくりくつろげるのもご馳走のうちで、満足した。ここの主人は茶会席で有名な招福楼にいたというだけあって、季節感あふれる料理が選びぬかれた器とよく調和している。招福楼は滋賀県八日市にある日本料理店で、友人の話では「以前は『婦人画報』のような婦人雑誌に毎月のように出ていたよ」とのこと。「一度行ったことがあるけど、どうしてこんな辺鄙なところに、と思ったわ」(八日市のみなさん、ごめんなさい)。庭がなかなかよかったそうだ。
 カウンター席でいただいたのだが、ここはよく行くHなどとちがって、カウンターの向うに包丁を持った料理人はいない。Hだと、主人が目の前で刺身をひいたり、松茸を焼いたりするのを見ることができるのだが、ここはその楽しみはない。だが、その分、自分たちのおしゃべりに集中できるというもの。ハモが出て、子鮎が出て、白瓜のみぞれあえ、なすの白味噌あんかけ、それから、いろいろ出ました…。客の殆んどが女性というのには驚いた。昼も女性客でいっぱいなのだそうだ。
 食事のあと、四条通りからタクシーに乗った。何気なく、「どこかに蛍はいないかしらねえ」と言うと、運転手が「上賀茂神社にいてます」。昨夜、祇園から舞妓や芸妓を連れた客を乗せていったばかりという。何と言う幸運。急遽、行き先を上賀茂神社へ変更する。期待したとおり、上賀茂神社の境内を流れる「ならの小川」はまさに光の乱舞。高く低く、蛍の光が点滅しながら飛びかうさまは、なんとも幻想的で夢のようであった。「物思えば沢の蛍もわが身より あくがれいづる魂かとぞ見る、という和泉式部の気持がわかるねえ」と友人。「伊勢物語」にも、「ゆく蛍雲の上までいぬべくは 秋風ふくと雁につげこせ」というのがあったねと私。
「夏はよる。月のころはさらなり。やみもなほ。ほたるの多く飛びちがひたる。また、ただひとつふたつなど、ほのかにうちひかりて行くもをかし」と『枕草子』で、清少納言も言っている。平安時代も蛍は身近なものだったのだろう。
蛍の火が水面に映えて、暗い川面がほーっ、ほーっと束の間明るく輝く。いつまで見ていても飽きない。たっぷり1時間、闇の中にまたたく火を見ていた。
 写真は「桜田」の料理の一つ。ほおずきの中身はハモの子を山椒で和えたもの。きぬかづき、鯵寿司、鰻の八幡巻、万願寺ししとう、枝豆などが乗っていて、笹で編んだ丸い輪は、夏越の祓の茅の輪を模ったもの。京都では6月30日、神社の鳥居に大きな茅の輪が掲げられて、参拝者はその輪をくぐって祓いをする。
 上賀茂神社では先週末、「蛍鑑賞会」があったそうだ。蛍より人間の方が多かったそうでっせ、とはタクシーの運転手の話。昨日の夜は人も少なく、静かで夢のような時間であった。

 

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 13日にも書いたが、今日は太宰治を偲ぶ「桜桃忌」。命日は13日だが、遺体が発見されたこの日を太宰を偲ぶ日とした。6月の第3日曜日は父の日。また、さくらんぼの日でもあるそうな。昨日の18日は、1877年にアメリカの動物学者エドワード・モースが来日した日で、そのとき彼が発見した大森貝塚にちなんで、日本考古学スタートの日とされている。モースには『日本その日その日』(岩波文庫)という興味深い滞日回想記がある。明治初期の日本の様子が窺える古典的名著。シリーズ『佐原真の仕事』にもモース(佐原真はモールスと記)はたびたび登場する。
 昨夜は遅くまでTVでサッカーの試合を観戦した。決定打が出なくて試合は0−0で引き分け。パソコンをしながらのながら観戦ではあったが、なんともすっきりしない悔しい試合だった。同じ引き分けでも試合運びがラグビーとはずいぶん違うなあ。ラグビーといえば、元日本代表監督の宿沢広朗さんが亡くなった。享年55歳。山歩きの途中、心筋梗塞に襲われたとのこと。早稲田大学では名スクラムハーフとして活躍、1970、71年と日本選手権を連覇した。早大は伝統的にSHに優れた選手が多い。堀越もしかり。小粒ながらだれよりもグラウンドを駆け巡り、ボールのあるところには必ずその姿がある。銀行マンとしても緻密で、優れた仕事をされたという。文武両道の見本のようなラガーマンだった。慎んで冥福を祈りたい。
 DVDで映画を観る。昨年度劇場公開されたもので、『大停電の夜に』(源孝志監督)と『メゾン・ド・ヒミコ』(犬童一心監督)。『メゾン・ド・ヒミコ』はゲイの老人ホームが舞台のドラマで、死期が迫る老ゲイ(田中泯)の世話をするオダギリ・ジョーに、『戦場のクリスマス』の坂本龍一を思い出した。あの映画の坂本龍一はなんとも美しかった。
 写真はサクランボ。毎年この時期、山形の知人から送られてくる。昨日、届いたばかりのサクランボを桜模様の染付けに盛った。この皿は長崎の友人の作品で、私のお気に入り。

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 自著『底抜けビンボー暮らし』(筑摩書房)で、年収200万円の生活を明るく公開した、ノンフィクション作家の松下竜一さんが亡くなって今日で丸2年になる。2003年の6月、福岡での講演中に脳出血のため倒れ、再びペンを持つこともないままの死であった。松下さんのデビュー作は短歌とエッセイで綴られた『豆腐屋の四季』で、緒形拳が松下青年を演じてTVドラマにもなった。貧しくとも愛する者たちが肩寄せ合ってひたむきに生きるさまが、高度成長期に向う日本人に郷愁にも似た共感を抱かせたのだろう。つつましく、けなげに生きる青春像。その松下竜一さんは故郷の海や自然を守る為、火力発電所の建設反対運動にかかわり、行動し発言する市民となっていく。原子力発電に反対しているから、余分な電気は使わぬといい、どんなに暑苦しくてもクーラーは買わない。使いたくても最低のアンペアで暮しているので、設置できないのだ。ユーモアとペーソス、過剰なほどの人間愛。あくまで「個」として発言し、「個」として行動した。妻のそばを半日だって離れることができないゆえ、泊りがけで出かけることは滅多にない。講演の依頼があっても、それが市民運動の会だと謝礼を受けとらない。どころか持ち出しの方が多い。持病を抱え、年中入退院を繰り返し、病とビンボーは松下竜一の専売特許のようなものだった。しかし実に雄雄しい。人間の矜持を強く感じさせる人であった。
 全国に熱心な読者がいて、彼を支持し続けた編集者がいた。河出書房新社から全30巻の作品集が出ているが、生前にこれだけの全集を出してもらえるとは、幸福な作家といえるのではないだろうか。私が好きなのは『豆腐屋の四季』『砦に拠る』『いのちきしてます』など。この「いのちきしてます」は、月刊「草の根通信」に連載したエッセイの第一集。つつましくまた大胆に生きる一家の暮らしぶりが伝わる本。
 正直言うと、松下竜一の仕事の中には、私などついていけないものもある。こちらの勉強不足によるのかもしれないが、共感するまでには・・というものもある。しかし生涯を一市民、弱者として生きた作家、作家であることを特権としなかったということで私は尊敬している。 
 松下竜一の師である上野英信は死後、妻の晴子さんに逆襲されたが、(上野晴子『キジバトの記』)松下竜一にはその怖れはないだろう。
 昨日、四条大橋を渡るとき鴨川の床を見やったら、どこの川床も客でいっぱいだった。来週の月曜日、京料理Sを予約、ハモ尽くしを注文した。

 写真は『松下竜一その仕事』全集刊行記念誌と処女作『豆腐屋の四季』(1969年 講談社)。

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 宇治の源氏物語ミュージアムへ出かけたついでに、三室戸寺へ寄ってきた。三室戸寺は西国三十三観音霊場の一つで、参詣者の中には巡礼姿の人も多い。四季を通じて花が咲く、花の寺としても有名だが、いまはアジサイが満開。広い山内一面にいろんな種類のアジサイが咲いている。アジサイといえばシーボルトがこの花に Hydrangea otaksa(ハイドランジャ・オタクサ)と名付けたのは有名な話。シーボルトが長崎にいたころ妻としていた楠本滝の愛称「おたきさん」から名付けたもの。二人の間に生まれた「イネ」は男装して医学を学び、わが国初の女医となった。
 長崎はおたきさんとシーボルトゆかりの町だからというわけでもないが、町にアジサイの花が多く、たしか市の花にもなっていたと思う。アジサイは長崎の花だとばかり思っていたので、関西にもアジサイの名所が多いのに驚いた。京都ではこの三室戸寺、伏見の藤森神社、大原の三千院などがよく知られている。
 本堂の前庭の蓮につぼみがたくさんついていた。来月には開花するのではないだろうか。そのころこの寺では蓮酒がふるまわれる。蓮の葉に酒を注いで、茎の下から吸うのだ。ロータスは長命のシンボルだから、不老長寿の味がするのかもしれない。
 帰宅して堀切直人『本との出会い、人との遭遇』(右文書院)を読む。種村季弘と花田清輝に影響を受けたという編集者。文章の感じから70前後の人かと思っていたら、昭和23年(1948)生まれの団塊世代であった。1960年代を第二の大空襲時代、といい、それまでの生活環境が激変したことをさかんに嘆いている。自分にとって1970年代は喪失の時代だった、と。
 社会的大空襲といえば、バブルに踊った1990年代も同様ではないか。バブルがはじけて少しはまともになるかと思っていたが、今度は格差社会の到来だそうだ。少子化を懸念しながら、子どもを育てる環境は悪くなる一方である。経済効率と育児は相反するものだが、子どもがいなくなると経済も成り立たなくなる。安心して子どもが産める社会、安心して老いることができる社会であってほしいと思う。
 吉川弘文館の『歴史の花かご』に写真家の大八木威男が、「高松塚古墳撮影の思い出」という文を書いている。1972年3月22日、明日香村で発見された高松塚古墳に入り、内部の撮影をしたときのことが詳しく記されている。発見から34年後の現在、この絵が危機的状況にあることを思うと、発掘調査とは何ぞや、と疑いたくなるのは私だけだろうか?
 写真は三室戸寺のアジサイ。

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 この前の日曜日、Fさんと信楽へ出かけたが、他に連れがあった。Fさんが連れてきた18歳になる二人の若い女性で、日頃ティーンエイジャーと話す機会のない私にはなかなか楽しい一日だった。近江平野は麦秋の只中、こげ茶色の麦畑と、緑の早苗が列をなす水田がモザイク模様に広がっていた。あれは何麦なのだろう。小麦、大麦、それともビール麦?
 安土へ廻る途中、道の駅で草餅を買い、麦畑を見ながら一休みしたときのこと。「誰かと誰かが麦畑」と私が口ずさむと、娘の一人が「知ってる、TVでよく聞いた」と言い、「誰かさんと誰かさんが麦畑」と歌う。草餅を手にしたFさんまでが、「おはぎがお嫁に行くときは」と歌いだした。メロディはリパブリック賛歌。「きな粉とあんこを伴にして まあるいお盆に乗せられて 着いたところは下関」。私が「初めて聞いた」というと、小さいころ母に教わったとのこと。「着いたところは下関、だなんて、どこへお嫁に行くのかしら。海の向うかな」と私。Fさんのお母さんが子どものころといえば戦時中のはず。朝鮮半島は日本の植民地だったから、海の向うにお嫁入りする人がたくさんいたのかもしれない。二人がそんなことを話していると、18歳の娘が「うちらは、”権兵衛さんの赤ちゃんが風邪ひいた”と歌いますえ」。東京出身のもう一人の娘は、「東京では、”まあるい緑の山手線”と歌います」とのこと。私は「おたまじゃくしは蛙の子、と歌ったなあ」。19世紀のアメリカで生まれた曲が、日本に渡ってきて、さまざまに歌われているわけだ。アメリカでも南北戦争のとき、北軍の兵士たちに歌われ、のちリパブリック賛歌となった。
 亡くなった作家の阪田寛夫はこの曲に「ともだち賛歌」という歌詞を書いている。
「ひとりひとりが腕組めば たちまち誰でも仲良しだ…」
まさに沖縄でいう「イチャリバチョーデー(一度会えば兄弟)」の心ではないか。
 今日は雨。いよいよ本格的な梅雨入りだろうか。今日は弘法大師の誕生日で、東山の智積院では生誕祭の青葉まつりが行われる。庭園や長谷川等伯の壁画などが無料公開されるので、見に行きたいのだが、この雨ではと思案中。
 写真は平安神宮の庭園。スイレンの花。

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 1948年6月13日、太宰治は山崎富栄を道連れに玉川上水に入水。太宰の遺体が発見されたのは19日の早朝で、翌年から6月19日に太宰を偲ぶ「桜桃忌」が行われている。太宰治の作品は若者にはぐっとくるものがあって、誰もが一度は太宰病にかかるものらしい。かつて私にもそういう時期があった。太宰の魅力は読者に「自分にしか太宰の苦悩は理解できない」と思わせるところだろう。39歳で死んだ太宰の年齢をはるかに越えた今、彼の作品を読み直すと、甘いなあ、ナルシストだなあ、自殺未遂や心中未遂を何度も繰り返して、5回目に成功したというけど、死ぬなら独りで死ねばいいのに、などと冷たい感想もでる。しかし、アフォリズムと引用文に満ちた饒舌体の文章を読んでいると、やはりうまいなあ、と感心させられるのだ。「選ばれてあることの恍惚と不安と 二つわれにあり(ヴェルレイヌ)」と言い切る鼻持ちならぬところも魅力の一部なのだろう。若者に受けるのは、太宰が自分の弱さも罪も何もかもさらけ出し、本心はともかく、権威にはむかい、傷つく己の姿をありのまま書いたからだろう。すべてポーズだったとしても、体当たりの演技であることには変わりない。太宰の作品で好きなのは、「ヴィヨンの妻」「津軽」「富獄百景」などだろうか。
 昨日は八橋忌だった。筝曲「六段」の作曲者として有名な八橋検校(1614〜1685)をしのぶ法要が、毎年6月12日に左京区鹿ケ谷の法然院で営まれている。検校の名前にゆかりの京銘菓八ツ橋の店が主催しているもので、毎年法要の後、琴の演奏や舞妓の踊りが奉納される。今年はちかごろ231年ぶりに名跡を復活させた四代目坂田藤十郎(中村扇雀)が「島の千歳」を舞うというので評判だった。きっと例年より参加者が多かったのではないか。八橋検校の名は諌早にいたころよく聞いた。諌早の本明川沿いにある慶巖寺が「六段発祥の地」で、八橋検校はこの寺で修行したのち、六段を作曲したのだそうだ。
 今日は久し振りに予定がない日。一歩も外に出ることなく、積んだままの本を読破。大江健三郎の『さようなら、私の本よ!』(講談社)をようやく読んだ。前作『宙返り』あたりから、もういいかと思ったが、この本を読んで撤回。これまでになく分りやすく、露悪的なところが影をひそめた文章に、共感と不安を覚える。これも一種の老年文学なのだろうか。行動する老人。現代社会に異議申し立てをする老人。
励まされるのはいつも遅れてきた青年たちなのだ。
 夜、NHK教育TVで「ペシャワール会」の中村哲医師のドキュメントを見る。「知る楽しみ」シリーズの2回目。しばらく月曜日の夜が待ち遠しくなるだろう。その後、ワールドカップ、日本―オーストラリア戦を観る。凄まじいほどのサッカー人気に比べると我が愛するラグビーは低調。秩父宮ラグビー場で11日行われた対イタリア戦は52―6で惨敗。しかもノートライだった。スタンドの観客が一番盛り上がったのは、雨の中で平原綾香が「ジュピター」を歌ったとき、というから、なんとも悲しい。
 写真は安土町の沙沙貴神社で撮影したもの。花の名前は失念したが、葉の上にアマガエルが二匹乗っている。ここの境内に乃木将軍を祀った社があった。なんでも乃木将軍は佐々木氏と同じく、宇多源氏の末裔なのだそうだ。

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 昨日の日曜日、Fさんと信楽のMIHO美術館へ、ニューヨーク・バーク・コレクション展を観にいく。最終日とあって、来館者が多い。駐車場はほぼ満車で、貸切バスが何台も停まっている。混雑してるのではと懸念したが、中に入ってみると、思ったほどではない。館内が広いので、少々入館者がいても、込み合うことはないのだろう。ニューヨークの富豪による日本美術のコレクションで、初公開のものも多いというので楽しみ。
 時代順に展示してあって、最初は縄文時代の火焔土器。弥生土器、古墳時代の埴輪と続き、平安時代の木造の神像や仏像など。一点一点が見入らずにはいられないほどのものばかりで、なかなか先に進むことができない。快慶作の地蔵像もよかったが、麦畑を描いた絵のモダンなこと、石山切、宗達の絵に光琳が書を添えたものなど、書跡や絵画も逸品揃いであった。
 展示替えのため、土佐光古の源氏物語図屏風(胡蝶図)が観られなかったが、壁に掲示された屏風の拡大図をつぶさに見てきた。一つ一つが大切にされ、コレクターにいかに愛されているかがよく伝わる展覧会であった。これはコレクションのほんの一部なのだろうが、量より質を思わせるものばかり。満足して美術館を後にした。
 美術館の近くで近江牛のランチをとり、金勝山(こんぜやま)へ。金勝寺(こんしょうじ・天台宗)は聖武天皇の時、良弁によって創建された古刹。いまは仁王門と本堂、二月堂などがひっそりと残るだけだが、鮮やかな緑に包まれた静謐な聖域。聞こえるのは鳥の声のみ。そこからしばらく山道を登っていくと、突然視界が開け、眼下に琵琶湖、湖南、湖東一帯が広がる。標高500メートルほどの所だろうか。眼下の眺望は三上山(近江富士)を真ん中にして、まさに大パノラマ。
 山を降りて安土の沙沙貴神社、浄厳院、近江八幡の日牟礼八幡宮などを巡って京都へ戻る。Fさんが日牟礼八幡宮の前にある洋菓子屋でバウムクーヘンを買うというので付き合ったが、あいにく売り切れであった。人気の品らしい。
 近江八幡は豊臣秀次の領地で、秀次のときこの城下町は栄えた。しかし秀吉は淀どのに男児が生まれると、その子に跡を継がせるため、邪魔になった甥の秀次を抹殺した。のみならず、秀次の妻妾子どもまで残らず三条河原で惨殺した。江戸時代、角倉了以は高瀬川を開くとき、三条河原からこれらの遺骨を掘り出して塚を築いている。そして秀次らの菩提を弔うために建立したのが、いまも三条小橋の南側にある瑞泉寺である。境内は広くはないが、よく手入れが行き届いていて、数百年前の悲劇の主従たちの墓にはいつも香が絶えない。歓楽街の一角にある歴史のスポット。
 写真は沙沙貴神社の境内に咲いていたカシワバアジサイ。葉が柏に似ていることから名付けられたもの。この神社の境内はまるで植物園のように、いろんな花が咲いていた。

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 埼玉に住む妹のつれあいが亡くなったのは13年前の6月7日。もともと心臓が悪かったのだが、まだ40歳を越えたばかりの若さだった。知らせを聞いて翌日の飛行機に乗ったのだが、6月8日の午後、東京についてみると、町のそこかしこに警官が立って、ものものしい警備ぶり。何事かと思っら、翌日が皇太子の結婚式であった。あれから13年になる。久し振りに妹からメールがあって、その時のことを思い出した。当時まだ小学生だった二人の息子は揃ってもう立派な成人。
 午後から久し振りに河原町の画材店へ出かける。JR二条駅の前から御池通りを歩いて行く。「二条城城下町通り」という旗が立った御池通りに、小さいけれど個性的な新しい店がいくつも誕生している。二条駅周辺に次々と新しいマンションが建ち、シネコンがオープン、秋には立命館大学も完成するとあって、集客が望めるからだろう。久し振りに町を歩くといろんな発見があって楽しい。麩屋町の俵屋と柊屋はどちらも作事中であった。河原町三条の古本屋を覗いたあと、ビルの3階にある画材店へ。絵の具など購入して地下鉄で帰宅。

 鶴見俊輔『日米交換船』(新潮社)を読む。これまで断片的に語られていた交換船のことを、加藤典洋と黒川創相手に語ったもの。上野千鶴子たちとの本といい、鶴見俊輔さんは戦後を語り尽くそうとしているようだ。
昨日と今日で読んだ本。
瀬田勝也『木の語る中世』(朝日選書)
鳥居民『昭和二十年』(草思社)
佐原真『佐原真の仕事(6)』(岩波書店)
杉本秀太郎『文学演技』(筑摩書房)

写真は今日の夕暮れ。愛宕山の上に広がる夕焼け。明日は祇園のFさんと信楽のMIHO美術館へ「ニューヨーク・バーク・コレクション展」を観に行く予定。明日が最終日。人が多くなければいいのだけど。

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 昨日、同志社大学のハーディホールで衝撃的な映画を見た。同大出身の池谷薫監督によるドキュメンタリー映画『蟻の兵隊』で、この作品は香港国際映画祭で「人道に関する優秀映画賞」を受賞したばかり。主人公は80歳になる元日本兵の奥村和一さん。彼は1944年、19歳のとき初年兵として中国山西省に送られ、終戦をその地で迎えた。当時、中国の山西省には陸軍の将兵が6万人近くいたが、そのうちの約2600人が、武装解除することなく中国国民党系の軍と合流。戦後も中国の内戦を戦い、550人が戦死、700人以上が共産軍の捕虜となった。奥村和一さんも捕虜となった一人で、重労働を強いられた後、日本に帰還することができたのは終戦から9年後の昭和29年のことだった。山西省に残留させられ、戦後も中国で戦い、捕虜となって苦労した帰還兵たちに、国は冷たかった。国は「彼らは自らの意志で残り、勝手に戦った」とみなして、元残留兵に対し一切の戦後補償を拒否。
 しかし元残留兵たちは、自分たちが残されたのは、戦犯逃れを目論む日本軍司令官と中国国民党との間に密約があったからだと主張。この映画は、密約の証拠を求めて奥村和一さんが国内外の関係者を訪ねて歩く、その執念を描いたドラマといっていいだろう。
 初年兵として赴いた中国の地を訪れた奥村さんが、かつて上官の命令で中国人を処刑した、まさにその場所に立って自分の行為を告白するシーンは正視するのが辛いほどだった。奥村さんは戦争の犠牲者であると同時に加害者でもあるわけで、戦争は実に人間を複雑にする。
 それにしても、終戦後も中国に残って4年間も戦い続けていた日本の将兵たちがいたなんて。初めて知る事実に驚くばかりであった。彼らは決して自ら志願して残留したのではない。80歳を超えた彼らは、「自分たちが何故残留させられたのか?」真実が明らかにされないうちは、死ぬにも死ねないという。司令官の密約で2600人もの将兵が戦地に棄てられたのだ。
客観的には証言や関連書類は揃っている。しかし確かな密約書はみつからない。もう60年という歳月が流れているのだ。事実を知っていても、それは墓場に持っていくと決心して何も言わない人もいるのだ。戦争の体験はそれほど重いものなのだろう。
 タイトルの「蟻の兵隊」は、上官の命令に黙って従い、蟻のようにただ黙々と戦った兵士たちを表している。戦後60年の昨年、みんながもう戦後は終った! と浮かれていたころ、こんな映画を撮っていた人がいたとは。上映後、監督のトークがあったが、シャイでソフトでタフ、といった印象を受けた。8月5日から大阪の第七芸術劇場で上映されるとのこと。多くの人に観てもらいたいものだ。
 池谷薫監督は芦屋に住む友人の義弟にあたる。前作『延安の娘』も数々の賞を受賞して大きな評価を得たが、映画製作のための資金繰りは毎回大変だという。町の映画館にこういう映画がかかるといいのだが。
 写真は『蟻の兵隊』のちらし。

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 今日、6月8日は『方丈記』の作者、鴨長明(1155〜1216)の命日。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし」という『方丈記』の書き出しは、『平家物語』の冒頭の句、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す」と並んで、誰もが暗記したことがある古典の名文だろう。長明は下鴨神社の神官の家に生まれた。一応従五位下の位を持つ身分であったが、19歳のとき庇護者である父が亡くなると、世間との交わりを断って引き篭ってしまう。父の後を継いで神官になることもできず、苦労したようだが、管弦をよくし、歌の才能が認められて、後鳥羽上皇の北面に仕えるまでになった。1201年に和歌所が設けられると、藤原定家らと共に寄人に選ばれている。他のメンバーは殆んどが代々歌の家の出で、いわば和歌のエリートたち、身分も長明より高かったから、長明の苦労がしのばれるというもの。そんな折、下鴨神社の摂社・河合神社の禰宜の座が空いたので後鳥羽上皇が長明を任命しようとしたところ、神社側が強硬に反対。困った後鳥羽は別の神社の禰宜の座を長明のために用意したが、今度は長明がそれを固辞し、仕事を辞め、やがて出家隠遁してしまう。
 偏屈、狷介といわれればそれまでだが、父親譲りの神社の神官になるという長年の夢破れて、もはやこれまでという気分になったのか。「世に従えば、身苦し。従わねば、狂ぜるに似たり。いづれの所を占めて、いかなる業をしてか、しばしも、この身を宿し、たまゆらも、心休むべき」という長明の嘆きは、800年を経た後の読者の胸に迫るものがある。
 京都の日野山中に長明が方丈の庵を建てて棲んだという場所がある。国宝阿弥陀如来像で有名な法界寺近くの山手で、深い木立の中にひっそりと石碑が建っている。いまは木が繁って眺望は悪いが、かつてはここから京の町が見えたのだろう。里に近く、近所の子どもも遊びに来たというから、隠遁はしても世俗に未練があった長明には手ごろな場所ではなかったか。 
 葵祭の日、下鴨神社の中にある河合神社に寄ってみた。ここの境内にいま、長明の方丈庵が復元されている。方丈といえば約3メートル四方、今で言う四畳半一間。復元された方丈庵は覆屋まであるなかなか立派なもので、「仮の庵もややふるさとになりて、軒に朽ち葉深く、土居に苔むせたり」という風情は望むべくはない。しかしあんなに神官になりたがった神社に、800年後、祭られているわけで、長明の心境やいかに、と思われたことだ。
 写真は昨日の午後7時ごろの日没風景。愛宕山の左肩に日が沈むところ。愛宕山といえば、明智光秀が本能寺を攻める前に必勝祈願をしたところ。夏至にはもう少し日没地点が右方へ上る。毎日、日没地点が移動するのを見ていると、季節の移り変わりを実感する。

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 折角九州は佐賀へ行きながら、唐津の宿と佐賀のお寺を往復しただけで京都へ戻って来た。すぐ近くの名護屋や伊万里、ちょっと足を伸ばせばすぐの長崎や諌早へも寄る事ができなかった。週明けに予定が入っているので、のんびりできなかったからだ。土曜日の朝、車で佐賀のお寺へ向っていると、携帯電話が鳴った。京都のGさんからだ。相談したいことがあるが、午後から時間がないかとの問い合わせ。「いま、サガにいる」と言うと、「サガなら近いし、自分がそちらに行く」と言うので「京都の嵯峨ではなくて、九州の佐賀だ」と言うと驚いていた。佐賀と福岡の県境に北山ダムという大きなダムがあるが、今度それよりも大規模なダムが出来るというので工事が進んでいた。滅多に車が通らない山の中に立派な道路が縦横に走り、湖底に沈む集落が引越してきたのだろう、新築の大邸宅が建ち並んで、神社もお寺もお墓もピカピカの今出来。いまどきダムなんて、と思いながら人気の全くない新しい道路を走るのは複雑かつ奇妙な気分だった。
 唐津といえば唐津焼。長年肥前のやきものに親しんできたので、京都に移り住んだ当初は、清水焼の華やかさになかなか馴染むことができなかった。11年も暮せば、清水焼にも慣れたが、色絵は鍋島、土ものは唐津、とにかく磁器は有田がいちばんだといまでも思っている。しかしこの度はやきもの行脚ができず、心残りだった。やはり旅は独りで、にかぎるようだ。
 雲仙普賢岳の噴火に伴う大火砕流で、43名もの犠牲者を出した惨事から15年が経つ。1991年6月3日のことだった。犠牲者の中には火山研究家の外国人夫妻もいて、事故のあと、海外から報道関係者が何人もやってきた。フランス人記者の通訳を頼まれた友人の娘さんからそのときの話を聴いたことがある。アメリカ留学の体験がある彼女は気難しいフランス人記者に随分苦労したらしく、フランス人はフランクではないとこぼしたものだ。火山の下でたくさんのドラマがあったのだろうが・・。原爆、大水害、火山の噴火と、思えばわが故郷長崎はまるで、火責め、水責め・・。
 写真はマンションの庭に咲くホタルブクロ。そろそろ祇園白川や哲学の道の疎水にホタルが出る頃だ。

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 6月2日、空路九州へ。1994年に亡くなった義父の13回忌に出席するため。唐津に宿をとり、土曜日の朝から佐賀の古湯近くにある菩提寺へ向う。浜玉町から七山、北山経由で車を走らせ、40分ほどで寺へ到着。久し振りに一族再会というわけで話が弾む。最近は冠婚葬祭でもなければ身内が顔をあわせることもない。現住職は中学校の校長職とかけもちなので、寺の仕事は土・日に集中する。今年の2月、研究会で京都へ行ったとき夫人に頼まれて一澤帆布で買い物をした、との住職の話に京都にもブランドがあるのかと感心したが、その一澤帆布は相続問題がこじれて目下閉店中。(実質一澤帆布を運営してきた弟が信三郎帆布という新ブランド名で再出発した)
 唐津の虹の松原の東端を流れる玉島川は万葉集にも歌われた清流である。神功皇后がここで鮎を釣って戦の成否を占ったという伝説から、古くは春には毎年女子が若鮎を釣るのを習慣とし、近くの玉島神社には神功皇后が祀られている。太宰帥の大伴旅人はこの地を訪ねて伝説を知り、「松浦なる 玉島川に 鮎釣ると 立たせる子らが 家路知らずも」(万葉集巻5―856)と歌った。唐津は韓津でもある。海の向うは韓の国なのだ。
 ホテルに戻るとロビーは着飾った人たちでいっぱい。結婚式の披露宴客なり。向う鉢巻にハッピ姿の男性たちが大勢いるので、「唐津くんち」の練習かと尋ねると、披露宴の出し物だとのこと。曳山の町内に祝い事があると、みんなでくんちのお囃子を出すのだそうだ。町内生まれでないと曳山を曳くことはできないと聞いて、少子化が進んだら、今後条件を満たす若者はいなくなるのではないかと思ったことだ。京都の祇園祭はとうに外部に山鉾の曳き手や応援団を募っている。
 唐津ではイカ刺し、伊万里牛を堪能。ホテルの眼の前の海に帽子を伏せたような島がある。この島をみるたびに私は『星の王子さま』の冒頭に出てくる、ゾウを飲み込んだウワバミの絵を思い出す。この島は高島という名で、ここにある宝当神社がクジにご利益があるというので詣でる人が絶えないそうだ。
 日曜日の午後の飛行機で京都に戻る。
写真は西陣の町家の屋根に鎮座する鐘馗さん。軒ではなく屋根の上で四方に睨みをきかしているのは珍しい。

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