2006年10月

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 大橋弘『1972青春軍艦島』を読む。東京生れの写真家が27歳のころ閉山直前の端島炭鉱で働いた時に撮影したネガを30年ぶりに世に出したもの。写真家がまだ写真家の卵以前だったころの無心の記録である。軍艦島とは長崎港から約20キロほど沖合いに浮ぶ炭鉱の島で、明治初期に採炭が始まり、1974年に閉山した。周囲がわずか1.2キロしかないコンクリートで固めた人工の島に、一時は5000人を越す人が住み、世界一人口密度か高い島といわれた。狭い土地を有効利用するために、島には高層アパートが林立し、中には1916年に建てられたわが国最古の鉄筋コンクリート集合住宅もある。島全体が炭鉱会社に属し、ここにいる限り住居費・光熱費は無料同然だったから、長崎のどこよりも早くテレビ、冷蔵庫、ステレオなど家庭の電化が実現していた。軍艦島の名前の由来は、コンクリートの護岸に囲まれた島の形が軍艦に似ていることから。閉山から32年たったいまも、軍艦島に関する本が出版され続けているのには驚く。一時は廃墟ブームに乗って、探検に上陸する人もいたようだが、最近は「軍艦島を世界遺産に」という運動もあり、エネルギー革命の歴史的産業遺産としても見直されているようだ。
 軍艦島は被写体としても魅力的なのかアマ・プロ数多の写真集が出ている。古いものでは奈良原一高の『人間の土地』、雑賀雄二『軍艦島―棄てられた島の風景』、柿田清英『崩れゆく記憶 端島炭坑閉山18年目の記禄』、なかでも岩波書店から出ている『軍艦島 海上産業都市に住む』は、炭坑が生きていたころの島の暮らしの記録がふんだんに掲載されていて、興味深いものがある。軍艦島は岩礁をコンクリートで固めて作った人工の島だけに、閉山後は荒波にもまれ遠からず再び岩礁に戻るのではないかと思われたが、いまなお形をとどめて「軍艦島クルージング」などという新しい観光地となりつつある。林えいだいの『清算されない昭和』を読むと、島のもう一つの顔の記録もあって、複雑な思いもするのだが。
 『1972青春軍艦島』の作者は1946年東京生まれ。日給5千円という当時破格だった給料にひかれて、閉山前の軍艦島で半年間、働いた。この本はそのときの記録だが、写真のどれもがタイムカプセルから出てきたように生々しい。とくに島には火葬場や墓所がないので、中ノ島と呼ばれる小さな無人島へ死者の棺を運ぶ写真など胸うたれるものがある。軍艦島は作家の想像力に訴えるものがあるようで、かつては海底深く残る坑道を産業廃棄物の捨て場とするというテーマの小説『軍艦島に進路をとれ』が書かれたし、最近は内田康夫の浅見光彦シリーズ100作目の舞台が軍艦島だという。(この人の本は読んだことがないので、どんなものか不明)
 写真は閉山20年目の1994年に出た、岩波のいまはなき雑誌「よむ」の軍艦島特集号。「よむ」も筑摩の「頓知」も面白い雑誌だったが、残念なことに短命だった。

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 亀岡祭の宵山見物に行った際、JR亀岡駅の北側に広がるコスモス園を見た。入園料300円なり。でも壁があるわけではないので、どこからでも自由に眺められる。一時、休耕田を花畑にするのが流行ったが、ここはその拡大版なのだろうか。以前住んでいた諌早の白木峰にも巨大なコスモス園があった。これは山の中腹を一面花畑にしたもの。春は菜の花、秋はコスモスが咲いて、それは見事な花畑だった。白木峰からの眺望も最高で、向かいに雲仙岳がそびえ、眼下に諌早湾が広がる。海と山が一望できて、他では見られない風景だった。しかしいまは干拓工事のため湾の大部分が陸地となり、干潟の海が消えてしまったのは残念なこと。
 写真は亀岡のコスモス園。

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 10月24日(火)曇り。昼間に少し時間ができたので、JRで隣町の亀岡まで行ってきた。JR山陰線で20分ほどの旅。途中、蛇行した保津川を渡る時、眼下に川下りの船が見えた。久し振りに国分寺跡や出雲大神宮へ行きたいと思ったが、時間がないので、今回はパス。駅前からまっすぐ鉾町へ向う。鍬山神社の祭礼「亀岡祭」が前日から始まっているのだ。飛騨高山の祭をはじめ、全国各地にある山車や山鉾を出す祭りのルーツは京都の祇園祭だと思うが、京都周辺にある大津や亀岡の祭はミニ祇園祭といってもいいほどよく似ている。25日が山鉾巡行で、24日は宵山。明智光秀の居城でもあった亀岡(山)城跡(現在は大本教の本部)の中を通りぬけて行く。京都の祇園祭は巡行の1週間前に鉾建てが始まり、前夜祭である宵山が数日間続く。しかし亀岡では、本祭前日の午後に鉾建てが始っていて、ずいぶんのんびりしてるなあと思われた。通りには人影もなく、実に閑静な町並み。11基の山鉾のうち、半分ほどを見る。残りはまだ立ち上げの途中だった。
 帰りのJRの中で、10年前ほど前、初めて亀岡へ行った時のことを思い出した。亀岡の穴太寺は西国観音霊場の一つだが、初めて訪れて印象的だったのが、なで仏の涅槃像。本堂にはお薬師さんもおられたのだが、その近くに横たわっていたなで仏の釈迦涅槃像に目を奪われた。お釈迦様は派手な花柄の布団を着ておられて、傍らの堂守さん(近所の方らしい)が「布団をめくって、なでてください」と言われても、すぐには手が出なかった。布団の柄がなんともなまめかしく、いっそ何もなければいいのにと思ったものだ。お地蔵さんに毛糸の帽子や肩掛けを着せるのと同じ感覚なのだろうか。あれは寒いときだったが、夏には布団がタオルケットに変わるのかしらと思ったのを覚えている。不信心者はお参りしても、この程度のことしか考えない。反省。
 しかしそのあと訪ねた金剛寺はよかった。9歳で入門した円山応挙がその画才を見込んだ住職によって京都へ送りだされた寺で、応挙寺とも呼ばれている。あいにく本堂は改修工事中だったが、鐘楼が乗った山門が独特の美しさで、禅寺らしい閑けさが感じられた。穴太寺、金剛寺のあと、大飼川に沿って細い道を京都へ戻る途中、小さいけれど由緒ありげな神社に出会った。たたずまいがなんともゆかしい社で、よく見ると「小幡神社」とある。たしか古代学のU先生が宮司をつとめておられるはず、とわけもなく嬉しくなったことを思い出した・・。
 亀岡の文化資料館で「保津川開削400年記念連続講演会」があるようだ。角倉了以像を使った講演会のポスターを町のそこかしこで見かけた。角倉了以は高瀬川も作っている。木屋町二条の角倉邸跡はいま料理屋になっているが、「庭」を目的にしない限り入る機会はない。
 写真は亀岡祭・柳町の高砂山。ご神体は謡曲「高砂」の「尉」と「翁」で、中国で織られたという絨毯地の胴幕は蝶や蝙蝠などが描かれた幾何学文様の珍しいもの。

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 年中、観光客や修学旅行生の姿が絶えない新京極通りの中ほどに、誠心院というお寺がある。別名和泉式部寺。万寿4年(1027)、藤原道長が法成寺東北院内にあった小御堂を和泉式部に与えたものが寺の起こり。法成寺は道長の土御門第の南側にあった寺で、現在の鴨沂高校グランド辺にあたる。鴨川の氾濫を避けて、一条小川通の誓願寺そばに移転したが、秀吉の命で誓願寺とともに現在地へ移されたもの。東北院は和泉式部が仕えた上東門院彰子が建てたもので、彰子の没後絶えていたが、江戸時代に吉田神楽岡の真如堂近くに再建された。謡曲「東北」にちなむ「軒端の梅」が、東北院と誠心院のどちらにもある。賑やかな通りに面しているわりには参拝客の姿が少ないと思っていたら、最近、式部の供養塔といわれる大きな宝筐印塔の前が開放されて、記念撮影用のパネルまで出現した。看板には「和泉式部墓所」とある。この石塔には正和2年(1313)の銘があるから、和泉式部の没年から300年ほど後に建てられたもの。誓願寺の念仏道場に集まる比丘尼たちの中には、和泉式部の伝記を語り物として諸国を巡った尼たちがいて、彼らの発願によってこの塔が建てられたようだ。和泉式部伝説が全国各地に残るのは、こういう比丘尼たちが歩き伝えたものだろう。
 和泉式部は恋多き女という面ばかりが強調されるが、当時の女性―受領階級の女性たち―が置かれた立場を思うと、他に選びようがなかっただろうと思われる。しかしただ流されるだけの人ではなかったことは、彼女の日記や歌を読めばよくわかる。彼女の歌には静かな諦観というものがあって、いまなお新しく、少しも古いとは思われない。蛍を自分の体から「あくがれいづる魂」かと思った、などという歌を読むと、近代的自我という言葉を連想してしまう。千年の時空を超えて、響きあうものを感じるのだ。
 式部には小式部内侍という娘がいたが、1024年に病気で亡くなった。若い頃、「大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天橋立」と歌った人である。彼女は道長男の教通との間に子どもがいたが、のち、藤原公成と再婚、出産ののち亡くなった。母である和泉式部は娘が遺した子どもたちを見て、「とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさりけり子はまさるらん」と嘆きの歌を詠んだ。
 若いころは「物思へば沢の蛍・・・」や「くらきよりくらき道にぞ入りぬべし はるかに照らせ山の端の月」、「あらざらんこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな」などという歌に惹かれたものだが、最近は先の遺児となった孫を思う歌や、逆縁となった娘を思う「などて君むなしき空に消えにけん 淡雪だにもふればふる世に」などの歌に惹かれる。こちらも式部の歌がわかるだけの年を経たということだろうか。
 娘の小式部内侍の遺児たちは、道長にとっても可愛い孫にあたる。和泉式部と道長はともに幼い人たちを思って慰めあったこともあったのではないか。道長が式部のために東北院の中の小御堂を与えたのはそれから3年後のことで、その年の終わりに道長も彼岸の人となった。式部の没年は未詳だが、誠心院では毎年3月21日に式部忌が行われ、式部ゆかりの寺宝が公開されている。
 写真は新京極通りにある誠心院の和泉式部塔。前面のパネルはなくもがな。

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 10月22日(日)晴れ。正午ごろ時代祭の見物に出かける。いつもは三条大橋付近か御池通りの市役所前辺りで見るのだが、昨日は京都御所の近くで見物。日曜日の朝、8時半ごろ、ピーヒャラドンドンドンと聞きなれた鼓笛の音がするので外を見ると、維新勤王隊列の鼓笛隊が並んで御所へ向うところだった。時代祭行列の先頭を行く隊列である。維新に活躍した丹波の郷士(多くは京北の)たちによる官軍側の山国隊で、いまは朱雀学区の若者たちが演じている。この時代祭を初めて見たときは、歴史ゆかしい壮大な仮装行列だと思ったが、時代考証がよくなされていて、衣装や道具など参考になるので、平安貴族の直衣姿や牛車など丁寧に見ることにしている。絵巻物などを参考にしたのだろうが、履物などもそれぞれ異なっていて、なかなか面白い。最近は学生なのか、行列に茶髪の若者が増えてきた。着物を着る機会がないからか、帯を胸高にしめて、まるで天才バカボンのような徒歩兵もいる。それに比べると女性たちはさすがにプロ。花街の芸舞妓が扮した歴史上の女性たちは、実に美しかった。とくに小野小町がよく絵にあるような十二単ではなく、唐風の髪型に衣装をつけていたのが興味深かった。小町の時代はまだ唐風文化が主流だったのだろう。

 帰途、烏丸三条の大垣書店で本を数冊購入。

大橋弘『1972 青春 軍艦島』(新宿書房)
佐々木高明『山の神と日本人』(洋泉社)
石崎津義男『大塚久雄 人と学問』(みすず書房)
有川浩『図書館戦争』(メディアワークス)

 去年は夕方から鞍馬の火祭りに出かけたが、今年はパス。あの人出を思うと、足がすくむ。一昨年は長崎から来た友人たちと花背の美山荘で昼食をとり、車で鞍馬まで下った。友人たちを鞍馬で下して、私は岩倉辺りまで車を預けに行き、電車で鞍馬まで上ったのだった。鞍馬電鉄は満員すし詰め状態。だが、鞍馬の火祭りは本当に神と人間の祭りという雰囲気がある。一度、見たら忘れられない原初的な火祭りである。
 写真は時代祭りの牛車行列。手綱を引く男の子は朝が早かったのか、眠そうだった。

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 10月19日(木)晴れ。午後から宇治市の源氏物語ミュージアムへ連続講座「源氏物語の女性たち」を聴きに行く。今日の講師は加納重文氏で「朝顔の君と秋好中宮」について。源氏物語に登場する女性たちでは、紫の上、六条御息所、葵の上、藤壺、明石の君、玉蔓、浮舟などの名がすぐに思い浮かぶが、朝顔の名を上げる人は多くあるまい。朝顔は源氏の父親である桐壺帝の弟桃園式部卿宮の姫君で、斎院だった女性。源氏の求愛を拒み通して、ついに源氏の愛人にならなかった稀有の女性である。加納氏は『源氏物語』は紫の上と源氏の愛の物語で、二人がいろんな障害を乗り越えて幸せな夫婦生活を獲得した時点で話は完結したのだが、物語を楽しむ読者(主に女房仲間)の熱い要望で続きを書いたのだろう、とのこと。まこと『源氏物語』は打出の小槌。話の宝庫である。登場人物一人一人からも物語が生まれるし、登場する植物、色、衣服、建物、自然、季節の移ろい、しつらい、いやもうオールラウンド、物語の種の宝庫といっていいだろう。
 宇治市の源氏物語ミュージアムには年間10万人の入館者があるそうだ。各地の公共のテーマ館が苦戦している中で、これは立派な数字ではないだろうか。2008年はこのミュージアムの開館10周年、そして源氏物語が誕生してから1000年という記念の年。いろんなイベントが計画されているそうで、紫式部が生きていたら、なんと言うだろうか。「したり顔にいみじうはべりける清少納言なら、さぞ大喜びしたことでしょう」などと皮肉を言ったかも。千年前はいざ知らず、現在、『枕草子』を書いた才気溢れる清少納言が紫式部ほどもてはやされないのは惜しい。才気渙発、頭の回転が速く、機知に富んだ少納言はキャリアウーマンの嚆矢、彼女こそ現代女性にとってあらまほしき女性像なのに。京都の泉涌寺に清少納言の歌碑がある。少納言は晩年をこの地で過したといわれるが、彼女が敬愛し仕えた一条天皇の中宮定子が眠る鳥辺野陵は目前。少納言は、24歳で亡くなった主・定子を偲んで晩年を送ったのであろうか。
 写真は宇治橋のたもとにある紫式部の像。背後の一角に源氏物語ミュージアムがある。

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 10月16日(月)晴れ。諌早の森山からFさんが上洛。西宮に住む姉上宅に滞在して京都巡りをするとのこと。毎年上洛して京都の寺社はほとんど廻ったという。ただ竜安寺にはまだ行ったことがないというので、車で案内する。有名な方丈の石庭には外国人ツーリストがいっぱい。日本人ガイドの案内を聞いていると、ドイツ語圏内の観光客らしい。京都に来る直前に、ドイツ旅行から戻ったばかりというFさんは親しみを感じたようだ。方丈の北東の庭に、日本最古の侘助椿がある。豊臣秀吉が朝鮮から持ち帰ったといわれる胡蝶侘助椿。花の時期に訪ねたことがないので、どんな花かは未見。傍らで修学旅行の中学生たちが、徳川光圀寄進という「吾唯知足」の石造手水鉢の説明を受けている。「へえ、水戸黄門がくんさったとげな」。それを聞いたFさん、思わず、「おうちたち、九州から来たとやろ?」「はい佐賀から」。お国訛りはいいもの。方言は立派な文化財なのだ。ちなみに二人の会話は「へえ、水戸黄門が下さったんだって」「あなたたち、九州から来たのですね?」。

 10月18日(水)晴れ。「御堂関白記」の仲間と餘部行き。午前7時に宇治駅集合というので朝6時に自宅を出る。早めに着いたので、同じ電車で到着した先生たちと宇治橋まで散歩。宇治川の流れはかなり速い。川面にうっすらと霧が立ち、浅瀬に点々と白鷺の姿がある。渦を巻いた急流を見ていると、「浮舟が身を投げたのはどの辺りかしら」と思ってしまう。「朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木」(千載集 藤原定頼)などと口ずさみつつ集合場所へ戻る。バスツアー客は37人。兵庫県の日本海側にある餘部まで、出石、香住を経由して行く。正午に香住到着、すぐに女性船長の遊覧船で香住海岸巡り。ここは北前船で栄えたところだそうで、港の入り口にある島の岩場には船を繋留するために穿たれた穴がいくつも残っていた。火山の噴火で出来た島々は、火成岩、水成岩、火山岩などそれぞれ地質が異なっていて、岩肌の色合いが違っているのが興味深かった。港内は穏やかだったが港外はうねりがあって岬を廻るとき船が大きく揺れた。でも船酔いする間もなく帰港。港近くのカニ料理店で昼食をとった後、バスで餘部へ。5月の連休に来たときもカメラ持参の観光客で賑わっていたが、平日のこの日もかなりの団体客あり。(自分もその一人なり)。前回は眺めるだけだったが、この日は餘部から香住駅までJRに乗った。列車は2両編成の豊岡行き。北側に日本海が見えるのだが、約10分間の列車の旅の大半はトンネルの中。香住から再びバスに乗って帰路につく。途中再び出石に立ち寄り、名物の皿蕎麦を賞味。出石に蕎麦を伝えたのは、1706年、信州上田から移封してきた仙石氏。徳川時代の大名たちは移封先に文化を運んだから、当時は想像以上に異文化交流が盛んだったのではないか。
 出石といえば、去年のいまごろ、出石城まつりに行き会ったことがある。石垣しか残っていない城跡にベニヤ板製の巨大な天守閣が出現していて驚かされた。遠目には本物そっくりで、出石の一夜城だと感心したが、今年はやらないのかしら。豊岡、出石辺りは2年前の台風で大きな被害を蒙った。いまも延々と河川の復旧工事が続いていて、被災地の人々の苦労が偲ばれた。
 写真は餘部鉄橋。この近くに平家の落人の集落があって、そこの神社に「百手祭」が伝わっている。かつては陸の孤島で、海からしか交通の手段がなかったという不便な地である。

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 この前の日曜日、大阪のIMPホールで、オリガト・プラスティコ第3弾の芝居「漂う電球」を観た。予約していたのを忘れて、同じ日、別の劇場の切符を買ってしまった娘から、「渡辺いっけいが出るよ、お母さん好きでしょ」と言われて急遽、サンデイ観劇となったもの。この日は東山即成院の25菩薩練供養か、宇治万福寺の普度勝会に行くつもりだったが、そういうことで大阪行きに変更。阪急で梅田まで出て、JR環状線で大坂城公園駅まで行く。駅を出ると生バンドの演奏が耳に飛び込んでくる。公園へ続く駅前広場は青空ロックバンドのライブ会場と化していて、何組ものアマチュアバンドが熱演中。それぞれ熱心なファンがいるのか、若者たちが群れていた。彼らのオリジナルの曲なのか、私には馴染みのない曲ばかり。橋を渡ってIMPホールへ向う途中、水上バスがゆっくりとやってくるのが見えた。何年か前、友人とこの船に乗ったとき、なるほど大阪は水の都だと実感した。しかしレトロな建物が残る中之島公園あたりは高速道路が天をふさいで、景観が台無しという感じがした。そのころは川沿いにホームレスの人たちのブルーシートの小屋が並んでいたが、いまもあるのだろうか。
 「漂う電球」はウディ・アレンの戯曲で、日本では初上演とのこと。アレン作らしく、徹底した台詞劇で、出演者はよくこなしていたが、1945年のブルックリンに住む、貧しく希望のない一家、という雰囲気がいまいち伝わらないのが惜しい。アレン流に都会的でコミカルなタッチは快かったが、登場人物が少しもうらぶれた感じがしないのが私には不満だった。中心人物となる母親がしっかり者でその分、楽天的に見えるのだ。夫には若い愛人がいて生活は苦しく、二人の息子は引き篭もりと不良少年。生活に疲れ、夫とは喧嘩ばかり、という暗い状況なのに。彼女が天才と信じ、溺愛する長男は内気でナイーブ、部屋に籠って手品の練習に明け暮れている。といえば、テネシー・ウイリアムズの『ガラスの動物園』を思い出すだろう。そう、これはアレンによる『ガラスの動物園』なのだ。しかし、この舞台からは、幻想に生きる人たちの深い絶望感というものが伝わってこない。まあ、それでいいのかもしれない。最近は「明るく」「元気」というのがベターらしいから、あまりリアリティがある芝居は喜ばれないのだろう、などと思いつつ、劇場を後にした。渡辺いっけいはよかった。他の出演者も力量のある役者たちだった。

 9月、近所に開校した立命館大学朱雀校の7階に、京野菜料理を出すレストランがオープンしたというので、家族3人で夕食にでかける。ディナーのコースは1種類で、3500円というリーズナブルなもの。一瞬、ランチの間違いではないかと思ったほど。でも料理は、前菜の盛り合わせ、水菜と生ハム、シマアジのソテーとエビ芋、丹波牛の赤ワイン煮、デザート、コーヒーと充実していました。この日はお祝い(13日がつれあいの誕生日だった)気分で、シャブリとフランスの白と、ワインを2本飲んだら、料理よりお酒代の方が高かった! アラカルトのメニューもいろいろあるようだから、そのうちランチタイムにでも行ってみよう。内装はシックでテーブル席もゆったりしているので、寛げそう。近くにいい店ができてよかった。突如閉店、なんてことのないように、頑張ってもらいたいものだ。

 食事から戻ったところにIさんから電話。大学の研修旅行で韓国へ行ってきたとその報告。古代から中世の歴史を訪ねる旅だったそうだが、中に、自分の町にある古い城跡にそっくりな場所があった。そこも城跡なのだが、あんまり似ているので奇妙な気分になったとのこと。デジャヴブかな、と笑っていたが、遙か昔、かの地からやってきた人たちが自分の故郷に似せて造ったということもあるからね、と真面目な声。Iさんの口癖は、千年なんてそんなに遠い昔ではない、きんさん、ぎんさんを10人縦に並べたら1000年超すんだから。確かにね。
 写真は大阪城公園の水上バス。

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 10月14日(土)晴れ。日吉町胡麻のかやぶき音楽堂へ、ライザー夫妻によるピアノデュオコンサートを聴きに行く。かやぶきコンサートは毎年春と秋に開催されているが、春に行きたいと電話してきた九州の友人は、残念ながらオーストリア旅行と重なったため今回はパス。1時間に1本しか電車がこないJR胡麻駅は普段は無人駅だが、コンサートの期間中は駅員が出張り、特急列車も臨時停車する。春のコンサートの時は、田植えが終ったあとで、田圃に早苗が揺れ、蛙の声が賑やかだった。今日は刈り入れが終った田圃に緑のひこばえがわずかに伸びているばかり。柿の実がたわわに実り、田圃の畦にミゾソバの赤い花が咲き乱れている。今年はモーツアルトイヤーというわけで、プログラムの殆んどがモーツアルトの曲、それも馴染み深い曲ばかりだった。短い休憩時間に手作りのケーキとお酒がふるまわれ、見知らぬ者同士が語り合ってなごやかな雰囲気。福井県の禅寺にあった旧本堂を移築したという大きなかやぶきの音楽堂いっぱいに座布団が敷き詰められ、250人の聴衆が膝つきあわせて聴き入る。山間の田園にあるプライベイトな音楽堂の名は「迦陵頻窟(からびんくつ)」。極楽浄土にいる美しい声をした迦陵頻伽という鳥がいる部屋という意味。2時間余の演奏が終わると、ザイラー家の田圃でとれた米で作ったおむすびが配られて、終了となる。
 最近はこのコンサートのためのバスツアーもあるようで、今日も2曲目の終了後、バスが遅れてといいながら団体客が入場していた。音楽堂の前の広場には胡麻の人たちが店を出して、丹波栗や枝豆、餅や味噌などがよく売れていた。
 帰宅後、隣のKさんから見事な松茸をいただく。丹波篠山の実家で今日、採ってきたものだそうだ。年々、数が減っていて、一日がかりで探しても数えるほどしか採れないとのこと。その中の貴重な1本。どうやって食べようか。
 駅前の大垣書店で、ようやく文庫になった斉藤美奈子の『文壇アイドル論』(文春文庫)を購入。2001年、「世界」に連載されたもので、斉藤美奈子による小気味のいい「80年代試論」なり。
 写真はかやぶき音楽堂「迦陵頻窟」。

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 10月12日(木)曇り。朝、円町にある自動車会社へ車を持っていく。前日つけたドアの傷を直してもらうため。うっかりのせいで、とんだ出費なり。11時、京阪三条で東京から出てきた友人と落ち合う。彼女と会うのはほぼ10年ぶり。京都の八幡市に住んでいた彼女が東京に転居したのは、私が京都へ出てきた直後のことだった。ちょうど桜の季節で、引越し前の慌しい中、彼女が石清水八幡宮や淀の背割の堤などを案内してくれたのを覚えている。川向うの大山崎の一隅が桜色に染まって、それはきれいだった。大山崎の聖天さんだということだった。東京行きは夫の転勤に伴うもので――我が家も同じ事情であった――、八幡にある自宅は知人に貸しているとのこと。いずれリタイアしたら京都に戻るのだと言う。関東は広いばかりで山がないから寂しいといい、初めのころは目印になる山がないから、自分がいまどこにいるのか解らなくて、不安でならなかったそうだ。そういえば私も京都の町を歩くとき、いつも無意識に比叡山や愛宕山を探している。二つの山で自分の位置を確認しているのだ。まるで映画の「月はどっちに出てる?」みたいやね、と笑いあったことだ。食事のあと、円山公園の長楽館でコーヒー。長崎にあった銀嶺というレストランを思わせるクラシカルな店。もとは明治のタバコ王と呼ばれた村井吉兵衛の別邸。設計者は聖アグネス教会と同じアメリカ人建築家ガーディナーで命名は伊藤博文だそうだ。ネオ・ルネサンス様式の美しい洋館。
 それにしても円山公園のしだれ桜の元気がないこと。カラスに新芽を食べられて枝が伸びないせいもあるのだろうが、以前の優雅さが嘘のような無残な姿が、なんとも痛ましい。春の京都のシンボルみたいな桜なのに、来年の春は大丈夫かしらん。
 京阪四条で友人と別れ、一旦帰宅して家の仕事を済ませ、再び祇園のFへ。お茶屋でフルートコンサートをやるというので、覗きに行く。客は20人ばかり。演奏者は京都交響楽団のフルーチストNさん。まだ20代の若い女性。暮れなずむ庭に立って、日本の抒情歌を10数曲、メドレーで演奏してくれた。時折爽やかな夜風が吹いて、軽やかな音色が瓦屋根の上へと昇っていく。この会のためにわざわざ東京から出てきたという客が「以前は京都に近づくと、瓦屋根の家並のせいで、町が黒っぽく見えて、それがたまらなくよかったのですが、最近はビルが増えて町が白っぽくなって、残念ですな」。私の京都の第一印象も「なんだか煤けた町だなあ」というものだった。いぶし銀のような瓦の色がなんともいえない渋い味わいを漂わせていたのに、この10年ですっかり消えてしまった。町家がどんどん姿を消していくのを見ているだけというのは辛い。町家ブームだというが、ブームが去った後が怖い。そういえば四条通にある祇園書房に入ったら、レジの後の壁に「14日に閉店します」という張り紙があった。ここは京都本が揃っていて、何かと便利だったのに残念なことだ。次々と個性のある本屋が消えて、金太郎飴のような店ばかりになるのかと思うと、つまらない。
 今夜は舞妓が三人。写真は寿々葉ちゃん。舞妓になって4年半、今年中に襟替して芸妓になるそうだ。まだあどけなさが残る20歳。

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 上京中に体調を崩して、京都へ戻ったいまもまだ調子がよくない。とはいっても予定が詰まっているので休むわけにいかない。とくに今日は昼と夜のダブルヘッダー、しかし昼はともかく、夜の方はちょっと自信がない。長年酷使してきたが、わが身もそろそろオーバーホウルの時期なのだろう。

 上京した日の関東地区は大雨で、おまけに風も強く、傘がさせないほどだった。空港から上野へ出て、公園の中にある韻松亭で遅い昼食をとる。ここは明治8年創建の趣のある料亭。京都では珍しくもないが、竹篭に盛られた豆菜料理をいただく。食後、雨風の中を国立博物館で開催中の「仏像」展へ。「仏像の奈良」、「庭の京都」というだけあって、会場には馴染み深い奈良の仏様がずらりとならんでいる。京都からは西住寺の「宝誌和尚立像」が出ていた。この像は、顔の真ん中が二つに割れて、その中から十一面観音の相が現れようとしている瞬間を造形化したもの。極めて特異なお顔だが、平安時代の人々は有り難い姿として拝んだことだろう。木喰、円空の仏像も多数出展されていて、見ごたえがあった。京都八木町の清源寺からも木喰上人の十六羅漢像が出ていた。一度、このお寺を訪ねたいと思いながらまだ実現していない。八木町にはもう一つ、戦国時代のキリシタン内藤ジョアンの城もあるので、近いうちに必ず訪ねたいと思っている。ジョアンは小西行長に仕え、のち追放されたマニラで客死、高山右近と共にかの地に眠っている。

 昨日は「小右記」の講読会だった。会場の駐車場のカード機に近づきすぎて、うっかり車の扉を傷つけてしまった。これから車を修理に出して、約束の時間に遅れないように、出かけなければならない。今日の京都は曇天。どうやら私の頭の中も曇り空という感じ。久し振りのブログなのに、言葉がでてこない。写真は近所で見かけたヤマボウシの実。赤く熟れておいしそうだが、はたして食べられるのかしらん。

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 雨は上ったが、蒸し暑い一日。町へ出たついでに、京都ゆかりの二人の画家の展覧会を見る。高島屋で「神坂雪佳(せっか)展」、大丸で「梅原龍三郎展」を。神坂雪佳(1866−1942)は何年か前、京都国立近代美術館で大掛かりな展覧会を見た記憶がある。そのとき、琳派を継承する美術家雪佳の名を初めて知った。雪佳は日本画家でありまた優れた工芸デザイナーとして、多くの作品を残している。いま京都の町に氾濫する「懐古的デザイン、京風デザイン」は、雪佳を源流とするものが多いのではないか。京都生まれの洋画家梅原龍三郎のエネルギー溢れる油絵も悪くはないが、今日は雪佳がよかった。
 梅原龍三郎(1888−1986)といえば、山梨県清里の芸術村で龍三郎のアトリエを見たことがある。東京の自宅にあったアトリエを移築したもので、今回の展覧会会場にその一部が展示されていた。去年の夏、清里でこのアトリエを見ていたので、敷物などに見覚えがあった。清里芸術村にはこの他に白樺美術館などもあるが、白樺の木に囲まれたジョルジュ・ルオーの礼拝堂がいい。ルオー作のステンドグラスがわずかな飾りとなっているだけの簡素なチャペルで、小さいが実に清らか。

 携帯電話のカメラモードが破損したようで、機能しなくなった。四条通りの店でみてもらったら修理のため預かるという。明日から東下りの予定なので、帰洛後、修理に出すことにした。旅先から写真入りのブログを送るつもりだったが、これでは不可能。残念。
 帰りは烏丸御池から地下鉄に乗る。地下鉄に乗る前に、文化博物館の中にある和座百衆という小店で、古布で出来たアクセサリーやトンボ玉などを購入。姉小路通りの亀末廣で和菓子「京のよすが」を一折。亀末廣の隣にある表具屋の店先にかかる暖簾が素敵なので、撮影。写真はその暖簾。藍のグラデーションが素晴らしい。
 明日からしばらく東下り。久し振りの東京だが、上野や神田へ寄る暇があるかしらん。神保町の古本まつりはまだだろうか。

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 今日の京都は曇天。愛宕山に雲がかかっているから天気は下り坂だなと思っていたら、いま雨が降り出した。
 承前。昨日の続き。近鉄三山木駅から東へ300メートルほど行ったところに、寿宝寺(真言宗)がある。小さなお寺だが、いきなり訪ねて拝観できるかなとしばし躊躇。しかし折角ここまできたからと思い切って参拝。若い男性が出てきて、本堂の前にある別棟の収蔵庫に案内してくださる。木造の収蔵庫の中にご本尊の千手観音と、両脇に二体の明王が安置されている。庫内は三体の仏様でいっぱい、という感じ。それが非常に家庭的で、仏様が身近に感じられる。ここの千手観音は左右に500本ずつ、あわせて千本の手を持ち、持ち物のない手には一つ一つ墨で眼が印されている。正面から見ると、左右に広がった手が扇のようにも天使の羽のようにも見える。先ほど拝観した観音寺の観音さんは漆のせいで黒っぽくみえたが、この千手観音は白木造りなので、自然な肌合いがゆかしい。大正時代は国宝だったが、現在は重要文化財とのこと。国宝でないのが不思議なほど美しい仏様だ。
 実際に千本のお手を持つ観音さんは、他に大阪の葛井寺と奈良の唐招提寺にある。いずれも長年、多くの人々の信仰を集めてきただけあって、気高く厳か、かつ慈悲深いお顔をしておられる。
 寿宝寺から木津川までは指呼の間、このお寺は何度も水害にあい、そのたびに移転をよぎなくされたという。明治の廃仏毀釈で廃寺となった寺々から仏様を預かったといい、収蔵庫の五大明王像もその一つだとのこと。明王は恵日寺から、聖徳太子像は蓮華寺から、などという話を聞いて、あらためて明治の廃仏毀釈の理不尽さに憤りを覚えてしまった。
 
 帰ると留守番電話が数件。注文していた本が数冊、宅配ボックスに届いている。夜、長崎と福岡、埼玉の友人たちから電話。祇園のFさんに「京舞」のお礼。「源氏物語」の空蝉について、T姉から面白い論評を聞く。


 今日は午前中、龍谷大学の大宮図書館へ調べものに行く。学生の姿は少ない。金髪の留学生が何人か、書棚の前で本を探していた。本願寺の銀杏の木にギンナンの実がたわわになっている。近づくと独特の臭いがする。よく乾いた実を紙袋に入れて、電子レンジで20秒ほど暖めると、いいビールのつまみになる。しかし足元に落ちたギンナンを拾う気にはなかなかなれない。しょせん私はグルマンドであっても、グルメではないのだろう。
 写真は寿宝寺の千手観音像。お寺でいただいたパンフレットを借用したもの。

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 京田辺の同志社大学へ行った帰り、普賢寺の観音寺へ寄ってきた。前々から行きたいと思いながら、なかなか機会がなかったが、今日地図を見ると、大学のすぐそばではないか。大学の正門から1.4キロ、歩いてもいける距離だ。普賢寺川に沿って彼岸花が咲いた田圃の中の道を西南に進む。稲穂の黄と彼岸花の赤が目に眩しい。20分ほどで観音寺に到着。拝観をお願いして本堂へ入ると、ご住職が僧衣に着替えて出てこられた。お経をあげ、焼香、礼拝をすませてから、おもむろに厨子の扉を開けてくださる。御堂は1953年の再建で、厨子も近年きれいに修復されたそうだが、744年(天平16)に安置されたというご本尊は1260年の時を経て、静かに立っておられる。木心乾漆十一面観音像(国宝)は奈良の聖林寺の観音さまと同じだが、こちらの観音さまの方がずっと若々しく軽やかな感じ。174センチで60数キロ、というからまさに等身大の観音像である。有名な湖北渡岸寺の十一面観音像は肉感的だし、聖林寺の観音さんも重厚な感じがするが、この観音さんはほっそりしなやか。撮影禁止なので、ここに披露できないのが残念。
 このお寺は檀家がない。かつては藤原氏の氏寺である奈良興福寺の別院として栄え、諸堂13、僧坊20余を数える筒城の大寺と呼ばれていた。いまは当時の面影は全くないが、奈良時代は山陰道へと向う交通の要所で、木津川をはさんで対岸には橘諸兄の里や、国宝釈迦如来像を有する蟹満寺がある。鐘楼の側に「二月堂竹送り復活の地」の碑があり、根つきの大きな竹が置いてあった。東大寺二月堂のお水取りで使われる竹は、ここから伐りだして送るのだそうだ。京田辺の竹は3月12日の篭松明に使われるとのこと。
 近くに御所ノ内、公家谷、上大門、下司、などの地名が残っているのは当時の名残りだろうか。
 こんな美しい仏様だから、展覧会などに出展依頼があるのではと尋ねると、「一切、お断りしています。御像はお寺におられてこそ、ですから」との返事。観音さまがお堂を出られたのは、1953年の修理の時くらいだそうだ。この国宝の観音さまはコンクリート製の収蔵庫ではなく、昔のまま本堂におられて、ちゃんと信仰の対象になっていることに感動した。寺は度々火災に遭っているが、この観音さまはそのたびに炎の中から救いだされて、生き延びてこられたのだろう。土に埋められたり、井戸に避難させられたり、ということもあったのではないだろうか。よくぞ1200年もと思うばかり。
 帰りはお寺にタクシーを呼んでもらい、近鉄三山木駅へ。寺の前を通るバスは一日に何本しかないそうだ。三山木駅まで行って、近くに寿宝寺があることに気付きもう一つ寄り道をする。寿宝寺の十一面千手千眼観世音菩薩立像についてはまた明日。
 写真は京田辺市普賢寺の大御堂観音寺。本堂。

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 最近は新刊書も古本もインターネットで購入することが多いが、それでも町へ出るたびに書店を覗いてしまうのは長い間の習い性だろうか。立ち寄り先は四条通りのジュンク堂がいちばん多いが、寺町二条の三月書房もお気に入りの書店である。この本屋のことについては説明するまでもないだろう。京都に引越してくる前からよく知っていたから、訪ねていくのが楽しみだった。よく古本屋と間違えられるということだが、この店構えでは無理もない。人文書はいうに及ばず、一癖も二癖もある品揃えで、書棚を眺めるたびに店ごと自分のものにしたいと思ってしまう。いい本なのに、他の本屋では返品されてとっくに姿を消したようなものもちゃんと置いてある。まあ、年間7万点を超す出版物が出ているから、本にとって、書店の店頭に並べられるだけでも僥倖というもの。読者の目にふれる機会がないまま、という本も結構あるのではないか。
 三月書房がある寺町通りには古本屋やギャラリー、骨董屋なども多いので、通りを歩く楽しみがある。三月書房の前を少し北へ行くと、西国三十三霊場の行願寺(革堂)や下御霊神社があり、丸太町通の向うに京都御苑の緑が広がっている。下御霊神社の前にある「横井小楠殉節碑」は、1869年2月、ここで小楠が十津川郷士に暗殺されたことを示している。暗殺の理由は「小楠が開国論者で日本をキリスト教化しようとしている」という誤解にみちたものだった。
 京都は幕末維新の舞台となったからいたる所にその史跡があるが、その多くが暗殺、遭難の地、というのが惨たらしい。まだ血なまぐさい感じがして私はどうも苦手である。しかし京都の町を歩けば、平安の昔から死屍累々、そこここに御霊がいて、魂鎮めの祭があり、日々死者と共に在るということを思い知らされる。まさに「メメント・モリ」の町ではある。
 写真は寺町二条の三月書房。小さいけれど品揃えは抜群の本屋さん。
 

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 今日から10月。今朝5時に目覚めたら、外はまだ真っ暗。窓を開けると朝の風が肌に冷たくて、思わず中野重治の詩「十月」が口をついて出た。

 空のすみゆき 鳥のとび
 山の柿の実 野の垂り穂
 それにもまして あさあさの
 つめたき霧に 肌ふれよ
 ほほ むね せなか わきまでも
          
            「十月」中野重治

 福井県丸岡町の町立図書館に中野重治記念文庫を訪ねたことがある。北陸自動車道を丸岡ICで降り、田圃の中を5分も走れば丸岡城に着く。図書館はお城のすぐ側にあり、中野重治の生家にも近い。図書館の人に頼んで、記念文庫を見せてもらった。中野重治の蔵書約13000冊が書棚に収めてあり、手にとって見ることができた。重治の原稿、写真、色紙などと共に、記念文庫で講演をした大江健三郎などの原稿も展示されている。蔵書を開くと重治の手になる書き込みがあり、作家の素顔に触れたような気がした。同じ福井出身の役者宇野重吉の芸名は、郷土の先達の名前からとったと聞いている。重治の長編『甲乙丙丁』を読み通すことはできなかったが、詩や短篇は時々読み返す。澤地久枝の編集による書簡集『愛しき者へ』(中公文庫)は、戦争をはさんで昭和5年から25年までに書かれた手紙をまとめたもの。宛先は中野にとっての「愛しき者たち」、すなわち家族たち。親への敬愛、妻への率直な言葉、妹への導き、娘への慈しみ、ここにあるのはプロレタリア作家の隠れた素顔。殆んどが妻である女優の原泉宛に書かれたものだが、のちに詩人となった妹へ宛てた手紙には、読書のてほどきなどが記されていて、優れた教育者としての重治を垣間見ることができる。
 中野重治の死を描いた佐多稲子の『夏の栞』は比類のない恋愛小説。ここには愛や恋という言葉は一つも出てこないが、志を同じくし、苦労を共にしてきた文学者同士の、長い歳月によって培われた絆の深さが伝わってくる。戦時中この二人は思いのままを書くことができなかったのだ。
 福井県丸岡町は市町村合併で坂井市丸岡町になった。町の中央にある丸岡城は1576年、柴田勝豊によって築かれた平城で、天守閣は日本最古のもの。福井地震で破損し復元されるまでは国宝だった。現在は国の重要文化財。面白いのはこの天守閣の瓦や鯱が笏谷石製だということ。瓦も鯱も石でできており、さぞ重たかろうと心配になるほど。いまも行われている長畝神社の日向神楽は、17世紀末、九州の延岡藩から移封した有馬氏が伝えたものだそうだ。まさに異文化交流、福井で宮崎の夜神楽を見るなんてと驚いたものだ。
 石川県の山中温泉へ行くときは、できるだけすぐ手前にある丸岡へ立ち寄ることにしている。いまごろは蕎麦の花であの辺りは一面真っ白だろう。越前は蕎麦どころなのだ。一乗谷で食べた越前おろし蕎麦の味が忘れられない。
 
 写真は越前ではなく、京都美山町の蕎麦畑。まだ五分咲きのため、思ったほど白くない。

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