大橋弘『1972青春軍艦島』を読む。東京生れの写真家が27歳のころ閉山直前の端島炭鉱で働いた時に撮影したネガを30年ぶりに世に出したもの。写真家がまだ写真家の卵以前だったころの無心の記録である。軍艦島とは長崎港から約20キロほど沖合いに浮ぶ炭鉱の島で、明治初期に採炭が始まり、1974年に閉山した。周囲がわずか1.2キロしかないコンクリートで固めた人工の島に、一時は5000人を越す人が住み、世界一人口密度か高い島といわれた。狭い土地を有効利用するために、島には高層アパートが林立し、中には1916年に建てられたわが国最古の鉄筋コンクリート集合住宅もある。島全体が炭鉱会社に属し、ここにいる限り住居費・光熱費は無料同然だったから、長崎のどこよりも早くテレビ、冷蔵庫、ステレオなど家庭の電化が実現していた。軍艦島の名前の由来は、コンクリートの護岸に囲まれた島の形が軍艦に似ていることから。閉山から32年たったいまも、軍艦島に関する本が出版され続けているのには驚く。一時は廃墟ブームに乗って、探検に上陸する人もいたようだが、最近は「軍艦島を世界遺産に」という運動もあり、エネルギー革命の歴史的産業遺産としても見直されているようだ。
軍艦島は被写体としても魅力的なのかアマ・プロ数多の写真集が出ている。古いものでは奈良原一高の『人間の土地』、雑賀雄二『軍艦島―棄てられた島の風景』、柿田清英『崩れゆく記憶 端島炭坑閉山18年目の記禄』、なかでも岩波書店から出ている『軍艦島 海上産業都市に住む』は、炭坑が生きていたころの島の暮らしの記録がふんだんに掲載されていて、興味深いものがある。軍艦島は岩礁をコンクリートで固めて作った人工の島だけに、閉山後は荒波にもまれ遠からず再び岩礁に戻るのではないかと思われたが、いまなお形をとどめて「軍艦島クルージング」などという新しい観光地となりつつある。林えいだいの『清算されない昭和』を読むと、島のもう一つの顔の記録もあって、複雑な思いもするのだが。
『1972青春軍艦島』の作者は1946年東京生まれ。日給5千円という当時破格だった給料にひかれて、閉山前の軍艦島で半年間、働いた。この本はそのときの記録だが、写真のどれもがタイムカプセルから出てきたように生々しい。とくに島には火葬場や墓所がないので、中ノ島と呼ばれる小さな無人島へ死者の棺を運ぶ写真など胸うたれるものがある。軍艦島は作家の想像力に訴えるものがあるようで、かつては海底深く残る坑道を産業廃棄物の捨て場とするというテーマの小説『軍艦島に進路をとれ』が書かれたし、最近は内田康夫の浅見光彦シリーズ100作目の舞台が軍艦島だという。(この人の本は読んだことがないので、どんなものか不明)
写真は閉山20年目の1994年に出た、岩波のいまはなき雑誌「よむ」の軍艦島特集号。「よむ」も筑摩の「頓知」も面白い雑誌だったが、残念なことに短命だった。