2006年12月

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 12月30日(土)晴れ。山は雪。朝日新聞社のPR誌「一冊の本」の1月号に、今秋亡くなった阿部謹也の晨子夫人が、「遺書のような」という一文を寄せている。その中に次のような下りがあった。
 「夫は人類の未来、地球の現状を憂うる気持を強めていました。”人類の危機がここまで来た原因はキリスト教にある。人間がこの世の主人であり、動植物はその人間に仕えるためにあるというキリスト教のもとで自然科学が進み、西欧文明が栄え、自然破壊、地球の温暖化などの危機が迫ってきている”。西欧文明を批判する夫は、「山川草木悉皆成仏」という仏教の方へ気持を寄せていたようです。しかし最後まで”自分は無宗教だ”と言っていましたので、葬儀は無宗教にしました」。
 ヨーロッパ中世史の歴史学者だった阿部謹也が、西欧文明を批判し、最後は仏教に心を寄せて、親鸞の呪術の否定、世間の否定という生き方を高く評価していたということを、初めて知った。仏教や神道は、自然は畏怖すべきものという前提のもとに、人間もその自然の一部で、動植物には仲間という感じを持っている。日本人の中に、一神教よりアニミズム的傾向が強いのは豊かな自然環境のせいでもあるだろう。これからの世界に必要なのは、そういう共生の考え方ではないだろうか。
 今日はお正月用品の買出しで、三条通商店街や錦市場へ出かけてきた。花を活け、鏡餅などの飾付もすんで、これから夕食の支度にかかるところ。愛宕山に昨日の雪が白く残っている。つれあいは朝から東大阪の花園まで、高校ラグビーの応援に出かけた。毎年恒例の同窓会のようなもの。
 写真は近所の仕出屋の店先で見かけた光景。これは柚でできた「ゆべし」。

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 12月29日(金)晴れときどき雪。年の瀬とは思えないほど暖かな日が続いていたが、今朝の京都は雪。青空が見えているが、思い出したように雪が舞う天気となった。と書いていると、見る見るうちに外が真っ白になってまた雪が降り出した。遠くに、送り火の一つ、嵯峨野の曼荼羅山の鳥居形が白く浮かび上がっている。
 さて、ここのところまるで掃苔記のような日記になっているが、今日もまた。12月29日はわが愛する南方熊楠(1867―1941)の命日。つい2週間ほど前、田辺の熊楠邸を訪ねたばかり。熊楠との最初の出会いは、20代のころ読んだ平凡社版の『南方熊楠全集』。といっても全巻を読んだわけではなく、その中に収められた「履歴書」を読んだのが始まり。これは矢吹義夫宛に書かれた自筆の履歴書で、墨書の巻紙を拡げると全長6メートルを超えるという破天荒なもの。熊楠特有の細字でびっしりと書かれた半自伝ともいうべき書簡で、その内容の面白さは他に類を見ないほど。一読して、この人はいったい何者なりや?と驚いたものだ。それから間もなく岡茂雄の『本屋風情』(平凡社 1974年)が出て、そこに描かれた熊楠像に惹き付けられた。夫にするにはたまらないけれど、遠くから見ている分にはなんとも愛らしい男性なのだ。それと熊楠にはヴィジョンを見る力があって、私はウイリアム・ブレイクやユングなどとの相似というものを思わずにはいられない。1941年12月29日、熊楠示寂。熊楠最後の言葉として同郷の詩人佐藤春夫が伝えているのは、「医者はいらぬ。医者が来ればこの美しい楝(おうち)の花が消えてしまうから」であったと、鶴見和子の『南方熊楠―地球志向の比較学』に記されている。楝は栴檀(センダン)のこと。現在の熊楠邸の庭に、見上げるような楝の大木がある。

 長崎県雲仙市に住む友人から見事な生牡蠣が届いた。今年はノロウイルス流行の影響で、牡蠣の産地はどこも苦戦しているようだが、過熱すれば心配はないのだ。早速焼いていただく。殻を開けるとびっくり。実の大きなこと、よく引き締まって滋味豊かなこと。潮の香りが口いっぱいに拡がって、有明海の風に吹かれているような気分になる。写真はそのほんの一部。おごちそうさまでした。

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 12月28日(木)晴れ。強い風吹く。市バス206に乗って一乗寺の恵文社へ行く。26日から始まった古本市を覗きに。市バス206系統は、京都市内を循環する路線バスだが、一巡する間に56ものバス停があって、全部乗ると2時間近くかかるのではないかしら。循環バスなので、どこまで乗っても一律220円。たった220円で小旅行気分が味わえるのだ。一度、一巡してみよう。私は千本三条から乗り、高野で降りたが、その間バス停の数24、約40分のバス旅行だった。恵文社はアート系書店として有名で、店内には美大生らしき若者の姿が目立つ。店のいちばん奥が古本市のスペースで、壁に並んだ書棚から好きな本を選んで、レジで精算。出店しているのは関西の本好きなグループや個人、個性派古本屋や新刊書店の三月書房など。三月書房は在庫品放出らしい。私が買ったのは以下の5冊。

『本を旅する』 海野弘 ポプラ社
『雑踏の社会学』 川本三郎 ちくま文庫
『近世史のなかの女たち』 永江漣子 NHK出版
『日本人の起源を探る』 歴史読本 新人物往来社
『身心快楽―自伝』 武田泰淳 創樹社 1977年

 ちょうちょうぼっこ、sumus文庫、三月書房の棚から選んだもの。しめて1700円なり。『身心快楽』は京都に来る前、処分したのだが、やはり手元に置いておきたくて、ここで会えてよかった。若いころせっせと泰淳を読んでいて、泰淳―割り切れない人―にあやかって、素数子のペンネイムで駄文を書いたことがある。この本のあとがきを百合子夫人が書いていて、それを読むと、この本が出る前年に泰淳が亡くなったことがわかる。泰淳逝ってもう30年になるのか・・・。戦後文学者の集まり「あさって会」のメンバー(武田泰淳、埴谷雄高、中村真一郎、堀田善衛、椎名麟三、梅崎春生、野間宏)は全員、鬼籍に入ってしまった。戦後は遠くなりにけり・・。

写真は高野のバス停近くで見かけた黄色いセンリョウ。


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 12月26日(火)雨。1998年の今日、白洲正子(1910〜1998)が亡くなった。日本の美について多くの書を著した文人。能、古美術、詩歌、文学などに造詣深く、とくに美に関しては一流の目利きであった。その人となりは『白洲正子自伝』に詳しい。幼児期より本物に囲まれて育てばこのような「目」を持てるか、といえば決してそうではない。やはり彼女の才能だろう。つれあいは白洲次郎。終戦直後、吉田茂のブレインとなって占領軍と対等に、いやそれ以上に堂々と渡り合った男。
 白洲正子の文章は読んではいたが、深く読むようになったのは1974年に出た新潮選書版の『明恵上人』からである。これは1967年に講談社から出版されていたが、この年、新潮選書として再版されたもの。明恵上人は膨大な「夢日記」を記した華厳宗の僧侶だと知ってはいたが、白洲正子のこの本で詳しくその生涯を知り、さらに心惹かれるようになった。白洲正子の文章は潔いのがいい。権威など頼らず、自分の眼と感性を信じて、一対一で物事の本質に迫る。まさに女サムライだった。しかし彼女が亡くなったあと、やたらと白洲正子を祭り上げて「日本文化の美の権威」にしてしまったのは残念なこと。鶴川(東京都町田市)の自宅「武相荘」は夫妻が暮していたころの室礼そのままに公開されている。彼女の仇名は「韋駄天お正」。まさにそのニックネイム通りに、美を追ってひたすら駆け抜けた一生だった。
 彼女の『かくれ里』『西国巡礼』『近江山河抄』『西行』など、いまも折りにふれ読み返す。これらの本から「自分の眼と感性を信じよ」ということと、何事も無心に向き合うことの大切さを教えられた。

 写真は『明恵上人』(新潮選書)。後世を願わず、まして一宗一派を立てたり寺の造営などには全く興味を示さなかった、明恵の清らかな生涯を追って、著者が各地を歩いた書。

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 12月25日(月)晴れ。今日、25日は天明3年(1783)に亡くなった与謝蕪村(1716−1783)の命日。京都の仏光寺通烏丸西入るに蕪村終焉の地がある。いまは繊維関係の会社になっていて、表に「与謝蕪村宅跡(終焉地)」の石碑が立っている。蕪村は摂津国毛馬(現在の大阪市都島区毛馬)に生まれ、36歳のとき京に上った。蕪村の墓は京都一乗寺の金福寺にある。そこには芭蕉庵があって、生前蕪村が「我も死して碑にほとりせむ枯尾花」と詠んだことから、芭蕉庵のそばに葬られたという。このお寺は秋の紅葉でも有名で、高台にある蕪村の墓所からは、京都の市外が一望できる。芭蕉はなにしろ「俳聖」というだけに近寄りがたく、ただ仰ぎ見る感じだが、蕪村は画も句ものびやかで、ずっと親しみを覚える。芭蕉と蕪村、柳田國男と南方熊楠、紫式部と清少納言など、よく並べて論じられるが、私の場合、強いて言うならいずれも後者が好き。
 蕪村は62歳のとき、一人娘のくのを西洞院の料理人柿屋伝兵衛に嫁がせたが、翌年くのは離縁して戻っている。この柿屋伝兵衛は現在の「柿伝」の祖先だろう。府庁近くにある茶懐石の仕出屋で、都落ちした若き日の車谷長吉が働いていた店でもある。柿伝の向かいに生麩屋があって、ときどき立ち寄るが、ここはいまでも地下水を使っているそうだ。
 蕪村は娘を愛し、また60過ぎてから花街の女性を愛して、こまやかな心遣いを句に詠んだ。蕪村の句からは情景が浮び、一幅の画を見ているような心持になる。のどやかでいて繊細。それは蕪村の画にも共通する魅力だ。
 蕪村が友人の死を悼んで詠んだという、
「君あしたに去りぬ ゆふべのこころ千々に
 何ぞはるかなる」
に始まる挽詩の哀切さ。
これほどまでに悼まれた友人の幸せを思う。

 大学ラグビーの全国選手権大会で、関西から大阪体育大学と京都産業大学の2校がベストフォー入りした。関西勢が2校も4強入りするのは13年ぶりとのこと。同志社が負けたのは残念だが、これで新年1月2日の準決勝戦が楽しみになった。早稲田の優位はゆるがないだろうが、関西勢の健闘を祈りたい。

 写真は仏光寺烏丸西入るにある蕪村宅跡の碑。

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 12月24日(日)曇り。暖か。朝からヘリコプターの音がするなと思っていたら、今日は高校駅伝の日。TV中継用のヘリならん。四条烏丸まで用事で出る道すがら、こんな花を眼にした。馬酔木のような花が固まって咲いていて、傍らには赤く熟れた実がついている。花はクロキやエゴノキ、ドウダンツツジなどによく似ている。これから植物図鑑で調べてみよう。
 今日はクリスマス・イヴ。高校時代の友人に、12月24日が誕生日という人がいて、信者ではないけれど、毎年自分の誕生日には教会へ行くと言っていた。私はその人が描いた長崎の大浦天主堂の絵をいまだに大切に持っているが、いまもイヴの夜にはどこかの教会へ行っているのだろうか。この大浦天主堂は現存する日本最古の教会で国宝に指定されている。その大浦天主堂に次いで古い教会が京都の宮津にあるカトリック教会。1896年に建てられ、現在使われている教会としては宮津の教会が最古となるそうだ。ここの教会はお堂に畳が敷いてあり、冬はストーブが焚かれて、とても家庭的な雰囲気。ステンドグラスも美しいゴチック建築。
 


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 12月23日(土)晴れ。今日が我が家の事始め。例年より早めに年賀状を書く準備をする。今年も喪中欠礼のハガキがたくさん届いている。みんな親を見送る年代になっているのだ。阿部昭の『単純な生活』に81歳になる母を看取ったあとの気持を書いたくだりがある。父親は既に亡くなっているので、作家は両親を失ったのだ。
「これでもう幼い私を愛してくれた身近な者たちは、ほとんど死に絶えた。おじと名のつく人物は全員死んでいるし、まだ伯母が二人残ってはいるが、彼女たちも半身不随か廃人のようで見る影もなくなっている。(中略)もう子どものあの頃のような愛され方で人から愛されるということは勘定に入れてはならない。私の場合、その最後がたぶんこの母親だったのだから。今後はもっぱら私が愛すべき者たちを、それにふさわしい扱い方で遇してやる以外に、私の存在の意味はない・・・。私はその晩、この年になるまで特に考えてみなかったようなそんなことを、つくづくと考えた。眼には見えぬなにかが、今夜を境に大きく変ったのだ」 
 親を見送るということは、多分このような心境になるということなのだろう。無条件に甘えさせてくれる人はもういないのだという・・。
 
 写真は京都南座に上げられたまねき.今年の顔見世は中村勘三郎の襲名披露もあって人気があるようだ。去年は藤十郎の襲名披露で、その前は仁左衛門ではなかったかしらん。顔見世は年末恒例、京の年中行事の一つ、これが終るといよいよお正月となる。

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 12月22日(金)曇りのち晴れ。冬至とは思えない暖かさ。うっかりコートを着て外出し、汗びっしょりになる。地下鉄もデパートも暖房が効いていて、息苦しいほど。せっかくよくなりかけたのに、これでは風邪がぶり返しそう。郵便局、銀行、本屋、デパート、鳩居堂、永楽屋、ついでに寺町の古本屋をのぞいて帰宅。玄関のカニバサボテンの花が満開。
 長田弘の『知恵の悲しみの時代』(みすず書房)を読む。これは月刊『みすず』に連載されたもの。この中に昭和11年から翌年まで、ごく短期間、京都で発行された『土曜日』という小新聞のことが書かれている。『土曜日』は京大の美学者中井正一を中心とする京都の若い人文主義者たちによって発行されたインディペンデント・ペーパーで、京都市内の喫茶店が広告を出して常備もしてくれたという。時あたかも盧溝橋事件で日中戦争が本格化。『土曜日』も時局に合わぬというので休刊をよぎなくされる。
 「明日への望みは失はれ、本当の智慧が傷つけられ、まじめな夢が消えてしまった。しかし、人々はそれで好いとは誰も思ってゐないのである。何かが欠けてゐることは知ってゐる」
 昭和11年に書かれた創刊号巻頭の言葉が、70年後のいまも色褪せていないのが怖い。

 写真は木屋町二条の高瀬川一之船入り。かつて酒や米、薪炭などを積んだ十石船が伏見や大坂からここへ運行していた。


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 12月21日(木)曇天。今日は北大路魯山人(1883〜1959)の命日。魯山人は京都上賀茂生まれ。生家は上賀茂神社社家だったが、父親が早世したために、他家の養子となって育つ。日本画、書、篆刻をよくし、食客となって各地でやきものや看板彫りの技を身につけ、38歳の時、会員制の「美食倶楽部」を発足させる。蒐集した古陶磁器に自ら料理を盛り付け好評を博し、会員が増加したため、食器を自分で制作し始める。42歳で開いた星岡茶寮では自作の器を使って料理を供した。在野の芸術家たらんとして人間国宝の指定を断ったというが、彼にはそんな冠は不用だったに違いない。生涯に5回結婚し、5回とも離婚。画家、篆刻家、陶芸家、書家、漆芸家、料理家、美食家・・・。多芸多趣味というが、魯山人の場合は多趣味ではなく、すべて仕事に通じたのだから、まさにマルチタレント、総合芸術家とでもいおうか。京都の祇園四条通りに「何必館」という美術館がある。ここに山口薫・村上華岳とともに、魯山人の作品が常設展示してある。魯山人の作品には根強い人気がある。それは眺めるだけの観賞用器ではなく、実際に使われるための器であったため、誰もが手に取りたくなるような魅力を備えているからだろう。趣味性が強く、力強い美意識に支えられた器を見ていると、「どうだ、驚いたか」という魯山人の得意げな声が聞こえてきそうだ。
 石川県の山代温泉は魯山人がやきもの修業をした所で、ゆかりの旅館や店が数多く残っている。温泉めぐりと魯山人の作品鑑賞が両方楽しめるので、山中へ行くときは立ち寄ることにしている。魯山人は生涯にいったいどれほどの器を作ったのだろうか。私はこのごろ、彼のやきものよりも、春慶塗りの懐石盆などに心惹かれるのだが。
 魯山人という人は、ずいぶん毀誉褒貶あるようで、白洲正子が彼のことを書いたものなどを読むと、なんだか気の毒に思われてならない。彼は1959年の12月21日、横浜の病院で死去、鎌倉の自宅で葬儀が行われた後、遺骨は京都西賀茂の西方寺墓地に葬られた。西方寺の北側、正伝寺へ通じる細い道を登っていくと、角地に北大路家の墓所があり、魯山人の墓石がある。そこから5分もかからぬ所に太田垣蓮月尼の墓もある。
 近年、「美味しんぼ」という人気漫画に魯山人をモデルとした食通が登場して、若い人たちにも知られるようになったそうだ。食通といっても本人はとても食えない男だったのではないかしらん。

 今日は午後から宇治市の源氏物語ミュージアムで、乾澄子さんの源氏物語「大君と中君」についての話を聞いてきた。「竹取物語」や「夜半の寝覚」のような物語との関連など、興味深い内容で、古典の解釈の幅広さに思いを巡らせたことだ。

 写真は20年ほど前に観た「魯山人展」の図録。

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 12月19日(火)晴れ。友人のIさんと今年最後の歴史散歩。来年の2月、枚方市で「継体大王」に関するフォーラムが開かれるので、その予習のつもり。まずは継体が507年に即位したといわれる樟葉宮跡へ。八幡市と接する交野の森の中に、光仁天皇を祀った交野天神社があり、神社の北東の丘の上に「此附近継体天皇樟葉宮跡伝承地」の碑がある。ヒヨドリがかん高く鳴き交わす中、足元に散らばったシイやカシの実を踏みながら歩く。ここは市民の森に近く、主な木には名前を記した札がつけられている。ネジキ、ソヨゴ、タカノツメ、クロキ、市街地の貴重な緑。枚方の地名はなかなか床しいものがある。牧野、交野、禁野、御殿山・・・。「梁塵秘抄」に「楠葉の御牧の土器作り、土器は作れど娘の貌ぞよき、あな美しやな。あれを三車の四車の、あい行てぐるまに打乗せて、受領の北の方と云はせばや」(376)という歌があるのを思い出した。
 正午近くなったので、樟葉宮から2キロほど東にある松花堂へ。松花堂は江戸時代初期の学僧・松花堂昭乗の庵で、多くの文人墨客が訪れた処。もとは男山泉坊にあったのを、明治の神仏分離で現在地に移されたもの。趣の異なる茶室が点在する庭の静かな佇まいを愛でていると、東車塚古墳にぶつかった。立派な前方後円墳で、後円部分が築山として利用されている。借景はよく聞くが、古墳を取り込んだ庭は珍しいのではないかしら。庭に隣接した「吉兆」で、この地で生まれた松花堂弁当をいただく。
 食後、樟葉宮の次に継体が宮を築いたという筒城へ。筒城宮跡がある京田辺は枚方や八幡からだとすぐ近く。途中、八幡の流れ橋や、京田辺の一休寺へ立ち寄った後、同志社大学の京田辺キャンパスへ。大学の構内にある「継体天皇筒城宮伝承地」を見て歴史資料館を訪れたが、午後4時を廻っていたため既に閉館。
 京都へ戻り、祇園の新三浦で水炊きをいただく。給仕をしてくれたのは新人アルバイトの女子大生。話が弾むうち、女将は下関、女子大生は宇部、友人は萩、と三人とも山口出身だということがわかり、にわかに県人会のような雰囲気となる。長崎っ子の私はいささか疎外感を味わうはめとなった。
 帰宅すると背中がぞくぞくして喉が痛い。嗽をして薬を飲むも喉の痛みはひどくなるばかり。ついに風邪に掴まってしまった! やんぬるかな。
 
 写真は白浜のクリスマスイルミネーション。星座のイルミネーションが愛らしかった。

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 12月18日(月)晴れ。寒波襲来とて、今朝、この冬初めて愛宕山が白く冠雪した。愛宕山だけではない、朝日を浴びて、西山や北山も真っ白に輝いている。いつも私の誕生日(12月6日)ごろに見かける風景だが、今年は2週間ほど遅かった。山頂は白いが山肌にはまだ紅葉が赤く残っている。「ここら辺りは山がゆえ、紅葉があるのに雪が降る・・・」とは何の台詞だったか。しかし山の雪は昼前には消えた。つかのまの雪景色なり。昨夜、札幌のTさんより電話あり。「札幌はまだ雪が積らない」とのこと。「こんな年は、明けてからドカ雪になるんだ」そうだ。確かに今年はいつまでも暖かい。和歌山も暖かかった。家の庭先に色とりどりのブーゲンビリアが咲き、道行く人はコートなしの軽装だった。これではとても年末気分にはなれそうにない。
 白浜に持参して、五味文彦『書物の中世史』(みすず書房)と高橋輝次『関西古本探検』(右文書院)を読了。

 写真は今朝の愛宕山。ようやく冬到来という気分。

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 12月17日(日)曇りのち晴れ。午前10時にホテルをチェックアウトして、白浜の南方熊楠記念館と近くにある京都大学水族館へ。水族館見学は娘の希望なり。この娘、小さいころはすこぶるつきの「虫めづる姫」で、成長してからは以前のように虫は愛でなくなったが、大の生き物好き。子どものころは動物園へ連れていくと、動物のオリの前から引き剥がすのに苦労したものだ。この日もイソギンチャクだのタツノオトシゴだのの水槽の前に張り付いている。私はタイやクエの水槽の前で、「おいしそう」とつぶやくのみ。ようやく水族館を後にして、ホテル川久でコーヒー。このホテルが出来たときは、あまりにも周りにそぐわない異様な外観に驚いたものだ。そこだけがぽっかりと次元を異にして、どこにもない空間を作り出している。御伽噺にでてくるお城のような形をしているが、西洋のお城とはいえない。アラビア風でもない。内装は豪華。ビザンチン様式のモザイク壁画あり、大理石の円柱あり、見事なシャンデリアありなのだが、そこに浴衣姿の客が表れるとがっかり。
 海産物市場で魚や干物を仕入れて帰途につく。途中、思い立って御坊の町へ寄る。御坊駅の近くに「安珍・清姫」で有名な道成寺があるのだ。初めて訪ねたが、予想以上に立派な寺院。門前の茶屋をぬけて石段を上ったところに仁王門があり、広い境内の正面に本堂、右手に閻魔庁と三重塔。左手奥には護摩堂や国宝の十一面観音を収めた宝物殿などがある。葉を落としたしだれ桜が何本もあり、花のころはさぞやと思われた。帰りの時間が気になるので、宝物殿には入らなかったが、拝観料を払うと、安珍清姫の話(絵解き)が聞けるそうだ。それはまた次の機会に。
 門前の茶屋で名物の釣鐘まんじゅうを買い、川辺I・Cから高速道路に乗り、一路京都へ戻る。南部から御坊まで海沿いの国道42号線を走ったが、高速道路ができて国道を走る車が減ったせいか、いくつかみやげ物店や食事処が閉店しているのを見かけた。何事にも光と陰はつきものだが、やはり胸痛む。
 写真は日高川町の道成寺本堂。お堂の表にも裏にも結界があり橋が架かっていた。

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 12月16日(土)曇り。娘と二人で白浜行き。阪和自動車道が南部まで開通したので、田辺や白浜が近くなった。久し振りに田辺の南方熊楠邸を訪ねる。屋敷に隣接して今年5月にオープンした顕彰館を見学。和歌山の木をふんだんに用いた明るく親しみのある資料館である。熊楠が遺した25000点もの膨大な資料が収められた収蔵庫には大きなガラスの窓があって、外から中の様子を窺うことができる。吹き抜けの空間に下げられた熊楠の写真が目を引く。奥の管理室から出てこられた熊楠研究家の中瀬喜陽さんに、興味深いお話をうかがうことができた。顕彰館を出て、熊楠邸へ廻る。母屋を始め、書斎や資料が保管されていた土蔵、書庫などに補修工事がなされ、すっかりきれいになっていた。同時に庭も手入れされたようで、ずいぶん明るくさっぱりとなっていた。屋敷には、橋本さんという女性がおられて、詳しく説明をしてくださった。この方は熊楠の妻・松枝夫人が書き遺したものを原稿に起しておられるという。松枝夫人の日記などが活字になれば、熊楠本人とその研究を支えた家族という両面から熊楠を捉えることができるから、熊楠という人間研究に新たな光がさすのではと期待される。ぜひ実現してもらいたいものだ。
 庭の楠の木もセンダンの木も見上げるほどの大木となり、熊楠がみんなに栽培をすすめたという安藤みかんの実が、たわわに実っていた。研究者を中心とした「熊楠の日記を読む会」が各地にあるそうだ。あの細かな字を読むのはさぞしんどいことだろう。でも森羅万象に分け入った熊楠の思考の跡を辿るのは、さぞわくわくすることだろう。

 写真は田辺市にある南方熊楠顕彰館の中。宙に浮ぶ熊楠の写真。

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 12月16日(土)薄靄がかかった晴れ。15日に始まった奈良春日大社の若宮おんまつりに行きたいのだが、奈良ではなく、南紀白浜へ行くことになる。白浜へ行くなら田辺の南方熊楠資料館にも寄らなければ。熊楠邸に隣接して昨年開館した資料館だ。白浜の岬の上にある記念館と共に、必見のスポット。
 今日、12月16日は洋画家浅井忠(1856〜1907)の命日。浅井忠は千葉出身の洋画家で、東京美術大学(現在の東京芸術大学)の教授だった1900年にフランスへ留学。帰国後は東京へ戻らず、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授となり、聖護院洋画研究所(後の関西美術院)を開いて、安井曾太郎や梅原龍三郎など、多くの画家を育てた。
 今秋、京都市美術館で、関西美術院の創立100周年を記念する「浅井忠と関西美術院展」が開催された。浅井忠がフランス留学のおりに制作した「グレーの洗濯場」を始め、京都の鹿ケ谷、聖護院などを描いた風景画が展示されていたが、浅井忠の水彩画は気品にみちて、静謐。浅井忠はまたやきものに絵を描いたり、デザインをも積極的にやっていたようで、それらの作品も並べてあった。やきものなどは祇園のある店で販売もしていたそうで、その跡にいまは人気の甘味屋がある。そのころ、京都に遊んだ夏目漱石とも交流があり、漱石の『三四郎』に深見画伯の名で登場している。祇園の「大友」の文人女将を交えて宴を張ったりしたのかもしれない。
 浅井忠のお墓は南禅寺の塔頭金地院にある。以前、近くで湯豆腐を食べたとき、案内板を目にして、一度お参りしようと思ってそのままになっている。浅井忠が勤めていた京都工芸繊維大学の資料館には、浅井忠の作品が常設展示してある。まだ地下鉄が開通していなかったころ、バスを乗り継いで観に行ったことがあるが、苦労して訪ねただけに、浅井忠の作品と向かい合ったときは感動した。日本画の聖地のような京都で、西洋美術を教え広めた画家の仕事ぶりを思ったことだ。

 写真は壬生のバスプールで見かけたノウバラ(野ばら)の実。

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 12月13日(水)雨。今日は事始めの日。江戸時代に始まった風習で、この日で一年を締めくくり、新年の準備を始める。宇治の黄檗宗萬福寺ではこの日、鐘、太鼓、魚板の音を合図に、一斉に堂宇や諸仏が払い清められるそうだ。京都市内では、各花街の芸舞妓たちが、師匠たちや、日頃お世話になっている人たちのところに挨拶して廻る姿が見られる。ただし、我が家の事始めはまだまだ先になりそう。
 先週の木曜日だったか、JR二条駅前東側広場に緑色のテントが出現した。何かやっているなと思っていたら、見る見るうちに緑色の大テントが立ち上がった。中国国立雑技団スーパードリームサーカスの公演会場なのだそうだ。最後にサーカスを見たのはいつのことだろう。子どものころは、神社の祭礼にあわせてサーカスがやってきた記憶があるが。中原中也の詩「サーカス」の一節を思い出す。

「幾時代かがありまして
 茶色い戦争がありました

 幾時代かがありまして
 冬は疾風吹きました

 幾時代かがありまして
 今夜此処でのひと盛り
 今夜此処でのひと盛り

 サーカス小屋は高い梁
 そこに一つのブランコだ
 見えるともないブランコだ

 さかさに手を垂れて
 汚れた木綿の屋根のもと
 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 (中略)

 屋外は真っ暗 暗の暗
 夜は劫々と更けまする
 落下傘奴のノスタルジア
 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」

 今日は午前中、『小右記』の講読会。長和4年正月8日条、御斎会のくだりが私の担当なり。
 写真はJR二条駅前に出現したサーカスのテント。 

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 『阿部謹也自伝』(新潮社 2005年)を読んでいたら、こんな下りに出会った。阿部謹也が高校三年生のころというから1953年前後のことだと思うが、当時、阿部の家は大泉学園にあり、母親がそこで中華料理の店を出していた。阿部青年は受験勉強のかたわら出前を手伝っていたのだが、よく行く出前先に牧野という家があり、そこのおばあさんに焼きそばを届けるのが常であった。ある日、白髪頭のおばあさんだとばかり思っていた人が、有名な植物学者の牧野富太郎だと知って、青年は驚愕する。牧野家のふすまは本の重みで弓なりにしなっていた――。高校生だった阿部謹也がおばあさんと見紛うた牧野富太郎博士は当時91歳。この4年後に亡くなったから、著者は最晩年の博士に会っていたわけだ。博士は著者が学生だと知ると、何をやるにしても外国語はきちんとたくさん学ぶ必要があると繰り返し語ったそうだ。
 牧野富太郎(1862〜1957)はほとんど独学で植物分類学を極めた植物学者。だれもが一度は牧野富太郎の植物図鑑を手にしたことがあるだろう。内田百�と並ぶ大借金王で、妻の献身なしには、あの偉業は成し遂げられなかった。一昨年の夏、牧野富太郎の郷里である高知を旅して、牧野富太郎植物園を訪ねたことがある。資料館の中に生前の富太郎の書斎が復元されていて、本に埋もれるようにして富太郎が坐っていた。もちろん人形。真っ白の蓬髪で、阿部青年が見た博士はあんな風貌だったのかしらと、いまにして思う。おばあさんに見えないこともないか・・・。

 昨日は午後いっぱい『枕草子』の講読会。今回は一段一段ていねいに読んだため、予定の半分しか進まなかった。ことば一つとっても、本当のところはなかなか解らない。しかし平安時代の男性による漢文の記録からは決して窺えない、生活の細かな部分を垣間見ることができるのは嬉しいことだ。昨日読んだ箇所に「くしゃみ」が出てきた。「宮にはじめてまゐりたるころ」の段で、「われをば思ふや」と定子中宮に尋ねられた少納言が、「いかがは(どうしてお思い申し上げないことがありましょう)」と返事した途端、近くで誰かがくしゃみしたので、中宮が「あら、いまのは嘘なのね」といって奥に入ってしまった、という下り。当時くしゃみはよくないことの前兆とされたらしい。そういえば、離れて住む養子がいつくしゃみをしないとも限らないのでそれを心配して絶えず「くさめ、くさめ」と呪文を唱える尼の話が『徒然草』にあった。当時はくしゃみは縁起が悪い、忌むべきものだったらしい。しかし『枕草子』の178段では、「したり顔なるもの 正月一日にさいそに鼻ひたるもの」とあって、元日に最初にくしゃみした者が得意げな顔をする、とある。ただしそれは下�(げろう)よ、とあるから上品な人間はそういう顔はしなかったのだろう。いかにも身分の低い者には辛らつな少納言らしい表現。
 
 今日は久し振りの雨。こんな日は家にいて頼まれた仕事を片付けなければと思いながら、積んだままの本につい手が伸びてしまう。橘曙覧ではないが、「たのしみは珍しき書人にかり はじめひとひら広げたる時」あるいは「たのしみはそぞろ読みゆく書の中に 我れとひとしき人をみし時」である。
 写真は京都松尾神社の迎春の絵馬。もうお正月気分。

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 12月10日(日)曇天。朝、西の空に小さく虹が架かる。東京で独り亡くなった知人が今日、荼毘に付されるという。虹を仰いで、しばし黙祷。今日、12月10日は太田垣蓮月(1791〜1875)の命日。連月尼は明治8年のこの日、西賀茂神光院の茶所で亡くなった。享年85歳。お墓は西賀茂西方寺の小谷墓地にある。大きな桜の木の下に小さなお墓があって、木の根に持ち上げられて墓石が傾いていたのを、近くの石工さんが真直ぐ立て直してくれた。連月は藤堂藩伊賀上野城代家老職、藤堂良聖の庶子として京都に生まれ、すぐに太田垣家の養女となって成長した。二度結婚したが、夫にも子どもたちにも先立たれ、33歳のとき出家。歌を詠み、てびねりの焼き物を作って日を送り、60歳のころ、14歳になる富岡家の猷輔を侍童として同居させ、教育にあたる。のちの富岡鉄斎である。連月は少しでもお金が溜まると困っている人々を助けるために喜捨をし、自分は清貧の暮らしを続けた。鴨川に架かる丸太町橋を独力で架けたことでも有名。社会福祉などという言葉のないときに、こつこつと喜捨を続けたことに胸打たれる。
 連月尼の生涯については杉本秀太郎の名著『太田垣連月』(筑摩書房)に詳しい。これによると、連月尼は亡くなる前に「無用の者が消えてゆくのに多用の人を煩わせるにはおよばないから、だれにも知らせてくれるな、ただ、死んでしまったら富岡(鉄斎)にだけ伝えてもらいたい」と頼んでおり、鉄斎が駆けつけたとき、連月はもう浄土に向っていたという。連月はかねてより旅立つときの支度も準備していて、遺体を包むための白木綿には辞世の歌が記されていた。「ねがはくはのちの連の花のうへに くもらぬ月をみるよしもがな」。
 連月の墓石には鉄斎の字で「太田垣連月墓」とだけ刻まれている。いつお参りしても香華が絶えないのは、いまだに幕末という怒涛の時代を、清らかに生きたこの女性を慕う人々がいるからだろう。愛する家族に先立たれ、若い時期に世の無常を知った人の、その後の長い人生を思うとき、私は頭を垂れずにはいられない。京都の花街の一つ、島原の揚屋「角屋」には文人たちの書画が数多く残っているが、ここで太田垣連月の短冊を見たことがある。歌はしかとは覚えてないが、花街の女性たちに詠んだ歌で、花街にいても決して自分を卑下することはない、自恃の心を忘れるな、というような意味の歌だったと記憶している。
 今日は連月の131回目の命日。遠近の亡くなった人を思う一日。
 写真は今朝の虹。

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 12月8日(金)曇り。今日は家にいて、溜まった仕事を片付ける。手紙、ハガキに返事を書く。東京で独り住まいだった知人が誰にも看取られず亡くなったという知らせ。やんぬるかな。生前折りにふれ、「葬儀不用、遺骨は海にまいて」と言っていたので、葬儀はなし。遺骨は縁りのお寺に納められるだろうとのこと。「来るべきものは来る、要るのは覚悟だ」とはいうものの、いくら覚悟をしていても、死んだ後の自分の体を自分で始末出来ないのは厄介なことだ。ブラック・ホールみたいな場所に飛び込んで終わり、というのならいいのだけど。安部公房の『箱舟さくら丸』だったかに、なんでも吸い込んでしまうトイレの穴が登場したが、あれは便利だと思った。産業廃棄物だって、核廃棄物だって、危ないものは全部飲み込んでくれる穴。それがどこに繋がっているのかと思うと怖いのだが。
 12月8日は第二次世界大戦開戦の日。1941年のこと。また、1980年のこの日、ジョン・レノンが拳銃で撃たれて亡くなった。まだ40歳だった。この年の5月7日には、諌早で作家活動をしていた野呂邦暢が42歳で急逝。遺稿となった『足音』は、病のため死を前にした女性の実らぬ恋を描いて、死の予感にみちた小説だった。人生のビター・アンド・スイート、それも氷雨に濡れたような悲哀にみちた物語だった。

 HDDに溜まった映画をダビングするため、DVDを買いに西院にある電気店へ行く。四条通西大路の東角にある高山寺の門前に「淳和院跡」の石柱がある。電気店はそこから200メートルほど西にあって、この店の入り口の壁にも「淳和院跡」のパネルがある。この店の新築工事の際、建物跡や遺物がたくさん出土した。店内にその一部が展示されている。
 淳和院は別名西院といい、淳和天皇が皇太弟時代に造った離宮で、のちに後院となった。その後淳和院と名を改め、天皇は833年にここで仁明天皇に譲位し、840年にこの地で亡くなった。自分が死んだ後、墓をつくるな、遺灰は山に撒くように、と遺言した人。
 写真は左井通りを北に入ったところにある春日神社。電気店のすぐ近くにある。奈良の春日神社を勧請したもので、淳和院の鎮守だったもの。本殿前に鹿がいるのはそれゆえ。

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 12月7日(木)曇りのち雨。表千家の北山会館で開催中の
「九州古陶磁名品展 田中丸コレクション」を見てきた。田中丸コレクションは九州古陶磁のコレクションとしては、全国でも屈指のもの。今回、唐津、伊万里、鍋島をはじめ、高取、上野、薩摩、現川、長与など九州陶磁の銘品ばかり、100点余が展示されていた。九州、とくに肥前のやきものは私には馴染み深いもの、一つ一つを食い入るように見てきた。中に諌早のやきもの「現川焼」の皿が2枚あった。鉄分の多い陶土を薄づくりして、白い化粧土で刷毛目模様を描いたもの。繊細で優美なところから、西の仁清とよばれた。作られた期間が短いので、製品はそんなに多くない。
 コレクターの田中丸善八氏(1898〜1973)は佐賀出身で、玉屋百貨店の創業者。大正時代、南洋貿易の仕事で訪れたインドネシアで故郷肥前の陶磁器と会い、その素晴らしさに目を奪われて収集を始めたそうだ。この春、重要文化財に指定された「絵唐津あやめ文茶碗」は、家一軒分の金額で入手したという。私は唐津、とくに斑唐津と呼ばれる鼠色に釉がかかった器が好きだが、今回も小ぶりだが品格のある斑唐津が出品されていた。たっぷりとした奥高麗、とくさ文様の絵唐津など、写真でしか見たことがなかった茶碗にも会うことができた。茶陶が多いのは、会場が表千家会館というせいもあるのだろうが、田中丸善八がこれらの器を用いてよく茶会を開いていたことから。
 私はやきものに関しては肥前ナショナリストで、土ものは唐津、磁器は伊万里がいちばんと思っている。わが愛する肥前のやきものをじっくり眺めることができて、まさに至福のひとときであった。
 休憩室でお茶をいただいたが、茶碗は唐津の皮鯨手だった。
 

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 12月6日(水)。曇り。「――私は貧しい。しかし人の持っているものを、一つだけ私も持っている。それは誕生日だ!」という意味の詩が西洋にあった・・・、とこれは高田保の『ぶらりひょうたん』からの引用。だからどうだというわけではないが、今日は私の誕生日。昨日、岐阜から友人が出てきて宵山と称してふぐ料理で祝ってくれた。若いころはこんなに長生きするとは思ってもいなかったが、まあ、ここまで来たら、生きられる間は生きて、世の中がどうなっていくか見たいものだと思う。長生きが必ずしも長寿、ではないのが悲しいが、少なくとも、真面目に働いてきた者が安心して老いることのできる世の中であってほしい。年をとらないと見えないものもある。若いときは解らなかったことが、老いてはじめて、ああそうだったのかと胸におちることもある。もう多くのものはいらないし、人と競争することもない。「老い」は精神の自由と解放につながる歓迎すべきことなのだ。高齢化社会を憂えてばかりいずに、成熟社会到来を喜ぶべきではないかしらん。そのためには、元気で長生きが不可欠かもしれないが・・・。

 写真は西陣にある今宮神社門前のあぶり餅屋。時代劇にでてくるような佇まい。門前の紅葉はまだ赤く見ごろだった。

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