2007年10月

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 10月31日(水)晴れ。天気予報では雨ということだったが、今朝の京都は快晴。午前中、大童で仕事を済ませ、午後から百万遍の知恩寺へ行く。恒例の秋の古本まつりが今日から始まったのだ。午後3時には四条河原町で人に会う約束があるので、ゆっくりとしてはいられない。馴染みの店をいくつか廻って、講談社学術文庫など10数冊購入。お天気がいいせいか、結構な人出だった。最近は古本市に学生ではない若い女性の姿が増えていて、何とも頼もしいこと。若い女性たちが「温泉」のイメージを変えたように、「古本界」のイメージにも大変革があるかもしれない。(もっとも最近は若い女性が経営する古本屋が増えていて、暗い、寂しい、カビ臭いといった古本屋のイメージは、もう払拭されているようだが)。
 200円均一本のコーナーに、柳田國男や折口信夫、斉藤茂吉などの全集の端本があるのを見ると、何とも切なくなる。岩波書店版の『大岡昇平全集』(全18巻 1982年)が20000円というので心が動いたが、全集はまた出るからと今回はパス。オークションに「古事類苑」全51冊が最低価格60000円、谷崎潤一郎全集28冊が同じく10000円、漱石全集18冊が同7000円とあって、溜息が出た。河上肇全集にいたっては36冊で20000円である。勿論これは最低価格だから、落札されるときはもっと高くなっているのだろうが・・・。とても全部は廻れなかったが、馴染みの店で、安東次男、赤坂憲雄、林屋辰三郎などの本を手に入れてきた。古本まつりは11月4日までだが、再度来る時間はなさそう。
 明日から泊りがけで岐阜行き。高島屋で、岐阜へのお土産に山中塗りのサラダボウルとノリタケのコーヒーカップを購入。贈物とはいえ、自分が使いたいものばかりなり。

 写真は古本まつり会場。今出川通り百万遍知恩寺の山門。

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 10月29日(月)晴れ。早朝より溜まった家事や仕事に勤しむ。一息ついたところで古文書解読の宿題にとりかかるが、難しいこと限りなし。まさに判じ読み。目が疲れたので、週末に訪れた淡路島での写真を眺めて一休み。淡路島といえば、以前、灰谷健次郎が自給自足を目指してこの島の育波黒谷というところに住んでいたことがあった。そのときのことを書いたエッセイ集を取り出して確かめてみると、灰谷健次郎が淡路島へ家を建てて移住したのは1980年のこと。米をつくり、野菜を育てて、本当に自給自足の生活をしたらしい。彼はその後、沖縄の渡嘉敷島へ移り住み、そこでも海に潜って魚を採り、畑で野菜づくりをして暮したそうだ。私は地方の町育ちで、海も山も眺めるだけ、生産とは無縁で大人になったが、消費するだけの暮らしにものすごく後ろめたいものを感じている。自給自足の生活は夢だが、とてもかないそうにない夢だと思っている。灰谷健次郎はガンジーがタゴールに言った言葉「タゴールよ、肉体労働によってパン代を稼げ。なにびととも、労働の義務から自由ではない」を自ら実践するために、淡路島へ移住したという。島での暮らしのあれこれは『島で暮す』(理論社 1085年)に詳しい。彼は児童文学者だから、この自給自足の島暮らしの体験をもとに、『島物語』という全5巻の物語を書いた。神戸から淡路島へ移住した一家の物語だ。
 私が大人になっても『ロビンソン・クルーソー』が好きなのは、これもある種の自給自足の物語だからだろう。クルーソーは孤独だったが、灰谷健次郎は島の人たちに受け入れられて、自然との対話生活を送ることができたようだ。現代のように何事も分業化が進んでしまうと、自分の居場所がどこにあるのか不安になる。畑仕事は自分がオーナーでかつ被雇用者だから、責任の所在が明確でわかりやすい。さぼれば畑は駄目になるし、真面目にやればちゃんと野菜はこたえてくれる。(らしい)
 昨日、淡路島を車で走ったときは気がつかなかったが、さっき台所でタマネギを見て灰谷健次郎のことを思い出した。彼が住んでいた黒谷は淡路島の北西部にあり、12年前の大震災ではかなりの被害がでたらしい。
 灰谷健次郎は昨年11月23日に亡くなった。もうすぐ一年になる。

 写真は淡路島で見た八重咲きのコスモス。

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 10月28日(日)晴れ。土曜の午後から泊りがけで淡路島へ出かけてきた。骨休みの旅なので、のんびりと海を眺め、淡路牛と瀬戸内海の魚を味わってきた。島の最南端にあるホテルの窓からは、眼の前に大鳴門橋が見える。橋の向こうはもう四国の阿波徳島。朝から橋の東詰にある道の駅まで車を走らせ、大橋の下の展望台からうず潮を見る。激しい潮流がうずを作り、その上を大小いくつもの船が進んでいく。この辺りはいい漁場なのか、海上には多くの漁船が点在していた。島の南西部にある阿那賀の丘の上に、大きな風力発電の風車が並んでいる。淡路島は風の島でもあるのだろうか、島内にいくつもの風車を見かけた。淡路島といえばタマネギ、淡路牛(牧場)、瓦(窯業)、七福神、人形浄瑠璃、そして高田屋嘉兵衛と淳仁天皇。そうそう、国産み神話のオノコロ島神社とイザナギ神社もある。高田屋嘉兵衛は司馬遼太郎の『菜の花の沖』の主人公。池澤夏樹の小説『静かな大地』も、淡路島から北海道に移住した人達の物語だった。淡路廃帝と呼ばれた淳仁天皇は天武天皇の皇子・舎人親王の七男で、孝謙天皇に譲位され即位した。しかし道鏡を重用した孝謙上皇によって地位を剥奪され、淡路に流され亡くなったという。タマネギ畑の中に天皇陵とされる古墳がある。権力闘争の犠牲となった気の毒な天皇で長く廃帝とされていたが、明治3年(1870)、弘文天皇(大友皇子)などとともに追号された。
 島の北部には目を見張るほど立派な、相当費用をかけたと思われる国立公園があったが、私には島内にいくつもある牧場で子牛たちを見ているほうがずっと楽しかった。すっかり頭を空っぽにして帰宅。さて、明日からまた忙しい日常が始まる。

 写真は大鳴門橋。うず潮の中を船が走っていく。

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 10月27日(土)朝は雨。午後からは晴れの予報。昨日の午後、雨の中を奈良国立博物館へ行ってきた。今日から始まる「正倉院展」のプレヴュー、レセプションに。会期中はすごい人出で毎年、宝物を見にいったのか、人の頭を見に行ったのかわからないほどだが、昨日はゆっくりと見ることができた。ろうけつ染めの屏風や古裂、古文書類をじっくりと見てきた。人だかりがしていたのは、金銀平脱皮箱や紫檀木画箱のような工芸品。文様の美しさと細工の見事さに魅入られる。正倉院展から本館の平常展に回り、法隆寺の木造多門天立像や元興寺の木造薬師如来像などを観る。法隆寺の多門天はほっそりとして大陸的なお顔をしておられる。興福寺では国宝館の特別公開が始まっていた。北円堂の無着菩薩に会いたいが、残念ながらタイムオーバー。京都の寺院は庭、奈良のお寺は仏像、だとよくいわれるが、まこと、「奈良には古き仏たち」である。
 久し振りの奈良だが、仏さまたちを拝んだあとは寄り道をせず、京都へ直帰。京都駅で、出張先の岡山から戻ってきたつれあいと待ち合わせ、グランヴィア内の「浮橋」で食事。料理人の一人が勝海舟の子孫だというので、にわかに幕末談義で盛り上がる。
 会場に展示されていた年表によると、「寛仁3年(1019)9月30日、藤原道長が勅封倉を開き、宝物を見る」とあったので、帰宅後、『御堂関白記』を開いてその日の条を見たが、何も記述はなかった。

 写真は奈良国立博物館新館。写真を撮っていると、寄ってきた鹿に足を舐められた。

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 10月26日(金)雨のち曇り。昨日は稲垣足穂(1900−1977)の30回目の命日だった。足穂のお墓は京都市左京区の法然院にある。谷崎潤一郎や九鬼周造も眠る寺で、足穂のお墓の近くには人類学者の足立文太郎も眠っている。京都で掃苔をする人が必ず訪れるお寺の一つ。さて、今日、10月26日はワルター・ギーゼキング(1895−1956)の命日。ドイツ人だが、フランスで育ったせいか、ドビュッシーとラヴェルを得意とした。私が初めて聴いたドビュッシーはこの人の演奏によるものだった。もちろんレコードで。私がこの人を好きなのは、このピアニストが類いまれな蝶のコレクターだったから。ギーゼキングの父親は医者で、昆虫学者としても専門家はだしの人だったという。その父親の感化で、ギーゼキングも蝶のコレクションを始めたらしい。演奏旅行で世界中を周り、行く先々で蝶の採集を行った。ベジタリアンでノン・スモーカー、自然を愛するナチュラリストだったというから、いま生きていたら音楽以外の世界でも尊重されたことだろう。半世紀も前に亡くなったピアニストだが、CDで演奏を聴くことができるのはうれしいことだ。

 写真は嵯峨野直指庵近くの溜池。ホテイアオイの花が満開。このホテイアオイは繁殖力が旺盛で、いまや迷惑な植物らしい。家庭でこのホテイアオイを処分するときは生ゴミといっしょに出すように、決して川や池に棄てないで、と注意書きがあった。

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 10月24日(水)晴れ。午前中、「小右記」講読会で醍醐行き。前回に続いて、『小右記』長和三(1014)年二月十日の条を読む。内裏の火事の際、焼死者が出ており、火事と死の穢れについての考察あり。最後の一行(これが私の担当分だった)を残して時間切れとなる。帰途、祇園のIさんの所に寄り、荷物を受け取って帰宅。いくつか留守電とファクスあり。返事は後回しにして、『稲垣足穂全集』を読む。といっても、全13巻を読み通しているわけではない。京都で書かれた随筆を中心に。第9巻の「宇治桃山はわたしの里」にこんな下りがあった。

 「寛治ノハジメ、入道俊綱、光明寺ヲ山荘ノホトリニ移シテ持仏堂トナス。即成院ト云ヒ、後ニ伏見寺ト称ス」(中右記) しかし、事実は逆で、伏見寺が後即成院と呼ばれるようになったのである。光明院というのは、それよりも約九十年前に、ここで恵心僧都がひらいていた説教場のことを云う。

 ここに出てくる即成院とは、先週の日曜日「二十五菩薩お練り供養」が行われた泉涌寺の即成院のことである。現在の即成院には高さが3メートル余もある石の宝塔があって、那須与一の墓とされているが、もともとこの石塔は藤原(橘)俊綱の墓といわれていたものらしい。伏見寺(即成院)は秀吉の伏見城築城の際、深草大亀谷に移り、明治に入って更に泉涌寺の現在地に移されている。宗旨替えがあったり、移転したりと、お寺の歴史にも様々な変遷があるものだ。

 足穂は昭和26年から35年まで、宇治の恵心院内に住んでいた。何年か前、恵心院を訪ねたとき、たまたま庭に出ておられたお寺の方(女性)から、親から聞いた話として、当時の足穂のことなどを伺ったことがある。やさしい人だったそうですよ、とのことだったが。足穂と結婚して京都に迎えた(引き取った)志代夫人は、有髪の尼で、伏見の児童相談所に勤務していた。彼女は足穂のことを、「いままで扱ったなかで、一番大きな浮浪児だ」と言っていたそうである。結婚までの経過は「東京遁走曲」に詳しく書かれているが、戦中戦後の足穂の窮乏ぶりは、いかに物資欠乏の時代とはいえ、想像を絶するものがある。正真正銘の無一物。

 写真はサンゴジュの実。

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 10月22日(月)晴れ。用事があって町へ出たらあちこちで交通規制にあい、今日が時代祭だと気がついた。丸太町の堺町御門付近で、御所を出てくる行列を見る。時代祭は明治28年(1895)に、平安遷都1100年を記念して始まったもので、京都ではごく新しい祭である。明治から平安京の誕生までを遡って見せる時代風俗行列とでもいおうか。ただの仮装パレードと異なるところは、時代考証がよくなされていて、とくに衣裳や調度など、参考になるので楽しみながら見物する。行列の先頭を行く維新勤王隊は私が住んでいる朱雀地区(平安講社八)の担当で、鼓笛隊は地区の神社の祭などでも馴染みのもの。幕末維新時、実際に活躍したのは丹波の郷士たちからなる官軍派の山国隊で、京北の山国神社の祭では本場の鼓笛隊が登場するそうだ。
 時代祭は平安神宮に祀られた桓武天皇と孝明天皇の祭なので、京都の歴史と文化を見せる祭といっても、あくまで朝廷尊重のもの、これまで朝敵とされた足利尊氏ひきいる室町時代は行列にはなかった。だが今年から室町時代も入ることになって、まっさらの行列が登場していた。室町洛中風俗列はなんとも華やかな風流おどりで、室町幕府執政列がそれに続く。しかしそのすぐ後から楠木正成らの行列がやってきて、歴史のアイロニーを感じずにはいられなかった。
 
 約束の時間が迫ったので、行列の半分まで見たところで御所前を去る。寺町の喫茶店でMさんと仕事の打ち合わせ。今月、来月はまた追われることになる。来月後半は休みなし。夜、Iさんから電話。来週会う約束。山ばなの平八茶屋で川魚料理を食べることにする。

 烏丸三条の大垣書店で雑誌「ななじゅうまる」の創刊号を購入。先日、コトクロスにオープンしたブック・ファーストで尋ねたが、店員は「調べましたが、わかりません」ということだった。大垣書店でも「さあ」と首を傾げていたが、探してもらったら、平台に積んであった。70代を対象とした雑誌だそうだ。関西の本屋さん特集、とあったので入手したのだが、開いてみると、ちゃんとこの大垣書店烏丸三条店も載っていた。これで210円は安いと思ったが、特集のページ以外はカタログ雑誌。なるほどね。

 写真は時代祭の皇女和宮。

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 10月21日(日)晴れ。爽やかな朝。午後から即成寺の「二十五菩薩お練り供養」を見に行く。即成院は泉涌寺の塔頭で、東大路の泉涌寺道を東に入ったところにある。お練りが始まる午後1時に到着。境内にはカメラをかかえた見物客でいっぱい。この「お練り供養」は、臨終の際に阿弥陀如来が25菩薩と共に迎えにきて、極楽浄土に導いてくださるという浄土信仰をわかりやすく見せてくれるもの。本堂を浄土とし、境内の地蔵堂を現世に見立てて、その二つのお堂の間に架かる木橋(来迎橋)の上を、金襴の装束をつけた菩薩たちが渡っていくというもの。法師、僧侶、和讃の女性たち、稚児、などが行き来した後、いよいよ25菩薩が登場する。25の菩薩(金色の面をつけた)はそれぞれ手に楽器などをもち、ゆっくりと橋を渡っていく。昔の人たちはこの様子を見て極楽浄土を願ったことだろう。そばにいた観光客らしい若い女性たちが(「そうだ京都行こう」のガイドブックを手にしていた)菩薩を見て、「わっ、こわ」「きもい」と言ったのには驚いた。来迎橋には五色の糸(テープ)が垂らされていて、そういえば道長が臨終の際に握っていたというのはこれかと思ったことだ。仏教の教えを具現化したものといえば、壬生や清涼寺などの「大念仏狂言」もそうだろう。多くの人々に教えを解り易く伝えるのに、これは恰好の行事だったにちがいない。さて、私も五色の糸をありがたく握ってきたが、果たして極楽浄土にいけるものやら。

 写真は「二十五菩薩お練り供養」の菩薩さまたち。

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 10月21日(日)晴れ。承前。昨日、長楽寺からの帰途、19日にオープンしたコトクロス阪急河原町に寄ってきた。四条河原の北東角に新しくできたビルで、ここの3階〜6階にブックファーストが入っているのだ。エスカレーターで昇っていくと、各階とも明るいフロアにゆっくりと書棚が並んでいる。6階は南側の半分がスイーツバイキングの店になっていて、昨日は行列ができていた。6階の書店の中にも窓際に小さなカフェのコーナーがあって、コーヒーは300円。買った本をここで読みながらコーヒータイムというのもいい。ビルの6階なので、見晴らしもいいし。ビルの名前の「コトクロス」は古都の交差点、という意味ではないかしら。祇園祭りの辻回しが眼の前で見られる特等席。本の量としてはアバンティやジュンク堂には敵わないが、町歩きの休憩所にはなるかも。

 今日は東寺の弘法さんだが午前中は所用があって動けず。午後から泉涌寺塔頭の即成院に、「二十五菩薩お練り供養」を見に行く予定。今日は各地で祭りが行われていて、アマチュアカメラマンは忙しいことだろう。
 
 写真は昨日、長楽寺の墓所(頼山陽)から見た風景。いちばん高い山が愛宕山。我が家も見えた。

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 10月20日(土)晴れ。昨日は一日雨だったが、今朝は快晴。珍しく週末に予定のないつれあいを誘って、東山を散策。青蓮院と長楽寺へ行ってみることにする。三条通りをずっと東へ歩いて、粟田口から神宮道を南へ入る。知恩院へ続く細い通りを上るとすぐ左手に、楠の巨木が門前にそびえる青蓮院がある。青蓮院は天台宗の門跡寺院の一つで、代々皇族が門主をつとめ、粟田御所の名がある。なかなか風格のあるお寺。室町時代の相阿弥作の庭と江戸時代の小堀遠州作の庭が一体化して、しかも自然に融合しているところがいい。庭を見ながら抹茶をいただく。小御所の渡り廊下に面したところに、横長の大きな手水鉢があった。自然石を刳りぬいたもので、立て札に「豊太閤寄進の一文字手水鉢」とある。珍しい形で、波を立てて走る船のように見えないこともない。宸殿では結婚式の最中で、私たちが本堂でお参りしている間に式が終ったのか、庭へ出るとちょうど記念撮影が始まるところだった。苔の緑に花嫁衣裳が映えて、遠目にも美しい。最近は仏前結婚式が流行っているようで、京都の寺院でよく見かけるようになった。平安時代の作「絹本着色不動明王二童子像」は国宝で、本堂にはその複製が掛けられていた。不動明王の体が青く描かれているので、「青不動」といわれるそうだ。この寺が最も栄えたのは三世門主慈円の時という。『愚管抄』の著者で、法然・親鸞を庇護したことでも知られている。法然ゆかりの知恩院、親鸞ゆかりの大谷廟が青蓮院のそばにあるのはそういう理由からかと納得した。
 青蓮院を出て円山公園の上にある長楽寺へ。円山公園と大谷廟の間に献灯が並ぶ細い参道があり、青紅葉が影を落す中を上っていく。お寺は延暦24年(805)、桓武天皇の勅命により伝教大師が創建したものといわれている。当初は天台宗だったが、14世紀に時宗に改められた。壇ノ浦で安徳帝らと共に入水したが助けられて京に戻された建礼門院徳子が、ここで尼となったという。彼女にまつわる品々があるそうだが、今日からは「遊行上人とその秘宝展」が開催されていて、一遍上人像をはじめ寺宝の数々を見ることができた。先週、加賀で訪れたばかりの「実盛」ゆかりの遊行上人像もあった。本尊の観音さまは秘仏で厨子しか見ることはできないが、厨子の前に立っておられた阿弥陀三尊像がよかった。恵心僧都の手になる崇徳上皇御念持仏とあり、大きくはないが尊いお顔をしておられた。
 背後の山手に頼山陽のお墓があって、京都市街を一望する、そこからの眺めがまた格別。青蓮院に比べると長楽寺の庭は小さくて素朴な感じ。椿の花もないのに、池のそばのカエデの木にメジロが群れて飛び交い、池のまわりには秋海棠とキンミズヒキが咲き乱れていた。

 写真は長楽寺の本堂。あとひと月もすればこの紅葉が色づいて真っ赤になる。

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 10月18日(木)晴れ。先週末、山中に携えていった本は、正直なところ私には少々退屈だった。読むには読んだがあまり弾まなかった。2冊しか持っていかなかったので代わりの本がないのは実に苦痛だった。今日、川本三郎の『旅先でビール』(潮出版社 2005年)を読み、この本にすればよかったと後悔した。これはどこから読んでも心弾む本。たとえば「映画、文学を追って ひとり旅」という文は、「旅はひとりと決めている」と書き出されている。ひとり遊びの好きな私はそれだけで嬉しくなる。「車内読書の楽しみ」という文もある。本を読むためにわざわざ電車に乗る、という話。仕事がらみであっても川本さんの旅は常に自由で気まま。旅先での見聞は率直かつストレートだから、彼が「おいしい」と書いたものは間違いない、と思ってしまう。私はこの人の『日本すみずみ紀行』(六興出版 1987年)を読んで、すぐに熊野へ出かけたことがある。

●四方田犬彦『月島物語ふたたび』(工作舎 2007年)を読む。以前出た『月島物語』に、2006年に月島を再訪したときの文を加えたもの。『月島物語』(集英社 1992年)は彼が6年ほどここで暮したときの見聞をもとに書かれた都市論というか文学論で、面白く読んだ記憶がある。ちょうど東京にレトロブームが起きていたころではないだろうか。この人にはおよそ20年ぶりに訪れた韓国のことを書いた『ソウルの風景』(岩波新書 2001年)という本もあり、よくよく再訪記が好きな人らしい。以前、この人の『回避と拘泥』(立風書房 1994年)をアイロニカルに読んだ記憶がある。

 京都はすっかり秋の気配。朝の風の冷たくなったこと。日中はまだ半袖のTシャツで仕事しているが、日が沈んだ途端、ひやりとするようになった。でも町で若い女性が首にぐるぐるとマフラー(長いスカーフか)を巻き、ニットのセーターにロングブーツ姿で歩いているのを見ると、おしゃれをするのも大変だなあと思う。季節を先取り、なのだろうが、あれではさぞや暑かろう。これを老婆心というのかしらん。

 写真は神泉苑の池に浮んだ龍頭船(のつもり)。

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 10月17日(水)晴れ。今日、10月17日は鮎川信夫(1920−1986)の命日。昨夜、何気なく書棚の本を動かしていると、本棚の奥から「鮎川信夫全詩集」(思潮社 1080年)が出てきた。隠れるには大きすぎる本なのに。この詩集には文字通り戦後1946年から1978年までに書かれた詩のほとんどが収録されている。初期の詩には当然ながら戦争の影が濃い。鮎川の詩をリアルタイムに読んだことはなく、彼の詩に親しんだのはずっと後のこと。詩人の晩年にようやく追いついたという感じではなかったか。その晩年に書かれた詩を一つ。

     跳躍へのレッスン

 見えがくれに歩きながら
 ときには肩をよせあい
 迷路をさまよったあげくに
 夜明けとも日暮れともつかぬ薄明の中で
 ぼくらは崖に立っている

 道に迷ったところで
 どちらを向くかは身体にきめさせた
 その日その日の
 快楽と苦痛の結果がこれだ
 一期は夢だから
 狂え狂えといっても
 身は現のままで
 千仭の崖っぷちに立つ

 雲切れの空にのぞく
 まがまがしい双つ星は
 離れまいとして
 必死に輝きを増している
 いとしきひとよ
 あそこまでは跳べる
 ぼくらの翼で
 試してみようではないか



 写真は近所で見かけたザクロの実。この季節、町を歩くといろんな木の実が見られる。街路樹のハナミズキには真っ赤な実が、モチノキ、エゴノキ、ソヨゴなど、小鳥より先に見つけているのではないかしら。フウの実の棘も形になってきた。

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 10月16日(火)晴れ。加賀市篠原に斉藤別当実盛の墓と伝えられる塚がある。実盛は『平家物語』巻七の「篠原合戦」「実盛の最後」に登場する平家の武将。このとき齢72歳。篠原合戦は木曾義仲との戦いで、実盛はここを死に場所と思い定め、年寄りと侮られぬよう白髪を染めて戦いに臨んでいた。味方の軍勢が敗退する中、最後までとどまり、木曾義仲勢の若武者・手塚光盛に首を討ち取られる。少年時代、この実盛に命を助けられたことがある義仲は実盛の首を見て、涙したという。謡曲「実盛」は、後に遊行上人がこの地を訪れ実盛の霊を鎮め、この塚に立寄って回向したという伝説に基づいて作られたもの。実盛がこのとき身につけていたという兜が小松の多太神社に奉納されていて、江戸時代に神社を訪れた芭蕉は、
 むざんやな甲の下のきりぎりす 
 という句を詠んでいる。

 老将の戦いといえば康平5年(1062)の「衣川のたたかい」が思い出される。敗退する安倍貞任を追ってきた源義家が「衣のたてはほころびにけり」と貞任の背に詠みかけると、振り返った貞任が「年を経し糸の乱れの苦しさに」と詠み返した。まさに「さばかりの戦ひの中に、やさしかりけることかな」(『古今著聞集』)である。

 貞任の「年を経し糸の乱れの苦しさに」が実感される年齢になってこの実盛塚を見ると、一段と哀れさが増す心地がする。

 篠原合戦地跡は加佐岬付近にあり、松林の入り口に「源平合戦戦没者供養碑」の案内板が立っていた。その付近は旧木曾街道でもあったらしい。

 写真は加賀篠原の実盛塚。民家の裏にあるがよく手入れされ、土地の人々に大事にされているのがわかる。

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 10月14日(日)晴れ。朝、大聖寺川沿いの渓谷を散歩。いつも覗く山中塗の漆器屋で小ぶりの片口を購入。そばつゆ入れに。ホテルのフロント係のOさんが、紅葉のころにぜひまたいらしてください、という。紅葉のころは忙しくて動けそうにない。ホテルを出て、往路と同様、あちこち寄り道をしながら帰ることにする。まずは片山津へ。源平合戦跡の実盛塚から橋立漁港、加佐岬、北前船主屋敷・蔵六園、吉崎御坊、芦原温泉、三国神社、東尋坊にちょっと寄り、そこから福井へ戻って北陸自動車道〜名神自動車道で京都へ戻る。
 加賀の橋立には北前船の船主屋敷があって、その中の一つ「蔵六園」を見学した。江戸末期の建物で、座敷や蔵に所狭しと古美術品や調度品が並べられた様子はまるで骨董屋のような趣。全国各地の銘石を集めた庭は、京都の侘び寂びの庭を見慣れた目には少々うるさく思われた。石の間に木や草が繁りすぎなのである。それよりも500種類もの山野草が生息する奥の庭がよかった。ここは当主夫人の自慢の庭らしく、いま見られる山野草の花の名をつぶさに教えてくれる。これだけの山野草が育っている庭は珍しいそうで、先だっては英国から植物学者が訪ねてきたとのこと。ここの庭で見つかったアザミは新種だそうだが、民家の庭で発見されたせいで新種の登録ができないという。自生地が自然の山や野でないと、認められないそうだ。彼女は「”北前アザミ”と名付けて大切にしています」。ここで20年ぶりにツルニンジンの花を見た。以前、長崎の多良岳で会って以来のこと。来館者のほとんどが、この庭を見て、「草ぼうぼうの荒れた庭」と言うらしい。しかし私には山野草の宝庫に見えた。

 写真は東尋坊。凪いだ海の向うに水平線がくっきりと。

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 10月13日(土)晴れ。山中行き。いつもは高速で真直ぐ目的地へ向うのだが、今日は娘と二人連れなので、湖西道路から敦賀、越前海岸経由で山中へ。急に仕事が入っていけなくなったつれあいに代わり、娘が同行してくれることになったもの。せっかくだからとせっせと道草を食いながら車を走らせる。近江の高島では紫式部にあやかり白髭神社に詣で、桜並木で有名な海津からR161で敦賀へ。途中、国境スキー場の傍を通る。そういえば近江鉄道が、ここや箱館山スキー場、彦根プリンスホテルなどを売却することになったという。暖冬で雪が降らなくなり、スキー場の経営が苦しくなったらしい。このまま温暖化が進めば、琵琶湖周辺からスキー場が消えてしまうのも時間の問題ではないだろうか。
 敦賀の町を過ぎて越前海岸をひたすら走る。越前カニの看板多し。民宿が途切れることなく並んでいるのは、釣り客用だろうか、それとも「カニ」客目当てだろうか。年々、町が小奇麗になっているのはまさに「カニ」のおかげか。越前から海に別れを告げて鯖江まで行き、鯖江I・Cから加賀へ向う。越前から鯖江へ向う途中、織田町というところを通る。あちこちに「織田家誕生の地」というのぼりが立っている。織田信長ゆかりの地らしい。戦国時代のことはさっぱり。(他の時代のことだって同様だが)。近くまで来たが、今回丸岡はパス。沿道の蕎麦畑に白い花が満開だった。加賀で高速を下り、大聖寺の硲伊之助美術館や古九谷美術館などを回って山中の定宿へ。「奥の細道」で芭蕉も愛でた湯。食事のあと、持参した本を読みながら、いつの間にか夢の中へ。

●佐伯一麦『散歩歳時記』(日本経済新聞社 2005年)
●奈良本辰也『歴史と風景』(芸艸堂 1983年)

 短い旅のお供にはこんな本がいい。

 写真は北陸路のソバ畑。真っ白な花が満開。

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 10月13日(土)晴れ。今朝の新聞で、山口県のマツノ書店が菊池寛賞を受賞したことを知った。受賞理由は「明治維新史に関する貴重な文献の復刻出版など、200点以上を刊行、社会的、文化的貢献を行った」とある。マツノ書店の前店主松村久さんには『六時閉店』(マツノ書店 1989年)というユニークな地方出版に関する自分史的本がある。まだ諫早にいたころ、この本を読んで感動し、女性ばかりの読書会にゲストとして来てもらったことがある。一面識もないのに、松村さんは快く引き受けてくださり、当日は、はるばる自分で運転するベンツで諫早まで出て来られた。マツノ書店の歴史はなかなかユニークで、貸本屋のかたわら読書会を長く続けて地方の公共図書館的役割を果たし、古本屋に転じてからは貴重な歴史資料の復刻出版に取り組むなど、つねに読者や文化の受容者の立場で行動してこられた。(と思う)。復刻出版に関してはDMでの完全予約制なので、本を出したものの売れずに大赤字などという失敗が無い。これも山口県史に関する文献に的を絞ったところがいいのだろう。まだ書きたいことがあるが、出かける時間が迫ったので、とまれ、マツノ書店さん、おめでとうございます。

 

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 10月12日(金)晴れ。京都駅近くのホテルへ、今夕到着予定のIさんに、本とお菓子を届けに行く。本は杉本秀太郎の『青い兎』(岩波書店)『音沙汰』(朝日新聞社)の2冊。お菓子は緑寿庵の金平糖。この週末は私も京都を留守にして会えないので、そのお詫び。フロントにIさんあてのメッセージを添えて荷物を預ける。帰途、東本願寺の別邸渉成園へ寄る。渉成園は別名枳殻邸(きこくてい)ともいい、17世紀なかばに東本願寺13代宣如上人の隠居所とされたもの。書院や複数の茶室、石川丈山作という池泉回遊式庭園を持つ広大なもので、京都タワーが見えなければ時空を超えて別世界に遊ぶ心地になれる。池の水には琵琶湖疎水の分流が取り入れられているとのこと。紅葉と桜のシーズンは訪れる人も多いのだろう。いまはススキと盛りを過ぎた萩、池の周りのお茶の木に白い花が咲いているばかり。ここでお月見をするといいだろうな・・・と趣のある橋がいくつも架かる池を眺めてきた。渉成園は平安前期に源融(嵯峨天皇皇子)が営んだ六条河原院の跡だとよくいわれるが、河原院はもう少し北側に位置するのではないかしらん。しかし庭の茶室のそばに塩釜や源融の供養塔などがあって、昔の人たちは趣向として愉しんだのだろう。
 枳殻邸の由来は邸の周囲に枳殻(カラタチ)が植えられていたことから。いまは高い塀に囲まれていて、カラタチは南側の門前に僅かに残っているだけ。硬い棘の間に見え隠れする青い実が少し色づいていた。
 
 八条口のアバンティ書店で購入。
●大庭みなこ『風紋』(新潮社 2007年)

 写真は渉成園の庭園。

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 10月11日(木)雨のち晴れ。昨日の午前中は「小右記」講読会で醍醐行き。会が終ったあと、いったん自宅に戻り、あらためて京都駅へ。朝、出がけに横浜に住む友人から電話あり、「2日前から大阪に来ていたが今日の夕方の新幹線で帰る。もし時間があったら駅のホームで会いたい、渡したいものがある」という。ゆっくり話す時間がなかったので、我儘なやつと思いながらも「OK]と返事した。新幹線の京都駅での停車時間は2分間。ドアが開いた途端、友人はホームに飛び降りて、「久し振り」。「顔を見たかっただけ」。言葉通り顔を見ただけで時間切れ。お土産と渡された小箱の中身は紅葉の形をしたチョコレートだった。
 昨日は快晴だったが、今朝は雨。それも8時ごろにはやんで午後からは日が射した。今日は一日在宅。読書の日。ヴォネガットの『国のない男』は今年の4月に亡くなったヴォネガットの最後の本。自らを人間主義者とよんだヴォネガットは待ち望んだ平和がなかなか訪れないことに絶望したのか、どことなく元気が無い。持ち前の皮肉やユーモアも湿りがちで、もう怒る元気もないといった感じ。でも戦争屋や政治屋たちへの風刺はシャープで辛辣。「うちの大統領はクリスチャンだって? アドルフ・ヒトラーもそうだった」だなんて。そんな辛辣な言葉のあとに、こんなメッセージも残している。

 唯一わたしがやりたかったのは、
 人々に笑いという救いを与えることだ。
 ユーモアは人の心を
 楽にする力がある。
 アスピリンのようなものだ。
 百年後、人類がまだ笑っていたら、
 わたしはきっとうれしいと思う。


 
 そういえばこんな詩があった。

 Laugh,and the world laughs with you;
Weep,and yuo weep alone;
For the sad old earth must borrow its mirth.
But has trouble enough of its own

笑えば、世界はあなたと共に笑う;
 泣けば、あなたは独りで泣く。
 なぜならこのみじめな地球は、喜びは借りなければならないが、悩みはあふれるほどあるから

 「Solitude」 エラ・W・ウイルコックス 飛田茂雄訳

 鶴見和子『遺言』(藤原書店 2007年)を読む。妹さんによる「病床日記」が巻頭にあって、2006年7月31日の臨終の様子も記されている。それによると和子氏はまわりにいる人たち一人一人にありがとうと感謝の言葉を残して息を引き取られたとのこと。この本に収められた彼女の最終講演は、「私は、わが去りしのちの世に残す言葉として、(憲法)九条を守ってください、(南方)曼荼羅のもっている知恵をよく考えてください。この二つのことを申し上げて、終りたいと思います。ありがとうございました」と結ばれている。

 二人の人間主義者の「遺言」は重たく熱い。

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 10月9日(月)曇り。朝、窓を開けると、マンションの10階の部屋までモクセイの香りが漂ってきた。ああ、もうそんな季節かと窓の外を見やる。野呂邦暢のエッセイ集『王国そして地図』(集英社 1977年)に、「モクセイ地図」という印象的な一文がある。

  「私は自分の土地に関して何枚かの地図をこしらえあげ た。一枚はモクセイ地図と呼んでいる。
 街のあちこちにあるモクセイの所在を示す地図である。ちゃんと紙に書きしるしているわけではない。私の脳裡にしかない紙に黄色い点を打つだけだ。ながいあいだ、一つの土地に暮していると、どの家の庭にどんな恰好のモクセイが枝をひろげているかは、おおよそ察しがつくようになった。
 高い塀にさえぎられて見えなくても、秋になれば漂ってくる香りで自然にそれと知られる。これは隠しようがない。だからある角を折れるときも、前もって流れてくる匂いを秘かに期待していることがある」

 野呂邦暢は街歩きの達人だった。自分が住む諫早の街のすみずみまで歩いてその土地にすむ精霊と一体になったような文章を書いた。その文章が少しも古びることなく、いつまでも瑞々しさを失わないのはそのせいなのかもしれない。
 モクセイの匂いに包まれながら街を歩く。伊勢丹で買い物したあと、八条口のアバンティ書店で本を購入。

●カート・ヴォネガット『国のない男』(NHK出版 2007年)
●阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』(ちくま文庫)
●池澤夏樹『虹の彼方に』(講談社 2007年)

 飛騨高山の友人から「待っているのに、高山祭に何故来ないのか」という電話。祭りは今日と明日とのこと。忘れていたわけではないが、今回は行けないと謝る。高山は急に寒くなってもう炬燵を出した、とのこと。そういえば何年か前、春の高山祭に行った時――4月13日ごろだったと思う――、高速道路に雪が積っていて、高山の桜はまだ堅いつぼみだった。その雪の中にザゼンソウが咲いていたっけ。高山からの帰途、一宮JCTで東海北陸自動車道から名神に入った途端、沿道に満開の桜が現れて、目を見張ったものだ。来年の春は高山へ行かなければ。

 写真はマンションの庭に咲いたモクセイの花。

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 10月7日(日)晴れ。近くの中学校で行われた区民体育祭に初めて参加する。今年はマンション自治会の役員なので動員がかかったのだ。自治会は地区の連合自治会に所属していて、今日はその地区連合会主催の体育祭。昨日、今日と、京都市内ではいっせいにこの地区ごとの体育祭が行われていて、地域共同体の結びつきの強さに感心させられる。同じマンション自治会の役員さんには京都市外からの転入者が多く、「京都は地域での行事が多いですね」「昔からの町衆による自治という伝統がまだ根強く残っているのかな」などと感想を交わす。しかし現在の区民自治会に昔のような自治力は期待できそうにない。だが体育祭に参加したおかげで、同じマンションに住む人たちと親しく話を交わすことができた。とくに世代が異なる人たちとは全く話す機会がないので、顔見知りになれただけでもよかった。若いお母さんが競技に出ている間、赤ちゃんを抱かせてもらった。赤ん坊は大きく目を見開いて、きょろきょろと見知らぬ人たちを見ている。この子の眼に世界はどのように映っているのだろう。幼い子どもたちは希望だ。健やかに育ってねと腕の中の暖かな体を抱きしめる。

 運動会といえば、小学校のころ、「待ちに待ちたり運動会 来たれり来たれり ああ愉快」という歌を歌わなかったかしら。「真っ先駆けて遅れはとらじ」とはいうものの、かけっこの苦手な私にはなかなか「ああ愉快」とはいかなかった。運動会の思い出といえば母が作ってくれたお弁当の海苔巻き。あれは本当に美味しかった!
 昼食時、役員仲間のKさんから行きつけのベトナム料理店の名を教えてもらう。フォが食べられるという。話しながら思い出した。フォが何かに似ているとずっと思っていたのだが、あの白くつるりとした食感は、アナゴの稚魚の「のれそれ」にそっくり。私がそう言うとKさんも「確かに」。「のれそれ」を食べた岡山児島の話から倉敷の大原美術館の話になり、岡山孤児院の石井十次の話になる。

 一日がかりの体育祭から解放されて午後5時帰宅。正直疲れ果てました。チーム(32自治会が参加)によっては敬老会かと見紛うところもあったが、――いや、ほとんどがそう――、リレー競技では若い人たちが活躍して、結構、盛り上がっていた。夏祭りとこの体育祭が済めば自治会役員の仕事はあらかた終ったようなもの。やれやれの一日だった。

 写真は区民体育祭。自治会対抗リレーでは惜しくも予選落ち。

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