2008年02月

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 2月28日(木)晴れ。今朝も京都の町はうっすらと雪化粧していた。京都盆地を三方から囲む山々も真っ白。仁和寺の五重塔の屋根が白く輝いている。「今朝は西山の天王山辺りまで白いよ」と言うと、「でも大山崎を過ぎると雪はないよ」とつれあいの返事。京都は雪でも大阪は晴天、ということが多いそうだ。
 今年は源氏物語が書かれてから千年というので、いろんな記念行事が開催されているが、それにあやかって出版物も目白押しのようだ。源氏物語と銘打てば中身はどうであれ売れるというので、便乗組みも少なくない(らしい)。紫式部が生きていたら、ものすごい印税を手にしていたことだろう。それと膨大なるパテント料も。源氏物語は汲めども尽きぬ宝の井戸のようなもの、これからも多くの人の懐をうるおすことだろう。などといささか卑俗なことを書いてしまったのも、近所の小さな書店に、写真のようなコーナーを見かけたからだ。いま日本では一年間に約8万点を越す出版物が発刊されている。1990年ごろはまだその半分くらいだったから、この20年で2倍に増えているわけだ。単純に計算しても毎日220点あまりの本や雑誌が出ているわけで、いまや本の洪水を通り越して、氾濫状態。新刊書はすぐに古本になり、読者の目にふれる機会もないまま消えていく本の方が多いのではないか。ベストセラー本が出ると、すぐ二番煎じの似たような本がわっと出る。馬鹿の次は品格、の氾濫というわけだ。新刊書店に行っても目が廻るだけだから、本を選ぶなら古本屋へ行くほうがいい。まあ、京都には古本屋みたいな新刊書店の三月書房があるからいいが。
 以前、石牟礼道子さんから新しい本の案内をいただいたことがある。「本が出るのは嬉しいが、森林破壊に手を貸しているようで心苦しい・・・」というようなことが書いてあった。ああ、石牟礼さんにしてこの言葉。以来、書店をのぞくたびに石牟礼さんのこの言葉を思い出してしまう。
 少女時代の夢はどこかの財閥が所有する私設図書館に勤めること、であった。私設図書館だから客は来ないし、好きなだけ本が読める、と単純に夢見たものだが。
 いまとなっては、手持ちの本を読み尽すことさえ難しい。きっと時間切れでお別れとなるのではないだろうか・・。

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 2月27日(水)曇り時々小雨。先週、祇園のFさんより電話をもらっていたので、来月彼女の店からデビューする舞妓ちゃんたちの様子を見に行く。去年の3月から「仕込みさん」として住み込みで頑張ってきた二人が、いよいよ一人前の舞妓として見世出しが決まったのだ。「先週から見習いとしてもうお座敷に出てはります」というので、どんな様子が覗いてきた。ちょうど着付けの最中だったが、出来上がったのを見ると、まあ、立派なもの。なかなか愛らしい舞妓ちゃんである。見習い中の舞妓は、だらりの帯ではなく、半分の長さの帯を締めているので、「半だら」と呼ばれるそうだ。最近は舞妓希望者が多く、志願者が絶えないらしい。しかし厳しい仕込み期間にリタイアする子もいるし、舞妓になってから辞める子もいる。一見華やかだが、舞はもとより、唄、三味線、笛に太鼓、それにお茶、お花、お習字に絵画と、芸事だけでなく一般教養も厳しく仕込まれるから、10代の少女には(とくに現代っ子には)大変なこともあったのではないか。最近は京都以外からの志望者が多いから、まずは京言葉を身につけることから始めなければならない。この二人も何度も挨拶の練習をしていたようだ。
 私は京都にきて13年になるが、全く京言葉は使えない。いまだに長崎弁と標準語もどきで許してもらっている。しかし京都の友人たちの生粋の京言葉を聞くのはじつに心地よい。ときどき、うっとり聞き惚れることもある。

 写真は見世出し間近な見習い舞妓―半だらの二人。よろしゅうおたのみもうします。

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 2月26日(火)雨。72年前の今日、大雪が降る東京で、ニ・二六事件が起きた。一部の陸軍の青年将校が、天皇親政・軍部政権の樹立を目指し、1400余名の兵を率いて、クーデターを起したもの。彼らが狙ったのは国体破壊の元凶となる政治家たちで、大臣ら政府首脳たちが襲撃され、殺害された。彼らが掲げたのは「昭和維新・尊皇討奸」だったが、軍部はすぐに反乱軍として武力鎮圧、天皇も彼等を認めず、裁判後将校たちは処刑された。事件後軍部の力が増して、政治は軍部に引きずられていったわけだが、腐敗した政治家に任せず、軍部復活、天皇親政を主張した人といえば、のちの三島由紀夫事件を連想してしまう・・。昭和史は半藤一利の著書に負うことが多いが、澤地久枝の仕事からも教えられることが少なくない。彼女の『妻たちの二・二六事件』(1972年)、『雪はよごれていた』(1988年)は共にこの事件をテーマとしたもの。実によく調べられており、歴史に残る証言だと思う。若い人たちには、宮部みゆきの『蒲生邸事件』(1996年)が事件と時代を知るにはいい手引き書になるのではないだろうか。
 とはいっても自分だってこの事件を詳しく知っているわけではない。学校の「日本史」の授業は、明治維新あたりまでで時間切れとなったから、近現代史はさっぱりなのである。かつて、ベルサイユ条約のことを、オスカルとアントワネットが交わした約束、と答えた友人を笑うことはできない・・のである。(これは当時流行っていた少女マンガのモロ影響ですね)

 写真は京都府立植物園に咲いていたセツブンソウ。あたかも五体投地のような恰好で花を撮影していたアマチュアカメラマンたちの頭越しに撮影したもの。可憐な可憐な花である。 

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 2月25日(月)雪のち晴れ。昨日の日曜日は一日中雪だった。京都では、2月に入ってからずっと雪模様の日が続いている。昨日、札幌の友人から電話あり。上洛する予定だったが、飛行機が欠航したため予定変更とのこと。TVニュースによると千歳空港周辺の道路で、降雪のため自動車が立ち往生しているという。やれやれ、列島の日本海側はまだまだ春は名のみ。先週、鴨川べりに建つホテル・フジタで食事をした。鴨川の水面を見ながら、ふと、ここは山口瞳の定宿ではなかったかと思った。そういえば、その前日は祇園の山ふくで昼食(おばんざい定食)をとったが、ここも山口瞳行きつけの店であった。
●山口瞳の『年金老人奮戦記』(新潮社 1994年)にこんな一節がある。
「平成5年12月3日 京都へ行く。一年に一度は京都へ行かないと精神衛生によくない。外国人が日本を礼賛するのは京都があるからだろう。京都は別世界である・・・」
 この本には平成3年から5年までの週刊誌に連載された「男性自身」が収められている。それによると毎年年末になると作家は夫人同伴で上洛し、馴染みの店を一巡しては京都在住の友人たちと心行くまで交歓し、京都を味わい尽して帰京している。日記には夫妻が訪ねた店や食事の内容、買い物などの詳しい中身が記されていて、なかなか興味深い。1995年、私が京都へ来た年の夏、作家は亡くなったので、新しい京都旅行記を読むことができないのは残念なことだ。この人の『血族』『家族』は自らの両親の出自を描いたもので、作家の業を思わせる、それこそ切ったら血が出るような作品。

 写真は嵯峨釈迦堂(清涼寺)の楼門。今朝方まで降っていた雪がまだ屋根に残っている。

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 2月24日(日)雪のち晴れ。昨日は一日強い風が吹き、夕方からは雪が舞った。関東でも春一番の風が吹いたとニュースで言っていたが。今朝の京都も、6時すぎごろまで吹雪いていたが、いまは青空がのぞいている。朝日に照らされて、山々が真っ白に輝き、家々の屋根も白い雪に覆われている。京都市内でこの雪なら、鞍馬や美山あたりはすごい積雪だろう。
 太郎を眠らせ 太郎の屋根に雪降りつむ
 次郎を眠らせ 次郎の屋根に雪降りつむ

ふと、三好達治の詩を思い出す。

●養老孟司『小説を読みながら考えた』(双葉社)に「歳をとる」というタイトルのこんな一文があった。

「日本の近代史で、この国の元気がよかった時代が二度ある。一度は明治維新、二度目は終戦後である。わかりきったことだが、両方の時期ともに、若い世代が社会の中心にあった。明治はそれでも仕方がなかったし、戦後は追放があった。乱暴な言い方をすれば、この国を元気にするには、公から年寄りを吹き飛ばせばいいのである。具合の悪いことも起こるが、元気がでることだけは間違いない。日本の出生率は世界でも指折りに低い。そりゃ当たり前で、年よりは未来がないのだから、そういう人たちがトップに立っていれば、自然に未来はなくなる」

 全く。

 写真は近所のお寺に咲いている梅の花。 

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 2月22日(金)晴れ。中京税務署まで確定申告書を出しに行く。二条通りを東へ歩きながら、いろんな店をウオッチング。東西の通りはそうでもないが、南北の縦の通りにはマンションが増えた。新しいマンションの外壁に、お地蔵さんが埋め込まれている。古い家屋を壊して更地にしたものの、お地蔵さんを動かすことはできなかったのだろう。この辺りには、町家を活かした新しい店や事務所が目につく。用事を済ませたあと、久し振りに御苑を散策。梅林はまだ4分咲き、「梅が枝に来ゐるうぐひす春かけて鳴けどもいまだ雪は降りつつ」という感じ。ロウバイやマンサクの黄色い花を眺め、コジュケイやシジュウカラの姿をしばし追う。
 写真は、二条柳馬場辺りで見かけた喫茶店(だと思う)。店の前にバナナの木があって、見事に実がなっていた。この寒い京都の町で、温室にも入らず、よくもまあ実を結んだものよと感心して見上げた。
 帰宅後、長崎の友人から電話あり。JR特急あかつき号が3月15日で廃止となるので、その前にあかつき号で京都へ行く、という。長崎を午後7時47分発、京都へは翌朝の7時53分着。812kmを延々12時間余かけて走ってくるのだ。運賃と寝台特急をあわせて、片道20,580円。ブルートレインが次々に姿を消していくのは寂しいこと。友人が来る日は生憎当方予定あり、早朝、駅で顔を見るだけねと約束する。

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 2月21日(木)快晴。久し振りの青空。今朝、6時ごろ西の空を見ると、ちょうど、真ん丸の月が小倉山のあたりに沈むところだった。今夜が満月だそうだが、今朝方の残の月も欠けたることのなき月だった。午前中、北山の総合資料館へ調べ物に行く。2時間余り書庫とコピイ機を往復して完了。あまりにもお天気がいいので、真直ぐ帰宅するのが勿体ない気分になり、隣りの植物園を散策。北口を入ってすぐのところに即席のビニールハウスが建てられ、中に入ると春の花がたわわに咲き誇っていた。天井からプリムラ・ポリアンナのフラワーボールが下がっている。ハウスの中は甘い花の香りが充満していて、目まいがしそう。早々にハウスを出て、冷たい外気に当たる。椿、梅の花はまだ3分咲きという感じ。梅林前の植物生態園に入ると、カメラを持った男女数人が地面に這いつくばっている。何事ならんとよく見ると、咲き始めたセツブンソウの花を撮影しているところだった。ご苦労なことである。しかしセツブンソウは実に可憐な花だ。福寿草は黄金色なのですぐ目立つが、セツブンソウはよくよく見ないとわからない。
 一昨日の2月19日は埴谷雄高(1909−1997)の命日だった。この人の代表作『死霊』は購入したまま、積読の山の中にある。若いころ、未来社から出ているこの人の『○○と○○』シリーズを愛読したが、いま手元にあるのは、『架空と現実』『啓示と発端』『鐘と遊星』くらいか。大岡昇平との対談集『二つの同時代史』(岩波書店 1984年)を戦後文学史として興味深く読んだものだが。いま、久し振りにこの対談集を読み直して、昔の作家は実によく読んでいるなと感心させられた。それも原書で読むのだから、すごい。平成の作家たちはどうなのだろう。いまは文学もカラオケと同じで、人の書いたものなど読まず、だれもが書く時代なのではないだろうか。

 写真は植物園のフラワーボール(というのかしら)。花はプリムラ・ポリアンナ。

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 2月19日(火)曇り。読売新聞に「人生案内」という読者からの相談コーナーがある。今月11日は、「老母と暮す兄、酒飲み働かず」と題して、60歳になる主婦からの相談が載っていた。相談者の訴えは、「90歳になる足の不自由な母と二人暮しの兄が、母の年金をあてにして働かず、酒におぼれている。自分たちはこれまでずいぶん援助してきたが、母のためにも兄に生活を改善してもらいたい。どうしたらいいだろうか」というもの。まあ、気の毒なことと思ったのだが、出久根達郎さんの回答はこのようなものだった。
「ごきょうだいの中で母上をひきとって面倒をみることのできるかたは、おりますか? 確かに働かない長兄には困ったものですが、90歳の母上と同居しているために、仕事に出られないという理由がありますまいか。足が不自由なお母様ですから、目が離せないのかもしれない。私は老母の日常を見ているお兄様を偉いと思います。一緒に生活をしていない者には、その気苦労がわかりません。長兄のことより、母上の今後の生活を子どもたちで話し合うべき。人に責任を押し付けず、本音で話しあってください」
 一読してハッとした。相談者の一方的な訴えを聞くと、相談者に同情したくなるが、親を見ている兄の立場になってみると、全く正反対の見方が生じる。相手の身になって考えよ、と常々言っているくせに、実際はこんなものである。さすが苦労人出久根達郎さん。この人は確か長いこと寝たきりだった母上を家で看取られたはず。体験者ならではの回答だなと胸におちたことだった。

 普段は読むことなどない人生相談が目についたのも、自分の母親が兄夫婦の介護を受けて、幸せに暮しているからだろう。介護者にとっていちばん迷惑なのは、自分の手は汚さず、たまに来てうるさく口を出す身内の存在だという。心しなければなるまい。

●ガッサン・カナファーニー『ハイファに戻って』(河出書房新社)を読む。カナファーニーは1936年、イギリス統治領下のパレスチナに生れた。パレスチナ難民の苛酷な現状と解放闘争を描き続けたが、1972年、自動車に仕掛けられたダイナマイトで暗殺された。カナファーニーは希望を失わなかった(と思う)が、彼の死後パレスチナに平和が訪れているだろうか。

 写真は雪の金閣寺。雪は屋根の上にしか残っていなかった。

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 2月18日(月)雪のち曇り。今朝も京都市内は雪化粧していた。先週末からずっと雪模様の日が続いている。三重県の古本屋から注文していた本が届く。『洛々春秋ー私たちの京都』(三一書房 1982年)。和田洋一・松田道雄・天野忠の明治・大正・昭和にわたる思い出話を中心とした鼎談集で、鼎談そのものは1980年に京都新聞に連載されている。当時の三人の年齢は、77歳、72歳、71歳というから、この三人の幼少年時代といえば明治末から大正初めのこと。読者である京都の人たちにとっても珍しく懐かしい話がいっぱいだったと思われる。和田洋一はクリスチャンで、同志社大学のドイツ語教師だった人。松田道雄と天野忠はいうまでもない、京都にこの人あり(残念ながらお二人とも鬼籍に入られた)と私が思っていた人たちである。この本には巷にあふれる京都本とは趣が異なっていて、祇園も先斗町も神社仏閣、茶道・花道、邦楽、能、歌舞伎などはいっさい出てこない。京都の町の暮らしぶりが細やかに語られるのみ。成人後の三人がそれぞれの道を歩みだしてからの思い出話もなかなか興味深い。戦前から戦時中の苦労話、若いころみた映画のこと、読んだ本について、とくに天野忠が短期間やっていた古本屋(リアル書店)についてのくだりは何度読んでも微苦笑が浮んでしまう。標準語での会話に自在に京言葉が混じりこみ、三人のそばで頬杖ついて話を聴いているような気分になる。

「人は信ずるけれども、人の集合体というんですか、そこにポリシーがからんでくると、もうすでにダメなんだ。個人的には正しくなれるけれども、組織体では正しいものは存在しない・・・」という天野忠の言葉は重い。時代に言葉を奪われた経験を持つ人の苦悩がうかがえるような気がした。

 鼎談集ですぐ思い浮かぶのは、●中村真一郎・福永武彦・丸谷才一『深夜の散歩』(講談社 1978年)、●山崎正和・丸谷才一・木村尚三郎『三人で本を読む』(文芸春秋 1985年)、●司馬遼太郎・上田正昭・金達寿『古代日本と朝鮮』(中央公論社1974年)、●ドナルド・キーン・鶴見俊輔・瀬戸内寂聴『同時代を生きて』(岩波書店 2004年)などだろうか。対談集となると、ちょっと数え挙げるのが難しいほど量が増える。

 写真は今日の雪大文字。鴨川の西岸から撮ったので、大の文字が「人」に見える。

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 2月17日(日)曇り。時々雪。昨夜、東京に住む友人より電話あり。日曜日、東京マラソンの10キロコースを走るという。TVで応援してね、とのことだったが、参加者が3万人ともなれば、何が何だか。京都は雪がちらつく冬日だというのに、TV画面に映る東京は眩しいほどの日本晴れ。
 兄一家と暮す母が92歳になったので、「誕生日おめでとう」の電話をかける。電話の向うで、「私はもう92歳になったのか」と言うので、思わず笑ってしまった。母の口癖は「いまがいちばん幸せ」だが、それも同居している兄夫婦の細やかな心遣いがあればこそである。とくに義姉の忍耐強さと寛容さには頭がさがる。依頼心の強い年寄りにも困るが、人の世話にはなりたくない、と自立心の強すぎる年寄りとの同居も大変だ。年寄りの矜持を傷つけないで、世話をするにはかなり高度のテクニックがいる。40年近い母との同居で、もともと愛情深い義姉はその熟練者となったらしい。さすがの母も最近体を痛め、入院生活を体験してから大人しくなった。退院後は毎晩、義姉が同じ部屋で寝てくれているそうだ。23年前に亡くなった父は、この義姉のことを観音さん、と呼んでいた。クリスチャンならマリア様、と言ったことだろう。義姉には感謝あるのみ。

●永江朗『新・批評の事情』(原書房 2007年)を読む。内田樹や姜尚中、斎藤貴男、小熊英ニなど、近年盛んにメディアに登場する33人の論客たちを、永江流に読み解いたもの。日頃雑誌を読まないので、33人のうちの半分は初めて知る名前だったが、永江朗の評はなかなか痛快で小気味がいい。

 写真は烏丸通を東に入った高辻通りで見かけた民家。南側の壁面いっぱいがピラカンサに覆われている。家の中はどうなっているのかしら、野鳥が実を食べに来るのかしら、などと思いながら撮影。

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 2月16日(土)曇り、雪。朝は陽がさしていたが、いま空には白い雪雲が低く垂れ込めて、まもなく雪になりそうな気配。昨夜は眠れぬままに録画していた映画「ニュー・シネマ・パラダイス」(1989年)を観た。この映画はたしか封切り館で見たはず、みっともないほど泣いて、しばらくは外に出ることができなかった。イタリアの小さな村の映画館で映写技師をしている男性とそこに入り浸る映画好きの少年との数十年にわたる友情の物語。少年の父親は戦死して母親が女手一つで少年と妹を育てている。貧しい村の暮らし、南北イタリアの政治情勢など、時代背景がしっかり描かれる中で、少年が成長していく姿や町の変遷(近代化ともいう)が描かれる。映画館が舞台だけに、古い映画がいくつも映し出されて、知っている俳優や映画が出てくると嬉しくなったものだ。若き日のバルドー、マストロヤンニ、・・・。映画館で見たとき私が一番感動したのは、現在のトト少年を演じたジャック・ペランが現れたとき。彼をスクリーンに見るのは、クラウディア・カルディナーレと共演した「鞄を持った女」(1960年)やマストロヤンニの弟役になった「家族日誌」(1962年)以来のことで、白髪まじりの初老の映画監督役の彼に、30年近い歳月というものを思い、わけもなく胸が熱くなった。まさにアポリネールではないが、「ミラボー橋の下をたくさんの水が流れていきました」という気分だった。「鞄を持った女」を見たのは、小学生か中学生のころだったはずだが、当時のイタリア映画は魅力的だった。
 さて、久し振りに見た「ニュー・シネマ・パラダイス」はやはり素晴らしかった。この映画がまるごと「映画」へのオマージュという感じ。映画技師の葬儀のため、30年ぶりに帰郷したトトに、技師の形見だといって渡されたのは、かつて神父の検閲によってカットされたラブシーンばかりを集めた映画のフィルムであった。映画の終わりにこのキス・シーンが延々と流れるのだが、残念ながら私にはそれらがなんと言う作品の1シーンなのか、全く当てることができない。
 13日、映画監督の市川崑氏が亡くなった。92歳。この人の映画はあまり観ていないが、いまでも記憶にあるのは萩原健一や尾藤イサオがチンピラやくざを演じた「股旅」(1973年)。時代劇という感じがしなかったという印象が残っている。

 写真は琵琶湖の湖畔風景。風にそよぐ葦。考える葦たち、か。

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 2月15日(金)晴れ。2月5日の日経新聞に、昨年、菊池寛賞を受賞した山口県のマツノ書店店主の松村久さんの文章が載っていた。「維新史文書 復刻の志士」というタイトルのエッセイで、30余年になる山口県の歴史・民俗に関する史料の復刻出版についての記述。この復刻出版が評価されてこのたびの受賞となったのだが、ここに紹介された出版5原則がいい。

�部数は1000部まで。
�定価は3千円以上。
�完全原稿であること。
�決して急ぐな
�年間6点以内

 この�の「決して急ぐな」は宮本常一の教えだという。1976年に「明治大正長州北浦風俗絵巻」を出した時、同じ山口県出身の宮本常一に監修を頼んだことから付き合いが始まり、宮本常一が帰郷するたびに、車で案内役を買って出たそうだ。宮本常一は「急がずいいものだけを出すように」と繰り返し言ったという。

 今日、何気なく宮本常一の『民俗学の旅』(講談社学術文庫)を読んでいたら、「マツノ書店」について書かれたくだりに出会った。
――山口県徳山市にマツノ書店という古本屋がある。ここの二代目が山口県に関する古書の復刻をやっている、名著・大著ばかりで引き合うかと思っていたが、次第にこの人のペースにひきこまれていった。この人の名を松村久という・・・。この一人の人によって、山口県に関する学術書がずいぶん日の目を見ることができた。その役割は大きい――。

 宮本常一がこう書いてからもう30年近くなるのではないだろうか。地方出版に光が当たるのは時間がかかるらしい。とまれ、維新史をやる人で、マツノ書店の名を知らぬ人はなんとなく信用できないなあという気分が私にはある。

 昨夜は真夜中に起き出して、NHKーBS2で映画「眺めのいい部屋」を観た。何度観てもいい映画なり。映画を観たあと床に入ったが、なかなか寝付かれず。いろいろ考えているとふと涙が出た。「来し方を思ふ涙は耳へ入り」の状態。年をとると涙腺が緩むらしい。

 写真は近所の庭の藪椿。椿の中ではこの花がいちばん好き。

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 2月14日(木)晴れ。昨日はこの冬一番の冷え込みで、京都市内に積雪があった。交通量が激しい町なかでは、道路の雪もすぐに溶けて、車は平常通り走っていたが、周辺部では外出の足を奪われて、かなり苦労したらしい。午前中、『小右記』講読会で醍醐行き。京都市営地下鉄の二条駅から、先月天神川まで延伸された東西線に乗って醍醐まで行く。片道約30分。この京都市営地下鉄は営業するだけで、毎日5000万円もの赤字が出ているそうだ。なんとも驚異的な数字ではないかしらん。それでも動いているのは公共機関だからなのだろう、きっと。講読会のあと、まっすぐ戻って2時から学区内の中学校で行われる地域行事のお手伝い。65歳以上の老人たちのための月例行事で、雪のため少ないだろうという予想に反して、40人ほどの参加者あり。2対8で女性が圧倒的に多いが、半分近くが80代というのには驚いた。いや、驚くことなどないか。80代なんて、まだまだ現役なのかもしれない。身近なお年寄りと話すのはなかなか面白い。団塊の世代が「団塊」とひとくくりにされたくないように、お年よりも「高齢者」とまとめられるのは嫌だろうなと思う。そういえば、「私を束ねないで」と詠った女性詩人がいなかったかしら。

 今日はバレンタインデイ。

●三木卓『海辺で』(講談社 1984年)を読む。屈託があって気分が落ち込んだときは、阿部昭の『単純な生活』や、三木卓の一連の「海辺」ものを読む。考えてみると、阿部昭も湘南暮らしで、三木卓の本も三浦半島の芦名海岸での生活を書いたもの。三木卓は1980年代の初めから10年余を芦名海岸に建つリゾートマンションで暮した。この本には、独り暮しの詩人が、買い物に行っては料理をし、ベランダに飛んでくる昆虫や生き物たちを観察する、という日々が淡々と記されている。大きな事件はないが、それだけに繰り返される日々はささやかながら実にいとしい。こんなふうに生きられたら。

 写真は昨日の朝の京都西山。いちばん右の山が嵐山。

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 2月12日(火)雨のち曇り。9日は大雪の中をノーマルタイヤで湖北長浜へ出かけた。全く無謀なことで、高速を走行中雪が降りだしたので、何度も引き返そうと思ったのだが、前に除雪車がいたので、その後をそろそろとついて走り、とうとう目的地へ到着した次第。普段は1時間半もあれば着くところを3時間以上かかった。道路のチェーン規制などなかったが、正直怖かった。ホテルの部屋から見る景色は一面の銀世界。灰色の湖に鴨たちが黒い点になって浮んでいた。夜は鴨すき。この時季は長浜で鴨、というのが我が家の恒例行事なのだ。鴨よ赦せ。お酒は高島川島酒造の生酒「松の花」。
 10日(日)暮れから休み無しだったつれあいの慰労日。ひたすら休息のつれあいを置いて、独りで長浜散策。ちょうど盆梅展が開催中で、長浜はかなりの人出。人で賑わう北国街道を外れ、周辺の古い町並みを歩く。屋根から滑り落ちてくる雪をかわしながら、深い軒が連なる寂しい通りをゆく。秀吉ゆかりの寺院や神社、戦国時代の歴史の址をいくつか見て回る。
 ホテルのすぐ近くの湖岸に「太閤井址」の石碑あり。波打ち際に鴨の群れが。枯れた葦が風にそよぎ、束の間夕日に輝く。静かな一日。

 11日(月)晴れ。一昨日の雪が嘘のような日本晴れ。伊吹山が真っ白に輝いている。結婚式の客でごったがえすホテルを出て、春のような日差しを浴びながら帰路に着く。琵琶湖大橋手前、守山の菜の花畑では黄色い花が満開。雪をいただく湖西の比良山系をバックに写真を撮る。去年もここで同じような写真を撮ったが、山に雪があったかしらん。途中、ガソリンスタンドに寄り、洗車してもらう。雪道を走ったため、融雪剤や凍結防止剤を浴びて、車は潮をかぶったように白い粒子がこびりついていた。この三日間、インターネットもTVも新聞も目にしなかった。実に清清しい三日間だった。持参したのは、●武田百合子のロシア旅行記『犬が星見た』(中公文庫1982年)のみ。何ものにもとらわれない、伸びやかな感性をもった百合子夫人による、夫泰淳と親友竹内好の素顔のスケッチがいい。旅先でレーニン像を見るたびに、「椎名麟三さんにそっくり」というところが何ともおかしい。
 今日、2月11日は父の誕生日。生きていたら98歳になる。生前は「紀元節」生まれなので、日本中が祝ってくれると冗談に言っていたが。23年前の正月2日に病気のため亡くなった。親在ます時は、遠く遊ばず。

 12日(火)今日は司馬遼太郎(1923−1996)の命日。彼の好きな菜の花にちなんで、今日の写真は琵琶湖の菜の花。まだ頭は休暇中。

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昨日の大雪が嘘のような青空。琵琶湖には冬鳥が群れている。昨日の夕食は鴨すきだったが、琵琶湖は禁猟区のため、新潟産の天然ものを使っているとのこと。目の前にいるのにねというと、山に飛んできたのを捕るのはいいのだそうだ。琵琶湖の岸近くにはずっと鴨が群れて浮かんでいる。かつての諫早湾を思い出した。干潟の海は渡り鳥の聖地だったが。写真は長浜城。このすぐそばの湖畔に太閤井蹟がある。

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京都を出るときは小雨という感じだったのに、高速に乗った途端、雪が降り出した。みるみるうちに近江平野は雪の原になる。お家がだんだん遠くなる、いま来たこの道帰りゃんせ、というものの逡巡しながら走り続けて、なんとか長浜に到着。除雪車の後をひたすら走りました。無謀。宮崎に旅行中の友人より電話あり。宮崎は快晴、気温15度とのこと。こちらは銀世界、気温零度と応える。なんとか辿り着いたけど、帰りは大丈夫かしらん。

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 2月8日(金)曇り。山は雪。夕刊で、文芸評論家の川村二郎氏が昨日亡くなられたことを知った。ずいぶん前のことだが、川村氏の講演を近畿大学で聴講したことがある。当時はまだ近畿大学の文芸学部長だった後藤明生が健在で、講演のあと、お二人に挨拶をした記憶がある。その前年、仲間と『野呂邦暢ー長谷川修往復書簡集』を編集、出版したところ、川村氏が当時担当していた朝日新聞の文芸時評で大きく取り上げてくださった。その時のお礼を申し上げると、氏はあらためて野呂邦暢の早すぎる死を惜しみ、悼まれた。自分は折口信夫の『死者の書』が好きなので、当麻寺が好きだと言われて、いつだったか当麻寺の絵葉書をいただいたことがある。氏の『日本廻国記一宮巡歴』(河出書房新社)や『日本文学往還』(福武書店)、『語り物の宇宙』(講談社)を私は折りにふれ読み返す。享年80歳。ご冥福を祈る。

 写真は山城国一ノ宮の下鴨神社。

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 2月7日(木)旧正月。曇り。山は真っ白の雪。用事があって神戸へ出かける。三宮近くの本屋で人に会い、元町周辺の古本屋をいくつか覗いて帰るつもりだったが、南京町で旧正月のお祭りがあっているというので、中華街で道草を食ってきた。(道草ならぬ中華ランチをいただいてきました。エビチリ、チンジャオロースー、中華スープ、チャーハン、ギョーザが少しずつのセットメニュー)。南京町は結構な人出で、どこも店先に長い行列ができていた。町の中央にある広場でイベントがあっているらしく、黒山の人だかり。人の頭しか見えないなと思っていたら、人垣が崩れて、獅子舞が飛び出してきた。日本の唐草模様の獅子舞とはずいぶん異なる姿である。わが故郷長崎でも春節祭には新地の中華街でランタン祭りが開催される。観光客が少ない冬場に人を集めるために始めたイベントらしいが、いまでは冬の行事として定着しており、町を挙げての祭りになっているらしい。私はまだ見たことはない。
 神戸で会った友人は、13年前の大地震で家と仕事を失い(勤め先が地震で倒壊、休業となったため)、しばらく全国を放浪していた。自分のような人間を文字通りhoboというのだ、ほうぼう歩いて廻ったからね、と笑っていたが、数年前神戸に戻って、新しい仕事についている。友人たちの中にはまだ疎開したまま、神戸に戻れない人もいるそうだ。あのときはとにかく後先考える余裕なんてない緊急避難だったからね・・・。

 神戸の町に来ると庄野潤三の『早春』という小説を思い出す。若いころ、この小説を読んで、いつか自分もこんなふうに気ままに神戸を歩いてみたいなあと思ったものだが。神戸は長崎に似ているので、好きな町の一つ。
写真は南京町の獅子舞。

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 2月6日(水)曇り。いい映画を観た。見終わった後、しばらくは席を立てなかった。いまパソコンに向かっていても、静かな感動がこみあげてくる。ジャ・ジャンク監督の中国映画「長江哀歌」。2006年ベネチア映画祭の金獅子賞グランプリ作品で、長江に建設される山峡ダムを舞台に、二組の男女の切ない現実を描いた、文字通り哀感に満ちた作品。世界最大規模のダム建設で水没しつつある奉節に、16年前に去っていった妻と娘を捜しに男がやってくる。一方、2年間も音信不通の夫を探しにきた女もいた。周囲の人たちの協力もあって二人はそれぞれ相手との再会を果すが、お互いの心の距離を縮めることはできない。私は最初この映画をドキュメンタリー映画だとばっかり思っていた。ダムを行く船、住民が退去して不要になったため取り壊される建物群、ダムに沈む町の発掘調査のシーン、労働者たちの束の間の休息、夫婦の再会の場面も淡々として――淡々としすぎではないかと思われるほど――過剰さがない。水没する町から追い立てられる人々、安い賃金で危険な仕事に従事する労働者たち、急激な経済発展のもたらすひずみを一身に引き受けることになるであろう人々を見るにつけ、ああ、いつか来た道、と思わずにはいられなかった。しかし、映画はあくまで淡々と、苛酷な人生に立ち向かっていく人々の姿を映し出すのみ。風景や人々の暮らし振りは2、30年前のわが国を連想させたが、紛うことなくこれが現代中国だと思わせられたのは、誰もが携帯電話を持ち、単身赴任の男性に女性を紹介する主婦の存在、京劇の役者たちが休憩時間ゲームに熱中するシーンを見たとき。もう中国にはなんでもありなんだなあ、と妙に感心した。
 ジャ・ジャンク監督は1970年生まれというからまだ38歳。以前、この人の『プラットホーム』という映画を見たが、これも忘れ難い映画だった。『長江哀歌』の主人公ハン・サンミンを演じたのは、実際に山西省で炭鉱夫として働いているハン・サンミンという男性だとのこと。
 男の妻は兄の借金のかたに売られていて男のもとには帰れない、一方、やっと夫に再会したものの、仕事に成功した夫を自由にしてやるために、自分には好きな人がいるから離婚しようと嘘をつく女・・・。現実はなんとも切ないが、私は二人の後姿に希望の光を見たような気がする。なんといっても中国の人々は逞しいのだ。台詞が少ない分、挿入歌が効果的に使われていた。まだ切ない余韻に浸っている。

 写真は「長江哀歌」のポスター。

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 2月5日(火)晴れ。山は雪。今日は二十六聖人殉教の日。慶長2年(1697)のこの日、京都から連行された26人のキリスト教徒たちが、長崎の西坂の丘で処刑された。現在ここには教会と記念館があり、広場には二十六聖人の像を刻んだ記念碑が建てられている。ブロンズ像の作者は舟越保武。JR長崎駅前の正面の丘にあり、二つの塔を持つ教会は目に付く。舟越保武作の聖人像には深い精神性があり、一人一人の内面が滲み出るようだ。前ローマ法王パウロ二世が長崎を訪れてミサを行われたのは1981年2月26日のことだった。いまでも信じられないが、この日の長崎は記録的な大雪となり、ミサの会場では凍った地面に足をとられて転倒する信者が続出した。
 この二十六聖人発祥の地が京都の我が家の近くにある。京都市下京区岩上通綾小路上ル東の一画がそう。もともとは妙満寺があった場所で、秀吉からこの地を与えられたサンフランシスコ会によって修道院や病院が建てられたという。1596年、一転してキリシタン迫害に乗り出した秀吉は神父や日本人信者を捕らえて長崎へ送り、処刑した。妙満寺跡 二十六聖人発祥之地」の碑の北側には「フランシスコの家」があり、殉教者に関する説明版などがある。当時、この辺りはダイウス町と呼ばれていたそうだ。

 この前上洛した長崎の友人が、「一度、二十六聖人の足跡を辿ってみたいなあ」と言っていたのを思い出した。殉教者たちは京都―長崎間を約一月かけて旅をした。まさに死出の旅だったわけだ。

 写真は下京区岩上通綾小路上ルにある「二十六聖人発祥之地」の碑。

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