2008年06月

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 6月30日(月)曇り。水無月のつごもり。今日は今年前半の穢れを祓う夏越祓の日。各神社には茅萱で作った輪が掲げられ、参拝者はこの輪をくぐって穢れを祓う。外出したついでに近所の梛神社で茅の輪くぐりをしてきた。京都の歳時記の一つ。これが終るといよいよ明日から7月、祇園祭の始まりである。
 土曜日は前日から四国入りしていたつれあいと夕方JR鳴門駅で落合い、鳴門大橋を渡って淡路島で宿泊。JR鳴門駅は小さな終着駅で、列車の時刻表を見ると、一時間に一本しか発着がない。終着駅なので線路はホームの端で終っている。待っていると、一両編成(一両でも編成というのかしら)の列車がことこと入ってきて、「のどかだなあ」と言いながらつれあいが降りてきた。
 私は京都を朝のうちに出発、待ち合わせの時間まで数時間あったので、四国88ヶ所のうちの1番から8番までの札所を廻ってきた。近年巡礼客が増えたせいか、新築・増改築中のお寺が多く、どこもぴかぴかしているのには少々興ざめ。どこの札所にもお遍路さんが群れていて、中には歩き遍路、自転車遍路もいて、感心させられた。車で物見遊山のように巡る自分を少々恥じないでもなかったが、まあ、どこにいても同行二人、の気分でいればいいのではないだろうか、とこれは弁明。
 
●四方田犬彦『星とともに走る』(七月堂 1999年)を読む。いまはなき雑誌「ガロ」に1988年〜1997年まで連載された日録集。たまたま開いた1994年10月8日条には、原一男の映画『全身小説家』を観る―嘘つき光ちゃん(井上光晴)の自伝的虚構を追い詰めた映画、とある。同じ10月11日は集英社から出る中上健次全集の編集のため、4900枚のエッセイから半分を選ぶ、とあり、彼が編者の一人だと知った。続いて同月13日、大江健三郎がノーベル賞を受賞。20年ほど前、彼の「ピンチランナー調書」のゲラ原稿の清書を手伝ったときのことを思い出す、とあり、20代なかばごろの四方田犬彦はそういう仕事もしていたのかと思う。だからといって、何ということもなけれども。

 写真は四条通坊城にある梛神社の茅の輪。小さな茅の輪だが、決められた通りにくぐって厄払いをしてきた。

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 6月28日(土)曇り。昨日の夕方、用事があって家の近くを歩いていたら、クチナシの花とはちがう甘い香りがした。香りのするほうを見やると、ブロック塀の向うにみかんの木の白い花が見えた。おお、橘の香りと嬉しくなり、思わず「かへりこぬ昔を今と思ひねの夢の枕に匂ふ橘」という歌が口をついて出た。歌の世界には全く昏いが、好きな歌人をといわれたらこの歌の作者である式子内親王と和泉式部だと応える。私は密かに式子内親王を観念の、和泉式部を体験による恋の歌の名手、と呼んでいるのだが。式子内親王のこの歌の本歌はもちろん古今集にある「五月まつ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする」である。ここから橘の香りといえば昔の恋を意味するものとなった。町なかに住んでいると、蜜柑の花の香をかぐことなど滅多にない。昨夕は不意をつかれたようなものだったが、だからといって私にはこの香で思い出すような昔の恋などないのだ。残念なことである。
 今日は今から淡路島経由で四国行き。雨が降らなければ明石海峡をフェリーで渡ってみたいのだけど・・。

 写真はもう盛りを過ぎたテイカカズラ。式子内親王を慕う定家の情念がカズラとなって内親王の墓に絡みついたというけれど、式子内親王の意中の人は法然だったと石丸晶子さんは書いています(『式子内親王伝―面影びとは法然』朝日新聞社 1989年)。

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 6月27日(金)曇り。朝、頭上にヘリコプターの音がする。昨日から京都で開催されている外相会合の警備だろうか、それとも報道関係のものだろうか。昨日の京都市内はあちこちで通行止や立入り禁止の規制が厳しく、ものものしい警戒ぶりで、外出がためらわれるほどだった。京都の人たちは慣れているのだろう、しょむない、今日一日、我が家の座敷をお貸ししますわ、といった様子。

 しょむない、といえば以前何かで読んだ話を思い出した。富士正晴と松田道雄(お二人とも彼岸へ渡られた)は晩年、電話でよく話をしたそうだが、そこでいちばん登場した言葉が「しょむない」と「なんぎやなあ」だったという。二人が何に対して「しょむない」「なんぎやなあ」と感じてしたのかは、二人の読者には推察できるだろう。年をとると生きている人たちよりも、死者たちの方が親しく感じられるようになる。隠居暮らしとなればなおのこと。ただでさえ町の記憶がそのまま1200年分の死者たちの記憶に重なる京都に住んでいると、どうしても目も耳も古いものに向いてしまう。
 松田道雄さんが亡くなって10年になる。初めて母親になったとき、友人が松田道雄の『私は赤ちゃん』をお祝いに贈ってくれた。しばらくして『私は二歳』が届き、それ以来、この人の書くものに親しんできた。言葉は平明だが、権威におもねず自己に厳しい人という印象を受けた。底には深いニヒリズムとペシミズムがあるのではないか、それをヒューマニズムでカバーしているのだろうと思うこともあった。京都育ちの友人は子どものころ病気になると、松田道雄さんの診療所に連れていかれたという。「やさしいセンセどしたえ、病院はあんまりきれいなとこではおへんどしたけど」。
 
 ●『日常を愛する』(平凡社ライブラリー 2002年)には松田道雄が毎日新聞に17年間連載したコラム「ハーフタイム」の最後の3年分が収められている。著者72歳から75歳までで、最後の回「ノーサイド」には、これで世間とはお別れ、というようなことを書いたが、それから15年を生きた。最後まで講読していた海外の医療雑誌を読み、新しい知識をとりいれ続けたというから、明治のインテリの学力には頭が下がる。日常を愛するということは、当たり前の生活を大事にするということだろう。自分がいる場所で、自分が必要とされることをやりぬいていく、「死んだあとに何かのこるという考えがあまい。本人の終わりは一切の終りだ。生きているうちに人の役に立つことが、皮を残す虎よりも人間にふさわしい」という一文もこの人らしい言葉だが、この人が残した言葉でいまも励まされる者もいるのだ。

 今日は結婚記念日。朝、そういえばと思い出した。あの日も金曜日だった。翌日は大雨で、旅から帰ると、近所で大雨による崖崩れがおき死者が出る騒ぎになっていた。

 かの時に我がとらざりし分去れの 片への道はいづれ行きけむ  美智子皇后

 長く生きていると、そう思うこともたびたびある。しかしこちらがそう思っているときは、敵(!)も同様なのだろうと思ってきた。結婚に限らず共同生活には、想像力と創造力が必要なのです。

 写真はあじさい。我が故郷、長崎市の市花。   

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 6月26日(木)晴れ。梅雨だというのになかなか雨が降らない。こんな日に家に籠って本を読んでいるのは、少々後ろめたい思いがする。溜った手紙やメールの返事を書き、たのまれた仕事を片付けて、久しぶりに武田百合子の本を読む。先だって、古本屋で入手した「ことばの食卓」(中央公論社 1995年)。武田百合子全作品全7巻のうちの1巻である。彼女の本は単行本、文庫本で持っているが、この全集は持っていない。この人のロシア旅行記『犬が星見た』(中央公論社 1979年)を読んだのはもう30年近く前のことになるが、一読してその天真爛漫ともいうべき精神の伸びやかさに魅了された。夫武田泰淳(1912−1976)の晩年の散文『めまいのする散歩』には枠にはまらない自由闊達な妻の言動が生き生きと描かれているが、実はその文章は妻百合子が口述筆記したもの。私はこの本を盲腸の手術をしたばかりの知人の見舞いに持っていって、「笑いすぎて傷口が開いた」と文句をいわれたことがある。
 さて、全集版の「ことばの食卓」には巻末に「武田百合子さんのこと」と題する埴谷雄高によるかなり長い文章が添えられている。百合子の死から間もないころに書かれたものではないか、百合子の無垢の魂を彷彿とさせるいい文章である。戦後すぐに始まった埴谷と武田夫妻の交遊は、1976年に泰淳が死に、そして1993年に百合子が亡くなって幕を閉じた。その埴谷雄高も1997年に鬼籍に入り、第一次戦後派作家は姿を消してしまった。
 「ことばの食卓」に百合子と娘の花が泰淳の墓参で京都を訪れたときのことが出てくる。それによると泰淳のお墓は知恩院にあり、同じ墓地には千姫や佐藤春夫の墓があるという。そのうちに掃苔に行ってみようか・・・。

 写真は近所の民家の前に咲いていたモヂズリ(ネジバナ)の花。
 みちのくのしのぶもぢずり誰れゆえに乱れそめにしわれならなくに 河原左大臣源融。
 源融は光源氏のモデルの一人で、「源氏物語」の六条院は融の河原院を模したものといわれている。高瀬川に沿って西木屋町を南へ下っていくと、五条通リの南側に河原院址の小さな石の標柱がある。大きな木の根元に斜めに傾いだ石柱からは昔日の河原院を想像するのは難しい。昔の光いまいずこ。

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 6月25日(水)晴れ。天神さん。京都の各神社では夏越の祓の茅の輪くぐりが6月30日に行われるが、北野天満宮では25日にある。大きな茅の輪が楼門に掲げられ、お参りした人が思い思いに茅を抜いていくので、昼前にはもう形は消えてしまう。勿論本殿前に小さな茅の輪があって、参拝者はそちらをくぐっていく。今日は午前中、「小右記」で醍醐行き。今日はKさんによる「藤原行成と書」と題する小さな発表あり。行成は小野道風・藤原佐里と共に三蹟と呼ばれた能書家。一の人である道長によく仕え、よく尽くし、彼の一族のためにせっせと筆を使い続けた。公務以外の時間は書写に費やしていたのではないかと思われるほどの勤勉ぶりである。万寿4年12月4日、逝去。くしくも彼の上司であった道長が亡くなった日に行成も死去。道長への奉公の総仕上げというところだろうか・・。
 帰途、中央図書館へ寄り、三条商店街で買物をして帰宅。神泉苑近くのお寺の境内に青い葡萄の実がなっていた。まだ酸っぱいだろうなと思ったとき、中野好夫にそういうタイトルの本があったのを思い出した。帰宅して書棚を探すが見つからない。たしかみすず書房から出ていた本。その中に誰かの座右の銘として「隠れて生きよ」というエピキュロスの言葉が紹介されていた。酸っぱい葡萄は勿論、イソップの童話がもとで、英語ではsour grapes 、負け惜しみの意味。
 大垣書店で本を一つ。
●杉本秀太郎『ひっつき虫』(青草書房 2008年)
 杉本秀太郎の本では詳しい自筆年譜が巻末にある『神遊び』(展望社 2000年)を重宝しているが、最近の出版ラッシュぶりを見ていると、新たな年譜が必要だなあと思われてならない。

 写真は神泉苑近くのお寺で見かけた「sour grapes」。あとどれくらいで食べごろになるのかしら?

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 6月24日(火)晴れ。岡崎の府立図書館へ行く。堀川四条付近に多勢の警官が群れている。サミット前の外相会合が26、27の両日京都で開催されるので、そのための警備なのだろう。両日はマイカーでの外出を自粛するようにとのお触れが出ていたが、効果はあるのかしらん。バスの窓から見ていると、町に制服姿の警官が目立つ。府外からの応援組もいるのだろう。地下街にも鴨の河原にも、いたるところにいかめしい警官が立ちはだかって、なんとも無粋なことなり。
 先週の土曜日、祇園のFさんに誘われて、京都会館で「都の賑わい」を観た。京都の五花街による合同公演で、今年で15回目。花街にはそれぞれ独自の公演―「都をどり」や「鴨川をどり」など―があるが、五つ(祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町、上七軒)の花街の芸舞妓さんたちの踊りをまとめて見ることができるのはこの「都の賑わい」のみ。会館前の広場も開演前のロビーも、色とりどりの着物姿の芸舞妓たちがあふれ、そのあでやかなこと、みんな舞台を観終わったらそのままお座敷へ直行できるように、しっかり着付けも化粧も出来上っている。
 Fさんところの二人の舞妓といっしょに舞台を見物。隣の席にそれは美しい芸妓が坐ったので尋ねると、宮川町の●さんとのこと。薄紫の着物に日本髪で、それはあでやかなこと。思わず見とれました。

 写真は琴乃さんと彩乃さん。弥生3月に見世出し(デビュー)したばかりの新人です。最近、必修科目の茶道のお稽古が始まったというので、感想を尋ねると、「棗」って不思議な字どすなあとのんびりした返事が返ってきた。可愛いものである。

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 6月23日(月)曇り。風よく通り、過しやすい一日。土曜日、ジュンク堂で購入した『新・文學入門』(岡崎武志・山本善行 工作舎)を読了。本好きの、本好きによる、本好きの為の本。または、文学好きの、文学好きによる、文学好きの為の本。かねてからこの二人の著書を、深い共感と好感を持って読んでいたので、この本も愉しく読んだ。お二人の本・文学の好みが自分のそれとよく似ているので、読んでいて愉しくないはずがないのだ。土曜日はジュンク堂で、著者によるサイン会が行われるというので、京都会館の帰途立寄って、サイン本を求めてきた。(ちゃんと予約もしてました) 『新・文學入門』の目玉は二人による「(架空の)気まぐれ日本文學全集 全60巻」構想だろうか。足立巻一、天野忠、鮎川信夫、生島遼一に始まって、篠田一士、殿山泰司、永瀬清子、野呂邦暢などと続き、吉田健一、淀川長治で終る。私ならこれは外してあの作家を入れたいなあ、などと架空の編集を楽しむのも一興。
 大金をはたいて欲しい本を入手するのは容易いが、この二人はいかに少ないお金でいい本を手に入れるかに心を砕く。ゆえに本(文学)に関する人並みはずれた知識を有し、鑑識眼と選択眼を身につけ、一期一会ともいえる古本との出会いを引き寄せる強運を持つ。それこそ三十数年に及ぶ古本屋巡りのたまものだろう。
 二人がこの本の中でたびたび野呂邦暢について語っているのを心弾ませながら読んだ。「諫早通信」のことにもふれてあったが、これを機に野呂邦暢の作品が再版されないかしらと、これは望蜀か。

 写真は『新・文學入門』。下鴨神社で行われる夏の京都古本まつりが待ち遠しい。

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 6月21日(土)曇り。毎日仰ぎ見ている愛宕山や比叡山が、今朝は低く垂れ込めた雨雲に覆われて見えない。山が隠れると景色がずいぶん違って見える。愛宕山には一度だけ、千日詣の日に登ったことがあるが、比叡山へはいつも車で行く。先日、加賀市大聖寺にある深田久弥の「山の文化館」を訪ねてきた。「百名山」で有名な作家深田久弥の遺品や、山と文学に関する資料が収集展示してある。深田久弥は大聖寺の出身で、文化館は元、ある織物会社の事務所だったものという。夕方に訪ねると、前庭のカフェで寛いでいた地元の人たちが歓迎してくれた。建物もいいが、門内の大きな樹々が素晴らしい。樹齢数百年という銀杏やタブノキ、椎の木が深々と枝を繁らせて、足許には青い銀杏の実が無数に落ちていた。「今年はようけ実をつけたもんで、自分で調整して摘果しとるんでしょう」。「この椎の木は鎌倉時代から生きとるんですわ」。
 大聖寺は加賀前田家の分家。三代利常のとき、三男利治が大聖寺城主となり、以来、14代230年続いた。九谷焼が生れたのはここ大聖寺においてで、古九谷の釜跡が大聖寺川の上流にある。大聖寺は小さいが城下町の雰囲気を残していて、散策するにはほどよい広さ。芭蕉が奥の細道の旅で立寄った全昌寺には「庭掃きて出でばや寺に散る柳」の句碑があった。
 九谷焼美術館の隣にある加賀市立図書館に立寄って書棚を眺めていたら、大庭みな子の『楽しみの日々』(講談社 1999年)が目についた。病に倒れた後の、夢か現か幻の中をさまよっているような日々を記したエッセイ集。ある意味、彼女の文学の特徴が最もよく表れたもの、といえるかもしれない。ここに「いかばかり寂しかるらん夕まぐれ ただひとり行く旅の中空」の歌が引かれていて、はっとした。わが日々もまさに「旅の中空」にあり。夢か現か時空を超えた「旅の中空」にあり。

 写真は大聖寺の「深田久弥 山の文化館」。館長は同じく大聖寺出身の作家高田宏。時々ここで講話をしているそうだ。

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 6月20日(金)晴れのち雨。今朝の山中は快晴。宿を出るときは朝日が眩しいほどだったが、越路を過ぎて京都が近づくにつれ曇り空となり、琵琶湖畔で雨になった。午後3時ごろ帰宅。留守電、郵便物、メールなどに目を通す。知人の訃報あり。今回の旅の目的は金沢行きだったが、付録の「紫式部の越路を辿る」の方が大きな収穫だった。これまで何度も計画しながら実行できずにいたのが、おおまかにだが道筋だけでも確認できたのは嬉しいことだった。次は実際に歩いて峠を越えてみたい。以前、友人たちと平安貴族も行き来したという京―大津間の比叡越え(志賀越え―山中越え)を実際に歩いたことがある。思ったより道は整備されていて、当時を偲びながら歩くことができた。近年、古道を歩く人が増えているそうで、各地の古道が見直されているらしい。今回も敦賀の新保から南越前町今庄へ出る木の芽峠の今庄側で、峠に向う一人の男性を見かけた。聞くと東京から来たといい、リタイア後、単身、全国各地の古道を歩いて廻っているとのこと。「紫式部はここを輿に乗って越えたのですか、はあ、揺れて大変だったでしょうなあ」と感心していたが、無事峠をクリアしただろうか。

 金沢の本屋LIBROで文庫本を二つ。
●高島俊男『芭蕉のガールフレンド―お言葉ですが�』(文春文庫)
●池田清彦『やがて消えゆくわが身なら』(角川ソフィア文庫)

 写真は滋賀県高島市の白髭神社境内にある紫式部歌碑。「紫式部集」にある、

 みほの海に網引く民の暇もなく たちゐにつけて都恋ひしも

 が刻まれている。越前守となった父や家族とともに武生へ赴く旅の途中、琵琶湖を船で北上してきた一行は、近江高島の三尾で一泊した。(三尾郷の勝野津)そのときの見聞を詠んだものであろう。

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6月19日(木)晴れ。金沢行き。話題の21世紀美術館や石川近代文学館などをたずねる。金沢は緑豊かで古風さを残した床しい街だ。文学館前の大きな通り(百万石通り)はケヤキやトチノキが緑の葉を広げて、まさに緑陰通り。昔、金沢美大を受験した友人がいて、受験のため金沢に滞在していた間、毎日のように絵入りの手紙をくれたことを思い出した。百万石通りのトチノキはもう実をつけていました。写真は加賀市立山中図書館。窓の外は緑の渓谷。「奥の細道」の旅の途中、芭蕉がここ山中の湯を愛でて、1週間も逗留したという。温泉地のそこかしこに芭蕉の句碑や像がある。

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6月18日(水)晴れ。紫式部は、長徳2年(996)、越前守に任じられた父(藤原為時)に従って越前国府に赴いた。当時、越前国府は武生にあった。式部は武生で一年余を過ごした後、一人京へ戻り結婚した。この時の旅の様子は「紫式部集」から窺うことができる。金沢へ行く用事ができたので、思い立って武生まで紫式部の越前行きの路を辿ってみた。琵琶湖の船路や車では越せない峠道は今回パスしたが、おおまかには辿ることができたと思う。テキストは角田文衛「越路の紫式部」。式部たちが数日かけて赴いた京−武生間をいまは車だと2、3時間で行く。機会があったら深坂(塩津―疋田)、山中(敦賀―武生)、木の芽(新保―今庄)の三つの峠を歩いて越えてみたい。写真は武生の紫式部公園に立つ式部像。先頃の市町村合併で武生は越前市となり、奈良時代から続く武生の名前はなくなっていた。

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 6月17日(火)晴れ。市バスに乗って府立図書館へ調べ物に行く。曇り日なら自転車で行くのだが、強すぎる日差しに恐れをなして軟弱コースを。四条烏丸から修学旅行生らしきグループが何組か乗ってくる。制服がちがっているところを見ると、別々の学校らしい。岡崎の平安神宮へでも行くのかしら。四条烏丸を「四条からすまる」と読んで笑い合っている。まこと地名は面白い。昔の人は人の名前も土地の名前も読み方さえ合っていればよかったから、人名も地名も当て字が多い。昔の人の日記など読んでいると、四郎のことを、士郎、史郎、四朗、司郎、志郎、などと幾通りにも書かれていて、音さえあえばよかったのだなあと知らされるのだ。
 図書館での用事が済んだので、河原町三条まで戻ってジュンク堂BAL店へ寄る。書店がある5階でエスカレーターを降りると、すぐ眼の前に「新・文学入門」の看板がかかる特設コーナーがあった。岡崎武志と山本善行の二人による『新・文学入門』(工作舎)の発刊を記念するフェアだそうだ。二人による「架空の・気まぐれ日本文学全集」のラインナップも掲示されていて、その中に野呂邦暢の「小さな町にて」があった。書棚には二人が推選する本の数々が並んでいて、吉田健一、古山高麗雄、洲之内徹など渋めの選書が嬉しい。買いそびれていた●『短篇礼讃』(ちくま文庫)を購入。大川渉編の短篇集で、野呂邦暢「水晶」、阿倍昭「猫」、山川方夫「他人の夏」などが収められている。編者はあとがきで、「(収録した)12人の名を列記してみて、夭折した作家が多いことに気づいた」と書いているが、山川方夫は35歳で事故死。野呂邦暢42歳、阿部昭は55歳。ゆえに本の帯には、「生き急いだ作家たちの描く珠玉の12編」とある。
 この特設コーナーには古本も置いてあって、なかなか面白い試み。新刊書店で古本も買える、というところが楽しい。「新・文学入門」のサブタイトルは「古本屋めぐりが楽しくなる」とある。いうまでもないが、二人は有名な古本界の雄で、すでに古本に関する著書も多い。二人による「(架空の)気まぐれ日本文学全集」が実現するといいのだがと思いながら書店を後にする。

 写真はジュンク堂BAL店の「新・文学入門」フェアのコーナー。

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 6月16日(月)晴れ。梅雨の中休みが続いている。14日(土)は一日籠って資料読み。朝、岩手・宮城で大地震発生のニュース。時間が経つにつれ、被害の様子が伝わってくる。中国の四川ほどではないが、やはり道路が遮断され孤立している集落あり。資料読みと並行して、一日地震関連のニュースを見る。つれあいが出張の際常宿にしている仙台ホテルが何度もTV画面に登場。窓ガラスが割れ、水道管が破裂したのか、水浸しのロビーを清掃する従業員の様子が繰り返し映る。つれあいは来週(今週)も予約しているけど、大丈夫かなあ、と不安そうであった。
 15日(土)晴れ。東山七条の智積院へ青葉まつりを見に行く。この日は弘法大師の誕生日で、智積院では一日、お寺が開放される。長谷川等伯の障壁画と美しい庭園の拝観が目的で、毎年出かけることにしている。境内のいたる処に桔梗が涼やかな色で咲き誇り、池の周りの菖蒲やアジサイ、ヤマボウシが満開。僧侶の読経に続いて山伏たちによる護摩焚きが盛大に行われる。日曜日とあって、例年より参詣者多し。外国人ツーリストの姿も目立った。
 日曜日は父の日とて、離れて住む子どもたちからプレゼントやメッセージが届く。つれあいの父親も私自身の父親も、彼岸に渡って久しい。自分の親から「保護者」のバトンタッチをされてから随分になるのに、まだ心もとないものがある。
 まあ、人の親になって思い知らされたのは、「世の中も子どもも自分の思うようにはいかない」ということだろうか。思うようにいかないのが人生、だからこそ面白いのだと思うことにしているのだけど。

 写真は智積院「青葉まつり」での護摩焚き。

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 6月13日(金)晴れ。今朝、4時半に目が醒めて、カーテンを開けると、窓の外はもうすっかり明るい。夜明けがうんと早くなった。考えてみるともうすぐ夏至なのだ。午前中、近代美術館へ出かける。早めに家を出て、真如堂へ寄り道をする。毎年そろそろかなと思いながら、なかなか花の時に会えないボダイジュの様子を見るために。本堂前のボダイジュはまだ2分咲きというところだろうか。高いところの花は開いていたが、手が届くところはまだつぼみ。それでも木の周りに甘い香りが漂い、蜂が飛び回っている。手を伸ばして花の写真を一枚。満開になるのは来週かしら。このボダイジュはシナノキ属。お釈迦様がその下で悟りを開いたという樹はクワ科のインドボダイジュ。先週、京都府立植物園で見ました。
 近代美術館でジャン・ルノワール監督の映画「フレンチ・カンカン」(1955年)を見る。ジャン・ギャバンとフランソワーズ・アルヌールのコンビによる音楽コメディ。この二人が共演したもう一つの映画「ヘッド・ライト」は何ともいえぬ哀愁に満ちた悲劇だったが。カンカンを躍るアルヌールの可憐さが印象的。ムーラン・ルージュでエディット・ピアフがシャンソンを唄う場面もあった。このときピアフ、40歳。
 午後から3時間ほど会議。日差し強し。帰途、三条商店街の中にある「サラサ」で一休み。ハーブブレッドを買って帰ると、注文していた本が届いていた。

●高島俊男『お言葉ですが 別巻1』(連合出版)
●大庭みな子『七里湖』(講談社)

 写真は真如堂のボダイジュの花。

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 6月12日(木)曇りのち晴れ。昨日は午前中『小右記』で醍醐行き。午後からは地区の集まりのお世話を勤める。京都の市中にはまだ昔のような地域共同体の名残りが見られると私は思うのだが、それでも近所のお年寄りに言わせると、最近ではお隣と顔を会わせて話すこともない、のだそうだ。昨夜遅くまでかかって、梅干用の梅を塩漬けにした。カメに入らない分は砂糖漬けにして梅ジュースに。梅雨時の恒例の仕事が片付いてほっとしている。あとは山椒の実を保存用に煮るだけ。
 遅ればせながら映画『ホテル・ルワンダ』(2004年)を見た。アフリカのルワンダで内紛による大量虐殺から1200人もの人々を救ったホテルマンとその家族を描いたドラマ。モデルのホテルマンは実在の人物で、彼はその後、アフリカのシンドラーと呼ばれたそうだ。ルワンダにある外国資本の四ツ星ホテルの支配人が主人公。彼は多数派のフツ族出身だが、妻は少数派のツチ族。内紛はフツ族民兵たちによるツチ族の大量虐殺に発展し、100万人ものツチ族が虐殺された。国連軍は撤退し、欧米人は我れ先に帰国、白人のジャーナリストは「アフリカで人が殺されても欧米人は”怖いね”というだけで、何もしないだろう」と無力さを恥じながら去っていく。白人世界から見捨てられ自分はアフリカ人であるということを思い知らされた主人公は、生き抜くためにありとあらゆる手を尽して・・・という息詰まる場面が次々と展開してゆく。主人公を演じたドン・チールドという役者が素晴らしい。また、虐殺の場面を見せることなく、その悲惨さと怖ろしさを十二分に伝える抑制の効いた画面がいい。まさに地獄からの生還。ルワンダの虐殺は1994年のこと、国連は平和維持軍を派遣しながら何もできなかった。
 生き延びた人々は脳裡からこの記憶を消すことはできないだろう。100万もの無辜の人々の命を奪った殺人者たちはどうなのだろうか?

 写真は北白川の民家に咲いていた白バラ。

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 6月10日(火)晴れ。今日は時の記念日。671年のこの日、漏刻と呼ばれる水時計をもとに鐘鼓で時刻を知らせた(『日本書紀』)ということにより、1920年に制定されたもの。時刻を統一することで、人々の統制もしやすくなったのだろう。平安時代に書かれたものを読んでいて、このころの人々はどのようにして時刻を知ったのだろうとよく思う。『御堂関白記』や『小右記』には、しばしば時刻の記述が出てくる。未の刻に出かけるとか酉の刻に参る、とか。行事の度ごとに、始まる時刻、終る時刻が鮮明に記されている。官庁には時刻を知らせる役人がいたとは知っているが、彼等がどのようにして正確な時刻を知ることができたのか・・・水時計、日時計、香時計など、様々な時計があったのだろうが、平安宮では何が使われていたのかしらと思う。

 野呂邦暢の『一滴の夏』を再読す。これは1975年「文学界」12月号に発表されたもので、作者21歳のころの体験をもとに書かれた青春小説である。自衛隊を除隊して帰郷したばかりの失業青年が、就職活動もせず旱魃に悩む諫早の町を彷徨するという、異常な渇き(自然の乾きと心の渇き)が全編を覆った作品。しかし、野呂特有の瑞々しさはあちこちに散見されて、青春の不安や鬱屈が見事に描かれている。野呂は前年に芥川賞を受賞しており、この作品は自己の青春を描いた作品群の集大成となった。この後、野呂は歴史小説、古代史などにも仕事のフィールドを拡げていくのだが、野呂の本領はこの青春文学にあるという読者も多い。切迫した日々を描きながら、余裕が感じられるのは、作者の心境にもよるのではないか。行き場のない青春の苦悩を抱えた若者はいまも少なくない。そこからどう道を拓いていくか、自分に恃む心を持っていれば、見知らぬ人を道連れにして死ぬ、などという愚は避けられると思うのだが。

 写真は京都府立植物園に咲いていたシライトソウ。

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 6月9日(月)曇り。蒸し暑い朝。昨日の日曜日は久しぶりにFさんとの歴史散歩で播州まで出かけてきた。Fさんの母上もいっしょに。母上は病み上がりなので遠出は案じられたが、車窓の風景を楽しそうに眺めて会話も弾んでいたので一安心。これなら以前のように遠出も可能だろう。中国道の山崎I・Cを降りてすぐのところにある山崎菖蒲園へ。駐車場で準備してきた車椅子に母上を乗せていると、ハッピ姿の男性が駆け寄ってきて、「私がご案内します」といって車椅子を押してくれた。菖蒲園は谷間にあるので、入口近くは急な坂になっているのだ。先月はしゃくなげ、今月は菖蒲とアジサイが見ごろという。菖蒲畑が棚田のように重なり続いていて、なかなか見事な風景であった。ここは宍粟市。そういえば沿道に栗の木が目立ったが。
 菖蒲園を出た後、揖保川沿いの道(出雲街道)を南下して龍野市へ。龍野は旧脇坂藩の城下町、いまはソーメンと醤油で有名なところ。素麺工場が経営する食事処で、ソーメン・ランチを頂く。食後、龍野の歴史資料館や城跡、龍野神社などを廻る。初代城主脇坂安政は寛文12年(1672)、信州飯田から入封。脇坂家の始祖は賤ケ岳七本槍の一人、甚内安治で龍野神社の祭神となっている。外様でも5万3千石、明治初年まで約2百年続いたのだから立派なものだ。
 龍野は三木露風の故郷で、町のシンボルは「赤とんぼ」。また哲学者三木清の故郷でもあり、丘の上にある三木清の碑周辺を巡る小道は「哲学の小径」と名付けられていた。
 播州平野は色づいた麦畑と緑色の早苗がそよぐ水田が初夏の田園風景の彩を見せていた。緑の田圃の中を姫新線が2車両でのんびりと走り、遠く近く小さな古墳が点在していた。帰途、名神宝塚付近は事故のため渋滞す。普段でも渋滞する箇所なので覚悟はしていたのだが・・。宝塚トンネルを出たところで事故処理の最中だった。やれやれ。
  
 写真は山崎菖蒲園。

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 6月7日(土)晴れのち曇り。今日、6月7日は西田幾多郎(1870−1945)の命日。京都学派の創始者で、疎水べりをよく散策したので、彼にちなんでその道は「哲学の道」と名付けられた。道の途中に彼の歌碑がある。「人は人吾はわれ也とにかくに吾行く道を吾は行くなり」。哲学者が散策していた頃はいざ知らず、いまはシーズンを問わず観光客が多いので、静かに瞑想にふけるなんてとても無理。でも疎水沿いの哲学の道は、京都市内でも屈指の散歩道である。紅葉、桜のシーズンは言うまでもないが、いまなら紫陽花に夜になるとホタルが飛び交い、夏は緑の樹々が涼やかな陰を落とす。西田幾多郎といえば『善の研究』だが、縁がなくて未だに読む機会がない。多分、これからもそうだろう。でも彼のいう「絶対矛盾的自己同一」という言葉はよく使わせて貰っている。私流に解釈して、ですが。たとえば、「京都の近代化を進めるためには町家を壊して便利で快適なビルを建てよう」とすれば、「京都らしさがなくなって町の魅力は失われ観光客が来なくなり、町の経済は落ち込む」という場合など。
 久しぶりに植物園へ行ってきた。木々の緑の美しさに目が洗われるよう。土曜日は、午後から一時間ほど植物園の職員による案内がある。今日は温室の植物がメインだった。バオバブの実を初めて見たが、星の王子さまは実のことは知らなかっただろうな。

 帰りて東欧の現代史に関する本を何冊か読了。●図説大百科「世界の地理ー東ヨーロッパ」と●国際情報ベーシックシリーズ「東欧」というのが解り易かった。
 図書館で、●「文学界」5月号掲載の車谷長吉「四国八十八ケ所感情巡礼」を読む。四国を歩き遍路した体験記(紀行文)だが、毎日のように「路上で脱糞」とあるのには参ってしまう。去年はたしか世界一周船の旅の紀行文を書いていたが、平成奥の細道も近いのではないかしら。この人の場合は同行者はもちろん女流詩人であるつれあい。

 写真はアリウム・ギガンチューム。京都府立植物園で。

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 6月6日(金)曇り。ようやく時間ができたので、近代美術館で開催中の「ルノワール+ルノワール展」を観てきた。タイトルにルノワールが二つ連なっているのはほかでもない、画家であるオーギュスト・ルノワールと、その息子の映画監督であるジャン・ルノワールとのジョイント展なのだ。ルノワールが残した2000点にものぼる肖像画の中には、家族をモデルとしたものが数多い。ジャンは次男坊だが、この展覧会には、父親の作品にインスパイアされて製作したと思われる映画の映像が絵と並べて展示してあって、なかなか面白く観た。ルノワールが描く肖像画にはモデルに対する愛情が溢れていて、観るものを幸せな気分にする。ジャンの映画も同様で、戦争をテーマにしていても、その底には深い人間愛が感じられる。この会期中、美術館の1階奥でジャン・ルノワールの作品が上映されていて、実はそれを目当てに今日は朝から出かけたのだった。今日の上映作品は「大いなる幻影」「恋多き女」「フレンチ・カンカン」の三作品。「大いなる幻影」(1937年)を観るのは初めてだったが、この作品が今日でもなお洋画ベスト・テンの上位に上げられるわけを納得した。第一次世界大戦で捕虜になったフランス軍将校とドイツ軍捕虜収容所所長との奇妙な友情の物語。これはいわゆる捕虜収容所ものの原型とでもいおうか、捕虜たちが穴を掘って脱走を企てるシーンなど、のちのアメリカ映画「大脱走」を連想させるものがあった。貴族出身のドイツ人将校を演じたエーリッヒ・シュトロハイムはすごい役者で、さすがのジャン・ギャバンも霞むほどでした。脱走したギャバンたちが国境を越えて真っ白な雪の中を逃亡していくラストシーンはよかったが、逃亡中、助けてもらったドイツ人女性との別れのシーンには涙してしまいました。「ラインの仮橋」を思い出したりして。この映画が作られたのは1937年、もう第二次世界大戦まで間がないというのに、こんな洒落た反戦映画が作られていたなんて・・・。
 肝心のルノワールの絵ですが、日本人好みの、柔らかで親しみやすい、いい絵ばかりでした。モデルの一人一人がいまにも語りかけてきそうなほど、生き生きとした表情をしていて、思わず、「やあ」と声をかけたくなりました。でも正直なところ、今日の展覧会は映画の方が印象に残りました。

 写真は「ルノワール+ルノワール展」を開催中の京都国立近代美術館。画家と映画監督という二人のアーチストの作品が楽しめる展覧会でした。

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 6月4日(水)曇りのち晴れ。月曜日に来泊して昨日の朝、博多へ帰った知人から電話あり。「一週間ほど留守をしただけなのに、家の周りは草薮になっていて、昨日は帰るなり草むしりをさせられたよ」。お疲れ様と返事をしながら、何がいいといって、マンション住まいのいちばんの利点はこの草むしりから解放されたこと、と私は思う。とくに今の時期は、雨のたびに草が伸びて、刈っても刈ってもぼうぼうの勢い。猫額庭と呼んでいた狭い庭でも、うんざりするほどだった。でも土と離れてみると、時々置いてきた庭の草木が懐かしく思い出される。

 ●川本三郎・鈴木邦男『本と映画と「70年」を語ろう』(朝日新書)を読む。川本三郎の『マイ・バック・ページ』 が映画化されるという。朝日ジャーナルの記者だった川本三郎が、1971年に過激派学生が起した赤衛軍事件に関連して有罪となり、記者を辞めざるを得なくなった体験をもとに記された「ある60年代の物語」。こののち好きな映画と町歩き、文学に徹して、今日の川本ワールドが出来上るのだが、彼の原点はやはりここにあるのではないだろうか。この対談の中で川本三郎はこう語っている。

 「全共闘運動は連合赤軍で終わったが、その敗北の後が70年代なかばから10年ぐらいある。私は個人的には一番つらい時で、その頃のことを語りたいという気持がある。私だけではなくて、全共闘運動に関わって、その後就職もできなくなった人たちは、あの後どうやって体勢を立て直してまた生き始めたのか。運良く大学に戻った人もいるけど、在野にい続けて沈黙を守った人もいる。そういう人たちが、あの後、どうやって生き延びていったかという物語、私の仕事として、ノンフィクションで、いつかやりたいと思っているのです」

 ぜひ、実現してほしい。心ならずも人生の進路変更を迫られた人たち、沈黙を守った人たち(―敗者と呼んではいけないのだろうが)の声なき言葉に耳を傾けたいと思う。

 写真は今日長崎から届いた枇杷。長崎の初夏の味。器は伊万里の青磁。

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