2008年08月

Dsc02158  8月31日(日)晴れ。8月のつごもり。昨日は東京から出てきた友人と四条大橋東の「キエフ」で夕食。雨模様のため屋上のビヤガーデンから降りてきた客がフロアにあふれ、なんとも賑やかなこと。食後、店のKさんが屋上に案内してくれる。16日の大文字送り火の夜は、90名ちかい客で忙しかったとのこと。食事中はあまりの喧騒のため話ができなかったので、四条小橋の「フランソア」に場所を移して近況報告など交わす。フランソアは戦前、中井正一らが出していた週刊「土曜日」を置いていた店で、当時は京都の進歩的文化人たちの溜まり場だったそうだ。昭和初期のイタンリアンバロック風建物で、現在は国の登録有形文化財となっている。レースの衿がついたワンピース姿のウエイトレスがしとやかにサービスしてくれる。まあ、かなりレトロな喫茶店です。



 友人はこの夏、ペテルブルグやグルジアを旅してきたばかり。ロシアのグルジア侵攻は彼女の帰国後のことだったそうだが、「ロシアはまだ冷戦時代の夢から醒めてないのよ。二大大国が世界をコントロールできると思っているのだから。全く、人間というものは歴史に学ばない、いや学べないものなのね。懲りないというか。誰も生れるところを選べないのだから、ひどいことだわ」。全く。日本だって戦後の驚異的経済高度成長の夢から醒めてないような気がするけど。消費は美徳とばかり生産消費に追い立てられてきたけど、もうそんな時代ではないのだもの。少子化も時代の趨勢ではないかしら。日本は成長期を過ぎて成熟期に入ったと思いたいけど、「衣食足りて礼節を知る」にはまだまだなのかなあ。



 写真は昨日の夕日。嵐山と愛宕山の真ん中あたりに日が沈むところ。


Dsc01391  8月29日(金)曇り。アフガニスタンで農業指導をしていた日本の若者が殺された。何とも痛ましい事件で、最悪の結果をニュースで知ってからというもの、やりきれない思いでいる。亡くなった伊藤和也さんはペシャワールの会のメンバーで、旱魃と飢饉に苦しむアフガニスタンの人々を救うために、井戸を掘り、水路を築いて農地を開拓してきた。ペシャワールの会の捨て身の活動は度々報道されているから、日本でもよく知られていると思う。国からの援助や資金は全く無しで、会の活動を支援する多くの市民からの会費がすべてという極めて珍しい、自立した非政府組織なのだ。私が驚いたのは、集った会費の95%近くを現地活動費として使っているということ。多くのNPO やNGOが予算の半分以上を事務費(人件費)にあてて、現地への寄附や活動費は予算の3分の1にも満たない、というのとは大違いなのだ。「誰もが行きたがらない所に行き、誰もがやりたがらないことをする」という会のモットーと、「困った人を見て、知らぬ顔はできない。弱いものを見捨てては男がすたる」と言う中村哲医師の言葉が重なる。TVのニュースで中村哲医師が伊藤さんのなきがらに敬礼するシーンを見た。断腸の思いだったのではないだろうか。会は現地に派遣された日本人スタッフを帰国させる方針だという。しかし現地代表の中村医師は一人残って、活動の指揮をとるという。この人は、ペシャワールで活動を始めたときから、自分の命はこの地に預ける覚悟をしているのだろう。武装グループが日本人に銃を向ける背景には、多国籍軍(アメリカ)への自衛隊派遣などということもあるのではないか。



 勇気ある若者の死を悼む。せめてもの慰めは、彼を慕う多くの現地の人々がその死に涙していたこと。彼がアフガニスタンにまいた種はこれから必ず花をさかせ、実を結ぶことだろう。道ははるかなれども。



 伊藤和也さんの父上は愛息の死の報にさいし、「息子は我が家の誇り。家族で胸を張りたいと応えておられた。内心はいかばかりであったろう。気丈な父親の姿に胸うたれた。


Dsc02191  8月28日(木)雨のち曇り。今日、8月28日は上林暁(1902-1980)の命日。神経を患った妻をモデルとした一連の作品(『聖ヨハネ病院にて』など)で作家としての地位を築いた。近年、私小説はあまり人気がないが、若い頃、この人の作品を読んでしんと鎮まる気持になったことを覚えている。60歳のころ脳内出血で半身不随となったが、実妹の献身的な介護と彼女による口述筆記で小説を書き続けた。まさに「妹の力」に助けられた私小説作家である。正岡子規しかり、この上林暁しかり、身内の女性の献身と自己犠牲のおかげで自分の仕事を成し遂げることができた男性たちの、少なくないこと・・。上林暁の妹睦子さんがのちに書いた随筆集『兄の左手』には、病人にひたすら仕える18歳年下の自身の姿が描かれていて、胸をつかれる。私は高知出身の暁が詠んだ「四万十の 青き流れを 忘れめや」という句が好きで、よく拝借しては旅先で口ずさんでいるが、(たとえば、木曽川の青き流れを忘れめや、だの、石狩の青き流れを忘れめや、だのという具合に)妹さんの苦労を思うと、「妹の永久(とわ)の苦労を忘れめや」ではないかと言いたくもなる。



 今日の午後、友人と「崖の上のポニョ」を見てきた。愉しい映画でした。アニメの原点に返って、ややこしいメッセージなどない、ただ愛と勇気を唄った愛らしい映画でした。CGを使わない、手描きの絵が美しかった。



 写真は近所に咲いている宗旦槿。一日かぎりの花です。


Dsc02212  8月27日(水)曇りのち晴れ。昨日の午後、用事を済ませた後、四条河原近辺の本屋を廻る。コトクロスビルのbook1st.では本は買わずに6階のカフェコーナーで町を眺めながらコーヒーをいただく。このビルの名前「コトクロス」は「古都の交差点」の意味。祇園祭の山鉾巡行の日は、鉾の辻回しが行われるこの交差点がいちばんの見所となる。一休みした後は河原町三条にあるジュンク堂BAL店へ。最近は新刊書店では、ここがお気に入りの店。



●長田弘『幸いなるかな本を読む人』(毎日新聞社 2008年)。



●草森紳一『随筆 本が崩れる』(文春新書 2005年)



●石牟礼道子・多田富雄『言魂』(藤原書店 2008年)



●西岡常一・小川三夫『木のいのち 木のこころ』(新潮文庫)



 などを購入。新刊書の棚に久しぶりに再版された本をいくつか見る。岩波の写真文庫や沖積舎の『タルホと多留保』など。後者は稲垣足穂夫人・志代さんによる滅法愉快な随想記。志代さんなかりせば、足穂の戦後の活躍はなかったのではないか。



 写真は四条大橋西詰にある東華菜館。設計はヴォーリス事務所で、大正15年の建築。いまは中華料理店だが、建物細部の装飾が美しい。古いエレベーターも見ものです。


Dsc02195  8月26日(火)雨。朝、5時過ぎに起床。雨が降っているせいか外はまだ薄暗い。しばらくすると雨がやんで、束の間朝日が射した。家々の東側が赤く染まって、薄闇の中に浮びあがる。静かな風景、ふと岡鹿之助の絵を想い出した。



 昨日、天神さんへ行く途中で鳳仙花の花を見た。子どものころはどこにでも咲いていて、夏にはこの花をつんで爪を染めて遊んだものだったが、最近はなかなか見かけない。花が終ったあとの実にふれると、パチンとはぜて、小さなタネが飛び散るのも面白かった。子どものころはツマベニと呼んでいたと思うが、沖縄では「てぃんさぐ」という。初めて沖縄に行ったときに聞いて以来、最も好きな沖縄の歌。



 てぃんさぐぬ花や爪先に染みて



 親のゆし言や肝に染みり



 夜はらす舟や北斗七星目当て



 我ん生ちえる親や我んど目当て



 岡部伊都子の『心象華譜』に「鳳仙花」という文章があって、ある集まりで歌を披露したときのことが記されている。ある集まりというのは『日本のなかの朝鮮文化』社で映画会が催されたときのことで、上映会のあと宴となり、参加者が大人も子どもも歌を歌った、とある。そのとき宮古島出身の少女がこの曲を歌ったそうだ。詩人の金時鐘が朝鮮の愛唱歌「鳳仙花」を披露し、選曲に困った著者は「しゃぼん玉」をはかない声で歌った、という。沖縄や朝鮮、日本各地の民謡が唄われたあとの「しゃぼん玉」。私はこの人が歌う牧水の「白鳥はかなしからずや・・・」を間近に聞いたことがあるが、細いけれど透き通るような声は、歌い手の人柄そのままに、真直ぐでたおやかであった。



 いまこの人の『清(ちゅ)らに生きる』(藤原書店 2007年)を読んでいる。これまでの作品の中から選び抜いた言葉を再録したもの。この人の勁さは、失うものは何もない、と心定めた人の勁さではないかと思う。



「尊厳死はいらない。ただ、ひたすらに、自然死でありたい」



「ほんとのことを、もっとわたしたちは知らんといけませんな。つらくて聞きたくなくても、真実を知らなかったら、次にどういう世界をつくりたいかにかかってきますやろ」。



 私の恩師の口癖は「歴史を正しく学ぶことなしに、未来の展望は拓けない」であった。学校では駆け足で通り過ぎた近代・現代史を、いまの子どもたちにはもっときちんと教えてほしいものだ。




Dsc02197  8月25日(月)曇り。朝、大急ぎで仕事をすませ、北野の天神さんをのぞきに行く。幸い自転車を走らせるには最適の日和。途中、中央図書館に寄って、手持ちにない前登志夫と岡部伊都子の本を借りる。自転車を走らせていると爽やかな風が耳元を吹きすぎていくが、今朝の風は決して「ああ、お前はなにをしてきたのだ」などと私を責めたりはしない。天神さんは相変わらずの人出だが、夏場のせいか、いつもより出店が少ない気がした。骨董屋が並んだ通りをひやかしてまわる。外国人ツーリストや添乗員に案内された団体客多し。見るだけのつもりだったが、塗り物の小皿とちりめんの小物入れを購入。なじみの店でちりめん山椒と奈良漬も。とても全部を見て廻る時間はないので、山野草の店でフシグロセンノウやサギソウの花を眺めて帰途につく。今年に入って、天神市に行ったのは今日が初めてだった。



 醍醐寺の山上にある観音堂が落雷のため(?)焼亡というニュースに驚く。ここは西国三十三観音霊場の一つで、私の結願のお寺だった。毎日のようにこの山に登っているという友人に案内してもらってお参りしたのはいつのことだったか。ふもとの醍醐寺裏から息も絶え絶えになりながら登りつめ、友人に促されて目をやった山上からの眺望の素晴らしさに、疲れが吹き飛ぶ思いがした。山上には国宝に指定された薬師堂もあるが、本尊の薬師如来はふもとの宝物殿に収められていて、そのときはもうお堂におられなかったと思う。仏さまはあくまで信仰の対象だからお堂にいてほしいという私の質問に、火事などの災害を思うと心配で、とお寺の人は弁明されたが、今度のことでそれが杞憂ではなかったと証明されたわけで、すまなく思っている。「この世は諸行無常、盛者必衰、会者定離」とはいうものの、である。



 いま、雨が降りだした。さらば束の間の夏の光よ。写真は今朝の北野天満宮。通りゃんせ通りゃんせ、の歌の舞台はここではないと最近知りました。


Dsc02185  8月23日(土)曇りのち雨。午後、知人の子どもたちを案内して、平安京散策をする。新学期がはじまったのに、夏休みの自由研究をまだやってないというので、急遽手伝うことになったもの。二条駅前で落合い、まずは駅前のロータリーに設置された平安京の案内板を見ながら今回歩くコースの説明。朱雀大路(千本通)を北上し、朱雀門址、豊楽殿址、大極殿址を見て、アスニー内の平安京創生館に入る。ここに設置された平安京の復元模型を見ながら、1200年前がどうだったか想像してごらんというと、ビルがない、高速道路がない、平安京の周りに建物がない、人がいない、などと子どもらしい感想が出た。千分の一のスケールで復元されたこの模型は実によく出来ていて、子どもだけでなく大人にとっても京のイメージを描く手助けになる。京の町の通りは平安京の大路小路をほぼ踏襲しているので、通りを頼りに、自分が住んでいる家や学校がどのあたりにあるのか探して楽しんでいた。アスニーを出て、今出川の考古資料館まで足を伸ばしたが、ここの展示は子どもたちには退屈だったようで、残念。雨が降る前に解散したが、大極殿址の公園では、地蔵盆の真っ最中で、子どもの姿より世話役のお年寄りたちの方が多かった。夜に入って激しい雷雨あり。



 8月24日(日)晴れ。オリンピックも今日で終わりというので、TVで男子マラソンを応援す。佐藤敦史に期待したが、早いペースについていけずずいぶん遅れたもよう。沿道の北京の町の様子を眺めて何となく2時間が過ぎる。午後から中央図書館へ本を探しにいったついでに、近所の地蔵盆を眺めてまわる。各町内ごとに地蔵尊を祀って、子どもたちのための行事を行うものだが、以前は(いまもそうだろうか)子どもたちにとって夏休みの最大のイベントだったという。色とりどりの提灯が吊るされた地蔵堂の前にテントが張られ、福引やスイカ割りなど、子どもたちは一日ゲームに興じる。最近は子どもが減って、地蔵盆に集っているのは老人ばかりというところも少なくないが、今日、歩いた朱雀地区にはまだ子どもたちの姿があった。路地ごとに地蔵盆が行われているという感じで、この日は道路が占拠されてどこも車は進入禁止。地蔵盆を見るたびに、京都の町にはまだ地域共同体が生きているなあという感じがする。



 写真は聚楽廻付近で見かけた地蔵盆。ここのお地蔵様はちゃんとお堂に入っておられたが、場所によってはお堂から出張って、ガレージなどに祀られているお地蔵さんもいた。


Dsc02088  8月22日(金)晴れ。さしもの猛暑も影をひそめたようで、今朝は爽やかに目が醒めた。昨日の夜半ベランダに出て、夏の星座はいかならむと夜空を仰いだが、それと確かめることができたのは白鳥座くらいなもの。町の灯が薄雲に反射して、星の光を隠しているのだ。はるか南、大阪の方を見やると、生駒山の灯りが遠くに見える。夏休みの間、生駒山の山上遊園地が週末ごとに夜間営業をするらしく、土・日の夜は夜空に光の塊が浮んで、まるで天空の城のように見える。きらめく星座ならぬきらめく天空の城。



 オリンピックの開会式を見て思ったこと。中国の歴史と文化(世界的発明)をテーマとしたマスゲームの中で、何度も孔子や論語が出てきたが、文化大革命のとき、孔子は激しく批判され、聖堂などが破壊されたのではなかったか。時代は変ったのですね。コンパニオンの女性たちが魅力的なチャイナ服を着ていたことにも時の移ろいを思ったことでした。中国の人はまさに一身にして二世を生きているのではないかしら。いやまだまだ目まぐるしく変化するだろうから、一身にして三世も四世も生きることになるのでは・・。



 写真は東山七条にある豊国神社。豊臣秀吉を祀った神社で、この唐門は国宝。この北側の方広寺には秀吉が建てた大仏殿があったが、焼失。いまは大坂冬の陣の原因となった梵鐘(「国家安康君臣豊楽」と刻まれた)が残るのみ。秀吉が亡くなったのは慶長3年(1598)で、ちょうど10年前が太閤没後400年だったが、格別な行事があったという記憶がない。お土居を築き、現在につながる京の町の形をつくったのは秀吉なのに、京都の人は太閤さんに冷たいなあ、というのが正直な感想。それに比べると「源氏物語千年紀」の熱気はどうだろう・・・。


Dsc08369  8月21日(木)晴れ。朝、爽やかな風が吹く。ベランダから西空を見やると、愛宕山の中腹をしぐれが通りすぎ、小さな虹が立った。午前中、真面目に仕事。ついで、たまった手紙の返事も書いてしまう。手紙をポストに投函しようと玄関を出たところで、あ、今日は東寺の弘法さんの日だと気がついた。いまから行ってもまだ間に合うけど、天神さんも弘法さんも古本市と同じで、朝のうちに行かないといいものはない。弘法さんといえば、天野忠に、タイトルは忘れたが、東寺の弘法さんで死んだ父親に会った、というような詩があった。「縁日幻想」だったか・・。やわらかな京言葉で書かれた、穏やかだけどどこか醒めた寂しい詩だった。



 天野忠を想い出したせいで、最近古本市で手に入れた●吉岡実『「死児」という絵』(筑摩叢書 1988年)を読む。筑摩書房に勤めていたせいか、いろんな詩人や俳人などとの交流が多く、この散文集にもその一部が記されている。なかでも西脇順三郎の最晩年を書いた文章がいい。西脇順三郎の「天国の夏」から引用された詩もいい。



 地球ってあまりいいところではない



 なにしろ住みにくいところだ



 生殖が終ったらすぐ死ぬといい



 豊饒の女神のへそにたまる



 けし粒になる方がいい





 ●佐藤洋二郎『人生の風景』(作品社 2004年)を読む。子どもの頃、早世した父親に教えられた「弱い者いじめをするな。卑怯なまねをするな」という言葉を、自分の息子に言いきかせる作家の真摯な胸のうちが伝わる本。この人の小説には土地の風景と切ないほど一途に生きる人間の姿がしっかり描かれていて、人生の哀歓―苦いことの方が多いがーを味わわせてくれる。巻末の著者略歴によると、現在(2004年の時点で)日大芸術学部助教授、とある。大学で創作を教えているのかしらん。きっといいセンセイなのだろうな。



 写真は近所の公園に咲いていたヘクソカズラ。ひどい名前だが、その臭いから名付けられたもの。子どものころこの花をさかさまにして鼻にくっつけて遊んだ記憶がある。


Dsc02153  8月20日(水)晴れ。今日、8月20日は民族音楽学者小泉文夫(1927-1983)の命日。幼いころから西洋音楽で育った小泉文夫が音楽研究のため美学科に進み、そこで日本の伝統音楽と出会い、民族音楽研究の世界へ入っていく。日本の伝統的な民族音楽とは、古代の貴族たちが親しんだ雅楽や近世の邦楽ー三味線や尺八ではなく、「わらべうた」や「民謡」にあるのではないか、という主張には説得力がある。幼時からバイオリンを演奏し、教会の聖歌隊で歌っていた人が、長じて日本のわらべ歌や民謡に心を揺さぶられて音楽の民族性に目を開かされた、というのも興味深い。この人の没後すぐに出版された講演録『小泉文夫 フィールドワーク―人はなぜ歌うか』(冬樹社 1984年)を時々読み返す。世界各地を訪ねて民族音楽の調査・採集をしていく様子は文化人類学者顔負けの奮闘ぶり。首狩り族での調査では、人が唄うのは(ハーモニーがうまいのは)生き延びるため、という結論に達していて、なかなか面白い。



 この人は19歳のとき、11歳年上の声楽家に恋をしてやがて結婚。彼の死後、夫人の加古三枝子(1916-2002)さんが夫の回想記を出した(『人生を駆けぬけてー回想の小泉文夫』音楽之友社 1985年)。19歳の少年(青年?)から求愛された声楽家の心境はどんなものだったか、また、その後の少年の変貌ぶりが活き活きと描かれていて、音楽研究だけでなく生きることにも一途だった人の魅力が伝わる



 ずいぶん前のことになるが、岩国や津山の人たちとの文化交流の席で、郷土の歌を披露するよう求められたことがある。ひたすら固辞したが、そのとき岩国の人が素晴らしい声で「音戸の舟歌」を歌ったのが忘れられない。人はなぜ歌をうたうか―、西洋音楽は神への呼びかけがそのはじまりだとよく言われるが、私たちの祖先もやはり生きるために声を合わせたのではないか、大いなるものへの感謝、祈り、から。『小泉文夫フィールドワーク』を読み直しながら、そんなことを考えた。



 写真は山梨県北杜市明野町のひまわり畑。


Dsc08381  8月19日(火)曇り。昨日の朝、風が少し爽やかだったので、はや秋の初風かと喜んだのだが、今朝、窓を開けるとサウナのような熱風が吹き込んできて、がっかり。まだまだ真夏日から解放されそうにない。久しぶりにAMラジオをつけると、夏休み子ども科学電話相談があっていた。これが実に面白い。専門家(学者)が電話で子どもたちの質問に答えるというものだが、例えば「海はどうして青いのですか?」「金魚もおしっこをしますか?」「果物の種はどうやってできるのですか?」など、即座にはこたえかねる質問もあれば、「宇宙の果てはどうなっているのですか?」などと哲学的な質問もある。回答者がときに戸惑いながらも、子どもに噛んで含めるように丁寧に答えているのを聞くと、感心してしまう。日頃、学者の文章を(難解なものこそ名文と思っているのではないかと)疑問に思っている私にとって、難しいことを子どもにも理解できるように易しく語ることができる回答者たちこそ本物だと思えてしまう。これまで聞いた質問の中で最も印象に残っているのは、「動物園のお猿はいつ人間になりますか?」というものだった。



 写真は八ケ岳倶楽部に咲いていたゲンペイツリフネソウ(源平釣船草)。花が紅白に染め分けられているところから名付けられたものだろう。八ケ岳の宿の近くにツリフネソウの群生地があって、今年もピンクと黄色のツリフネソウが満開だった。ルリタマアザミもいつもの場所に咲いていて、朝の散歩時に一年ぶりの挨拶をしてきた。


Dsc08424  8月18日(月)晴れ。お盆休みで山梨県北杜市の八ケ岳山麓へ出かけていた。朝の気温が17度という涼しさ、昼間でも28度、湿度が低いので爽やかなこと限りなし。蒸し暑い京都と比べるとまさに天国。日中は子どもたちと牧場や渓流で遊び、夜は流星群を眺めてきた。持参した本は一度も開く暇なし。中央道も名神高速道も、往復とも渋滞なしでスムーズに走れたのは幸いなことであった。昨日の夕方、新幹線で横浜へ帰る子どもを見送りに京都駅へ行く。駅はものすごい人。無事、見送りを済ませた後、つれあいと京都駅ビル11階のモリタ屋で夕食。京都市内を一望する席ですきやきとビールで慰労会。今年の夏休みは長かった、チビたち相手の民宿も今日でおしまいなり。給仕をしてくれる女性に尋ねると、昨夜は大文字の送り火で、店は予約客のみの貸切だったとのこと。舞妓ちゃんも来てくれて、それは賑やかどした、とのこと。送り火でお精霊さんも見送ったし、いよいよ京都の夏も終わりに近づいた。そういえば一夜明けた今朝の風はいくぶん爽やかだったが・・。



 今日、8月18日は深沢七郎(1914-1987)の命日。『楢山節考』は民話や伝説にある「姥捨て」を見事に近代小説化した作品。村田喜代子の『蕨野行』も同じ素材をあつかった物語だが、読者の無意識の世界を揺さぶる力は『楢山節考』の方がより強い。とぼけたふりして真実を語る、といった風がこの人の文章にはあって、笑っていると足をすくわれそうな不安がある。近代人(知識人がといおうか)が隠したがることをずいと言う癖があって、読み手は時にへどもどとなる。「極楽まくらおとし図」の怖ろしさはどうだろう。仕事の合間に『余禄の人生』を読む。正宗白鳥や武田泰淳について書いたくだりが面白い。



 写真は京都駅ビル11階の店から見た京都の町。京都タワーと後は比叡山。




Dsc02127  8月12日(火)承前。今日は中上健次(1946ー1992)の命日。私はこの人の初期の作品、『枯木灘』や『紀州 木の国・根の国物語』が好きでよく読んだが、晩年の作品にはなかなか馴染めなかった。 原日本人というものを考えた人、という印象を持っているが、文学に収まらないエネルギーを持て余していたのではないか。生まれ故郷の紀州新宮に「熊野大学」を開いて若者たちの文化活動の拠点としていたが、中上健次亡き後も、毎年8月に縁の作家たちが集ってその熊野大学が開かれている。今年のテーマは①「中上健次と上田秋成」、②「大江健三郎から中上健次へ」だったそうで、共通点があると思われる上田秋成と中上健次の話は面白かったのではないだろうか。全人的作家というか、まるごと作家というものは最近はなかなか存在しにくいようで、中上健次のような作家はもう出てこないだろう。癌を患って帰郷し、そこで没したが、故郷へ帰るたびに「新宮は遠い」と言っていたそうだ。まこと熊野は遠い。東京からもそうだが、京からも遠い。ゆえに古代から尊ばれたにちがいない。熊野は根の国、人が生まれ変わる異界の地ではないか。



 明日から八ケ岳へ出かけます。猛暑、酷暑の京都を逃れて、標高1500メートルの山ふところに抱かれてきます。



 写真は出町柳近くの賀茂川のほとり。珍しい手押しポンプで子どもたちが遊んでいた。背景は大文字山。


Dsc02129  8月12日(火)晴れ。



●長田弘『読むことは旅をすること―私の20世紀読書紀行』(平凡社 2008年)を読む。読むことは旅をすること、旅をすることは風景の声に耳澄ますこと、見えない歴史を旅することだ、と詩人は言う。戦争と革命の世紀だった20世紀の歴史の跡も、いまはもう無言の風景の一つとなっている。それらの風景の中に隠された人々の声を聴く旅。



 読み始めて間もなく、この文章は一度読んだことがあると思った。それもそのはず、これはこれまで出版された著者の本から抜粋されたエッセイの集大成なのである。詩人の本に親しんできた読者には馴染み深いエッセイの数々が収められた本。かつてこの人の『私の二十世紀書店』(中公新書 1982年)を座右に置いて、ここに記された92冊の本を読破しようと試みたこともあったが・・・。(正直に言おう。三分の一も読めなかった―入手することができない本もかなりあった)。



 巻末にある「ウエストミンスター寺院の詩人」に記されたW・H・オーデンのプロフィルが印象深い。



 読むことは旅をすること・・・私にとっても読んでは歩き、歩いては読むを繰り返すことによって、本への理解を深めるということがしばしばだ。読むこと即ち旅、旅、即ち人生。もうたくさんはいらない。残された時間はそう長くないし。


Dsc02115  8月11日(月)晴れ。早朝から机に向い溜った仕事を片付けるも、資料探しに手間取ってなかなか捗らない。11時半になったので仕事半ばで外出。行き先は下鴨神社の古本まつり。出町柳でバスを降り、灼熱の日差しの下を下鴨神社へ向う。道すがら、戦利品を手にした人たちとすれ違う。今年は初日から来場者が多いようだ。糺の森の中の会場は緑陰にあり、思ったより涼やか。今年は35軒の古書店が出店しているという。早速、各店舗を覗いてまわる。



キトラ文庫で、●坂崎乙朗『絵を読む』(新潮選書 1975年)を400円で購入。坂崎乙郎の本は何であれ手が出てしまう。鴨居玲の後を追うようにして彼が亡くなってからもう23年になる。



 いくつか目に付いた本があったが、後でもう一度買いに戻ろうと思っているうちに時間切れとなってしまった。古本との出会いはまさに一期一会。出会ったときに即求めなければならないと再認識す。下鴨神社を後にして、Yさんとの約束の場所へ向う。四条烏丸のCOCONビル。急ぎ足で歩いている途中、向うから杉本先生がやってくるのに気づく。最近立て続けに著書を出している先生は、先日茨木の富士正晴記念館で話をされたばかり。帽子をとって短く挨拶す。



 古本まつりは16日までだが、あさってから山梨行きのため、再訪は叶わないだろう。写真は今日の下鴨納涼古本まつり。


Dsc08360   8月9日(土)晴れ。昼前の新幹線で横浜から11歳の男の子がやってくる。途中、何度も携帯電話でメールがあり、2時間はあっと言う間だったらしい。新幹線での一人旅も、もう3回目とあって慣れた様子。ホームに降りてまず「無事到着」と母親にメールで報告す。午後、子どもを連れて六波羅の六道参りと、五条坂の陶器まつりへ行く。お盆前の恒例行事なり。五条坂では日吉の前野さんの店でお皿を入手。陶器で飾られた神輿が鎮座する若宮八幡宮にお参りしたあと、六波羅蜜寺と六道珍皇寺へお精霊さんの迎え鐘をつきにいく。途中、松原通の角にある西福寺へ寄り、この時期だけ掲示される「地獄図」を拝観す。人は死んだらどうなるかー死体が腐乱していく様子や、死者が向う閻魔大王が支配するさまざまな地獄がリアルに描かれた図は実におどろおどろしい。六道まいりの期間中、この界隈は精霊迎えの人たちで賑わう。亡くなった(つれあいの)両親の霊が帰ってくるのは京都の我が家なのだが、生前、訪れたこともない京都のマンションに迷わず戻ってこれるかしらと思いながら、迎え鐘をつく。



 それにしても暑い。夕食後、壬生寺の盂蘭盆万灯供養会に行く。毎年ここに先祖供養の灯籠をあげているのだ。我が家の灯籠は本堂入口近くにあった。お参りしている間に六斎念仏が始まったのでしばし観覧。子どもたちによる獅子舞や土蜘蛛を見て、夕立がくる前に帰宅。



 ●松本昌次『わたしの戦後出版史』(トランスビュー 2008年)を読了。未来社の編集者を30年務めたあと、影書房を創設、81歳の現在も出版活動を続ける名編集者の回想記。文字通り、戦後を彩る作家や学者たちとの交流や編集の仕事ぶりには目をみはるものがある。志をもった出版人の記録。年間8万点もの本が出る現在では、考えられないほど贅沢な仕事ぶりではある。



 写真は9日、壬生寺の盂蘭盆万灯供養会で奉納された六斎念仏。


Dsc08284  8月8日(金)晴れ。昨日は立秋だったが、京都は相変わらずの猛暑で、「秋きぬと目にはさやかに見えねども・・」などと口ずさんでみても、流れるのは汗ばかりで、風の音に驚かされることもない。先だって上海から駐在員の友人が遊びにきて、「オリンピックで盛り上がっているのは北京のごく一部で、一般人は無関心ですよ」と言っていたが、確かにあの厳戒ぶりでは市民は関心の持ちようもないだろう。昨日は一日引き篭もって、溜った仕事を片付け、積んだままの本に目を通した。



●佐野洋子『役にたたない日々』(朝日新聞出版 2008年)を読む。「小説トリッパー」に連載されたエッセイをまとめたものだが、雑誌を読まない私には初見。自然体で何にも捉われないこの人の文章を読むと、いつも心身ともに解放されてのびやかな心持になるが、今回は驚いた。乳がんの手術をしたあと、骨にガンが転移し、医者から「余命2年」と言われたとある。これが本当のことなら、このエッセイは闘病日記のようなもの。それにしても医者から「あと2年」といわれると死ぬまでの費用を尋ね(医者の答は「一千万」)、即座に「抗がん剤はやめて、延命治療もやめて、なるべく普通の生活が出来るようにしてください」と言うところがすごい。さらにその帰り道で近所の外車の代理店へ立ち寄り、イングリッシュグリーンのジャガーを買ったというから見上げたものだ。余命2年と宣告された途端、10数年苦しんだウツ病が消え、人生が充実してきたという。「死ぬとわかるのは、自由の獲得と同じだと思う」といい「私の一生はいい一生だった」と思える、と断言できるのもこの人ならでは、ではないだろうか。



 「このごろ私は何かをしようと思って立ち上がる。  立ち上がった瞬間、何のために立ち上がったか忘れる。呆然と立ちつくす。日に何度でもある。呆然と立ちつくす。母が呆然と立っているのに私が気づいたのが、母の痴呆の始まりだった」。 



 という下りを読んで思わず笑い、その後ぞっとする。似たようなことを日々やっているからである。



 ブログを休んでいた間、子どもたちの夏休みに付き合って、遊び呆けていた。写真は伊勢志摩のスペイン村の花火。幼い子どもたちは大喜びであった。花火といえば、昨夜は亀岡の花火大会だった。夜、8時半ごろ西山の向うにかすかに瞬く光が見え、風に乗ってドンという音が小さく届いた。



 つつましき人妻とふたりゐて



 屋根ごしの花火を見る―



 見出でしひまに消えゆきし



 いともとほき花火を語る



              「遠き花火」 佐藤春夫


Dsc01771  8月6日(水)晴れ。広島原爆忌。東京生れの友人は、高校時代に修学旅行で長崎を訪れたが、その後かなり長いこと長崎を訪れることができなかったという。戦後生まれとはいえ、多くの戦争犠牲者が眠る土地にただの観光客としていくのは後ろめたい思いがしてならなかったという。同じ理由で私は広島・沖縄へ行くことができなかった。沖縄を初めて訪れたのは、40近くになってからのことである。広島へは未だ行ったことがない。安芸の宮島・厳島神社へは行ったが、原爆ドームを訪ねていないので、ヒロシマへ行ったとは言えないと思っている。広島に原爆が落とされてから今日で63年になる。被爆者がこの世を去り、生の体験を語る人がいなくなったときのことを思うと怖ろしい。体験者の証言にどれほどの抑止力があるかはわからないが、核兵器の破壊力と被爆の悲惨さを語って、われわれの想像力を超えるものがある。地獄を見た人は地獄について語らないというが、戦後63年口をつぐんできた人が遺言のつもりで語るということもある。核兵器の怖ろしさは、被爆者の一回きりの死ではないということだろう。生き残った被爆者の子孫にどんな影響がでるか解らないところに未知の恐怖がある。



 小田実が「戦争は人間の仕業だから、人間がやめようと思えば止めることができる」と言った。同じことを前ローマ法王も言っている。



 戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことです。ヒロシマを考えることは、核戦争を拒否することです。ヒロシマを考えることは、平和に対して責任をとることです。   「広島平和アピール」ローマ法王・ヨハネ・パウロ二世



 「夏の花」で広島での被爆体験を書いた詩人の原民喜は、朝鮮戦争が拡大した時、アメリカのトルーマン大統領の「朝鮮での原爆使用もありうる」という発言に絶望し、鉄道自殺した。核兵器こそ使用されないが、いまなお世界各地で残酷な武器が人々を苦しめている。絶望はしたくないが、希望を持ち続けることはなかなか難しい。いちばん想い出したくないことだが、いちばん忘れてはならないことの一つに今日の日がある。



 広島駅のホームで、アナウンスされる「ひろしま」を「しのしま」と聞いた作家の福永武彦に原爆をテーマとした長編小説『死の島』がある。久しぶりに読み返してみようかしら。



 12日ぶりにブログを書いた。夏休みでずっと怠けていたが、久しぶりに再開す。京都は猛暑・酷暑が続いている。早く涼しい八ケ岳山麓に逃げ出したいな。 



 写真は京都の町かどにあるお地蔵さん、これは延命地蔵とある。子どもを守るお地蔵さんを祀る「地蔵盆」も間近だ。


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