2008年10月

Dsc09158  10月31日(金)曇り。九州から出てきた友人が、午前中付き合ってほしいというので、北白川で待合せて銀閣寺へ行く。銀閣寺への参道には土産店が並び、ちょうど清水坂のような賑わい。修学旅行の生徒たちが行く、外国人ツーリストがゆく、日本人の団体客がゆく、朝早くから人の波が途切れることがない。金閣、銀閣、清水寺、は京都の観光名所なのだとあらためて認識す。銀閣寺に入るのは何年ぶりのことだろう。もう20数年ぶりではないかしら。総門を入ると有名なカシとツバキの高い垣が続き、ところどころにサザンカの白い花が咲いていた。ここの主役の銀閣(観音堂)はちょうと修理工事中だったが、そのおかげで、骨組みというか、建物の構造をくっきりと見ることができた。庭の紅葉がもう色づきはじめていて、来月半ばが見ごろかなと思われた。紅葉もいいが苔の美しさもまた格別で、ここの庭が西芳寺(苔寺)を意識して造られたと聞き、なるほどと思ったことだ。



 銀閣寺を出て、裏山にある大文字の火床まで登る。ウイークデイだというのに、あとから、あとから人が登ってくる。山登りが苦手な私は「お先にどうぞ」とマイペースを守ったが、保育園児や小学生たちにまで追い越されたときはさすがに我が身が情けなかった。浄土寺から登り始めて50分弱で火床着。遠足の子どもたちでいっぱいだったが、火床付近は急斜面なので、子どもたちが走り廻るたびにハラハラした。今日は曇り空で霞んでいたが、京都市内が見渡せて、その眺望は期待に違わず素晴らしかった。今度、澄み切った快晴のときにまた登ってみよう。



 火床で熱いコーヒーを飲み、30分で下山。午後から大学へ行くという友人と出町柳で別れて帰宅。いい遠足でした。



 写真は銀閣寺の境内。モミジと苔の青さに見とれてきた。


Dsc09133  10月30日(木)曇り。午前中、Eさんを見送りに鞍馬口のマンションへ行く。昨日、訪ねたときはまだ荷物があふれていたが、今朝はもうすっかり片付いて、不動産屋に引渡しの手続きをしているところだった。家財道具のいくつかは留学生仲間が引き取り、炬燵や本棚などはリサイクルショップに出したという。それでも残った家具などをYWCAの友人のところに届けに行く。京都八条口を正午に出る関空行きのリムジンバスに乗るというので、大急ぎで駅へ向う。一年半もいたのに、何もしてやれなかった。来年の春、卒業式にはまた来るというから、そのときはお祝いをしてあげよう。今回、娘を迎えに、ご両親が揃って来日しておられた。母上には何度もお会いしているが、父上には初めてのおめもじ。医学と神学のプロフェッサーで、私が「お父様は体と魂のお医者さまなんですね」と言うと、いえいえ、と謙虚に応じられた。Eさんは広報紙の翻訳(ハングル)をし、韓国語教室の講師も勤め、観光ガイドブックの翻訳などもして、大学院で学ぶ傍ら、しっかり仕事(アルバイト)もする、優等生の留学生であった。あとは卒論を出すだけなので、予定より早い帰国となったそうだが、日本での6年間がこれからの彼女の人生に少しでも意味を持つものになればと思う。ご両親に対する彼女の態度は実に丁寧、きちんと敬語を使い、謙虚。Eさん一家はクリスチャンホームだが、かの国では、儒教とキリスト教の教えが矛盾せず共存しているらしい。



 車が八条口に着いたのは正午5分前だった。大きなトランクやボストンバッグなどをバスに移して、何とか出発に間に合った。慌しくて、挨拶も十分にできぬまま、手を振って別れたが・・。午後2時ごろ、無事関空に着いたとの電話あり。何故か自分の娘を見送ったような寂しさが。



 午後から仕事を一つ済ませてメールで送る。忘れていた! 今日から古本まつりだった。急いでバスに乗り、百万遍の知恩寺へ向う。まだ4時前だというのに、空が暗くなりポツポツと小雨が。もう全部を見て廻る時間はない。ところどころだけ、駆け足で廻る。赤尾照文堂に大日本古記録がいくつも出ている。御堂関白記の3冊セットが1万円(安い)。オークションに出された岩波の日本古典文学大系が102冊でなんと2万円。もちろんこれは最低価格で、落札価格はもっと高くなるはず。それにしてもねえ。福田屋書店で新潮版の『芭蕉句集』と『与謝蕪村集』を購入。2冊で1800円なり。小雨が落ちてきたので売場にはビニールのカバーがかけられ、早いところはもう店仕舞い。古本まつりは11月3日まで行われるが、明日からまた京都を留守にするので再訪は望めない。後ろ髪引かれる思いで会場を後にしてきた。



 写真は百万遍知恩寺の古本まつり。


Dsc09130  10月28日(火)晴れ。月曜日の夕方は、北白川の京都造形芸術大学へ「日本芸能史」の講座を聴きにいく。この講座は実演が主なので、聴講というより、鑑賞というほうが相応しい。一年を通して古典芸能を学ぶもので、前期は渡来の芸能ー声明、雅楽、舞楽、曼荼羅、万歳など、後期は日本固有の芸能ー能、文楽、京舞、歌舞伎、落語、狂言、常磐津などの理論と実演がある。私は後期のみの受講で、先週は片山清司による能、「半蔀」「源氏供養」が、また昨日は竹本綱大夫・鶴澤清二郎による義太夫「恋娘昔八丈」の実演があった。学生のための講座を一般にも公開したもので、満席の会場は学生よりもシニアの姿が圧倒的に多い。昨日の義太夫節は語りもいいが、三味線に何ともいえない味わいがあった。来週は京舞で井上八千代さんの舞がある。楽しみ、楽しみ。それにしてもわが国の義務教育で日本の伝統芸能や音楽を教えないのは何故だろう。最近は落語や狂言を授業に取り入れるところもあるそうだが、(また、沖縄では小学校にサンシンクラブがある)まだまだ正規のカリキュラムには入っていないのではないか。そういう自分だって、これまで古典芸能とは縁遠い人間だったので偉そうなことはいえないのだが。



 写真は寺町三条上ルにある「とり市」。丹波の松茸が出ていました。ひともり3万~5万、上の方のは12万~15万。数年前まで、丹波篠山の友人から自分の山で採れたという松茸(こぶりなれど)が届いたものですが、最近はもう採れないそうで、便りも間遠になりました。


Dsc02337  10月27日(月)晴れ。佐野眞一の『沖縄ーだれにも書かれたくなかった戦後史』を一気に読了。655ページ、本の厚さが4センチという大部だが、ぐいぐい読ませる力はさすが。タイトル通り、これまでの沖縄本とは全く違う、いわゆるアンダーグラウンドの世界を書いたもの。いきなり数々の闇の事件やらヤクザ、暴力団、右翼テロ、密貿易、米軍基地、軍用地主、など怪しくも面妖な記述が続き、読み終えたときはぐったりしてしまった。この本を書くために作者が沖縄で取材した相手は400人を超えるという。その大半は海千山千のわけありで、彼らから本音を引き出すのは容易なことではなかったと思われる。だが、自分自身もかつて似たような業界で仕事をしていた経験から、ノンフィクション作家としての勘は相当に鍛えられているのだろう。私はこの人の『遠い「山びこ」』や『大往生の島』、『旅する巨人』などを感動をもって読み、その調査の緻密さとタフな取材力に驚嘆したものだが、今回も同様の感想を抱いた。今回この本を読み、沖縄について初めて知ること、初めて気づかされたことが少なくない。一つに戦果アギヤーの存在。戦後、米軍から盗んだものを売って大儲けした人たちがいて、中には戦後の沖縄の政財界の基礎づくりをした者もいること。奄美大島の人たちが沖縄では酷く差別されていたこと、米軍基地内に私有地を持っていて、年間20億もの借地料を受取っている軍用地主がいること、などなど。とにかくこの本を読んで、私が抱いていた沖縄像は少なからず変化せざるを得なくなった。もちろん沖縄が好きなことには変りはないが、これまで沖縄のどこを見ていたのかと呆然となったのも事実である。



 そういえば、古都京都にも、似たような本がありました。マスコミが報じない現代のタブーに鋭く迫る!という、『京都に蠢く懲りない面々』。



 写真は佐野眞一の『沖縄』(集英社インターナショナル)。


Dsc02335  10月26日(日)曇り。昨日、岐阜の友人から荷物が届いた。開けると丸めた新聞がぎっしり、まるで宝探しの気分でクッション材を取り出すと、中から白川郷のどぶろくが出てきた。白川郷に住む知人に頼んで手に入れたという。去年も送ってくれたのだが、そのときは梱包が甘かったのか、どぶろくが包みの中で発酵したせいか、壷が割れて宅配会社から返送されたため、再度、送ってくれたのだった。貴重なお酒ゆえ、惜しみつつ飲んだが、やはり御神酒は現地でいただくのが一番ではないか。白川郷はいまでは世界遺産で広く知られるようになったが、昔は辺境の地で、ゆえに平家の落人伝説も生まれたのだろう。合掌造りの民家で有名だが、岐阜県の白川郷から少し北へ行くと、同じような合掌造りの家が点在する五箇山がある。ここはもう福井県で、この両方をあわせて世界遺産に登録されている。10年ほど前、初めて五箇山を訪ねたときは、福井県の砺波から庄川沿いに国道156号線を上っていった。五箇山の菅沼地区を訪ねたが、初めて見る黒々とした茅葺の民家の佇まいに、まず自然環境の厳しさを思ったものだ。5月だというのに背後の山には雪が残り、合掌造りの家々は暗くて寒々と感じられた。九州育ちの私には、雪に閉ざされる長い冬、というものが想像できなかったのだ。その時は五箇山から白川郷へ廻ったが、五箇山に比べると白川郷は明るい、という印象を受けた。集落が開けていて、こちらは既に観光地として開拓されていたからかもしれない。白川郷へはその後何度か訪れたが、五箇山へは再訪の機会がない。この夏貫通した東海北陸道で行ってみようか。世界遺産になって、あの謎めいた静けさが消えていなければいいのだけど。



 写真は白川郷から届いた「どぶろく」。今年のどぶろく祭りも賑わったそうだ。


Dsc02331  10月25日(土)晴れ。旅から戻ると、美しい本が待っていた。山口賀代子さんの第三詩集『海市』。一読して「追憶と別れ」、という印象を受けたが、私のその感想は的外れではなかったようだ。というのも作者自身があとがきに「こうしてまとめてみると、この十二年間に書きついできたのは、レクイエムではないか。レクイエムという言葉が適切でなければ、蜃気楼のようなもの。いろいろな人・もの・事物との別れ」と書いているからである。タイトルとなった「海市」という詩には一編のドラマが収められていて、行間からは海の臭いや過ぎてはまた打ち寄せる時間という波の音が聴こえてくる。しかしすべては蜃気楼のように儚くおぼろげ。記憶の中の住民たち(祖母や友人など)や、故郷の風景を描いた詩を懐かしく読んだ。単なる懐旧ではない、詩の底には読むものの心をひやりとさせるものがあるのだけど、それでもある懐かしさを覚えずにはいられなかった。「死者と親しい町」、京都に住み始めたころ、町のそこかしこに昔の出来事を示す標や、死者の事跡を伝える標があまりにも多いのに驚いて、京都は死者と共存する町だと思った。日常の暮しの中に死者たちが生き続けていて、彼岸と此岸の境界が定かではないのである。『海市』の作者も京都の住民だから、自由に過去や未来を行き来しておられるのではないだろうか。



 『海市』を読み、遠い記憶を辿る気分になっていたら、ふと、こんな詩の一節が浮んだ。



 「とういむかし



 白々しいウソをついたことがある



 愛するひとに



 とういむかし



 誰の詩だったか、それこそ遠い昔に読んだ詩の一節。私の場合、追憶は切なく後悔に満ちたものなのかもしれない。



 留学生のEさんから電話あり。大学院の卒論を出すだけになったので、今月末で帰国することにした、とのこと。京都には1年半いたことになる。お互い忙しくてなかなか会う時間がなかったが、日本の文化にもふれ、京都暮らしを楽しんでいる様子だったので喜んでいたのだが。彼女の部屋探しを手伝ったのはついこの前のような気がするが・・・、引越しの手伝いに行ってやらなければなるまい。


Dsc09078  10月24日(金)雨のち曇り。



古い歌の本を読んでいて、平安時代に詠まれたこんな歌に出会いました。



 世の中にわびしきことをくらぶるに 思ふと恋といづれまされる



 (この世で辛いことを比べてみるに、思い焦がれている時と、実際に男女の間柄になった後ではどちらが苦しいか)



そういえば「逢いみての後の心にくらぶれば むかしはものを思はざりけり」なんて歌もありましたね。



 どちらが重い 海の砂と悲しみと?



 どちらが短い きょうとあすと?



 どちらがもろい 春の花と若さと?



 どちらが深い 海と真珠と?



        クリスチーナ・ロセッティ「どちらでしょう?」





 ロセッティといえばみんな西条八十の訳による「風」という詩を思い浮かべるのではないかしら。「誰が風を見たでしょう♪」という唱歌で馴染み深い詩。



 写真は千歳空港内の「花畑牧場生キャラメルカフェ」でいただいた生キャラメルセット、1470円なり。このセットメニューを注文した人のみ、生キャラメルを2個購入できる。なんとまあ。でも並んで手に入れてきました。はい。


Dsc08878  10月23日(木)雨。昨日は午前中、「小右記」講読会で醍醐行き。長和3年3月18~21日分を読む。20日条に、亥の刻(夜9時過ぎ)に、藤原公任が先触れもなしに実資邸を訪れる、という記述あり。この正月、庭の一角に湧き出して評判になっている実資邸の新泉を見に来たもの。このころの貴族の邸宅は結構出入りが自由ではなかったのか、という話になった。築地の隙間から忍び込んで恋人に会いに通った伊勢物語の主人公のこともあるし・・。そもそも内裏だって、自由に人が往き来しているし。



 札幌の友人から荷物が届いた。開けると山ぶどうジュースと弟子屈の庭でとれたジャガイモが。早速、味見。1リットルのジュースを作るためには、大きな篭にいっぱいのぶどうが必要なのだ、その手間と採集の苦労を思うと勿体ない気持になる。ジャガイモはふかして裏ごしし、粉チーズとつなぎの澱粉を少し入れて、芋餅をつくる。バターで焼くと美味しい。(これも弟子屈で教わってきた) 弟子屈では庭でバーベキューをしたが、メインは6キロもある秋鮭のチャンチャン焼きだった。8人の大人をしても、片身を食べるのが精一杯だったが、美味しかった。そのうち、我が家でも試してみることにしよう。



注文していた本が届く。



●佐野眞一『沖縄ーだれにも書かれたくなかった戦後史』(集英社)。



北海道と沖縄は似ている。メビウスの環ではないけれど、北と南がぐるっと繋がっている感じ。今回、4日間で1200キロを走ってきた。往きは札幌から旭川~大雪山国立公園の北側・層雲峡~三国峠~屈斜路湖~弟子屈へ。帰りは阿寒湖~足寄~帯広~占冠~夕張~札幌へ。帰りはJR石勝線と並行して走ったが、沿線の紅葉に目を奪われた。一度、石勝線と釧網線に乗ってみたいな。



 写真は層雲峡の紅葉。ハウチワカエデの紅葉が美しかった。


Dsc09113  10月22日(水)曇り。19日の日曜日、友人たちと淡路島へ行く。友人の希望で、島の北部にある「淡路花さじき」を目指して。淡路島へは何度も行ったが、花見が目的なのは今回が初めて。なんでも以前花博が開催されたところだとかで、緩やかな山の斜面いっぱいにコスモスが咲いていた。近くには牛の放牧場があり、その向うに瀬戸内の海が広がっている。花畑を散策した後、北淡町の野島断層を見に行く。13年前の阪神淡路大震災で現れた断層を建物で覆って保存しているもの。国指定の天然記念物とあり、別棟では、当時の地震(マグニチュード7.2の揺れ)を体験できる設備もあった。醤油やオリーブの小豆島とは違い、淡路島は牛と瓦、海産物(タコ、アナゴ、ハモ、タイ)の島らしい。長崎の友人の父上(医師)が断食療法の提唱者で、五色町の断食道場で治療にあたっていたのを思い出した。そういえば、いただいた著書『絶食療法のすすめ』(今村基雄著 ミネルヴァ書房)はいまも手許にある。友人の父上は生きておられたらもう100歳を超えるはず。絶食は勘弁してほしいが、暖かい淡路島は老後を過すにはいい所ではないだろうか。但し、高速料金が半額、いや三分の一くらいにならないと、たまらないな。帰りの時間があるので、そのあと駆け足で、いざなぎ神宮、おのころ神社、淡路廃帝と呼ばれる淳仁天皇陵などに寄って帰洛。いざなぎ神宮の所在地が「多賀」というのも興味深いことだった。



 淡路島かよふ千鳥のなく声に 幾夜ねざめぬ須磨の関守  源兼昌



 今日、10月22日は詩人中原中也(1907-1937)の命日。立原道造と並ぶ夭折詩人としていまも愛されている。愛児を亡くした若い父親の哀しみの歌、



 また来ん春と人はいふ



 しかし私は辛いのだ



 春が来たって何になろ



 あの子が返へつて来るぢやない。



嘆いた父親も30歳という若さでこの世を去った。



 



 写真は淡路はなさじきのコスモス。


Dsc09073  11月20日(月)晴れ。まだ真夏日。若い頃、武田泰淳を集中して読んだ時期があった。筑摩から出ていた全集を欲しいと思いながら入手しないままでいて、ずいぶん後悔したものだ。その泰淳も逝って32年が過ぎた。この人の魅力は右も左も飲み込んで、混沌とした世界を引き受けたところだろうか。なによりも「武田百合子」という伴侶を類稀な魅力をもつ作家にしたのだからそれが一番か。泰淳には未完の作品が少なくないが、珍しく完結したドラマに「森と湖のまつり」がある。泰淳のもので最初に読んだ作品。アイヌの青年と大和女性の恋愛を中心に、人種問題をはじめとする北海道のさまざまな問題が書かれていた。泰淳は戦後のごく短期間、北海道大学に勤めていたことがある。1947年から翌年まで、法文学部の助教授という肩書きだった。そのときの見聞がベースになったのだろう。



 弟子屈から戻った夜は、札幌のグランドホテルに泊った。道庁前にある老舗のホテルである。翌14日の朝、三岸好太郎美術館へ出かけたら、祝日の翌日で振替休館だった。植物園、図書館、道立美術館、すべてお休み。がっかりして近くにある北海道大学を訪ねることにする。北大の構内は植物園かと見紛うほど樹木が多く、森のように美しい。有名なポプラ並木の周囲にはアマチュア画家たちが群れて写生していた。並木の側に立つ新渡戸稲造の銅像の前で記念撮影。大学院の入試試験中だったが、構内には観光客の姿が目立ち、これほど開放的な大学も珍しいのではないかと思ったことだった。泰淳がいたころの大学はどんなだったのかしらん。以前、大学の門前近くで、知里真志保の本を買ったことがある古本屋を探したが、今回は見当たらなかった。



 写真は北大構内の白樺の木と赤い実をつけたナナカマド。


Dsc09009  11月19日(日)晴れ。北海道には湖が多い。道東で有名なのは阿寒湖、屈斜路湖、摩周湖などだろうか。弟子屈からいちばん近いのは摩周湖だが、澄み切った湖の全貌を見ることができるのは滅多にないそうだ。今回、摩周湖の淵に立ち、360度の景観に出会えたのはまさに僥倖。斜里岳の向うは網走でオホーツク海が、あちらが知床、こちらは釧路湿原、西方すぐそばに硫黄山と屈斜路湖。説明してくれる友人もこんなに素晴らしい眺望に会うのは初めてと喜んでいた。



 札幌に住む友人たちはいずれも北海道生まれだが、祖父母、あるいは曽祖父母は東北から移住してきた人たちである。友人に微かな東北訛りがあるのは、そのせいだろう。昔、本多勝一の『北海道探検記』を読み、開拓者の苦労に心が凍る思いがしたものだが・・・。開拓者の物語といえば池澤夏樹の『静かな大地』が浮ぶ。この物語には自然と共に生きてきたアイヌの人たちを尊ぶ気持が通底していて、歴史物語であると同時に異文化の共生物語として未来性を持っていると思う。友人が「北海道には歴史がない」とよく嘆くので、「旧石器時代の遺跡がたくさんあるではないか」と地図を示してやった。それに比べると、奈良・京都はずっと新しいではないか、と。



 写真は阿寒湖近くにあるオンネトー湖畔で。道路のミラーに、湖と雌阿寒岳、雄阿寒岳が写っている。この湖はエメラルドグリーンの水の色で有名。この1週間ほど前、雌阿寒岳に小さい噴火があったそうで、頂上付近の山肌から白い噴煙が上っていた。


Dsc08942  10月17日(金)晴れ。1週間のご無沙汰でした。北海道から無事帰ったものの、仕事が山積みでパソコンを開く暇がなかった。旅の間はTVも新聞も見ないし、パソコンとも無縁。それで不便も感じなかったのだから、いっそこの際、そういうものとは縁を切ってもいいのかなと思ったり。北海道は弟子屈にある友人の隠れ家(別荘ともいう)に滞在して、自給自足生活の真似事をしてきた。メインは山ぶどう狩で、採集した山ぶどうでジュースをつくるというもの。前日クマが出たというので、山に入るのは中止したが、隠れ家の周辺でも十分の量を採ることができた。おまけにいろんなキノコも採集。近くの海で釣ってきた鮭、隠れ家前の川で釣ったイワナなど、山・海の幸にも恵まれて、5組の夫婦が集う宴は盛り上がりました。まさに自給自足。都会では生活に必要なものはすべてお金を出して買わなければならず、生きるための手立てを他人に委ねているわけで、自給自足できるものは何も無い。しかしみんな「明日のことを思い煩うことなけれ」と呑気なもの。北海道の友人たちは日頃は札幌という大都会で暮らしながら、日常を離れたところでは、まだまだ原初的な生活を楽しんでいる。京都でも同様に暮している人は少なくないと思うのだが・・。



リタイア後、夏場だけ北海道で暮しているという夫婦に紹介された。自宅は伊豆にあり、夏場だけ弟子屈へ来るのだという。「ここは地上の楽園です」といい、田舎暮らしを満喫している様子。山に雪が降ったので、そろそろ伊豆へ引揚げるといい、その前にキノコ採りや鮭釣りに案内してくれた。鮭が釣れるたびに「オーパ!」と叫ぶところ、開高健を意識している様子。夜は開拓時代の話(伝承です)を聞いて、イザベラ・バードの「日本奥地旅行」を思い出したりした。



 北海道はいまが紅葉の真っ盛り。人口密度ゼロ地帯を延々と走ってきた。旅の記録はいずれまた。写真はくっきりと晴れ渡った摩周湖。こんなきれいにこの湖が見えることは滅多にないそうで、ラッキーでした。


Dsc02293  10月10日(金)晴れ。お天気は下り坂だが、今日から北海道行き。札幌で友人たちと合流し、弟子屈にある友人の隠れ家を拠点にして道東を廻る予定。2年前も同じメンバーで知床周辺に遊んだが、今回はシーズンオフでもう知床へは入れない。友人は山葡萄を採りにいくと張り切っていたが、クマが出没しているので、それも中止。だがそこは北海道、自然を楽しむだけで十分。10年ほど前、オホーツクに流氷を観にいったときは、猛吹雪となり、流氷見物は中止、でもそのおかげで網走のモヨロ貝塚をゆっくり見ることができた。北方文化は狩猟採集民の文化、農耕定住の大和の文化とは違うなあと見入ったことだった。前者は縄文、後者は弥生によく例えられるが、北方文化には沖縄文化に共通するものが多い、というのが私の感想。さて、今回の旅はどんなものになることやら。では、行ってきます。ブログはしばらくお休みします。



 写真は二条城の西側にあるハナミズキの並木。真っ赤な実が美しい。






Dsc02291  10月9日(木)晴れ。庄野潤三の『ガンビア滞在記』(1959年)にアメリカのガンビアに住んでいたとき、夫人が友人を招いた食事会のためにばら寿司を作るという場面があった。いや巻寿司だったかな。作家の夫人は岡山出身で、庄野家では家族が集るたびにこのばら寿司が登場する。海の幸、山の幸が入った具沢山の豪華なちらし寿司で、その辺でよく見かけるものとはずいぶん違う。数年前、「御堂関白記」の仲間と安芸の宮島へ出かけたおり、新幹線の中で岡山名物「ばら寿司」のお弁当を食べた。それ以来、岡山へ行くと、この弁当を探してしまう。先日も岡山へ出かけたおり、駅でゲットして持ち帰った。ふたを開けるとほら、びっしりと、エビ、サワラ、シャコ、アナゴ、コハダ、ママカリ、その他いろいろ。



 ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏は京都在住の物理学者。報道によると外国語が苦手で海外へ出たことがなく、英語の論文は書いたことがない、という。本当かしら。それでも専門の研究では世界的な業績を挙げているのだから、すごいものだ。平和憲法を守ろうという『「九条の会」のアピールを拡げる科学者・研究者の会』の呼びかけ人の一人でもあり、「反戦を語る気骨の平和主義者」と紹介されていた。インタビューに応えて「専門外の社会的問題も考えなければいい科学者になれない。僕たちはそう学んできた」とあり、科学者の良心を見る思いがした。核廃絶運動に尽力した物理学者湯川秀樹には、どこか孤独なペシミズムというものが感じられたが、この益川先生にはシニカルな中にも明るさがあり、希望が感じられた。楽天的すぎるかしら。



 写真は岡山の祭ずし。岡山の家庭でつくる「ばら寿司」を食べてみたいな。


Dsc02328  10月8日(水)晴れ。緒形拳さんが亡くなった。享年71歳。大河ドラマの常連で、大作映画には必ずといっていいほど出演していた。善悪両方を演じて全く不自然さを感じさせない役者だった。訃報を聞いて真っ先に思い出したのは、もう30年ほど前に放送された「ちょっとマイウエイ」というTVドラマだった。桃井かおりがヒロインで、緒形拳は子連れで男やもめのコック役だったと思う。中年の男の悲哀とそこはかとない男の色気も漂わせて、洒落たドラマだった。それからもう一つ、この人の当り役ともいえるのが「必殺仕掛人」の梅安。これは他の役者が考えられないほどのはまり役だった。などと書いていくとキリがないが、1969年にTBSでTVドラマ化された「豆腐屋の四季」を忘れるわけにはいかない。大分県中津市で豆腐屋を営む松下竜一の同名の手記をドラマ化したもので、この写真は大分・羅漢寺でのロケ現場に同行した作者夫妻(赤ん坊も)と役者(緒形拳と川口晶)の写真。このドラマの製作がきまった時、緒形拳は一人で中津市の松下竜一宅を訪問したという。以後、同じ1937年生れの二人の交流が途絶えなかったことは「草の根通信」などに詳しい。いまごろは、2004年に逝った松下竜一さんと再会して、好きな映画の話をしているのではないかしら。緒形拳は松下竜一の『砦に拠る』の映画化を夢見ていたという。60歳を過ぎたころ、「ようやく蜂の巣城の城主を演じられる年齢になったかな」と言っていたそうだ。緒形拳さん演じる室原知幸を見てみたかった。



 この写真は松下竜一の個人全集『松下竜一 その仕事』全30巻(河出書房新社)の刊行記念に出版された図録「松下竜一 その仕事」に掲載されたもの。この全集出版の際には中津で記念の展覧会が開催され、佐高信と共に緒形拳も駆けつけて講演を行っている。


Dsc02321  10月7日(火)曇り。今日、10月7日はエドガー・アラン・ポー(1809-1849)の命日。ポーの「モルグ街の殺人」は初の推理小説とされているが、私はこの人の作品では、中学生のころに読んだ「黒猫」や「大渦に呑まれて」などが印象に残っている。中でも「早すぎた埋葬」を読んだあとなど、寺院の墓地近くを通るのが怖かった! 大岡昇平が「大渦に呑まれて」について書いたものを読んだ記憶があるが、迫真の描写に圧倒された・・というようなことを記していたと思う。来年はポーの生誕200年、江戸川乱歩が生きていたら盛大にイベントがあるのだろうが。ポーといえば、薄幸の若妻ヴァージニアも忘れられない。27歳のポーと結婚したとき、ヴァージニアはまだ13歳だった。それから11年後、結核を患った彼女は貧しさの中で亡くなるが、守護神を失ったポーもまたその2年半後にこの世を去った。貧困と病、過度の飲酒とくれば芸術家によくみられるパターンだが、作家にとっては作品がすべて、いまなお世界中で読み継がれているのだから、ポーよ、以って瞑すべし。



 写真はウイングス京都そばの御射山公園の発掘現場。4日に行われた現地説明会に行けなかったので、今日、現場を覗いてきた。ここは平安京の左京四条四坊二町にあたり、古くからの市街地の一角。平安時代から江戸時代までの遺構が出ていたが、弥生土器も少し出土したという。建物の柱穴や井戸、穴蔵跡がたくさん出ており、時代が幾層にも積み重なった様子がわかる。写真の背景の建物はウイングス京都。


Dsc08766  10月5日(日)雨。



10月3日(金) 祇園の歌舞練場へ温習会を観にいく。この春デビューした舞妓・彩乃さんの初舞台なのだ。春の都をどりに比べると秋の温習会はお稽古の発表会という趣が強く、新人たちはみな緊張している。彩乃さんの出番は一番目の上方唄「ひとつくずや」で、12人の新人舞妓さんたちの踊り。ずらりと黒紋付姿が並んだところはなかなか見事だったが、贔屓目か、彩乃さんがいちばん愛らしい。会のあと、お店に寄ると、出番が終った彩乃さんはもうお座敷姿に変っていた。



10月4日(土) 午後、大阪行き。福島のギャラリーで開催中の今井祝雄さんの個展を観にいく。美術集団「具体」の最年少メンバーだった今井氏の、「〈具体〉から現代ー今井祝雄展」。今井氏と芦屋市立美術博物館学芸員の加藤瑞穂さんとのトークを興味深く拝聴す。「具体のリーダー吉原治良は美しいもの、清潔なものが好きだったので、僕の作品を気に入ってくれたのかな(今井氏の作品は真っ白の造形物)」などという話もあって、楽しいトークだった。トーク半ばに夫人の今井美沙子さんが来場。彼女に案内をいただいていたのだ。相変わらず元気に活躍中。会場で紹介された五島出身の画家・椿崎和生さんの絵葉書をもとめてくる。



10月5日(日)雨の中、円山音楽堂へ「京都・沖縄 あしびなあ海空フェスタ」を聴きにいく。時々つれあいと食べにいく沖縄料理店が主催する音楽祭。つれあいは午後から四国へ出かけたため、娘を誘って行く。雨の中の野外音楽堂というものはなんとも寂しいものなり。司会は沖縄から飛んできた川満しぇんしぇ~で、あの独特のしゃべりで楽しませてくれるのだが、いかんせん、濡れにぞ濡れしで、何とも落ち着かない。東京で活動している「東風」の演奏まで聴いてついにリタイア。これからがいいところだったのだろうが・・。たくさん島唄が聞けるかと期待していったのだが、新しい音楽が多かった。最後に聴いた「東風」の女性ボーカルののびやかな声が耳に残る。舞台は屋根付きだが、観客は雨の中なのだから、進行を早めてどんどん演奏を続ければいいのに、反対に予定の時間が押していくばかり、これなら後半から聴きにくればよかったのかな。



 写真は舞妓の彩乃さん。初舞台を終えて、ほっとしたところ。


Dsc02299  10月4日(土)晴れ。高校生向きの読みやすい『平家物語』はないかしら、と友人に頼まれて、さてと思案しながら本屋へ行く。岩波か新潮、小学館版の「古典文学全集」を定本にして、副本に集英社の「図説日本の古典」や若者向けに書かれた現代語訳の本を付けてやろうと目論んだが、思うようなものがない。文庫版では、講談社学術文庫が対訳なので便利だが、全12巻もある。私は小学生のとき、子ども向けに書かれた「平家物語」を読み、敦盛の最期で涙したのを覚えている。挿絵がよかった。いま手許にあるのは岩波古典文学全集、岩波文庫、中山義秀訳の河出書房新社版、講談社文庫(高橋貞一校注)など。杉本秀太郎の『平家物語』、杉本苑子の『平家物語を歩く』も折にふれ読み返す。京都に来てから、「平家物語を歩く」、を自分もやったなあと思いながらアバンティ書店の書棚を眺め、とにかく若い人向けと思われるものをいくつか選んできた。ダイジェスト版になるのは仕方がない。まあ、どんな物語か全体の流れを掴んでから、学術文庫の12巻に取り組んでほしい。ついでに自分の本もいくつか。



●川村湊他『戦争文学を読む』(朝日文庫)



●杉山登志郎『発達障害の子どもたち』(講談社現代新書)



●池澤夏樹『セーヌの川辺』(集英社)



●上野誠『魂の古代学』(新潮社)



 写真は上七軒のお茶屋さんに提げられた北野天満宮「ずいき祭り」の献燈。これから各神社の秋祭りが続くので、京都の町のそこかしこにこの祭り提灯を観ることになる。


Dsc02316  10月2日(木)晴れ。NHKのBS-2で今夜映画「スティング」が放送される。先月26日にこの映画に主演していたポール・ニューマンが亡くなったからだろう。記憶にあるかぎりで私が生まれて初めて見た洋画は「生き残った二人」という戦争映画だが、二番目はポール・ニューマンの「追憶」だった。他にも見ているのかもしれないが、とにかく記憶にあるのはこの二つのみ。誰に連れて行ってもらったのか全く覚えていないし、映画の内容もさっぱりなのだが、ポール・ニューマンという名前はしっかり覚えていた。追憶は1957年製作で、日本で公開されたのはその翌年くらいだろうから、私はまだ小学生だった。いま調べると、「追憶」はミュージカル・スター、ヘレン・モーガンの物語で、歌手のヘレンを演じたのはアン・ブライスという女優さん。ニューマンは出世していくヘレンにつきまとうヒモのような男を演じていた。子ども心にも、大人の男女の仲のやりきれなさを感じたとは思うのだが、正直なところ、何がなんだか・・・という感じだったにちがいない。ニューマンの映画では、「明日に向かって撃て」や「スティング」、「評決」が印象に残っている。とくにロバート・レッドフォードと共演した2作はニューマンが40代のときの作品で、軽妙かつ男性的魅力にあふれていた。「スティング」は何度観ても毎回、初めてのように騙される。今夜もまた騙されるのかしら。



 写真は天神さんの「ずいき御輿」。10月、京都では毎日のように神社の秋祭りがあるが、その先陣を切って1日から5日まで行われるのが北野天満宮の「ずいき祭り」。今日、北野の老松にお菓子を買いにいったついでに、妙心寺道にある北野天満宮お旅所へ、ずいき御輿を見にいった。なるほど、お御輿の屋根がサトイモの茎(ずいき)で葺かれ、飾りもすべて野菜や果物、米麦、乾物で作られている。そもそもは昔、五穀豊穣を祈る地元の人たちが奉納したものだろう。お旅所がある妙心寺道には露店が並び、朝から保育園児や小学生たちが引率されて見学に来ていた。このあたり(西ノ京)には以前はまだ農家が残っていて、門前に野菜を並べて売っている家をよく見かけたものだが、最近はあまり目にしない。市街化が進んで生産緑地も消える一方なのかもしれない。


Dsc02281  10月1日(水)曇りのち晴れ。午前中、岡崎の近代美術館へ開催中の「生活と芸術展」を観に行く。曇り空だったので久しぶりに運動不足解消とばかり自転車を漕いで行ったら、帰りは青空が広がり、眩しいほどの日差し。岡崎の平安神宮前には観光客が群っていた。修学旅行の高校生にカメラのシャッターを押すよう頼まれたので、「どこから来たの?」と尋ねると、「熊本です」とのこと。九州の子どもたちかと親近感を覚えてしまう。これから幕末の遺跡を歩くそうだ。そうか、京都は必ずしも平安、とは限らないのだなあ。「生活と芸術展」は副題の「ウイリアム・モリスから民芸まで」が示す通り、イギリスで起ったデザイン運動アーツ・アンド・クラフトの世界的な広がりの歴史を見せるもの。日本における「用の美」民芸の代表的な作品も展示されていた。モリスのテキスタイルデザインは何度見ても見飽きることがないが、やはり民芸のコーナーで朝鮮の白磁や唐津の弓野の壷などを見るとほっとする。今回堤焼の壷に初めて気がついた。これまで朝鮮唐津かと見過ごしていたにちがいない。宮城県の堤町で江戸時代に焼かれたものだそうだ。黒い釉薬の上からさらに海鼠釉をかけた、なかなかに重量感のある美しい壷である。イギリス製のスリップウエアも展示されていた。



 今日から十月。毎年のことだが、やはりこの詩を記しておこう。中野重治の「十月」。



 



 空のすみゆき



 鳥のとび



 山の柿の実



 野の垂り穂



 それにもまして



 あさあさの



 つめたき霧に



 肌ふれよ



 ほほ むね せなか



 わきまでも







 写真は府立図書館近くで見かけた白い曼珠沙華。


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