2008年11月

Dsc02507  11月28日(金)曇り。初めて公開された壬生寺の庭を見てきた。壬生寺は新撰組やガンデンデンの壬生狂言で有名な律宗寺院。本尊は地蔵菩薩だが、何度も火災で焼失し、現在のご本尊は唐招提寺から移座されたもの。ちなみにここのご住職は唐招提寺の住職も兼務しておられる由。京都の町家は奥に別世界のような庭や空間を持つところが少なくないが、お寺も例外ではない。壬生寺の本堂は火災のあと、昭和42年に再建された新しいものだが、庭はたびたびの被災を越えていまも昔の面影をとどめているらしい。以前は湧水によって池には水がたたえられていたそうだが、いまは水脈が涸れて枯山水の趣となっている。しかし壬生はもともと水生といわれていたほど、水が豊かな土地。建物の配置が変り、庭を囲む環境は大きく変化しているが、以前茶屋があった位置に立って眺めると、橋の向こうの大きな立石が目立つ。庭のカエデはまだ青々としていた。京都の市中の紅葉はいまからだろう。



 今日から30日まで京都を留守にします。では、行ってきます。



 写真は壬生寺庭園。


Dsc02474  11月27日(木)曇り。アバンティ書店まで本を探しに行く。孫たちへの贈物用なり。いろいろ眺めてみたが、結局選んだのは●安野光雅『旅の絵本Ⅰ・Ⅱ』(福音館)、●「ぐりとぐら カルタ」(同)、●ブルーナ『クリスマスって なあに』(同)、●マイケル・ボンド『パディントンのクリスマス』(同)、●谷川俊太郎『ことばあそびうた』(同)。どの本も昔、自分の子どもたちに読ませていたもの、というより、親の方が楽しんで読んでいた本。久しぶりに手にした『ことばあそびうた』を開いてみた。我が家のこどもたちがよく口ずさんでいたうた。



 「やんまにがした ぐんまのとんま さんまをやいて あんまとたべた



  まんまとにげた ぐんまのやんま たんまもいわず あさまのかなた」



 「はかかった ばかはかかった たかかった



  はかかんだ ばかはかかんだ かたかった



 おお、当時は気にもしなかったけれど、禁止用語すれすれという感じ。「旅の絵本」はシリーズで6冊ほど出ている。いろんな国の風景の中に、物語の主人公やら、名画のワンシーンなどがこっそり描かれていて、それを見つけるのが楽しみだった。親子で楽しんでくれるといいのだけど。



 写真は哲学の道のなかほどにある大豊神社。狛ねずみで有名な神社で、今年のお正月は参拝客で賑わった。普段はこんなふうに寂しい(荒れた風情がまたいい)お社なり。


Photo  11月26日(水)晴れ。徒然なるままに『論語』をひもとく。何度読んでもなるほどと、共感してしまうのは、その都度、読む片端から忘れることにしているからだろう。毎回、新しい気持で読む。それにしても紀元前5世紀の人の言葉に頷いてしまうなんてね。つまり人はそのころから同じようなことを考え、同じようなことで悩んでいたというだろう。



 子貢問いて曰わく、「一言にして以って身を終うるまでこれを行うべき者ありや」。子曰わく、「それ恕か、己の欲せざる所を人に施すこと勿れ」



 「ほんの一言で死ぬまで行うべきことがありますか」「それは”恕”だろうね。すなはち、人を思いやることー自分がしてほしくないことは他人にしてはならないということだ」。



 晩婚で40歳近くになって初めて母親になった友人がいる。こちらがそろそろ子離れかというころ、まだ洟垂れっ子を抱えていて、子育ての悩みを聞かされたものだが、ある日、その彼女がしみじみと述懐したことがあった。



「子どもを持って、初めて人を赦す、ということを知った。親というものは、言うにいえない切ないものがあるのねえ。一人で生きているときには思いもよらなかったけれど」



 「子曰、父母在、不遠遊、遊必有方」(子曰わく、父母在ますときは遠く遊ばず、遊ぶに必ず方あるべし



 はい。つれあいの両親が健在なころは、心がけておりました。いまは、年中遠くに遊んでおります。



 写真は岩倉実相院の庭。ここの坊官による幕末の日記を纏めた●菅宗次『京都実相院日記』(講談社)はなかなか興味深い本。幕末の世相が活写されていて、血なまぐさい事件の様子(たとえば四条河原のさらし首の図など)もつぶさに記されている。私は戦国時代と幕末がどうも苦手で、何度読んでもすっきりと頭に入らない。どうも血なまぐさ過ぎて、思考停止に陥ってしまうらしい。(ということにしておこう)


Dsc02485  11月25日(火)晴れ。昨日の雨も上って、今朝は快晴。雨に洗われて空気が澄んでいるせいか、京都盆地を囲む山々がくっきりと見渡せる。西山から嵐山、北山が赤く染まって、晩秋から初冬の気分。この三連休、前半は来客の相手で過ごし、昨日の午後、ようよう解放されて仕事を片付けることができた。連休中、京都市内の紅葉の名所はどこも道路が渋滞して身動きがとれない。 うっかり車で出ると大変なことになるので、ひたすら地下鉄で移動した。バスだと酷い目に遭う。友人は京都駅からタクシーに乗り、「清水寺まで」と言った途端、運転手から「お急ぎでしたら、勘弁してください」といわれたそうだ。



 昨夜、眠れないままに書棚の整理をする。もう読まないだろうなと思われる本を抜き出して積み上げる。およそ芸術というものはオリジナル性と時代を先取りする新しさが命なのだろうが、このごろ思うに、たいていのことはもう表現し尽くされている、この上何を付け加えることがあろうか・・・。メビウスの環ではないけれど、最も古いと思われているものが、ぐるりと廻って一番新しいという場合もある。自分がやたらと古いものに惹かれるのにはそういう理由があるのではないかと、これは自己弁護。



 ●萩原幸子『星の声ー回想の足穂先生』(筑摩書房 2002年)を読む。作者は23歳のとき、通っていた古本屋で稲垣足穂と出会い、著書『ヰタ・マキニカリス』を贈られて以来、1977年に足穂が亡くなるまで文学の師と仰いで接した。足穂死後は、全集出版に編集者として関わっている。足穂は身辺におよそモノを持たない人であった。蔵書はもとより、家財道具の類もおかず、部屋には火鉢と文机があるだけだったという。文字通り、身一つで書き、身一つで生きた人である。もちろん、それも足穂の後半生を支えた志保夫人あればこそではあるのだが。



 かねてより、「いやしげなるもの。居たるあたりに調度の多き」(「徒然草」72段)を自戒としているので、足穂のように生きてみたいと思うのだけど。



 写真は霊鑑寺の紅葉。「尊(たふと)がる 涙や染めて 散る紅葉」芭蕉。


Dsc02475  11月24日(月)朝のうち晴れ。京都に住むようになってから、以前にも増して四季の移り変わりに敏感になった。花を愛で、祭を見、歳時記を追いかけていると、あっという間に一年が過ぎてしまう。そのなかでも、春と秋は最も落ち着かない。スケジュール表と相談しながら、桜と紅葉に会いにいく。近年は温暖化のせいか紅葉の色が冴えないという気がしないでもないが、年に一度の逢瀬にしあれば、「このたびは幣もとりあえず手向山」とばかり出かけていくのだ。さて、昨日は東山の霊鑑寺へ行ってきた。ここは承応3年(1654)、後水尾院の勅許により、皇女多利宮を開山として創建された尼門跡寺院。春と秋だけ公開されるが、春は椿、秋は高雄カエデが美しいお寺である。山の傾斜をそのままに庭が作られているので、拝観客は上り下りしながら庭を一周する。寺の裏庭の樹齢370年、高さ18メートルという高雄カエデは京都市で二番目に大きなカエデだそうだ。緑の苔の上の散り紅葉が美しい。たしか後水尾院には30人を超える子どもがいたはず。中宮に将軍の娘である徳川和子(東福門院)を迎える代わりに、将軍家の財産を湯水のごとく使って贅沢に暮した人である。まあ、そのおかげで修学院離宮などが残っているわけだが。



 霊鑑寺を出て安楽寺、法然院などに寄り、銀閣寺前からバスに乗って帰宅。DVD録画していた関東大学ラグビー早慶戦を見る。前半は慶応がリードしていたが、後半あっさり逆転を許し、終ってみれば34-17のダブルスコアで早稲田の勝ち。今年の関東大学ラグビー対抗戦グループは帝京大学が負けなしで頑張っている。残りの試合で早稲田が勝ち、帝京が負けると早稲田が優勝だが、帝京が勝てば初制覇となる。明治は対抗戦グループ6位とふるわず、24季ぶりに全国大学選手権出場を逃した。残念なことだ。リーグ戦グループの方は東海大学が頑張っているらしい。



 ●斎藤慎爾『寂聴伝ー良夜玲瓏』(白水社 2008年)を読む。帯に瀬戸内寂聴が「これほど心のこもった批評鑑賞を得たことは、わが生涯になかった。幸せである」と書いてある通り、全編寂聴へのオマージュともいうべき本。瀬戸内寂聴は私小説作家としてスタートしたから、作品を読めばこの人なりはわかる。だが同時に彼女は時代に逆らって激しく生きた女性を数多く取上げた伝記作家でもあり、またこの世の外に出た出家者でもある。世の毀誉褒貶はそのとき超えたと思われるが、文化勲章をもらうとは、予想外のことだった。寂聴本人へももちろんだが、彼女の周辺にいた人々(小田仁二郎や埴谷雄高、井上光晴など)への讃仰の書という趣が強く感じられた本。



 写真は霊鑑寺。春は見事な椿寺となる。




Dsc02066_2 11月22日(土)晴れ。長崎の26聖人記念館の前館長だった結城了悟さんが亡くなられた。先日、長崎の中町天主堂でお別れの式があったという。スペイン生まれの結城了悟さんは旧名をディエゴ・バチェコといい、イエスズ会の会員として1948年、26歳のとき来日。日本二十六聖人記念館の創立以来42年間館長を勤め、日本のキリスト教史の研究に尽力した。1978年には日本国籍を取得、結城了悟となる。学究肌の聖職者で、日本のキリシタン研究で多くの著書を遺した。その分野では、片岡弥吉の『日本キリシタン殉教史』という名著があるが、京都に引越す前、私は二十六聖人記念館を訪れて結城了悟の『京都の大殉教』という小冊子を入手していた。京都に移り住んでまもなく、この小冊子を片手に京都のキリシタン遺跡を訪ね歩いたことがある。二十六聖人は京都からはるばる長崎まで連行されて、西坂の丘で処刑された。その発祥の地が四条堀川を少し西に入ったところにある。近くにはわが国初のキリスト教会だった南蛮寺跡もある。いまはビルの前庭に車に埋れるようにして駒札が残るだけだが、ここにガラシア夫人の侍女も通ったのだろう。



 今月24日は、長崎で列福式が行われる。今回、聖者に次ぐ福者に列せられるのは188人、ペドロ岐部、中浦ジュリアンなど、遅すぎた感があるが、金鍔次兵衛、結城了雪という日本人宣教師も今回共に福者となるという。結城了悟さんの日本名はこの結城了雪から名付けられたものではないかと思う。188人の殉教者は、名簿によると長崎・京都をはじめ、米沢、江戸、薩摩、萩・山口、と広範囲にわたる。京都の大殉教は1619年10月6日のことで、刑場となった鴨川の六条河原にはいま碑が建てられている。鴨川の河原はまこと、戦国・幕末の例を持ち出すまでもなく、長く血なまぐさい地であった。



 写真はカトリック京都河原町教会。この夏ここで、「旅する長崎学」の話があった。


Img003_2  11月21日(金)曇り。●川田順三『文化の三角測量』(人文書院)を読む。サブタイトルの「川田順三講演集」が示す通り、この10年余の間に行われた講演の一部を纏めたもの。文化人類学とは何かをわかりやすく語った巻頭の「ヒトは何かを問いつづけて」がいい。これは昨年の5月、静岡県立浜松北高等学校で行われた講演の記録で、最後に高校生たちとの質疑応答も収められていて、生徒たちが興味をもって質問している様子が手にとるようにわかる。川田順三は幼い頃から虚弱体質で病気のため中学を一年休学し、高校へは一週間通っただけで退学、大検(大学入学資格検定)を受けて、東大に入学した人である。高校にいかない間、田舎の知人の農家に寄宿し、山村で自然を相手の暮らしに明け暮れたという。その間、独学もして大学へ入ったわけだが、民俗学に興味を持ち、新設されたばかりの文化人類学科へ進む。フランス、アフリカ、日本で研究生活を送り、比較文化も東西だとか、南北というような二つのものの対比ではなく、三つの文化の相互比較の方が、主観による偏りを避けられてより相対的な見方ができるのではないかという考えを持つようになったという。



 講演録なので、読みやすいし、理解しやすい。この中から印象に残った下りを記しておく。



「私は、人間は二回死ぬと思っています。一回は生物の個体として死んだとき。もう一回は、その人の記憶が生きている人の中に受け継がれなくなったとき。ある人の記憶が受け継がれていれば、その人は人々の心の中に生きているわけです。もちろん個人的な思い出だけではなくて、著作や音楽や絵画、その他、作品を残した人の場合は作品を通じても、行き続けていくわけです」



「人類が究極で最高の存在であり、自然は人間によって利用されるべきものとして造物主が造ったと考え、人間の欲望を限りなく拡大させ、それを実現していくことに人間の「進歩」をみる、人間中心主義の考え方は、人間を自然のつつましい一部分と考え、万物にあわれみの心を抱き、人間の欲望をいたずらに肥大させることに人間の驕りを見る、非・人間中心主義を通して、再考されるべき段階に、いま私たち人類はさしかかっていると思います」



 ここで川田順三が言う、「人間中心主義」とは一神教的考え方で、「非・人間中心主義」とは、アジア・太平洋地域の文化の根底にある自然史的、汎生的世界観のこと。



 写真は清水寺の紅葉。近寄るのが躊躇われるほどのすごい人出です。みなさんが「そうだ、京都、行こう!」といって来られるわけではないのでしょうが、道路は渋滞し、バスに乗れば満員で進まず、住民はぼやいています。「いや、来んちゃよか!」。


Dsc02459  11月20日(木)快晴なれど風冷たし。中野孝次の『ガン日記』(文春文庫)を読む。彼が亡くなったとき、手許にある彼の著書を片端から読み返して、ああ、読者として長い付き合いだったなあと感慨深く思ったものだ。中野孝次(1925-2004)とは、最初は彼が訳するドイツ文学に始まり、小説、評論、エッセイなど親しんできたが、晩年は教育論や人生論を説くことが多くなって、ちょっと距離を置くということもあったが、言葉通り、文学者としても一市民としても実に誠実な人であったと思う。この『ガン日記』は中野孝次にガンがみつかってから入院するまでの40日余に書かれた日記である。80歳近い老いの身なれば手術は無用、静に余生を送りたいと思うものの、衰弱激しく、妻の負担を考えると入院もやむなし、と決心するまでの様々な胸の内が率直に綴られている。かねてから日本中世文学にある「無常観」を説き、セネカに親しんで、その死に対処する心構えを学んでいたおかげで、ガンの宣告も、余命一年という医者の言葉も静に受け入れることができたという。この本にはこの「ガン日記」の他に、夫人による手記や編集者の言葉などもあり、中ほどには、亡くなる3年前に記された「死に際しての処置」という彼の遺言書も載せてある。その遺言の一部を写しておこう。



「予はすでに墓誌に記せる如く、十九歳第五高等学校に遊学以来、文学を愛し、生涯の業とせり。(中略)以来ただ文学一筋に生きたり。これを誇りとす。また成瀬秀と結婚し、先年金婚の祝いをせしまで、共に支えあい、つつがなく生きたることを幸せとす。顧みて幸福なる生涯なりき。このことを天に感謝す。わが志・わが思想・わが願いはすべて、わが著作の中にあり。予は喜びも悲しみもすべて文学に托して生きたり。予を偲ぶ者あらば、予が著作を見よ。予に関わりしすべての人に感謝す。さらば」



 常々、自分が死んだら墓などいらぬ、散骨してほしいと言っていた中野孝次が信州須坂に墓を建てた。そのときのことを書いたものもこの本に収められているが、「墓のこと」と題する文章の中にこんな一節がある。



自分たち夫婦には子どもがいないから墓守もいないと書いたあとで、



「いったい墓など作ったとっころでいつまで人がわれわれのことを覚えていてくれるものか、と。われわれを知った人々もいつかは死に、五十年後にはおそらくわれわれを知る人は独りもいなくなるだろう。そのとき墓が何の意味を持つだろうか」



 



 7年ほど前、50歳で亡くなった友人は、遺言に故郷の山に散骨をしてほしいと記していた。彼は10代に胸を病み長く療養していたという体験から、独特の人生観をもっていた。何事にも執着しないというのもその一つで、彼が大恋愛の末、結婚したときは意外な、とみんな驚いたものだ。彼の遺灰は遺言通り、故郷の山に撒き、半分を有明海にも撒いた。おかげで、九州の山や海を見るたびに、私たちは彼のことを思い出す。思い出す人がいる間は、彼の魂は生きてこの世にあると私たちは信じている。彼は作家の中野孝次のように自分の思想や志を書き残すことはしなかったが、友人たちに、われわれの生が限られたものであることを身をもって教えてくれた。ともすれば忘れがちだけれど。



 写真は真如堂近くのお寺で。「向井去来のお墓あり」という札が立っていた。


Dsc02435_3  11月18日(火)晴れ。寒くなった。午前中、大童で仕事をすませ、昼過ぎの地下鉄で浜大津へ出かける。午後一時からびわこホールの隣にあるピアザホールで「糸賀一雄記念賞」の受賞式があるのだ。これは、「近江学園」の創設者で、わが国の障碍者福祉の先駆者である糸賀一雄を記念する財団が主催して、彼の精神を受け継ぐ人を顕彰するもの。第12回になる今年の受賞者は、ミャンマーで視覚障害者のための組織を運営するウー・ティン・ルウィン氏と、湖南市石部町で障碍者と共に働く場を創設し、高齢者や障碍者が安心して暮せる町づくりに取り組む溝口弘さんのお二人。受賞式では、記念財団の理事長である嘉田由紀子滋賀県知事の挨拶があったが、ソフトで愛情にみちた挨拶だった。表彰と花束贈呈のあと、二人の受賞者によるスピーチがあった。普段はこういう行事は敬遠している私が出てきたわけは、溝口さんのスピーチを聞きたかったからで、その期待は十分に満たされた。溝口さんは団塊の世代で、大学が揺れに揺れていたとき、東京で大学生活を送っている。湖南市の知的障害児施設で働いているとき近江学園の田村一二氏の薫陶を受け、障碍者の就学支援に取り組むことを決意、なんてん共働サービスを創設した。以後、障碍者が介護スタッフとして働く宅老所を開くなど、全国に先駆けた活動を続けている。



 私は溝口夫妻のプライベイトな顔しか知らないので、今日、彼のスピーチを聞いてうーんと唸るばかりであった。彼は実に謙虚な人で、今日のスピーチの中でも、「自分ひとりでは何もできない、今回の受賞は、われわれの活動を支えてくれている地域のみなさん、湖南市はじめ石部町の行政やいろんな団体の人たち、関わりのあるみなさんと共にいただいたと思っています」と何度も繰り返していた。また表彰式で副賞が贈呈されるとき、知的障害者の仲間を壇上に招いて、彼女に受取ってもらっていた。障碍者と共に生きる、を常に忘れない人である。



 今後の彼の夢は、滋賀の手入れの行き届かない山林の木を使って、町のひとたちが憩える入浴施設をつくること、だそうだ。リタイアした団塊の世代に山から木を伐りだしてもらい、それを燃料にしてお風呂を沸かし、番台には障碍者が坐り、老人や子ども、みんなが集える場を造りたい、とのこと。みんなに働く場を提供し、生きがいと楽しみを共有しようというもの。もし、自分にまだ時間が残されているなら、ぜひ実現したいですね、と言っていたが、そう遠くない日に実現するのではないかしら。



 溝口さんのスピーチを聞き終えて急いで会場を後にする。今日は夕方からまた別の会合があるのだ。ピアザホールは琵琶湖湖畔にあり、青い湖の向うに近江富士がくっきりと見えた。比叡山がこころなしか赤い。帰途、京阪電車が大津逢坂を通るとき、右側に関清水蝉丸神社が見えた。線路のすぐ傍に鳥居がある。ここには紀貫之の「逢坂の関の清水に影みえて 今や引くらむ望月の駒」の歌碑がある。平安時代、信州佐久の望月から毎年朝廷に献上された馬がここを通ってきていたのだろう。さて、これからまた出かけます。



 写真は槇尾山西明寺。石灯籠と紅葉のグラデーションが美しい。


Dsc02446  11月17日(月)晴れ。15日のお祝いの会のことを書いておこうかしら。先週の土曜日、夕方から祇園の石塀小路のSで東京から出てきたNさん夫妻と会食。私がN夫妻に会うのは20数年ぶりのことである。Nさんはつれあいの元同僚で、私たち夫婦と同じく九州出身。今回、おめでたいことがあって、われわれ夫婦がお祝いをすることになったもの。夫妻はシチリア旅行から戻ったばかりで、しばらくは旅の話で盛り上がった。二次会は祇園の「I」で。芸妓のY子さんが待っていた。ここで出たお酒がNさんの本家筋にあたる造り酒屋のもので、奇遇だねと喜ぶことしきり。同じ名前の政治家も身内にいて、しばらく故郷の話になる。そういえば、Nさんの高校の後輩に最近、世を騒がした人がいたね、というと、「ああ、ライブ・ドアのホリエモン。しばらく前はソフト・バンクの孫さん」。「近く末っ子が結婚して家を出るので、35年ぶりに夫婦二人になる。それを思うと寂しくて寂しくて」というので、仰天する。せいせいする、と言うのであればよく判るのだが。10時半ごろお開きに。お茶屋の前で二人を見送り、傍らのY子さんを誘うと(もちろんお花をつけて、です)喜んでお供しますというので、新町のワイン・バーへ。日本髪にあでやかな座敷着姿のY子さんが店に入ると、満員の客がいっせいに注目。隅っこのカウンターに腰掛けて私とつれあいはブルゴーニュの白ワインを、Y子さんはなにやら難しい名前の赤ワインを頼む。その発音が自然かつ滑らかなのでワインに詳しいのかと尋ねたら、年に何度か海外旅行をするのだが、フランスには必ず行ってワインを楽しむのだという。最近の芸妓は国際的なり。ワイン・バーの名前は「ドゥ・コション」。去年のボジョレー・ヌーヴォーの日に開店したというからちょうど一年になる。オーナーはフランスでワイン修業をしてきたという若いご夫婦で、店の名前は「二匹の豚」だが、夫人は実にチャーミングな女性。この日もレジで支払いをするつれあいに、「京都に住んでいますが、こんな近くで本物の芸妓さんを見るのは初めてです」と嬉しそうに告げた由。祇園の外で見るY子さんは芸妓姿でいても中味は20代の若い女性で、海外旅行の失敗談などを面白おかしく話してくれた。11時半過ぎ、Y子さんを見送り、子の刻ばかりにほろ酔いを疾うに通り過ぎたつれあいと帰宅。



 今日、17日は午後から『古今著聞集』の講読会に。今日のところは巻第十一、「画図」に関するくだり。巨勢弘高の地獄変の話や鳥羽僧正の話などが出て来る。393段の「絵合わせ」のくだりでは、場面の詳細を把握できず、(想像して当時の様子を描くことが難しい)いろんな意見が出て興味深いことであった。



 写真は嵯峨鳥居本の、鮎料理で有名な「平野屋」。この鳥居は愛宕神社の一の鳥居。ここから清滝まで約2キロ。そこから愛宕山山頂にある愛宕神社まで約2時間の道程なり。


Dsc02433  11月16日(日)雨。10日付の日経新聞に秋山駿がこんなエッセイを書いていた。「こんど、夏の無明塾に出かける信州の浄蓮寺に、自分の墓を建てることになった。目の前に中野孝次さんの墓がある。自分の設計したいい墓だ」そして、生前中野孝次から自分の死後、散骨をしてほしいと頼まれたことがあったが、自分は反対だった、といい、「死はもっと深いものだ。神秘と対話するために、お墓がある」と結んでいる。人は死んだらどこへ行くのか、その人を思う人の心の中へ行く、その人を思い出し、偲ぶためにお墓があるのかもしれない。露伴や荷風は町歩きのついでによくいろんな人の苔掃(墓参り)をしたそうだ。京都の町にはそれこそ1200年分の死者が眠っていて、至るところで先人たちの塚に出会う。石に刻まれた文字に見知った名前を見かけたときなど、そこから物語が立ち上がってくるような気がする。自分自身は身の回りから一つずついろんなものを消していって、最後はすーっと消えてしまうという風に逝きたいなあと思う。できれば遺灰も海に撒いてほしい。あるいはどこかの山桜の根本に撒いてほしい。春が来るたびに花を咲かせて、私はここにいてみんなを見守っていますよ、と呼びかけるというのもいいのではないかしら。



 写真は昨日、西明寺の門前で見かけた宝筐印塔。いつごろのものか判らないが、紅葉の中に苔むしてひっそりと立つさまに心ひかれた。良寛に「形見とて何残すらむ春は花 夏ほととぎす秋は紅葉葉」という歌がある。そういえば良寛さんの辞世の句は「うらを見せ おもてを見せて 散る紅葉」だった。



 


Dsc02420  11月15日(土)曇り。朝、思い立って高雄へ紅葉を見に行く。自宅を8時前に出て、半時間で神護寺下へ到着。まだ早いので渋滞もなく、神護寺下の駐車場もまだ空いていた。駐車中の車は殆んどが他府県ナンバーで、関東からの車が目立つ。神護寺は石段をかなり登るのだが、もう結構な人出で、山門前にはカメラの三脚が並んでいた。もう7分か8分の紅葉だろうか。本堂で薬師如来像(国宝)を拝観。NHKのスタッフが取材のため、ご本尊のお薬師さんにライトを当てて撮影していたおかげで、ご本尊を詳細に拝観することができた。神護寺は和気清麻呂ゆかりの寺で、創建は8世紀という。のち唐から帰国した空海(弘法大師)がこの寺に入り、810年から823年までここを本拠地として布教活動を行ったという。平安末期、文覚上人が再興のため奔走し、法皇に寄進を強要したせいで伊豆に流刑になったが、のちにはそこで知り合った源頼朝の援助を受けて神護寺を再興させた。5月の連休中、源頼朝像(国宝)や空海による灌頂歴名(国宝)などが公開される。まあ、文覚上人はドラマティックな人物ではある。



 神護寺から隣の槇尾山西明寺へ廻り、高雄を出て帰途、嵐山にちょっと寄ってみる。こちらはまだ色づき始めという感じ。それでも観光客が群れをなして歩いていた。昼前に帰宅。仕事を済ませて、夕方から祇園へ。東京からの友人夫妻と待ち合わせ。



 写真は高雄山神護寺(真言宗)。本堂前の階段上から大師堂を見下ろして。


Dsc02394  11月14日(金)晴れ。今朝6時前、部屋のカーテンを開けると、西の空に煌々と輝く満月が浮んでいた。東の空が白み始めるにつれ、月は影を薄くしていったが、夜明け前の空に残る満月もなかなかいいものだ。姉小路通にある遊形へ、石鹸を買いにいく。ここは旅館俵屋のアンテナショップで、俵屋オリジナルのシャボンがあるのだ。いつだったか友人にあげたら、ケーキと間違えて口に入れるところだったと笑っていた。今回もお使い物用。久しぶりに寺町通りを歩く。鳩居堂で絵葉書と便箋を、すぐ南側にある桂月堂でシュークリームを二つ購入。ここはロールケーキが美味しいのだけど、一本は多すぎるのだ。店を出て、富岡鉄斎の手になる看板をしげしげと見上げる。この辺り、東西両側に仏教書を扱う古書店が向いあって営業している。西側にあるのが写真の壷中堂。創業1905年というからもう100年を超える。しかし上には上があるもので、同じ寺町には、創業250年という老舗の古書店・佐々木竹苞楼が、本能寺前にある。店頭に積まれた美術雑誌などを時々眺めたりするが、ここで買物をしたことはまだない。以前、水上勉の個展(骨壷や竹筆画などの)をよくやっていたギャラリー・ヒルゲートはまだ準備中。矢田寺にはかぼちゃ供養用の大きなかぼちゃがもう奉納してあった。



 ●西沢正史編『古典にみる女性の生き方事典』(図書刊行会2008年)を読む。古典文学に描かれた女性たちの生き方を紹介し、その歴史的背景や社会的影響などを記し、最後に読者である現代の女性たちへのアドバイスを付記したもの。なかなかよく纏められていて楽しく読んだのだが、この付記がちょっとねえ。たとえば、冒頭の「かぐや姫」について、「現代に生きるかぐや姫」という文章は「かぐや姫は現代風にいえば”女王様”である。美貌・才能・学歴・財産などを武器にして、群ってくる男性たちの上に君臨する現代のかぐや姫は、ミツグ君、アッシー君を従え、愛と性を武器に男性たちを酷使する。しかし愛する弱みから献身的に尽した結果棄てられる男たちは、怨念の中で傷つき、ストーカーになったり、殺人を犯したりすることもある。高慢な女性たちは注意しなければならないであろう」。



 また、大和物語に出て来る「蘆刈」の女性については、「蘆刈の女は、現代風にいえば、玉の輿に乗った女性である。いつの時代でも、人生を渡っていくとき、男性の武器は、学歴や仕事力であるが、女性の武器は、結婚力であることが少なくない。男女は平等であるが、同質ではない。だから普通の女性は、男性にはない特性―愛・美しさ・優しさ・かわいらしさ・思いやりといった女性の特性を武器として、結婚というカギを開ければよいのである・・・



 この本は20数名の国文の先生方によって書かれたもので、ゆえに読者は若い女性、とくに女子大生あたりを想定しているのだろう。学歴や仕事力を持たない普通の女性が玉の輿に乗るには、あくまで愛らしく、美しく、やさしく、あれよかし・・・というわけか。事例の一つ一つは実によく纏められて、いいテキストになるのだが、この最後のアドバイスがねえ、と思いつつ読了。


Dsc02373_2  11月13日(木)晴れ。朝から西院の耳鼻科へ、咽喉を診てもらいに。炎症をおこしているとのことで、薬と吸入。帰途、祇園の友人宅へ届けものをして、京都駅の伊勢丹へ買物に行く。祇園石段下から市バス206番に乗ったら超満員で、殆んどがツーリストと修学旅行生。みんな清水寺入口で下車したが、同じだけ新たな観光客が乗り込んでくる。両替する人、カードを間違う人、外国人観光客だと説明が必要で、そのたびに降り口が渋滞する。日頃、ラッシュの電車やバスに乗る機会がないので、ぎゅう詰めで吊革にぶら下がっているのはしんどかった。駅前でようよう解放される。京都の春と秋、東大路は鬼門である。近寄るべからず。伊勢丹で買物を済ませ、アバンティ書店へ行こうと八条口へ出ると、すごい人だかりが。何でもスペイン国王夫妻が入洛されるとのこと。国旗が掲げられ、着物姿の女性や両国の警備員が居並ぶ中、お二人は無事到着、移動されました。犬も歩けば、ではないけれど、朱雀も歩けば棒に当る、という感じ。ま、だからといって何と言うこともありませんが。



 写真は京都駅大階段に設置されたクリスマスツリー。灯りが点いたところを撮りたいのですが、風邪気味なので、夜は外出を控えております。クリスマスといえば、●カポーティの『クリスマスの思い出』がいいですね。遠い日のイノセントな思い出。


Photo  11月12日(水)晴れ。久しぶりに太陽を見る。午前中、「小右記」講読会で醍醐行き。風邪薬を服んでいるので、車の運転は控えて地下鉄で行く。帰途、東京から出てきた友人を真如堂近くにある宿泊先へ訪ねる。宿は旧東伏見宮家の別邸だった建物で、和洋折衷の洒落た邸。入口の唐門は宮大工・西岡常一氏の手になるものだという。二階の花の間でしばし歓談。ステンドグラスの模様が「フシミ」という字に見えなくもない。庭の紅葉がほのかに色づいて、季節を感じさせてくれた。宿の向い側には紅葉の名所・真如堂があり、これから紅葉見物の客でごったがえすことだろう。



 ●山本淳子『源氏物語の時代』(朝日選書 2007年)



 ●繁田信一『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 2007年)



を面白く読了。二つの本は同時代の資料を使い、同時代のことについて書かれたものだが、何を取上げ、何を話題にするかで、こんなに違った内容の本になる、といういい見本。山本淳子さんの『源氏物語の時代』によれば、一条天皇の思い人は定子皇后ただ一人、一条天皇はあの時代の天皇にしては珍しく近代的恋愛感情を持った人だったということらしい。



 ●川原一之の『闇こそ光ー上野英信の軌跡』によると、戦後1946年4月、京都大学文学部支那文学科に編入学した英信は、その直前に死去した河上肇を慕い、河上家の近くに間借りした、とある。どの辺りだったのかしら。英信はよく法然院や哲学の道を散歩したというが、その京都暮らしは長くはなかった。大学をやめて、九州の炭鉱へ入っていったからである。



 写真は吉田山荘の「花の間」。


Photo  11月11日(火)曇り。今朝の外の気温は8度。急に寒くなった。マンションの部屋の中は真冬でも、暖房なしで18℃を下ることがない。まさに高齢者向き。昨夜、北海道の友人から電話あり、旭川に雪が降ったという報せ。旭山動物園はいかならむ、と北の方に思いを馳せる。その北海道よりさらに北方から、はるばる3000キロの空の旅をして京都へやってきたのがユリカモメたち。毎年、10月末から姿を見せはじめ、京都の鴨川や桂川で越冬し、翌年の春には去っていく。昼間鴨川で見かけるユリカモメの殆んどは、琵琶湖をねぐらにしているそうで、朝夕、比叡山を越えて、京都の町に通っているという。真っ白な体にほのかに赤いくちばしと足が何とも可憐。しかしごく近くで見るユリカモメは意外と大きくて逞しく、可憐さとは遠いイメージ。さもありなむ。その強さなしでは長い空の旅を続けることはできないだろうから。最も多いころは8000羽近くのユリカモメが飛来したというが、最近は減少気味で、昨年は3000羽を下回ったという。冬の間、鴨川に架かる橋の上で、餌をやる人と鴎たちとの賑やかな交歓風景が見られる。在原業平(825-880)のころ、京にはユリカモメはいなかった。東下りの隅田川で初めてこの鳥を見た彼は名前を尋ね、「都鳥」というなら、私の愛しい人はどうしているか教えてくれ、と詠った。(『伊勢物語』9段) 



 身内の葬儀のため、博多へ出かけていた。山陽新幹線はその殆んどがトンネルなので、車中で携帯電話がなかなか繋がらない。急な出立だったのであれこれ連絡をしたいのだが、それが叶わぬので、実に困った。ただし新しいN700系の車輌には、各窓側にコンセントがあって、パソコンが使え、携帯電話の充電ができたのが良かった。遠くに離れて住む家族が久しぶりに揃って(わが家でいえば7年ぶりのことであった)一族再会できたのは何よりだったが、別れはやはり切ないもの。次にみんなが集まるのはいつのことかしら、お祝い事ならいいのだけど、と言いながら京都へ戻る。風邪なかなか治らず。投薬。外出を控えて籠居。



 写真は鴨川のユリカモメ。四条大橋下あたりで。


Photo  11月7日(金)雨。早朝、九州に住む身内から不幸の知らせあり。今夜、通夜という。午後から出かけることになる。先月、もう長くはないと医者に宣告されてはいたが、まさに「きのふけふとは思はざりしを」。来るべきものは来る、要るのは覚悟だ、とはいうものの、その覚悟がなかなか。物にも人にも執着する心を失くしていかなくては。



 写真は近所に咲いている(実っている)シロシキブ。


Dsc02339  11月6日(木)晴れ。どうも風邪をひいたようで、昨夜は早々と薬を服んで寝た。このところ忙しかったので疲れがでたのだろう。私の場合、ゾクゾクして咽喉が痛くなるので、その時点で無理をしなければ鼻水が出るくらいで治まるのだ。今日は外出の予定がないので、暖かくして家に籠ることにしよう。久しぶりに籠居、というわけで、積んだままの本や雑誌に片端から目を通す。今月号の「図書」は岩波新書創刊70年記念で、「私のすすめる岩波新書」というアンケートの特集。この手の特集で成り立っていたのがいまはなき「リテレール」で、いくつか手許にあったはずだが、見つけることができない。さて、「図書」によると、今回のアンケートのベストテンは、 「①日本の思想 ②バナナと日本人 ③万葉秀歌 ④歴史とは何か ⑤市民科学者として生きる ⑥私は赤ちゃん ⑥ヒロシマ・ノート ⑧零の発見 ⑧自動車の社会的費用 ⑩新唐詩選 ⑩沖縄ノート ⑩羊の歌 ⑩生命とは何か」だが、⑧の『自動車の社会的費用』を除くと、ベストテンに入った新書はすべてわが書棚にもある。そうか、自分の読書傾向は平均的なものなのだなあと少々がっかりした。だからというわけではないが、(風邪薬のせいで朦朧としながら)「岩波新書マイ・ベスト・ファイブ」を選んでみた。それがこの写真。『一日一言』(桑原武夫) 『花洛』(松田道雄) 『平家物語』(石母田正) 『短篇小説礼讃』(阿部昭) 『情熱の行方』(堀田善衛) 『豊かさとは何か』(暉峻淑子) 『中世に生きる女たち』(脇田晴子)。ベスト5といいながら7冊もあるところが朦朧としている所以。



 松田道雄は『私は赤ちゃん』をあげたいが、京都に住むようになって読んだ『花洛』を選んだ。明治・大正時代の京都の思い出が書かれたものである。『一日一言』は高校時代に愛読したもの。これを真似て、自分の「一日一言」を創ったものだったが。



 アメリカに新しい大統領が誕生した。マイノリティにも寛容な政治が求められているのだろう。翻ってわが国では、と眺めれば・・・ますます頭痛がひどくなりそうなので、やめておこう。


Photo  11月5日(水)晴れ。●上野誠『魂の古代学』(新潮社)を読む。著者は折口信夫の孫弟子で、奈良大学文学部の万葉学者。折口信夫の死から論を起して、時間を遡り、幼児期における家庭環境について語って、折口信夫の全体を俯瞰するという仕組み。折口信夫は柳田國男と並んでよく語られるが、どこかマイナーなイメージがあると著者はいう。「折口は光よりも影、多数派ではなく少数派を生きた人間であった。柳田が光なら折口は影、時代遅れの国学者、官学に対する私学、性の少数派、東京の大阪人」だと。そういえば富岡多恵子も同じようなことを語っていたっけーー「私学で大阪人だというだけでマイナーなのに、その上ホモセクシュアルだもの」。折口信夫は不思議な魅力をもった国学者だ。感覚的すぎるし、文学的すぎると思うが、ときどき読み返したくなる。『死者の書』、この一冊だけでも十分ではないか。 



 写真は近所の大学の門前で見たソヨゴ。モチノキの仲間がこれから赤い実をつける。ソヨゴは近くの雑木林でよく見かける。吉田兼好が隠居したという双ケ丘にもたくさんあった。


Dsc09201  11月4日(火)晴れ。この連休、伊勢志摩へ出かけてきた。2日は伊勢神宮へ行き、全日本大学駅伝の応援もしてきた。駅伝のゴール地点が伊勢神宮(内宮)の鳥居前なのだ。内宮宇治橋前の広場に大型映像が設置され、その前にたくさんの応援団が詰め掛けていた。この日の駅伝は、朝の8時に愛知県の熱田神宮前をスタート、伊勢神宮まで8区間106・8kmを走るもの。午後1時半ごろ駒沢大学がゴールし、この大会3連覇を遂げた。2位は前回5位の早稲田大学。たまたまゴール地点にいたので、上位チームの選手たちを見ることができた。写真は早稲田チームの選手たち。真ん中がオリンピックにも出場した竹澤選手で、右端は一区を走った一年生の矢澤選手。





 今日、11月4日は吉野せい(1899-1977)の命日。およそ33年前、この人の『洟をたらした神』を初めて読んだときの衝撃は、いまも記憶に新しい。文学少女だったせいは1921年、詩人で開拓農民の三野混沌と結婚、以後筆を棄てて厳しい開墾に従事、6人の子どもを育て、貧しい農婦として生きてきた。夫の混沌亡き後、草野心平にすすめられて書いたのが『洟をたらした神』で、この短篇集が大宅壮一ノンフィクション賞と田村俊子賞を受賞、70過ぎてからの鮮やかな開花であった。厳寒の中の氷を思わせるような硬質で剛健な文章、貧しい暮らしの中でもきっぱりと保たれた矜持、いま読み返してもきりりと引き締まった文章は読むものの胸を撃つ。彼女の故郷福島県いわき市に彼女の名前を冠した文学賞「吉野せい賞」が設けられたが、いまも続いているのかしらん。


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