2009年01月

Photo  1月30日(金)曇り。今日、1月30日は旅する巨人といわれた宮本常一(1907―1981)」の命日。故郷山口県の周防大島では今日、彼を偲ぶ「水仙忌」が開催され、宮本常一の伝記『旅する巨人』を書いた佐野眞一の講演があるそうだ。宮本常一といえば『忘れられた日本人』が真っ先に思い浮かぶが、日本人とは何かを考えるとき、この本は最高のテキストになってくれる。日本全国をくまなく歩いて、農民や漁民、商人、主婦など、地に足をつけて働き、生活している人たちの話を記録した。彼を在野の民俗学者に育てた渋沢敬三は常々彼にこう語ったという。



 大事なことは主流にならぬこと。傍流でよく状況を見ていくことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてしまう。その見落とされたものの中に大事なものがある。それを見つけてゆくことだ。人の喜びを自分も本当によろこべるようになること。人の仕事にケチをつけるようなことはしてはならぬ、また人の邪魔をしてはならぬ・・・」



 師の教えを守り、全国を歩いて民俗調査の旅を続けた宮本常一はまたよく書く人でもあった。生活費を稼ぐためでもあったのだろうが、(彼の収入が安定したのは50代半ばごろのことである)それらは未来社から出版された全50巻の著作集に収められている。昨年の暮れに出た50巻目のタイトルは「渋沢敬三」だが、この著作集はまだ完結していないのではないか。宮本常一は60歳のころ、日本観光文化研究所の所長となって、後進の育成にあたったが、このころ「あるく みる きく」という雑誌を創っている。彼の民俗学者としてのスタイル(基本姿勢)を一言で言い表したものではないか。私は初めて訪れた町ではかなう限り、高いところに上って町全体を眺めることにしている。自分がいまどこにいるのか、地図を片手にその町の様子を眺める。それはどうも宮本常一の本から教えられたことらしい。



 宮本常一は話を聞く達人だった。録音機などない時代(あっても使わなかっただろう)彼は相手の話をきくとき、メモをとらず全部頭に入れて、あとからノートに記録したという。世間話から始めて相手の心を開かせる技量の見事さは誰にも真似できないものがあった。相手の心をつかむ魅力があったのだろう。生まれた家は農家で善根宿もしていたというから、見知らぬ人と接する技を幼いときから身につけていたのかもしれない。弘法大師ではないが、日本各地に彼が歩いた跡があり、彼を懐かしむ人がいる。ICコーダー片手に「調査する」学者先生にはできないことではないだろうか。



 宮本常一は「あるく みる きく」だが、私は「読み 書き 歩く」。でも、もうすぐ「食べる 寝る」だけになるのではないかと心配です。


Dsc09290  1月29日(木)曇り。今年は1月26日が旧暦の元日だった。今日は旧暦正月4日にあたる。朝、長崎の友人から電話があり、「いま、こちらはランタンフェスティバルの最中で、夜になるとそれはきれいよ」 とのこと。20年ほど前、長崎の冬場の観光行事として始まった祭で、中華街に色とりどりのランタン(灯籠)を飾ったのが始まり。いまは街中いたるところに灯籠が飾られて、すっかり長崎の町に定着したようだ。本場の中国では、この春節に一億を超える人たちが帰郷して、民族大移動さながらの混雑だという。それに比べると日本の年末帰省ラッシュなど可愛いものかもしれない。育った家の近くに黄檗宗の中国寺があった。お正月の行事は記憶にないが、夏のお盆のことはよく覚えている。長崎のお盆は華やかな精霊流しで有名だが、その一月ほど後に行われる中国盆も派手さにおいて引けをとらなかった。いまはどうかしら。子どものころは中国盆が始まると、毎日のようにお寺に遊びにいった。境内に金山銀山が飾られ、(死者があの世で使うお金ではなかったか)死者たちのためのお供えがいっぱいに並べられて、(豚の丸焼きもあった)、死者たちがあの世でも現世にいたときと同じように暮らすためにいろんな店を描いた絵が立ち並んで、その周りを長い中国式の線香を手にした人が行き交っていた。山門を入ったところに大きな閻魔大王の絵があって、怖いので、その前は走って通りすぎたものだ。普段は洋服姿の中華料理店のおじさんやおばさんが、その日は裾の長い中国服を着て、別人のように見えるのが、不思議でならなかった。もう半世紀近い昔のことである。



 写真はその中国寺にある魚板。正式には「ケツ魚」というそうだ。禅寺の僧たちに食事の時間を報せるために叩かれる魚板。この魚板の腹には「維時 天保二年 辛卯四月吉日 施主大串 中野」と刻まれている。天保2年(1831)といえば、幕末に向かって国内が揺れ始めていたころ。シーボルト事件は1828年、異国船打払令が出されたのは1825年のこと。長崎も穏やかなばかりではなかったに違いない。



 春節祭で賑わう神戸へ出かけたいものだが、今日は宿題をすませるために大人しく机に向かっています。


Photo  1月27日(火)晴れ。昨日の「日本芸能史」は清元の実演だった。演奏は浄瑠璃を清寿太夫と国恵太夫、三味線が栄吉と美十郎の四人。演題は「青海波」と「仮名手本忠臣蔵」から「道行旅路の花婿(落人)」。人間国宝の清寿太夫を除く3人はまだ若く、将来が楽しみという感じ。とはいうものの、私には清元と常磐津の区別はつかないし、長唄と義太夫だってわからない。三味線の音が清元は長唄に比べて低くて太い、と感じられる程度。演奏のあとの質疑応答で、三味線のちがいについて尋ねる人あり、やはり、義太夫は太棹(キイが低い)で、清元・常磐津は中棹、長唄は一番細い、という答えだった。一人で何人も演じ分ける浄瑠璃語りは声色の多様さが命ではないか、詞の美しさ、太夫の声色の多彩さに聞きほれた数十分だった。この講座もあと一回で終了。



 帰りて本屋から届いたばかりの●鷲田清一『京都の平熱』(講談社)を読む。サブタイトルに「哲学者の都市案内」とある。著者は1949年京都市下京区生まれ。京都市内を一巡する市バス206系統の沿線を中心に、自分が生れ育った街の記憶を記したもの。



 「そもそも京都の支配層は関東はじめ他国から来たひとばかり。藤原、平、足利、豊臣、薩長・・・と、京都を荒らしたのは、外のひとばかりだし、湯川秀樹はじめ代々のノーベル賞受賞者、あるいは京大の名物教授たちも京都出身者はほとんどいない。「外様」や「外人部隊」がしのぎを削る場所であった」



「哲学は戦前は京都が独壇場とといえるもので、西田幾多郎、田辺元、高山岩男らがいわゆる「京都学派」として哲学界に君臨した。三木清、下村寅太郎、谷川徹三といった傑物を関東に送り出したが、なぜか文学畑のひとは輩出していない



 などというくだり、面白く読んだ。京都に現代文学の作家が出ないということについて、10数年前、私もある編集者と話したことがあった。京都にいると古典と歴史が面白いから、現代に興味がなくなるんとちゃうやろか、と言うと、編集者は憮然として「瀬戸内さんがいるじゃないですか」と言ったものだ。いまなら、「平野啓一郎がいるじゃないですか」というところだろう。



 京都本は山ほどあるが、京都の住人、あるいは京都出身者による京都本で折りに触れ読み返すのは、●松田道雄、●天野忠、●松岡正剛、●杉本秀太郎などの本。歴史・古典書はまた別です。



 写真は四条大橋で遊ぶユリカモメ。こんな姿をみるのも3月半ばまでか。


 Dsc03014_2                             1月26日(月)曇り。昨日の日曜日は今年最初の天神さん。久しぶりに晴天となったので、つれあいを誘って北野天満宮までのんびり歩いて行く。初天神とあって、かなりの人出。骨董や古着の店が並んだ中に、ひと際人だかりがしている店があるので、尋ねたら「ブランド品専門の店」だという。骨董を中心に露店を一回りし、植木市を眺めて帰路に着く。今出川通りを下ったところにいつも店開きしている古本屋も覗いてみたが、収穫なし。このごろは家の中にモノを増やしたくないという気持の方が強くて、所有欲は減退する一方なり。友人はそれを老化現象の現れだと言うけど、確かに。友人によると、認知症の始まりは、ひきこもりたがる、新しいものに興味を持たなくなる、物欲がなくなる、などだそうだ。物欲がなくなるのはいいことだと思うのだけど。



 天神さんの梅はまだ蕾ばかり。本殿の東側の木にちらほらと花が見られた程度。梅の花はまだだが、クリーム色の蝋梅が七分咲きで、馥郁たる香を漂わせていた。天神さんの梅は、暮れのうちから満開、という年もあったが、今年は遅い方ではないか。太宰府はどうかしらと福岡の友人に電話のついでに尋ねたら、昨日は大雪で、梅の花どころか、天満宮は真っ白に雪が積っているよ、とのことだった。



 読書会のテキストになっているので、●帚木蓬生『閉鎖病棟』(新潮文庫)、●鎌田實それでも やっぱり がんばらない』(小学館)を読む。前者は精神病院の閉鎖病棟を舞台としたシリアスな人間ドラマ。後者は長野県諏訪中央病院の赤ひげ医者として知られた人のエッセイ集。どちらも人間の尊厳にかかわる問題を扱っていて、生きるということは生易しいことではないのだなあと思われたことだ。全く、この世には人間の数だけそれぞれ異なる人生があって、実体験できるのはたった一つ、自分のそれだけだから、他の人生を知るためには聞くか読むか、観察する、しかない。私はもっぱら読むだけだが、読書のおかげで、何倍もの人生を生きたような気がする。悲しみも何倍、しかし喜びも何倍。



 写真は天神さんの梅の花。昨日撮影したもの。花が咲いていたのはここだけだったので、アマチュアカメラマンが群っていました。


Dsc02957  1月25日(日)晴れ。昨日の土曜日、長崎の友人から電話あり。いま、雪が降っている、と。京都も寒かった。積るほどではなかったが、時折小雪が舞った。部屋の窓から雪雲が猛烈なスピードで移動するのが見える。いま嵐山、いま桂あたりかと眺めるうちに、眼の前に白いものがちらつく。「小右記」と並行して●猪瀬直樹の『ピカレスク』(小学館)、●森口豁『だれも沖縄を知らない』(筑摩書房)、●池澤夏樹『池澤夏樹の旅地図』(世界文化社)を読む。1000年前に書かれた貴族の日記を精読した後、現代作家の本にとりかかるにはちょっと頭の切り替えをする必要がある。しかし、読むことで1000年の時空を寸時に跳び越えることができるのは読書の楽しみ一つだろう。今年が生誕百年でまた読み直されるのだろうが、太宰ファンにぜひ読んでもらいたいのが猪瀬直樹による『ピカレスクー太宰治伝』。文学好きの人なら、子どものころ、誰しも一度は太宰熱にかかったことがあるのではないか。あの語り口の上手さにほろりとして、太宰を理解できるのは自分しかいない、と思い込ませる力があった。かくいう私もその一人だったが、20代の始めごろには免疫がついて、発熱することもなくなった。『ピカレスク』の太宰は徹底して狂言役者として描かれている。数回に及ぶ自殺未遂、心中未遂、そして最後の心中も狂言だったと。代表作といわれる「斜陽」が親しい女性の日記を拝借したものだということは周知のことだが、他の作品も似たようなものだったという。新聞に報じられた太宰の遺書(下書き)には「みんな、いやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です」と書かれていたそうだが、さんざん太宰の世話をさせられてきた井伏鱒二がなぜそう言われなければなかったか、もこの本に書かれている。太宰の伝記は星の数ほどあるが、オマージュばかりではないということを知るのも悪くない。



 「生きた、愛した、書いた」とはスタンダールの墓碑銘だが、太宰なら何と刻んだだろう。「生きた、愛した、騙した、書いた」か。太宰ファンのみなさま、ごめんなさい。



 写真は上賀茂神社の芝生の広場にそびえる桐の木。毎年5月5日には、競馬神事がこの木の下で行われるが、そのとき薄紫の花が満開となる。いまは花柄を残した枯れ枝のみ。


Dsc03002  1月22日(木)曇り。午前中、右京図書館へ調べ物に行く。去年の6月に開館した新しい図書館は、京都資料の充実、というのがウリなので、時々資料を探しに行く。今日は目的の本には会えなかったが、●『皇太后の山寺―山科安祥寺の創建と古代山林寺院』(「王権とモニュメント」研究会編 柳原出版 2007年)を見つけたので、借りてきた。つい先日、東寺の観智院で観た五大虚空蔵菩薩像は、もともとこのお寺にあったものといわれている。この本によると、安祥寺は9世紀の半ば頃、藤原順子(仁明天皇后で文徳天皇の母)を願主、恵運を開基として創建された。恵運は入唐八家の一人で、彼が唐から持ち帰った仏像の一つが観智院にある虚空蔵菩薩なのだという。ちなみに入唐八家とは、平安時代初期に唐に渡、日本に密教を伝えた八名の僧侶の総称で、内訳は、空海、常暁、円行、恵運、宗叡、最澄、円仁、円珍。1000年以上も前に、はるばる日本海を渡ってきた、スリムでエキゾチックな五人の虚空蔵菩薩の来し方を想像するだけでも楽しい。



 今朝の新聞に、京産大の理学部物理科学科の応募者が去年の1.5倍に上る、とあった。ノーベル賞を受賞した益川教授効果らしい。ずっと前、法政大学が大学ラグビー日本一になった時も、受験者がぐんと増えたという。今年の箱根駅伝の優勝校・東洋大学の関係者もそれを期待しているのではないかしら。



 1979年というからもう30年も前になるが、1月22日は奈良の茶畑で太安万呂の墓誌が発見された日。高松塚の壁画発見も大ニュースだったが、この墓誌発見もそれに劣らぬ価値のあるもの。太安万呂は『古事記』の編者として知られているが、この墓誌発見によって、彼の実在が証明され、安万呂の没年を養老7年(723)7月7日と記した『続日本紀』の信憑性も確かめられたのである。墓誌に書かれていたのは、「左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣安万呂以癸亥年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳」の41文字。伝承が出土品によって証明された幸福な例。



 写真は神宮道にある店の前に飾られた餅花。真っ白というのも清清しくていい。


Dsc03004  1月21日(水)曇り。岡崎の京都国立近代美術館で「上野伊三郎・リチコレクション展」を観た。上野伊三郎(1892-1972)は京都の宮大工の家に生まれた建築家で、早稲田大学卒業後、ウィーンに留学し、ウィーンの建築事務所に就職、そこで出会ったデザイナーのリチ・リックスと結婚。妻を伴い帰国した伊三郎は、京都で建築事務所を開業。妻のリチはウィーン時代にデザイナーとして活躍しており、そのテキスタイルデザインは「リックス文様」と呼ばれ、高い評価を受けていたという。1927年、「日本インターナショナル建築会」を立ち上げ、会誌を発行、夫妻は建築と工芸の両輪で多彩な仕事をしている。また美術学校の教師として多くの芸術家を育ててもいる。京都インターアクト美術学校に保管されていた夫妻の作品や資料が近代美術館に寄贈され、今回初公開展示となったもの。へえ、京都にこんな人たちがいたのかと、初めて知る夫妻の仕事ぶりを眺めてきた。展示物の多くを占めるのは、デザイナーであるリチの作品で、草花をモチーフとした作品は色彩豊かだが軽やかで明るく、音楽が聴こえてきそうな感じ。建築の方は設計図がたくさん展示してあったが、斜めに眺めただけ。リチの手になる七宝などの工芸品になかなか面白いデザインがあった(満州での見聞をモチーフとしたものなど)。二人の写真も展示されていたが、中にドイツの建築家ブルーノ・タウトとの写真もあり、1933年、夫妻が初めて日本にタウトを招待したということを知った。タウトは桂離宮を最大に評価した人である。



 今年のゴールデングローブ賞で、ケイト・ウィンスレットが主演と助演の両方の女優賞を獲得したというニュース。主演は「レボリューショナリー・ロード」、助演は「愛を読むひと」で。毎年のようにアカデミー賞の候補にも上がりながら、受賞はまだだが、今年はどうだろうか。「タイタニック」に出演したときの彼女は、ぽっちゃりした女優さん、というくらいの印象しかなかったが、その後、「いつか晴れた日に」(原作はオースティンの「Sense and Sensibility」)やマードックの半生を描いた「アイリス」、ジョニー・ディップと共演した「ネバー・ランド」などを観て、好きになった。まだ33歳、これからが楽しみな女優さんである。



 写真は岡崎の京都国立近代美術館。ここは入館フリーなので、ロビーで休んだり、カフェでお茶したり、ミュージアムショップで大好きな長谷川潔の絵葉書を求めたり、とよく利用しています。


Dsc02902  1月20日(火)曇り。昨日の午後、久しぶりに北白川の京都造形芸術大学へ出かけ、「日本芸能史」を受講してきた。昨日のテーマは「歌舞」で、春日大社南都楽所の人たちによる和舞があった。雅楽や大和舞は時代の変遷によって一時は絶滅危惧種のような存在だったらしいが、現在は神社の祭礼に奉納することで守り伝えられている。昨日は奈良春日大社の若宮おん祭のために技を受け継いできた南都楽所の人々による雅楽演奏と和舞が演じられた。舞人は巻纓の冠に青摺の小忌衣(おみごろも)をつけ、虎皮の尻鞘で飾られた太刀を佩き、手には榊の枝や桧扇を持って、実にゆったりと舞う。その姿の優美なこと。演奏する歌方は和琴、笏拍子、神楽笛、ひちりきで、それぞれの音はみなよく澄みわたり、清清しい音色だった。古式ゆかしき、という詞があるが、まさにそれ。写真撮影が禁じられているので、手許のノートにスケッチしてきたが、今年の12月には若宮おんまつりに出かけて、野外での舞を観たいものだ。九州よりIさん上洛。とんぼ帰りとて、講義終了後は京都駅へ直行す。彼女の行動力には脱帽。



 諌早の山田和子さんから夫で詩人の山田かんさんの著書を贈られる。



●山田かん『長崎県の現代詩史』(草土詩舎)



●山田かん『古川賢一郎・澁江周堂と戦争』(長崎新聞社)



 山田かん(1930-2003)さんが逝って今年の6月でもう6年になる。しかし死後も次々にこうして本が出版されているのは悦ばしいことだ。こつこつと地味だが大事な仕事をし続けてこられたのだなあとあらためて思う。和子夫人にお礼の電話をかける。



 写真は祇園の恵比寿神社。冬桜が満開でした。


Dsc02922  1月18日(日)曇り。今年は大岡昇平・中島敦・埴谷雄高・松本清張の生誕百年の年で、小倉にある松本清張記念館では、同時代の作家たちの足跡をたどる企画展が開催されるそうだ。ついでにいえば太宰治も今年が生誕百年、しかし清張が「西郷札」でデビューしたのは太宰の死から2年後の1950年のことで、同年といえども二人の作家は活躍の時代を大きく異にしている。私は晩年近くの清張の仕事、とくに古代史に関するものをよく読んだ記憶があるが、推理小説でいえば、「点と線」や「ゼロの焦点」など、代表的なものしか知らない。それにしても、現在はもうミステリーで列車や飛行機を使ったアリバイ工作は、使いにくいのではないか。毎日のように駅や線路で人身事故があり、トラブルも多い飛行機だと、タイムスケジュールは狂いっぱなしで、リスクが大きすぎる。



 先日、新しい直木賞・芥川賞作家が誕生したが、その前に発表された候補者名を見て、いまさらのように自分が時代遅れになってしまったことを痛感した。知らない名前ばかり。まあ、本にも人にも、出会うべくして出会う「時」というものがあるそうだから、その時を待つことにしよう。



 目下手許に置いて読んでいる本。●『竹内好集』(影書房)、●『鶴見俊輔書評集(3)』(みすず書房)、●埴谷雄高『虹と睡蓮』(未来社)、●繁田信一『庶民たちの平安京』(角川選書)、●中村修也『今昔物語集の人々』(思文閣出版)、●大隈和雄『方丈記に人と栖の無常を読む』(吉川弘文館)など。前の三冊は重なり合うところがいくつもあって、三人の鼎談を聞いているような気分になった。竹内好の日本国憲法についての文章は、半世紀も前に書かれたものだが、全く古びていない。いまもばっちり通用する文章。後の三冊も参考になるところ多し。



 写真は岡崎の府立図書館前にある二宮金次郎像。今も昔も「読書百遍」なり。


Dsc09267  1月17日(土)晴れ。朝、5時半ごろ目が覚める。目覚めてはっとした。14年前のいまごろ、神戸で未曾有の大地震が起きたのだ。当時、私はまだ諌早にいて、早朝、ラジオから流れるアナウンサーの異常な声で阪神地区の大地震のことを知った。前年の秋に一足早く京都に移転していたつれあいの身が案じられて連絡をとるも、電話は不通で、あの日は一日中、TVの前から動けなかった。刻々と被害状況が伝えられ、そのたびに犠牲者の数が増えていくのが、なんともやりきれなかった。文明社会の日本で、災害によってこれほどの人が犠牲になるなんて、とただ呆然としていた。その2ヶ月後に京都に引越してきたのだが、飛行機が伊丹空港に近づくにつれ、眼下に被災地を覆うシートの鮮やかな青い色が広がっていったのが忘れられない。人が死ぬということは、自分も死ぬということ、と詠ったのはジョン・ダン。人は独りでは生きられない。われわれはいやでもこの地球という運命共同体の中で生きるしかない。宮沢賢治ではないが、「世界全体が幸せにならないかぎり、自分の幸せもない」のだ。



 なんびとも一島嶼にてはあらず



 なんびともみずからにして全きはなし



 人はみな大陸の一塊



 本土のひとかけら



 そのひとひらの土塊を、波のきたりて洗いゆけば



 洗われしだけ欧州の土の失せるは



 さながら岬の失せるなり



 汝が友どちや汝みずからの荘園の失せるなり



 なんびともみまかりゆくもこれに似て



 みずからを殺ぐにひとし



 そはわれもまた人類の一部なれば



 ゆえに問うなかれ



 誰がために鐘は鳴るかと



 鐘は汝がために鳴るなれば



         ジョン・ダン「死にのぞんでの祈り」





 このブログを始めて今日でちょうど丸3年になる。2006年のお正月にうっかり足の指を骨折し、外出禁止になった。無聊を慰める為に始めたものだが、3年は続いたわけだ。長崎生まれの京都徘徊記、と名付けたが自分のための備忘録でもある。今日は記念日なのでタイトルに実名を記してみた。



 写真は上空から見た神戸の町。真ん中は六甲アイランドか。暮れに九州へいったとき、飛行機の中から撮影したもの。


Dsc02994  1月16日(金)晴れ。今日、1月16日は英文学者寿岳文章(1900-1992)の命日。寿岳文章はブレイクやダンテの訳者として有名だが、また和紙の研究家でもあった。奈良時代から使われていた杉原紙の発祥の地が播磨国多可郡杉原谷ということを実証、その縁で記念館がこの地にある。数年前、友人たちとこの杉原紙の故郷(現在は兵庫県加美町)を訪ね、寿岳文章記念館へも立寄った。記念館には博士の蔵書が収められていて、ブレイクの書誌研究やダンテの「神曲」訳本などが展示されていた。寿岳一家は戦前の一時期、南禅寺の塔頭正的院内に住んでいたことがある。その屋敷はその後山崎という人が住み、数年前まで「しょっつる山崎」という料理屋だったが、女主人が体を悪くして閉店してしまった。普通の民家をそのまま店にしていて、座敷で食事をしていると、親戚の家にいるような寛ぎを覚えたものだ。そもそもこの店に入るにはお寺の木戸をくぐるのだが、看板もなにもないから暗くなってからだとなかなか入口が見つからない。木戸を開けて中へ入っても、そこにはお墓と植え込みしかなく、心細いこと限りなし。なんとか家に辿り着いて玄関の戸を開けるまで、狐に化かされたような心持になるのだった。遠来の客をよくこの店に案内したが、みんな「明日になると消えてしまってるのではないかーまるで『雨月物語』に出て来る浅茅が宿のように」と面白がったものだ。娘の寿岳章子さんの本にこの店の座敷を描いたものがあり、今も昔のままだと記されていた。ブレイク研究家のYさんを案内しようと思っていたのに、この屋敷はもう取り壊されていまは新しい建物が建っている。持ち主も代わってしまったのではないだろうか。



 写真は寿岳文章・しず夫妻による『ウイリアム・ブレイク詩集』(復刻版 集英社 1990年)で、文章博士卒寿の記念に復刻されたもの。福光麻布に越前武生の手漉き和紙を使った贅沢なもので、表紙は芹沢銈介の型絵染め。わが愛蔵本です。




Dsc02990  1月15日(木)晴れ、時々小雪。以前は小正月のこの日が成人の日だった。またこの日に大学ラグビー選手権の決勝戦が行われていたので、振袖姿の女子大生を応援席に見かけたものだ。子どものころはこの日に母がお赤飯を炊いていた記憶がある。午前中、西院にある耳鼻科へ診察を受けにいく。暮れから通っているのに、なかなかすっきりと治らない。途中、西院の春日神社に立寄ると、どんど焼きの日とかで、宮司たちが舞殿で火起こしをしているところだった。白木をこすり合わせて火を起こし、その火を古いお札の山に点火、その間中祝詞が唱えられて、なかなか厳かなものでした。ここは藤原氏縁りの神社なので、巫女さんは頭に藤の花の飾りをつけている。参拝客はちらほらでしたが、まあ、これからでしょうか。帰り際掲示板を見ると、この行事は「どんど焼き」ではなく、「注連縄焼納祭」というそうです。氏子さんたちの手になるぜんざい(350円)をいただきたかったのですが、診察時間が迫っていたので諦めました。 診察のあと、右京図書館へ足を伸ばし、三条通天神川にある猿田彦神社の前を通ったら、今日は「初庚申の日」で、ここでも祭礼があってました。京都の町を歩くと、毎日のようにお祭や神社仏閣の行事に出会います。町歩きの楽しみでもあります。



 写真は西院春日神社の「注連縄焼納祭」どんど焼きのことです。


Dsc02982  1月14日(水)曇り。朝、愛宕山は麓まで真っ白で、朝日を浴びて白銀に輝いていた。今日は今年最初の「小右記」講読会。長和3年3月29日条から読み始める。石清水八幡宮の臨時祭が終わり、賀茂祭の準備にかかるところ。午後からはみんなで東寺の真言院(現在は灌頂院)へ、後七日御修法(ごしちにちのみすほ)を拝観に行く。これはかつて宮中で行われていた法会で、元日から七日まで行われる神事に続く、後七日間の修法(仏事)のこと。平安時代、真言院は内裏の西側にあり、そこに僧が集って正月8日から14日までの七日間、天皇の安泰、国家安泰を祈願して法会が営まれた。明治維新後は東寺に移されて、真言宗十八本山が集って行われている。14日は結願の日で、一般にも公開されるというので出かけたのだが、公開は12時半から1時間だけで時既に遅し、間に合わなかった。残念だったが、僧侶が歩く置き道(幅1メートルほど砂が一段高く盛られた道)を見、へえ、いまもやっているんだと感心させられた。せっかく来たので塔頭の観智院(国宝)を拝観す。宮本武蔵作と伝えられる客殿の襖と床の間の絵を見たあと、本尊の五大虚空蔵菩薩像を拝す。これがよかった。この五大虚空蔵は、もともと唐の長安の青龍寺にあったものを、847年、恵達という僧が持ち帰ったもの。獅子、象、馬、孔雀、カルラに乗った菩薩像はすらりとしたお姿で、しばし見とれてしまった。しかしお寺は寒い。襖も障子もすべて開け放たれているので気温は屋外といっしょ。後七日御修法を見ることはできなかったが(来年ぜひ!)、観智院の五大虚空蔵菩薩像に会えて何よりであった。虚空蔵さんから広大無辺の智恵を授かったのであればいいのだけど。



 写真は東寺の客殿。法会を終えて平常の衣に戻った僧侶たちが、次々に帰途についていた。


Dsc02973  1月13日(火)曇り、時々雪。今朝の5時ごろ西の空に満月が輝いていたが、いまは小雪がちらついている。この三連休、ずっと冷え込みが厳しかったが、しばらくは厳寒の日々が続きそう。忘れないうちに10日(土)のことを記しておこう。10日の午後から女性史研究会の例会で醍醐行き。この日は天理大学の安井真奈美さんによる、「女性の身体と産婆の近代―『奈良県風俗誌』をもとにして」という研究発表があった。この「奈良県風俗誌」とは1915年、奈良県下全域の市町村で行われた大規模な民俗調査の報告書集で、出版されないまま、現在は奈良県立情報館に保管されているもの。安井さんはその膨大な資料の中から出産風俗に関するものを抜き出して研究をまとめておられた。近代的知識を持った新産婆の出現によって、古い出産風俗が変化していく様子、あるいは改善されなかった習俗など、多くの例によって示され、なかなか興味深い話であった。大正末期から昭和初期にかけて、全国的に同じような民俗調査が行われたそうだが、奈良県のように調査報告書が活字になっていないところが少なくないのではないか。時代の変遷を知るには恰好の資料だが、研究者以外の者には読む機会がないのは残念。民俗調査でパラオ諸島の小さな島に一ヶ月滞在したことがあるそうで、パラオは親日派が多いので安心だったといい、「キンタロウという姓の住民もいましたよ」など、興味深い話を聞いた。そういえば九州の知人に大のパラオ好きがいて、向こうで撮った写真をよく見せて貰ったことを思い出した。パラオは戦前日本の統治下にあり、多くの日本人が入植して、パラオの人々に日本語教育を行ったという。第二次戦争では米軍との激戦地となり、その戦跡がそのまま残されているそうだ。観光で訪れた日本人はぎょっとするのではないか、でも歴史の証人として次の世代に遺し伝えるのは大事なことにちがいない。



 写真は神泉苑にある歳徳神を祀る社。傍らの案内板には、わが国唯一の歳徳神を祀る社、と書いてありました。今年の恵方は東北東だそうで、この社はその方角を向いている。(節分の日、その年の恵方を向いて巻寿司の丸かぶりをすると縁起がいいという、風変わりな習慣が関西にはあって、びっくりしました。寿司屋、あるいは海苔業者の陰謀ではないかしらね)


Dsc02965  1月12日(月)雪。昨日は一日在宅して読書。合間に録画しておいた大学ラグビーの決勝戦、早稲田―帝京大を観る。20対10で早稲田の勝ち。去年の対抗戦では帝京が勝っていたのでもしや、と思ったが、早稲田は強かった。早稲田の勝因はやはりあのスピードと何よりも常勝チームならではの試合運びの巧みさにあるのではないか。試合慣れ、しているのである。帝京に反則が多すぎたのも痛かった。暮れに思わぬ敗戦を体験して、早稲田は相当帝京を研究し、戦略を練ってきたにちがいない。午後からは京都で行われた都道府県対抗女子駅伝をTVで観戦。 我が家のすぐ近くを走っているのに出向いて応援することはなし。下馬評通り、京都が5連勝を果す。双子の中学生の軽やかな走りっぷりに感嘆す。まるでバンビか若いカモシカ(日本カモシカに非ず)のような爽快さ。



 一日読書といいながら、つれあいに付き合って日中のほとんどをTVを眺めて過す。ついでに箱根駅伝のハイライトまで見てしまう。なんともはや。



 ●大江健三郎『読む人間』(集英社 2007年)に、―「読む人間」は正確に「引用する人間」でなければならない、それが文化を受け継ぐことだから、―という一文あり。この人の本のスタイルが、いつもダンテやブレイクなど、時々に読んでいる本の引用から始まる、ということをあらためて認識す。優れた先達の知恵を受け継ぎ伝えていく、ということも作家の仕事の一つなのだろう。



 写真は下京の仏光寺通り辺で見かけた鐘馗さん。京都の町を歩いていて、一番目に付くのが町家の軒先に立つ鐘馗像と仁丹マークの町名板、そして町の辻辻にある地蔵堂である。鐘馗さんは、沖縄のシーサー同様、厄除け・魔除けのためにあるのだろう。この鐘馗さんを眺めて廻るだけでも京の町歩きの楽しみがある。


Dsc02970  1月10日(土)雪。昨夜は夜半過ぎまで本を読んでいて、今朝目が醒めたのは7時近かった。三連休の初日とて助かる。枕元に積んだ本を片付けてカーテンを開けて見た外の景色がこの写真。雪雲が低く町を覆って、山々は真っ白。愛宕山は雲の中で、写真の山は嵐山、松尾山。小塩山や天王山の方も真っ白に冠雪してすっかり冬景色。



 昨夜、北海道に住む友人から電話あり。厚岸の牡蠣を送るとのことで、ついでによもやま話をする。大晦日の紅白歌合戦を見たかと言うので、子どもたちが見ているのをちらちら眺めた程度かな、と応えると、「審査員席に姜尚中がいたよ。なんだか場違いな感じだったなあ」。へえ、そうだったんだ。でも悪くないのではないかしら。昨夜読んだ『あの戦争から遠く離れて』は、残留孤児だった父親の半生を娘が歩いて辿った記録。父親は1941年、満州生まれ。終戦直前のソ連軍侵攻により両親と生き別れとなり、残留孤児として中国で育った。自分の出自を知った彼は必ず日本に帰るという信念のもと、あらゆる努力を惜しまず、1970年、ついに帰国。まだ日中の国交は回復しておらず、国による残留孤児帰国事業が始まる前のことで、まさに執念が奇跡を生んだようなもの。父親は中国での体験を話すことはなかったが、娘が中国に留学したいといったとき、初めて「残留孤児」だった自分に関する記事のスクラップを見せたという。残留孤児に関する本はわが書棚にも●林郁『満州 その幻の国ゆえに』(ちくま文庫)や●井出孫六『終りなき旅』(岩波書店)があるが、残留孤児二世による記録は初めて。残留孤児が日本へ帰国しても、伴った家族にとっては異国であり、新たな苦悩が生れる場合も少なくない。ただこの本の主人公は中国の養母や養母にかかわる縁者たちへ深い恩愛を抱き続け、その養母への感謝と慈愛の深さには圧倒された。顧みて我を思うに、離れて住む92歳になる母への感謝の念を忘れがちで反省。



 面白し雪にやならん冬の雨    芭蕉



芭蕉には「いざさらば雪見にころぶ所まで」という句もあるが、まだそんな風景ではないのが残念。



 写真は雪を被った嵐山。今日は一日こんな天気か。




Dsc02950  1月9日(金)曇り。承前。8日(木)、河原町のジュンク堂へ本を探しに行く。今年最初の町歩きなり。途中、烏丸松原の因幡薬師へ立寄る。毎月8日はここで手作り市が開かれているのだ。伏見のちりめん山椒店と手作りのカードを売るイラストレーターの店がお目当てなのだが、どちらも休みで見当たらず。そのまま松原通りを東に歩き、寺町の電機店でパソコン用品をいくつか求め、近くの三蜜堂古書店で古本を三冊ほど求める。



●紀野一義『禅-現代に生きるもの』(NHKブックス 1966年)



●椎名麟三『私の聖書物語』(中央公論社 1959年)



●向井敏『本のなかの本』(中公文庫 1990年)



 合わせて300円。ジュンク堂に目的の本見当たらず。六曜社でコーヒーを、と思ったが、御池通りまで出て、地下鉄で帰宅。御池の地下街(ゼスト御池)に人影は数えるほど。居並ぶ店は閑散としている。この地下街が烏丸通りまで貫通していたならば、もっと人通りも多いだろうにといつも思う。



 写真は上賀茂神社の宝船。昔の人はいい初夢を見るために、宝船の絵に「長き夜のとおの眠りのみな目覚め波乗り舟の音のよきかな」という歌を書きそえて、枕の下にしいて休んだという。これはよく知られた歌で、見事な回文となっている。さて、今年の初夢はどうだったのかしら、見たような見なかったような、目が醒めた途端に忘れてしまった。明恵上人や島尾敏雄のように、夢を記憶する訓練をしなければならないのかしら。


Dsc02943  1月9日(金)曇り。7日、北野の天神さんへ初詣に行く。上七軒の老松へお使い物の和菓子を買いに行くついでに。境内の梅の花はまだ数輪が開いているのみ。受験生らしい一団が揃って参拝していた。参道にある牛像の頭をみんながなでていく。天神さんまで来たので、北大路へ出て、紫野の今宮神社へ足を伸ばす。今宮神社の境内にはいろんな飾りつけがなされていて、お祭のような賑やかさだった。お正月らしい演出なのだろう。舞殿には等身大の稚児人形が巫女姿で立っていた。ここの東門を出たところに有名なあぶり餅店が向かい合って二軒あるのだが、この日はお休みで人影はなし。車に戻って、さらに上賀茂神社へ向う。この日は白馬の節会で、七草粥がふるまわれるはず。平安時代、正月七日に天皇が紫宸殿の南庭で白馬を覧、その後、群臣と宴を催した儀式。古く中国では、年の初めに白馬(あおうま)を見ると、邪気を除く効能があるとされていたことから日本でも行われるようになったもの。上賀茂神社の芝生の広場にある厩に今日は白馬がいて、その前に設置された幕屋で多勢の参拝客が七草粥をすすっていた。馬に挨拶したのち、本殿に参り、向拝の前に吊るされた宝船を写真に収める。



 駆け足で三社参りを済ませて帰宅。留守中にネット書店から宅配便が届いていた。



●城戸久枝『あの戦争から遠く離れて』(情報センター出版局 2007年)



●大江健三郎『読む人間ー読書講義』(集英社 2007年)



●鶴見俊輔『悼詞』(編集グループSURE 2008年)



 



 写真は上賀茂神社の白馬(あおうま)


Dsc02938  1月7日(水)曇り。承前。昨日のブログに、「正月早々、深刻なニュースが続く」として、不況による失業者の続出について書いた。それに続き胸痛む出来事として、イスラエル軍によるガザ攻撃のことを書くつもりだったのに話が逸れてしまった。フランス大統領が仲介に出かけたが、イスラエルの外相は、イスラム原理主義組織ハマスが戦闘をやめないかぎり、攻撃をやめるつもりはない、と強硬な姿勢を崩さない。しかし多くの市民を犠牲にした無差別攻撃は赦されるものではない。イスラエル軍の爆撃はガザ地区の学校をも直撃した。ハマスが学校に潜んで攻撃してきたからというのが理由。TVニュースに映る、傷ついて泣き叫ぶ子どもや恐怖のあまりただ虚ろな目を見開いたままの子どもたちの姿を見るにつけ、いたたまれない思いになる。イスラエルの人たちに訊きたい。「あなたたちの神はそれを許されるのか」と。中学生のころだったと思うが、「栄光への脱出」という映画を見た。好きな俳優のポール・ニューマンが出ていて、ドラマチックな主題曲も記憶に残っている。イスラエル建国の物語だが、あのころは、イスラエル建国によってその土地を追い出されることになったパレスチナの人々に思いが及ぶことは全くなかった。無知蒙昧ゆえに。パレスチナの人々はもう2000年近く、その土地に住み続けているというのに。第二次戦争が終って5年後に朝鮮戦争が勃発し、アメリカ大統領が再び原爆を使用するかもしれないという噂を聞いた詩人の原民喜は「もうこれ以上、耐えられない」と絶望のあまり自ら命を断った。彼は広島に落とされた原爆で被爆していた。イスラエルとハマスの戦いも未来の展望が見えず、「もうこれ以上、見ているのには耐えられない」と絶望的になる。



 ●ガッサン・カナファーニーの『ハイファに戻って』(河出書房新社 1978年)を読む。カナファーニーはパレスチナ難民の声を物語に記した作家だが、それゆえ、1972年の夏、車に仕掛けられた爆弾によって殺された。『ハイファに戻って』はイスラエル建国によって、家を追われたアラブ人夫婦が、移住地がイスラエルの占領地となったおかげで、昔の自宅を訪問するという話。夫婦はイスラエル軍に追放される際、自宅に幼い男児を残していた。その息子はイスラエル人に育てられ、19年ぶりに会う両親に敵対する。何とも皮肉で悲惨な物語である。人間は歴史に学ばない、ということを痛感させられる一方で、どうにかして武器を棄てて共存する道はないものかと思う。そのために国連はあるのだろうに。アメリカをバックにしたイスラエルは強い。パレスチナなど力ずくでねじ伏せることができるだろう。だがそれが近代国家のいう本当のデモクラシーだろうか。少数派の声も聴き、共存できる社会を創ることこそ、これから望まれるあり方ではないだろうか。そんなことじれったい、話合いが平行線で不可能だから武力で解決するのだ、と言われれば人間の叡智はどこにいったのかと天を仰ぐしかない。



 写真は紫野の今宮神社。西陣の人たちの信仰篤い社。春のやすらい祭で有名。 


Photo  1月6日(火)晴れ。穏やかな年始。京都盆地を囲む山々は比叡や愛宕山の山頂付近がまだ白いものの、元日のような冠雪はなし。昨日、半日がかりで正月用品を片付け、今日から我が仕事始め。



 正月早々、深刻なニュースが続く。寒空の下、仕事を失い、住む場所も失くした人たちのあまりの多さに言葉もない。ワークシェアリングという方法が実現できないものだろうか。不景気だからすぐ人員整理というのではなく、痛みをみんなで共有し、業績が上向くまで給料を減らして我慢しあう、ということができないものか。甘い、夢物語、だと笑われそうだが、それぞれの仕事量を半分にして給料も半分、失業者を出すよりもいいと思うのだが。昨日、滋賀県の嘉田知事は年頭記者会見で、失業対策として、県内で千人程度の雇用を創出すると表明した。林業や子育て支援、介護、伝統産業などの分野で働く場をつくりたいとのこと。ぜひ実現してほしいものだ。町に野宿者(ホームレス)を見かけるたびに思うのだが、人手不足の職場はたくさんあるのだから、そんなところで働いてもらうわけにはいかないものかと。例えば山林の保守整備。日本の山林は安価な外材に負けて、手入れもされないままだというから森の再生のために活躍してもらうことはできないものか。



 若い頃、カナダの森林監視員だという女性に会って、その仕事に憧れたことがあった。深い森の中に住み、森の安全を守る仕事だということだが、怖くはないかという私の質問に彼女は、「犬がいるから平気よ。でも一番近いところでも仲間がいる所とは20数キロ離れているから、通信は大事ね」。孤独に耐え得ること、身を守る技と力を持っていること、その二つさえクリアできれば、読書と思索の時間がたっぷりある、いい職場だと彼女は笑った。仕事であれば、ソローの「森の生活」のようにはいかないだろうが、自分には想像もつかない自然の中の暮らしというものに、憧れたものだ。到底不可能だと知りながら自給自足の生活というものに憧れている。少女時代にわくわくしながら読んだ「ロビンソン・クルーソー」や「十五少年漂流記」の世界からまだ抜け出していないのかもしれない。



 新玉(あらたま)の 扇一つを 命とも  はん女



 武原はんが亡くなったとき、お棺の中に大佛次郎の写真を入れてやったという。なんともいえない、いい話。



 写真は祇園のちりめん山椒店で。お正月飾りの餅花。


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