2009年08月

Dsc04875  8月30日(日)晴れ。昨日の土曜日は朝から名古屋行き。友人がいるので岐阜へはよく出かけるが、名古屋にはあまり縁がない。いつも新幹線で通りすぎるだけである。昨日は用事があって出かけたのだが、午後には用件も済んだので、おのぼりさんよろしく、名古屋城とノリタケミュージアムへ寄ってきた。徳川美術館へは何度か行ったことがあるので、昨日はパス。「尾張名古屋は城でもつ」といわれるが、全くその通りで、どこへ行っても城と鯱ばかり。いや、それしかないという感じ。東京、大阪と並ぶ日本三大都市なのに、町のイメージというか、町から受けるインパクトが何となく弱い。目玉の名古屋城は戦災で焼失したため、昭和34年の再建というから大坂城と同じだが、外観はともかく中身がいささか乏しく思われるのは残念なことだ。名古屋城に比べると大坂城は歴史博物館としての役割をよく果していると思う。名古屋城で印象に残ったのは正門近くにある樹齢600年という大きな榧(かや)の木と、空堀で草を食んでいた鹿たちの姿である。



 ノリタケミュージアムで古い磁器や、近年ノリタケで作られたデザイン皿の編年展示を見る。我が家で使っている食器は1984年度のもの。その前後のデザインに見慣れたもの多し。ノリタケの社名は、工場がある則武という地名からつけられたそうだ。創業者の名前だとばかり思っていたのだが。



 高遠のブックフェスティバルにも行きたかったが、急な用事で名古屋行きとなったため、諦める。今朝、博多の子どもよりメールあり。「昨日、太宰府の国立九州博物館で「阿修羅像」を見てきた、入場に一時間待ちでした」、とのこと。太宰府には天平18年(746)、天智天皇によって建てられた観世音寺がある。ここには戒壇院があった。「観世音寺にもいい仏さまがあるから、ぜひ拝んでおいで」とメールの返事を書く。 


Dsc04782  8月28日(金)晴れ。ふと思い立って、備前市の伊部へ行ってきた。備前焼の窯元が集中しているところで、鎌倉時代からの古い焼き物の里である。新幹線で岡山まで行き、赤穂線で30分ほど戻るのがいちばんなのだが、今回は新快速を乗り継いでいくことにした。京都から播州赤穂行き新快速で約2時間、赤穂から伊部まで約30分、赤穂線に乗るのは初めてだったが、小豆島行きフェリーが出る日生港などを通り、なかなか快適な電車の旅であった。備前焼は日本の六古窯の一つで、千年の歴史を持つ。伊部駅は駅舎が備前焼会館になっていて、駅の階上に現代作家の作品が展示即売されていた。伊部を訪ねるのは初めてで、案内図を手にDsc04796 歩いてみた。駅前を国道2号線が通り、車の往来がかなりあるが、道路を渡ればもう静かなもの。佐賀の有田にも似た雰囲気で、窯元だとわかる煙突がいたるところに目につく。京都の清水焼は煙害を避けるために、窯元が大挙して山科や宇治に転居したそうだが、伊部ではまだ薪窯が健在なのだろう。煙突の周りに山のように薪が積み上げられていて、その周りに陶片がごろごろしている。江戸時代の窯・天保窯(備前市指定文化財)を見たが、覆屋をかけ、大事に保存されていた。備前焼の店が並ぶ通りの一角に天津神社があった。参道には備前焼の陶板が敷かれ、社の屋根も狛犬も備前焼。本殿への階段の横には窯印を刻んだ陶板が奉Dsc04798_2 納されていて、まるごと備前焼、といった趣の神社である。そういえば有田にも有田焼でできた鳥居が立つ陶山神社があったっけ。



 駅前の備前焼陶芸美術館で古い備前焼を見る。古いものはどうしてこんなにいいのだろう。信楽もしかり、伊万里も丹波も常滑も。古いからいいと限らないのは人間だけなのかしらね。



 2時間ほど伊部の町を歩いて、再び列車に乗り、播州赤穂まで戻る。伊部の駅は民間委託されているのか、駅員さんは町の人であった。伊部の町は落ち着いた雰囲気でよかった。10月の陶器市のときはすごい人出だそうだが、今日は通りにほとんど人の姿はなく、ゆっくりと歩くことができた。どの店先にも季節の花が飾られ、重厚、堅実、それでいて温かみのある備前焼に相応しい店構えで、華やかではないけれど趣のある町であった。今日は行けなかったが、今度は紅葉の時期に、伊部の北東にある閑谷学校を訪ねたい。南大窯という鎌倉時代の古い窯跡も見たいし。



 写真上は伊部駅前にある窯元。中は天津神社。下は天津神社に奉納された備前焼窯元の窯印陶板。


Dsc04774  8月27日(木)晴れ。朝、九州のIさんより電話あり。急にパリへ行くことになったので、京都行きを延期するとの連絡なり。詳しいことは帰国してからということで了承す。2週間の予定というから、9月半ばは会えるだろう。



 京都市中の老舗には、よく知られた人の手になる看板が掲げられている。書と篆刻をよくした魯山人の「柚味噌」は有名だが、竹内栖鳳(「春芳堂」)、富岡鉄斎(「桂月堂」「彩雲堂」)、西田天香(「蕎麦ぼうる」)、武者小路実篤(「亀屋良永」)など、味わい深い文人たちの書を見るのDsc04775 は、なかなか楽しい。今日、近所の家の門前にこんな木札を見た。このお宅は四条通りの北側にあるかなり大きな邸宅で、門の中を覗くと(お行儀が悪いと思ったのだけど)、「朱雀院跡」と刻まれた石柱の上にしだれ桜が枝を差し伸べている。どんな人が住んでいるのかしら、と思いながら大きな長屋門を見上げる。この表の看板を書いたのは実篤らしい。



 京都精華大学からDVD「吉本隆明語るー思想を生きる」が届く。精華大学の開学40周年記念事業の一環として、作成されたもの。以前、精華大学の図書館を取材で訪れたことがある。マンガ学部ができて話題になってたころで、壁いっぱいのマンガ本に目をみはったものだ。開架図書の一画に女性問題のコーナーがあり、それはここの教員だった上野千鶴子の研究室にあったものだという。ここは登録すれば(無料)年間自由に利用できるというので、近所の子どもたちがコンピューターコーナーに群っていたが、いまもそうだろうか。


Dsc04514   8月25日(火)晴れ。昨日は中野重治(1902-1979)の命日だった。中野重治が亡くなって、もう30年になる。久しぶりに中央公論社から出ている『愛しき者へ』という書簡集を開いたら、中に、重治の遺言状という記述があった。昭和20年(1945)6月23日付で、戦争末期、臨時編成による防衛召集があり、43歳の重治は東部第186部隊に入隊することになった。その折に記されたものらしい。



自分の死後、遺稿出版などについては「驢馬」同人に編集をしてもらうこと、出版については筑摩書房の古田晁に相談すること、蔵書は金に代えてもいいが、分散しないこと、などと書かれた中に、



青染付鉢、今モ望ミナラバ、窪川稲子ニ贈ルコト」「柳田國男氏ニ深ク感謝ス」「余ガ日本文学ニ貢献出来ナカッタコトハ残念デアル



などという言葉もある。窪川稲子は佐多稲子のこと。この佐多稲子がのちに中野重治のことを書いた『夏の栞』は極上の恋愛小説である。勿論、二人が恋人だったというわけではない、だが、ここに書かれた男女のつつまやしかな(抑制の効いた)心の通い合い、というものは、何にもまして深い愛情を思わせる。二人は文学、そして思想上の同志であったから(戦前の思想弾圧の苦しみをもろともに受けている)、お互いを理解者として尊重しあっていた。私は中野重治の長編小説を未だに読めないでいるが、(なんだか言い訳の文学、という気がしてどうも敬遠してしまうのだ)この書簡集は何度読んでも心に残るものがある。



 北陸を旅するたびに、福井県丸岡市にある中野重治記念文庫に立ち寄りたくなる。市立図書館の中にある小さいが中身が詰まった文庫である。重治の遺言通り、蔵書は分散されることなくこの文庫に収められている。原稿や書簡、書き込みのある蔵書など、身近に触れていると、戦前戦後を誠実に生きた文学者の声が聴こえてくるような気がする。



 写真は鴨川の河原に咲いているオミナエシ。もう秋の気配が。


Photo  8月24日(月)晴れ。週末の両日、TVで世界陸上ベルリン大会のマラソン競技を見る。日本選手は男子が5人、女子4人の参加で、男子の佐藤敦之が6位入賞、女子は尾崎好美が銀メダル、加納由里が7位入賞と健闘した。男子の藤原、女子の藤永はいずれも諫早高校出身、初出場ながら完走したのはよかった。体験を積むのもトレーニングの一つ、海外での競技に参加できて、また大きくなるのではないか。ベルリン大会のマラソンコースは町の中を4周するもので、道路が広くなったり狭くなったり、またうねうねと左右にコーナーが多く、選手にとっては走りづらそうだったが、ベルリンの町並みを眺めることができて、TVで観戦する方は飽きなかった。マラソン競技を初めて見たのは東京オリンピックだったと思うが、42キロを走ってなおも悠然としていたエチオピアのアベベ選手に驚異を覚えたものだ。今年もやはりケニヤやエチオピア勢が強かった。アフリカの選手たちの体は全身がバネという気がする。



 ●松本道介『視点』(邑書林 2000年)を読む。10年ほど前の「季刊文科」に連載されたものだが、「福田和也への失望」だとか、「『日蝕』のいかがわしさ」などの項をいささか共感を持って読んだ。



 写真は近所の町家の玄関先に見かけたゴーヤ。立派に実っています。


Photo  8月22日(土)晴れ。午後、中央図書館へ調べ物があって出かけたら、道中、そこかしこに地蔵盆を見かけた。私は京都に来て、初めて地蔵盆を知ったが、これは関西だけの行事だろうか。京都では各町内ごとに地蔵尊が祀られていて(複数の地蔵尊を持つ町もある)、その数およそ数千と聞いたことがある。お地蔵さんは子どものお守りだから、夏の終わりに子どものための行事として始まったのだろう。地蔵尊を清め、所によっては顔に彩色し、供え物をして、大人も子どもも、23,24の両日、地蔵堂の前で過す。最近は大人の都合で、それに近い土・日に行Photo_2 われるところが多い。子どもがいない町内では、日盛りにお年寄りが集って「老人会みたいどっしゃろ」。京都の友人の話では、「地蔵盆が終わるとみんな慌てて夏休みの宿題をしといやした」そうだ。子どもの数は減っても地蔵盆は盛んで、貼り出された行事表を見ると、「くじ引き」「数珠繰り」「ゲーム」など、目いっぱいのスケジュールである。道路を占拠するので、この二日間、京都市中の路地は通行止のところが多い。



写真下は聚楽廻り付近で見かけた地蔵盆。珍しく子どもの姿が多い。 


Photo  8月21日(金)晴れ。伏見街道の直違橋通りを歩く。この辺りは戦争中、陸軍の第16師団があったところで、現在は教育大学や聖母学院などが立ち並ぶ学園通りとなっている。赤レンガの美しい聖母学院校舎は旧師団司令部の建物で、ここの2階にある師団長室に、1939-41年、かつて関東軍参謀だった石原莞爾がいた。ちなみに、京都の陸軍第16師団は1944年にフィリピンのレイテ島やサマール島などに派遣され、殆んどが戦死。戦地に赴いた18000名のうち、生還したのは僅か580名だったという。



 この付近を歩くと、通りや疏水にかかる橋の名前などに戦時中を思わせるものがいくつも眼につく。師団通り、第一軍道、第二軍道、師団橋など。名前だけではない、師団橋の橋桁には陸軍のシンボルマークである「★」も残っている。以前、この聖母学院のPhoto_2 三俣俊二教授の案内で、伏見のキリシタン遺蹟を訪ねたことがある。また、日曜巡礼として、明治の初期、浦上四番崩れで近畿に配流となった長崎キリシタンの足跡を辿ったこともあった。 かつては軍都伏見、いまは学園都市とでもいおうか。伏見といえば伏見城が築かれた秀吉の時代の方が親しいが、戦争遺構がある町としても貴重だろう。



 写真上は聖母学院(旧陸軍第16師団司令本部)。下の写真は街道にある銭湯の看板。



 ●半藤一利の『昭和史』(上・下)を再読し、つい同じような本を続けて読む。●保坂正康『昭和史の教訓』、『昭和史の一級史料を読む』『あの戦争は何だったのか』など。読めば読むほど、「日本人は歴史に学ばない」と溜息をつきたくなる。


Photo  下鴨にある河合社の境内に、鴨長明(1155-1216)の『方丈記』の家が復元されている。『方丈記』に、「その家のありさま、世の常にも似ず、広さはわずかに方丈(3メートル四方)、高さは七尺(2.1メートル)がうち也」と記されている通りの、四畳半一間のプレハブ小屋。シンプルライフここに極れり、と言いたい住まいで、常々、カタツムリのように身一つで暮したいと願う私には理想のマイホームなり。ただし現代では、このプレハブ小屋ごと移動して、どこでも好きな場所に住む、ということはできないだろうから、21世紀の「方丈記」は実現しそうにない。下鴨神社の禰宜の家に生まれた長明は、父親の跡を継いで自分も社の禰宜になりたいという希望を持っていたが、実現できず、得意の和歌や琵琶で暮らしをたてていた。そのうち後鳥羽上皇に認められて院の北面に仕えるようになる。あるとき、下鴨神社の摂社河合社の禰宜の座が空いたので、後鳥羽上皇が長明を任命しようとしたところ、神社側の猛反対にあい、それを嘆いて長明は上皇の元を去り、出家隠遁してしまう。彼が日野の山中に方丈の家を建てて住み着いたのは55歳のときというから、当時でいえば最晩年に近い。



 世を捨て、旅に生きた漂白の詩人といえば、西行、芭蕉、近くは山頭火が思い浮ぶが、彼らとて現世と全く離れていたわけではない。みんな出家した後の方が、却って自由に身分を超えた付き合いをしている。世外の人だkらこそできる役割があったのだろう。長明も日野に隠遁した後、鎌倉へ出かけ、源実朝と会ったりしているのだ。



 さて、復元された方丈庵には丁寧にも覆屋がかけてあり、「仮の庵もややふるさととなりて、軒に朽葉深く、土居に苔むせり・・・」という風情は望めそうもない。しかし没後800年近くたったいま、あんなに禰宜になりたがっていた神社に祀られているわけで、泉下の長明の心境やいかに、と思う。



 ●中村哲さんの著書『医者、用水路を拓く』(石風社)が農業農村工学会の学会賞(著作賞)を受賞したという。旱魃に苦しむアフガニスタンに農業用水路建設を進めてきたペシャワール会の活動報告書である。砂漠化していた大地に6年がかりで24キロメートルの用水路を造り、このほど完成した。現地の人々の手で造ることをモットーに、医者である中村哲さんが土木技術を独学してみんなを指導したという。水があれば命が助かる、という思いから始まった事業で、現地の人々に仕事の場をつくり、現地の人々が工事に携わることで以後も用水路の管理をすることができ、農地が復活することで難民とならずにすむ、一石三鳥の事業であった。その経費のすべてはペシャワール会の会費や寄附でまかなわれたという。企業に丸投げされる国際援助(税金を使った)とは大違いである。


Dsc04763 8月19日(水)晴れ。子どもたちがいなくなって、久しぶりに静かな朝。朝食の準備もあっという間に終わる。家事をすませた後、机の周辺に積み上げた本の整理にとりかかる。増える蔵書の置き場所を確保するために父親は引越しを繰り返したと、湯川秀樹が父・小川琢治のことを書いていたが(自伝『旅人』)、我が家の場合、そんな贅沢なことは到底できない。便利なところに住む代わり、キャパシティは限られる。「わが家はいよいよ小さし」(伊東静雄)である。整理していると、同じ本がいくつも出てくる。買ったことを忘れて購入したのだろう。物忘れは昨日今日のことではないが、確実に進行しているらしい。用心しなければ。(でもそれも忘れてしまうに違いない)。



 17日、宇治で鵜飼船を見た。昼間の鵜は中ノ島にある小屋の中で休憩中。嵐山や岐阜の長良川で鵜飼を見たことがあるが、宇治には女性の鵜匠がいてなかなかの人気らしい。長良川の鵜飼といえば、芭蕉の「おもろうて やがてかなしき 鵜舟哉」を思い出す。ここの鵜飼は1300年の歴史があり、皇室御用の鵜飼を勤める鵜匠は宮内庁職員(国家公務員)だと聞いた。毎年、長良川の鵜飼に誘ってくれたKさんが亡くなって2年になる。Kさんが元気なころは、みんなで暗い川面に鵜飼舟の篝火が映えるのを、夏の風物詩だと愉しんだものだが。



 韓国の元大統領金大中氏が亡くなった。ずいぶん前、李恢成の小説『見果てぬ夢』を緊張感をもって読んだ覚えがあるが、この物語の登場人物の一人は金大中氏がモデルになっていたのではないか。祖国の民主化運動を進める人物として。長編小説『見果てぬ夢』(全6巻)が出たのは30年も前のことだ。



 写真は鵜飼が行われる宇治川。昼間は観光客が川べりの屋形舟で食事を愉しんでいました。


Dsc04751  8月18日(火)晴れ。横浜へ帰る子どもたちを見送りに京都駅へ行く。新幹線のホームは上下線ともツーリストでいっぱい。2、3分おきに発車しているのに、どの列車も満席に近い。子どもたちは「横浜の開港記念祭を見にきてね」と言い、手を振って去っていった。わが夏休みもこれで終了。帰宅して急に広くなった部屋を眺める。冷蔵庫の中は見事に空っぽ。ついでに財布の中身も寂しくなった。今年は九州に行ったので取りやめたが、来年のお盆休みは例年通り八ケ岳に行くことにして、甲斐大泉にあるホテルへ電話して来夏の予約をする。



Dsc04758 写真上は16日の夕方、お供えを流しにいった壬生寺。宗派は異なる(壬生寺は律宗)が、我が家では毎年お盆に万燈を壬生寺に奉納している。16日の夜はお供えを流しに行って、万燈や六斎念仏を見るのだが、今年は早めに出かけたので、六斎念仏が始まる前に帰宅。午後8時からの送り火をゆっくりと見ることができた。数年前まで、我が家から6つの送り火が見えていたのだが、丑寅の方角にビルが建ったので、妙・法が見えなくなった。亡くなったつれあいの両親は京都の我が家を知らない。お盆の入り、迎え鐘を撞くたびに、お精霊さん、迷わず京都へきてください、と祈る。嵯峨野の曼荼羅山に浮ぶ「鳥居形」が消えるまで、子どもたちとベランダで送り火を眺めた。



 写真下は17日、子どもたちの希望で訪れた宇治の平等院鳳凰堂。炎天下でも観光客が列をなしていた。ミュージアム鳳翔館で久しぶりに大好きな雲中供養菩薩と対面す。仏像は信仰の対象だから、本当はお堂の中でお会いしたいもの。だが、近年、どこの寺院でも火事などの災害を怖れてコンクリート製の宝物殿に仏様を収めている。文化財とあらば仕方がないが、正直いって興ざめというか、寂しい。昔の仏さまはどんなに小さなお寺のご本尊でも実に美しいお顔をしている。長年、人々に拝まれ、尊ばれてきたからだろうか。それよりもなにより、仏像を作る人たちの信仰心があのようなお顔を産んだのだろう。



 朝、ベランダに蝉の屍骸を見つける。いよいよ夏も終わり・・・。



 やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声  芭蕉 


Dsc04702  8月16日(日)曇り。久しぶりにお盆休みを九州で過してきた。初盆を迎える親戚を博多に訪ねたあと、我が家の菩提寺へ。京都に引越してからはなかなか墓参が叶わず、つれあいの両親の命日やお彼岸、お盆にお供えを送るだけだったが、今回はゆっくりとお参りをすませてきた。生きている間はまあ心穏やかならぬこともあったが、亡くなってしまえばもう忘却の彼方。いずれは自分もいなくなり、現世でのあれやこれやを知る人はいなくなる。離婚した女性が自分の墓を買いにいく、という場面から始まる林京子の小説、『三界の家』を共感をもって読んだこともあったが、いまはもうどこに眠ろうが、こだわりはない。(できれば遺骨など残さず灰にして、海に撒いてもらいたいと思っている)。



 この前静岡で起きた地震で、本に埋れて亡くなった女性がいた。床に積んでいたDsc04746 本の山が崩壊し、体を圧迫したせいだという。(亡くなった女性には悪いが)、本好きとしては本望か、と思ったことだ。膨大な蔵書を有していたことで知られる評論家の草森紳一に『本が崩れる』(文春文庫 2005年)という著書があるが、文字通り、天井まで積み上げた本が崩れて、トイレだったか風呂場だったかに閉じ込められた時のことが書かれていた。本は凶器にもなりうる。でも、好きな本に囲まれて逝くのなら、悔いはないのではないかしら。



 お盆休みで帰省中の子どもを連れて、昨日の午後、下鴨神社の古本まつりへ行ってきた。糺の森の木々が深い陰を落として、本を探す人々の体を緑に染めている。一通り見て廻り、東洋文庫の『長崎日記・下田日記』(川路聖謨著)など数冊もとめて帰宅。夜、同じマンションに住むTさんより電話。種から育てたカラスウリに花が咲いたから見においで、というので中庭へ下りていく。マンションの庭の梅の木にからんだカラスウリに白い花が数個咲いていた。レース細工のような繊細な花。種を蒔いてから5年目にようやく咲いた、とTさん。私はもう5年後のことなど、考えられないでいる。



 写真上は大阪(伊丹)空港近くの池に作られた人工島。日本列島の形をしている。伊丹から飛ぶたびに、この島をみて、面白いなあと思う。下の写真は昨日の古本まつりで見かけた紙芝居の様子。親子連れでいっぱいでした。


Dsc02118  8月11日(火)晴れ。午前中、月に一度の勉強会(火曜会)で、Sさんと会う。しっかり予習をしてきたSさんに比べて、当方、テキストを読んだだけという体たらく。大いに恥じ入り、反省す。午後2時前に散会し、急いで下鴨神社の古本まつりへ直行す。時間がないので、駆け足で本を探すが、お目当ての本は見つからず。小一時間ほどいただけで町に戻る。久しぶりにお盆休みを九州で過すことにしているので、そのための買物をいくつか。



 ●ダン・ツゥイー・チャム『トゥイーの日記』(経済界)を読む。ベトナム戦争に従軍し、27歳で戦死した女性医師が遺した日記。戦場で入手したアメリカ兵が持ち帰り、35年後にベトナムの遺族のもとに返還され出版された。この日記が遺族のもとに届けられたとき、医師の父親は既に亡くなっていたが、81歳になる母親や妹は健在で、『日記』が出版されたため、かれらは有名人になっていたという。ベトナム戦争が終わってからもう30数年になる。1960年代はベトナム戦争、中国の文化大革命、とアジアが大きく揺れたときだった。ベトナム戦争はどうみても大人(アメリカ)と子ども(ベトナム)の戦いだったが、核兵器以外のあらゆる兵器をつかっても戦いになんの理念も持たない大国が負けた。TVニュースでサイゴン陥落の様子が流れたときのことはよく覚えている。あのころ観た映画に『キム・ドン』というベトナム映画があった。まだ仏領インドシナ時代、15歳になる少年が解放戦線に協力し、やがて彼等を助けるため、囮となって敵を誘い、命を失うという物語。少年の名前はキム・ドン、戦争映画だが、ベトナムの自然が実に美しく描かれていて、詩情あふれる映画となっていた。(以前、アイルランド戦争を描いた『麦の穂を揺らす風』を見たとき、『キム・ドン』を思い出した)。開高健の鬱や日野啓三の非日常性に、ベトナム戦争の影を思うのは私だけだろうか。それにしてもこの日記に書かれた戦場の悲惨さはどうだろう。若い女性らしい細やかな心情も率直に綴られているだけに、戦争の理不尽さがいまさらのように思われたことだ。



 写真は下鴨神社の糺の森で開催中の「京都納涼古本まつり」。16日までです。


Photo_2  8月11日(火)晴れ。朝、5時過ぎ、居間で新聞を読んでいると、本棚がカタカタと音を立てて揺れた。結構長い間、小刻みに揺れていて、TVを点けると地震発生のニュースが流れていた。震源は静岡というので、すわ、東海地震の前触れかと思ったが、気象庁の発表ではそうではない、とのこと。横浜に住む娘にメールすると、慣れてしまって震度4くらいでは驚かない、みんなまだぐっすりです、との返事。台風に地震、これ以上、何事もなければいいが。



 ●車谷長吉『阿呆者』(新書館 2009年)を読む。怖いもの見たさ、とでもいおうか、好きというわけでもないのに、この人の新しい本が出るたびに読んでしまう。Photo_3 小説はそうでもないが、エッセイの類は繰り返し同じことが書いてある。これが他の作家であれば、「芸のないモノ書きだなあ」と放り出すところだが、何故かこの人の話は何度聴かされても飽きないのだ。捨て身の強さといおうか、開き直りもここまで徹底すれば至芸といえようか。



 「私は無能の人であるので国家には何も貢献できない。また貢献する気もない。従って基本的には国家から何か自分の利になることをしてもらいたいとは一切考えていない。国の政治について思うことは、アメリカ合衆国の属国であることを脱し、独立自尊でやって欲しいと願っているだけである。」(「政治について」)



「戦前は文士など人間の屑だった。世間の人はみなそう看做していたし、本人もそう自覚していた。それが戦後、変った。文士が大きな顔をするようになった。日本文学の堕落は、ここからはじまった」(「芥川賞と直木賞」)



 毒にも薬にもならないというが、この人の文章には毒も薬もある。身一つで生きてきた人の捨て身の強さがある。「詩人の嫁はん」のことを書くときだけ、トーンが高くなってうわずるところがおかしい。



 写真上は近所の店のウインドウに飾られたほうずき。下は駅前の公園に咲いている百日紅の花。


Photo  8月10日(月)雨のち曇り。台風のせいで岡山、兵庫に大きな被害が出ている。美作、佐用など、来月訪ねる予定なので、心配になる。昨日は長崎の原爆忌だった。夜、NHKのハイビジョン放送で、「ヒロシマナガサキ 全米に届いた被爆者の声と原爆の真実」(再放送)を見る。カメラに真直ぐ向かって、自分の被爆体験と現在の心境を語る被爆者一人一人の言葉に胸が詰まる。下平作江さんは11歳のとき、長崎で被爆、家族のほとんどが爆死して、妹さんと二人生き残ったが、その妹さんは原爆症と貧困に耐えられず、のち自死。天涯孤独で戦後を生き抜いてきた。「こんな思いをするのは私たちが最後であってほしい」本当にそう願う。長崎市長による平和宣言はオバマ大統領の「核兵器なき世界をめざす」という提言を支持していた。



●清水真砂子『青春の終わった日』はいい本だった。この人は『ゲド戦記』の翻訳者として知られる児童文学者。1941年に北朝鮮で生まれ、戦後引揚げてきた静岡で農家の娘として育った。9人兄弟の下から2番目で、長兄とは17歳も年が離れている。大家族のため生活は苦しく、貧しさからなかなか抜け出せないが、この家は貧しい中でも家族が力をあわせてよく働き、またよく本を読み、学問への憧れを持つ質実ではあるけれど教養ある一家なのだ。なかでも著者は幼いころから自立精神旺盛で、自活の夢をしっかり持って成長した。奨学生として高校、大学へ進み、教師となり、意志を貫いて独立する。一度の婚約破棄、二度の離婚を体験し、(いずれも自分から言い出して)児童文学者の道を歩き始めたところで自伝は終わっている。それがつまりは彼女の「青春の終わった日」というわけだろう。農家のくさぐさの仕事や、生活ぶりなど、いまではもう昔語りではないだろうか。老いた親や兄弟、また兄嫁などを思いやる細やかな心情にも思わず目頭が熱くなった。彼女が大学時代、小川五郎(高杉一郎)の指導を受けたことは幸運なことだったにちがいない。夢に向かって、人一倍努力し続けた女性のすぐれた自伝である。若い人たちに読んでほしいと思う。



写真は土曜日、六道まいりで。珍皇寺で迎え鐘を撞き、陶器まつりをちょっと冷やかしたあと、祇園に寄って帰りました。


Dsc04685  8月8日(土)晴れ。佐藤春夫に「遠き花火」という詩がある。



 つつましき人妻とふたりゐて



 屋根ごしの花火を見る――



 見出でしまに消えゆきし



 いともとほき花火を語る





 花火を見るならこの詩のような風情で、と思うが、なかなか難しい。昨日は夕方から大津に用事があってでかけ、ついでに琵琶湖の花火を見てきた。まあ、ものすDsc04695 ごい人出(35万人とのこと)で、花火を見にきたのか、人ごみにもまれにきたのか・・・。暗くなる前に三井寺周辺を散策したが、弁当や飲み物を手にした人たちがぞろぞろと観音堂に上っていくのを見て、なるほどと感心。長等山の高台に住む人たちも、湖に面した家の前でバーベキューをしながら花火が上るのを待っていた。大津の湖岸はいまやマンションが林立し、壁のようだが、そのほとんどが「琵琶湖花火大会を部屋から見られます」というのを売りにしているそうだ。花火が始まる午後7時半を過ぎても、JRと京阪電車の駅から、途切れなく人が溢れ出てくる。轟音と共に頭上で開く花火は美しくもまた迫力があるが、見上げていたのはDsc04615 15分ほどで、早々に引揚げてきた。いまからというのに、と思わないでもなかったが、押し合いへし合いはごめんだ。人垣をかき分けかき分け、これもまたホームからあふれんばかりの人に押されるようにして電車に乗り、無事帰還。



 花火は遠くから見るにかぎる。以前、真冬にトワイライトエクスプレスで北上中、新潟の長岡付近で、遠い花火を見た。真冬の花火ははかなくて、遠くに住む未知の誰かからの信号のように見えた。



写真下は三井寺の仁王門。1452年の建築で、甲賀にある常楽寺の門を移したものといわれている。威風堂々、しかも品格のある門。


Dsc04598  8月7日(金)曇り。3日にようやく梅雨明け宣言が出たが、その後も曇天続き。「京の朝曇り」という言葉があるそうで、夏場、京都盆地は早朝雲に覆われることが多いそうだが、午後になっても一向にカンカン照りにはならない。蒸し暑いこと限りなし。TVニュースで女性アナウンサーがしきりに「今年はひでり不足で農作物の成育に影響が出そうです」と言うのが気になる。「日照(にっしょう)不足」の方が馴染みやすいと思うのだけど。この数日間は連日遠出が続いて疲れ果てた。今日は久しぶりにパソコンの前でデスクワーク。



 昨Dsc04557日は広島の原爆忌だった。朝、8時過ぎごろ、近所の寺院から鐘の音が聴こえてきてきて「あ、そうか」と気がついた。すぐ仕事の手を休めて黙祷す。どこのお寺かしら、大晦日の夜にも聴く鐘の音だけどと思いながらしばし目を 閉じる。政府は原爆症訴訟の原告全員を原爆症と認定することにしたという。敗訴した原告に対しても議員立法で創設する基金を通じて救援するという。戦後64年目にして、ようやく被爆者救済が成ったわけだ。ただしこれが認定訴訟に参加した人だけが対象なら、訴訟に参加しなかった未認定の被爆者は対象外ということになる。戦争で亡くなった一般市民は沖縄や東京、大阪をはじめ全国各地にいるが、同じ戦争犠牲者でも軍人軍属でないゆえに、何の補償もない。原爆は後遺症や後世への影響への不安が大きいだけに、今回の決定で被爆者救済が少しでも前進するならば嬉しいことだ。たとえ選挙前のサービス政策だとしても、である。



 今日は立秋。梅雨明けから4日目でもう秋。今日から京都は盂蘭盆会が始まる。東山の六波羅密寺や六道珍皇寺ではお精霊さんの迎え鐘が撞かれ、五条坂では恒例の陶器祭りで賑わう。さて、用事をすませて出かけてみようかしら。積んだままの本の続きも読みたいのだけど。



昨夜読んだ本。



●小川国夫『止島』(講談社)



●清水真砂子『青春の終わった日』(洋泉社)



●山田和『知られざる魯山人』(文芸春秋)



 写真上は京都駅。ホテルグランヴィアの上から西側を見て。下は近所の公園に咲いているエンジュの花。天神川の四条ー五条間にエンジュの並木があり、花が散る時期は、木の下が真っ白になります。


Dsc04600  8月3日(月)晴れ。31日に行ってきたばかりなのに、昨日の日曜日、また姫路へ出かけてきた。前回は閉館間際の姫路市立美術館に駆け込んで、「ルドン」を観たのだが、昨日は姫路文学館で「松本清張展」を見てきた。松本清張生誕100年記念巡回展で、スケールの大きな社会派作家の全貌(そのさわりを)を俯瞰してきた。よく知られたことだが、この人は作家になる前は広告の図案家だった。ゆえにスケッチはお手の物で、生原稿や書簡などよりも、数々のスケッチや絵画の類に目をひかれた。考えてみると、私はこの人の推理小説は『砂の器』の他、ほとんど読んだことがない。専ら『ペルセポリスから飛鳥へ』や『古代史疑』『邪馬台国』なDsc04571 どの読者なのである。有名な『点と線』も『ゼロの焦点』も映画で観ただけなのだが、『昭和史発掘』は時々ひもとく。一人の人間にこれだけのことができるのかしら、と溜息がでるほどの仕事量(しかも実に多彩なジャンルにわたる)で、その一つ一つが重く、濃い中身を持つのだから、ただただ圧倒されるばかり。若い世代にも伝わるようにと、最近ドラマ化されたTV番組のポスターなども展示されていた。清張は1992年8月4日没。奇しくも明日が17回目の命日。



文学館は安藤忠雄の設計で1991年のオープン。アプローチに人工川があって、涼しげ。今回は、建物のいたるところに「松本清張展」のポスターが貼られていて、Dsc04581 それもむきだしコンクリート壁のアクセントか、と思われたことだ。安藤忠雄作の建物は関西にはたくさんあるが、大阪の南河内にある近つ飛鳥博物館もその一つ。ここは行くだけでも遠いのに、建物が見えてから玄関まで辿り着くのに時間のかかること、外観は素晴らしいのだが(中身はもっと素晴らしいのですが)アプローチが遠くて、一度訪ねたきりです。



 左は国宝の姫路城。世界遺産でもあります。昨日はお城まつりの最中で、かなりの人出でした。「ひめじ良さ恋まつり」も併せて開催中で、街はよさこい踊りのパレードで賑わっていました。



●文学館で「1909年生まれの作家たち」という小冊子を購入。大岡昇平、中島敦、太宰治、埴谷雄高、松本清張、今年が生誕100年の5人を特集したもの。5人の年譜が並べて掲載されていて、同時期、それぞれが何をしていたかがわかる。太宰が亡くなる昭和23年に、大岡は「俘虜記」を発表し、清張はまだ新聞社の図案家で、埴谷雄高は「死霊」第一巻を刊行していた。



 昨夕、庭でひぐらしの声を聴いた。梅雨明け宣言もまだだというのに、もうヒグラシが鳴くなんて。そういえば精霊トンボがやたらと目につきます。


Dsc04510  8月2日(日)雨のち曇り。昨日は局地的豪雨に見舞われ、京都のあちこちで被害が出ていた。夕方からマンションの夏祭りに参加して、顔見知りの住民たちとビール片手に歓談。マンション誕生10周年ということもあり、(我が家も入居10周年)例年以上に盛りだくさんなプログラムで、会場となった中庭は浴衣姿の親子連れで賑わっていた。近所の商店の出店が並び、各店の前には長い行列ができていた。地産地消ではないけれど、地域のお店を大事にして、共存共栄できたら何より。京都造形芸術大学の学生たちによる和太鼓演奏もあり、雨が降り出す前に無Dsc04509 事終了。マンションの子どもたちにとっては、一足早い地蔵盆のようなものだろうか。



 ●澤地久枝・佐高信『世代を超えて語り継ぎたい戦争文学』(岩波書店 2009年)を読了。ここで取上げられているのは、五味川純平『人間の条件』、鶴彬、高杉一郎『極光のかげに』、原民喜『夏の花』、大岡昇平『レイテ戦記』、幸田文『父・こんなこと』、城山三郎『落日燃ゆ』など。二人が編集者として、取材者として縁があった作家たちの素顔も語られていて、興味深く読んだ。文芸作品が少ないのは仕方がないが、巻末の「取上げたかった作家たちの章」で梅崎春生や吉田満などにふれてある。いまは戦後ではない新たな戦前だ、と言われるようになって久しいが、現状に危機感を持つ澤地久枝さんの語り口は毅然としていて、硬い背骨を感じた。体験者にだって、あの戦争の全体を語ることは難しい。『俘虜記』、『野火』、『レイテ戦記』、今年の夏は大岡昇平を読み返すことにしよう。(私はこの人の『ザルツブルグの小枝』や『萌野』、『成城だより』なども好きなのですが)



 写真上は近所に咲いているルリタマアザミ。高原の花だとばかり思っていましたが、京都の街なかに咲いていました。下は鳳仙花。この花を見ると、中上健次を思い出します。


Dsc04563  8月1日(土)曇り。昨日、友人のIさんと神戸で落合い、市立博物館で開催中の「まぼろしの薩摩切子展」を観る。幕末のほんの短い間、薩摩藩でつくられたカットガラスの数々に、諫早の現川焼を連想させられた。現川焼は16世紀の諫早でほんの数十年の間だけつくられた焼き物で、数が少ないことから「幻の」と冠つきで語られることが多い。しかし薩摩切子は珍品だっただろうから、貴重がられ大事に伝えられたのだろう。篤姫所蔵だったミニチュア切子の雛道具や白酒をいれたというデキャンタなど、精巧で美しい職人技に見とれてきた。ここは博物館なので、常設会場には長崎ゆかりの南蛮屏風などがあり、夏休みの子ども向けの企画で、屏風に描かれた動物を探してみようという楽しいゲームも行われていた。この市立博物館の南蛮美術の基となったのは兵庫の財閥池長孟(1891-1955)のコレクションで、彼が戦後市に委譲した美術品の数は7千点を超えるという。この池長孟は牧野富太郎のスポンサーになったことでも有名で、また淀川長治の姉が一時、この人の奥さんだったこともある。倉敷の大原総一郎やこの池長孟などに援けられた芸術家や学者は数知れぬ、といっても言い過ぎではないだろう。



 この博物館のロビイで、「ルドン展」のポスターを見、急遽、姫路へ行くことになDsc04565 る。時間はもう午後3時近い。JR新快速で行っても到着するのは4時前になるがと思いながら電車に乗る。走ることしばし、「須磨駅構内に人が立ち入り、安全確認のためしばらく停車します」のアナウンスあり、20分ほど足止め。ようやく運転再開となったが、姫路に到着したのは4時30分。タクシーで美術館へ向い、閉館間際にすべりこんで、ルドンを観る。油絵は何点かで、モノクロのリトグラフがほとんどだったが、これがなかなかよかった。時間がないので駆け足だったが、200点近い作品をまとめて観ることができて満足した。ルドンは若いころから好きな画家なのである。このコレクションは岐阜県立美術館の所蔵品だそうで、岐阜では来月、姫路美術館所蔵の「ゴヤ展」をやるという。所蔵品の交換展覧会というわけだが、うまいやり方ではないだろうか。



 写真上は姫路市立美術館。赤レンガの美しい建物。下は姫路城南側にあるビル内のレストランからの眺望。この週末、お城祭りがあるそうで、会場設営中でした。


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