2009年09月

Dsc05198   9月30日(水)雨。昨日は午後から大阪行き。谷町6丁目にあるギャラリーで29日から始まった今井祝雄さんの個展を見るため。祝雄さんのつれあいはノンフィクション作家の今井美沙子さんで、会場で待合せて久しぶりに歓談す。昨日は初日で、オープニングに作者のトークなどがったのだが、夜は別の会合があり、急いで京都へ戻る。



 約束の時間より少し早めに着いたので、空堀商店街を散策す。この辺りは商店街の通りが高くなっていて、両側はうんと低い。文字通り、大坂城の外濠跡なのDsc05199 だろう(大坂城三の丸の外堀とのこと)。土手と埋め立てられた堀跡に家が立ち並んだ、ということらしい。商店街は千林や天神橋筋ほどの賑わいはないが、それでも大阪らしい店が並んでいる。商店街を横に入ると、写真上のような店があった。古い町家を活かした店舗で、右側の店は屋根に草がはえている。まるで藤森照信のタンポポとニラの家のよう。この辺りは先の戦争で焼けなかったため、古い家が残っている。下の写真は商店街から石段を降りたところ。レンガ壁を持つ三階建の家が並んでいる。やたらと路地と坂道の多いところだ。



 今日は一日中雨。札幌のYさんより電話あり。「こちらは快晴。ぐずぐずしていると大雪山の紅葉が終わってしまうから早くでておいで」とのこと。去年は10月半ばに出かけて層雲峡の紅葉を愉しんだものだが。


Dsc05171  9月29日(火)曇り。日・月の両日、伊勢湾・三河湾沿いを一巡してきた。初日、犬山市にある明治村へ寄り、懐かしい教会に再会。昭和50年(1975)まで長崎県伊王島にあった大明寺教会で、新しい教会ができたため、ここに移築されたもの。この教会は明治12年(1879)ごろ建てられたもので、外観は日本家屋だが内部は美しいゴシック様式。高校時代、まだ現役だったこの教会に出会ったときの驚きはいまも鮮やかに私の中にある。当時はもっと古びていて質素な外観からまるで納屋のように見えたものだが、中に入るとそこは別世界だった。禁教時代の影響が色濃く残る建物で、それゆえ明治村に移されて多くの人たちに公開されていDsc05174 るのだろう。明治村には美しい教会がいくつか移築されていて、この大明寺教会と向い合うように建っているのが明治23年建造の白亜の聖ザビエル教会で、これは京都の河原町三条にあったもの。戦後、島尾敏雄夫妻がここで挙式した。京都の教会はもう一つ、河原町五条にあった聖ヨハネ教会堂(国の重要文化財)も移築されていて、これは赤レンガ造りの重厚なもの。明治村正門から見上げた場所に建っている。漱石、鷗外、露伴などの住居もあったが、時間切れで見ることあたわず。赤レンガ建築では金沢監獄正門が堂々として見ごたえがあった。諫早にもこれと同じような明治期に建てられた刑務所があったが、その後どうなったのだろう。一時は保存という動きもあったと聞いているが。



 三河湾と遠州灘の間に東西に伸びた渥美半島の先端にある、伊良湖岬のホテルに一泊す。渥美半島といえば真っ先に思い出すのは杉浦明平のこと。国道259号線(田原街道)を走りながら、明平先生はどのあたりに住んでいたのかしら、としきりに思われたことだ。



 写真は明治村で。上は大明寺教会、下は金沢監獄正門。


 9月26日(土)晴れ。今日は外出せず、溜っていた本を読む。



●辻原登『許されざる者』(上・下 毎日新聞社 2009年)



●森まゆみ『女三人のシベリア鉄道』(集英社 2009年)



●坪内祐三『文庫本玉手箱』(文芸春秋 2009年)



●山口昌男『本の狩人』(右文書院 2008年)



●『鶴見俊輔』(河出書房新社 2008年)



●網野善彦・森浩一『この国のすがたと歴史』(朝日選書 2005年)



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 ●森まゆみ『大阪不案内』(ちくま文庫)



 辻原登はいつからこんな大ロマンの書き手になったのだろう。以前、『花はさくら木』を読んで、その騙しっぷりに驚いたものだが、今回もまた虚実ないまぜの大ロマンを愉しく読んだ。小説を読むのは久しぶりのことだったが、たまにはこんなふうに巻を置くあたわずというのもいい。時代は日露戦争(1905年)のころ、大逆事件の予兆が感じられる和歌山は森宮(しんぐう)が舞台で、恋あり、戦争あり、ジャーナリストの戦いあり、歴史や時代背景もさりげなく書かれていて、大人の紙芝居を見ているような賑やかさ。森鴎外や田山花袋、ジャック・ロンドン、大谷探検隊を率いた西本願寺の主などが登場してそれらしく演じるのも愉快だ。新聞に連載がDsc05128 始まった漱石の「吾輩は猫である」を面白いよ、と評するところ、中上健次が描く「路地」の人々が、ここでは日傘山の人として登場するなど、古今東西の文学がちらちら見え隠れするのを読む楽しみもある。主人公は大逆事件に連なって処刑された新宮の医師・大石誠之助をモデルとしたドクトル槇だが、これが滅法格好いい男性で、こんなこと有り得ないわ、と思いながらもついつい一気に読まされてしまった。まあ、久しぶりに快く騙された物語でした。



 大逆事件の大石誠之助といえば、森まゆみも『女三人のシベリア鉄道』の中で、この医師について触れている。与謝野晶子の夫である与謝野寛は、かつて和歌山に大石誠之助を訪ねて歓待されたことがあったという。森まゆみは「彼(大石)についてみるかぎり、この事件はまったくのでっち上げである」といい、この事件では「無実の人々までが検挙され死刑となった」と記している。



 手紙やメールの返事書き。あちこちから電話。忘れないうちにカレンダーをチェック。明日(27)あさって(28)の両日、また I have a little trip で留守にします。来月も旅の予定がいくつかあり。「世にしたがえば身苦し、従わねば狂せるに似たり」。やれやれ、かくて「あはれ今年の秋もいぬめり」ということになるのかしらん。年末まで物忌み籠居といきたいものだが。



 写真上は宮津の山中地区でみたなかなかポップなお地蔵さん。下は伊根町の舟屋。


Dsc05017  9月26日(土)晴れ。これは私的備忘録ゆえ、まだ連休中のことを記しておく。丹波篠山へは、京都のわが家からだと亀岡経由で1時間余で着く。この連休中、近畿の高速道路はどこも渋滞が予想されたので、名神(吹田経由)を避けて、亀岡まで京都縦貫道を走り、そこから国道372号線で舞鶴道の丹波篠山口へ。春に大山へ出かけたときはここから舞鶴道に乗り、吉川JCTで中国道に乗って大山まで行った。宝塚を通らないので渋滞知らずであった。今回もその手を使おうというわけ。早めに篠山へ入り、町をそぞろ歩く。連休とあってツーリスト(個人も団体も)多し。2000年に復元された城跡に建つ大書院を見る。篠山城は江戸時代に入ってDsc05047 から山陰道の要衝として築城されたもので、初代城主は松平康重(家康の実子といわれているそうだ)。その後青山氏に替り、維新を迎えている。今年が開城400年。城の近くにはお徒士町武家屋敷群があり、下級武士が住んだ藁葺の家並がのこっている。以前はいかにも鄙びた通りだったが、観光名所として整備されすぎて、趣が半減したのは残念なことだ。観光客を呼ぶことだけを考えると、どうしてもこうなるのかしらん。町の東側にある河原町妻入商家群ではまちなみアートフェスティバルが開催中だった。ここは江戸時代からの妻入商家がよく残っていて、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている通り。たまたま訪ねた日がオープニングで、老若男女のアーティストたちが張り切って作品を展示してDsc05020 いた。古い商家や町家を開放して、作品が展示されているのだが、土間に置かれた焼き物や彫刻、ガラス器、書、絵画など、現代アートが古い建物とよくマッチして、なかなか面白い試みと思われた。ギャラリートークやアートパフォーマンス、コンサートなど盛りだくさんで、作品も見ごたえがあり、思いがけないプレゼントであった。



丹波篠山といえば丹波立杭焼に丹波栗、黒豆、猪肉、そしてデカンショ。国道372号線は別名デカンショ街道というが、命名のいわれは知らない。哲学者を多く輩出したとか? 町の周りには黒豆の畑が多く、収穫を待っていた。時間がなくて立杭窯や図書館へ寄ることができなかったのが残念。いずれまた。丹波篠山口ICで、神戸から来たつれあいと合流し、舞鶴道を北上す。



 写真上は篠山城の石垣。中は河原町妻入商家群。下は城跡に咲いていた彼岸花。


Dsc05161  9月25日(金)晴れ。庄野潤三さんが亡くなられた。享年88歳。旅行中はテレビも新聞も見ないので、庄野さんの訃報に接したのは23日の朝のこと。留守中溜った新聞にざっと目を通して、21日に亡くなられたことを知った。年齢に不足はないけれど、あの穏やかで満ち足りた文章を読めなくなると思うと寂しい。庄野さんは大阪の旧制住吉中学で詩人の伊東静雄に国語を教わり、卒業後も文学の師として仰ぎみつつ深い交わりを続けた。詩人の死後も繰り返し師のことを語り続け、諫早で開催される伊東静雄の「菜の花忌」に二度ほど招かれて講演を行っている。私はその二度目の講演を聞いた。1983年3月のことだったと思う。諫早公園にある伊東静雄の詩碑の前で式典が行われたあと、近くの神社の社務所(だと思う天井の低い小さな部屋だった)に移って、車座のようにして話を聞いた。伊東静雄と庄野さんの関係は読者ならだれでも知っていることだが、実際に本人の口から語られるのを聞くと、文学によって結ばれた師弟の幸福というものがじかに伝わってきて、庄野文学への理解がより深まるという気がした。氏の話は作品そのままに、誠実で暖か、という印象を受けた。「私ははじめにイギリスのエッセイを通じて文学に親しみを覚え、次に詩人の伊東静雄に出会って、平明な散文の中に深いものを表現するのがいいのだと教えられました」という言葉が忘れられない。当たり前の生活を大事にしながら、チャールズ・ラムのいう人生の「The sweets and bitters of Life」を書く、読者は「生きるということは苦しいこともあるが、またいいこともある、辛いこともあるがなんとか生きていこうではないか」と励まされる気がする。その日の講演のあと、駅へ向う庄野夫妻とたまたまいっしょになった。川沿いの道を三人で歩きながら、庄野さんは私と同じ年頃の娘さんのことを話された。代表作『夕べの雲』で馴染み深い娘さんである。私は自分にも三人の子どもがいて、この町の郊外に家を建てて引越してきたことなど話し、「私も『夕べの雲』のような日々を送っています」と言い、『夕べの雲』の一家が他人のような気がしない、と語ったと思う。お二人は嬉しそうに笑っておられたが。



 その後庄野さんは脳内出血で倒れ、幸いリハビリを続けて文筆生活に戻られたが、回復後は老夫婦の穏やかな日常を記すことに徹したようだ。庄野さんはエッセイの名手で、その中でも私は河上徹太郎との交流を記した『山の上に憩いあり』や初期の作品『ガンビア滞在記』などが好きでよく読み返す。



 父が亡くなった翌年のお正月、賀状をいただいたので、喪中欠礼の葉書を出したところ、長いお悔やみの手紙が届いた。心のこもったやさしい文章で、どんなに慰められたことだろう。「それぞれの文学、それぞれの生き方、当たり前の生活を大事にしていくこと・・」忘れがたい言葉の数々を、庄野さん、ありがとうございました。


Dsc05087  9月24日。承前。城崎から但馬の小京都とよばれる出石経由で宿へ戻る。出石へ着いたのは午後3時ごろだったが、町のシンボル辰鼓楼の周辺は観光客で賑わっていた。初めて訪ねたときに比べると、観光客の数が格段に増えているようだ。町がきれいになっていくのは嬉しいことだが、城下町らしい佇まいが消えていくのは困る。名物の出石そばで遅い昼食をとり、駐車場へ戻る途中、「永楽館」という芝居小屋を見かけた。明治期に残る芝居小屋としては近畿地方に現存する唯一のもので、去年改修を終えて公開されたという。歌舞伎公演のポスターもあったから、本来の役目も果しているのだろう.



 Dsc05095 小さな町に蕎麦屋がやたらと多い(50軒近くある)。出石が蕎麦どころとなったのは、宝永3年(1706)に出石藩主松平氏と信州上田の仙石氏が国替えとなったため。仙石氏に従って信州から来た蕎麦職人たちによって、新しい出石の蕎麦が誕生したというわけだ。ここで蕎麦をたのむと、一人前が小皿5枚に盛られて出てくる。お腹の具合と相談して、一枚からでも追加できるのが有り難い。私は7枚、いただきました。



 町はずれにある出石神社は但馬一宮で、天日槍が祀られている。天日槍(あめのひぼこ)は『古事記』や『日本書紀』に出てくる新羅の王子で、八種の神器を持Dsc05098 って渡来したという。たしか出石の遺跡から、船団の絵が線刻された板が出土したことがあった。4世紀(古墳時代)初頭の船団を描いたものだろうとのことだったが、あれは大陸から渡ってきた船を写したものではなかったか。



 昼食後、沢庵和尚が1616年に再興したという宗鏡寺へ行く。ここは出石城主の菩提寺で、境内には城主の墓や沢庵が住んだ庵、沢庵が作ったという見事な庭などがあった。ただ京都には美しい庭をもつ寺がごまんとあるので、少々のことでは驚かない。これは京都人の不幸(一種の知恵の悲しみ)といえるのではないか。庭内に秀吉の朝鮮出兵(案内板にDsc05092 は”朝鮮征伐”とあった)に従軍した出石の家臣が持ち帰り、沢庵がここに植えたという侘助椿があった。あの戦は無意味なものだったが、結果として焼き物を筆頭に多くの文化が伝えられることになった。



 写真は上から、出石の辰鼓楼、消火栓マーク、宝鏡寺の参道にあった地蔵堂(お地蔵さんがきれいにお化粧してました)、辰鼓楼の通りにある土産屋。トウガラシの赤が美しい。




  9月24日(木)承前。Dsc0506020日(日)晴れ。餘部から城崎へ。久しぶりに餘部へ行く。新しい鉄橋建設工事は順調に進んでいるようで、現役の橋梁と並んで白いコンクリートの橋桁が立っていた。駅へ上ってみると、工事に伴っていろいろと整備されたらしく、通路が新設されていたが、展望台はなくなっていた。来年にも新しい橋梁が完成するという。橋が並行しているので、トンネルも新しいのがいるのではないかという小論争あり。私はどこかで新旧レールが重なるのではと思うのだが、正解は不明。橋の周囲には、相変わらずアマチュアカメラマンの群れ。餘部を後にして城崎へ向う。



 いつも素通りするばかりの城崎を、今回はゆっくり歩いてみる。城崎温泉は8世紀ごろ、道智上人というお坊さんによって開かれたと伝えられている。道智上人はまたDsc05067 観音霊場として温泉寺を創建し、738年、聖武天皇から「末代山温泉寺」の勅号を賜ったという。その温泉寺の山門をくぐると薬師堂があり、いちだん高い石段の上に観音を祀る本堂がある。石段の上り口に「文豪 志賀直哉 文学の道」の標柱あり。そうか、城崎は志賀直哉の作品の舞台になったところだった、と遅ればせながら気づく。境内には「有島武夫の歌碑」もある。大正12年(1923)4月下旬、講演旅行で城崎を訪ねたときに詠んだ歌が刻まれているが、武郎は同年6月9日に自死したので、これは絶筆といってもいいだろうと説明にあった。志賀直哉の『城崎にて』は教科書で読んだきり。町の中央を流れる川の両岸に柳並木があり、ずらりと温泉旅館が並んでいる。同じような規模の旅館が協力しあい町を支えDsc05079 ているという感じ。行き交う人の中に若者のグループが多いのは頼もしいことだ。お彼岸なので「おはぎ」を求める。これは生き仏用なり。



 写真上は餘部鉄橋。中は城崎温泉寺の薬師堂。下は城崎の町。大谿(おおたに)川沿いに旅館が並んでいる。昭和元年に架けられた橋がいくつもあって、川には大きな鯉やボラが泳いでいた。


Dsc05155  9月24日(木)晴れ。この連休、丹後の海のそばにあるホテルで過ごしてきた。最初の朝、日の出のころ浜辺へ下りていくと、白い砂浜にいくつもテントが張られ、父親らしい男性と男の子たちが海に向かって釣り竿を立てている。テントの傍らではそれぞれの母親たちが朝食の準備中で、ああ、こんなふうに休日を過すというのもいいだろうなあ、とふと思う。海岸には「浜辺でのキャンプ禁止」「水上バイク禁止」「アクアラングやモリを使っての遊泳禁止」などの札が目立つが、渚には水上バイクが何台も浮んでいる。ここは小さな漁港で、夏は海水浴場にもなる。海岸沿いの道路に並んだ車のナンバーは殆んどが他府県のもので、案外上手な家族Dsc05148 旅行のやり方かもしれないなあと私は羨ましくなった。だが若いころならともかく、いまはもうテントで休むということなどできそうにない。たとえ、耳元で潮騒が子守唄を歌ってくれたとしても・・。



 丹後は和泉式部ゆかりの地である。紫式部と同じころ藤原道長の娘・中宮彰子に仕えた和泉式部は、1013年ごろ、藤原保昌と再婚し、夫が丹後守となったため彼に従って丹後へ下った。「大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天橋立」の歌で有名な小式部内侍は、和泉式部の最初の結婚相手・橘道貞との間に生まれDsc05134 た娘である。和泉式部はすぐれた歌人だが、その恋愛遍歴ばかりが喧伝されて伝説の人となり、さまざまな云い伝えを遺している。全国各地に縁の地があり、墓があるのも興味深いことだ。ここ宮津の山中地区にも和泉式部の邸跡と墓があり、いまも夏の地蔵盆では地区の人たちによって美しく飾られ供養が続けられているそうだ。



 丹後半島をゆっくり一巡する。岬に立つと、緑、青、紫、群青、濃紺といくつもの色を見せながら日本海が広がり、その向うに水平線がはるばると続く。かつてこの海の向うからさまざまな文物が渡ってきたのだなあと思う。いまは「密入国看視中 不審者を見かけたら通報のこと」「密漁禁止」の立て札がやたらと目に付くばかりだが。



 写真上は海辺の宿。中は伝和泉式部の墓。下は丹後蒲入。


Photo  9月19日(土)晴れ。忙しいばかりで実りのない日々を過している。積んだままの本を開く時間も惜しいのが恨めしい。今日からシルバーウイークだとか。春の連休にあやかっての命名だろうが、(敬老の日にもかけているのかしら)うさんくさいこと限りなし。いま、TVをつけたら、「連休初日の今日、東京周辺の高速道路はもう渋滞が始まっている」とのニュース。この分では近畿の高速道路も同様だろう。宝塚あたりは動かないのではないかしら。昨日、延暦寺のお坊さんが天台宗の荒行「千日回峰行」を達成した。比叡山の山中で地球一周分にあたる4万キ Photo_3 ロを歩き通すというもので、信長の比叡山焼き打ちの後から50人目、戦後では13人目という。満行となったのは延暦寺大乗院の住職・光永圓道さん(34歳)。千日回峰行に入ったのが2003年というから6年かけてやり遂げたもの。毎日山の中を数十キロ歩き(駆けるといったほうがいいか)、中では断食、断水、不眠、不臥の堂入りや京都市中を一日84キロ巡る京都大廻りという難行もある。まさに超人的荒行なのだ。ゆえに達成した人は「大阿闍梨」と呼ばれ、崇められる。怠惰・飽食の私などただただひれ伏すのみ。断食・Photo_4 断水・不眠不臥という堂入りの9日間の精神状態やいかに。私は大岡昇平の『野火』や『レイテ戦記』を連想しました。



 写真上は寺町通りのお寺で見た白い彼岸花。隣はヤブランでしょうか。中の写真は近所のお宅に咲いている萩の花。下は13日、山科で見かけた稲刈り風景。まだこんなふうにハザ(稲束をかける木)を使って天日干しする農家があるのですね。いまは殆んどの農家がコンバインを使い、刈り入れと同時に稲藁も刻んで撒いてしまうようですが。ここのお米はさぞおいしいことでしょう。私の友人は少女時代、母親が実家(滋賀県)からお米が届くたびに、「やはりお米はゴウシュウマイに限る」と言ってたので、我が家は「オーストラリアの米を食べているのかと思っていた」そうです。近州(近江)のことを豪州と勘違いしていたのですね。



 さて、今日から22日まで京都を留守にします。ブログはしばらくお休みです。




Photo_2 9月18日(金)晴れ。毎夕、西山に落ちる夕日を眺めている。いま、太陽は松尾山の向こうに沈む。春と秋の彼岸のころはこの辺りに落ちて、これから冬に向かうにつれ日没の位置は南へ移動する。落日の位置で日々、季節の移ろいを感じるというわけだ。昔の人は西方浄土を信じていたから、入日には特別の感情があり、山越の阿弥陀などという画もうまれたのだろう。さまざまなことを思わせるのは何も桜だけとは限らない。夕日もまた。





Photo_4  近所の神社に葛の花が咲いていた。折口信夫の「葛の花 踏みしだかれて 色あたらし この山道を 行きし人あり」という歌を思い出す。折口信夫といえば何といっても『死者の書』だろう。関西に住むようになって、最初に出かけたのが奈良の当麻寺だった。二上山のふもとにある中将姫伝説ゆかりの寺である。黒い瓦屋根の古い家並をぬけて寺に辿り着き、そこの境内から二上山を見上げたときの気持といったら・・・あれからもう15年になる・・。



 上の写真は松尾山に落ちる夕日。昨日の午後6時14分。右側の山は嵐山。


Dsc04994  9月17日(木)晴れ。清清しい朝。午前5時、まだ紫紺色の東の空に、糸のように細い三日月と明けの明星(金星)が寄り添ってかかっていた。午前中、中央図書館へ行ったついでに、七本松通りを少し上ったところにある大雄寺へ寄る。今日、9月17日は天才とうたわれた映画監督・山中貞雄(1909-1938)の命日。大雄寺には彼のお墓と顕彰碑があるのだ。毎年、命日近くの休日にここで山中忌が行われているそうだが、今年は生誕100年を記念して、京都文化博物館でも監督作品が特集上映されている。京都生まれの山中貞雄は生前26の作品を監督したDsc04995 が、現在、完全な形で見ることができるのは「人情紙風船」など3作だけだという。先だって文化博物館で、遺族を交えた関係者による座談会が行われた。現代劇のような時代劇を撮って嘱望されていたのに、応召して中国戦線へ赴き、そこで急性腸炎にかかってわずか29歳で死去。だがその新しさで、没後70年を経たいまもなお、新たなファンを生み続けている。門を入ってすぐ左手にある大きな顕彰碑には「山中貞雄之碑」とあり、小津安二郎による碑文が刻まれている。建立されたのは皇紀2600年というから1940年(昭和15年)のこと。没後、時をおかずDsc04997 建てられたようだ。それだけ惜しむ声が大きかったのだろう。小津の碑文は格調高く、なかなかの名文。



 帰途、二条駅前の大垣書店で本をいくつか。



●高橋卓志『寺よ、変われ』(岩波新書)を興味深く読んだ。葬式仏教といわれて何の痛痒も感じない仏教界に疑問を感じ、社会に開かれた寺、地域の人々と苦楽を共にし、地域とともに在る寺へと変身を続ける臨済宗寺院の住職による実践の書。宗教法人なのだから、経理も公開するべきとの考えから、寺の収支決算書を檀家に公開している。死者一人一人に合った(故人の希望に沿った)葬儀を執り行うというのも非常にユニーク。この寺は自前でホールを持っており、そこは葬儀の場でもあり、地域の生涯学習の場ともなっている。京都の法然院もさまざまな文化活動の場として開かれていて、人々の出会いの場や学びの場となっているが、お寺はもともと開かれた場であったはず。最近は終日閉門という寺院も多く、悩める衆生は受け入れられなくなっている。まさに、「寺よ、変われ。変わって、本来の姿に戻ってくれ」とひとりごちたことだ。



 写真上は七本松にある大雄寺。中と下は大雄寺境内にある「山中貞雄之碑」。


Dsc04991  9月16日(水)晴れ。今日はディーバ、マリア・カラス(1923-1977)の命日。いま彼女のアルバムを聴きながらこのブログを書いている。「歌に生き、恋に生き」という「トスカ」のアリアは、まさに彼女の一生を表わしているようだ。ギリシア系移民の子としてニューヨークに生まれた彼女の本名は、マリア・アンナ・ソフィア・セシリア・カロゲロポウロス。私は残念なことに彼女の絶頂期を知らない。かつてはレコードで、いまはCDで聴くのみだが、聴いているとその魅力的な歌声もさることながら、実らないばかりか犠牲を強いられたオナシスとの恋など、華やかな歌姫の顔に隠された闇を思ってしまう。オペラ歌手というものは全身が楽器、それも飛び切り繊細な楽器だ。そのデリケイトな楽器が奏でる音楽、実人生の哀歓に裏打ちされた彼女の歌声が聴くものを圧倒しないはずはない。



 写真は近所のお宅の玄関灯。「ミネルヴァのふくろうは黄昏に飛び立つ」。そういえば京都に「ミネルヴァ書房」という出版社がありますね。看板にまさに飛び立つふくろうの絵がありました。




Dsc04971  9月15日(火)雨のち曇り。高島屋の地下にある魚売場で、タイラギを見かけた。三角形の大きな貝で、「平貝」一枚480円、とある。タイラギは貝柱をとる貝で、長崎と佐賀の県境にある太良町竹崎が有名な産地だった。有明海に面した漁業の町で、海を見下ろす丘の上には、タイラギ漁が盛んだったころに建てられた通称タイラギ御殿が立ち並んでいた。諫早湾干拓工事が始まると同時にタイラギが獲れなくなり、いまもまだ不漁が続いていると聞く。タイラギだけではない、諫早湾近くの有明海ではアサリもとれなくなったという。干拓工事で瀕死の状態にある海が再生するにはあと何年かかるのだろう。100年、200年では足りないのではないか。デパートの食品売り場で珍しい貝に会い、諫早の海を懐かしく思い出した。有明海は潮の干満の差が6メートル近くもある。干潟の海が健在だったころ、引き潮時には、何キロも沖まで水際が遠ざかったものだ。濡れた泥の海が延々と続き、それをモーゼが見た創世記の地のようだと眺めたものだが。屈託を抱いてよく干潟の海を眺めに行き、永遠を思わせるような風景にずいぶんと慰められたものだ。海はどこにでもあるけれど、あの、諫早にあったような広大な干潟の海はどこにもない。



 写真のタイラギはどこで採れたものだろうか。竹崎では宇宙服のような潜水着をつけて漁をしていたが、この貝もそのようにして採られたのだろうか。


Dsc04975  9月14日(月)晴れ。昨日、山科の大乗寺に酔芙蓉の花を見に行った。大乗寺は三条通りの日ノ岡から、旧東海道の細い道に入ってしばらく行ったところにある。もともと京都市七本松の内野にあったが、昭和の始めごろこの地に移転してきたもの。境内いっぱいに酔芙蓉が植えられていて、花の時期は訪れる人が多いそうだ。昨日は花がまだ咲き始めたばかりで、見るほどでもなかった。却って、近所に見ごろの木があって、写真はその一つ。昨日はこの旧東海道を御陵まDsc04946で歩き、それから元慶寺、僧正遍照の墓などに寄ってきた。元慶寺は花山天皇の落飾事件で有名な寺。永観2年(984)、円融天皇の後を継いで即位した花山天皇は、女御怟子が懐妊中死去すると、悲嘆のあまり出家を口にする。それを聞いた藤原兼家は息子たちに命じて天皇を元慶寺へつれ出し、落飾させてしまう(986年)。花山の後は兼家の娘詮子が産んだ皇子が継いで(一条天皇)、兼家は摂政となって政権を握る、というわけ。西国観音霊場33ケ所は退位後の花山Dsc04964法皇が巡礼したという言い伝えによって成立したもの。元慶寺は33ケ所には入っていないが、番外の寺となっている。



 いまは天台宗の寺院だが、珍しく山門は竜宮門。 この寺は桓武天皇の孫の僧正遍照の創建で、境内に遍照の歌碑などがあった。(天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ



 三条通りを粟田口から山科日ノ岡を越えて御陵までの道には、刑場跡の碑や慰霊碑、名号石、旧街道で使われた車石などの石造物が数多く見られ、京のマージナルを思わせる場所であった。またゆっくり歩いて見たいものだ。



 写真上は大乗寺の近くで見た酔芙蓉。中は旧東海道の石標。下は元慶寺の山門(内側から)。


Photo  9月13日(日)晴れ。承前。海住山寺から山の麓にある恭仁宮跡へ廻る。ここは奈良時代、聖武天皇が都をおいたところ。天平12年(740)12月、恭仁京への遷都を発表し、右大臣橘諸兄に造営を命じて慌しく移った、といわれている。だが、この都が完成する前に並行して紫香楽(しがらき)にも都を造り始め、3年後にはそちらに移ってしまう。さらに紫香楽宮にも落ち着かず、翌年は難波へ遷都と彷徨を重ね、結局、745年には平城京へ戻っている。わずか数年の間に恭仁~紫香楽~難波~平城と、都を移して廻った聖武とはいかなる帝であったのか? 何が彼をそうさせたのか、興味深いことだ。しかしこの恭仁にいた間に、彼は「国分寺・国分尼寺」や「大仏」建立の詔を発し、実行に移している。帝が都を遷すということPhoto_2 は官人たちにとっても大変なことで、まずは新しい住居を確保し、一族郎党・雇用者などの生活環境も整えなければならない。それなのに都がこうも目まぐるしく変遷すれば、みんなやる気をなくしてしまったに違いない。そのうち平城に戻るだろうと予想して、本格的な引越しを見合わせていた役人もいたのではないかしら。



 都が遷ったあと、そこには国分寺が建立された。いま、恭仁京跡には大極殿跡や国分寺の七重塔跡の礎石が遺されている。平安京はその上に1200年、ずっと人々が住み続け、都として機能していたから、都の跡はほとんど地下に眠ったまま。たまに出てきても、すぐに埋め戻されて再び地下に戻る。建物の跡といえば、内裏跡周辺や、朱雀大路をはさんで東寺の反対側にあった西寺跡に礎石が残っているのが思い浮かぶ程度か。第一に京都市中にはなかなかこのように広々とした空間はのこっていない。遺跡の上にずっと人が住み続けているから仕方がないが。



 石だけが残る広々とした空間はいいものだ。さまよい続けた聖武天皇の胸の内を想像しながら平安京へ戻る。写真上は恭仁宮跡(山城国分寺跡)。下の写真は近くでみかけた田圃。左の黒いのは古代米か。



 昨日の土曜日は久しぶりに一日雨だった。おかげで仕事が捗りました。夜、北海道から送ってきた余市の白ワインをいただく。甘口ながら、すっきりとして、香りのいいこと。女性向き。


Photo  9月12日(土)雨。昨日の午後、パリ土産を持ったIさんと京都駅で待ち合わせ。午後いっぱい空けているというと、浄瑠璃寺へ行きたいというので、国道24号線を木津川沿いに南下する。山城町が近づいたところで、道路の脇に「蟹満寺」の看板を見かけ、寄ってみようということになった。ここは『今昔物語』に出てくる「蟹の恩返し」の縁起で有名なお寺。京都に住み始めたころ友人に案内されて来たことがあるが、狭いお堂に窮屈そうに大きなお釈迦さまが坐っておられて、何とも親しみを覚えたものだ。このお寺は白鳳時代(7世紀後半)の創建で、お釈迦様はその時からここに座しておられると聞いたが、白ごうや螺髪のない人間的なお姿で、膝がくっつくほどの近さで向き合っていると、懐かしい感じがした。山城は京都と奈良の中間にあり、昔は街道の往来も賑やかだっただろう。久しぶりに訪ねたら、目下、1_2 本堂の改修工事中で、お釈迦様は天の岩戸ならぬ木製の大きな壁に囲まれて、隠れておられた。来年は工事も完了して新しいお堂で拝観できるだろうが、以前のように国宝のお釈迦さまと親しく膝つきあわせて、ということができるかしら。



  国道へは戻らず旧街道を南下していく。途中、棚倉の涌出宮や上狛の環濠集落跡などを見る。高麗寺跡まで来たところで、折角ここまで来たから海住山寺へ寄ろう、ということになる。海住山寺は山城国分寺(恭仁宮跡)近くの山の中腹にある。麓から1キロほど、急勾配の細い道路を登っていくのだが、初めてのときは<盲目蛇に怖じず>でただ前進あるのみと必死で上ったものだ。今回も途中で怖くなったが、ひたすらハンドルを握って上りつめた。途中は、車がようやく通れるほどの幅しかなく、それが急傾斜なのでとにかPhoto_2 く怖い。お寺に入ると、褒美のように美しい五重塔(国宝)が迎えてくれた。小さいが均整のとれた塔で、鎌倉時代のもの。海住山寺は天平7年(735)、聖武天皇の勅願により、良弁僧正によって創建されたといわれている。聖武天皇が恭仁に京を移す数年前のことである。平安末期に焼失したあと、鎌倉時代初期に解脱上人によって再建された。その解脱上人らが眠る墓地からは、木津川や加茂、その向うに平城京春日の山並みが見える。しばらく眺望を愉しみ、再び細くて狭い道を下山、麓にある恭仁宮跡(山城国分寺跡)へ廻る。ここで4時近くなったので、浄瑠璃寺へ行くのはやめて帰洛。木津川の土手沿いを北へと戻る。



 写真上は木津川市加茂町にある海住山寺の五重塔(国宝)。中の写真は本堂前の狛犬。「スター・ウオーズ」に出てくる仙人ヨーダに似ていませんか? 加茂の田圃の畔にはもう彼岸花が咲いていました。


Dsc04917  9月11日(金)晴れ。野呂邦暢に「日が沈むのを」という印象的な短篇がある。1972年、「文学界」9月号に掲載されたもので、タイトルは「セントルイス・ブルース」から取られている。



「I hate to see de evening sun go down・・・日が沈むのを見るのはいや、見ていると、これがあたしの最期なんだっていう気がしてくる・・・」



失恋した黒人女性の嘆きを唄ったものだが、野呂の「日が沈むのを」はこの歌詞にインスパイアされて書いたのではないかと思われるような作品。このころの野呂はせっせと英米文学を読み、なかでもフォークナーに惹かれるところがあっDsc04918 たようで、初期の短篇やエッセイなどにその影響が見られる。(タイトルのつけ方など、とくに。彼の文章が始めて活字になったのは「兵士の報酬」というルポルタージュだが、フォークナーの第一作も「兵士の給与」。またフォークナーにもセントルイス・ブルースからとられた「ある夕陽」という短篇がある)



 若い女性による独白、という小説のスタイルは野呂が得意とするところだが、この短篇は始めから終わりまで物憂い雰囲気に満ちていて、のちの名作『諫早菖蒲日記』の語り手のような健気さや初々しさはない。だが、主人公の女性は失恋の痛手から自殺未遂をおこしており、一度は死の傍まで行くという体験をしている。傷は癒えたが、心の傷はまだ回復しておらず、ゆえに彼女は孤独でひとり夕陽を眺めている、というわけだ。傷ついて孤独な女性が、独り世界と向き合って、あるがままの世界を受け入れようとするまでの心の揺らぎが語られている。「わたしにはだれもいない―ー。しかし自分にはこの部屋があり、ひとりくつろいで沈む日を見ることができる。わたしには夕日がある。その思いは慰め以上のものだ・・・」。



 野呂は自然との交感、その歓びを繰り返し書いた作家だった。この初期の短篇にもその傾向が色濃く見られる。写真上は京都西山の夕焼け。下は野呂邦暢の限定本『日が沈むのを』(有光株式会社 1974年)。


Photo  9月10日(木)晴れ。町の書店や図書館にはたいてい郷土本コーナーがあるが、その郷土本コーナーがやたらと賑やかなのが沖縄と京都ではないだろうか。沖縄の本屋に入ると、壁の一面が沖縄本、という店が珍しくない。京都も同様、どんな小さな本屋にも「京都本」のコーナーがあって、ガイドブックからグルメ本、ちょっとコアな情報誌まで、色とりどりの品揃えである。勿論、歴史、文化、文学の基本図書も山のように並んでいる。よくもまあ、タネが尽きないものよと感心するが、結構、京都人が買っているようで、わが町再発見ということかしらと眺めている。京都に引っ越してきたときは、やたらとお祭の多い町だなあと思ったものだが、その祭りを支えるのも伝統の力で、人々の守り伝えようという意志がなければとうに絶えていたに違いない。長谷川如是閑ではないけれど、「職人」という言葉が好Kiseru きなので、町のそこかしこで手仕事の店に出会う京都の町が気に入っている。上の写真は西陣にある「杼(ひ)」を作るお店。杼は機織に使う道具で、縦糸の間にくぐらせる横糸を通す木製の具。西陣に住む友人は、「子どもの頃は朝から晩まで機織の音が絶えなかった」というが、和装の需要が減って、滅多にその音を聴けなくなったと嘆く。京都市にとっても和装業は基幹産業なので、(市長は公式行事のさいは常に和服姿である)復活してほしいと思う。でも、日本人が昔のように日常着として和服を着ることはもうないと思う。だって、自転車には乗れないし。それでも最近は浴衣が人気で、その延長なのか夏が終わっても町に着物姿の若い人をよく見かけるようになった。普段着感覚で定着していくといいのだが。



 ●南木佳士『草すべり』(文芸春秋)を読む。少し前までは専ら自分の病気のことばかり書いていたが、最近はその長い苦しみから脱却して日常のものとなった山行が題材となっている。心の病を乗り越えて手に入れた新境地、登山とは全く縁がない読者にもしみじみとした共感を与えてくれる作品。安定しすぎて物足りないところもなきにしもあらず、ではあるけれど。


Dsc04908  9月8日(火)晴れ。白露ともなれば、日中、強い日差しの下、外を歩いていても日陰に入ると爽やか。岡崎で用事を済ませたあと、久しぶりに南禅寺に寄ってみる。修学旅行生や団体のツアー客の姿あり。心なしか楓の葉が色づいてみえる。写真は南禅寺の三門。ここは常時公開されているので、今日も三門の楼上に人影あり。石川五右衛門がここに立って「絶景かな」と言ったといわれているが、この三門が建てられたのは五右衛門の死後30年目のことだから、それはありえない話。南禅寺では水路閣の奥にある別院の南禅院がいい。鎌倉時代、亀山法皇が晩年をすごした離宮上の宮跡で、池泉回遊式の庭が素晴らしい。室町時代にDsc04909 ずいぶん縮小されたということで、確かに他の庭園に比べると奥行きがないが、それでも調和のとれた美しい庭である。ここは観光客もすくないので、静かに過すことができる。



 左の写真は南禅寺近くの邸の楓の木。はんなりと色づいて。もう2ヶ月もすれば、この辺りは人の波で、歩くあたわず、という状態になる。



 時間があったので、美術館へ寄ろうかと思ったが、ルーブル展を開催中の市美術館は入場者の長蛇の列、おそれをなしDsc04912 て早々に帰宅す。写真にはよく写っていないが、入場を待つ人の列が館の裏側まで延々と並んでいました。何事にせよ、行列は苦手です。昔のように、物資が配給制度になって、並ばないと何も手に入らないということになったら、真っ先に飢え死にするのかも。



 まだ『時範記』を読んでいる。『小右記』の100年ほど後の時代に書かれたものだが、同じ平安時代のものでも、ずいぶん文体が変化しているなと思う。現代にしても、いまから100年前といえば明治末から大正時代、現代っ子にとって、そのころの文章はもう古文だそうだから、昔も今も同じか。



 ここ数日、毎夕、日没近くの西空に見とれている。西山の向うに日が落ちた後、空全体があかね色に染まる。刻一刻とあかねの色が変化し、やがて黄昏ていく様子を夕食の手を休めて、飽きず眺めている。ふと子どものころ聞いた、「春の夕焼け蓑笠出して、秋の夕焼け鎌を研げ」という言葉を思い出す。今日も夕焼けが見られるかしらん。


Dsc04906  9月6日(日)晴れ。早朝5時過ぎごろ、ベランダに出て、まだ濃紺の西空に残る満月を見る。昨日より高いところに煌々と輝いている。一時間ほどたった今も、明るくなった西の空に丸い姿を残している。今日も暑くなりそうな予感。



 昨日、ある歴史研究会に参加して、紫野の大徳寺へ行ってきた。「大徳寺の金毛閣に上らせてもらえるそうどすえ」という祇園のFさんに誘われたもの。大徳寺へは一度行ったきり、塔頭の高桐院や大仙院などへは紅葉のときに訪ねたことがあるが、真珠庵は初めて。案内してくれたのはその真珠庵のご住職で、大徳寺の歴史から一休さんの事蹟まで、実に詳しくまた解り易く説明してくださった。山門金毛閣は1529年、連歌師宗長の寄進により単層で完成。その60年後に千利休が上層を造り、現在の姿になったのだが、そこに利休の木造を置いたことが秀吉の怒りを買ったといわれている。急な階段を上るとそこは広い一室で、釈迦如来像や16羅漢像が安置されている。天井に描かれた龍は長谷川等伯の筆になるもの。400年という時が嘘のように墨の色はまだ鮮やか。檀家筆頭である千家の申し出があったときは開けますが、この山門の上層は滅多にあけることはありません、だから400年、タイムカプセルに入っているようなものですーーなるほど、天井画が煤けていないのはそういうわけなのか。釈迦三尊像の上にはDsc04899飛天の像がいて、笙や笛を奏でている。平等院の雲中供養菩薩に比べると素朴だが、絵ではなく像を天井に提げるところは同じか。山門の回廊に立つと、左手正面に大文字が見える。右手の船岡山は平安京の玄武にあたる山だが、ここも大徳寺の所有地なのだそうだ。金毛閣の前には移築された陽明門があり、山門の前にご丁寧にまた門があるなんて、珍しいことと眺めてきた。



 真珠庵は1430年ごろ、一休宗純によって開創された。一休がここに住んでいたのは、文明年間(1469-87)という。方丈に一休さんの木造があり、等伯による襖絵がいくつもあった。来年、京都の国立博物館で等伯展があるらしいが、そこに出展される予定だとか。狩野派全盛の時代Dsc04902 に、大徳寺はよくもまあ等伯に天井画を描かせたり、襖絵を任せたりしたものよ、と思う。襖絵「商山四皓図」に描かれた松を指してご住職曰く、「ベルナール・ビュフェよりモダンでしょう。見てください、この枝の線を」。



 写真上は金毛閣。オリジナルの利休像は秀吉によって処刑されたが、コピイがあったらしく、現在それが逗子に安置されている。中の写真は国宝の唐門。もとは聚楽第にあったもので、東照宮の日暮門のモデルと言われている。国宝の唐門はこの他に豊国神社と西本願寺にあるが、そういえばこの三つの門はよく似ている。写真下は昼食にいただいた精進料理。お膳は輪島塗、弁当箱は春慶塗。食事の前にいただいたおうすが美味しかった。お茶菓子は”コスモス”でした。



 入門希望の若者が案内を手伝ってくれたが、まだ大学院に在学中だという。頭を丸めてなりはお坊さん。住職曰く、「近年、坊さんになろうという人が少なくなって、どこも後継者不足に悩んでいます。希望者がいたらどんどん紹介してください」。その気になっても、寺での修行に耐えられず、わずか3日で逐電、という者もいたそうだ。最近の最短記録ですな、と笑っておられたが。


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