2009年11月

Dsc05804  11月30日(月)晴れ。この週末は、北海道からの知人を案内して京都の紅葉の名所を廻る。土曜日は朝から北野天満宮へ。一昨年の秋、境内の西側にあるお土居一帯が整備され「もみじ谷」として公開されるようになった。春の梅林と並ぶ天神さんの新名所として知られるようになったのか、午前10時過ぎに到着したとき、入口には既に長い行列ができていた。菅原道真公の歌「このたびは幣もとりあへず手向山 もみぢのにしき神のまにまに」が刻まれた大きな歌碑の前を通って、紅葉谷へ入る。史跡お土居の周りはいまが最高の紅葉。谷を流れる紙屋川の川面に赤く映えて、まさに「紅葉の錦、神のまにまに」といった風情。「京都の紅葉は繊Dsc05816 細ですなあ」と知人はさかんに繰り返しながらカメラを向けていた。



 入場料600円にお茶・お菓子付き。出口付近の接待所で老松の三笠とほうじ茶をいただく。さすが天神さんは偉いなあ、他の神社仏閣では拝観料1000円というところも少なくないが、お茶菓子付きなんて望むべくもないのにね、と感心しきり。天神さんを出て二条駅付近に最近オープンしたイタリア料理店「カ・デル・ヴァーレ」(これが美味しかった!)で早めの昼食をとり、午後からは定番コースの嵐山へ。夕食は三条木屋町のモリタ屋ですきやき。客はビールを水のように飲み、北海道には竹がないので、嵐山の竹林がよかった、と盛んに繰り返していた。春に筍を贈る約束をして別れる。



 帰りて久しぶりに●天野忠『春の帽子』(編集工房ノア)を読む。山田稔の『富士さんとわたし』に刺激されて、あれこれ古い本を書棚から引っ張り出してきた。●天野忠・松田道雄・和田洋一の鼎談『洛々春秋』(三一書房 1982年)を開きながら、これに富士正晴が加わっていたら、どんなカルテットになっていたかしらと思う。



 写真上は北野天満宮のもみじ谷。下も同じ。土曜日に撮影したもの。


Photo  11月29日(日)晴れ。昨日に続いて『富士さんとわたし』のことを。富士正晴(1913-1987)が島尾敏雄らと1947年に創刊した文芸同人誌「VIKING」はいまも健在だが、この本を読んで「VIKING」からいかに多くの才能が羽ばたいていったか、いまさらながら教えられた。富士正晴は優れた教師、人を育てるのが上手だった、と著者は記しているが、超俗の人でなければできないことだっただろう。富士が晩年近く、独居をかこち、「いまは電話で京都の松田道雄と”しょむない””なんぎやなあ”と言い合う日々だ、と書いていたのを思い出す。この本の最後あたりに折目博子の『稲垣足穂』(六興出版 1980年)のことが出てくる。この本を書くようにすすめたのは富士正晴で、その縁で法然院にある足穂の墓の字を富士正晴が書いた、とある。いま、折目博子の『稲垣足穂』を開いてみたら、あとがきにそのことが書いてあった。あとがきを読んだつもりだったが、頭に残ってはいなかったのだろう。法然院にある稲垣足穂のお墓にも行ったが、今度お参りするときはお墓の文字をよく見ることにしよう。折目博子のこの本を、私は2年前訪ねた倉敷の古本屋「蟲文庫」で手に入れた。折目博子(1927-1987)は京都在住の作家で、この本が出た6年後、心筋梗塞で亡くなっている。



 この本は作者24歳1954年から、富士が亡くなる1987年までの33年間に二人の間に交わされた手紙やハガキをもとにして、富士の人となりを描き、また同時に自分の自己形成のプロセスを綴ったもの、といえるだろう。当時の関西圏内の文学地図、人間関係などが俯瞰されて、その遊び心にみちた交友はいまは望むべくもない、と思われた。きら星のごとく周りに人を侍らせていても、富士正晴の内側には暗くて深い闇があった、ユーモアと背中あわせの諧謔、竹林童子、などとはゆめ思うなかれ。



 写真は霊鑑寺の千両。


Photo_2  11月28日(土)曇り。昨日は友人に誘われて、大谷大学博物館で開催中の「祈りと造形ー韓国仏教美術の名品展」を観てきた。友人は毎年韓国に出かけ、かの国の歴史や文化に詳しい。今回拓本が展示されている「金庾信墓十二支像」は現地で実物を見たことがあるそうだ。この十二支像と同じような石像が奈良にもあるが、まだ見たことがない。この金庾信という人物は、7世紀の新羅の武将で、三国統一に貢献した人らしい。絵画や彫刻、書跡などの中に、重文に指定されている『判比量論』という書があった。この巻物には「内家私印」の捺印があり、これは聖武天皇の后だった光明皇后の蔵書印とのことで、さらに別に「西家書」Photo_3 の墨痕から元は母親の県犬養三千代の蔵書だったことがわかる、とのこと。正倉院に収められていても不思議ではないもので、1300年前の書をとくと見てきた。(これは珍しく楷書ではなく、行書で書かれている)。大谷大学近くのレストランで食事をして午後8時前に別れる。



●山田稔『富士さんとわたしー手紙を読む』(編集工房ノア 2008年)を読む。富士さんとは言うまでもなく、富士正晴のこと。私は以前、この山田稔の『ああ、そうかね』(京都新聞出版センター 1996年)を読み(これは味わい深い随筆集です)、京大人文研の「日本小説を読む会」のことを知ったのだが、この中で広津和郎についての記述に深く共感したことを覚えている。今回、『富士さんとわたし』にはこの「日本小説を読む会」と「VIKING」との関わりが詳しく書かれていて興味深い。茨木市にある富士正晴記念館には保存・記録魔だった富士正晴の遺品が全て収められていて、書簡の類も丁寧に分類保管されている。10年ほど前に訪ねたときはまだVIKING同人の廣重聰氏が館長で、詳しく案内していただいた。そのとき見た資料の数々を(膨大な量の)思い出しながら本書を読んだ。また、高橋和己が『悲の器』で文芸賞を受賞したときのくだりには、高橋たか子が怒りをもって当時のことを書いたものを思い出し、なるほどねえと納得。「悲の器」の出版記念会の発起人が、吉川幸次郎、小川環樹、桑原武夫、富士正晴、奈良本辰也、林屋辰三郎、河出孝雄の7名で、そのうちの5名もが学者、というのは異例のことで、さらにその祝賀会でのスピーチが「これだけの才能とエネルギーを中国文学の研究に注げば素晴らしいのに」(梅棹忠夫)、「高橋君は小説家としてよりも学者としての才能のほうが大きいと思う」(松田道雄)、「わたしはこの小説を読んでぜんぜん刺激を受けませんでした」(桑原武夫)というからおかしい。



 写真上は岩倉・実相院。下は大徳寺塔頭・高桐院の庭の散り紅葉。京都の紅葉はこの週末が最高のようです。


Photo_2 11月27日(金)晴れ。昨日、洛北一乗寺にある金福寺を訪ねてきた。白川通りの一乗寺下り松町で市バスを降り、東へ歩くこと5分余で金福寺へ到着。「佛日山金福寺」と刻まれた石柱の上に紅葉が赤い葉を落としている。元禄のころ、芭蕉がこの寺の住職鉄舟和尚を訪ね親交を深めたことから、和尚によって寺の草庵が「芭蕉堂」と名付けられた。それから85年ほど後のこと、この寺を訪ねた蕪村は、荒廃した「芭蕉庵」をいたみ、庵を再興し、天明元年(1781)、俳文「洛東芭蕉庵再興記」をしたためて金福寺に納めた。蕪村の芭蕉を敬慕することひとかたならぬものがあったようで、「我も死して碑にほとりせむ枯尾花」という句を詠み、Photo_3 その句の通り、芭蕉庵のそばに蕪村は眠っている。その蕪村のお墓参りをしてきた。



 芭蕉はなんといっても俳聖、神様のようなものだから近寄り難いが、蕪村は京都市中に住み、絵を描き、句を詠み、文人仲間と遊んだり、一人娘の縁談に悩んだり、老いてなお恋をしたりと、非常に人間臭いところがあって好もしい。芭蕉が孤高の求道者なら、蕪村は市中にいて美を追求した詩人、といえるだろうか。先年MIHO美術館で開催された「蕪村展」を見たが、蕪村の書画にはある種の明るさがある、と思った。生前は決して恵まれた生活ではなく苦労の多い日々だったようだが、「白梅に明る夜ばかりになりにけり」という辞世の句のもつ瑞々しい透明感はどうだろう。



 蕪村のお墓の近くに長崎県五島出身の国文学者・頴原退蔵(1894-1948)の筆塚がある。京都大学教授で近世文学、とくに芭蕉、蕪村の研究に業績を残した。わが故郷の先人の一人。筆塚の文字は新村出による。わが恩師のそのまた恩師なり。



 芭蕉は木曽義仲を慕い、その墓のそばに葬るよう遺言した。(膳所の義仲寺)。その芭蕉を慕って蕪村は芭蕉庵のそばに眠っている。精神のバトンリレーという言葉をふと思った。



 写真は洛北金福寺の境内。上手の茅葺屋根が芭蕉庵。蕪村の墓所はさらに少し上にある。芭蕉庵からの眺めは素晴らしい。近くの詩仙堂や円光寺は観光客でごった返しているが、ここは嘘のように静かで、なかなかよき、でした。


Photo  11月26日(木)晴れ。14日に日高敏隆さんが亡くなった。動物行動学の第一人者とされているが、私の中では、昆虫好きの少年がそのまま大人になった人という感じ。何かのシンポジウムで話を聴いたことがあるが、眠そうなお顔のセンセイだなという印象が強くて、話の内容は覚えていない。たくさんの著書があるが、愛読したのはエッセイや啓蒙書の類がほとんど。ローレンツの『ソロモンの指輪』の訳者として出会ったのが最初だと思う。河合隼雄との対談集『あなたが子どもだったころ』(光村図書 1988年)で子ども時代のことを語っているのを読むと、病弱だったせいで猛烈な軍国教育を行っていたPhoto_2 小学校に行けなくなり、(日高敏隆は1930年生まれで、2・26事件の年に小学校に入学)いまでいう不登校児童になったという。理不尽な体罰もあり、また好きな昆虫学をやるのを親に反対され、前途をはかなんで自殺を考えたが、担任の教師が親を説得してくれて助かったそうだ。さらにその教師の勧めで転校し、なんとか命拾いをしたという。そういうわけで小学校へは三分の一ぐらいしか行ってなくて、中学校も学徒動員が始まって工場通いばかりで通算三分の一しか行ってない。高校も学校が空襲でやられて郊外に引越したうえ、教師が出てこないので授業は休みばかり、だから三分の一しかいってPhoto_3 いない。「大学に入ったら父親が結核で倒れて、仕方がないからアルバイトやって、大学へは殆んど行ってない。そんなのが今、教師をしてるんだからね」。



 日高敏隆が語る子ども時代の思い出は、何度読んでも胸痛むものがある。親は子どものためと思っていても、果して本当に自分の子どもを理解しているのか、自分はどうだったのか未だに自信がない。軍国校長に反抗して10歳で断固登校を拒否した日高少年は勇気があったと思う。しかしそんなに早い時期に親と対決してまでも自分の進路を決めることができて、幸せだったのではないだろうか。希望を実現しえたのにはその後の勉強と努力があったからだろうが。



 その日高敏隆に『春の数えかた』(新潮文庫)というエッセイ集がある。この中の「諫早で思ったこと」には、1997年、干拓工事が進み、潮受け堤防が閉じられた直後の諫早湾を見てきたときのことが記されている。「諫早湾干拓の賢明な利用の実証的研究」を研究目標とした「諫早湾干潟研究会」の研究の様子を見分に出かけたのだが、湾の締め切りから一ヶ月後のことで、干潟はすでに乾ききっており、白い貝殻が累々とつづいていただけ、という。最後まで賛否両論あった干拓工事だが、堤防で完全に締め切るのは賢明なやりかたではない、といまでも思う。いま見直しを迫られているダムなどの公共事業が、諫早湾干拓事業と同じ徹を踏むことがありませんように、と願うばかりだ・・・。



 忙しくてブログを休んでしまった。写真は上から京都の東福寺。中は宇治の宇治上神社。下は宇治の興聖寺琴坂。


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  昨日の写真。上から安楽寺の門前。下は法然院。白砂壇の絵は流紋でしょうか。三枚目は黒谷さん(金戒光明寺)。浄土宗は元祖法然上人(1133-1212)の800年遠忌を2年後に控えて、どこのお寺でも記念行事が続いている。黒谷さんでは秋の特別公開中で、山門にたくさんの人が上っていました。最後は鹿ケ谷の霊鑑寺。今月20日に両陛下が訪問し、本堂からこの庭を愛でられたそうです。Photo_3 Dsc05695


Dsc05720  11月22日(日)晴れ。昨日の午後、鹿ケ谷にある霊鑑寺を訪ねた。毎年、春と秋に一般公開される門跡寺院で、春は椿、秋は楓の美しい寺である。特に樹齢350年といわれる楓の大木は、庭の高いところに立っていて、まるで堂を守っているかのよう。緑の苔の上に赤い楓の葉が散りおちて、目にも鮮やかな友禅模様の趣き。千両の赤い実とツワの黄色い花がそこかしこに彩を添えていた。ここまで来たなら折角だから安楽寺や法然院へ寄ろうか、ということになりそのまま西方へ。客を乗せた人力車が次々に傍らを通りすぎていく。3連休の初日だけあって、紅葉の名所はどこもすごい人出なり。安楽寺は石段の上にある茅葺の門と楓Dsc05696 が格好の撮影スポットというので、門前に記念撮影の人が群っていた。ここは法然の弟子である住蓮坊・安楽坊が開いた念仏道場がはじまり。二人の説法に感化された後鳥羽上皇の女房、鈴虫・松虫が宮中を抜け出し出家したことから、それに怒った上皇によって二僧は死罪に、その師である法然も流罪となった。江戸時代になって両僧の菩提を弔うために造られたのが現在の安楽寺だという。普段は静かなお寺だが、この時期だけ賑わう。



 霊鑑寺~安楽寺~法然院と廻り、白川通りを西へ渡って真如堂へ向う。15年前、私が京都に来たころ、ここはまだ「隠れた紅葉の名所」扱いだったが、いまや観光客が団体で訪れる所となってしまった。フリースペースの境内はまるで遊園地のように人があふれているが、肝心の紅葉はいま一つ。塔頭の一つ、吉祥院にこの時期だけオープンする「かふぇ水琴窟」へ寄ってコーヒーをいただく。このカフェは、市内にある5ケ所の共同作業所の人たちが開いているもので、心を病んだ人たちの社会復帰に役立てたいと吉祥院の住職が場所を提供して始めたものだそうだ。お寺本来の役割を果しておられるのだなあと嬉しく思いながらコーヒーをいただいた。サービスする人も部屋の隅で寛ぐ仲間たちも、ニコニコと柔らかな笑顔で、京都の神社仏閣でもっとこのような取り組みがなされていいのに、と思ったことだ。真如堂の紅葉の時だけ開店する吉祥院の「かふぇ水琴窟」にたくさんの人が訪れますように。



 写真上は真如堂の紅葉。下の写真は霊鑑寺。


Dsc05679  11月20日(金)晴れ。友人と錦秋の保津峡を歩いてきた。京都バスで清滝まで行き、清滝川沿いにJR山陰線の保津峡駅まで、約数キロのウオーキングなり。ウィークデイというのに渓谷の細い道を行き交う人の多いのには驚いた。中には単独行の若い女性もいる。清滝川沿いに歩くこと約1時間で落合に到着。小学校の遠足らしい一団と会う。私たちも河原で昼食。この落合は清滝川と亀岡からくる保津川の合流地点で、ここで保津川は大きく右に曲がる。保津川は嵐山・渡月橋の下から桂川と名前が変る。物資運搬の便をよくするために、角倉了以(1554-1614)が大堰川を開削したのは江戸Dsc05669初期のこと。その300年後に造られた琵琶湖疏水と並ぶ水運事業の雄といえる。  ここに架かる赤い落合橋はサスペンスドラマのロケ地で知られるところ。サネカズラやサルトリイバラの赤い実や、野ブドウの青い実が美し い。水の色は深い緑色で、時々清流に魚影が走る。かなり大きいのは鯉だろうか。落合橋を渡り、トンネルを抜けると、水尾へ行く舗装道路に出た。時々車が通るのを避けながらしばらく行くと川向うにトロッコ列車の保津峡駅が見えた。駅の手前の橋に立ち、次から次に川下りの舟がやってくるのを眺める。川下りの撮影ポイントらしく、舟が近づくと橋のそばで待ち構えていたカメラマンが大きな声をかけていた。トロッコ列車の線路沿いに植えられた紅葉が色づいて、いまがいちばんの見ごろ。駅の周辺に植樹された紅葉や桜の幹には、鹿除けの網が巻かれていた。ここまで来ると、山陰線の保津峡駅まではすぐ。舗装道路をたらたら歩いて行くと、左手の橋の上に駅が見えてきた。駅の手前の三叉路の、右の道を3.5キロほど行くと柚子の里・水尾。清和天皇の水尾陵があるが、今日は保津峡が終点。無人駅の前で地元の人が柚子を売っていたので購入。7個で500円。今夜は柚子風呂にしようか。



 清滝はかつて愛宕詣でが盛んだったころは参道にたくさんの店が並び賑やかだったそうだが、愛宕詣でや避暑に来る人が少なくなってからは、寂れてしまったという。清滝川沿いに与謝野晶子や吉井勇、芭蕉など、かつてここに遊んだ歌人や俳人たちの碑が立っているのが却って寂しい。



 落ち合うて 川の名かわる 紅葉かな   句仏



 落葉を踏みしだいて歩くのは久しぶりのこと、いい一日だった。



 写真上はトロッコ保津峡駅の橋上から見た川下りの舟。下は落合橋。


Photo  11月20日(金)晴れ。昨日は忙しかった。朝9時から出かけて数ヶ所で予定をこなし、夜は地域の集まりに出席、解放されたのは夜の9時過ぎ。夕方は祇園近くの喫茶店で博多から仕事で出てきた知人にあったのだが、これは嬉しいおまけだった。しかし夕方、約束の場所に行こうとタクシーに乗ったら、ものすごい渋滞でハラハラさせられた。いったい何事ならんといぶかしく思っていたら、タクシーの運転手いわく、「天皇・皇后両陛下が京都に来てはるので、交通規制をやっとるんですわ。ほら仰山警官がででますやろ」。そこはプロ、一方通行の京の道路をジグザグに走って、何とか待ち合わせの場所に到着。Mさんに会うのは数年ぶりのことだったが、仕事も私生活も充実している様子、なんとも嬉しい再会であった。



 一昨日の全国町村会が出した新聞の意見広告について。一昨日は情緒的なことを書いたが、あれはいったい誰に向けてアナウンスしているのかしら。故郷が荒廃するのを喜ぶ人はいないと思うから、もうこれ以上地方を痛めないで、と訴える相手は国(政策担当者)なのであろう。では、ここまで地方を追い詰めたのはいったい誰なのか、何故もっと早く異議申し立てをしなかったのか・・・



 夜、休む前に日課の『古事談』を読む。


Dsc05586  11月18日(水)曇り。カナダに住むKさんからメールあり、夫人のTさんが教育学の博士号を取得したとの報せ。「5年がかりでした。今年彼女は日本で言う還暦です」とある。添付された写真にはカルガリー大学のガウンに帽子姿のTさんが写っている。偉いものだ。早速お祝いのメールを送る。二人の出会いは30年ほど前のこと、九州男児のKさんが勤める会社に英語講師としてカナダ生まれのTさんが派遣されてきたのがきっかけ。その後親しくなった二人は結婚の約束を交わすが、彼女の帰国が近づいて、Kさんは会社を辞めてカナダに移住することを決意、幸いかの地ですぐに仕事が見つかり、二人の男児にも恵まれて幸せな日々を送っている。Tさんはよく学び、よく遊ぶ、生き方上手な女性で、今回の博士号取得も驚くほどのことではないのだ。これからは「T」と呼ばず、「Dr. ○○」と呼ばなければならないのかしら。



 今朝の新聞に「日本人よ、故郷をなくしてどこへいくのですか」と題する意見広告が出ていた。広告主は全国町村会とある。



 「日本の原風景、日本人の心の原点である自然を育んできた「ふるさと」がいま危機に直面している。過疎化と少子化、農林水産業の衰退で地方は元気を失っている。・・・「平成の合併」で2600ほどあった町村は1000弱まで減少し、歴史の中で愛され誇りとされてきた多くの町村名も消えてしまった。効率だけを追求し、市場主義に偏った制度改革で突き進んだら、もう後戻りはできなくなる。「ふるさと」を失うことは「日本」を失うこと。日本人のアイデンティティを永遠に失うことになる」



 というようなメッセージが、田園風景の写真に添えられている。私は地方の町っ子なので、「兎追いし山」も「小鮒釣りし川」も知らずに育ったが、写真にあるような風景を見るとただただ懐かしく有り難く思う。だから限界集落、などという言葉を耳にするといたたまれなくなる。第一次産業を疎かにすると罰が当たる、という気がしてならないのだが。私の夢は晴耕雨読・自給自足の生活だが、夢を実現するための努力は一切やっていないので、多分見果てぬ夢に終わることだろう。



 夕方、愛宕山の上空が真っ白になったかと思うと、京の町をしぐれが通りすぎた。



  「比叡あたご 雲の根透けり 村時」 (言水)


Dsc02451  11月17日(火)雨。友人と誘い合わせて宇治の源氏物語ミュージアムで展示中の『源氏物語』大澤本を見てきた。明治時代に鑑定され、昭和の初めに池田亀鑑によって調査されてから80年隠れたまま、研究者の間で幻とされてきた写本である。現在流布されている写本と異なる部分があるというので、新たな話題にもなった。友人は専門家なので、彼女の眼で確かめてもらおうと目論んでいったのだが、54帖各巻が時代も身分も異なる筆者によるもので、彼女の鑑定ははたして「?」であった。説明文によると、先祖が豊臣秀吉から拝領して大澤家に伝わってきたものとのこと。筆者の中には後醍醐天皇、阿仏尼、西行法師、寂蓮法師、壬生家隆、久我通親など、よく知られた人たちがいて、時代も300年くらいのスパンがある。同時期にいろんな人に書かせたものを編んだというわけではなく、様々な時代に書かれた写本を集めたにしては54帖、都合よく揃ったものだなあと感心させられる。これを不足分を集めた取り合わせ本というそうで、平安、鎌倉の写本を集めて室町末期に体裁が整えられたらしい。それが本当なら、定家校訂以前のより古い『源氏物語』も含まれるということになる。古筆の鑑定は難しいと思われるが、大澤本の多くは明治に真筆と鑑定されていて、素人には根拠は何だろうねえ、と思われたことだ。確かな真筆と見比べて、というなら間違いはないのだろうが。まあ、それにしても美しい水茎の跡で、かな文字のよさを味わうことはできた。筆跡鑑定という言葉があるが、54帖、同じかな文字でもその跡は様々で、活字本に慣れた目には味わい深く感じられたことだ。



 写真は嵯峨鳥居本の鮎の宿つたやの茅葺屋根。


Photo  11月16日(月)曇り。金曜日、ふと思い立って部屋の模様替えをしようと家具を動かしたら、腰を痛めてしまった。なんともはや。週末はすべての予定をキャンセルしておとなしく家に籠っていたのだが、まだ調子はよくない。日頃の運動不足が祟ったのだろう。「我、事において後悔せず」と強がってはみたものの、今回ばかりは日頃の怠慢を後悔。いや、反省か。ようやく立てるようになったので、早速パソコンの前に坐ってみる。災難は忘れたころにやってくるというが、全くである。腰痛に見舞われるのは初めてではないが、いつも旅行前というのが情けない。週末は安静にしてひたすら本を読んでいた。おかげで積んだままにしておいた本がずいぶん片付いた。



 「籠り居て 木の実草の実 拾はばや」という句が芭蕉にあるが、私もドングリの類を見るとつい拾いたくなる。縄文人だったころの記憶がそうさせるのだろうな、とPhoto_2 思いつつ、つい手が出る。いま町を歩くとあちこちに銀杏が色づいて、木の下に実をたくさん落としている。独特の臭いがするので敬遠しているが、この実を拾い集めている人をよく見かける。いまでこそ銀杏は好んで食べるが、子どものころは苦手だった。小学生のころ、クラスメイトにKさんという少女がいて、学校によく豆を持ってきていた。彼女の家は市場の中にある豆専門店で、ポケットにはじき豆(京都では花豆というのかな)や、ソラマメ、落花生などを日替わりで入れてきて、昼休みに少し分けてくれるのだった。ある日、彼女が銀杏を持ってきたとき、私は臭い、といって遠ざかったことがある。毎日豆菓子を分けてくれていたのに、心無いことをしてしまった。彼女とどうやって仲直りをしたのか覚えていないが、その後彼女のポケットに豆が入っていることはなかったと思う。府立植物園に銀杏が売ってあったので買ってきた。園内で収穫した銀杏だとのこと。茶封筒に10数粒入れて、電子レンジで20~30秒温めると、破裂音がして翡翠色の実が現れる。本当は焙烙鍋で気長に炒るのがいいのだが、手っ取り早く調理するならレンジが一番。



 銀杏の実を見ると、Kさんを思い出す。「越し方を 思う涙の 耳に入り」ではないが、銀杏のようにほろ苦い思い出である。



写真上は嵯峨野の落柿舎。俳人向井去来の旧宅。ここに芭蕉もたびたび滞在した。下の写真は同じく嵯峨嵐山の常寂光寺の裏辺り。先週金曜日の様子です。


Dsc05618  11月13日(金)雨のち曇り。一気に寒くなった。京都盆地を取り囲む山々が色づいて、いよいよ本格的な紅葉のシーズンとなった。今年は夜もライトアップする所が増えたから、どこも紅葉の名所は夜まで賑わうことだろう。清水、高台寺周辺は鬼門なり。



 さて、昨日は島尾敏雄(1917-1986)の命日だった。亡くなる少し前に、長崎のミッションスクールで島尾敏雄の講演を聴いた。このときのことは以前ブログに書いたので、今日は書かないでおく。そのときの印象を「白皙の人」という短いエッセイに書いた。その後、小川国夫さんにお会いしたとき、島尾敏雄のことを話した覚えがある。島尾敏雄の死後、時をおかず、小川国夫の『回想の島尾敏雄』(小沢書店 1987年)が出た。お会いしたとき私はこの本を持参していたので、本を開いて写真のページなどを見たりしていたのだが、小川さんはさっと本を手に取ると、扉に「わが仰望の作家」と書いてくださった。島尾敏雄の代表作は『死の棘』だろうか。心を病む妻との曠野のような日常を書いた小説だが、そのモデルとなったミホ夫人も、彼を仰ぎつつ独特の文学世界を築いた小川国夫もいまはない。私は島尾敏雄の『魚雷艇学生』が好きだ。島尾は予備学生として魚雷艇の訓練を受け、特攻志願者として奄美の加計呂麻島へ赴き、そこで終戦を迎えるのだが、『魚雷艇学生』の「湾内の入江にて」の章は長崎県川棚町での訓練の様子が描かれている。この訓練所は大村湾内の穏やかな入江にあり、描かれている内容はシリアスで死の影が常につきまとっているのに、どこかのどやか。長崎にいたころ、何度が川棚の訓練所跡を訪ねたことがある。島尾敏雄には夢を描いた幻想的なもの、魚雷艇学生のように自分の戦争体験をテーマとしたもの、また代表作『死の棘』のような私小説に近いもの、そして晩年によく語った琉球弧などのような民俗的なもの、などいくつもの文学世界がある。今日は久しぶりに再読してみようかしら。


Dsc05611  11月12日(木)晴れ。今朝、二条城のそばを歩いていたら、バスガイドらしき人から声をかけられた。「今日は天皇陛下の即位20周年記念日で、二条城は入場無料ですよ」。約束があって出かける途中だったが、一回りするくらいの時間はありそうだったので、久しぶりに入ってみた。城門の左右に大きな日の丸の旗がたっていて、まるでお正月みたい。修学旅行生、外国人観光客が固まって移動するなかを、すりぬけながら一周してきた。二条城は庭がいい。植物園のように大きな樹がたくさんあって、色づいてきた木々を見ながら歩くだけでも気分がDsc05603 いい。見上げるばかりの椋や榎がはらはらと葉を落としている。桜の木の下で近くの保育園のこどもたちが赤い葉を拾っていた。その桜の園の一画で発掘調査が行われていた。江戸時代(寛永時代ー1624~44)の女院御殿の跡が出たところだという。月曜日、現地説明会があるそうだが、一足先にその様子を見分させてもらった。調査地は二条城の南端にあり、もともとは神泉苑の一部だった場所。神泉苑は二条城に取り込まれ、近年には押小路通りに削られ、平安京のころの何分の一に縮小して小さな池が残るばかり。だが、蕪村の句にも詠まれ、空海、義経ゆかりの地として親しい史蹟。



 荻原魚雷の『古本暮らし』に続いて、本に関する本をいくつか読む。



●池谷伊佐夫『古本蟲がゆく』(文芸春秋 2008年)



●向井透史『早稲田古本屋街』(未来社 2006年)



●喜多村拓『古本屋開業入門』(燃焼社 2007年)



 毎日、少しづつ『古事談・続古事談』(岩波古典文学全集)を読んでいる。内容は『中外抄』や『富家語』と重なる部分が少なくないが、説話集は下手な小説を読むよりうんと楽しく面白い。『古事談』は鎌倉初期に書かれたものだが、このあと、『古今著聞集』や『十訓抄』『沙石集』など優れた説話集が続々と書かれた。時代の変化と関係があるのかしらん。



 吹く風の色の千種に見えつるは 秋の木の葉の散ればなりけり 



                         読み人知らず 『古今和歌集』



写真上は二条城の北側の庭。春はしだれ桜が美しいところです。写真下は今朝の神泉苑。ここも紅葉が色づいてきました。


Dsc05583  11月10日(火)曇り。午前中、所用があって岡崎へ行く。約束の時間より早めに着いたので、地下鉄蹴上駅を出て、南禅寺に寄り道をした。三条通りから煉瓦造りの通称ねじりまんぼうトンネルをくぐると、眼の前に色づいた紅葉が。金地院も東照宮の紅葉も、もう見ごろに近い。期待しながら南禅寺の門をくぐる。三門近くの紅葉はもう真っ赤で、三門脇の天授庵の紅葉も見ごろとなっていた。水路閣まで足を伸ばす時間がなくて残念だったが、この分では、洛北の紅葉ももう見ごろかもしれない。京都御所の一般公開が今日までだったので、行くつもりだDsc05591 ったが、本屋をはしごしていたら時間切れとなった。小雨も落ちてきたし、真直ぐ帰宅。



●荻原魚雷『古本暮らし』(晶文社 2007年)を読了。楽しい本だった。自分と同じようなことを考えている人がいるのだなあ、と嬉しくなる。いかに自分の空間と時間をつくるか、増える一方の本をどうやって整理するか。一冊買ったら、一冊処分する、それくらいの気持ちがないと、本に埋れることになる。本に埋れて死ぬのは本望だが、いますぐは困る。私は気に入った単行本が文庫になったら、文庫を買って単行本を処分することにしている。単純にスペースの関係で。この荻原氏も同様のことをしているらしい。



 「わたしは整理術の基本であるイン&アウトの法則を忠実に実践する者である。つまり買ったら、売る。もしくは捨てる。これは本にかぎらず、レコードやCD、衣類、食器、なんでもそうする」。



 買うためには捨てなければならない、そう思うと、本当に必要なものしか買う気にならない。(はず)。私は年をとったせいで、有り難いことに物欲から解放された。美術品も書画骨董も、純粋に見て楽しむだけ。失うものがなければ、心は穏やか。そういう意味で年をとるのは楽しい。いらないものはどんどん捨てていく。できるだけ身軽でいたい。



 写真上はねじりまんぼう(トンネル)を出たところ。写真の奥にトンネルが。下の写真は南禅寺三門そばの天授庵。光が足らず、折角の紅葉の色が暗くて残念だが、もう見ごろです。


Dsc05562  11月9日(月)晴れ。午前中、運転免許証の更新手続きに行く。朝、8時半の受付に間に合うように行ったら、もう受付前は長蛇の列であった。行列は苦手だが、ここはおとなしく並ぶしかない。2800円の更新料を払い、顔写真を撮り、30分の交通安全の講習を受けてようやく解放される。次の更新は5年後だが、はたして元気でいるかしらん。



 先週訪ねた天理図書館の玄関に、古びた大砲が置いてあった。かたわらの説明版によると、これは長崎港内から引き揚げられた元ポルトガル船マドレ・デ・デウス号に装備されていたカノン砲である、とのこと。へえ、あのデウス号ねと思いDsc05575 ながら続きを読む。「1608年、デウス号がマカオに停泊中、かの地に寄港した肥前国日野江城主有馬晴信の家臣多数を殺害した。そこで翌年、デウス号が長崎に入港したとき、晴信は徳川家康の許可を得て、デウス号を焼き討ちし、沈没させた」。長崎港内に沈むポルトガル船のことは有名で、タイタニックではないが、宝探しのような話題にもなったが、いつ引揚げられたのだろう。カノン砲が物を言えるなら、400年の歴史を語ってくれるだろうが・・・。



 天理大学には図書館の他にも素晴らしい場所があって、それは大学付属のミュージアム「参考館」。考古、歴史、人類学、世界の生活文化に関する収集展示の充実ぶりは何度見ても感心させられる。博物館はただお金があればできるというものではない、そこに明確な指針を持った研究者がいなければ、宝の持ち腐れになりかねない。天理大学には優れた考古、文化人類学者がいたのだろう。(金関恕さんです) 金関恕といえば、父親で博物学者の金関丈夫を思い出す。丈夫は医学部出身の人類学者で、考古、民族学をも専攻、その著書の自由自在さには南方熊楠を連想させるものがある。法政大学出版会から出ている金関丈夫コレクションを愛蔵しているが、半世紀前に書かれた文章が少しも古びていないのが嬉しい。



 写真上は天理図書館玄関前に展示されている「デウス号のカノン砲」。下は金関丈夫の本。わが愛蔵書の一つです。


Dsc05550 11月7日(土)晴れ。11月の京都はあちこちの神社仏閣で、火焚祭が行われる。「お火焚」は晩秋から初冬にかけての京の町の風物詩で、そもそもは宮中の新嘗祭(収穫祭)に由来するもの。参拝者が奉納した護摩木や火焚の片木を焚いて、無病息災、家内安全を祈願するものだが、お坊さんたちに交じって山伏姿の修験者が法螺貝を吹き、護摩木の火をつけ祈祷する。このとき、お供えされるのが「お火焚饅頭」や「柚子味のおこし」で、護摩焚きで焼いたみかんを食べると風邪除けになるといわれているそうだ。先だって千本下立売通近くで会合があり、そこでこの「お火焚セット」をいたDsc05540 だいた。お饅頭に押してあるのは宝珠の焼印で、中身はこし餡。帰途、下立売通りを少し上った出水通りを歩いていると、桜宮という小さな神社があり、ここにも鳥居の前に「御火焚祭」の看板が立っていた。



 昨日、天理図書館で見た「上田秋成展」について。秋成の自伝は、当時琉球からもたらされたアダン製の筆で書かれている。また75歳の折の自画像には、楽器を楽しむ秋成の姿が描かれているが、その楽器はアイヌの「トンコリ」。三味線や枇杷のような絃楽器だが、胴に膨らみがなく、真直ぐの棒に糸を張ったような状態のもの。宣長の皇国史観を批判し、「典はいづれも一国一天地にて、他国に及ぼす共諺にいふ縁者の証拠にて、互に取あふまじきこと也」として、他国には他国の神話があり、自国の神話を他国におよばすことはできないと考えていた秋成の世界観を垣間見たような気がした。



 写真上はお火焚きのお下がりセット。下は千本出水の桜宮。小さいお宮だが、天照皇大神以下、春日、稲荷、金毘羅など七柱の神様と、宗像三姫大神が祀られています。


Dsc05554  11月6日(金)晴れ。天理大学の図書館で開催中の「秋成ー上田秋成没後200年によせて」を見てきた。天理図書館開館79周年記念展とある。近鉄京都駅から天理行き急行で約一時間。奈良へはよく行くが、天理方面へは久しぶりのこと。近鉄駅はJR天理駅に隣接しているが、JRの天理駅は桜井線の他の駅に比べると格段に大きい。やはり天理教の本部があるからかしら。駅から図書館まで商店街を歩いて行く。商店街には式服や教本などを売る店が目立ち、行き交う人の中には天理教と書かれた法被姿の人が目立つ。天理図書館は大正末期、天理教の文教施設として設立され、二代真柱中山正善の図書蒐集によって、Dsc05557 希書、秘籍の宝庫として世界的に知られる図書館となっている。国宝、重要文化財を数多く所蔵していることで有名だが、これらの貴重書の収集には反町茂雄の強力な協力があった。天理図書館のコレクションについては、反町茂雄の自伝『一古書肆の思い出』(全5巻)に詳しい。また、天理図書館長を勤めた濱田泰三による『やまとのふみくら』(中公文庫)にも詳しい。



 さて、秋成展だが、期待以上の展示物で、存分に楽しんできた。自筆の書・本がかなりあり、秋成の息遣いが伝わってきそうなほど。自伝や自画肖影、「胆大小心録」など、じっくりと眺めてきた。秋成の自伝を見た時、ふと南方熊楠の履歴書を連想してしまった。1783年に蕪村が亡くなると、その翌年、秋成は友人たちと蕪村の追悼集を出した。そこに秋成は長文の前書きに続いて、「かな書の詩人西せり東風吹て」という発句を載せている。



 秋成の文字は癖があって、読みにくい。(もっとも、筆による草書は私にはとても読めない) でも、眺めているだけで幸せな気分になった。読書百遍ですね。



 写真上は天理図書館。銀杏がきれいに色づいていました。下は図書館の玄関に立ててあった「秋成展」の看板。今日から天理大学の大学祭が始まっていて、構内は学生たちによるバンド演奏などで賑やかでした。


Photo  11月5日(木)曇り。岡崎の近代美術館で「ボルゲージ美術館展」を観る。初めて聞くミュージアム名だが、ローマ市北東部にある名門貴族の美術館だそうだ。教皇パウルス5世の甥で枢機卿のシピオーネ・ボルゲーゼ(1570-1633)は17世紀を代表する大パトロンで、彼のコレクションを基にしたこの美術館はルネサンス・バロック美術の宝庫といわれているとのこと。なるほど、ラファエロに始まり、カラヴァッジョに終わる展示品の数々は、日本初公開とあって、なかなか見ごたえのあるものだった。聖書やギリシア・ローマ神話をテーマとしたものが殆んどで、同じテーマの絵がいくつもあり、画の競演を見るのも面白いことだった。(例えばPhoto_2 ヴィーナスとキュピッド、レダと白鳥、聖母子とヨハネ像など)。本展の目玉になっているラファエロの「一角獣を抱く貴婦人」は画家20代の作品で、気品にみちた画にはダ・ヴィンチの影響が見受けられる、と説明にあった。ルネサンスらしい、幸福感漂う展覧会。



 岡崎の疏水べりの欅や桜が少し色づいて、深緑色の疏水に影を落としている。吹き過ぐ風はもう初冬のもの。今年もあと2ヶ月。中也ではないけれど、



「あゝ おまえはなにをして来たのだと・・・・



 吹き来る風が私に云ふ」



 ●森浩一『日本の深層文化』(ちくま新書 2009年)を読む。教えられること多し。一気に読むのがもったいなくて、少しずつ、繰り返し読んでいる。


  1. Dsc05530  11月3日(火)晴れ。写真は今朝6時10分ごろの愛宕山。初冠雪で山頂付近が真っ白に。最初は雲がかかっているのかと思っていたが、空が明るくなるにつれ、冠雪とわかる。十六夜月が冴え冴えと輝いていたが、見る間に山の端に隠れてしまった。


 暗きより暗き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月 (和泉式部)



 わが家の居間の窓は西向きなので、満月も十六夜月も、翌朝、西空にかかる残の月を見ることが多い。「月は東に 日は西に」ではなく、「月は西に 日は東に」。



 今年は上田秋成(1734-1809)の没後200年で、いま、天理大学の図書館で「秋成ー没後200年によせて」が開催中。国文に限らず古典書・資料の宝庫のようなこの天理図書館が所蔵している秋成関連資料が展示されているという。自筆資料が豊富に出ているというから、見にいかなければなるまい。秋成の歌碑が京都御苑の東・梨木神社の鳥居脇にあるが、見る人もいないのか傍らに立つ案内板の文字も薄れ、石碑も侘しい。お墓は南禅寺近くの西福寺と生地大坂・香具波志(かぐわし)神社にある。同じころ京都に住んでいたので、秋成は蕪村と交流があった。少なからずお互いに影響しあったのではないか・・・と二人のファンである私は思いたいのですが。


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