2010年01月

Dsc06340  1月29日(金)晴れ。今朝6時ごろ、愛宕山の左肩に赤い色をした真ん丸い月がかかっていた。これは14夜のルナ・ロッサ。今日は旧暦の12月15日で、今夜が満月。5年間の上海勤務を終えて、Sさんが帰国した。東京の勤め先へ戻る前に京都へ寄ってくれたので、祇園で食事をした。Sさんが向うにいた間に何度か上海へ出かけたが、いつも団体ツアーを利用したので、上海でSさんに会ったのは何度もない。ツアー一行とは別行動で二度ほど食事をしたくらいか。上海ほど変貌著しい町はないだろう。行くたびに新しいビルが建ち、町並みが一変している。今年は万博が開催されるので、町のスクラップアンドビルドに拍車がかかっているにちがいない。かの国での体験談に花が咲いたが、好むと好まざるに関わらず、近いうちに中国が日本を抜いて経済大国になるのは間違いないだろう、というのがSさんの意見で、中華思想は根強いし、かの国の人々はお金に関してはウルトラリアリストで、情緒的な日本人はとてもかないません、とのことだった。社会主義のいいとこと資本主義のいいとこをあわせた国づくりをすればいいのだろうが(これを修正資本主義というのでしょうか、いや中国の場合は修正社会主義?)、これが反対になった場合を考えると空恐ろしくなる。現実にはその可能性の方が高いのではないかしらん。日本はいま格差社会だというけれど、かの国の経済的格差は日本のそれどころではないらしい。



 上海といえば林京子が少女時代を過ごした日本租界や魯迅のお墓がある魯迅公園辺りを思い出す。ガーデンブリッジやフランス租界の煉瓦造りの町並み、洋館が建ち並ぶ外灘地区、洗濯物が頭上にひるがえり、狭い石畳の上にごちゃごちゃと物売りが並んだ旧市街の猥雑さがなんともいえぬ魅力だったが。戦前の上海で少女時代を過ごしたという知人は、「私の故郷といったら上海なんだろうけど、郷愁や懐古心で昔話をしたら駄目だって叱られたわ」と複雑な心境を語ったことがあった。戦前、わが国の植民地だった地で子ども時代を過ごした人たちはみんなこんな複雑な思いをしているのだろうか。



 写真は京都動物園のライオン夫婦。向かい合ってどんな話をしているのかしら。


Dsc06316  1月28日(木)雨。一昨日、蹴上で会合があった帰り、動物園の前を通りかかったら、ふと中へ入ってみる気になった。引越してきてすぐ訪ねた覚えがあるから、京都の動物園に入るのは15年ぶりということになる。以前に比べると案内板が増えて、来場者を楽しませようという努力がうかがえた。北海道・旭山動物園の成功で、各地の動物園もやる気になったのだろう。旭山動物園は山手の傾斜を利用して階段状に園舎があり、見て廻るのには結構上り下りがあって年寄りには負担があるのではないかと思われたが、その年寄りたちがいちばん楽しそうにしていたのが印象的だった。(私もその一人)



さて、動物園といえばやはり象、キリン、ライオン、虎、だろうか。京都動物園にもちゃんと象がいました。村上春樹に動物園の象の体が徐々に小さくなっていき、最後はぬいぐるみほどになって檻の隙間から逃げ出したかして姿を消してしまう、という短篇があった(タイトルは忘れた)。村上春樹は図書館や人のいない夜の動物園が好きなようで、よく小説に登場させているが、象のような巨大な生き物が縮んでいってそのうちいなくなる、などという話はちょっとしたミステリーで、象を見た途端、その短篇を思い出した。いつまで見ていても、京都の象は縮みそうにない。ライオンやジャガー(これが美しい)、今年の干支の虎を見たあと、案内板に誘われてブラジルバクの舎へまわった。獏は悪い夢を食べてくれるそうだが、眼の前のバクの母子は夢ならぬ青々とした葉っぱを食べていました。子どもバクは去年の10月に生まれたそうで、名前はリオ。われわれが想像するバクはもっと顔の長いマレーバクのようで、このブラジルバクはおっとりと、でもなんとも剣呑な姿をしていました。バクが本当に悪い夢を食べてくれるのなら、最近の新聞記事をどんどん食べてもらいたいものです。



 動物園がある岡崎公園は11世紀末の院政時代、白河天皇によって建てられた六勝寺があった地で、動物園はその中でも第一といわれる法勝寺跡にある。園内の中ほどに、法勝寺跡の看板とこの地にそびえていた八角九重の塔(80メートルもの高さがあったとされる)跡を示す石碑があった。丸太町のアスニー内にある平安京創世館にこの六勝寺の模型が展示してあるが、高さ80メートルといえば現在の京都ホテル(60メートル)よりも高く、当時は抜群のランドマークだったことだろう。



 写真はブラジルバクの母子。


Photo  1月25日(月)曇り。昨日の日曜日、京田辺の尾根歩きに挑戦してきた。地元の人たちが推選するハイキングコースで、初心者でも歩けるかと友人と誘い合って出かけたのだが、途中で道を見失い、くぬぎ林の中でさ迷うこと1時間、同じ道を何度も往ったり来たりして、心細い思いをした。地図を持っていたが、自分がいる場所がわからないので、何の役にも立たない。ようやく元来た道を見つけて山(といっても300メートルにも満たない丘陵なのだが)を降り、人里へ出たときはホッとした。尾根歩きなので、所どころにある案内の矢印を頼りに、送電線の鉄塔の下を行くのだが、倒木を越え、藪を払いながら進むうち、崖の上に出て、どうしても前に進めなくなったのだ。周りは竹薮とクヌギが群生し、方角もよく判らない。三角点の場所までは竹の枯葉を踏みしだいて歩けたのだが、クヌギ林に入ってからは前人未踏の雰囲気。最悪の場合は携帯電話でSOSね、と覚悟したのだが、無事生還できてよかった! 何事にも先達はあらまほしきことなりと痛感したが、帰宅して地図を確認しても、自分達が迷った場所を特定できないのが情けない。



 京田辺の普賢寺小学校前水取バス停前をスタートして時計回りに打田~高船~千鉾山~天王~普賢寺と歩く予定だったが、中間地点の高船でリタイア。天王からスタートして反対周りに歩いた方が見所も多く、迷うこともなかったのではと悔やまれた。そのうち再チャレンジ(リベンジ)したい。



 最初の予定では、尾根歩きのあと、普賢寺の観音寺で国宝の十一面観音像を拝むつもりだったが、思わぬリタイアで気持ちがくじけ、枚方経由で京都に戻る。昨日は快晴で真青な空に冬枯れの木々が梢をひろげ、そこかしこに真っ赤に熟れた実をたわわにつけた柿の木があって、のどかな田園風景を楽しむことができた。サンシュユや蝋梅の黄色い花に早春を思い、さまざまな野鳥の声に耳を傾けてきた。尾根歩きの目的を完遂することはできなかったけれど、いい休日でした。



 今日は午後から『古今著聞集』を読む会、夜はIさんと鴨鍋を食べに行く予定です。



 写真は京田辺の天王禿尾の里付近。この近くに「二月堂礼拝所」がありました。東大寺二月堂のお水取りに使われる竹はこの地から運ばれるそうです。


Photo_2  1月23日(土)曇り。午後、近くの図書館へ調べ物に行く。玄関を入ったところでバイオリンの音色がするのでおや、と奥を見やると、子どもの本のコーナーで音楽会が開催中だった。演奏しているのは京都市交響楽団のメンバーからなるラビッシュアンサンブルというグループで、絃楽器にホルン、クラリネットが加わった7人。子どもたちのためのお話コーナーが舞台で、児童図書のフロアは親子連れでいっぱい。私もみんなの後ろで15分間のミニコンサートを楽しませてもらった。メリー・ウイドウやカルメン前奏曲のあと、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートでお馴染みの「ラデッキー行進曲」が元気よく演奏されておしまい。なんでも今夜、図書館に隣接するアスニーホールでこのグループの演奏会が開催されるので、リハーサル前の時間に演奏してもらったという。図書館では毎月、今日のような音楽会が開かれているそうだ。たった15分間でも生の演奏に触れることができるのは子どもたちにとっても楽しいことだろう。いい企画だと嬉しくなった。いつも携帯しているカメラを忘れたのが残念。



 帰宅して『日本往生極楽記』(慶滋保胤著 984年ごろ成立)を読んでいると、40段にこんな文章があった。



「近江国坂田郡の女人、姓は息長氏なり。毎年に筑摩の江の蓮花を採りて、弥陀仏に供養したてまつり、偏に極楽を期せり。かくのごとくすること数の年、命終るの時、紫雲身に纏わりぬ」



 車で長浜へ出かけるときはたいてい琵琶湖大橋を渡り、琵琶湖の東側の湖周道路を走って行く。近江八幡から能登川を経て、彦根を過ぎる辺りから道路は湖のそばを走る。その彦根を過ぎて米原にさしかかるところに朝妻筑摩という所がある。この辺りから見る長浜方面の景色は格別で、いまごろなら北方に雪を頂く山並みが見える。風景も素晴らしいが、私はいつもこの「朝妻筑摩」という地名を見るたびに、どんな所なのか気になっていた。今日、たまたま本にこの地名を見つけて調べたら、延暦19年(800)に筑摩御厨とあり、その地の長一人が内膳司となって、筑摩からは毎年「醤鮒・鮨鮒・味塩鮒」が納められた、とある。1200年前もこの辺りは鮒の産地だったようだ。御厨の長は息長氏で、『往生極楽記』に出てくる女性と同姓なのが興味深い。以前、伊吹山付近を散策したとき、三嶋池の北方で息長陵(敏立天皇の皇后・息長広姫の墓)を見たが、あの辺りは息長氏の地だったのですね。



 往生記の話は筑摩の池の蓮の花を仏に供えて極楽往生を祈願していた女が、望みどおり、臨終の際、紫雲に纏われて往生した、というだけのことだが、「筑摩」という地名からいろいろと連想したことだ。筑摩といえば私など、信州筑摩がまず思い浮かぶのですが。



 写真は東寺の餅花。もう正月気分は終わりましたが。


Photo  1月22日(金)晴れ。鎌倉時代に成立した説話集『古事談』の最初に出てくる話は、「称徳天皇道鏡を愛する事」。称徳天皇は聖武天皇の第一皇女で、わが国初の女性皇太子となり、天平勝宝元年(749)即位して孝謙天皇となった。彼女の後、天武天皇の孫である太炊王が即位して淳仁天皇となったが、数々の政争ののち淳仁は淡路に追われ、孝謙太上天皇が重祚して称徳天皇となった。それまでj政治の実験を握っていた藤原仲麻呂(恵美押勝)が失脚し、代わりに道鏡が台頭してくる。天皇は道鏡を頼みとして重く用い、765年には太政大臣禅師とし、翌年には法王とした。しかし称徳天皇が770年に亡くなると、道鏡は罪に問われて下野薬師寺に左遷され、彼の地で没している。この女帝と道鏡の話はロシアのアレクサンドラ皇后とラスプーチンなどと並べて語られることが多いが、ロシアの話はいざ知らず、道鏡に関して私は世評とは少々異なる感想を持っている。



 称徳(孝謙)天皇がどんな女性だったかよく判らないが、彼女がそれほどまでに重用した道鏡には政治的手腕だけでなく知力兼ね備えた人間的魅力もあったに違いない。数年前、正倉院展で道鏡の書を見たことがある。かなり大きなもので、墨の色はいま書いたように鮮やか、その字は雄渾そのもので、漲る知力を感じさせる文字だった。まさに文は人なり、色仕掛けで女帝をたぶらかす怪僧というイメージから遙かに遠いものであった。先日、八尾の弓削神社を訪ねて、その書体を思い出した。



 『日本霊異記』の道鏡のくだりは、「弓削の僧道鏡法師、皇后と枕を同じくして交通ぐ。天下の政を相摂りて天下を治む」。『古事談』には、「道鏡法師を以って、小僧都と為す。元は河内国の人、俗姓は弓削氏なり。法相宗、西大寺。義淵僧正の門流なり。常に禁掖に侍し、甚だ寵愛せらる。如意輪法の験徳、と云々」。



 『日本霊異記』の成立は822年とされているが、称徳天皇の没後50年にはもうこのようないかがわしい説が書かれたのかと思うと溜息がでる。天皇に重用されすぎて左遷されついには天神となった菅原道真と比べると、道鏡は神様になれないばかりか、のちのちまでも貶められてなんとも気の毒ではある。(私が知らないだけで、もしかすると道鏡の名誉回復はなされているのかもしれない)。



 写真は八尾市弓削町にある弓削神社。JR関西本線志紀駅の東西に二つの弓削神社がありました。


Photo  1月21日(木)雨。昨日は今年最初の歴史散歩で、河内国を訪ねてきた。昨日訪ねたのは中河内とよばれる一帯で、現在の八尾、柏原あたり。奈良時代は難波と奈良を結ぶ要所でずいぶんと栄えた所だそうだ。道鏡の出身地の弓削には称徳帝が764年に造営した由義宮(西の京)があった。まずはJR関西線で天王寺から志紀へ出て、弓削神社や由義神社(由義宮跡)を廻り、次は近鉄大阪線の安堂駅で下車して奈良時代に栄えた智識寺跡(現在の石神社あたり)を訪ねる。智識寺が初めて文献に登場するのは『続日本紀』天平勝宝元年(749)10月9日条のことで、そこには孝謙天皇が智識寺に行幸したことが記されている。智識寺には高さが16メートルもある塑像の大仏があり、聖武天皇はこの大仏を見て(740年)、奈良の大仏造立を思い立ったという。(『続日本紀』天平勝宝元年12月27日条に「去辰年河内国大県郡乃智識寺尓坐盧舎那佛遠礼奉天則朕毛欲奉造止思」(智識寺の大仏を拝んで、自分も大仏を造りたいと思った)とある通り。聖武天皇に東大寺の大仏建立を思い立たせたという智識寺跡は大仏はもとより、当時の大寺をしのばせるものはほとんど残っていないが、唯一あるのが東塔の心礎。西塔の心礎は何故か京都の南禅寺近くの邸宅庭内にあるそうだ。



 智識寺は生駒丘陵の西山麓にあり、この周辺には横穴古墳がやたらとある。まさに行けども行けどもの横穴古墳群で、今回は時間がなかったが、いつか再訪して古墳を見てみたいと思った。智識寺を出たあと安堂駅前で昼食をとり、そこからはタクシーで大和川を渡り、藤井寺にある河内国府跡へ。允恭天皇陵(市の山古墳)の東方にある国府跡を入口付近から眺め、そのまま大和川沿いに奈良街道を東へ行き、東条(ヒガンジョ)町にある河内国分寺跡へ。国道25号線(奈良街道)を外れて少し南側の山手へ入ったところに国分寺塔跡があった。集落内には尼寺(にじ)の字名もあることから、国分尼寺も近くにあったのだろう。国分寺は大和川を見下す高台にあり、1970年の発掘調査で出土した塔の基壇や礎石がきれいに保存されていた。大和川をはさんだ向かいの北側に聖武・孝謙の両天皇がしばしば利用した竹原井頓宮跡が見える。その上方の雁多尾畑(これでカリンドウバタと読むそうです)は平安時代、藤原道長の牧があったところの由。ゆえに道長はこの地を訪ね、智識寺に寄ったり、大和川の景観を愛でたりしたのですね。いまこの国分寺跡周辺は一面の葡萄畑になっていて、柏原ワインという地元のワインもあるそうです。



 ところでこの河内国分寺塔跡では史跡の標識のすぐ横に、「宗教法人河内国分寺」の立派な看板があり、私のようにそそっかしい人間は、こちらにつられて行くのではないかと気になりました。



 古墳の多い藤井寺や奈良側の香芝(二丈山がある)、生駒や平群、法隆寺などはよく訪れるのに、その中間にある柏原・八尾を歩くのは初めてのことでした。ふたこぶ駱駝の背のような二丈山を裏側から見て、ちょっと感動しました。 写真は河内国分寺塔跡。基壇と礎石がきれいに残っています。残るのは石だけ、というのがいいですね。その石もいずれは・・・。(今日引用した文献は、昨日いただいた資料にあったもの。大寒の昨日、河内は17℃という春のような暖かさで、足取りも軽く(?)初めての場所を歩くことができて楽しい一日でした)


Photo  1月19日(火)晴れ。暖かな一日。九州から芝居好きの友人が出てきて誘われたので、四条南座へ前進座の初春公演を観にいく。出し物は芝居噺の「双蝶々雪の子別れ」と狂言舞踊「釣女」。ずっと昔、林家正蔵(のち彦六)の芝居噺で「牡丹燈籠」を見たことがあるが、今回の人情噺も初めに落語家の林家正雀が登場して噺をしたあと、芝居が始まるという仕掛け。前進座も若い役者が育ってきて、世代交代の感あり。友人は毎年、南座の正月公演を見るために京都へやってくる。去年は夫婦連れだったが、今年はつれあいがボランティアでタイだかカンボジアだかに出かけたそうで、一人でやってきた。



 芝居といえば、昨年の暮れは忙しくて南座の顔見世を見ることができなかった。南座の前は始終行き来したのに、ゆっくりまねきを見上げることもなかった。仕事に追われて芝居どころではなかったのだ。先日、東京へ出かけたとき、歌舞伎座へ寄ってきた。時間がないのでもとより観劇は念頭になく、ただ4月で閉鎖となるので、その前に見ておきたくて。新しい歌舞伎座は25階建てのビルになるらしい。現在4月まで「さよなら公演」が上演中。



本棚を整理したら、同じ本がいくつも出てきた。買ったのを忘れて(読んだことも忘れて)また購入したのだろう。



●紀田順一郎『図書館が面白い』(ちくま文庫)



●赤坂憲雄『境界の発生』(講談社学術文庫)



●網野善彦『東と西の語る日本の歴史』(講談社学術文庫)



●司馬遼太郎・林屋辰三郎『歴史の夜咄』(小学館文庫)



●藤田省三・鶴見俊輔・久野収『戦後日本の思想』(講談社文庫)



●宮田鞠栄『追想の作家たち』(文春新書) 



●宮田登『民俗学への招待』(ちくま新書)



 文庫や新書本といえども貴重なスペースを確保するためには、複本を置いておくわけにはいかないのだ。処分する前に開いたら、つい読み耽って、結局読み直してしまった。



 写真は東京銀座の歌舞伎座。


Photo  1月17日(日)晴れ。阪神淡路大震災から15年目の朝。6434人もの犠牲者を出した大震災の2ヶ月後に京都に移り住んだので、わが京都住まいも間もなく15年になる。あのときは、長崎から空路で関西へ入ったのだが、伊丹空港が近づくにつれ、眼下に無数の青い点が広がっていったのが忘れられない。被災地を覆うブルーシートだと気づくのに時間はかからなかった。1995年は私の京都暮らしがスタートした記念の年だが、その始まりは阪神大震災と深く結びついていて、1月17日が来るたびに、空から見た鮮やかな青を思い出す。



 また、この日はわがブログ「洛中日記」の誕生日でもある。4年前のお正月、うっかり右足指を骨折し、外出できなくなった。無聊を慰めるためと備忘録のつもりで始めた独り言のようなものが丸4年続いたことになる。京都で古代史と古典を読みなおしては現地を歩く、という暮らしも16年目に入る。町を歩き、古の人と語らい歳時記を追っているとあっという間に一年が過ぎる。世の中を見ているとつくづく人間は歴史に学ばないものだなあ、と思う。それでも歴史を正しく学ぶことからしか未来の展望は拓けない。大岡昇平ではないが、「自分はよれよれの老人だから先のことなどどうでもいいが、若い人たちが酷い目に遭うような世の中になることにはノオといい続けたい」。



 「世界全体が幸せにならなければ自分の幸せはない」と書いたのは宮澤賢治だが、ジョン・ダンも「人が死ぬということは自分が死ぬということだ」と詩った。人間はみんなつながっていて、決して独りでは生きられない。「ゆえに問うなかれ 誰がために鐘は鳴るかと 鐘はお前のために鳴っているのだ」(ジョン・ダン「死にのぞんでの祈り」)。



 みんないまを共に生きる運命共同体、幸も不幸も他人事ではないのだ。1月17日は、その思いを新たにする日なり。



 写真は神戸の花鳥園。


Photo  1月16日(土)上野の国立博物館で「国宝土偶展」を観てきた。国内の縄文遺跡から出土した土偶を集めたもので、昨年の秋、イギリスの大英博物館で開催された「THE  POWER  OF  DOGU」の帰国記念展。縄文時代草創期(約13000年前)から弥生時代中期までに作られた代表的な土偶が展示されている。土偶はいわゆる土でできた素焼きの「ひとがた」で、その形のユニークなこと、まるで宇宙人にしか見えないものもある。有名なのは青森の遮光器土偶で、スキーヤーがつける遮光眼鏡そっくりの眼をもつ。ハート型の顔や帽子を被ったような頭、ほとんどの土偶に入墨のような模様があるのは、当時の風習を表わしているのだろうか。土偶が出土した遺跡が東日本に集中していることにも興味をひかれた。長野、青森、北海道出土の三体の国宝土偶が一堂に会するのは今回が初めてとのこと。数千年前の人々が何を思い、何を願ってこれらの「ひとがた」を作ったのか、しばし思いを巡らしてきた。



 毎年夏休みを八ケ岳山麓で過すようになって10年になる。小海線の甲斐大泉にある宿は標高1000メートルのところにあり、周辺には縄文遺跡が多い。八ケ岳は黒曜石の産地だそうで、石器の宝庫らしい。宿の近くにある井戸尻遺跡の資料館をよく訪ねるが、ここに展示された土偶や土器はなんともいえない複雑な形をしていて、その怪奇さは見飽きることがない。土器ほど作り手を感じさせるものはない。様々な文様を刻みつける数千年前の人々を想像し、彼等から現代のわれわれまでの時空を旅するのは楽しい。このころの人々はどんな言葉を発していたのだろう、歌うこともあったのだろうか・・・。



 先週、彼女の激励をかねた新年会をやったMさんから入院手術の日程が決ったという知らせ。来週早々入院し19日に手術とのこと。ガンの手術も二度目ゆえ大丈夫よ、と健気な声であった。先だってガン闘病中の身内を見舞ってきたばかり。このところガンに包囲されている感じ、いよいよ自分もかと少々追い詰められた気分でいる。さて、縄文時代にもガンはあったのでしょうか?



 写真は上野の国立博物館。来月から「長谷川等伯展」の予告あり。没後400年を記念して、国内に存在するほぼすべての等伯作品を一挙に公開するという。東京のあと、京都にも来るそうだから、楽しみ楽しみ。土偶展のあと常設館で見た「洛中洛外図屏風 舟木本」もよかった。他の洛中洛外図と異なり、市中だけをクローズアップして描いたもので、七条の大仏殿(現在の京都国立博物館辺り)が華麗に描かれていました。


Photo  1月15日(金)晴れ。数日を関東で過してきた。93歳になる母親に会ってきたのだが、会うたびに年齢相応に衰えていて、あの元気だった母がねえと、寂しい思いがした。昔のことはよく覚えているのに、(それも楽しかった娘時代のことがほとんど)、昨日のことは霞の中。大正生まれで戦前の教育を受けた人なので、人生の最重要事は結婚なのだろう、未婚の孫の名前をあげて、繰り返しその行く末を案じるのである。いまどき、大会社への就職が安泰とは限らない(JALだってね!)ように、結婚が生涯の幸せを保障してくれるわけでもないのに。だがそれを言っても93歳の頭の中を変えることはできない。まあ辛抱強く、繰り返し同じ話に付き合うしかない。戦前、戦後の長い間、大家族を支え、少々のことではめげず大車輪で働いてきた主婦の鑑のような人なのだ。それに比べると私などグータラもいいとこ。いま母は兄夫婦に大事に見守られて、幸せな日々を送っている。「いっしょに住んでくれる子どもがいて幸せだ」と兄たちへの感謝も忘れない。感謝の気持ちがあるのなら、せめて週に一度くらいデイサービスに出かけて、義姉たちに休日を与えてほしいなあ、と私は願うのだが、これが絶対に家から一歩も出ようとしないのである。究極の引きこもり婆さんだと私は笑ったのだが、「あんな年寄りばっかりいるところにはいかない」といって、どんなに勧めてもうんと言わない。もともと頑固な人なのだ。それが年とともに加速度的に頑固度が増している感じ。ただ感心なのは、言っても詮無いことは決して口にしないことで、これは娘として大変有り難い。(未婚の孫の将来を案じるのは別らしい) 私が母と暮したのはたったの22年間だが、義姉はもう40年を超えた。義姉のほうが家族としての歴史は長いのである。頑固な母によく付き合ってくれて、義姉にはただ感謝あるのみ。



 京都へ戻る前日は品川御殿山のホテルに泊まった。写真は翌朝、部屋の窓から見た東京湾の日の出。午前7時前、羽田空港付近のクレーンの向うから大きな太陽が昇るところ。手前の煙突は品川火力発電所のだろう。


Photo  1月10日(日)曇り。比叡山延暦寺へはときどきドライブを兼ねて出かけるが、たいていは根本中堂がある東塔周辺を訪ねるだけで下りてくることが多い。古いお堂は西塔や横川の方に多く、そちらのほうが霊山としての雰囲気はあるのだが。その横川に天台宗の18代座主良源(慈恵大師)の住まいだったというお堂がある。旧安心房、いまは元三大師堂とよばれるお堂で、ここのお札には元三大師のユニークな姿絵が描かれている。良源が元三大師と呼ばれるようになったのは命日が正月三日だったことによるのだが、本当の諡号は慈恵大師。この元三大師(912-985)は焼失した堂を再建し、学問や教団内の規律維持に努め、比叡山の経済的基盤を確立したことから延暦寺中興の祖といわれている。彼はまたおみくじの元祖ともいわれ、「元三大師厄除護符」には、かれが疫病神を追い払ったときの姿が描かれている。大きな角をもったユニークな姿は、一度見たら忘れられないもの。



 子どものころは、「お大師さま」といえば弘法大師をさす固有名詞だとばかり思っていたが、すぐれた「お大師さま」がたくさんいるのですね。ちなみに今年は元三大師の没後1025年にあたります。



 写真は比叡山横川の元三大師堂案内板。この案内板が建てられた1984年が大師の一千年遠忌(没後1000年)の年だったようです。



 13日まで東下りで京都を留守にします。では行ってきます。


Dsc06139  1月9日(土)晴れ。平安貴族の日記(『御堂関白記』や『小右記』)を読んでいると、儀式についての記述が実に多いことに気づく。もっとも当時の貴族の日記の役割が、宮廷行事などの公事の記録にあったから当然のことだが、氏の長者の家には先祖の日記が伝来されて、事あるたびに参考書として重用されていたのだろう。正月はとくに行事が多いが、元旦の四方拝、朝賀、小朝拝、などに続いて上卯の日には邪気を払うまじないの「卯杖」が奉納されている。桃や梅、椿や柊などの枝を束にしたものだが、先日、その卯杖を上賀茂神社で見かけた。本殿前の柱にかけてあったが、貼り紙がなければ見過ごしたかもしれない。



 ●『発心集』巻5の3に「母女(むすめ)を妬み、手の指蛇に成る事」という段がある。昔、年下の夫と住む女が、あるとき自分は隠居するから先夫との間に生まれた娘と暮らすよう夫に伝え、自分は暇をもらって別の部屋に引きこもってしまう。自分が言い出したことなのに、嫉妬心が起こるのをどうしようもなく、見ると、両手の大指が蛇となって舌をちろちろさせている。娘は母親のその有様を見て驚き、髪をおろして尼になってしまう。それをみた夫も法師となり、やがて母親も尼になって三人が嘆き暮らすうちに蛇は消えて、もとの手の指にもどる・・・」。松浦理英子の『親指Pの修業時代』は女性の足の指がペニスに変身するという話だが、平安・鎌倉の時代に既に似たような話があったのですね。



 一月ほど前の新聞に、瀬戸内海に浮ぶ国有の無人島が売りに出された、という記事があった。島の面積は7600平方メートル、大半が樹木に覆われているとのことだが、最低売却価格は非公開だそうで、どのくらいの価値があるのかは不明。記事によると呉市の沖合いに浮ぶこの島には旧海軍施設の遺構があり、水銀系の消毒薬が使われていた可能性があるという。そんな危ない経歴をもつ島を売りにだしていいのかしらん。無人島でロビンソン・クルーソーもどきの体験ができたら楽しいだろうなと思ったが、旧海軍の遺構というのがどうもねえ。果して買い手がつくのかしらん。



 写真は上賀茂神社の卯杖。今年の上卯の日は1月10日のようです。


Dsc06144  1月8日(金)晴れ。昨日は上賀茂神社で白馬節会を見たあと、祇園へ寄ってきた。1月7日は祇園の始業式というので、詰め掛けたアマチュアカメラマンで花見小路は黒山の人。足を踏み入れるのも躊躇われるほどだったが、人垣の前を通って目的の場所へ。ちょうど始業式が終わったところで、歌舞練場から次々に芸舞妓が出てくる。これからお茶屋さんへの挨拶廻り。みな黒紋付の正装で、髪に初穂を飾っている。いつだったか芸妓のMさんが、「この稲穂に雀が寄ってくるんどす」と言ってたが。 それにしてもギャラリーの多さには驚いてしまう。



今日は友人たちと上七軒で新年会。友人のTさんが来週入院手術の予定なので、その激励会もかねて。半日ガンの話を聞き、柳原和子の『百万回の永訣』を思い出す。



「What  will  come, will come」 来るべきものは来る、要るのは覚悟だ、とはいうものの、その覚悟がなかなか。食事中、食道ガンを公表した小澤征爾の話になる。毎夏、松本で開かれているサイトウ・キネン・フェスティバルはどうなるのかしらと、しばし小澤指揮のコンサートの話になる。好きな音楽の話だけに、束の間でも病気のことを忘れることができてよかった。



 岐阜へ帰るSさんを見送って帰宅。朝、新幹線で京都へ来る途中、関が原からずっと米原、彦根とすごい雪でしたよ、とのことだったが、京都のわが家ではまだ雪を見ていない。京都盆地の雪はこれからでしょうか。



 写真は祇園の始業式を終えて挨拶廻りに出かける芸舞妓。


Photo  1月7日(木)曇りときどき小雪。朝、雪が積ったのか、嵯峨野の鳥居形が白く浮んで見えた。大阪の上空は晴れているが、天王山から北側は曇り、愛宕山は一日中、雪雲に隠れていた。昼前、上賀茂神社へ白馬の節会を見に行く。ちょうど白馬が神社の本殿前に引き出され何度か拝殿の周りを巡るところだった。白馬の節会は、1月7日に青馬を見ると年中の邪気を払うという中国の風習により古代の日本でも始まったもの。本来は青馬を引いたそうだが、わが国では白馬を神聖視したことから白馬に変更されたという。そういえば昔から馬を呼ぶのに「アオよ」とよくいうが・・。



 神官の後をゆく馬はとてもおとなしく、二人の若い口取りたちも足元こそスニーカーだがなかなか神妙な顔つきで、年中行事をつつがなくとり行っていた。境内には幄屋が建てられ、その中で七草粥がふるまわれていた。大きな焚き火の周りに参詣客が群れ立ち、灰といっしょにふりかかる小雪を体に受けていた。



 朝、長野県飯山の温泉宿にいるRから電話あり。雪に降り込められて帰れなくなった、車が雪に埋れてる!と。神様にもらった特別休暇だと思って、この際ゆっくり温泉に浸かってきたら、と返事す。つれあいは今朝の飛行機で北海道行き。何も連絡がないところをみると、無事到着したのだろう。札幌ヴァージョンのリーガルシューズを履き、しっかり防寒対策をして出かけました。



 ●リンドバーグ夫人『海からの贈物』(新潮文庫)を再読。



 「人生の午後が始まる年代になってはじめて人は世俗的な野心や、物質上の邪魔の多くから解放されて、自分の精神の、そしてまた心の成長を得て、狭い世界から抜け出すことができる・・・  われわれアメリカ人は若さや行動力、そして具体的な成功などに重点をおいて人生の午後を軽視し、無理に若さを保とうと不自然な努力をしている。しかし、われわれはそんな人たちと競争をする気はない。力はあり過ぎるが知恵の足りない(子どものような)大人と力比べをするのは虚しいことだから・・・



 写真は上賀茂神社の白馬節会。


Dsc06115  1月6日(水)晴れ。湖北は雪とのことだが、京都市内はいいお天気。家々の松飾を眺めながらゆっくり京都駅まで歩いて行く。途中、仏光寺通猪熊角の天道神社へ寄って、歳徳神のお札を見る。正確には「歳徳神宝船開運守護符」。宝船の帆に書かれた歌は、「ながきよの とをのねぶりの みなめざめ なみのりぶねの をとのよきかな」で、見事な回文。昔はこの歌を書いた札を枕の下にしいて寝ると、いい初夢を見るといわれていたそうだ。



 堀川通りを南に下がっていく。西本願寺の会館基礎部分に、「大内村ー七条村」の境界を示す標識が残されている。明治時代、ここは葛野郡大内村、七条村だったらしい。西本願寺前で漬物と松風を購入し、七条通角にある古書店「谷書店」へ寄る。ここは場所が場所だけに仏教書が専門。入口付近に少しだけ一般書あり、その中から●広津和郎の『年月のあしおと』(講談社文芸文庫)上・下を購入。二冊で1000円なり。これも1969年に講談社から出た親本を持っているのだが、文庫版には年譜と松原新一さんの解説あり。



 帰宅後、松原新一による解説を読む。



宇野浩二も一時期精神に変調をきたし、芥川龍之介は悲劇的な最期をとげるのに対し、人生を仮の宿りとみなしていたような広津和郎の方がかえって忍耐強く現実の人生の課題を背負って、へこたれなかった・・・みだりに悲観もせず、みだりに楽観もせず、現実の見るべきものはしっかりと見て、どこまでも忍耐づよく生き抜いていくという「散文精神」の形成過程に立ち会うような気がする



 写真は天道神社の歳徳神護符。


Photo  1月5日(火)曇り。昨日の午後、子どもたちが横浜へ引き揚げて、ようやく静かな日常に戻る。昨夜は年賀状の返事を書き、TVに録画していた大学ラグビーの試合を観る。2日に行われた大学ラグビー準決勝戦は、明治が帝京に、慶応が東海に敗れ、10日は帝京大ー東海大での決勝戦となった。常連の早稲田が準々決勝で敗退したため、今年は寂しいカードとなったが、吉田新監督率いる明治が帰ってきたのが嬉しい。それにしても帝京、東海のフォワードは強い。両校とも主力メンバーに大柄な留学生がいて、破壊力、攻撃力ともに抜群、得点源となっている。留学生が大活躍するところは大学の駅伝もラグビーも同じか。



 ●中野重治『愛しき者へ』(中公文庫)を読む。昭和20年1月4日付の重治から母親宛ての手紙の一部。



あけましておめでとうございます。母上さまはじめ、みなさま、おげんきで、正月を、おむかえなされたことと、存じます。私かたも、おかげで、つつがなく、正月を、むかえましたが、卯女が、おりませんので、なんとも、さびしい、正月でございます。



 正月ですが、てきのひこうきが、ひるもよるも来ますので、ゆっくりねむるひまも、ありません。さいわい私かたには ばくだんもまだ おちません」



 この年の8月に日本は敗れて戦争が終わるのだが、お正月にはまだ本土空襲が続いていた。重治が妻マサノに送った手紙を読みなおす。



本を読むこと。しかしたくさんよみ散らさずに少し読んで多く考えること。少なく読むには選ばねばならぬが、選ぶ力は濫読のあとにくるのかもしれぬ。後悔を重ねた後にあやまらぬ目ができるらしい。人生その他のことと同じ」



「人間は足りなかったり、おろか者であったりするのはさしつかえないが、上っすべりであったり、狡猾であったり、嘘であったりは絶対にいかぬ」



 もう何度も読んでいるのに、読むたびに思わず頷いてしまう。重治はすぐれた教育者でもあったのだ。



 お正月には子どもたちと百人一首を楽しんだ。子どもたちは一人前に「おはこ」の歌を持っていて、上の句が読まれるなり、張り切って札を取っていた。私が子どものころは、「いにしへの奈良の都の八重桜」や「大江山いく野の道の遠ければ」がオハコでした。やがて「あいみての後の心にくらぶれば」だの「あらざらぬこの世のほかの思ひ出に」となり、いまは「ありま山ゐなの笹原風吹けば」でしょうか。『御堂関白記』や『小右記』を読むようになってから、三条院の「心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな」にこめられた悲哀感が解るようになりました。



 『小右記』、『古事談』の読み始め。あちこちから電話、1月の予定表作成。来週は東下りの予定となる。昨日は暖かだったのに、今日はうんと冷え込んだ。食糧が底をついたので、買出しに行く必要があるのだが、外の寒さを思うと足がすくむ。なんとも軟弱な年明けです。



 写真は上賀茂神社の本殿前に奉納された宝船。平穏な船出となりますように。


Photo_2   1月1日(金)曇り。寒い元日。愛宕山は白く雪化粧して薄い雲に隠れている。朝、博多に住む子どもたちよりTV電話あり。博多も小雪が舞っているとのこと。家族の手から手へ携帯電話が一巡して、ひとしきり新年の挨拶が続く。



 子どもたちに誘われて初詣へ。まずは四条通の西端にある松尾大社へ。以前、桂川をはさんでこの神社と向かい合う場所に住んでいた。桂川の緑の流れの向うに赤い大きな鳥居が見えて、そこから私の京暮らしがスタートした。秦氏ゆかりの古社で、いまは酒の神様として崇められている。阪急松尾駅を出ると駅前からすでに初詣客でいっぱい。人で埋まった参道にはしかし、お正月らしい晴れ着姿は見当たらない。人に押されるようにして神前へ進み、手を合わせて今年一年の家族の健康を祈る。松尾大社から梅津の梅宮大社へまわる。ここは橘氏の氏神を祀る式内社で、檀林皇后(橘嘉智子)ゆかりの社。美しい庭があって、よく時代劇のロケが行われているのに出くわしたものだ。参道の中ほどに「橋本経亮旧宅跡」の碑あり。橋本経亮は江戸中期、この社の祠官だった人で、有職故実の権威でもあった。上田秋成と交友があり、秋成もしばしばここに足を運んだという。秋成が歩いた道を辿っているのかと思いながら細い参道をぬける。本殿の背後の森にはナンジャモンジャの樹があって、5月の始めごろには真っ白の花をつける。名前の通り梅の花で有名だが、春にはカキツバタ、ツツジ、アジサイなども咲く、花の社でもある。



 帰途、四条坊城通の梛(なぎ)神社へ。ここには平安京朱雀院の鎮守社だった隼神社も並んで祀られている。この地域の氏神さまで、初詣にきた近所の方たちと新年の挨拶を交わす。



 夜、家族が寝静まったあと、メイ・サートンの『独り居の日記』(みすず書房)を読む。さて、今年はどんな年になるのやら。



 写真は梅宮大社の本殿。橘氏にちなんでタチバナの紋。


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