5月28日(金)曇り。初夏というのに肌寒い朝。今日、5月28日は在原業平(825-880)の命日。いまの暦でいえば7月始めごろにあたるだろうか。高校の授業で『伊勢物語』をやった。そのときのテキストは学燈社から出ていた文庫版の『伊勢物語』で、著者は池田亀鑑。完本ではなく、代表的な章を集めた抄本だった。『徒然草』にしてもこの『伊勢物語』にしても、年を経て読み返すと興味の持ちどころが違っていて、いつ読んでも新鮮で飽きることがない。若いころは『徒然草』のわけ知り顔というか、教訓垂れが嫌だったが、年をとるごとに「いみじう心に寄り添う」ようになった。業平は一貫して好きである。若いころは「月やあらぬ春や昔の春ならむ わが身ひとつはもとの身にして」などという悲恋の歌をうまいなあ、と思ったものだが、いまは「思ふこといはでぞただにやみぬべき 我とひとしき人しなければ」などがふと口をついて出る。
京都の御池通り南側、間之町通の北東角に在原業平邸址の碑が建っている。彼はここから夜な夜な五条皇太后順子の邸に住む高子(二条后・清和天皇女御)のもとへ通ったのか。邸の築地の崩れたところから忍び込んでいたのが家の主にばれて、警備が厳しくなった、と嘆く歌がある。相手は天皇の女御に予定されていた女性だったから、この恋は実らず、そればかりか業平は東国へ配流となった。(『源氏物語』の「須磨」のモデルですね)。業平の歌はいまなお新しい、同時代の歌人では、男は業平、女は小野小町でしょうか。「その心あまりてことばたらず」という貫之の業平評は核心をついてますね。
京都西京区大原野にある十輪寺は業平晩年の隠棲地とされ、本堂裏手に業平のお墓がある。この地は業平の母である伊都内親王(桓武天皇第八皇女)が住んでいたところでもあった。(『伊勢物語』84段に、「むかし、をとこありけり。身はいやしながら、母なむ宮なりける。その母、長岡といふ所に住み給ひけり」とある)。
毎年この日はこの十輪寺で業平忌の法要が行われている。三弦による声明や、声明舞、小唄などの奉納があるそうだ。法要といえば、あさっての日曜日はつれあいの両親の法事のため、九州へ行く予定。義父の十七回忌と義母の十三回忌をいっしょに営む予定なり。昨日、法事用の品々を大量にデパートから送った。週末ごとの遠出も来月始めの山陰行きで一段落なり。この5月はよく出かけた。月の半分が旅枕であった。ほうぼう出かけて少々疲れた。まさにhoboの気分なり。
写真上は御池通りにある業平邸址。下は大原野小塩の十輪寺にある業平墓。