2010年05月

Photo  5月28日(金)曇り。初夏というのに肌寒い朝。今日、5月28日は在原業平(825-880)の命日。いまの暦でいえば7月始めごろにあたるだろうか。高校の授業で『伊勢物語』をやった。そのときのテキストは学燈社から出ていた文庫版の『伊勢物語』で、著者は池田亀鑑。完本ではなく、代表的な章を集めた抄本だった。『徒然草』にしてもこの『伊勢物語』にしても、年を経て読み返すと興味の持ちどころが違っていて、いつ読んでも新鮮で飽きることがない。若いころは『徒然草』のわけ知り顔というか、教訓垂れが嫌だったが、年をとるごとに「いみじう心に寄り添う」ようになった。業平は一貫して好きである。若いころは「月やあらぬ春や昔の春ならむ わが身ひとつはもとの身にして」などという悲恋の歌をうまいなあ、と思ったものだが、いまは「思ふこといはでぞただにやみぬべき 我とひとしき人しなければ」などがふと口をついて出る。



Photo_2  京都の御池通り南側、間之町通の北東角に在原業平邸址の碑が建っている。彼はここから夜な夜な五条皇太后順子の邸に住む高子(二条后・清和天皇女御)のもとへ通ったのか。邸の築地の崩れたところから忍び込んでいたのが家の主にばれて、警備が厳しくなった、と嘆く歌がある。相手は天皇の女御に予定されていた女性だったから、この恋は実らず、そればかりか業平は東国へ配流となった。(『源氏物語』の「須磨」のモデルですね)。業平の歌はいまなお新しい、同時代の歌人では、男は業平、女は小野小町でしょうか。「その心あまりてことばたらず」という貫之の業平評は核心をついてますね。



 京都西京区大原野にある十輪寺は業平晩年の隠棲地とされ、本堂裏手に業平のお墓がある。この地は業平の母である伊都内親王(桓武天皇第八皇女)が住んでいたところでもあった。(『伊勢物語』84段に、「むかし、をとこありけり。身はいやしながら、母なむ宮なりける。その母、長岡といふ所に住み給ひけり」とある)。



 毎年この日はこの十輪寺で業平忌の法要が行われている。三弦による声明や、声明舞、小唄などの奉納があるそうだ。法要といえば、あさっての日曜日はつれあいの両親の法事のため、九州へ行く予定。義父の十七回忌と義母の十三回忌をいっしょに営む予定なり。昨日、法事用の品々を大量にデパートから送った。週末ごとの遠出も来月始めの山陰行きで一段落なり。この5月はよく出かけた。月の半分が旅枕であった。ほうぼう出かけて少々疲れた。まさにhoboの気分なり。



 写真上は御池通りにある業平邸址。下は大原野小塩の十輪寺にある業平墓。


Dsc07636  5月27日(木)曇り。ここのところ京都はずっと雨か曇りの日が続いている。今朝、少し陽がさした気配に外を見ると、嵐山にこんな色の雲がかかっていた。さて、今日5月27日は武田百合子(1925-1993)の命日。30年前、彼女の『富士日記』を読んでたちまち魅了され、その後出た『犬が星見た』(中公文庫)は何冊購入したかわからない。会う人ごとに本を渡して読むように勧めたからだ。没後すぐ中央公論社から全7巻の作品集が出た。何にもとらわれない、のびやかで自在な文章、権威など彼女には何の意味もなかったにちがいない、感じたまま、観たままを飾らず書いて、自分を大きく見せようというそぶりが全くない。こんな魅力的な女性を妻にしていた泰淳の幸せを思う。『犬が星見た』は夫泰淳と竹内好、そして百合子の三人がロシア旅行をしたときのことを綴った紀行文。彼女にスケッチされた二人の文学者のなんと愛らしいこと、竹内好が好きな私は、読み返すたびに胸が熱くなる。京都の知恩院に泰淳と百合子のお墓があるのだが、まだお参りしたことはない。墓石には「泰淳・百合子 比翼之地」と刻まれているそうだ。百合子の『ことばの食卓』に「京都の秋」という小文があって、知恩院にお墓参りをしたときのことが記されている。はす向いに佐藤春夫のお墓がある、と書いてあった。



 北海道のTさんからアスパラガスが届いた。丸々と太った大きなグリーンアスパラガス。箱を開けた途端、北海道の初夏の香りが広がった。さあ、どうやっていただこう。まずは茹でて藻塩でいただこうか。焼くのもいいな。なるべく素材を活かして、できるだけ手を加えず、そのままいただこう。この日のために宮城県の銘酒「一ノ蔵」も冷やしてありますよ。Tさんの話では、今年の北海道は春が遅く、弟子屈ではようやく樹々が芽吹き始めたところ、とのことだった。友人のSさんはつれあいと一週間の予定で北海道へ出かけたが、そろそろ戻るころかしら。



 写真は今朝の嵯峨嵐山の空。


Photo  5月26日(水)曇り。先月の25日、アラン・シリトーが亡くなった。享年82歳。シリトーを最後に読んだのはいつのことだろう。書棚にシリトーの本を探したら、1978年の『長距離ランナーの孤独』(集英社文庫)がいちばん新しいものだった。黄色い表紙の集英社・現代の世界文学の『燃える樹』が1972年、ということはもう30年近くシリトーと無沙汰していたということか。この人の短篇では、両親がそれぞれ手紙を残して家を出て行き、少年が一人残されると言う「イーノックと二通の手紙」や、家を出て行った妻が10年ぶりにやってきて壁にかかっていた絵を持ち帰り、質屋に売ってしまう、夫がその絵を買い戻すと妻が再びやってきてまた持ち去っては売ってしまう、夫が買い戻さないでいるうち妻が事故で亡くなり、その手にはあの絵が・・という「漁船の絵」が好き。(野呂邦暢の処女作『壁の絵』のタイトルはシリトーの「漁船の絵」からとられている)。黄色い表紙の現代の世界文学シリーズはシリトーの他にアイリス・マードックやフィリップ・ロスなどを揃えていたが、ついこの前、処分してしまった。ちなみに文庫版『長距離走者の孤独』に収められた「漁船の絵」の訳者は丸谷才一。シリトーのデビュー作『土曜の夜と日曜の朝』は、『ウィリアム・ポスターズの死』、『燃える樹』と続く三部作の第一作。訃報から一ヶ月が経った。若き日愛読した作品を読み返そうと何冊か書棚から抜き出してみたが、まだ机の上に積んだままでいる。



 写真は祇園石塀小路。路地から路地へ、古い町家並が続きます。


Photo  5月25日(火)曇り。昨日の京都は警報が出るほどの豪雨で、予定されていた会合が中止となった。おかげで思いがけない休日となり、一日心ゆくまで本を読んで過ごした。大原富枝の『彼もまた神が愛でし子か』(講談社 1989年)は洲之内徹の死から一年後に書かれたもの。大原富枝と洲之内徹は同じ松山出身だと知っていたが、二人が若いころ文学仲間だったことは今回初めて知った。洲之内徹は若いころ何度も芥川賞の候補となったが、受賞することなく画廊経営者となり、60過ぎてから「芸術新潮」に連載を始めた美術エッセイで多くの読者を得た。大原富枝のこの作品は、彼女が洲之内徹が住んでいた下町を訪ねていくところから始まっている。洲之内徹のことを書くために彼女は洲之内が最後に愛した女性に面会を求めていたのだが、相手からきっぱりと断られる。「彼の書きつづけたあのエッセイがすべてであって、それ以外の彼の姿などありようはないのです」「どのようにでも存分にお書きください。何と書かれましょうとも私はなにも申しません」と電話で女性が答えるのを聞いて、大原富枝は「老年といってもいい晩年の洲之内徹の子どもを、覚悟の上で一人で生み、働きながら育ててきた女性の、胆の据わりようがどのようなものであるか、わたしにも十分推察できた」と述懐する。「凄まじいと形容してもけっして誇張ではなかった洲之内徹の生涯の女性遍歴の末に、Sさんのような優秀な女性にたどりついたことは、彼自身の意志は別として、わたしには、洲之内徹の晩年の仕合せだと思われた」と。



 大原富枝はここで、洲之内徹が最後までその死に方にこだわった重松鶴之助という画家のことと、洲之内徹の若き日の小説のこと(作品がどう評価されたかなど)、そして最後に彼とかかわった女性たちのことを書いている。重松鶴之助は才能のある若い画家だったが、非合法活動に従事して服役し、満期釈放される朝、自殺した。転向したわけでもないのに何故自殺したのか、洲之内徹は当時の組織へのプロテストと画家の名誉回復を試みていたのではないか。女性たちについては洲之内徹が書いた以上のことは判らない。ただ彼がつきあった女性たちが実に見事な人ばかりだということに感心させられる。



 そういえば、ずいぶん前に亡くなったある作家も、没後、複数の女性とのスキャンダルめいた関係がひそかに取り沙汰されて驚かされたものだが、彼の場合は相手の女性たちがあまり「あっぱれ」ではなくて、残念に思われたことだ。それで彼の文学的評価が下がることはなかったが、文学を見る眼ほど女性を見る眼がなかったと知って、一部の読者はがっかりしたものだ。本人が公にしたがらなかったので誰も口に出しては言わなかったが、作品を読めば判ることで、こんな場合大原富枝さんなら何と言っただろう。



 大原富枝は若き日の盟友ともいうべき洲之内徹のために、『彼もまた神の愛でし子か』を書いたのだろう。棺に花を捧げる気持ちではなかったか。洲之内徹のことはこれでおしまい、これ以上誰も何も言わないで、という気分が伝わってくるような気がした。



昨日読んだ本。



●森まゆみ『海に沿うて歩く』(朝日新聞出版 2010年)



●大江健三郎『水死』(講談社 2009年)



●井上勝生『開国と幕末変革』(講談社 2002年)



 写真は湯布院に咲いていたタニウツギ。別名「田植え花」。湯布院の田圃は田植えが終ったところでした。


Dsc07607  5月23日(日)雨。つれあいのタイ出張が中止になった。政情不安がさかんに報道されているから当然のことだろう。つれあいに、キャンセルになって安心したと言うと、「いつも死ぬなら海外出張の飛行機事故でね」と言っているくせに、という返事。勿論冗談ですよ、でもいやはや、面目ないといおうか、返す言葉がありませんでした。



阿部昭(1934-1989)の『単純な生活』を読む。そういえば5月19日はこの人の命日だった。去年が没後20年だったが、没後間もなく岩波書店から全14巻の作品集が出ているから、新たな本がでるということはなかったと思う。いまページを開いたところにこんな一節がある。



私は旅行中にメモの類は一切とらない。一度目にしたものは――それが記憶に価するものならばーー覚えているし、一度聞いた話もーーそれが心に触れたものならば――忘れることはない。ただしこの「覚えている」と「忘れない」とは「思い出せる」という意味であり、いかにしても思い出せないものは、結局私にとってそれだけの値打がないのだと思う他はない」。



 取材や仕事での旅であれば記録や写真は必要だが、プライベイトな旅では私も一切メモなどとらない。写真も控えめである。旅先で出会った人も事物も、もう自分の記憶に残っていることがすべてと思うことにしている。年をとるということは物事への取捨選択に容赦がなくなるということなのかもしれない。記憶の容量にも限りがあることだし。



 写真は紫蘭(シラン)。写真を撮っていたら近くにいた親子の会話が聞こえた。



「あの花なんていうの?」



「アイ・ドント・ノウ」



「知らないの?」



「シランよ」



 昨日読んだ本。



●渡辺京二『黒船以前』(洋泉社 2010年)



●高山文彦『父を葬る』(幻戯書房 2009年)



●丸谷才一『人形のBWH』(文芸春秋 2009年)



●小沢信男『東京骨灰紀行』(筑摩書房 2009年)



 『黒船以前』のサブタイトルは「ロシア・アイヌ・日本の三国志」。先年出た『逝きし世の面影』の続編かと思って読んだが、時代はそれより一世紀ほど前を扱ったもので、近代というよりまだ近世(近代日本の萌芽はある)日本の北方史である。鎖国下の日本ゆえ、長崎や日本人通詞、風説書などがたびたび登場して、興味深く読んだ。平安時代にも刀伊(女真人)の来冠(1019年)で、太宰府では大騒ぎになったが、都は案外平気なものだったらしい。幕末のロシア船来航なども、中央幕府の対応は都の平安貴族と似たようなものだったのではないか。いつの世もマージナルな場にいる責任者が苦労するのである。しかしこの時代に世界を観る目を持った人がいたということに少なからず感動した。(唐突ながら上田秋成はそういう意味で近代人ではなかったかと思う)


Dsc07559_3 5月21日(金)晴れ。真夏のような暑さ。ここのところ旅行のたびに洲之内徹の本を持っていっては旅先で読み、帰ってきてからもあれこれ読みなおしている。私が持っているのは、『絵のなかの散歩』、『気まぐれ美術館』、『帰りたい風景』、『さらば気まぐれ美術館』の4冊で、気まぐれ美術館シリーズの3『セザンヌの塗り残し』と4『人魚を見た人』は図書館から借りて読んだだけ。この6冊がセットになったものが2007年、新潮社から21000円で出ているそうだが、まだあるかしらん。『さらば気まぐれ美術館』は「芸術新潮」の最後となった連載をまとめたもので、書かれたのは昭和60年前後のようだ。なかに湯布院へ行ったときの話が出てきて、そこについ先だって私が見てきたばかりの佐藤渓の絵が出てきたのではっとした。洲之内徹は佐藤渓のスケッチやデッサンには「”長谷川利行の戦後版”と言わしめるような、哀切な詩情と生活感に溢れている」と好感を持ちながら、油絵の人物像には「(水彩やデッサンと傾向が違いすぎて)どう理解していいのか解らない」と書いている。彼にそう言わしめた婦人像の写真が載っているが、この絵をつい先日、私は湯布院で見てきたのだった。



Dsc07561_2  もうずいぶん前のことになるが、ある文化フォーラムで湯布院の町づくりの中心人物といわれる人たちとお会いしたことがある。亀の井別荘の中谷健太郎さんや玉の湯の溝口薫平さんで、そこにまだ若かった高見乾司さんもいた。そのときは空想の森美術館をオープンさせた直後だったと思う。フォーラムが終って、別れるときに、「湯布院へ行ってみたい」と言うと、中谷さんと溝口さんが「いつでもいらっしゃい、部屋を用意して待ってますよ」と言われたのだが、後で調べてみるとどちらも1泊数万すると知って、胆を冷やしたのだった。その後、湯布院を訪ねたときは、玉の湯近くに宿をとり、昼食を「葡萄屋」(玉の湯)で、亀の井の「天井桟敷」でコーヒーを飲んで、お二人に敬意を表してはきたのだが。その後湯布院へ行くたびに、高見さんの空想の森美術館と、佐藤渓の絵がある由布院美術館を訪れることにしていた。先だっても久しぶりに川のそばにある由布院美術館に寄って佐藤渓の絵を見たのだが、やはり女性像はなんともいえぬ不気味さがある。実はこの婦人像の絵葉書を家のトイレ(!)に飾っていたのだが、つれあいが「気味が悪いから外してくれ」と言うので、いまはキスリングの描くミモザの絵に替えている。8年ほど前、空想の森美術館の近くに無量塔という旅館ができて、そこのラウンジがなかなかいいので湯布院での休憩所にしているのだが、今回もそこでコーヒーをいただいたものの空想の森へは寄らなかった。たしかもう高見さんの「空想の森美術館」はなくなったと聞いた記憶がある。彼が収集した民俗資料(仮面)が国立九州博物館に収められて、彼の仕事も一段落したらしいと風の便りに聞いたような・・・。



 湯布院は好きな町だが、お店が並ぶ一画は都会の雑踏そのまま。まるで嵐山か四条河原みたいね、と言いながら通りぬけたのだが、裏に廻ると一面田植えが終ったばかりの水鏡が広がり、蛙の声と小鳥の声がするばかり。由布岳を見上げて、この美しい景観と自然環境が人を招ぶのだろうなと思った。湯布院に住もうか、といわれたら何と答えよう。好きだけど、会うのは時々でいい、とでも言おうか。



 写真上は由布院美術館から見た由布岳。下は佐藤渓の「蒙古婦人像」。


Dsc07612   5月20日(木)曇り。若いころからマイナーな本物が好きで、何事によらずベストセラーズとは無縁できた。誰もがもてはやすものなら、自分がなけなしのお金を使って応援することはない、という理由で、本にしても音楽にしても、(ものづくりに関するものすべてにおいて)自分の好みを優先させてきた。○○賞だの勲章だのに惑わされることなく、マイナーだけど自分にとって大切なものを密かに応援してきた。それなのに今回その主義に反してベストセラーのCDを入手してしまった。母の日の贈物に何がいいかと尋ねられてつい徳永英明の「VOCALIST」と応えてしまったのだ。徳永英明による女性歌手の歌のカバーアルバムで、これまで4枚出したアルバムのすべてが100万枚を越えるヒット作となったという。この人は長いこと原因のわからぬ病気で歌を歌えない時期があった。私はこの人の「最後の言い訳」という歌が好きで、ーー初めてこの曲を聞いたのは映画「男はつらいよ」の何作目かに挿入歌として使われていたときーーずっと女性歌手だと思っていた。実際男性とは思えぬようなハイトーンの透明な声。アルバムの中に荒井由美の「翳りゆく部屋」があって、懐かしく聴いた。実はいつも覗く書店の同じフロアにCD売場があって、店に入るたびに徳永英明の歌声を聴かされていたのだが、ある日「翳りゆく部屋」が流れていて、ちょっと気になったのだ。やれやれ。しかしこの曲はどこかバロック調といえないかしら。



 去年は上田秋成(1734-1809)の没後200年だった。それを記念して講演会や展覧会が今年も行われる。『胆大小心録』(岩波文庫)は彼の最晩年に書かれた随筆集だが、いまに通じる面白さがある。なまじ諸行無常など書かないところがいい。



翁の京にすみつく時、軒向ひの村瀬嘉右衛門と云儒者の、京は不義国じゃぞ。かくごしてといはれた。十六年すんで、又一語をくわへて、不義国の貧国じゃと思ふ。二百年の治世の始に、富豪の家がたんとあつたれど、皆大坂江戸へ金をすいとられたが、それでも家格を云てしゃちこばる事よ。貧と薄情の外はなるべきやうなし。山河花卉鳥蟲の外は、あきやじゃと思ふてすんで居」



 こんなことを書かれたら京の人は怒ったのではないかしら、そう言いながら本人は京都に友人を持って、不遇孤独といいながら晩年は弟子の一人に引き取られ、最期を看取ってもらっているのだ。秋成は自分の目や信条を大事にして、世間の評価などに左右されなかった。



 ねざむれば比良の高嶺に月落ちて 残る夜暗し志賀の海面  



 『藤簍冊子(つづらぶみ)』にある秋成の歌。比良の山の向うに月が隠れて、志賀の湖面が暗いというからこの歌は志賀近江にいて詠んだのだろう。時は秋と思われるが、琵琶湖畔から比叡の方を見やると思い出される歌。秋成にはそんな気持ちはなかったかもしれないが、私はこの人にエピクロスの「隠れて生きよ」を思う。わが座右の言葉でもあります。


Dsc07623  5月19日(水)雨。この春は異常なほど予定が立て込んで、5月は月のうちの半分が旅枕、週末ごとに伊丹空港へ通っている。ウイークデイも例外ではなく、昨日も午前中は研究会、午後は友人を訪ねて、夜は娘の誕生日というので、家族三人での夕食会。今日は久しぶりにフリーの一日、午前中に書類や手紙を片付けてメール便で送り、いまパソコンを開いたところ。今日は19日だというのに、今月のブログはこれでようやく8日目。前回、14日のブログのタイトルが「老いるについて」となっているのに、それらしきことを何も書いていなかったことにいま気づいた。これは精神神経科医浜田晋さん(1926~ )のいちばん新しい本のタイトルである。上野で長いこと地域医療に携わってきた医師だが、3年前、81歳でクリニックを後進に引き継いで引退した。豊かな社会にいて心を病む人が多いのは何故か? 老いとうまくつきあうには? 痴呆とボケの違いとは? など、具体例をあげてさまざまな老いの姿を語り、家族を超えた人間関係の大切さを語っている。いちばんすごいのはドクターと実母の関係で、104歳で亡くなった母親との葛藤を包み隠さず書いたくだりに圧倒された。母親は稀にみる悪母で、その酷さには想像を絶するものがあるが、よくもまあこんな母親を104歳まで面倒みたなあと溜息が出た。もっともドクターは老いた実母との同居を拒否して、友人の病院に入院させていたのだが、その費用が毎月60万、(亡くなる前は40万)というから驚く。夫婦共働きで、子無し、借金も無かったからできたことだとさらりと書いているが、普通の勤め人には到底望めぬことであろう。母親が亡くなったあと、ドクターは肩の荷を降ろしてほっとしたのか、体重が増えたという。そんなドクターの変化にいち早く気づいたのが統合失調症の患者だったというからなんだかおかしい。このドクターは精神科医のくせに自分もウツ病患者で、ゆえに患者から絶対の信頼をおかれているのである。



 この人は鳥取の徳永進医師と「すすむ&すすむフォーラム」をやって、石牟礼道子さんの話を聞いたりしているそうだが、徳永進さんのホスピス「野の花診療所」を見て、自分もこんなところで死にたいと思ったそうだ。わが京都にも「野の花」のようなホスピスがあればいいのだけど。



 さて、留守の間にいろんな催しの案内が届いていたが、来月12日と19日に開催される同志社女子大での「上田秋成没後200年祭記念連続講演会」は要チェックなり。12日の講師の中野三敏さんが九大名誉教授となっているところをみると、もうリタイアされたのだろう。以前、私がよく話を聴いたころは壮年の学者だったが。来月から上田秋成展が京都の国立博物館で開催されるとのこと、私は昨秋、天理大学の図書館で「秋成展」を見たが、京博のはどんなかしら、覗いてみなければなりませんね。



 そうそう、日曜日、飛行機の中から揺り篭のような形をした上弦の三日月とその上に輝く金星(宵の明星)を見ました。それは美しい眺めでした。あんなふうに月と星が接近するのは珍しいのではないかしら・・。



 写真は昨日、つれあいから娘に贈られたバラの花束。老妻への分もありました。


Dsc075015月14日(金)曇り。昨日は午後から地域の会合に出て、夜は友人と東山のガーデン・オリエンタルで会食。6時過ぎには半分くらいだった客が、7時近くにはほぼ満員となり、その大半が外国人(欧米人)というのには驚いた。周りから聴こえてくるのは英語、フランス語、ドイツ語・・。日本画家竹内栖鳳の旧邸をレストランにしたもので、うまく和洋折衷の建物を活かしてバンケット場としている。昨日はコース料理をいただいたが、キャビアにトリュフ、フォワグラ、からすみなど、世界の珍味がうまく使われていて、へえ、でした。



さて、今日から日曜日の夜まで、また京都を留守にします。今回の旅のお供はまたもや洲之内徹の『帰りたい風景』。目的地へ着くのに、くねくねと遠回りしていく、というやり方をこの人の文章から学びました。では行ってきます。



写真は近所に咲いていたスズラン。5月1日はスズランの花束を贈りあう日だと聞いたことがあります。


Dsc07512  5月13日(木)晴れ。昨日は一日若狭小浜行き、ここのところずっと家を空けていて、仕事は溜る一方なり。パソコンを開くのも数日ぶり。このブログは京都徘徊記なので、あまり自分の仕事のことなど書きたくないが、5月は特別の月なので、前回に続いて野呂文学について記してみる。野呂邦暢(1937-1980)は長崎生まれで、終戦直前に隣市の諌早に疎開し、原爆で生家が焼失したため、戦後諌早で育った。少年時代を自然豊かな諌早で過ごし、高校卒業後都会でいくつもの仕事を体験した後、帰郷して文学を志し、36歳のとき『草のつるぎ』で芥川賞を受賞、その後42歳で急逝するまで諌早を離れることはなかった。長崎原爆と諌早大水害という二つの大きな災厄でいわば二つの故郷を失ったことから、初期の作品に出てくる人物には故郷喪失者の影が濃い。「自分とは何か」を探して彷徨を重ね、故郷に回帰して「何者でもない自分」を見つけ、書くことを始めた、などと書いても野呂邦暢という作家のほんの一部分に触れたにすぎない。幼いころから並外れた本好きで、数ヶ月の浪人生活を送った京都でも、勤労青年だった東京でも、連日のように古本屋に通いつめ、本にまつわるエピソードには事欠かない。その本好きが嵩じて古本屋の店主を主人公にした小説『愛についてのデッサン』を書いた。亡くなった野呂邦暢の母堂アキノさんから聞いたことだが、芥川賞を受賞したあと、たまに上京すると、本人が帰宅するのを追いかけるようにして古本の詰まった段ボールがいくつも届いた、という。旅先でもまず探すのはその町の古本屋だったというから、年期が入っているのである。その野呂が時々蔵書を処分していた先が長崎にあった文録堂という古本屋だが、残念なことにこの店はいまはもうない。拙著『彷徨と回帰』(西日本新聞社 1995年)は、『野呂邦暢・長谷川修往復書簡集』を出した仲間に勧められて書いたものである。地元にいた強みで、資料が比較的入手しやすかったこと、まだ母親のアキノさんがお元気でお話を聞くことができたことなどの幸運も助けてくれた。この本が出たとき、川本三郎さんが毎日新聞にすぐ書評を書いてくださったのだが、どんなに嬉しかったことか。川本さんには野呂邦暢について書かれた文章がたくさんあって、『今日はお墓参り』(平凡社 1999年)では、野呂邦暢のお墓参りのために諌早を訪れたときのことが記されている。



 拙著『彷徨と回帰』は何部刷ったのかしら、もう長いこと品切れのままで、古本市にも出ないから悲しいことにいまでは読んでもらうことも叶わない。(京都府立図書館にはありました)   わが手許にも数冊残るのみなのです。


Dsc07505_2  5月9日(日)曇り。



京都に住む詩人のYさんに教えられて、ブログ『本はねころんで』を拝読す。4月30日から5月6日まで連日野呂邦暢についての記述あり、中の5月2日付ブログに拙著『彷徨と回帰ー野呂邦暢の文学世界』の書影が紹介されていて、面映い思いで読んだ。『彷徨と回帰』(西日本新聞 1995年)は野呂邦暢の没後15年目に出たものだが、この本が出来上がると同時に私は京都へ転居した。今年は野呂邦暢の没後30年だが、没後10年目に野呂文学愛好家が協力して出版したのが『野呂邦暢・長谷川修往復書簡集』(葦書房 1990年)である。長谷川修は下関在住の作家で、野呂より一回り年長ではあったが文学的気質に共通するものがあったのだろう、初めて会ったときから二人は意気投合し、ひんぱんに手紙を交わしている。まだ作家としてのスタートラインについたばかりの二人の話題は徹頭徹尾「文学」のみ、現存する昭和41年から53年までの150通余の手紙にあふれるものは文学への情熱、それのみ。当時の朝日新聞の文芸時評でこの往復書簡集を取上げた川村二郎氏は「二人の文学に対する執心の深さ、情熱の持続、努力の積み重ねは、目を見張らせずにはいない。いかに小説を書くかについて、二人とも、ありふれた日常的自然主義的なリアリズムを真っ向から否定し、新しい表現を求めて苦闘しているのだが、そのために実に熱心に本を読み、思索をめぐらし、自分の方向を見定めようとしている。たとえば日本ではまだ無名にひとしかった時期のボルヘスにすでに注目し・・・」「ボルヘスに早くから注目したり、作品に不完全性定理を導入しようと試みたりした二人の作家の努力は、現在でも古びるどころか、むしろその先鋭性においてさらに積極的に評価される意味がある」と書いた。



 「本はねころんで」さんのおかげで、久しぶりに往復書簡集を読み直し、20年前、二人の手紙を前にして、その文学への思いの深さに胸打たれたことを思い出した。編集を担当した「陸封魚の会」はこの書簡集を出すために集った仲間たちである。野呂邦暢と長谷川修の文学魂を何としても活字に残しておきたいというので全員がお金と労力を出し合った。今となっては時間がなくて(言い訳はしたくないが)誤植、校正ミスの多いのが悔やまれる。この本の実現に尽力してくれた当時の葦書房の社長久本三多さんも亡くなって久しい。装幀を担当したのは福岡在住の画家・毛利一枝さん。神保町の書肆アクセスの棚にこの本が一冊だけかなり長くあって、(売れなかったということか)、上京してアクセスを訪ねるたびに、嬉しいような悲しいような気持ちになったものだ。



写真は『野呂邦暢・長谷川修往復書簡集』(陸風魚の会編 葦書房 1990年)



長谷川修は野呂に先立つこと1年前、1979年5月1日に胃がんのため死去。享年53歳。翌年の3月に出た長谷川修の遺稿集『住吉詣で』(六興出版)に野呂は「長谷川修さんのこと」と題する長いあとがきを寄せている。それから間もなく自分がその長谷川のそばに旅立つなど思いもよらぬことだったにちがいない。


Dsc07364  5月7日(金)雨のち曇り。



 丹波篠山で行われるMさんの葬儀に間に合うよう、午前11時過ぎに家を出る。外は吹き降りの雨。京都縦貫道を千代川ICで降り、国道372号線で篠山へ向う。この道はつい3日前、大山からの帰途に通ったばかり。あの時は周囲の山々にヤマザクラの花が白く咲いていたが、わずか3日の間に花は終っていた。県境の峠を越えてデカンショ街道に入ると、Mさんの住む集落が見える。Mさんの家の前の通りには昔の街道の趣が残っていて、一里塚の松も健在。集落の人たちが葬式一切をとりしきっているのが私には珍しく思われた。午後2時半、Mさんを見送ったあと、国道173号線を南下して大阪経由で帰宅。国道173号線を走るのは初めてだったが、篠山から能勢町へと山の中を下っていく道は素晴らしかった。新緑の中に点々と白い朴の花が咲き、紫色のミツバツツジが目にも鮮やか。とりどりの芽吹き色に見とれていると道はダム沿い(一庫ダム)となり、やがて線路沿い(能勢電鉄)となった。しばらく走っていると能勢妙見宮の看板が見えた。ずいぶん前、友人とこの妙見さんに来たことを思い出した。あの時も亀岡経由で能勢に出て、妙見宮や源氏を祀る多田神社へ行ったのだった。



 今日は野呂邦暢の30回目の命日。今年は没後30年を記念して本が2冊も出る。一つは梓書院から出る新装版の『諌早菖蒲日記』で、もう一つはみすず書房から出るエッセイ選集『夕暮の緑の光』。エッセイ集の編者は『新・文学入門』(工作舎 2008年)などでおなじみの岡崎武志さん。早く届かないかしら、どんな本になっているか待ち遠しい。それにしても没後30年もたって新しい本が出るなんて、こんな日が来るとは想像もできないことだった。みすず書房と編者の岡崎武志さんに感謝あるのみ。



 いま長崎の県立図書館では「長崎の芥川賞作家たち展」が開催中で、野呂邦暢の資料もたくさん出ているそうだ。長崎出身の芥川賞作家といえば、野呂邦暢のあと林京子、村上春樹、青来有一、吉田修一などがいるが地元に住み続けているのは公務員との二足草鞋を履く青来有一のみ。



 「谷間に三つの鐘が鳴る」という曲があった。人の一生で、誕生、結婚、死、の三回、鐘が鳴る、という意味の歌だったが、今日、知人を見送って、ふとこの曲を思い出した。そしてまたジョン・ダンの詩を。「誰がために鐘は鳴るか、そはお前のために鳴っているのだ」。



 写真は丹波篠山の山。帰りは雨も上って青空が見えました。


Photo  5月6日(水)晴れ。昨日から片付けているのに、まだ溜った仕事が終わらない。朝からずっとパソコンに向ってひたすらキイを打ち続けている。合間に手紙の返事書き、贈呈本等の礼状書き、その他もろもろのデスクワーク。九州のNさんから電話あり、来週上洛予定とのことだが、こちらも予定が詰まっていて、辛うじて木曜日の夜のみOK、夕食の約束をする。急に初夏らしくなったので慌てて夏物を出し、冬物をクリーニングに出す。週末はまた気温が下がるそうだが、もうコートやジャケットの出番はないだろう。祇園のFさんより電話あり、仕込みの舞妓見習いMちゃんが、来月いよいよ見世出しと決ったという。名前も決って、明日から見習いで出るとのこと。Mちゃんはいまどき珍しい楚々とした美人で、小さいころからお琴、三味線を習い、舞妓になるのが夢だったという少女である。どんな舞妓さんになることやら、見世出しの日が楽しみなり。



 銀行で今年度の固定資産税と自動車税を支払って帰宅すると、東京のH夫妻より電話あり、篠山に住む奥さんのお父上が亡くなられたとの報せ。12年前、二人が結婚する時頼まれて仲人をつとめたのが縁で、妻のSさんのご実家と親しくさせてもらっている。私たち夫婦はどちらも地方の町っ子として育ったので、田舎に故郷を持たない。Sさんのご実家から枝豆や新米、松茸など季節の恵みが届くたびに、ようやく人並みに故郷をもった気分になったものだ。そのお父上がガンで余命いくばくもないと聞いてから、まだ間がない。H夫妻は覚悟していたようで、二人とも落ち着いた声であった。明日は友引だが、午後から告別式の予定だという。喪服を出しておかなければ。



 ●佐伯一麦『誰かがそれを』(講談社 2010年)を読む。この人らしい淡々とした味わいの短篇集。東北仙台の郊外住まいの日々から生まれた私小説ふう作品群。内向的な夫としなやかな精神を持つ妻のつつましい暮らしぶりがうかがえる。一歩歩いては、立ち止まって空を仰ぎ、一歩退く、といったような印象を受けた。



 写真は大山山麓にある植田正治写真美術館。館内から大山を見たところ、大山山裾の左隅に泊まったホテルがちらりと写っている。大山では久米桜という酒造が作る地ビールが抜群に美味しい。この酒造が経営する地ビールのレストランがホテル近くにあるので、二日目の夜はそこで食事を楽しんだ。大山地鶏のグリル、リブステーキ、大山牧場のソーセージ、豆腐サラダ、ピザに明太ポテト、春巻、エビのリゾットに各種ビールを飲み、デザートにシャーベットやアイスケーキを食べても予算よりはるかに安かった! 6月にまた行く予定なので、楽しみ楽しみ。


Photo  5月5日(水)晴れ。



3泊4日で鳥取の大山へ出かけてきた。数年前から春の連休は大山行きということにしているが、今年は博多に住む子どもたちも誘って、いっしょに過ごしてきた。我が家から約300キロ、博多からだと約500キロの道程である。幸い中国自動車道は連休といえどもほとんど渋滞がなく、実に快適なドライブだった。



 大山山麓にある宿はブナ林に囲まれていて、どこにいても緑に染まりそうだった。ここでも春先に気温の低い日が続いたようで、去年は満開だった藤の花やナンジャモンジャ(ヒトツバダコ)はまだつぼみ。その代わり、去年はPhoto_2 もう盛りを過ぎていた大根島の牡丹が見ごろだった。萌黄色の山肌にヤマザクラの白い花が点々と浮んで、山はまだ早春の趣き。野鳥の声で目覚め(鳴き声だけでは鳥の名がわからないのが残念)、4日間は新聞ともTVとも無縁で過ごしてきた。今回の旅のお供は澁澤龍彦の『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』(1990年 立風書房)。大半は書物に関する文章だが、中に「初音がつづる鎌倉の四季」と題するエッセイがあって、自宅周辺で聞く鳥や蝉の声について書かれている。鎌倉の山の中腹に住んでいる澁澤が耳にするのは、ウグイス、トラツグミ、ホトトギス、フクロウ、三光鳥、シジュウカラ、コジュケイ、ヒグラシ、ミンミンゼミなどだそうだが、大山で私もウグイス、コジュケイ、ホトトギスの声を聴いた。いろんな鳥の声がしたが、私に判るのはそれだけ。



 今回は子どもたちといっしょだったので、境港の鬼太郎ロードや大山のふれあい牧場など、彼等が喜びそうな所を訪ねたが、どこも親子連れで賑わっていた。駐車場には県外ナンバーの車が目立ち、中には遠く札幌、沖縄からというのもあった。いまや鳥取の境港市は水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」でもっているようなものらしい。妖怪のブロンズ像が並ぶ「水木しげるロード」の両側には鬼太郎にちなんだ商店が軒を連ね、目玉(鬼太郎の父親)を頭にのせたタクシーや妖怪神社まである。米子空港の愛称が「米子鬼太郎空港」で、JR境線を走るのは「鬼太郎列車」。ひなびた漁村の一画に生まれた異次元の世界が人を集めている。妖怪なんて気味の悪いキャラクターが町の観光名所になるのかな、と思っていたが、それは私の不見識らしい。妖怪のブロンズ像に熱心にカメラを向けていたのは大半が大人たちだった。港には海上保安庁や水産庁の船が停泊し、目の前の丘には大きなレーダーが立ち並んで、ここが国境に近い地だと気づかされたが、町は鬼太郎一色。(この人気がいつまで続くものやら)。 鳥取といえば私には「本の学校」で有名な今井書店の名が思い浮かぶが、今回もゆっくりと訪ねることができなかった。米子の店の前は何度も通ったし、鳥取でも松江でも町のあちこちで今井書店の看板をよく見かけたのだが。



 写真はホテルの部屋の窓から見た大山。午前6時過ぎ、山の左側から朝日が顔を出した。下の写真は大山のブナ林。京都北部のブナ林には病んだ木が増えているそうだが、大山のブナはまだ元気でした。


Dsc07361  5月1日(土)晴れ。



 昨日の午後、河原町のジュンク堂を覗いたら、入口近くの棚に鶴見俊輔さんの本がいくつも並べてあった。「図書」の連載をまとめた『思い出袋』(岩波新書)、SUREから出た『小さな理想』、『言い残しておくこと』(作品社)、重松清との対談『ぼくはこう生きている、君はどうか』(潮出版社)など、88歳という年齢を感じさせない出版ラッシュである。その隣りに中村哲と澤地久枝の『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』(岩波書店)があったので、求めてきた。中村哲に関しては、大澤真幸「THINKING」創刊号も「中村哲特集号」だったのでこちらも購入。「ちくま」に「人間、とりあえず主義」と題する巻頭エッセイを書いているなだいなだが、去年の11月号にこんなことを記していた。



 「憲法9条にノーベル平和賞を」という運動があるそうだ。とっぴな発想で、面白いと思うが、ノーベル平和賞は、人間か組織に与えることになっているので、まったく実現性がない。それよりも、かなり実現性のある、中村哲あるいはペシャワール会にノーベル平和賞を、という運動に切り替えたらどうだろう  (中略) 永年にわたるアフガニスタンでの井戸掘りや用水路の建設工事は、ぼくなど、真似ようとしてもできない。彼はこの仕事に半生をつぎ込んだ。日本でも評価され、毎日新聞、読売新聞、朝日新聞、西日本新聞などがさまざまな名目で賞を与えているし、驚くことに、日本の外務省までもが大臣賞を与えている」。



 それほど彼の業績は認められているのだから、ノーベル平和賞を彼にという考えに、だれも異存はあるまい、となだいなだは書いている。まっこと異議無し。何年か前のことだが、奈良まで中村哲さんの講演を聴きに行き、帰りの電車で中村さんとお会いしたことがある。大阪に住むノンフィクション作家の友人もいっしょだった。普通電車だったせいかその車輌には私たちしか客はおらず、奈良から京都まで1時間近く話をすることができた。三人とも九州出身で、しかも同年。子ども時代の話をしているとまるで同窓会のような気分であった。人間として困っている人を見たら、見ぬふりはできない、男がすたる、という言い方をされたのではなかったか。埃まみれの靴にくたびれかけた背広、大きな肩掛け鞄を持った中村さんと京都駅で別れるとき、心から「どうぞご無事で」と祈らずにはいられなかった。友人が感に堪えぬ面持ちでつぶやいた「まさに小さな巨人やね」という言葉が忘れられない。



 写真は『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』。正直言うと、こんな真っ当なタイトルはどちらかといえば苦手なのだが、読んでいるうちにそんな気持ちはどこかへ飛んでいってしまった。人間の矜持、尊厳というものを深く考えさせられた本である。



 今日からしばらく京都を留守にします。今回の行き先は鳥取の大山高原。ブナの新緑と日本海の魚を楽しんできます。では、行ってきます。


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