2010年09月

Dsc08748  9月29日(水)晴れ。承前。飛騨高山や白川郷へはたびたび出かけるが、乗用車が入れないこともあって、上高地へはなかなか行く機会がない。10年ほど前、奥飛騨から乗鞍岳を越えて安曇野~八ケ岳と廻ったことがあるが、そのすぐ後、乗鞍スカイラインへのマイカー乗り入れが規制となり、山を越えることもなくなった。上高地も乗鞍も、バスかタクシー、自転車、あるいは徒歩で行くしかない。道路が広くなり、新しいトンネルが出来て大型バスが上がれるようになったのは便利だけれど、まあ、バスプールは満車、大正池から河童橋まで湖岸を歩く人の群れを見てびっくり。河童橋の周辺にある土産物店は縁日のような賑わいで、これでは四条河原にいるのと同じではないかとがっかりした。だが眼を北アルプスの山々Photo_2 に向ければ別天地が広がる。あいにく山頂は雲に隠れていたが、奥穂高、前穂高、明神岳がしっかり見えた。前夜の雨に洗われて、山の緑がひときわ鮮やか。梓川の流れは清冽で、手を浸すと氷のような冷たさだった。



 観光客に交じって、大きなリュックを担いだ登山者が橋を渡っていく。これから穂高へ登るのだろうか。3000メートル級の山々を見上げ、しばし仕事のことも、悩ましき浮世のことも忘れる。林の中を散策し、日本アルプスの魅力を世界に紹介したイギリス人宣教師ウォルター・ウェストンの碑を見る。日本の避暑地(高原や山)はたいてい欧米人によって拓かれたようだ。国立公園第一号の長崎雲仙もそうだし、山梨県の清里もそう。緑色の水をたたえたPhoto_3 大正池は美しく、神秘的な北海道のオンネトー湖を思い出した。紅葉にはまだ早かったが、緑の山が黄金色に染まるころ、再び来てみたいと思った。工芸品のような京都の紅葉とは違った大自然のドラマを見てみたい。



 写真上は河童橋の上から見上げた北アルプスの山々。帰途、雲が晴れて、いっとき槍ケ岳が見えた! 写真中は梓川に架かる河童橋。下はホテルの近くに咲いていたサラシナショウマ。若菜を水で晒して食べたことからつけられた和名(晒菜升麻)。どんな山野草に会えるかと楽しみにしていたが、ヤマハハコ、アザミ、ノコンギク、ミズヒキソウ、クサボタン、ヤマゼリ、アケボノソウなどを見ただけ。意外だったのは、野鳥の声があまり聴けなかったこと。わんさかの人なので、小鳥たちは恐れをなしていたのではないかしらん。



●草森紳一『夢の展翅』(青土社 2010年)を読む。


Dsc08714  9月28日(火)晴れ。26、27の両日、飛騨~上高地へ出かけてきた。ある会の研修旅行で、参加者は14名。26日の朝、京都を発ち、犬山、白川郷経由で奥飛騨へ。白川郷へは午後3時ごろ到着したのだが、まだ駐車場には観光バスや乗用車がいっぱいで、世の不景気が嘘のような賑わい。ツーリストの半数近くは中国・韓国からの観光客ではないかと思われるほど、周りから聞こえてくるのは中国語と韓国語ばかり。尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件で中国からの観光客が減少かとニュースにあったが、それが信じられないほどの賑わいぶりであった。(それにしてもこの事件、いろんなところに影を落としているようだが、理不尽な挑発には乗らず、ここは我慢して大人の対応を見せてほしいと思う)。



Dsc08726 白川郷ではちょうど栃の実の収穫中。干した実を袋詰めにしている人にいろいろ教えてもらう。栗に似ているがアクが強いのでクマは栃の実を食べません、とのこと。アクを抜くために皮をむいたあと、何度も水に晒すのだという。食用にするためには気の遠くなるような手間がかかるのだ。何事も早いのが一番、結果や答がすぐに出ないと我慢ができない現代人からは遠い世界なり。栃の木は京都の町でもよく見かける。私の散歩コースの二条城北側にはこの木の並木があるし、ウィングス京都南の御射山公園にも大きなトチノキがある。茶色の実は目立つので、つい拾ってしまうのだが、家に持ち帰ってもただ机の上に置いて眺めるだけ。だがドングリにせよ、トチの実にせDsc08716 よ、木の実を見たら拾わずにはいられないのは、自分の中にある縄文人の記憶がそうさせるのではないか・・・と思っているのだが。



 東海北陸道のなかほど、ひるがの高原あたりに分水嶺がある。大日岳から流れ出た水がここで北は庄川、南は長良川に分かれてそれぞれ日本海と太平洋に注ぐ。二つの大河の源流というわけだ。そういえば高田博厚の『分水嶺』はいまもわが書棚にあるかしら。今回の旅のお供は白洲正子の『かくれ里』。来月、滋賀県立近代美術館で「白洲正子」展があるというので。



写真上は白川郷、合掌造りの民家。中は栃の実。下は白川郷、水車と彼岸花。


Dsc08642  9月26日(日)晴れ。午前6時、西の空高く、まだ白く月がかかっている。朝の風は肌寒いほどで、すっかり秋になった。



 昨日、篠山からの帰途、湯の花温泉近くの国道沿いに「谷性寺」の案内板を見かけた。亀山城主だった明智光秀ゆかりの寺だ。光秀が亀山城を築いたのは1578年、本能寺の変のあと、藤堂高虎によって城は修築され、今年は丹波亀山城築城400年、という。現在城跡は大本教の本部となっているが、申し込めば見学は自由だそうだ。明治初期まで天守閣があったらしいが、いまは石垣や濠に昔日の面影をとどめているのみ。ちなみに亀山が亀岡にかわったのは明治に入ってからのこと。光秀は長年主殺しというので評判は悪かったが、近年は評価が変わってきたようだ。下剋上は戦国の世のならい、光秀だけを責めるのは気の毒だ。光秀といえば、芭蕉の「月さびよ 明智が妻のはなしせむ」が思い出される。光秀が貧しかったころ、連歌会を主催するお金がなくて困っていたところ、妻が黒髪を売って費用をねん出した、という話をもとに詠んだもの。夫婦愛というか、妻のけなげさを愛でたもの、といおうか。煌々と輝く月を見るたびに、この句を思い出す。



 今から上高地まで出かけてきます。山は寒いでしょうね。では行ってきます。



 写真は賀茂川(左)と高野川(右)が合流して鴨川になるところ(出町)。奥の森が糺の森で、下鴨神社や河合神社(境内に鴨長明の方丈庵が復元されています)があります。


Photo  9月25日(土)晴れ。昼前、台湾に出張中のつれあいから電話あり。篠山のMさんが亡くなられたという報せ。明日が告別式だが自分は出られないので、代わりにお参りに行ってくれないかとのこと。私も明日から上高地行きなので、取りあえず午後からお悔やみに行くと返事する。今日は奈良へ出かけるつもりだったが、仕事が片付かず在宅していてよかった。亀岡ICから国道372号線で篠山へ向かう。周囲の田んぼは稲刈りが終わり、畦に彼岸花が赤い帯を作っている。彼岸になるとどこからともなく現れて、赤い花をつける、彼岸花は本当に不思議な花だ。それにしても、つれあいが海外出張するたびに、誰かの訃報が届く。今回も冗談まじりに、誰か入院中の人はいないかなと言い言いしていたのだが。Mさんのところは5月に父上が、そして今回母上が、共にガンで亡くなられた。母上はまだ66歳。仲のいいご夫婦だったから、「きっとお父さんが寂しがってお母さんを呼ばれたのでしょう」と慰めにもならぬ言葉をかけてきた。Mさんが「これで親なし子」になってしまったと嘆くので、あなたにはもう三人も子供がいて、いまはあなたが親なんだからしっかりね、と声をかけたが、親を失くす寂しさ、心細さは身にしみている。



 つひにゆく道とはかねてききしかど きのふ今日とは思はざりしを  業平



 帰りは国道9号線を京都へ戻る。途中、ガレリア亀岡内にある道の駅で休憩。ガレリア亀岡とは亀岡市の生涯学習センターの名で、広い建物の中に図書館やホールなどがある。催し物の案内を見るともなくみていると、姜尚中の名前が目についた。11月7日(日)の午後1時半から、ここで彼の講演会があるそうだ。演題は「悩むということについて」。



 帰りて●美川圭『白河法皇』(NHKブックス)と●岩佐美代子『宮廷女流文学読解考』(笠間書院)を再読。どちらも再読するたびに、ああそうだったのかと、蒙を啓かれるところがあって楽しい。院政期の初めのころの人間関係は物語より複雑で面白い。そのころの人々の頭の中を覗いてみたいものだ。


Dsc08685  9月24日(金)曇り。一昨日の22日は中秋だったが、京都は曇が多く、明月を見ることができなかった。横浜の子どもから、満月の写真がメールで送られてきたから、関東は晴れだったのだろう。昨日は朝から雷雨で、雨が上ったあとはあの猛暑・酷暑が嘘のように涼しくなった。セミの声がいつの間にか虫の音にかわっている。



 長崎在住の知人が京都で作品展を開くというので、下河原のギャラリーへ出かけてきた。高台寺の近くにある小粋な店で、以前は時代劇俳優の住居だったという日本家屋。普段は階下にある喫茶店(夜はバー)のみの営業で、頼まれたときだけ座敷を貸すのだという。ロケーションは最高、知人の作品(やきもの)も雰囲気にあっていDsc08687 て、いい作品展だった。



 石塀小路を出ると高台寺前のねねの道はツーリストでいっぱい。変身舞妓が三々五々カメラ片手に歩いている。最近のニセ舞妓はなかなかよくできていて、外国人観光客たちが喜んでカメラを向けている。その間をすり抜けて清水坂を上り、鳥辺野の大谷墓地へ行く。お彼岸といっても我が家のお墓は九州なので、なかなかお参りに行くことができない。その代わりというわけではないが、近くのお寺にお参りに行く。鳥辺野は『徒然草』に、「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世はさだめなきこそいみじけれ」(『徒然草』第7段)と記された古くからの葬送Dsc08678 の地。「鳥辺山」といえば私などは歌舞伎の「鳥辺山心中」を思い出すが、その主人公お染・半九郎の比翼塚が墓地西側の本寿寺にある。二人はこの寺の井戸に身を投げたのだった。坂を下っていると、水桶や花を持った墓参の人たちが次々に上ってくる。大谷墓地には江戸初期からの墓があるそうだ。古い墓石には出身地や屋号が刻まれたものが多い。西を向いた墓標にちょっと手を合わせて五条へと戻る。



人にいえない仏があって 秋の彼岸の回り道」としゃれてみました。



 写真上は鳥辺野の大谷墓地。ここに司馬遼太郎さんのお墓もある。写真中は、墓地のそばにある妙見さんの手洗水石。鳥辺山と彫られている。この妙見堂(日蓮宗)には小さいけれど張り出した舞台(絵馬堂)があって、眺めがいい。写真下はギャラリーの玄関から外を見たところ。変身舞妓のお出ましです。


Dsc08613_2 9月22日(水)晴れ。朝、二条城周辺を散歩する。少し湿気を帯びた風が頬をなでていく。長い間、川とは名ばかりでコンクリートの川床の真ん中に細い溝があるだけだった堀川が、最近親水公園に模様替えして、市民の憩いの場となった。早朝からせせらぎ沿いに歩く人の姿が絶えない。桜、柳、酔芙蓉、いまはおしろい花のほのかな香りが散策のお供。この堀川をはさんで二条城の東側に二軒のホテルが並んでいる。南側に全日空、北側に京都国際ホテル。この京都国際ホテルの玄関前には史跡を示す石碑が三つ並んで立っている。幕末ここが福井藩邸だったことを示すもの、福井藩士だった幕末の志士橋本左内の寓居跡を示すもの、そして時代はうんと遡って堀河天皇里内裏址を示すもの。私はいま堀河天Dsc08617 皇の後宮に仕えた女官の日記『讃岐典侍日記』を読んでいるので、その舞台となった場所がここだと知って、感慨深く思ったことだ。堀河天皇は白河天皇の第2皇子で、1086年、8歳で即位、当初は父である白河院が政務をとった。これが院政の始まりとされているが、成長したあとは自ら政治に携わり、末代の賢王と称されたという。弱冠29歳で病没、そのとき側近く介護をした女官の一人が讃岐典侍で、日記には病に苦しむ主と細やかに心通わせる作者の様子が記されている。死にゆく天皇を看取った女官の愛の日記とでもいおうか。堀河天皇がこの里内裏で没したのは1107年、いまから約900年前のことである。白河、鳥羽(堀河の皇子)という強烈な個性を持つ帝にはさまれて、早世した堀河はなんとなく影が薄い感じがするが、この帝のとき宮廷文学は花開いてもいるのである。平安末期、中世への幕開け間近の束の間の平穏な時代だったのか。



 写真上は京都国際ホテル前にある「堀河天皇里内裏址」の碑。下は堀川沿いの散策路、せせらぎの道。人工の川ではありますが、流れのほとりはいいものです。


Photo  9月21日(火)晴れ。今日、9月21日は広津和郎(1891-1968)の命日。また広津和郎の親友で「文学の鬼」と称された宇野浩二(1891-1961)の命日でもある。この二人は若き日、文字通り寝食を共にする中で文壇にデビューし、以後、死が二人を分かつまで、信頼しあうよき道連れであった。二人の友情の深さがどんなものであったかは広津和郎の文学的回想録『年月のあしおと』(講談社1963年)に詳しい。お酒を飲めない二人がジュースを飲みながら延々と文学談義をするシーンなど、想像するだけでも楽しくなる。広津和郎を初めて読んだのは、高校時代、先生からもらった『神経病時代』だったと思う。先生が学生のころ読んだ本のおさがりの中にあったもので、他には龍之介の『侏儒の言葉』やアランの『プロポ』などがあった。『神経病時代』は1917年に発表された作品で、新しい時代を前にした悩めるインテリ青年の姿を描いたもの。私には時代の背景はよくわからなかったが、内向的な主人公の厭世気分は十分理解できた。以後、小説家としての広津和郎よりも評論家としての彼の仕事に親しみ、彼が若き日の深いニヒリズムから脱却して晩年、一転して楽天的、肯定的になっていった過程を知りたいと思いつづけてきた。もしそれが分かるなら、自分もまた同じような心境から抜け出せるかと思ったからだ。広津和郎が好きだというと、「古いなあ」とよく言われたが、では何が新しいのかしらん。数年前、上野の博物館へ行ったとき、谷中墓地へ足を延ばして広津和郎のお墓参りをした。柳浪、和郎、桃子と三代続いた文学の家系が1988年の桃子の死で途絶える寂しさを思ったものだ。桃子が建立した広津和郎の墓標の文字は志賀直哉(表)によるもの。裏に刻まれた和郎経歴は谷崎精二の筆による。



 今日はまた、去年、88歳で亡くなった庄野潤三の一周忌。庄野さんとは伊東静雄の「菜の花忌」でお会いして以来、何度かお手紙のやりとりをした。初めてお会いしたとき私が、自分もまた諫早郊外の新興住宅地で3人のこどもたちと『夕べの雲』のような日々を過ごしていると言うと、かたわらの夫人と柔らかな笑みを交わされた。教えていただいたことなど忘れないうちに書きとどめておこうと思いながらまだ果たせないでいる。



 写真は満開の白萩。常林寺で。


Dsc08659  9月16日(木)雨のち晴れ。平安貴族の日記を読んでいてふと、日記にその日の天候が書かれているかどうか、気になった。(私は必ず記すからだ)。藤原道長の『御堂関白記』には、「天晴」「雨下」「従夜雨」などと、ほぼ天候の記述がある。定家の日記『明月記』も、まずその日の天候を記してから始まっている。反対に天気の記録がないのは藤原実資の『小右記』で、実資にとっては政治や人事の方が重要で天候など気にもとまらなかったのだろう。道長や定家が天候を気にしたのは、二人には蒲柳の質があって、天気に体調が左右されたからだろうと聞いたことがあるが、本当かしら。まあ、そのころの儀式や行事は天候に左右されることが多く、とくに儀式は晴雨の場合のやり方が異なったから、道長としては天候が気になるということはあったかもしれない。私Dsc08664 の場合は単に習慣。



 寺町のギャラリー・ヒルゲートで「水上勉と友人たち」展を見てきた。今年、7回忌を迎えた水上勉とその友人たち――安野光雅や司修、田島征彦など――の作品が展示されている。ギャラリーの2階にはカフェのスペースもあって、ここでコーヒーをいただきながら、壁にかけられた水上勉の「天安門事件の記録」を見た。1989年、日本の作家代表団の団長として訪中していた水上勉は、滞在中のホテルで天安門事件に遭遇、体調を崩して帰国後、心筋梗塞で倒れた。そのときのことを文と絵にしたものだが、事件の様子が生々しく描かれて、作家が受けた衝撃の大きさがしのばれた。思えば1989年は激動の年だった。日本では昭和天皇が崩御、その後中国の天安門事件、ベルリンの壁の崩壊、チェコではビロード革命がおこり、ルーマニアではチャウシェスク大統領が処刑された。その2年後にソ連が崩壊し、東西の冷戦が終わって平和な地球になるはずだったが・・。



 写真上はギャラリーヒルゲート(階上の展示室)。下は近所のお宅の玄関先で見かけた寄せ植えのナンバンギセル。別名思ひ草。うつむいて何事が考えている様子に似ていることからの命名でしょう。ナンバンギセルは萱に寄生するので、ススキの根元によく見られます。ナンバンギセルとは西洋人が用いたパイプの形状からつけた名前でしょう。以前、長崎で幕末の遺跡から出土したパイプを見たことがありますが、こんな形をしていました。


Dsc08644  9月14日(火)晴れ。朝、窓から吹き込む風で目が醒めた。日の出前の外気は爽やか。仕事を手早くすませて、涼しいうちに家を出る。まだ早いだろうなと思いながら出町柳の常林寺(浄土宗)へ萩を見に行く。予想した通り、花はまだほんの一分咲き程度だったが、風に枝が揺れて、境内はすっかり秋の気配であった。『奥の細道』で曾良が山中で詠んだ「行き行きて たふれ臥すとも 萩の原」を思い出す。この句を残して曾良は伊勢へ先立ち、師の芭蕉は一人で大垣へ向かうのだ。



 出町まで来たついでに、御苑をゆっくりと散策す。中立売御門の近くに茶色に変色したカシの大木があった。近くのカシやシイの木の幹にビニールが巻かれ、「ナラ枯れ対策中」の札が下がっている。立ち枯れた樹ほど痛ましいDsc08624ものはない。樹は動物のように動けないから、害虫に襲われても逃げるわけにいかない。たいていの樹木は、少々枯れても春になれば新芽が出るものだが、ここまで枯れてしまう と、それもかなわないのだろう。樹齢どれくらいなのか。幕末維新の戦いを見たのかもしれないな、と思いながら木のまわりを巡る。この一画にはシリブカガシがたくさんあり、いま花が満開で独特の匂いがする。シリブカガシは実が成熟するのに一年かかるので、花と実が同時に見られる珍しい木なのだ。この木もブナ科なので、幹にビニールが巻かれていた。 



 ここのところ竹内好に関する本を続けて読んだ。



●渡邉一民『武田泰淳と竹内好』(みすず書房)



Dsc08625 ●鶴見俊輔編『アジアが生みだす世界像―竹内好が残したもの』(SURE)



●孫歌『竹内好という問い』(岩波書店)



 朝日新書の『新しい風土記へ』でも竹内好のことが語られている。SUREの『アジアが生みだす世界像』は、2008年に京都で行われたシンポジウム「竹内好が残したこと」の記録。この巻末にシンポジウムに参加していた竹内好の娘さんの発言が記録されている。主催者に乞われて父親の思い出を語ったもので、それによると、竹内好は1976年10月に武田泰淳が亡くなるとがっくりきて気力を失くしてしまい、翌年の3月に亡くなった・・・まるで泰淳が竹内好を呼んだようだった・・。竹内好は誰もが行く道を歩まなかった。人が行かない道を択んで歩く、というふうなところがあった。負け戦とわかっていて、あえて突進するというふうな・・・時流に合わせて動くということができなかった・・・そういう竹内好が自分は好きなのだろう。



 写真上は出町柳の常林寺(萩の寺)。中はシリブカガシの花と実。下は立ち枯れたカシの木。いずれも京都御苑で。


Photo  9月13日(月)曇り。今年の7月に臓器移植法が改正されて、本人の意思表示がなくても家族の承認があれば、脳死患者からの臓器提供が可能となった。法改正から僅か一か月の間に、家族の承認のみで8例の提供があったという。これまで脳死移植は年間10例にも満たなかったというから、この分でいくと年間100例ということも有り得るだろう。毎週のように脳死ー臓器提供というニュースが続くと、それが当たり前のようになっていく。私は、必要な人がいて一方に提供したいという人がいる場合、臓器移植に反対はしないが、もし自分が当事者の場合は(移植は諦めて)自然にまかせようと思っている。(できるだけ自然死を、と願っているのだが)。最近は拒絶反応のリスクが大きい臓器移植より、万能細胞だか胚性幹細胞だかの再生医療に未来を託しているらPhoto_2 い。それも種の異なる生物の細胞から育てて、ということが可能になるらしいが、私のような老人には、医学の進歩というよりも(わけがわからないせいで)ただ空恐ろしいだけ。でもこれで難病に苦しむ人が救われるならそれも可か。



 知人を案内して東本願寺の別邸渉成園へ行く。垣根にカラタチ(枳穀)が植えられているので別名を枳穀邸という。カラタチの実がちょうど色づき始めたところだった。枳穀邸は嵯峨天皇の第8皇子源融(光源氏のモデルの一人です)の別荘だった河原院の跡だといわれるが、位置的には河原院の少し南になる。ここは江戸時代、将軍家光が本願寺の宣如上人に寄進した屋敷で、詩仙堂の主である石川丈山の作庭といわれている。でも、一般には河原院ゆかりの園邸ということになっていて、融が愛でた塩釜の跡や融の供養塔などがある。広い池の周りには茶室や小亭が点在して、平安朝の浄土庭園の趣があり、駅前近いのに別世界のような静けさ。しかし目をめぐらすと周りにはビルが建ち、借景の東山は隠れてしまっている。京都タワーがひときわそびえて見えるのがご愛敬か。知人は「仏さまは奈良、京都は庭というけど、本当だわね」としきりに感心していた。



 写真上は枳穀邸入口の高石垣。いろんな石が使われています。下はカラタチの実。カラタチがよく垣根に使われたのは、鋭いトゲで侵入者を防いだからでしょうね。白秋ならずとも、「からたちのとげは痛いよ 青い青い針のとげだよ」です。


Dsc08488  9月11日(土)晴れ。古くは「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が手を振る」という歌の舞台となり、新しくは琵琶湖空港の建設予定地ともなった(計画は頓挫した)蒲生野を訪ねてきた。万葉歌碑を訪ねたのではなく、蒲生氏郷の出身地である日野の里を歩いてきたのだ。氏郷は信長、秀吉に仕えた戦国大名の一人で、日野から松坂へ、さらに会津城主となり、1595年京都の屋敷で病没。氏郷は日野で楽市楽座を開き、商業を発展させたので、彼を慕った近江商人たちが、松坂領主となった氏郷の後を追って、移ってきたという。会津でも日野から連れていった木地師たちに会津塗を興させたというから、いまでいう地場産業を奨励した領主だったのだろう(一村一品運動で村おこしをやった大分の知事をおもいだしますね)。近江鉄道の日野駅は素朴というか鄙びたというか、かわいい駅で、電車の時刻表を見ると、一時間に上下各1本があるのみ、だが駅の構内に本Dsc08496 棚がるところを見ると、利用客は少なくないのだろう。どんな本が並んでいるのかしっかり見なかったのは残念。ここで町の地図をもらって駅前を出発。氏郷の銅像だの、日野商人館だのを見て、蒲生家の菩提寺信楽院を目指す。通りの両側に並ぶ古い家々には祭りを見物するための桟敷窓があって、独特の形をしている。いまでも祭りのときは使われているのだろう。



 蒲生氏郷は利休七哲の筆頭に数えられるほどの数寄者で、連歌や和歌もたしなむまさに文武両道よくした武将だったようだが、彼もまたキリシタン大名で、その信仰は固かったと伝えられている。私はなぜかこの戦国時代と幕末維新が苦手らしく、なかなかすんなりと頭に入らない。数々の歴史書を読み、伝記を読Dsc08511 み、流れは把握できるのだが、何度読んでも人物の名前をしっかりと覚えることができない。代表的な人物は人並みに覚えているのだが、あまたの戦国武将や幕末の志士たちとなるとおぼろげ。謀略、殺し合いの連続なので、なかなか感情移入ができないせいかもしれない。



 信楽院(しんぎょういん)の近くで白い紐のようなものを干しているのを見かけた。包帯かしらと近づいてみたら、これが干瓢。この家の奥さんが、大きな干瓢の実をくりぬいて、削ってみせてくれた。日野は昔から薬づくりで有名で、日野椀とともに、日野商人が全国に売って歩いたそうだ。観光案内所のまちかど感応館はもと薬店で、江戸時代に作られた「萬病感應丸」の看板がかかっていた。



 写真上は日野駅前の観光看板。”「蒲生氏郷公」を大河ドラマに”というのがいいですね。写真中は蒲生氏郷像。手にしているのは何でしょうか。下は干瓢を干したところ。乾燥したのを少し分けてもらったので、明日は干瓢巻きでもつくりましょうか。


Dsc08444 9月9日(木)晴れ。昨夜は久しぶりにクーラー無しで休んだ。朝、窓から吹き込む風は爽やかだったが、まだ油断は禁物なり。昨日は旧暦の八朔、8月1日だったが、今日は新暦の9月9日で重陽の節句。『枕草子』の8段に、



「9月9日は、暁がたより雨すこし降りて、菊の露もこちたく、おほひたる綿などもいたく濡れ、うつしの香ももてはやされて、つとめてはやみにたれど、なほ曇りて、ややもせば降り立ちぬべく見えたるもをかし」



とあって、当時、重陽の節句には、前日菊の花に綿を被せて、9日には露に濡れ菊の香が移ったその綿で身を拭って長寿を願う、という風習があったことが知られる。去年のこの日、知人のところで、綿を被せた菊の花を見せてもらったが、無粋な私にはあまり雅なものとは思えなかった。



 ベランダから見ると西山の一画が紅葉したように赤くなっている。頭をめぐらすと、北山の方にも赤い部分が点在している。紅葉には早すぎるがと不審に思っていたが、これがいま問題になっているナラ枯れなのだろう。ナラの木につくカシノナガキクイムシという虫が運ぶナラ菌によって木が枯れてしまうのだ。この虫はブナ科の木につくので、イチイガシやブナ、シイなどにも被害が及んでいるらしい。何年か前、芦生にある京都大学の演習林を訪ねたとき、ムシ害にあったブナの大木を見たが、里山のナラに被害が及ぶとは予想もできなかった。ナラ枯れは京都だけではなく、全国的な問題らしい。この夏訪れた山陰から丹後、北陸などの山でも枯れ木で赤い山をいくつも見た。ナラやシイが枯れると、その実(どんぐり)を餌にしているクマたちは困るだろう。人間とクマ、うまく棲み分けて共存できるといいのだけど。



今日読んだ本。



●鶴見俊輔編『新しい風土記へ』(朝日新書)



●直木孝次郎『古代への道』(吉川弘文館)



●奥田博子『原爆の記憶ーヒロシマ/ナガサキの思想』(慶応義塾大学出版会)





 写真は近所の栗の木。青い実をつけています。


Dsc08611  9月8日(水)雨のち曇り。台風9号の接近で、朝のうちは雨。午後から雨は上がったが、一日、生暖かい風が吹いていた。午後から地域の集まりに出る。ほとんどが老人だが、ふと、この中で先の戦争を知っている人はどれくらいいるのかしらと思う。戦後も65年、70歳以上の人でないと、記憶には残っていないだろう。野坂昭如ではないけれど、「繁栄を遂げたこの国に、現在物は溢れかえっている。だが未来の姿は見えない。これはぼくらの世代の責任でもある。少しでも戦争を知る人間は、戦争について語る義務を持つ」(『「終戦日記」を読む』)。先が見えないときは、歴史を正しく学ぶしかない。そうすることによってしか未来への展望は拓けない。でも正しい歴史を学ぶということの難しさ、真実は一つなのに、歴史家の数だけ歴史の解釈がある。



 草森新一の『本の読み方ー墓場の書斎に閉じこもる』にリリアン・ヘルマンとダシール・ハメットが稀代の本好きとして登場する。「カンシャク持ちの二人が、なんとか30年近くも一緒にいられたのは、しばしば別居の他に、「読書」を壁として、たがいの激しさを隔離できたからという一面もあるにちがいない」と著者は紹介している。この二人は戦後のアメリカを襲ったマッカーシズムの嵐に翻弄され、長いこと仕事ができない時期があった。ヘルマンは戯曲の筆を折り、デパートの売り子をしたこともあったという。人間としての尊厳や矜持を思うとき、いつもこの二人を思い出す。晩年のヘルマンには息子のような若い恋人がいたといわれても、「so  what ?」である。



 吉野せいの『土に書いた言葉』はこれまで発表されたエッセイのアンソロジーである。一読してきりりと鋭い刃をつきつけられたような気分になった。畢竟「書くべきことがあって初めて文章は成立する」。研ぎ澄まされたような無駄のない文章に、切実さが詰まっている。まさに「思ひあふれて歌はざらめや」。



 今日、9月8日は水上勉の命日で今年は仏教でいう7回忌。寺町のギャラリー・ヒルゲートで「水上勉と友人たち」展が開催中とのこと、明日にでも出かけてみよう。




Dsc08610  9月7日(火)晴れ。台風のせいか怪しい風が吹いている。



 百万遍の思文閣美術館で「奈良絵本・絵巻の宇宙展」を見てきた。奈良絵本・絵巻とは、室町後期から江戸時代中期にかけて、主に京都で制作された彩色絵入りの絵本・絵巻のこと。テーマは平安時代の王朝もの(「鉢かづき玉水」や「小町草紙」など)、中世の軍記もの(「義経地獄破り」「判官都話」など)、幸若舞曲(「百合若大臣」や「信田」など)、そして「ものぐさ太郎」や「酒呑童子」などの御伽草子 など。絵巻物は見る機会が多いが、奈良絵本・絵巻を見るのは初めて、なかなか楽しい展覧会だった。とくに元禄年間につくられた絵本のなかには”居初(いそめ)つな”とい Dsc08608_2 う女性の手になるものがたくさんあって、そう思ってみると彼女が描くところの人物像は細やかで柔らかな表情をしている。多くは書(文字)と絵は分業で作者は別々だが、居初つな女は書画両方を一人で担当している。300年前に現代のアニメ作家がいたわけだ。なじみ深い題材でそれぞれ面白く見たが、「ものぐさ太郎」など現代の絵本作家のものより味わい深くて見ていて頬が緩んだ。



 九州の友人から『金時鐘論』(砂子屋書房)を贈られる。著者は松原新一・倉橋健一の両氏で、主として70年代に書かれた評論をまとめたもの。巻末に1973年に行われて雑誌に掲載されなかった座談会の記録が収められている。



 写真は「奈良絵本・絵巻展」のポスターと展示品の「行事蓬莱絵巻」。 


Dsc08607  9月6日(月)晴れ。昨日、京田辺の気温は39.9度だったそうだ。京都駅ビルの地下にある三省堂書店でミニチュア版の「洛中洛外図屏風 舟木本」を購入。この春、東京の国立博物館で実物を見たとき、織田信長が上杉謙信に贈ったといわれる上杉本とまた違うなあと興味をもった記憶があったので。この舟木本は京の町を西南方向から見た一種の鳥瞰図で、秀吉による再開発後の洛中と東山が描かれている。大坂の陣(1615年)で豊臣家が滅びる前のものであろうとのこと。右下に描かれているのは方広寺の大仏殿。この大仏は1595年、秀吉によって建立されたが地震で崩壊。その後再建されたが火事で焼失。幕末、有志によって4代目となる木造の大仏が再建・寄進されたが、これも昭和48年に焼失している。昭和30年代初期に撮影された京都の写真集で、焼失する前の大仏を見たが、「東大寺の大仏さんとはえらい違いやな」と思ったものだ。(京都育ちの友人たちは覚えていないそうだ) いまここには大坂の陣を招いたとされる「国家安康」の文字が刻まれた梵鐘が残るのみ。屏風に描かれた寺院や通りは同じ場所にいまもあるから、400年前の京都の町の様子や風俗を想像する助けにはなる。洛中洛外図の上杉本は今出川の同志社大学寒梅館や丸太町通アスニー内の平安京創生館でも大きな壁画で見ることができる。平安京創生館の同じフロアには平安京のジオラマも展示されており、図書館に行ったついでに覗いては、しばし楽しいタイムトリップをしています。



同じ書店で、



●島尾伸三『検証 島尾敏雄の世界』(勉誠出版)



●草森紳一『本の読み方』(河出書房新社)



●渡邉一民『武田泰淳と竹内好』(みすず書房)



を購入。



 早速、帰りの地下鉄の中で『本の読み方』を開いて読む。野呂邦暢の『棕櫚の葉を風にそよがせよ』がでてきてびっくり。作中登場する戦記・戦史マニアが旅先から古本の詰まった旅行鞄を持ち帰るシーンについて、「宅急便でなく持ち帰る気持がよくわかる」とある。2年前に亡くなった草森紳一の膨大な蔵書は出身地である北海道のどこかに収蔵されたと聞いたが、きっとユニークな文庫になることだろう。


Dsc08585  9月5日(日)晴れ。昨日の京都は38度の暑さだった。これは残暑などという生やさしいものではない。ここのところパソコンの調子が悪くて仕事にならない。旅の間は何日だってパソコンなし、新聞とも無縁で平気だが、自宅ではそれなしには生活できない。自分がいかにパソコンに依存していたか身にしみた。調べものも書き物も、通信もほとんどパソコンだから、これが動かないと手足をもがれた感じ。停電なのでご飯が炊けないといって叱られた新婚時代を思い出す。(ガスがあるのだから鍋で炊きなさいと) さて急ぎの原稿があったので、10年以上もしまったままのワープロを出して使ってみた。おお、ちゃんと動くではないか。試しに印刷をしてみると立派にプリントもOK。ただし感熱紙の在庫は僅か。よく処分せずにおいたものだ。(この捨て魔の私が) パソコンの方は一度初期化して何とか回復できたが、バックアップを怠けていたせいで、データが消えてしまった。いまはまっさら、まさに心機一転というわけです。



 それにしても何もかもデジタルの時代、ソフトはあってもハードがパンクしたらデータは使えなくなる。ビデオもテープからレーザーディスク、DVDと進化しているが、以前のデータは機械が消えるともう再生できない。膨大な記憶が埋もれたままになる。やはりアナログも残しておかなければ。どんなに電子化が進んでも、紙の本は絶対になくなりませんよ。



 写真は鳥取県智頭町の案内所に掲示されていた「米原万理展」のポスター。岡山から志戸坂峠を越えた鳥取側の町が智頭だが、ここは旧街道の宿場町でその趣をよく残している。国道373号線を千代川沿いに走っていくと宿場に出るのだが、ポスターを見て、ここが米原万理の父親の出身地だと知った。案内所にあった智頭宿マップに「米原家」もちゃんと載っている。ポスターによると10月17日に万理の妹で井上ひさし夫人のユリさんが講演をするらしい。米原万理が亡くなって4年目の今年、義兄の井上ひさしも亡くなった。得難い二つの才能を惜しんで、ポスターの前で瞑目してきた。


Dsc08525  9月4日(土)晴れ。サガンの『ある微笑』を読んだのはいつごろのことだったか。中学生かあるいは高校に入ってすぐのころではなかったかと思う。フランスの学生は早熟だなあと感心したものだ。サガンはずいぶん人気があったそうだが、遅れてきた青年で、私はあまり読んだ記憶がない。ゆえにかぶれることもなかったが、『ある微笑』は何度か読み返した。同じころ姉の書棚にあった原田康子の『挽歌』を読み、これはサガンの『ある微笑』だな、と思ったものだ。訳者は朝吹登水子、それから20数年後に翻訳者と会う機会があった。エメラルドグリーンの柔らかなドレスを着た朝吹登水子さんはエレガントそのもの、同じ席にもっと華やかな森瑤子がいたが、さすがの森女史が目立たないほど朝吹さんは優雅だった。その時、ボーヴォワールの話などお聞きしたのだが、サルトルの本ほどにはボーヴォワールを読んでいない私には豚に真珠、ではなかったか。思い出すたびに耳の後ろが赤くなる。



 今朝の新聞に「ドゥマゴ文学賞に朝吹真理子さん」という記事があったので、ふと一度だけ会ったことがある朝吹登水子さんを思い出した。そういえば彼女の命日は2005年の9月2日。今回文学賞を受賞した真理子さんは、登水子さんの兄でフランス文学者の三吉の孫にあたる人だという。



 今月号の『図書』に掲載された丸谷才一の連載を面白く読んだ。「女房が、女房について、女房のために書いた文学の研究者」というタイトルで、『とはずがたり』の解釈について、岩佐美代子の論考を紹介したもの。『とはずがたり』は後深草院二条という女房の日記(自伝)で、彼女の男性遍歴(後深草院にすすめられたものもある)が率直に綴られている。現代の読者はそれを当時の宮廷の退廃と受け取ったようだが、岩佐美代子は別の考えを示した。―宮仕えは衣装代がかさむので大変だが、情報の入手その他で有利なので貴族は縁者を送りたがる、衣装代を持つのは父親だが、そうでなければ夫や情人という場合もある。その結果、貴族と帝が同じ女性を共有することがあり、そんな場合、帝は嫉妬してはならない、というきまりになっていた。女官が身重になると廷臣に賜るといふ形をとる―というもの。鎌足の安見子もそうだし、平忠盛と白河天皇の例(伝承だが)や実現しなかったが待賢門院璋子と藤原忠通の例もあるなと思いながら読んだが、丸谷才一は「風俗が伝統的に確立してゐるのなら、かういふ人間関係もリアリティがある。岩佐さんの説を知る前はでたらめな絵巻を見るような趣だったが、この説を知ったあとは生身の人間の物語となった」と書く。なるほど、『伊勢物語』の60段もそう思って読めば、「さつきまつ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする」という歌になぜあれほど女性が恥じて尼にまでなったか、わかりますね。



 写真はサギソウ。明宝畑佐の豆腐屋の店先に咲いていたもの。ここの豆腐が評判で、おぼろ豆腐や豆腐プリンなど買ったのですが、同じ日の夕方、この前の道路にクマが出たとのこと。先日の天橋立といい、私が行くところ、よくクマが出ます。


↑このページのトップヘ