2011年04月

2011_0410_184755dsc00302  4月29日(金)晴れ。 「行きて見む深山がくれの遅桜あかず暮れぬる春の形見に」(藤原長能『風雅集』)という歌に誘われてというわけではありませんが、遅桜の咲く山陰に出かけてきます。毎年、ホテルのチェックアウト時に、翌年の予約をしてくるので、春の連休は大山行と決まっているのです。いまはブナの新緑がそれは美しく、林の中を歩くと体が緑に染まりそうです。大山は鳥取県ですが、私たちはいつも島根のほうで遊んでいるので、今回は地元を歩くつもり。今井書店も覗きたいし、米子の町も歩いてみたい。いつものように麦木晩田遺跡や植田正治写真美術館にも寄るつもりですが、まあ、あまり欲張らず、緑の中でぼんやりしてきましょう。(東北で頑張っている人たちには申し訳ないのですが)。自粛はせずに、分相応に(身の程をわきまえて)、散財してきます。日本海の美味しい魚もたのしみですが、何よりも愉しみなのは、ホテルの近くにある地ビール館での食事です。遠く宍道湖に落ちる夕日を見ながらいただく大山Gビールの味は格別なのです。飲むなら東北のお酒、と言ったばかりなのに、東北のみなさん、ごめんなさい。でもみなさんのことはどこにいても、何をしていても忘れることはありませんから。



 今回は旅先で読む本は持参せず、今井書店で探すことにします。 



写真はせんの日曜日、我が家近くの千本通りでタクシー待ちの彩乃さん。この日は都をどりの出番はなかったのですが、撮影の仕事があったそうです。舞妓姿の彩乃さんを連れて、女将のFさんと三人で花見に行った帰り。彩乃さんは「都をどり」で艶やかな舞を見せてくれています。それは愛らしい舞妓さんです。 


Dsc00475  4月28(木)曇り。みすず書房から野呂邦暢の三冊目の本が出た。没後30年の去年に岡崎武志さんの編集で出た随筆選『夕暮の緑の光』に続いて、今年は豊田健次さんの編集による短編選『白桃』。タイトルにちなんだと思われる、はんなりとした淡い色の表紙が美しい。豊田健次さんは「文學界」の元編集者で、新人だった野呂邦暢を担当した人。野呂文学の育ての親と言っても言い過ぎではあるまい。この短編選には「白桃」「歩哨」「十一月」「水晶」「藁と火」「鳥たちの河口」「花火」の7篇が収められているが、長崎に原爆が落とされた日を描いた「藁と火」は、これまで単行本未収録ということもあり、今回初めて読むという読者も少なくないのではないか。「花火」は名作『諫早菖蒲日記』の後日談。これも味わい深い短編。いずれも野呂の資質が存分に発揮された作品ばかりで、実に好もしい短編集となっている。(私の野呂作品ベストスリーは「諫早菖蒲日記」「鳥たちの河口」「十一月」)。久しぶりに「水晶」を読み、この作品を初めて読んだとき、ヘミングウェイの「白い象のような丘」を連想したことを思い出した。男女の会話だけの印象深い作品。若いころの野呂邦暢は英米文学を耽読していたそうだから、(そうでない作家がいるかしらん)フォークナーやヘミングウェイの香りがするのは当たり前かもしれない。初期の短編はどれも瑞々しく読み手の心に滲みいるものがある。なんでもない日常を描いて、人の心の深い部分を揺さぶる力がある。



 野呂文学の良さを語りたくても、肝心の本がなかなか入手できず、広く読んでもらうことができないのが悩みの種だったが、エッセイ選に続いて短編選が出て、壁が一つクリアされた感じ。「地方を題材に普遍の世界を描く」ことを目指した野呂邦暢の作品は、どれを読んでもいまなお新しい。野呂邦暢を知らない若い人たちにぜひ読んでもらいたいと思う。いつの時代も変わらぬ青春の姿、人生の哀歓、ささやかだけど大切なことなど・・・に出会えるはずである。



 長崎原爆のことを書いた「藁の火」については3月30日のブログに書いた。徹底して少年の目に映ったその日を描いたもの。記録文学としても読める描写力で、これも貴重な証言となるのではないだろうか。


2011_0419_135346dsc00419_2    4月27日(水)晴れのち雨。このところ、目まぐるしくお天気が変化する日が続いている。今日も朝のうちは晴れていたのに、いま雨が降り出した。いまのところは穏やかな雨だが、ここ数日の俄か雨といったら、雷を伴って、それは激しいものだった。まさに cats and dogs 、ひとしきり降ると嘘のように晴れあがり、気まぐれそのもの。いわき市に住む友人よりメールあり、家を流されていま避難所暮らしだが、店の再建の目途が立つまで、しばらく市外に移るとのこと。全国各地に準備された被災者用の住宅にみんなが移れば、家なき子(老人も)はいなくなるのだが、如何せん、みんな仕事や学校、或いは故郷を離れたくないという強い気持ちがネックとなって簡単には動けないようだ。住み馴れた所から離れたくないとい2011_0419_140057dsc00430 う気持ちはよくわかるが、仮設住宅ができるのはまだまだ先のこと、それまで思い切って他県に移って待つというわけにはいかないのだろうか。周りはまだ瓦礫という被災地にプレハブを建てて住み始めた人がいるのには(すごい自力更生)感心するが、多くの人たちの不便な避難所暮らしを見るのは何とも切ない。友人は縁もゆかりもない町で再出発の準備をするという。従業員たちともよく話し合って決めたことらしい。わが身一つの、ではないゆえに、相当の覚悟が要ることだろう。応援しているよ、とメールに返事を送る。



 写真は府立植物園に咲いている花、上はシラネアオイ、下はニリンソウ。いまこの一角には、ニリンソウ、ユキモチソウ、イカリソウなどの白い可憐な花が咲いています。


Dsc00465  4月26日(火)曇り。「ちくま」5月号の連載エッセイを面白く読んだ。なだいなだ「人間、とりあえず主義」、佐野眞一「テレビ幻魔館」、斎藤美奈子「世の中ラボ」で、三人とも揃って今回の震災と原発事故のことを書いているのだが、三人三様、書き方にそれぞれの個性が表れていて、面白く思った。なだいなだは「ぼくは医者という理科系の人間で、これまで原子力の平和利用に何がなんでも反対という全否定ではなかった。安全が確保され、いざというときの対処が十分に考えられていれば、むやみに怖がったり、反対することもない、という立場だった」、しかし、「炉の運転によって必然的に産出される放射性のゴミの最終処分の方法も決まらず、すべてのツケを後世にまわす」現状にはDsc00467 反対で、「未来を考えていう。日本のような地震国にはやはり原発は適さない。それより原発分の節電を考えた方がいい」と断言している。佐野眞一はさらに激越で、「津波は天罰」といった東京都知事を徹底批判。斎藤美奈子のは本の紹介で、去年出ていた広瀬隆の『原子炉時限爆弾』をまるで予言の書のようだといい、前福島県知事佐藤栄作久の『知事抹殺』で福島で何が行われていたかにふれている。反対に、SF作家豊田有恒の『日本の原発技術が世界を変える』は日本の原発技術礼賛の本だそうで、イノセントな読者は盲信しそう。辺見庸のTV番組「瓦礫の中から言葉を」にも打たれたが、自分の心持としては、4月9日付の朝日新聞に掲載された池澤夏樹のエッセイ「終わりと始まりー春を恨んだりはしない」に最も近い。(今度の震災について)「自分の中にいろいろな言葉が去来するけれど、その大半は敢えて発語するに及ばないものだ、ぼくは”なじらない”と”あおらない”を当面の方針とした」という下りに共感を覚えた。政治家や東電をなじっても何の役にも立たない。政治家を選んだのは国民で、原発の電気を使っているのもわれわれなのだから・・・。



 写真は西陣雨宝院の御衣黄桜(上)と桜の花びらが散りかかる牡丹(下)。雨宝院は狭い境内にお堂がたくさんあって、まるで仏様のアパートみたいだが、桜の木もたくさんあって、いまは遅咲きのサトザクラ(観音桜、観世桜)が満開。地面が見えないほど花びらが散りしだいて、まるで雪が積もったよう。秘仏の千手観音がおられるお堂のそばの御衣黄桜も満開だった。写真にはよく色がでていないが、本物はもっと緑色です。


2011_0419_135122dsc00415  4月23日(土)小雨。京都に来たころ少しさびしく思ったのは近所の魚屋さんに食べたい魚があまりないことだった。食文化が異なるのだから郷に入れば郷に従えだと自分に言い聞かせるのだが、アナゴやハモ、グジなど歯ごたえのない魚ばかりが続くと、橘湾のヒラメやタイ、コチ、茂木のピチピチエビが懐かしくなる。そういう時はよくつれあいを誘って若狭の常神半島へ魚を食べに出かけた。ちょうど今頃だと常神半島は神子(みこ)のヤマザクラが満開で、初めて訪ねたときは、魚のことなど忘れて、花に見とれたものだ。若狭ではメバルやホウボウ、イシダイ、カワハギのお造りなどを食べたが、ノドグロのあぶりが絶品だった。若狭に通ったのは最初の一年余で、日が経つにつれ近所に馴染みの店も増え、行きつけの魚店もできていまは全く問題ない。却って自分が京都に馴染んだのか、初夏になると「ハモハモ」、「鮎はまだか」などと言うようになったのだから、なんともはや。その初めて若狭へ行ったとき、海岸沿いの国道を走りながら、人影はないのにやたらと立派な建物(文化会館、体育館、〇〇ホールのような)が並んでいるのを異様に感じたのだが、その辺りがいわゆる若狭原発地帯だということを知って、なるほどねえと得心したのだった。そのときはあんな箱物をたくさん造って維持費をどうするのかしら、と心配したものだが。大飯、高浜、美浜、敦賀と福井県の若狭湾沿いには10を超える原発があるそうだ。でも原発が並ぶ海岸は年中釣り客で賑わい、夏は海水浴客で道路は大渋滞となる。今回の福島原発事故で自分が原発について全く何も知らないということに気づいた。なぜ海のそばにあるのか(大量の冷却水を確保するため?)も知らないし、原子力発電の仕組みもわからない。ひょっとしたら知りたくない、と無意識に拒否していたのかもしれない。「夕べの祈り」にあるように、「無知ゆえの罪をお許しください」の気分。電力も個人で調達できるようになればいいのにと思う。長崎の友人は風力発電や水力発電の提唱者で、個人用の小さな水力発電機をみんなに勧める活動をしていたが、その後どうなったかしら。ソーラーハウスをどんどん増やして、自家発電を増やしていくというのもいい。今朝の日経新聞に日本製紙グループ社長の発言が載っていた。「日本の産業界は石油危機などを契機に積極的に自家発電を導入し、燃料も重油、石炭、バイオマスと多様化してきた。各企業には結構な量の発電能力が眠っており、稼働させれば電力不足の軽減になる。電力大手の地域独占が自家発電した電力の流通を妨げてきた。震災を機に発送電の分離を本格的に議論すべきだ」だそうです。これに個人も加われば、(個人の発電能力は微々たるものでしょうが)と思うのは素人考えでしょうか?



 若狭の魚のことから妙な話になってしまいましたが、写真は京都府立植物園に咲いているミズバショウ。「夏の思い出」に歌われたミズバショウの花です。あの歌の印象では、小さな白い花が一面に咲いているというものでしたが、本物は大きいのですね。バショウというだけに葉っぱも立派で、可憐な印象(私の思い込みです)はありませんでした。


Dsc00456_3  4月22日(金)曇り。昨日の朝、あまりにもいいお天気だったので、久しぶりに東寺の弘法さんを覗いてみようかと家をでたが、すぐに気が変わって嵐山まで行ってきた。といってもJRで4駅、10分もかからない。嵐山はソメイヨシノが終わり、いまはシダレとサトザクラが見ごろ、まだ爛漫の春の名残があった。



いずれか法輪へ参る道、内野通りの西の京、それ過ぎて、や、常盤林の彼方なる、あいあい行流れ来る大堰河」と『梁塵秘抄』に詠われた通りに法輪寺への道を行く。清少納言が『枕草子』に「寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は釈迦佛の御住かなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀」(208段)と書いているように、平安時代、法輪寺の虚空像菩薩への信仰は篤かったらしい。いまでは4月の十三参りでニュースになるくらいのようだが。この十三参りは昔でいう元服式で、13歳になった少年少女が虚空蔵さんから知恵を授けてもらうため、お参りするもの。私は京都に来て初めて「十三参り」のことを知ったのだが、そういえば平安時代の貴族の娘たちもほぼこの年頃で着裳という成人式を行っている。紫式部が仕えた藤原彰子も12歳で着裳、その後すぐ一条天皇に入内、彰子の妹たちも同様のコースを辿っている。十三参りで面白いのは、智慧を授けてもらった子どもたちが、神妙な顔で渡月橋を渡ってくること。橋の上で振り返ると折角授かった智慧を落としてしまうというので、みんな緊張の面持ちで戻ってくるのだ。というわけで、現代の京都の(関西のでしょうか)子どもたちは13歳と20歳の2回、成人式をやるようです。



 この法輪寺の参道に電気・電波・電力の神様を祀る電電宮がある。社のそばに、エジソンやヘルツの像を刻んだ供養塔があって、国内の電気・電力・電波に関する企業の名前が奉納されている。確かめませんでしたが、東電の名前もあるのでしょうね、きっと。



 写真は嵐山の渡月橋。もうすっかり若葉色です。写真の上の方の若葉はエノキの新緑。


Dsc00410  4月19日(火)晴れのち雨。午前中、北山の総合資料館へ調べものに行く。いつも思うのだが、京都府の図書館が、岡崎の図書館と北山の総合資料館に分かれているのは実に不便なことだ。資料館は館内閲覧のみで貸し出しをしないから、調べものはひたすら書写するかコピイする必要がある。今日も3時間余を細かい漢字相手に過ごし、その後、隣の植物園で花を眺めてきた。植物園の桜苑はソメイヨシノが終わり、いまは紅シダレ桜が真っ盛り、一面に花びらが散って、地面は雪が積もったよう。青もみじの萌黄色と薄い桜色が重なって美しいこと。



 いつも東北の地酒を送ってくれる仙台の友人からメールあり、被災地の酒蔵が酒造りを再開した、とのこと。いま仕込んだ新酒ができあがるのは暮れになるそうだが、これは予約するしかない。しばらくは東北のお酒を愛飲することにしよう。友人は地震のあと、1週間ほど会社に泊まりこんだのだが、それは真っ暗なマンションに帰りたくなかったからだという。ガスも電気もとまって、「真の闇、というものを生まれて初めて体験したよ」と。闇なしには物語は生まれないよ、とも。



Dsc00439  「家にありたき木は、松、桜。松は五葉もよし。花は一重なる、よし。八重桜は、奈良の都のみありけるを、このごろぞ、世に多くなり侍るなる。吉野の花、左近の桜、皆一重にてこそあれ。八重桜は異様の物なり。いとこちたくねぢけたり。植ゑずともありなん。遅桜、またすさまじ。虫のつきたるもむつかし」(『徒然草』第139段) 兼好法師は八重桜を嫌いだったようですね。植物園にはいま、シダレと共に遅咲きのサトザクラが満開でした。



 写真上は枝垂れ桜。下はサトザクラで、銘は「平野匂い」。いずれも京都府立植物園で。


Dsc00372  4月18日(月)晴れ。昨夜NHKの教育TVで放送された「ETV特集 カズオ・イシグロをさがして」を興味深く見た。今年の一月、十年ぶりに来日したときに撮影されたもので、インタビュアーが分子生物学者の福岡伸一というのも意外性があってよかった。その福岡伸一がカズオ・イシグロの生まれ故郷である長崎市を訪れるシーンがあったが、石黒の父親が勤務していた長崎海洋気象台や住んでいた新中川の町、長崎の港の風景などが出てきて、思わず郷愁を誘われた。図らずも「郷愁」という言葉がカズオ・イシグロの口から何度も出て、5歳までの記憶しかない長崎の町への郷愁が作家の中にあるということを嬉しく思ったものだ。20年ほど前に亡くなった私の年長の友人Oさんは、カズオ・イシグロの母親の友人で、彼の処女作『女たちの遠い夏』(筑摩書房 1984年)が出た時、あのカズオちゃんがねえ、と感慨深く語ってくれたものだ。この作品は『遠い山なみの光』と改題されてハヤカワ文庫に入っている。訪れたこともない生まれ故郷の長崎と、自分が育ったイギリスを舞台にした物語で、初めて読んだときは、謎めいた文章の持つ静謐さに不思議とひかれたものだ。以来、数年おきに発表される作品を読んできたが、今回の来日は自作『わたしを離さないで』の映画化に伴うものであったらしい。2005年に発表された『わたしを離さないで』は、自分の人生が限られたものだと知ったとき人は何を思うか、残酷な運命のもとに誕生した女性の物語だが、何もかも失くしても、記憶(思い出)だけは奪われることはない、という主人公の言葉が印象的。カズオ・イシグロはインタビューの中で、自分にとって「思い出」は大事なものと言い、自分の作品の登場人物はいずれも過去の思い出を辿る、と語っている。自分自身、日本人でありながらイギリスの教育を受けてイギリス人として育ち、自己の拠り所を模索するという体験をしたゆえに、人をそうあらしめている記憶や体験に無関心ではいられないのだろう。作家は作品がすべてで書いたものを読んでもらえればいいのだからと、日頃はマスコミなどに出ることはないというからこのドキュメントは貴重なものになるのではないか。たまたま日曜日の朝、福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書 2007年)を読んだばかりだったので、インタビュアーにも興味を持って見たのだった。



 カズオ・イシグロの父親は海洋学者だったが、ピアノをよくする音楽家でもあったそうだ。カズオ自身も若いころは長髪にギターを抱えて、シンガーソングライターを目指したというから、音楽家としてのDNAを受け継いでいたのだろう。カズオ・イシグロの、新作を発表するのはおよそ5年おきという悠々とした創作ぶりを日本の作家はどう思うかしら、我が国では数年も作品を発表しないと忘れられてしまうのではないかしらね。



 写真は昨日の鴨川。暖かで春うらら、でした。


Dsc00350 4月15日(金)曇り時々雨。岡崎での会合のあと、御室まで車を走らせてきた。仁和寺の桜はいかがかと覗きに行ったのだが、肝心の御室桜はまだつぼみ。ミツバツツジと紅シダレが満開で、曇り空の下、鮮やかな色を見せていた。震災以来、観光客が減ったせいか、例年に比べるとどこも人出が少ない。観光が基幹産業である京都はずいぶん痛手を蒙っているのではないかしら。あまり縮こまるのはよくない、自粛しないで普通にお金を使ってねと思うのだけど、そういう自分もまだ遠出をする気にならないでいる。本を読んでいても上の空で、眼は同じところを行ったり来たり・・。原発事故から日本が立ち直り、農業や漁業、産業、そして人々の暮らしが完全に復興するまでの道のりを思うと、老人としては気が遠くなるのだ。果たしていつになったら「奥の細道」を歩けるものやら。



 「奥の細道」といえば、芭蕉に「一里はみな花守の子孫かや」という句がある。以前、伊賀の予野にある花垣神社を訪ねたとき、神社の鳥居下に建っている句碑を見た。小さいが古式ゆかしき神社で、境内に一条天皇の中宮藤原彰子ゆかりのという桜(何代目かの)があった。彰子が奈良興福寺の八重桜を愛でて京に移そうとしたとき、僧徒らが強硬に反対したため、彰子は却ってその風流心に感じ入り、伊賀の予野庄を寺に寄進、予野庄を花垣の庄と名付けて、毎年花の時期には宿直人を置いて花守とした、という話が『沙石集』にある。芭蕉はこの話を知っていて、この里の人達はその花守の子孫かと詠んだのだろう。いまでもこの神社では、桜の時期に花まつりが行われているというが、八重桜の時期にはまだ行ったことがない。



 遠い山のひとすみに白く咲く山桜がいい。毎年、遠くから花をつけたその木を見て、ああ、お前も無事に一年を過ごしてきたのか、と声をかけたくなる。人知れず咲き、人知れず散る、遠くから見るだけの桜、たった一本だけ、ひっそりと咲き、花が終わるとまた周りの緑に紛れてしまう、そんな桜を見ると、芭蕉ではないが、「さまざまの事思ひ出す桜かな」と思う。あと何回あの桜に会えるかしら・・。



 今日、帰宅して上着を脱いだら、胸のあたりからはなびらが落ちた。「わがふところに桜来て散る」、という歌を思い出した。



 写真は仁和寺の五重塔と紅しだれ。桜の下にはミツバツツジが。


2011_0410_154628dsc00295  4月13日(水)晴れ。暖かな一日。朝、千葉に住む友人より電話あり、この一月余、揺れない日がないので、なんだかずっと船酔いのような気分よ、余震というには大きすぎる地震がずっと続いていて、気が休まらないのだという。部屋中に倒れた本棚を何とか起こしたが、本を元のように戻す元気がないと言い、もう本当に要る本だけにするわ、思い出も頭の中にあるだけでいいと言う。この際、心身ともにスリムになって、シンプルライフを心がける、とのこと。幸い広い庭があるから晴耕雨読で自給自足を目指す、そうだ。日本人は歴史に学ばないし、のど元過ぎれば何とやら、というからなあと私は返事をしたが、友人は、「食糧危機のときは助けてあげる」といって電話を切った。食糧危機より放射能汚染危機のほうが先ではないかしらん(これは杞憂に終わってほしいもの)。



 写真は大山崎の宝積寺。竜神が伝えたという小槌があることから「宝寺」とも呼ばれている。大山崎山荘の隣り、急な坂道を上っていくと三重塔が見えてくる。ちょうどいま塔の前の桜が満開であった。寺伝では、神亀4年(727)に行基が山崎橋の橋寺として建てた山崎院を継いだもので、平安時代に寂照によって天台宗となり、南北朝時代に後小松天皇の勅願所となって真言宗に改められたという。ここの鐘楼に上がって背伸びをすると、三川合流地点や桜色に染まる背割りの堤が見えた。この地で木津川、宇治川、桂川(鴨川)が一つとなって淀川となり、大阪湾へ注ぐ。淀川といえば蕪村。思うばかりでまだ実現していないのだが、淀川を下って毛馬まで行ってみたいものだ。「春風や堤長うして家遠し」「舟中願同寝 長為浪花人」。


Dsc00319_2  4月12日(火)晴れ。蹴上で用事を済ませたあと、疎水べりの桜並木を歩いてきた。陽はうらら、まさに爛漫の春で、蹴上から岡崎周辺は花見客でいっぱい。ここの並木にはソメイヨシノだけではなく、ヤマザクラ、オオシマザクラ、ベニシダレ、といろんな種類の桜があって、まさに色とりどり。しばし原発事故のことなど忘れて、”西行の日”(「花あれば西行の日と思ふべし」)を楽しんできた。



帰りて●野呂邦暢の短編「世界の終り」を再読す。これはマグロ漁船で南海を航行中、核戦争が始まって被爆、遭難して無人島に漂着した男の話。無人島で孤独に生き延びる男の前に、新たな漂着者がやってくる。姿を見せない漂流者との、無言の対立や敵対心が執拗に描かれている。やがて島から生物の姿が消えはじめ、渚には死んだ魚が打ち上げられるようになり、男は核爆弾が世界に与えた影響に気づく。食料にしていたパンの実も椰子の実も食べられなくなる・・・追い詰められた男は乗り捨てられたボートで島を離れ、遠くに見える火を目指して大海原に漕ぎ出していく・・・という話だが、30年前に読んだときは、映画『渚にて』を連想したくらいで、あまり印象に残らなかった。それなのに今回読み返して、これはまんざら絵空事ではないと思われて、非常に複雑な気分。原発事故の直後、高木仁三郎が生きていたら何と言ったかしら、と思ったものだが、野呂邦暢が生きていたら、とも思う。



 夕刊に「福島原発 最悪のレベル7」の見出し。そういえば子どものころ(何十年も昔のことです)『レベル7』という小説を読んだ覚えがある。兄の本棚にあったもので、たしか外国の小説だった。詳しい内容は全く記憶になく、タイトルだけを覚えているのだが、この小説も「核」を扱ったものだったのかしらん。私は地下都市の話ではなかったかと漠然と想像するのだけど。



 写真は岡崎疎水の桜と花見の十石舟。


Dsc00304  4月11日(月)晴れ。晴れてはいるけれど黄砂のせいで霞んでいる。どんよりとした空の色は、まるで3・11以来続く、自分の気分のよう。何をしても、何を見ても気分が晴れない。今日、4月11日はカート・ヴォネガット(1922-2007)の命日。ヴォネガットの逆説的でシニカルな文章に親しんできた読者としては、その死の直後に出た『国のない男』(日本放送出版協会 2007年)を読み、ペシミズムの色濃いことに胸塞がる思いがした。彼をしても世界の行く末を思うと、怒る元気もシニカルに笑う元気も失せたのか、と思って。現代文明批判は痛烈で、「人間なんて何かの間違いなのだ、われわれはこの銀河系で唯一の生命あふれるすばらしい惑星をぼろぼろびしてしまった」と嘆く。そして、巻末には「レクイエム」と題する詩。



十字架にかけられし地球よ 声を持ち 皮肉をこめて 言ってほしい 破壊的な人間のことを。「父よ彼らを許したまえ。彼らは自分たちのしていることが わかっていないのです」。



 皮肉な点は われわれは、自分たちのしていることを 知っているということだ。



最後の生き物が われわれのせいで死ぬとき 地球がしゃべってくれたらとても詩的だと思う。それもわきあがるような声で、できれば グランドキャニオンンの大地から立ち上がるような声で、「お終いだ」。人間はここが好きでなかったのだ」(「レクイエム」『国のない男』)



 今日はヴォネガットをしのび、『死よりも悪い運命』(早川書房 1993年)を読もう。この本の帯にはこう書かれている。「地球のより良い運命を願ってーアメリカ文学界の鬼才が、ヘミングウエイら作家たち、難民問題、銃砲所持、家族の絆などについてユーモラスかつ真摯に語りながら、未来を希求するエッセイ集」。



 昨日の選挙の結果を見て、(見たくもないけど新聞に出ていた)、なんだかねー、やるせない気分になりました。またもや、いつか来た道・・・となるのでしょうか。 


Dsc00278  4月8日(金)雨。今日4月8日は小川国夫(1927-2008)の3回目の命日。小川国夫を初めて読んだのは、短編集『悠蔵が残したこと』だったと思う。それまで読んだどんな小説とも違う、不思議な印象を受けた。抑制がきいた文体、何かを暗示しているような、書かれていない部分を読み手に探らせるような、魂の底深くに錘を沈めていくような、そんな読後感を持った。「はじめに言葉ありき」、文学によってでなければ表現できないものを書き続けた人だと思う。自伝的小説『悲しみの港』には、作者を思わせる青年が出てくるが、もうあんなふうに純粋な文学青年というものは現代には存在しないのではないだろうか。



雨の中、久しぶりに車を駆って大山崎へ行く。途中、鴨川や天神川沿いの桜並木を眺め(もう満開に近かった)、西国街道を南下、大山崎の聖天さんへ。雨のせいで花の下には全く人影なし。枝垂れ桜もソメイヨシノも満開に近かった。聖天さんの駐車場から石清水の方を見やる。木津川、鴨川、桂川の三つの川が合流して淀川になるところに長く堤が伸びて、そこだけがピンクの帯になっている。背割り堤の桜並木だ。今日は遠くから眺めるだけ。



 小川国夫と立原正秋の往復書簡集『冬の二人』(創林社 1982年)には、1960年代に二人が交わした書簡が収められている。まだどちらも作家として確たる地位を築く前のことで、若い二人はそれぞれの文学観を率直にぶつけあっている。まさに「若き日にバラの蕾を摘め」だが、こんな日々から何と遠くまで来てしまったことか。



 写真は大山崎の聖天さんの枝垂れ桜。


2011_0406_105921dsc00228 4月7日(木)晴れ。調べものがあって近くの図書館へ行ったら、掲示板にこんな張り紙があった。「人気のある本・寄贈のお願い」とあり、リクエストの多い本のタイトルがずらりと書きだしてある。ちなみにリクエスト数が958件で第一位は、岩崎夏海の『もし高校野球部の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』。次いで東野圭吾『プラチナデータ』、3位は斎藤智裕『KAGEROU』、4位は再び東野圭吾『麒麟の翼』、以下、湊かなえ『夜行観覧車』、宮部みゆき『小暮写真館』、村上春樹『1Q84 BOOK3』、さらに東野圭吾『カッコウの卵は誰のもの』、湊かなえ『往復書簡』・・・という具合で、10位内の半分を東野圭吾と湊かなえが占めている。恥ずかしながら、どちらも(リ2011_0406_120718dsc00253 ストにあるほとんどの作家が)私には未知の作家で、今後も縁があるとは思えないが、ものすごい人気なのですね。それにしても一冊の本に1000人近いリクエストがあるなんて、驚きです。読みたい本はさっさと買って読み、蔵書にする価値がなければさっさと処分する(私です)というのは正しい本の読み方ではないのでしょうね? いったい1000人近い順番待ちでは自分に回ってくるのは何年先のことでしょう。リクエストが多い本は結局、みんなが読んでいるらしい本、ということのようです。人が読むから自分も読む、というわけでしょう。残念ながらこのリストにあった本のなかには私が読みたいものは一つもありませんでした。寂しい限りです。



 平安後期に書かれた中級官人の日記『時範記』がようやく手を離れる。承徳3年(1099)正月から3月までの平時範の日記だが、読み終えて一息ついているところ。読んだのは平時範が因幡守となって初めて任国へ赴いたときの記録。『時範記』のこのくだりを読んだあと、友人と因幡(鳥取)へ出かけ、時範の旅を追体験してきた。鳥取市には時範記に出てくる900年前の神社が現存し、国府跡には資料館が建っていて、時範に関する資料も展示されていた。歴史を学び、現地を歩くのは何にも勝る愉しみ、時空を超える悦びがある。次はいよいよ『小右記』、こちらは手強いが、難しいからこそ読み甲斐もあるというもの。日暮れて道遠し、されど諦めずまずは一歩から、である。



 写真上は京都市中央図書館の掲示板。下は七本松通にある地福寺の椿。


Dsc00238  4月6日(水)承前。ここ数日晴れた日が続いたせいか、土曜日はまだ蕾だった桜がいっぺんに開き始めた。こうなると年に一度の逢瀬、馴染みの桜に会いにいかないわけにはいかぬ。というので昼前、仕事半ばに千本釈迦堂まで出かけてきた。まずは北野の老松に寄り、北海道の知人にお菓子を送った後、上七軒を抜けて釈迦堂へ。ここは知る人ぞ知るしだれ桜の名所で穴場的存在だったが、近年たびたび雑誌に紹介されるにおよび、訪れる人が増えた。今日も桜の周りには結構な数の花見客がいて、TVカメラも取材に来ていた。釈迦堂の境内には椿の木も多く、赤やピンクの花が桜と競い合うように咲いていた。時間がないので花の写真を撮ったあと、まっすぐ帰宅。



Dsc00246桜といえばまずは西行でしょうが、私は式子内親王を思い出します。



はかなくて過ぎにし方をかぞふれば 花に物思ふ春ぞへにける」 (『新古今和歌集』)



●今日、久しぶりに金関丈夫のエッセイ集『孤燈の夢』(法政大学出版会)を読んでいたら、「源氏」と題するこんな一文があった。



「御堂関白のことを、以前にもちょっと書いたが、この人が紫式部といくらかの交渉があり、『源氏物語』の主人公一部のモデルであったろうということは、多くの人に既にいわれている。『源氏物語』の中で、主人公の光源氏が息子の薫大将の好色を戒めるところがある。作者はそのところで、「ご自分のことはタナにあげて」といった調子で、主人公の得手勝手をひやかしているが、その筆つきが、源氏を理想的人物のごとくに取り扱ってきたいつもの筆つきと、大変ちがっていて、身近い親しさと、なれなれしさを感じさせる・・・」



 ここで言っている薫大将は多分、もう一人の息子(亡くなった正妻葵上が生んだ)夕霧のことであろう。「さかしだつ人のをのが上知らぬやうにおぼえはべれ」(「ご自分のことを棚にあげて」)という花散里の言葉が「夕霧」の巻に出てくる。光源氏の二人の息子―薫と夕霧―は、父親に似ぬ女心にはなはだ鈍感な青年で、二人の恋には全く同情の余地はないが、ここで金関先生が言いたいのは、紫式部と御堂関白(つまり藤原道長)は、こんな冗談がいえるくらいの近しい間柄であったということであろう。単なる主人と雇用人というだけでなく、もう一歩踏み込んだものがあったにちがいない、と。



 写真は千本釈迦堂のしだれ桜。下は釈迦堂の境内に咲いている椿。


Dsc00224  4月6日(水)晴れ。録画しておいたTV番組、NHK-ETV特集「原発災害の地にて~対談 玄侑宗久 吉岡忍」を見る。日曜日の夜に放送されたもので、作家の玄侑宗久とノンフィクション作家・吉岡忍による現地からのルポと対談。福島県三春町の寺の住職である玄侑宗久氏の話には現場に住む人ならではの緊迫感と実感があった。地震や津波だけなら被災地の復興はもっとスムーズに進むのだろうが、思いもかけぬ原発災害がそれを阻んでいる。町の再建はなるのだろうか、いつになったら故郷に戻れるのだろうか、という被災者たちの不安はいかばかりかと思う。福島原発がある町では、住民の7-8割が原発関連の仕事についているのではないかとのこと。このたびの原発事故に関する、(反原発派といわれた)元福島県知事・佐藤栄佐久氏の談話を読んだが、「役所は一旦道が引かれると何があっても止まらないし、だれも責任をとらない」というくだりに、(地元を分裂させ不幸にする)大型開発・公共事業のあれこれを思い出しました。



 それにしても戦後広島・長崎は被爆地にすぐ家を建て、畑を作り、子どもを育ててきたのだ。4日、いつも利用している生協に「応援しよう東北産」の札をつけた舌平目が出ていた。長崎では「クチゾコ」と呼ばれる魚で、普段は好んで買う魚ではないが、このたびは迷わず購入。ムニエルにして美味しくいただきました。春になると西日本各地は中国大陸から飛んできた黄砂のせいで空が霞むが、いやでも吸っているこの黄砂は安全なのかしらん。



 地方選挙が始まって、知らない人の訪問や電話が増えた。一昨日も東京に住む、同窓生のつれあいという人から電話があり、さる候補者への投票依頼があった。こちらにはその同窓生のことは全く記憶にないのだが、それにしてもこの政党はものすごい組織力なり。あらゆるつてを使って、見ず知らずの者に投票依頼をしてくるわけだから。しかし同窓会名簿がそんなことに使われるというのもなんだかいやあな感じ。



 写真は昨日、祇園甲部歌舞練場の「都をどり」で。開演前の點茶。お点前は芸妓の満友葉さん、ひかえは舞妓の豆千花さん。華やかなロビイで、東日本大地震の義捐金募集の箱を持った舞妓ちゃんが「おたのみもうします」と呼びかけていました。


Dsc02769  4月3日(日9曇り。今日4月3日はわが愛するブラームス(1833-97)の命日。震災での犠牲者の方たちを思い、いま「ドイツ・レクイエム」を聴いている。ブラームスを聴くと、(前にも書いた気がするが)、「諦めよう、諦めよう」という気分になる(ことがある)。だが、それは決して後ろ向きの気分ではない。人間、何もかも手に入れるわけにはいかない、生きるということはそうそう自分の思い通りにはいかないもの、まあ、できる範囲で最大の努力をしていくことですね・・といったくらいのものだろうか。与えられた場所で、自分にとってベストを尽くして生きていくこと、まずは自分に与えられた責務をしっかり果たしていくこと、というごくごく当たり前のものか。命の再生産という意味でいえば私はもう役目を終えた。隠居としては次の世代の知恵に期待するばかり。ブラームスといえば、1989年の1月、昭和天皇が亡くなったあと、TVもラジオもブラームスの交響曲を流し続けた。あれは誰の選曲だったのだろう、バッハでもなくモーツアルトでもなく、ブラームスだったというのは。未曾有の災害の前に、文学も音楽も無力だという気分にうちひしがれそうになるが、芸術にはやはり人の心を揺さぶり、鼓舞する力がある。魂を揺さぶり、「生きていてよかった」と思わせる力がある。ジョン・ダンの詩「誰がために鐘は鳴る」ではないが、人間は孤島ではない、みんなつながっている、誰かの死はみんなの死、――だから世の不幸も幸せも他人事ではない、ということだろう。東北のことを自分のことのように、そう思い続けている。



 写真は昨日の醍醐寺の桜。まだ5分咲き。



 色もかもおなじさくらにさくらめど 年ふる人ぞあらたまりける  きのとものり(『古今集』) 


Dsc02765 4月2日(土)晴れ。遠来の客を案内して醍醐寺へでかけてきた。去年のJR東海のポスターになっていた霊宝館の庭の桜は五分咲きという感じ。霊宝館の中の仏様には会わず、花だけを愛でて金堂・五重塔(いずれも国宝)へ向かう。金堂の前のしだれは満開。五重塔の周りの桜はまだこれからというところ。広い境内には見上げるばかりのしだれ桜が何本もあって、来週末ごろには見頃となるのではないか。金堂のお薬師さんにお参りする。薬師如来の両脇には日光・月光菩薩、前には五明王、四隅には四天王がおられて、一番前に観音さまのお前立が。震災のため、恒例の行事・太閤花見行列は中止となったそうだ。花見まで自粛することはないと思うのだけど。こんなときだからこそ、頑張って賑やかにチアアップしなければと思うのだけど。



 地下鉄蹴上駅で降りて南禅寺~野村別邸~岡崎疎水資料館~平安神宮を廻る。いずこも桜の花はまだ。平安神宮の紅しだれコンサートが7日から始まるが、花は間にあいそうにないなあ。岡崎疎水(美術館沿いの)にも花はなし。それでも花見の十石舟が客を乗せて巡っていた。予約のツアー客だろうか。



 写真は醍醐寺のしだれ桜。京都市内の桜はまだ蕾みですが、暖かい日が続けば咲き始めるのではないでしょうか。花なき里に住みならえる・・・一日でした。


Dsc07060 4月1日(金)晴れ。ずいぶん春めいてきた。今朝、奈良を旅行中の友人より電話あり、「吉野はもちろん、長谷寺も室生寺も大宇陀の叉兵衛桜も まだ蕾だったけど、サンシュユがきれいだったわよ」。もう1週間ずらしたら桜が見られたのに、と言うと、前に見たことがあるし、桜のときは人が多くて風情がないしね、とのこと。今日は多武峰の談山神社から聖林寺、桜井辺りを歩くのだそうだ。多武峰といえば、京都に来た年の秋に訪れたことがある。桜井駅からバスで談山神社まで上り、燃えるような紅葉の中に立つ十三重塔を見たあと、同じ道を歩いて下った。途中、崇峻天皇陵や聖林寺、安倍文殊院などに立ち寄り、土舞台やいくつかの小さな古墳を見て、桜井駅から京都へ戻った。工芸品のような京都に比べると、奈良はのどやかで、おっとりとしているなあと思ったものだ。



 つれあいの仕事の関係で、数年おきに転勤を繰り返している友人がいる。子どもがいないので、夫婦で日本一周の旅をしていると思えば楽しい、と達観している。(達観したのは数回の引っ越しを経験してからだそうだが)。友人のつれあいは大陸生まれで、自分には故郷はないというのが口癖らしい。故郷喪失者(ハイマートロス)といえば何かネガティブな感じがするが、地球が故郷と思えば気楽なのだという。



 東日本地震の被災者たちが全国各地に緊急避難しているが、故郷を離れたくないという人も多い。何度も津波を体験しているのに同じ場所に住み続けてきた人たちの土地に対する愛情や執着がいかに深いか偲ばれる。踏みとどまって故郷を復興するのも大事だが、思い切って新天地で生き直してみるのもいいのではないだろうか。たしかに仕事や暮らしの手立てのことを思うと未知の土地に移るのは勇気がいるだろう。だが同じ日本の中、また新しい体験ができると前向きに考えることはできまいか。



 友人夫妻は手紙の最後に「デラシネーズ」と署名してくる。根無し草の二人、というわけだが、悲哀感は全くない。複眼でものを見る訓練ができているので、夜郎自大にならずにすむし、比較文化の愉しみを熟知している。東北に住んだときは、「菅江真澄になった気分」と書いてきた。とすれば伴侶である友人はさしずめイザベラ・バードか。どこでも住んだところが故郷、と私なども思っているので、デラシネーズから手紙が届くと(たまになのが残念)心弾む。地震による疎開者のなかには避難先で新しい生活を始める人もいるだろう。いろんな文化を持った人たちが住んでこそ、その土地は活性化する。マイナスを掛け合わせたらプラスになるように、被災者の方たちのこれからがよりよいものになりますように。



 写真はベニバナトキワマンサク。鴨川の土手に咲いていました。


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