2011年10月

Pa300068  10月31日(月)晴れ。昨日は雨の中、友人のFさんに誘われて、兵庫県朝来市にある竹田城址を訪ねてきた。室町時代(1431年)山名氏の重臣太田垣氏によって築かれた城で、初代城主は太田垣光景。その後秀吉の弟秀長が入ったこともあったが、現在の陣容は天正13年(1585)に入城した赤松広秀の時代に築き上げられたもの。播磨・丹波・但馬の交通の要地にあり、また生野銀山に近いこともあって、豊臣政権の拠点城郭として機能したとされる。標高354メートルの古城山の頂上にあり、南北400メートル、東西100メートルと山上の城としてはかなり広い。ここは冬場の早朝、しばしば深い霧に包まれることから、「天空の城」と呼ばれ、最近人気が出てきたそうだ。正 Pa300088 直、今回訪ねるまで私は知らなかった。京都から名神高速ー中国自動車道ー舞鶴若狭自動車道を経て、北近畿豊岡自動車道の和田山ICで降りると竹田はすぐ。ほぼ2時間で到着。小雨が降る中、登山道の入り口で見上げると、霧に包まれた城の石垣が見えた。ボランティアガイドに案内されて山頂まで上がる。徒歩で40分くらいか。色づき始めた雑木林が美しい。サルトリイバラやノイバラ、ソヨゴ、ハゼなどの赤い実が目立つ。山上に石垣が残るだけの城址の第一印象は、大分県竹田にある岡城に似ているなあというもの。岡城が「牛臥城」と呼ばれているのに対し、但馬の竹田城は「虎臥城」と呼ばれているところも同じか。ここの石垣は穴太積みで、大きな石(すべて古城山周辺Pa300128 から掘り出したものという)を野面積みにし、隙間に割石が埋めてある。力強い石垣で、430年間崩れたことがない、とガイドが胸を張った。赤松広秀は関ヶ原の戦いで西軍につき、夫人が宇喜多秀家の妹だったため東軍から厳しい探索もあったそうだが、鳥取攻めに加わり、大火の責任を問われて自刃。竹田城は廃城となった。(一国一城令で、但馬の国の城は出石城となる) 現在ここは国史跡となり、来訪者が増えたそうで、山の麓には新しく観光案内所ができ、広い駐車場も整備されていた。山上からの眺めは雄大、但馬の山々を背景に、城下町が一望できた。(霧の晴れ間に) 石垣の上には柵などないので、端に寄ると足が震えたが、(幼児や老人は要注意なり)城好きにはそこがいいのだろう。あるのは石垣のみ、それが実によかった。



 竹田城を一時に出発、帰途、兵庫県丹波市青垣にある紅葉の名所高源寺(臨済宗)に寄り、午後5時半、京都帰着。高源寺は京都の京北にある常照皇寺に雰囲気が似たお寺で、(創建時期はほぼ同じ)山全体が紅葉、11月半ばには真っ赤になるという。時間があれば再訪したいものだ。



 写真上は「天空の城」竹田城。中は大手門の石垣。下は高源寺の多宝塔(三重塔)。


2011_1023_095646pa230006  10月28日(金)晴れ。先日、東山二条にある大蓮寺を訪ねたとき、向かいの三福寺の塀越しにたわわに実った柿が見えた。何という種類の柿なのか、ちょっと実がなりすぎではないかと思われるほど。柿といえば子規の「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」を連想するが、会津から帰って来たばかりの私は芝五郎の「五十とせのむかしのままに残りけり 柿の実うりし道のべの石」という歌を思い出す。戊辰戦争のとき母や姉妹を失った五郎少年は、農民の子の姿で生き延びた。斗南に移住する前、路傍に並べた柿を売ってしのいだ時期があったのだろう。



 東山二条にある大蓮寺は浄土宗の寺院だが、ここに廃仏毀釈の前まで祇園社感神院にあっ2011_1023_113424pa230013 た仏像が安置されているというので、拝観してきた。現在の八坂神社は祇園社感神院という寺院でもあったが、廃仏毀釈の際、寺は廃却された。しかし長年信仰してきた仏様を廃棄するのは忍びないというので、町の人たちが避難させ、町家に保管、その後大蓮寺に預けたという。この日拝観したのは薬師如来像と十一面観音像で、薬師如来には脇侍も十二神將もついておられる。博物館から美術品として調査したいという申し出があるが、「仏像はあくまで信仰の対象だから」といって断っている、とのこと。ただし秘仏はお薬師さんだけで、十一面観音さんは洛陽三十三観音の一つなので常時公開されている。廃寺の仏様が別の寺院に預けられることはよくあることだろうが、祇園さんの仏様に会うのは初めてだった。10世紀ごろの作というが、実に美しいお顔をしておられた。



 会津磐梯山に初冠雪というニュース。猪苗代湖に白鳥が飛来するのも間近なことだろう。昨夜、録画しておいた映画『おかあさん』(1952年 成瀬巳喜男)を観る。田中絹代の美しいこと。シベリア帰りの職人さんとか、結核で亡くなる兄とか、まだ戦後そのもの、舗装されていない道路、開けっ放しの住まい、紙芝居や福引やチンドン屋など、当時の風俗がしのばれた。香川京子に思いを寄せるパン屋の息子を岡田英次が演じていて、意外に思ったことだ。岡田英次といえば「24時間の情事」の印象が強いので。といっても私がこの映画を見たのはずっと後のことだが。



 写真上は三福寺の境内にあった柿の木。下は祇園閣(大雲寺)から見た知恩院。法然上人の800回大遠忌の最中です。背後の山は比叡山。


 10月26日(水)晴れ。片づけても片づけても仕Pa260045事の山が減らない。これでは旅の余韻に浸る間もない。などといいながら、備忘録であるこのブログにはまだ旅の思い出を記している。今回の東北行は具体的な支援活動ではなく、訪ねることで間接的に応援をするというつもりで出かけてきた。実際に訪ねたのは福島の太平洋側(浜通り)ではなく、会津・磐梯周辺だから、被災の現場に立ったわけではない。もし津波や原発の痕を見たならば、こんな呑気な旅日記など書けなかっただろう。帰ってきた日に『大津波と原発』(朝日新聞出版)を読んだ。内田樹・中沢新一・平川克美による、震災の直後(4月5日)に行われた鼎談をまとめたもの。生々しい発言が多いが、基本的な考え方には共感を覚える点多く、今後は代替エ2011_1018_143422pa180247 ネルギーの開発をいままで以上に真剣に進めていかなければなるまい、と思ったことだ。ここで中沢新一が、今度の大震災と原発事故で日本の歴史がボキッと折れた感じがする、今後どの方向へ行くかという重要な分岐点に来ている、このことを認識しないと、「今まで通りのラインでいきましょうという人たちが大きな声で発言して、またこれからも同じラインで行こう、そうやっていけばまた日本は復興するぞと言い出すでしょう」と言っているのだが、残念ながら予想は当たっているようだ。震災から半年後のいま、確かに「原発をなくせば日本の経済はダメになる。復興が遅れる」という声があがっているし、なし崩しに「元通りに・・・」という声が聞こえてき2011_1020_115744pa200540 て、のど元過ぎれば何とやら・・元の木阿弥か、という怖れがする。あんなに大きな犠牲を払ってわれわれは何を学んだのか、全く先の戦争と同じ、つくづく人間は歴史に学ばないのだなあと嘆きたくなる。



 これまで支払われた原発交付金は9152億円という。一つの自治体で500億円以上を受け取っているところもあるそうだ。交付金は一種の迷惑料なのかなあ? そうならば、やはり原発は厄介ものなんだ。クリーンで安全なものならば交付金など不要なはずだものね。ネ・ス・パ?



 写真中は福島の道の駅で、「がんばっぺ東北」。下は福島空港に着いたANAボンバルディアCRI-100、大阪(伊丹)行き。これが50人乗りの、まあ小さい小さい飛行機です。機体に「がんばろう! 東北」と書かれています。




2011_1020_104127pa200519   10月24日(月)承前。福島の旅⑥。旅に出ると、できるだけその町の図書館や郷土資料館を覗くことにしている。公共図書館や郷土資料館を見ればその町の民度というか文化度が推し量られる気がするからだ。公共の図書館や博物館の中には建物は立派だが、中身はがっかりという所が結構あって、納税者である住民が気の毒になる。(では京都はどうなんだと言われたら項垂れるしかないのですが・・・) 須賀川市役所の隣に市立図書館があったので入ってみた。入り口に大震災の直後に撮影された図書館内の様子が掲示されている。倒れた書棚、足の踏み場もないほど散乱した本、(16年前、神戸の図書館でも同じ光景を見た)半年経ったいまはそれが嘘のように復旧していた。玄関に「本のリサイクル広場2011_1020_104040pa200518 開催」の案内あり。「一人10冊まで自由に持ち帰れます。また本の持ち込みはいつでも受け付けます」とあり、いいなあ、京都でもやってくれないかなあと思う。そうすれば読んだ本はどんどん図書館に持ちこんで、蔵書の整理が簡単になるのだが。さて、郷土資料のコーナーを覗くと、これはもう会津一色。会津にある歴史春秋出版というところから出ている歴春ふくしま文庫がずらりと並び、あとは戊辰戦争、いわゆる幕末史に関する本が目立つ。今度の旅では郡山にある「文学の森資料館」にも寄りたいと思っていたが、時間がなくて通り過ぎてしまった。郡山の「文学の森資料館」には草野心平や久米正雄、中山義秀、宮本百合子などの資料が展示されているそうだ。この日、時間がなくて寄れなかった場所に芭蕉が記した「あさかの沼」がある。「みちのくのあさかの沼の花かつみ かつみる人に恋ひやわたらむ」(古今集)と歌われた「花かつみ」を芭蕉が探して尋ねたという安積(あさか)、いまはもう沼もなく、「かつみ」も見ることはできそうにないが、面影だけでも・・と思ったのだが。もっとも花かつみとはどんな花なのか、いまだに定説はない。陸奥に配流された藤原実方が端午の節句に、あやめの代わりに軒に葺かせたという植物で、マコモとも蘆の花ともあやめとも言われているそうだ。



 写真上は須賀川図書館に掲示されていた被災時の写真。下は図書館。


2011_1020_102632pa200507  10月24日(月)晴れ。福島の旅その⑤ 旅の記録もようやく目的の『奥の細道』に辿り着いた。芭蕉は元禄2年(1689)4月20日(太陽暦6月7日)、曽良と共に白河の関を越えて陸奥に入っている。そのときようやく「旅心定まりぬ」と書いた。そのときは卯の花や野ばらが真っ白に咲き、「雪にも越ゆる心地す」だった。彼が慕った能因や頼政はここの紅葉を詠んでいて、私が訪ねたときはまさに、「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関」(源頼政)という眺め。20日の朝、ホテルを出て空港へ向かう途中、須賀川へ立ち寄る。芭蕉が陸奥に入り、白河、矢吹の次に泊まったところ。ここに住む俳人等窮を訪ね、8日間も滞在している。須賀川市役所に車を停めて駐車場の一画にある「芭蕉記念館」を訪ねる。民家Pa240035 のような建物で、芭蕉と須賀川に関する資料がいろいろと展示してある。ここで「福島 奥のほそ道」手拭を購入(500円)。芭蕉が訪れたころの須賀川は奥州街道の宿場町として繁栄していたらしいが、いまは町に人の姿もなくどことなく寂れた感じ。「奥の細道」は町のシンボルでもあるようで、家々の軒先に句を記した行燈がかけられ、いたるところに「奥の細道」案内板があった。芭蕉がいまも生きて身近にいるような感じ。結の辻という広場に芭蕉と曽良の像があった。腰かけているのが勿論芭蕉。隣の鏡石町から来たという男性がいたのでシャッターを押してもらい芭蕉さんと記念撮影。男性の話では、「津波には遭わなかったが須賀川、鏡石、矢吹辺りも震2011_1020_100751pa200482 災でやられた、我が家も半壊して住めないのでいまは埼玉の息子のところに厄介になっている。寒くなるので冬物を取りにきたところだが、須賀川もひどいなあ」。そういわれれば周りの建物の壁にはひびが入り、取り壊し中のビルが目立つ。地図で確かめるとここはいわき市の西隣なのだ。何とうかつなことか。会津や裏磐梯では壊れた建物を見なかったので、被災地福島にいるという実感がなかった。



 気持をとりなおして芭蕉が訪ねた十念寺という浄土宗のお寺へ行く。境内に江戸時代、地元の俳人市原多代女が建立した「風流のはじめや奥乃田うゑ唄」という芭蕉の句碑があった。境内を見回してび 2011_1020_101355pa200491 っくり、灯篭や墓石が倒壊し手つかずのまま散乱しているのだ。ここで初めて地震の恐ろしさを実感、言葉を失う。16年前、阪神淡路大震災が起きたとき、自分が生きている間こんなひどい地震に遭うことはもうないだろうと思ったものだが、20年もたたないうちに東北大震災が起きた。東海地震も杞憂ではないだろう、地震国に住んでいる以上、覚悟しておかなければ。だが思うばかりで実際にはなんの備えもしていない。その時はその時、と開き直っているというか、諦めているといおうか。せめて周りの足手まといにだけはなるまい、と思うばかり。



 写真上は須賀川宿の芭蕉・曽良像。中は芭蕉記念館で購入した手拭。中は街角に立つ「がんばろう」の旗。下は十念寺のお堂と壊れた石灯籠。


2011_1019_100508pa190348 10月22日(土)曇り。承前。旅の記録その④。福島3日目はホテルの人に薦められて下郷町の大内宿を訪ねる。宿から70キロ余の距離。朝8時に出発して、10時前に到着。ここは江戸時代、会津若松と日光今市を結ぶ会津西街道の宿駅だったところ。藩主の参勤交代にも利用され、本陣、脇本陣があった。500メートルほどの道路をはさんで茅葺の家が整然と並んでいる。なかに築400年という家があったが、建物のほとんどは江戸後期から明治時代に建てられたものという。昭和56年(1981)、国の重要伝統的建物群保存地区に指定され、その後、広く知られるようになった。20年ほど前から観光客が来るようになったが、団体客が押し寄せるようになったのは近年のことという。中山道の馬籠、妻籠、奈良井などの宿場と景2011_1019_102404pa190356 観が少し異なるのは、建物が茅葺で、しかも大きいということか。現在は立ち並ぶ家のほとんどが土産物店や食事処となっていて、まるごと観光地という感じ。もちろん生活の場でもあるのだが、周りは深い山々で、突然ドラマのセットみたいに宿場町が現れるという印象。土産物店の女主人から、どこから来たのかと問われたので「京都から」と応えると、うちのお父さんも来月京都に行くのだと言う。「ツオンインにいぐんだっぺ。法然さんの遠忌で。お寺さんに連れて行ってもらうんだべ。私はここから出たことはねえんだ」。その隣の店先に真っ赤なリンゴがあった。いまでは珍しい紅玉がなんと10個で500円とある。甘酸っぱくて香りが高く、ジャムにする2011_1019_102943pa190358 には最高のリンゴ。「送ってもらえるかしら」と尋ねると、「送り賃の方が高くなる」といって引き受けてくれない。いくらそれでも構わないと言っても手を振って断るばかり。マイタケ、シメジ、ナメコと茸も山のように並べてある。それが驚くほどの安さ。売り手いわく、「風評被害でうれないからさ。半値以下でも売れない」。今回福島でこの言葉を何度聞いたことだろう。農産物をはじめ魚介類も、いくら放射能は大丈夫といっても、福島産というだけで敬遠されると。生産者の胸の内を思うと、怒り心頭・・・。



驚いたのはこの大内宿に以仁王を祀る高倉神社があったこと。後白河天皇の第二皇子以仁王は、治承4年(1180)、源頼政と共に平家追討の兵を挙げたが敗退、源頼政は宇治の平等院で切腹、以仁王は興福寺を頼って南下する途中の木津川で流れ矢にあたり落命した。皇子を祀る高倉神社と墓が木津川にある。だが大内宿での伝承によると、以仁王は木津川では死なず、東海道から甲斐信濃を越え、上野から桧枝岐経由で大内宿に着いた、という。皇子はこの地で数日を過ごした後、再び越後を目指して旅立った、と。そのとき皇子が宿としたという家がいまも続いていて、高倉神社の祭礼のときは、永代御頭家として神輿渡御の休息所となっているという。いやあ、こんなところで思いもかけず以仁王に出会うとは。まさに貴種流離譚、海を渡ってジンギスカンになったという義経ではないけれど、平安時代の皇子も各地に物語を生んでいるようです。



 写真上は会津下郷町の大内宿。中は紅玉林檎。下は高倉神社の鳥居。


2011_1018_104721pa1801802011_1018_131612pa180221_32011_1018_134050pa180242    10月22日(土)。承前。旅の記録その③。鶴ケ城のそばに福島県立博物館がある。東北学の赤坂憲雄さんが館長になったと聞いていたので、期待して訪ねた。全国各地の公共博物館には、建物はやたらと立派だが、中身はがっかりという所が少なくないが、ここには裏切られなかった。展示が実に魅力的。ものをただ並べるだけではなく、実に具体的で福島の歴史が日本列島のなかのどこに位置するか、全体を把握するための仕掛けがいたるところにあって感心させられた。たとえば発掘した人骨から縄文人の骨組みを再現し、現代人と比較してみせる(立った骸骨が並べてある)、竪穴式住居も実にリアルでしかも親しみやすく再現されている、県内のある町を取り上げ、そこの歴史を詳しく紹介するコーナーあり(県民には身近なものだけに興味深いことだろう)、民俗や自然を紹介するコーナーも展示品が生きているという印象を受けた。月一度の館長による「遠野物語を読む」会が20日(木)にあるというが、その日は福島を離れる予定で、残念無念。館長は現在学習院大教授で、福島に来ることは月に何度もないそうだ。



 その館長が実行委員長を務める「会津・漆の芸術祭」が会津と喜多方で開催中というので、会場を訪ねることにする。会津市の七日町通りは趣のある建物が並ぶ商店街で、町内の店に漆の作品が展示されていた。駆け足で見て回り、会津の北20キロほどのところにある喜多方市へ向かう。喜多方は最近ラーメンで有名だそうで、町には「老麺会」の看板をあげた店が目立つ。市役所の前の駐車場に車を入れて、目の前の交番で漆祭の会場を尋ねる。お巡りさんは「ラーメンじゃないの?」と何度も聞き直し、ラーメンマップの何ケ所かに記しをつけて、この辺りかなあと渡してくれた。喜多方は蔵の町でも知られていて、歩いているとユニークな形の蔵がいくつも目につく。町にはラーメン店におとらぬほど酒屋が多く、その中の一つ、古い造り酒屋で漆アートを観る。そこの酒は酵母にモーツアルトを聴かせているそうで、酒の名前が「蔵粋(くらしっく)」。他に「アマデウス」や「マエストロ」という酒もあり、二本入りが「デュエット」、三本入りはもちろん「トリオ」。いやはや楽しい酒屋さんでした。他の酒屋の店先で見たお酒の名前に地酒「ほまれ」だの「夢心」などあり。車でなければ試飲という手もあるのに・・・。



 写真は上が福島県立博物館。中が喜多方市の蔵の店。左はカフェ、右は梅干し屋さんでした。下は喜多方の町で見かけた「放射能モニターレンタル」の張り紙。現実に引き戻された瞬間でした。


2011_1018_084305pa180118  10月22日(土)承前。18日(火)は会津若松~喜多方~磐梯山ゴールドラインと周遊す。今回は福島の紅葉を愛で、芭蕉のみちのくの旅をちょっとだけ辿るというつもりで来たのだが、福島に来たらやはり会津を避けるわけには行かない。というので、2日目は会津若松行きとなった。会津は戦国時代、伊達正宗や上杉景勝、蒲生氏郷らが治めた時期もあったが、江戸時代に入って保科正之が藩主となり、以後、松平を名乗って幕末に至っている。この保科正之は徳川二代将軍秀忠の子だが、正室お江の子ではなかったので高遠藩主保科正光のもとで育ち、家光のとき会津藩主となったもの。いはば会津松平の初代藩主というわけ、今年は正之の生誕400年ということもあって、あちこちに彼の顔を載せたポスターを見か 2011_1018_094133pa180137 けた。その正之を祀る土津神社が猪苗代にあるので、会津へ向かう途中立ち寄る。この神社の前の杉木立の中に「キリシタン殉教之地入口」の木標あり。この地には、1590年に会津入りした蒲生氏郷に従って近江からやってきた信者たちが数多くいたそうだ。当時の猪苗代城主・岡越後もキリシタンで、領民には信者が多かったという。ここにある塚は岡越後一族の墓ではないかといわれているそうだ。思わぬところでキリシタン縁の地に会い少なからず感動す。



会津城に行く前に白虎隊の最期の地、飯盛山へ寄る。山への階段を前にため息をついていると、脇にエスカレーターあり、迷わず250円払2011_1018_103356pa180175 って動く坂道へ。頂上にお墓あり。団体のツアー客がガイドの説明を熱心に聞いている。10代の少年たちの戦死はなんとも痛ましい。未成年が戦争に狩り出されて犠牲となった沖縄戦やドイツ映画『橋』を連想し、しばし瞑目す。広場に「会津藩殉難烈婦の碑」あり。石光真人『ある明治人の記録ー柴五郎の遺書』(中公新書)にも書かれているが、戊辰戦争のとき会津藩の女性たちの多くが自刃して果てた。この碑は戦で果てた女性たち200名余を顕彰したもの。同志社大学創立者新島襄の夫人八重(山本八重)もこのとき男装して勇敢に戦ったというが、彼女は生き延びて京都で活躍した。



 飯盛山でのいちばんの目的は「さざえ堂」で、世にも奇妙なお堂を見ることができて満足した。さざえ堂は旧正宗寺の仏堂として1796年に建立された。二重螺旋の通路を持つ、高さ16.5メートル、六角三層のお堂で、ぐるぐると廻って上り、またぐるぐると一方通行で下ってくる世界唯一(と説明書きにあった)の奇妙な建物。その形からさざえ堂と呼ばれている。400円払って中に入り、ぐるぐると三回転して出てきた。白虎隊のお墓にお参りした人たちが次々にやってきて、中に入っていく。



 町のそこかしこに「あいづっこ(会津っ子)宣言」の看板あり。「がまんをします 卑怯なふるまいをしません 会津を誇り、年上を敬います」などとある。会津魂は健在か、西日本出身者としては、どうもいたたまれぬ気分なり。



 写真上は猪苗代土津神社にあるキリシタン遺跡。中は飯盛山のさざえ堂。下は会津鶴ケ城(国史跡)。初代藩主保科正之生誕400年を記念して、赤瓦に葺き替えたばかりだそうです。


Photo  10月22日(土)雨。17~20日まで、みちのくの、ほんの入り口を訪ねてきた。裏磐梯にある宿を拠点に、会津、喜多方、猪苗代、大内宿、須賀川など福島の真ん中辺りを周遊してきた。福島を訪ねるのは初めて、空港からレンタカーで裏磐梯へ向かったのだが、うっかり高速道路を反対方向に乗り、(車にナビはついていたのだが)、最初から失敗。しかし高速道路に車が少なかったおかげで慌てずにすんだ。磐越自動車道路は(たまたまこの日だけだったのかもしれないが)ガラ空き、たまにすれ違う車があるとホッとした。料金所に「被災証明書のある方は無料」とあって、福島へ来たのだと実感す。途中の阿武隈高原SAで休憩、「あれが安達太良山、あの光るのが阿武隈川」という高村光太郎の詩の一節を思い出す。福島Photo_2 空港から裏磐梯五色沼近くの宿まで約80キロ、小一時間で到着す。五色沼周辺は紅葉が見ごろで、ツーリストも多し。紅葉が進む山を走る観光道路がたくさんあって、早速そのうちの一つ磐梯吾妻レイクラインを走行。見慣れた京都の山とは異なる樹々の彩りを楽しんだ。



 午後4時、ホテルの隣にある諸橋近代美術館へ。ここはダリのコレクションで知られる個人美術館で、地元の実業家が創設したもの。開館は1999年というからまだ新しい。ダリの作品とともに、いまはシャガールやルノワールなど印象派の作品が展示中だった。ピカソの初期の版画「貧しい食事」や、ダリの「母親像」などを2011_1017_160342pa170092 観る。日没は午後4時40分ごろ、美術館を出ると外はもう黄昏色だった。



 ラウンジでコーヒー。サーブしてくれたウエイトレスの話。「ここはいまの時期が一番忙しいのですが、今年はお客様が少なくて、去年の3分の1という感じですね・・・」。客としては、空いているおかげでゆっくり温泉を楽しめるというものだが、ホテル側にしてみれば辛いこと。震災の後はしばらく被災者を受け入れていたそうで、「裏磐梯は被害はなかったのですが、なにしろ福島というだけでみなさま躊躇われるようで・・・」。津波よりも原発事故の影響が大きいのである。天災なら諦めもつくが、原発事故は人災、まことに罪深い人災である。目下、放射能汚染物質を取り除く作業(除染作業)が行われているが、除染物質(泥だの植物だの衣類だの)の始末をどうするのだろう? 福島では今もなお新聞もTVも震災と原発事故関連のニュースばかりだった。夜、いわき市の友人に電話。仕事再開準備で上京中とのこと、滞在中には会えそうにない。



 写真上は五色沼と磐梯山。中は磐梯吾妻レークラインの中津川渓谷。下は諸橋近代美術館。


2011_1008_193232pa080353 10月17日(月) この春予定していたものの、直前におきた大震災で無期延期となっていた東北行がようやく実現。今日から数日の予定で福島へ出かけることになった。みちのくは初めて。まずは芭蕉に敬意を表して『奥の細道』を辿ってみたいと思う。



心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ」とあるように、芭蕉は白河の関を越えて、ようやくみちのくへの旅心が定まったという。私は一気に飛んでいくのでどうかしら、でも白河の関から須賀川~安積と辿ってみようと思う。芭蕉がここを歩いたのは6月、卯の花のころ、いまは秋真っ盛りで、磐梯辺りは紅葉が美しいことだろう。「卯の花をかざしに関の晴れ着かな」(曾良)ではなく、「もみじ葉をかざしに関の晴れ着」としてみようかしらん。それともススキをかざしに。芭蕉の弟子の去来に、「君が手もまじるなるべし花すすき」という句がある。故郷長崎を離れるときの別れの句。ススキといえば鮎川信夫の「宿恋行」を思い出す。おぼろげな記憶をもとに書くのだが、



白い月のえまい淋しく 



すすきの穂が遠くからおいでおいでと手招く



吹きさらしの切の寝覚めの空耳か



どこからか砧を打つ音がかすかに聞こえてくる



わたしを呼んでいるにちがいないのだが



どうしてもその主の姿を尋ねあてることができない



さまよい疲れて歩いた道の幾千里



五十年の記憶は闇また闇」



 今日は鮎川信夫(1920-1986)の命日。あの日からもう25年も経ったなんて・・・私にとって25年の記憶はそれこそ闇また闇だ。



 長崎から帰ってまだ1週間もたたぬというのに、落ち着かないことですが、では行ってきます。



 写真は長崎の旅の最後の宿、ハウステンボスの夜景です。


Pa160026  10月16日(日)晴れ。朝、久しぶりに鴨川のほとりを歩く。昨夜の雨で川が増水し、流れが速くなっている。今出川橋から下流にかけては、近年、川の護岸工事が進み、自然な水辺が消えつつある。中洲も掘削されて姿を消した。昨日のような大雨のとき、野鳥や魚が避難する場所がないのではないかと心配になる。今朝、わずかに残った中洲に鴨やサギの姿を見てほっとしたが。護岸工事は水防には不可欠なのかもしれないが、もし人が川に落ちた時、つかまるものがなくてその方が怖い。水辺には蘆や水草がほしい。鳥や魚のよるべとなるところであってほしい。昨日読んだ本。



●山本義隆『福島の原発事故をめぐって』(みすず書房)



●大江健三郎『読む人間』(集英社文庫)



●松薗斉『王朝日記論』(法制大学出版局)



 福島の原発事故のあと、いろんな人が発言しているが、一番印象的だったのは脱原発派の2011_1004_130838pa040074自民党議員河野太郎の言葉だった。TVの報道番組の中での発言だったが、電力会社が原発推進する実態を、「電力会社は政治家に献金、大学には講座や研究費、学生の就職先を提供、マスコミには膨大な広告費、企業の組合には選挙の票を約束し、地方自治体には交付 金、補助金、一般にもさまざまなプロモート代、と、莫大なお金を蒔いているのです」。なるほどねえ、と感心させられたものだが、山本義隆のこの本でもその構造がしっかり記されている。それも国策という裏付けがあればこそ、だろう。日本に原発が生まれるまでの政治的背景も書かれていて、蒙を啓かれたことだ。原子力はプロメテウスの火ではなかった。到底人間の手に負えるものではないのだ。人間は将来これを制御する知恵と技術を持つだろうと吉本隆明は言ったが、果たしてそうだろうか?



 写真は寺町の青物屋、とり市の店先。松茸が並んで、秋一色になった。先日、行きつけの料理屋の主人が、「今年は松茸が不作で」と言う。出入りの京北の農家からまだ初物が届かないので、別のところから入手していると。その日、そこでいただいたのは篠山の松茸でした。


Photo  10月14日(金)雨。ラジオのニュースで柳ジョージの死を知る。享年63歳。彼の歌を最後に聴いたのはいつのことだろう。まだカセットテープの時代で、テープがよれよれになるほど繰り返し聴いた。あの渋くて、ちょっとハスキーな声。スケール大きく、大人の魅力に満ちていた。来日したレイ・チャールズとジョイント・コンサートを行ったときのこと、チャールズが演奏するピアノの横に直立不動で立っていた彼の姿を思い出す。日本人離れしたバタ臭くも洒落た歌い手だった。レイニー・ウッド時代の曲はみんな好きだが、なかでも繰り返し聴いて飽きなかったのは「青い瞳のステラ、1962年の夏」。今朝、彼の訃報を聞き、迷わずこの曲を聴いた。「after midnight 哀しみは 永遠の眠りについたかい」というフレーズに涙があふ2011_1007_173456pa070298 れた。同世代の死には、芭蕉の「桜」ではないが、さまざまなことを思わせられるものだ。この歌を聴くと、横浜の港の風景が目に浮かぶ。柳ジョージには、シャイな浜っ子、というイメージがある。長いこと無沙汰していたくせに、もう聴けないとなると淋しく切ない。ジョージさん、もう一度あの声を聴かせてよ、「♪芝生の下で眠っていずに♪」である。



 写真は長崎県大島町の太田尾教会。今月7日、友人たちと崎戸・大島を訪ね、(離島だったが、二つの島に橋が架かって地続きになっていた)大島町にある教会にも寄った。ちょうどロザリオの祈りの時間で、信者さんたちが三々五々集まってきていた。教会を出るころから空が赤く染まり始め、やがて日没となった。外海の黒崎教会に着くころはもう日は暮れて、マリア像がほのかに見えるだけだったのが惜しまれる。京都では神社仏閣、長崎ではキリスト教の教会巡りと、不信心者にしては熱心なことです。


Photo  10月13日(木)曇り。承前。洲之内徹の『さらば気まぐれ美術館』に、長崎市港外に浮ぶ廃鉱の島「軍艦島」を訪ねた時のことが出てくる。写真家雜賀雄二と二人で島に上陸し、1週間を過ごした時のことを記したもので、このときの記録は『軍艦島ー棄てられた島の風景』(新潮社 1986年)という写真集になっている。25年前に彼が訪れたときの軍艦島は閉山から12年が経ち、荒廃が進んで島全体が廃墟化しつつあったころのこと。洲之内は「その島流しの一週間に、私は何を見、何を感じたか。ひと口にいえば、私の見たものを言葉にすることなど到底不可能だと私は感じた。いったい、私が見たものは風景なのか、歴史なのか、運命なのか、空間なのか。むつかしいことを考えだしたらきPa130020 りがないが、島へ上がったその日、 私はまず、廃墟とは人間の営為にだけあることで、自然には廃墟はないということを感じた」と記している。軍艦島は正式には端島といい、もともとは小さな岩礁だったところ。明治初年、天草の人によって石炭採掘が始められ、その後佐賀藩主鍋島氏が経営、明治23年(1890)三菱の手に渡った。極めて良質な石炭だったため増産が続き、島は次々に埋め立てられ、長さ480メートル、幅160メートル、周囲1.2キロしかないところに鉱業所、住宅、学校、病院などがひしめきあって建つ人工の島となった。ここに最盛期は5000人もの人が住んでいたのだ。やがて石炭から石油へエネルギーの主役が交代し、1974年に閉山、端島は無人島となった。そのPhoto_3 後、船をチャーターして島へ渡る人や釣り場に利用する人などがいて島の様子は知られてはいたが、それでも雑賀雄二・洲之内徹のように1週間も滞在したというのは少ないのではないか。端島を故郷とする人たちは同窓会などで上陸したというが、すさまじい荒廃ぶりに言葉がなかったらしい。洲之内徹の述懐に頷けるというもの。



 さて、その軍艦島に私も行ってきた。6日の朝9時に長崎港を出る「軍艦島クルーズ」に参加してきたのである。閉山後島は長いこと放置されたままだったが、10年前に持ち主である三菱マテリアルから高島町へ無償譲渡され、現在は長崎市の所有となっている。この島が九州・山口の近代化産業遺産群の一つとなったこともあって、市は観光地として整備を進め、2年前から観光客が上陸できるようになった。6日はおくんちの前日とあって団体客が多く、クルーズツアーは満員だった。港を出て約1時間で到着、上陸して40分ほどガイドの説明あり、限定された地点のみで見学、再び船に戻って帰還。大正5年(1916)に建てられた日本最古のコンクリート製アパートも外観は健在だったが、窓枠など木製の部分はすべて朽ち果て、黒い穴が並ぶのみ。立坑のやぐらも危険防止のため倒されていて、説明がなければかつての姿を想像するのは難しい。島の護岸の石積みには砂岩がつかわれていて、接着剤となった赤土と石灰が柔らかな色を見せていた。無機質なコンクリートと鉄の残骸(瓦礫)ばかりの中で、この砂岩と赤土が唯一人間を思わせるものでした。ツアー参加者の中に島の元住民はいるのかしら、もしいたとしたらどんな気持ちだろう、と思いながら島を離れたことだ。海底にはいまも良質な石炭が眠っている、でもそのためには海底深く掘削しなければならない。端島も閉山前は落盤事故やガス爆発などが頻出していた。閉山はエネルギー革命のためだけではなかったと思う。戦時中、ここで働かされた人々の事を思うと、複雑な気持になる。国策、なんだか今も似たような・・・、。



 写真上は端島全景。軍艦土佐に似ていたところから「軍艦島」と呼ばれるようになったそうです。中は写真集『軍艦島』、右はいまはなき岩波の月刊誌『よむ』(軍艦島閉山20年特集号)。下は長崎のガイドマップとお土産にもらった菓子「軍艦島石炭ドーナツ」。真っ黒のカステラ菓子でした。


Photo_2   10月12日(水)晴れ。承前。長崎くんちは毎年10月7日~9日の3日間に行われる。例年このうち一度は雨が降るのだが、今年は3日間とも日本晴れであった。「長崎は今日も雨だった」じゃなくてよかったね、と友人と言い言いしたものだが。長崎では小料理屋の「朱欒」で夕食をとったのだが、おくんちというので食前に甘酒が出、珍しい鯨の刺身が出た。子どもの頃、おくんちに母が甘酒を作っていたことや、父が鯨の百尋(小腸)を食べていたことなどを思い出す。百尋はいまでは100グラム1000円もする珍味で、京都ではあまりお目にかからない。おくんち見物の前日、友人と長崎の町を歩いた。二人とも学区は異なるが長崎の町なか育ちで共通の思い出がある。友人は出島の近くに育ち、いまは出島観光資料館となっている朝Photo_3永病院がかかりつけの病院だったという。この朝永病院はもともと日本初の新教キリスト教の神学校として明治11年(1878)に建てられたもの、その後病院となり最近まで開業していた。いまはお土産などを置いた資料館となっていて、この日も修学旅行の学生で賑わっていた。新地の中華街で昼食をとったあと、長崎一の繁華街(だった)浜町界隈を歩き、(子どもの頃はこの辺をパジャマで歩いていたね、などと言いながら)、少女時代を過ごした八坂町方面へ行く。崇福寺(華厳宗)、八坂神社、清水寺と子どものころの遊び場だった所を訪ねる。崇福寺の背後は風頭山でその山麓に寺院が並び山手は一面墓地となっている。私が小学生のころ、Suuhai 遠藤周作が『沈黙』の取材で、この周辺の墓地を調べて回っていたというから、もしかすると狐狸庵さんとすれ違っていたかもね、と私。崇福寺は寛永6年(1629)、長崎に住む中国福建省出身の人々によって創建された。中国様式の寺院としては日本最古のもので、国宝となっている。子どものころは赤寺と読んでいたのではないかしら。華僑の人たちが中国服を着てお参りにくる中国盆はそれは華やかなものだった。京都の友人に「子どもの頃、八坂神社や清水寺が遊び場だった」というと、「へえ、長崎にも八坂さんや清水さんがありますのん?」と驚かれたものだが、へえ、うち、大きうなるまで八坂さんも清水さんも長崎が本家と思うとりましたんどすえ(?)。長崎の清水寺は元和9年(1623)、京都の清水寺の僧慶順によって創建された。やはり観音霊場の一つで、笈鶴を着た巡礼の姿をよく見かけたものだが、最近は安産祈願の方が有名らしい。本堂は市の有形文化財で、近年、不動明王像が国の重要文化財となった。清水の舞台から昔は長崎の港が望めたものだが、いまはビルが林立して期待した眺望はなし。久しぶりに訪れたが郷愁はほとんど感じなかった。長崎の町はこんなに狭かったかなあ、というのが正直な感想。しかし狭い町に和・洋・中と多様な文化が混在し、休むことなく人々が行き交い、常に新しい風が吹いていたのだから、退屈しなかっただろうなあ、と思う。もちろん、幕末、維新のころの話です。現代は???ですね。



 写真上は八坂神社。ここでも奉納踊りがあるので、桟敷席が設けられていました。中央の長坂は自由席で、8日の奉納踊り観覧のために6日の午後、もうこれだけの人が座っていました。写真中は出島の旧朝永病院。いまはお土産店などがある資料館です。下は国宝崇福寺の山門。赤寺の竜宮門と呼んでいました。


2011_1007_110536dsc09956  10月11日(火)晴れ。5日から9日まで長崎へ出かけてきた。長崎に住む友人のMさんから諏訪神社の祭礼「おくんち」の観覧券(桟敷券)が贈られてきたので、別の友人たちを誘って祭見物に行ってきたのだ。Mさんは7年ごとに回ってくる踊り町(奉納踊りを出す町)に住んでいて、今年はその当番にあたり、息子が出るというので張り切っているのだ。早くから桟敷席を確保し、京都の我が家へも届けられたというわけ。独身時代の友人たちと誘い合って7日の朝、奉納踊りを見物。ハタ揚げ、盆祭などと年中、祭が続く長崎でも、諏訪神社の「おくんち」は特別なもの、シャギリの音が聞こえてくると誰もがそわそわと落ち着かなくなる。いまは祇園祭のお囃子にそんな気がするようになったが。いっしょに見物した友人たちも(いまは市外に住 2011_1007_111040pa070252 んでいるが)みんな長崎の踊り町生まれなので、出演者に顔馴染みが結構いて、盛り上がったことだ。見物席には、芸能人や学者などよく見かける顔もあって、なかなか華やか。私たちは大波止の御旅所で見たが、上の写真は諏訪神社で撮影したもの。今年いちばんの人気、樺島町のコッコデショ(太鼓山)。担ぎ手の男性がみんな粋でいなせで実に格好いい。御座船を出した本古川町は男性がみんな揃って坊主頭になっていて、ちょっとやりすぎじゃないかしらんと思われたことだ。唐人船を出した長崎駅前の大黒町では、世話人の中にノーベル賞を受賞した下村博士の姿があった。紋付き袴姿で奉納踊りを先導しておられたが、夫人の実家が大黒町という縁とのこと。諏訪神社のおくんちは380年の歴史をもつ。税金は収めず、反対に竈銀を貰って裕福な町人たちが祭で散財することを目論んでいたのか、実に派手な祭です。



 写真上は椛島町のコッコデショ(諏訪神社で)。下は本古川町の御座船。采振りも曳き手もみんな坊主頭です(御旅所で)。 


Photo_3  10月5日(水) ニュージーランドで行われたラグビーワールドカップ、日本は一勝もできずに一次リーグ敗退となった。実際には3敗1引き分け。世界の壁は高く厚い、と嘆いてばかりはいられない。確かに世界のラグビーチームは大型化が進む一方で、体格で劣る日本人にはハンディがある。しかし「小よく大を制す」という言葉もある。小技を磨いて何とか対等に戦えないものか。今回は大きな外国人選手をメンバーに加えて臨んだのだが、スクラムでは押されっ放しだった。先日、NHKで釜石のクラブチーム、釜石シーウエイブスの活躍ぶりが紹介されていた。1978年から1984年まで奇跡の日本選手権7連覇を遂げたあのチームである。毎年成人式の日が日本選手権の決勝戦で、国立競技場に晴れ着姿の女性が見られたものだ。いまはラグビーシーズンが延びて、ラグビー日本一が決まるのは2月末。SO松尾を擁した釜石が連覇していたころ、大学選手権を制覇していたのは平尾や大八木らがいた同志社大学。いまは低迷して淋しい限り、裾野が広がった結果というのなら納得もできるのだが。釜石シーウェイブスの活躍は地元の人たちにとって、大震災からの復興の希望でもある。かつての釜石チームは東北の高校を出た選手たちが主体だった。いわば叩き上げで鍛えられてきた選手たちが超人的なチームを作り上げたのである。谷藤、洞口、千田、瀬川、金野(まだ名前と顔が一致しますよ)まさに北の鉄人たちだった。8年後の2019年には日本でワールドカップが開催される。サッカー人気に押されて、ラグビーファンは潜航気味のようだが、主催国にふさわしい活躍を期待したいものだ。8年後ねえ、私は元気でいるかしらん。 



 今日からしばらく京都を留守にします。久しぶりの長崎行です。このたびの旅のお供は『五足の靴』ではなく、なぜか東北行の『奥の細道』です。では行ってきます。



写真は常林寺の白萩。


Photo  10月4日(火)晴れ。涼しいのを通り越して今朝は寒いほどだった。毎朝パソコンの画面で各地の山の様子を見るのだが、今朝の上高地からのカメラでは穂高が真っ白に冠雪していた。 午前中、例会で岡崎行。市美術館の周りにかなりの人出あり、たしかいまここではフェルメールとワシントン・ナショナルギャラリー展をやっているはず。日本人は本当に印象派が好きだ。印象派をやっていればそこそこ入場者が見込めるので、公共のミュージアムにとっては頼りになる展覧会だろう。今回もゴッホなどの初来日作品が出るというので、話題になっているらしい。しかし最近では瀬戸内海の小島まで、わざわざ現代アートを観Photo_2 行く人が多いというから、アートファンも多様化しているのだろう。悦ばしいかぎり。



 美術館に比べると文学館はどうだろう。各地に文学館は数多あるが、独立採算でやっていけるところはそんなに多くないのではないか。写真は若狭にある水上勉の若州一滴文庫。作家の出身地である福井県大飯郡にある。(原発銀座と呼ばれる日本海側おおいちょう) 古い藁葺きの堂々たる民家を移築したものや、図書館、竹人形館などいくつかの建物から成る。故郷の子どもたちに読書の楽しみを伝えたいと水上勉から寄贈された蔵書が収められている。なかに野呂邦暢の本もあった。広い展示室には水上勉と交流があった作家や画家の作品が、水上勉の生原稿などとともに展示してある。最近は原稿を書くのも送るのもパソコンでという人が多くなったから、作家の手稿が残るのも少なくなっていくのではないか。水上勉の生原稿を見ながら、そんなことを思った。



 ハナミズキの赤い実が美しい。見回すと、ヤマボウシにも赤い実が、いよいよ秋を実感す。


Photo  10月3日(月)晴れ。秋の彼岸が近づくと必ず赤い彼岸花が咲きだすように、十月になった途端、金木犀の香りが漂うようになる。急に肌寒くなったと思っていたら、北海道ではもう初雪の報せ。今年は冬が早いのかしら、十月になるとやはりこの詩を記しておかなくては。中野重治の「十月」。



空のすみゆき 鳥のとび 山の柿の実 野のたり穂 それにもまして あさあさの つめたき霧に 肌ふれよ 頬胸せなか わきまでも



 福井県の丸岡図書館にある中野重治記念文庫には大江健三郎が書いたこの詩の色紙が飾ってある。ここは小さいが中身の濃い個人文庫で、加賀方面へ出かけるときは高速を途中下車して立ち寄ることにしている。去年のいまごろ訪ねたときは、一帯は真っ白に蕎麦の花盛りだった。越前は蕎麦どころなのだ。最近は福井といえば一乗谷が人気のようだ(携帯電話のCMのせいで)が、あまり観光化してほしくないなあ。



 写真は京都府立植物園で。ワレモコウとススキ。奥に咲いているのはフジバカマです。


Photo  10月2日(日)晴れ。10月に入った昨日、朝の風は肌寒く、ようやく秋らしくなった。京都では各地の神社仏閣で秋祭りが行われている。昨日は北野の天神さんで瑞饋祭が始まった。北野天満宮は菅原道真を祀るものだが、この瑞饋祭は天神さんのお祭りというよりも、北野の地に伝わる五穀豊穣の祈願祭のようだ。農業に欠かせない雨を降らす雷神を祀る北野のお祭りが天神さんと結びついたらしい。瑞饋祭は何と言ってもそのお神輿が見もの。西の京(妙心寺道西大路西入る)の御旅所に安置されているずいき神輿を観にいった。大小二基の御神輿が安置されていたが、屋根はズイキで葺かれ、さまざまな野菜を用いて飾りが創られている。しかも四面それぞれテーマがあって、写真は「恵比寿さん」。他の面は「ドPhoto_2 ン・キホーテ」だの「鯉の滝上り」だのとなかなかユニーク。いまでこそ大学や住宅が密集する地域だが、西の京は長く農地が広がるところだったようだ。私が京都に移り住んだころはまだ畑が残っていて、西大路近くの民家の軒先に野菜が並べて売ってあったのを覚えている。ずいき神輿を見たからというわけではないが、帰途市場でもっぱら野菜を購入、昨日の夕食は野菜たっぷりのきのこ汁にゴボウやキノコの炊き込みご飯でした。神戸の阪急御影駅の駅前広場で見かけたコブシの木、季節外れの白い花が咲いていたが、花の後ろにうぶ毛を持った蕾があり、その横に赤い実をつけていました。、まるで親子三代、という趣。並木のシンジュ(ニワウルシ)はオニグルミとよく似ていて、実がついていないのでシンジュと察せられました。(Hさんがこれはシンジュね、と教えてくれました。北海道大学近くにこの木の並木があるます) 



 写真上は西ノ京の御旅所にある「ずいき神輿」。下は北野天満宮の本殿前で。


↑このページのトップヘ