2012年10月

Pa290037  10月30日(火)曇り。先週の土曜日、兄と最後のお別れをしてきた。2週間前見舞いにいったとき、ずいぶん衰弱していたのでこれが言葉を交わす最後になるのではと思ってはいたのだが・・・、 覚悟はしていたつもりだがやはり堪える。2年前のいまごろ、母を見送ったときは94歳という年齢もあって諦めがついたが、60代での死はやはり辛く切ない。胃癌の手術から5年、次々に転移し再発する癌と戦い続けた日々であった。抗癌治療の副作用が辛いと弱音をはくときもあったが、最後は穏やかで、痛みも苦しみもない日々を送り、家族に「みんなありがとう」と感謝の言葉を伝えて逝ったというから、わが兄ながらあっぱれな最期だったと思う。兄は高校卒業と同時に家を出たので、子どものころの思い出は切れ切れのものでしかない。兄は近所の人たちから「ぼくちゃん」と呼ばれていて、「ぼくちゃん、あそぼ」と仲間が呼びにきたものだ。高校生になっても隣のおばさんから、「ぼくちゃん、お帰り」などと言われていた。高校時代はラグビーをやり、ブラスバンドでクラリネットを演奏していた。当時はビッグバンドの時代で、スイングジャズもよく聴いたし、モーツアルトのクラリネット協奏曲もよく聴いた。兄の本棚(ごくごく小さなものだったが)から無断借用してそのまま私の手元に残った本が3冊ある。フーケの『水妖記』、魯迅の『野草』、そしてショウペンハウエルの『幸福についてー人生論』。3冊とも薄い文庫本で、兄のサイン入り。大人になってからも関東と九州(いまは京都)に離れて暮らしていたから、あまり話した記憶がない。会えば憎まれ口を叩き、舌鋒鋭い社会時評を聞かせてくれたものだが、どこか達観して遠くをみていた節もある。兄にもいろんな思いがあったに違いない。馬鹿な妹は何の役にも立てず、ただ頭を垂れるのみ。去年の秋、京都に来てくれたので、一日斑鳩に遊んだ。もう歩くのも辛そうだったが、法隆寺の百済観音の前で長いこと佇んでいた姿が忘れられない。



 來るべきものは来る、要るのは覚悟だ、とは言うものの、その覚悟のなんと頼りないこと、今度のことで思い知りました。


2012_1018_171749pa180016  10月22日(月)晴れ。今日、10月22日は中原中也(1907-1937)の命日。中也は1923年の秋から翌年の春までの約半年間、京都市上京区中筋通米屋町角に住んでいた。河原町と寺町の中間の通りを、今出川通りから少し下がった所にある家で、二階の窓を中也がスペイン風と言ったことから、スペイン風窓を持つ家、として中也ファンに知られている。当時中也は立命館中学(旧制)の学生で、まだ17歳の少年だった。しかしこの家に20歳になる長谷川泰子と同棲していたのだから、早熟な少年であった。その3年後、ここから数百メートルも離れていない場所(上京区寺町今出川上ル阿弥陀寺前町)に、京大生となった伊東静雄が下宿しており、私は静雄の寄寓地を探していて、「スペイン風の窓の家」を見つけたのだった。京都では多分出会うことはなかった2人だが、1935年、伊東静雄が第一詩集『わが人に与ふる哀歌』の出版記念会で上京したとき出会い、その夜、静雄は中也の家に泊まっている。



 「僕は此の世の果てにゐた  陽は温暖に降りそそぎ 風は花々揺つてゐた 木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた・・・・」



 中也の詩「ゆきてかへらぬ ―京都―」(『在りし日の歌』)の冒頭部分。出版会の夜、2人の間に京都が話題になっただろうか?



北海道から戻ったあと、読んだ本。



 ●高橋睦郎『遊ぶ日本』(集英社)



 ●柴田南雄『日本の音を聴く』(岩波現代文庫)



 ●松井孝典『宇宙誌』(岩波現代文庫)



 ●朝永振一郎『科学者の自由な楽園』(岩波文庫)



 ●金関丈夫『お月さまいくつ』(法制大学出版会))



 金関丈夫の本が新装版で復刊されたのは嬉しいことだ。久しぶりにそのうちの一冊『お月さまいくつ』を読み返したら「石田光成の頭蓋」と題するこんな一文に出会った。



京都の解剖学教室にいたころ、勝軍塚の石田光成の墓から出た頭蓋があった。それは骨を見ただけで彼の肖像画の風貌を連想させるような特徴があった。顴骨が出て反歯であまり威厳がある顔ではなかった。・・・



 へえ、そんなことがあったんだとちょっと調べてみたら、明治40年(1907)、京都の大徳寺三玄院の光成の墓から骨が発掘され、後年、復顔や体格の分析が行われ、光成のものに間違いないとされた、とある。鑑定したのは足立博士といいますから、井上靖夫人ふみさんの父上の足立文太郎博士でしょうね。



 写真は今月18日の京都の夕焼け。経験はしていませんが、東京大空襲という言葉が浮かびました。




2012_1012_142203pa120204   10月16日(火)晴れ。朝、チェックアウトの際、荷物を自宅に送る。着くのは2日後だが、できるだけ身軽で帰りたい。あちこちに電話してお別れの挨拶を済ませたあと、北大植物園へ行く。サッポロに来たときは必ず訪ねる場所の一つ。駅やホテルに近い街の中心部にこれほど広大な植物園があるなんて。開園は明治19年(1886)、東大の小石川植物園に次いで日本で2番目に古い植物園だ。当時の自然林が残っていて、それらの樹々を眺めるだけで幸せな気分になる。ハルニレ、イタヤカエデ、ミズナラ、ハンノキ、ドロノキ、オニグルミ、ホオノキ・・・。見上げるばかりの木々の下で、北海道の開拓民たちはこんな原生林を切り開いてきたのだなあ、とため息がでた。北海道のミュージアムには必ず先住民族に関する展示がある。ここにも北方民族資料室があって、アイヌやウィルタなどの生活資料があった。北海道には弥生時代がないー稲作が2012_1016_130146pa160561 伝わらなかったからーといわれるが、沖縄も縄文からいきなり中世という感じ。いつも思うことだが、日本列島の南と北に縄文文化が色濃く残っている。さて、植物園の花々はもうほとんど終わっていて、ズミやノイバラ、ツリバナなどの赤い実が目立った。ハルニレの大木の根元にミズヒキソウが可憐に咲いている。植物園を出て、知事公舎~三岸好太郎美術館へ行く。北海道出身の三岸好太郎(1903-1934)は31歳で夭折したが、節子夫人が寄贈した遺品をもとに美術館が創られた。現在地に開館して30年近くになる。ちょうど「〈猫〉が気になる」展が開催中で、ここで思いもかけないことに長谷川潾二郎の「猫」と再会した。なんでもこの館の学芸員が宮城県立美術館に研修に行ったことから、この絵の貸2012_1016_144152pa160566 し出しを依頼することができた、とのこと。今年の春、宮城で会ったばかり、それが札幌で再会できるなんて。隣りの知事公舎の庭でしばし休憩。庭に十数羽のカラスがいて、しきりに芝生をつついている。庭師が追い払ってもすぐに戻る。庭師の話では、「芝生の下のコガネムシの幼虫を食べている」とのこと。それだけならいいのだが、芝生を剥いでしまうので困っているとのこと。山にはクマ、シカ、街にはカラス・・・。



 駅へ向かう途中、時計台の前を通ったので、ちょっと寄ってみた。10月16日は時計台の誕生日で、この日で134年になるとのこと。入場料200円を払って中に入ると、「札幌市時計台創建134年記念」と記されたボールペンを贈られた。なんでもこの時計台は日本三大がっかりの一つだそうで、(あとの二つは長崎の思案橋、高知のはりまや橋だとか)、ビルの谷間に埋もれるようにあるせいで、期待したイメージに沿わないのだろう。私も初めて見たときは正直がっかりして、もっと広々とした場所に移せばいいのにと思ったものだ。この時計台は戦後、1951年から1966年まで市立図書館として使われていた。時計台のなかで読書にふけった思い出をもつ札幌市民も多いことだろう。



 午後3時過ぎ、エアポート号で新千歳空港へ向かう。札幌駅のホームに掲示された特急電車の名前、「スーパカムイ」「スーパー北斗」「スーパーすずらん」「とかち」などに旅情らしきものを覚える。午後7時過ぎ、関空着。ここから京都までが長い。長い上に「はるか」は運賃も高い。次はいつものように伊丹発着にしよう。



 写真上は北海道知事公舎。自由に見学できる。中は134歳になった時計台。下はJR札幌駅のホームで。


2012_1015_094400pa150459  10月15日(月)晴れ。北海道の紅葉を楽しみにしていたが、今年はいつまでも暑いせいか色づくのは遅れ気味のよう。大雪山山系の旭岳で黄葉を見た程度で、札幌の街路樹はまだ青々としている。例年なら真っ赤なナナカマドも実だけは赤いが葉はまだ青く、街路樹のイチョウもプラタナスも夏色をとどめている。北海道の楽しみの一つに日頃は会えない樹々との出会いがある。この日は月曜日で植物園が休みなので、北大の構内や中島公園を散策した。クラーク博士像やポプラ並木などの観光スポットがあるせいか、北大の構内を観光客が群れをなして歩いている。京都の大学でも近所の人たちが構内を近道代わりに使ってはいるが、これほど観光客がゾロゾロと歩いているということはない。私もその一人になって、美しい建物2012_1015_101018pa150477 を見て回る。北大には文化財になっている建物が41棟もありそのうちの27棟は国の登録文化財だそうだ。古河記念講堂は1909年に建てられたフランス・ルネッサンス様式の建物。緑の木々の中に真っ白の姿を見せている。大学の中にエルム(ハルニレ)の森があり、川が流れ、ミズナラや菩提樹の大木が緑陰を落としている。月曜日で楽しみにしていた博物館も休み。



 大通り公園の西端にある札幌市資料館を覗く。この建物は明治時代に建てられた控訴院(裁判所の前身)で、全国に8か所あったうち、現存するのは名古屋とこの札幌のみ。掲示板の表示によると、今年の9月現在、札幌市の人口は、1,928,776人とのこと。札幌市の人口が100万を超えたのはいつのことだったか。たしか大阪万博のころで、1972年に札幌で冬季オリンピックが開催されたころ、政令都市になったと記憶している。それから40年、(日中国交回復と同じ年でした)合併もあるが、人口は約2倍になったわけだ。札幌も東京と同じで、その一極集中ぶりには凄まじいものがある。その反対に周辺の市町村は寂れる一方、と思うのは私だけだろうか。



 写真上は北大構内。ミズナラやハルニレ(エルム)の緑が美しい。下は北大古河記念講堂。1909年建築。


2012_1016_140641pa160565  10月14日。承前。今度の北海道行に携行したのは村上春樹の『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(文春文庫)と丸谷才一の『新々百人一首』(新潮文)だった。村上春樹のインタビュー集だけでは寂しいので、読みなれた『新々百人一首』も持参したのだが、旅の最中にこの二人が大きなニュースになるとは予想もしなかった。一つはノーベル文学賞の候補に村上春樹が挙げられたこと、もう一つは言うまでもないが丸谷才一の訃報である。二冊併せると文庫本でも1000ページ近い分量で、少しでも荷物を軽くしたい身には辛いのだが、あえてお供に選んだのだった。ノーベル文学賞は中国の作家が受賞したが、予想では村上春樹がトップだったという。村上春樹の新作はもう2012_1015_170116pa150492 何年も読んでいないので、あまり関心はなかったが、この人の初期の作品はいいなあと思う。丸谷才一の訃報は予想していたので、驚かなかった。去年出た評論集『樹液そして果実』(集英社)のあとがきに療養中とあり、もうお年だからなあと思っていたので。いまごろは大野晋さんなどと再会を祝しているのではないかしら。この人の『笹まくら』を初めて読んだときひしと感じた、時代の変遷によって生じる不気味さ、を思い出す。たまに書く小説よりも、鼎談や評論などをずいぶん楽しませてもらった。教えられたことも数々ある。岩佐美代子や森浩一の仕事を敬愛し、評価していたのも嬉しいこと。これからもう新しいものを読むことはできないが、蓄えは十分ある。読み返すだけでも数年はかかるのではないかしら。



 北海道の紀伊国屋書店で本をいくつか。北海道の書店も京都や沖縄に負けないくらい郷土コーナーが充実している。「北海道の本」という書棚の前で小一時間を過ごし、萱野茂さんや北海道の植物に関する本などを購入。そういえば札幌にも古本屋があるはずだが、北大周辺で以前一軒見かけたきり、今回は出会わず。



 写真上は紀伊国屋書店の北海道の本のコーナー(部分です)。下はサッポロビール園。ここ限定の五つ星サッポロ生ビールをいただきました。赤い星は北海道開拓のシンボルマークだそうです。


2012_1014_131941pa140439   10月14日(日)晴れ。前日、例年より19日遅く旭岳が冠雪、というニュースに急遽予定を変更して旭岳へ向かう。ホテルを出るときは一面真っ白の霧で、まさに五里霧中、という感じだったが、しばらく走っていると霧を抜けて青空が見えた。どこまでも真直ぐな旭川の国道を走る。バスの停留所が「15号」「18号」などというのは、京都でいう一条、二条と同じだろうか。そういえば札幌の町も大通りをはさんで南北に一条、二条、創成川をはさんで東西に一丁目、二丁目となっているのは、京都と同じ。町の通りが碁盤の目のようにつくられていて、訪問者には便利だ。旭岳は標高2291メートル。ロープウエイで1600メートルのところまで上がって、散策した。高山植物はほとんど咲き終えていて、シラタマノキやコケモモの2012_1012_094746pa120131 実、エゾイソツツジ、シモツケ、リンドウの花がわずかに見られただけ。前日降った雪が足元に残り、この冬初めての雪の感触を味わった。旭岳は北海道の最高峰だとか、この日は快晴で、360度の眺望に感動した。



さっぽろ芸術文化館(旧厚生年金会館)の中に北の映像ミュージアムがあると聞いたので、覗いてみた。北海道は東京についで映画やTVドラマのロケ地となっている所だそうだ。それらの映像資料や北海道ゆかりの映画人たちの紹介などを目的として去年開館したもの。このミュージアムが実現するまでには長い道のりがあって、北海道の映画愛好家たちのたゆまぬ努力の賜物と思われた。しかし案内してくれたボランティアによると、この場所での公開は建物2012_1016_110242pa160545 が存続する6年間という期限付きだそうで、その後のことは未定という。ミュージアムの館長は作家の小檜山博で、パンフレットの館長挨拶に、「制作当時の生活の様子、社会背景、景観などを丸ごと映し出す映画やTVドラマの映像は、歴史の証言者です。過去と現在、そして未来をも結ぶ映像の世界はあらゆるものを縦横につなぎ、新しい何かを生み出す国際都市の柱の一つになります」とあった。北海道ロケ地マップを100円で購入、そのバラエティに富んだ作品群に感心す。コレクターらから寄贈された映画に関する資料もすごい。戦前の「映画評論」、戦後復刊の「キネマ旬報」50年分など、へえへえと見入ったことだ。北海道出身の映画人の紹介コーナーの監督のトップに、「水曜どうでしょう」でおなじみの鈴井寛之が登場していたのにびっくり。俳優コーナーには勿論大泉洋の写真もありました。



 夕方、札幌グランドホテルに帰着。部屋の窓からレンガ造りの旧道庁が見えた。



 写真上は旭岳。中は白樺林。下は北の映像ミュージアム。看板も何もないので、探すのに苦労しました。


2012_1013_122241pa130254 10月13日(土)晴れ。朝、予約していた車をホテルで受け取り、美瑛・富良野へ向かう。この時期もう花はないだろうと思っていたのだが、美瑛に着くと、とりどりの色に彩られた丘が続いていた。前田真三の写真で見た通りの風景。ラベンダーはないが、紫色のサルビアがその代わりをつとめている。夏場は車の列というが、この日は幸いにも観光客は少なく、ゆっくりと廻ることができた。前日にも書いたが、とにかく北海道は広い。行けども行けども緑の大地が続く。こんなに広いのに、美瑛も富良野も畑の隅々まで手入れがなされていて、感心するばかり。そしてどこも開放されていて、自由に(駐車場もふくめてもちろん無料で)見学できる。上富良野のフラワーパークでは、大勢のパートさんたちが来年の春に向けて2012_1013_133740pa130284 苗を植えている最中だったが、この人たちの人件費や苗代はどこから出るのかしらと思われたことだ。もっとも花畑にはレストランや土産物売り場があり、花畑を一周する有料の乗り物があったりするから収支はあっているのだろうが。駐車場代はもとより、拝観料、志納金、入場料とどこへいっても少なからぬお金が要る京都観光とつい比べてしまった。北海道は土地も広いが懐も深くて広い! この日は富良野のホテルに投宿。メゾネットタイプの愛らしいホテルで、表は国道だが、裏は原野でその向こうに美瑛・富良野の山並みが連なるという雄大さ。露店風呂から山々を仰ぎ、夜には満点の星に感動しました。



 写真上は美瑛のひまわり畑。夏ではありません。10月の北海道です。下は富良野の丘。鶏頭の花のようです。


2012_1012_134012pa120196  10月12日。承前。道立文学館は1995年の創立。あることは知っていたが、これまで入ったことはなかった。文学資料の展示というのは難しいもので、本や原稿を並べただけでは死蔵と同じ、興味がある者にだけしか用はないというものでは税金の無駄使いといわれても仕方がない。個人運営の文学館は別だが、公共のものならもっと工夫があってしかるべきと思っていたのだが、展示室の入り口にこんな掲示があって感心した。「常設展の更新にあたって」というもので、「・・・社会の大きな変化の中で、従来の展示スタイルのままではたしていいのか、常設展の要不要についても議論を交わして、分りやすく可変性に富む展示に更新した。今後も所蔵する貴重資料を回転させていくので、過去と現在との往還を重ね文学2012_1012_133354pa120194 へのアプローチを通じて新旧時代への歴史的感覚を養ってもらいたい・・・」というようなことが記されている。館員たちの意気込みが伝わる文章ではないか。資料がいまに生きなければ死蔵も同じ、自分たちがどこから来てどこへ行くのか、文学館でもそれを探ることができるのではないか・・・そんなことを考えながら「北海道の文学」と題された展示室を巡った。小さな特集コーナーには小熊秀雄の絵や原稿が展示してある。小樽でも見たが、彼の本領は詩人というより画家ではなかったか。いちばん新しい小説・評論家コーナーでは、池澤夏樹や小檜山博、藤堂志津子などが紹介されていた。小檜山博といえば彼の本を読み続けている市民の会の主催で、13日、石狩図書館で作家の講演会があると聞いた。現在中国の大学で教えている黒古一夫氏が帰国して講演をするとあるが、13日は富良野行のため残念。



 夜は札幌の友人たちと「古径」で食事。北海道ならではのお寿司をいただきました。




2012_1012_092012pa120100    10月12日(金)晴れ。天気予報では荒天、とのことだったが、朝起きると快晴。〇〇学会でごった返すホテルを出て、新札幌にある開拓記念館へ行く。以前来たときはただ遠かったという印象があるが、今回はホテル近くの地下鉄駅からまっすぐ新札幌まで来て、バスに乗り換え10分余で到着。北海道の歴史を学ぶことができる記念館と、文化遺産となる当時の建物を移築復元した開拓の村を廻る。開拓の村は名古屋にある明治村のようなもの。遠足に来ていた小学生たちに交じって広い村内を巡った。明治村にも古い電車が走っていたが、ここには珍しい鉄道馬車がある。ちょうど白馬が電車を曳いて線路の上を行くところにあった。馬車が通り過ぎたあと、道路に立って動かない2012_1012_093132pa120120 男の子がいるので、どうしたのと聞くと「馬が怖い」のだという。先生が二人がかりで「大丈夫よ、馬はもう厩に入るから、もう出てこないから」と説得するのだが、テコでも動かないという感じ。馬にトラウマ(!)でもあるのだろうか、先生も大変だ。村の中には大きなクリの木がたくさんあって、木の下でお年寄りたちが栗拾いを愉しんでいた。役所や個人住宅に交じって、屋根の上に十字架をつけた木造住宅があった。旧浦河公会会堂とある。明治13年(1880)、神戸で設立された北海道開拓会社「赤心社」の人々が移民後、建てたもの。これは二代目で、1894年の建築。赤心社の指導者たちはほとんどがクリスチャンで、この会堂が彼らの精神的支柱となったのだろう。有島武郎(1878-192)2012_1012_093034pa120117が明治43年ごろ住んでいたという木造家屋もあった。部屋の中には作家に関する資料が展示してあ った。明治時代の建築物はレンガ造り、石造り、木造とさまざまで、厳しい自然に耐えた人々 の暮らしが思いやられたことだ。



 開拓の村から大麻にある道立図書館へ廻る。JR大麻駅から歩いてすぐ、国道12号線沿いの緑の広場の向こうに建物が見えた。とにかく北海道は広い。土地はいくらでもあるぞ、という感じ。図書館までのアプローチの長いこと、ポプラやミズナラ、ボダイジュなどの大木を見上げながら芝生の道を行って、ようやく到着。二階にある北方資料室を覗く。文学関係のコーナーには三浦綾子の本が目立つ。「郷土2012_1012_113221pa120171 の歴史と沿革を知るために資料の寄贈をお願いします」という掲示あり。北海道の歴史に関して自分は全く無知だと痛感す。札幌に戻り、中島公園内にある道立文学館に寄る。それは次に。



 写真上は開拓の村にある旧開拓使札幌本庁舎(1873年)。中は鉄道馬車と旧浦河公会会堂(1894年)。下は大麻(おおあさ)にある道立図書館。国道からここまでの遠いこと。広大な緑の敷地にあります。


2012_1011_132833pa110037  10月11日(木)曇り。新千歳空港に昼前に着いたので、まっすぐ小樽へ向かう。海沿いに走る列車の中から海に架かる虹を見る。駅からまっすぐ文学館へ行く。先月までは吉本隆明展をやっていたとのことで、そのパンフレットを購入。いまは北海道出身の作家岡田三郎(1890-1954)展が開催中だった。最初は画家を志し、徳田秋声のもとで作家となり、のちには映画製作もした多才な人のようだが、活躍したのが戦前とあって、私にはほとんど未知なる人。1932年には徳田秋声を激励する「秋声(あらくれ)の会」を阿部知二、井伏鱒二、室生犀星らと共に結成しているが、この岡田三郎が亡くなったあと行われた追悼会の参加者名簿に「あらくれの会」のメンバーの署名が並んでいて、当時の作家の交流というものが2012_1011_124637pa110025 思われたことだ。小樽の文学館は小さいが展示に工夫がなされていて、今回目を引いたのが高山美香という消しゴム版画家による似顔絵。この館の展示の中心である伊藤整・小林多喜二・小熊秀雄に加えて、石川啄木・岡田三郎・佐川ちか・並木凡平(口語歌人)らの似顔絵が飾ってあって面白く見た。小樽は好きな町だが、今回数年ぶりに訪れて、以前にも増して観光地化が進んでいることを(少し残念に)思った。観光で生きるためには仕方がないが、独特の景観を持っていた洋館や石造りの倉庫群などが観光客用の商業施設に変身しているのを見ると複雑な気分になった。以前よく町歩きの途中立ち寄ったグランドホテルクラシックは経営不振で閉館、小林多喜二という名前の料理屋にも「売家」の張り紙があった。まあ、何事にも世代交代はつきものだが、遺産を食いつぶす前に新しいものを生み出さなければ・・と思ったことだ。この日の翌日、札幌のホテルでTVニュースを見ていると、小樽運河にサケの群れが遡上、とあった。例年数十匹のサケが上がってくるそうだが、今年は何故か、数百匹もの群れが押し寄せたという。産卵するには全く不向きの場所なのに運河近くの川に産み落とされた卵はほとんどがカモメの餌となったとのこと。サケは生まれた川に帰ってくるというが、どうして小樽運河にやってきたのか、必死で産卵するサケの姿に生命をつなぐ生き物の本能を思ったことだ。



 写真上は小樽運河。この翌日ここにサケの群れが押し寄せたそうです。下は文学館に展示されている高山美香さんの版画。


2012_1007_143937pa070033  10月11日(木)「朝がほや 一輪深き 淵のいろ」(蕪村)。「朝顔の 紺の彼方の 月日かな」(波郷)。「朝顔や 夕の人の なき便り」(支考)。先週の金曜日、大津市葛川にある明王院を訪ねてきた。このお寺は859年、千日回峰行の開祖といわれる相応和尚によって開かれたもの。寺伝によると、相応和尚が修行中、ここを訪れたところ、土地神である思古淵明神が現れて、「ここに修行にふさわしい滝があるからお前に授けよう」といって、淨鬼、浄満という二人の童子を案内につけてくれた。童子に案内されて着いたのが明王谷の三の滝で、相応はこの滝で修行中、滝壺に立つ不動明王を見、思わず抱きついたところ、それは大きな桂の木だった。その桂の木に不動明王を彫り、本尊としたのが明王院の始まり、とある。相応を案内した浄鬼、浄満は地主神社の眷属で、その子孫が今も同じ名前で存在する。葛野浄喜・葛野浄満の両家で、毎年この寺で行われる回峰行者の夏安吾では、数十人の行者たちの先達をつとめ、彼らの身の回りのいっさいの世話をするそうだ。1000年続く両家の現在の当主はどちらも公務員(教師・役人)と聞いたが、明王院の信徒代表として重要な役割をはたしているという。たまたま庭仕事をしておられた浄満家の夫人に話をお聞きすることができたのだが、現在の当主は58代目、「たまたま運よくずっと男の子が生まれまして・・・」1000年続いたとのこと。明王院は近年修復工事が行われ、10年ほど前に来たときの寂れようは一掃されていた。三の滝まで行ったが、滝壺はかなり深く、ここに飛び込むには勇気がいるなあと思われたことだ。(だから修行になるのだろうが)。葛川は大津市の山手国道367号線沿いにある。明王院へ行くには以前は京都からバスが出ていたのだが、利用者が減ったためウイークデイは運行中止、土・日のみ一日2便のバスが走っている。私たちはJRで堅田まで行き、そこから江若バスで葛川まで登った。これも朝夕一日2便しかない。何とも不便、陸の孤島のような・・・。この翌日は東京にいて、過密と過疎を目の当たりにするのだが。



 今日からしばらく北海道行、このたびの旅のお供は村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』。では行ってきます。


2012_1004_065316pa040015  10月10日(水)晴れ。今日、10月10日は佐藤泰志(1949-1990)の命日。22年前、新聞にこの人の訃報を見たときのことはよく覚えている。妻と3人の子どもをのこして自死、という記事に、とにかく痛ましい、と思うばかりだった。作品から繊細で内向的な印象を受けていたが、家族のために書き続けるのではないかと思っていたのだが。何度も芥川賞の候補になり、周囲から期待されていたと思う。こつこつと自分の足元を見つめて、若者の孤独な魂を静かに描いた。近年作品が映画化され、新たに作品集が出て再評価がなされるようになったのは嬉しいことだ。いつの時代もひっそりと孤独な魂を抱いて生きる若者がいる。これからも読み継がれるのではないか。映画にもなった『海炭市叙景』は作家の故郷函館の町が舞台となっていて、読むたびに函館に行きたくなる。



 日曜日は埼玉の病院からまっすぐ東京駅へ出て、どこへも寄らず京都へ戻った。もう一泊して神保町の本屋を覗いて歩くつもりだったが、病人のことで頭も胸もいっぱいになって、ただただ帰りの新幹線に乗ってしまった。見舞うだけで何の役にも立てないのがやりきれない。



 写真は京都の西空に架かる虹。虹は神との契約のしるしだとか。虹を見てもいまの私の心は躍りそうにない。 



 


2012_1007_175325pa070059  10月9日(火)晴れ。6日、朝の新幹線で横浜へ。用事を済ませたあと、夕方から埼玉へ。日曜日の午後、東松山の病院へお見舞いに行く。夏に会ったときよりさらに痩せていた。連日午後になると熱が出るといい、「そろそろ熱がでるころだ」と不安げに時計を眺めていた。この前まで人の顔さえ見ると、悪い冗談ばかり言ってた人が、言葉少なく横になったまま、というのは何ともやりきれない。病人を疲れさせてはと、早々に退去し、駅へ向かう。新幹線に乗る前、丸の内口に出て、復原された東京駅の全容を眺める。駅の内外はカメラを持ったギャラリーでいっぱい。近くのビルの窓からも休みなくカメラのフラッシュが光っていた。東京駅を設計した辰野金吾は佐賀県唐津市出身で、唐津に残る旧唐津銀行は辰野金 2012_1007_174538pa070041 吾が監修し教え子が設計したもの。赤レンガに白い縞模様は東京駅と同じで、こちらも竣工から今年がちょうど100年目になる。辰野金吾が設計した赤レンガに白い縞模様の建物は、大阪中之島の中央公会堂や京都の第一勧業銀行(現みずほ銀行)、博多にある旧日生福岡支店(現福岡市文学館)など、一目でそれとわかる。東京駅は1914年の開業というから、約100年、このたび空襲で破壊されたドームなどが復原され、開業当時の姿に戻ったわけだ。高層ビルが林立する中、威風堂々たる駅の姿はなかなかのものであった。復原されたドームの屋根に使われたスレートは宮城産のもの。保管していた倉庫が東日本大震災で被災したが、瓦礫の中から一枚一枚拾い集め、洗浄し検査をした上で東京へ送りだされたという。膨大な歳月と人力、技術力(もちろん費用も)によって成されたものだが、これで各地にのこる近代遺構・建築の保護に追い風が吹くといいなと思ったことだ。



 写真上は東京駅。下は復原されたドームの内側。レリーフが美しい。


2012_1003_144359pa030005  10月6日(土)承前。ジュンク堂に本を探しにいったら、こんな書棚があった。いわく「日本の国境問題」。国境問題を扱った新旧さまざまな本が展示されていて、中に有吉佐和子の『日本の島々、昔と今』があった。わが書棚には1984年刊の集英社文庫があるが、書店の棚の本はカバーが一新されているので、今回増刷されたものかもしれない。これは有吉佐和子が日本の国境近くにある島々を訪ね歩いたルポで、最初の項は焼尻・天売島を書いた「海は国境になった」。いま問題になっている竹島や尖閣列島の項もあるので、30年ぶりに出たのだろう。32年前の1980年に有吉佐和子が取材のため竹島へ行きたいと相談に行くと、「それは危険です。近寄ると狙撃されますよ」というのが海上保安庁の返事だった、とある。国境を接するヨーロッパなどとは違って、島国日本には深刻な国境問題はないなどというのがいかに呑気な考えだったか・・。



 所用でちょっと東下りしてきます。今回の旅のお供は『菟玖波集』です。



 


2012_1003_183401pa030007  10月6日(土)晴れ。祇園甲部の温習会へ行く。温習会は京舞井上流の会で、祇園芸舞妓たちによるお稽古の発表会のようなもの。春の都をどりは一か月も続く華やかなレビューだが、温習会は3組が2日ずつで6日間しかない。演目も日よって変わるので、どの日にしようかと迷うのも楽しみの一つという。今年は彩乃さんと章乃さんが出る3日に観にいった。ベテランまめ晃さんの地唄舞「菊」に、客席から大きな声がかかるのも例年通り。井上流の舞は能に通じるところがあって、動きが少なく緊張感がある。上方唄、地唄、長唄、義太夫など、バラエティに富んだ3時間弱を楽しんできた。舞台も華やかだが、客席もそれ以上に華やか。終演後、カメラを向けた外国人観光客の群れをかき分けるようにして花見小路を抜け、帰宅。



 ●勝本華蓮『尼さんはつらいよ』(新潮新書)を読む。京都にも尼寺がたくさんあるようだが、内情はこうなのかと、興味深々で読みました。


2012_0930_101304p9300040  10月3日(水)晴れ。滋賀県米原市清滝に徳源院という天台宗の寺院がある。ここは中世、近江を本拠地とした京極氏の菩提寺で、鎌倉・室町期の一族の墓がある。一族の中で有名なのは南北朝に活躍し「ばさら大名」と呼ばれた京極(佐々木)道誉や浅井三姉妹の中の姫・お初の夫となった京極高次だろうか。本堂の背後山手にある墓所には18基の宝篋印塔が並んでいるが、時代と共にその形が変化しているのがよくわかり、まさに宝篋印塔の博物館といった趣。境内には見上げるほど大きなしだれ桜があり、道誉さくらと名付けられている。この花の見ごろは4月も半ば過ぎで、京都の桜が終わるころ咲きだす。来月末に、友人たちと歴史散歩で訪ねる予定なので、紅葉が楽しみ。●丸谷才一の『樹液と果実』(集英社)に、「ばさら連歌」なる一文がありこの道誉についてふれている。「佐々木道誉の連歌は評判が悪いらしい」と書き出された一文で、しかし『菟玖波集』で句数の最も多い作者の第四位は73句の道誉で、彼の作風が一世を風靡したこともあったのだから、これはおかしい、と書く。丸谷才一は道誉の句がおもしろいといい、「何ゆゑの我が思ひぞと問ひし時  秋は夕暮風は萩の葉」(後のほうが道誉の句)の鮮明なイメージと無駄のない言葉使いを称賛している。道誉が南北朝時代、彼独自の美意識をもって粋に生きたことはよく知られているが、連歌や和歌にも優れていて、時代を先取りする自由な感覚があったことを教えられた。来月までに『菟玖波集』に目を通して、徳源院の道誉桜を眺めることにしよう。



 『樹液と果実』に収められた文藝批評のなかでも「折口信夫ノート」と「隠岐を夢みる」を楽しく読んだ。「折口信夫は自分を後鳥羽院に見立てたかった」などという下り、刺激的な論考でした。



 写真は黒部平から見る立山雄山(3003メートル)。ナナカマドが色づいていました。


2012_0930_125505p9300111  10月1日(月)曇りときどき小雨。先週末、黒部立山アルペンルートを廻ってきた。長野県大町に泊まり、早朝宿を出て黒部へ向かう。関電トンネルトロリーバスで黒部ダムへ。ダムは水位が下がり遊覧船は休みだったが、観光客のための放水は行われていて、雄大な光景に目を奪われた。日本のダムは堆積する土砂のせいで、その役割が疑問視されているが、この黒部はどうなのだろう。それにしてもこんな山の中に巨大なダムを造った技術者や現場で働いた人たちには頭が下がる。京都の琵琶湖疏水にしてもそうだが、多くの犠牲者なしには完成することはできなかった。いささか複雑な思いで黒部ダムを歩いて渡り、地下のケーブルカーで黒部平へ。そこで早めの昼食をとり、ロープウエイに乗り換えて大観峰へ。大観峰からは再び地下トンネルのトロリーバスで室堂へ。室堂ではみくりが池などを巡って紅葉を愛でたあと、高原バスで美女平~ケーブルカーで富山県側の終点立山駅に着。トロリーバスやケーブルカー、ロープウェイなど次々に7つもの乗り物に乗り替えて、立山連峰を潜り抜けたことになる。山の紅葉は期待した以上に美しく、室堂の気温はこの日14℃、吹き過ぐ風は冷たかったが、夏の暑さの記憶が残る身体には心地よく感じられた。花が終わったあとのチングルマの、渦巻き状の綿毛が足元に広がり、ワレモコウの暗赤色の花が風にそよぐ中をゆっくり歩く。以前来たのは5月の連休で、そのときここはまだ真っ白の雪だった。室堂は標高2450メートル、澄んだ空気のおいしいこと、爽やかなこと、帰るのがいやになるほどだった。アルペンルートの各ターミナルは京都の四条河原のような賑わいだったが、数に制限がある乗り物に駅員がうまく客を捌いて、混乱がないのはさすが。この日、黒部、立山は快晴で、峨峨たる立山連峰の姿を見ることができたが、立山ICから北陸道に乗った途端、台風17号の影響か激しい風雨となった。午後9時過ぎ、無事帰宅。3003メートルの雄山を振り仰いだとき、我知らず、昔昔に歌った山の歌が口をついて出た。「♪山よお前の懐は、山の男のふるさとよ、うれしい時は山へ行く、さびしくなれば尾根歩き♪」だとか、「♪いつかある日、山で死んだら 古い山の友よ 伝えてくれ 母親には安らかだったと 男らしく死んだと父親には♪」など。遠い日々の古い古い記憶の底から甦った歌でした。



 写真は室生平の紅葉。


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