2012年12月

Heiannkyou  12月30日(日)雨。つれあいは完全武装して早朝から東大阪の花園行。年末恒例の同窓会を兼ねた高校ラグビー観戦なり。雨に濡れて風邪などひかなければいいが。午前中、荷物持ちの子どもたちを連れて買い出しにいく。暮れの買い物はこれでおしまい。帰ると留学生のHさんが友人を連れてやってきた。留学生はここのところの円高で生活が厳しいらしい。お正月も京都に残るというので、食料品などを持たせる。玄関や部屋に迎春の花をいけ、それからようやくわが領域の片づけ。パソコンの周辺や足元に積み上げた本を整理する。といってももう書棚に空きはないので、ひとまず段ボールに詰めてクローゼットに仕舞い込む。マンションは収納スペースに限りがあるのが辛い。一つモノを買ったら、その分一つ処分する、という生活を心がけているのだが。



 掃除の合間に積んでいた本をパラパラと斜め読み。上田秋成の『胆大小心録』にこんな一文があった。云はく「翁の京にすみつく時、軒向ひの村瀬嘉右衞門と云儒者の、京は不義國じゃぞ。かくごしてといはれた。十六年すんで、又一語をくわえて、不義國の貧國じやと思ふ。二百年の治世の始に、富貴の家がたんとあつたれど、皆大坂江戸へ金をすいとられたが、それでも家格を云てしやちこばる事よ。貧と薄情の外にはなるべきやうなし。山河花卉鳥蟲の外は、あきやじやと思ふてすんで居」。秋成は京暮らし16年目にこのような憎まれ口を記している。私の京暮らしは18年を超えたが、こんなこと毛ほども思ったことはありませんよ(!)。



 写真は京都アスニーの「平安京創世館」内部。壁には「上杉本洛中洛外図」、手前は平安京復元模型(1000分の一)。この模型、実によく出来ていて、ここが道長の土御門第、ここが実資の小野宮、と特定しながら眺めることができるのは嬉しいことだ。


2012_1221_152012pc210063  12月29日(土)曇り。今日、12月29日は南方熊楠(1866-1941)の命日。若いころ平凡社から出ていた全集でこの人の「履歴書」を読み、その破天荒さに魅入られた。そのころは熊楠といっても身近に知る人はあまりいなかったが、没後50年ごろブームが起きて展覧会が開かれ、数多の出版物が出た。熊楠が暮らした紀州には二つの熊楠館がある。一つは白浜にある記念館(1965年開館)、もう一つは田辺の南方家に隣接して創られた顕彰館(2006年開館)。顕彰館ができる前の南方邸は、緑も深く、屋敷も熊楠が住んでいたころを偲ばせるものがあったが、いまはきれいに整備された。白浜へ行くたびに、この二つの熊楠館を訪ねることにしているが、熊楠が遺した研究ノートを見るたびに胸が熱くなる。どのノートにも隙間がないほど細かい文字が綴られていて、熊楠の精進ぶりが思われるのだが、その全貌はいまだ完全には把握されていないのではないか。柳田國男や折口信夫などと比べても意味がないとは思うのだが、あのように大系立てて、ということができない大きさが熊楠にはあった。岡茂雄の『本屋風情』(平凡社 1974年)に出てくる熊楠という人物の愛らしさはどうだろう。(岡茂雄、岡正雄という魅力的な兄弟のことも記しておきたいが、いずれまた)。



 昨夜は友人の忘年会に誘われて祇園行き。所属団体がないので忘年会とは無縁だと言ったら、誘ってくれた。みんな顔見知りなので遠慮がない。食事のあと、友人に同行して古門前の骨董屋へ。京の織屋から出たという漆器の椀を見せてもらう。20客ある椀の蓋の裏にそれぞれ花が描かれているのだが、それは見事なもの。椀は紙のように薄く、羽のように軽い。幕末ごろのものだろうとのこと。「いただきましょう」と友人は満足そうだった。



 帰宅すると家の中がいつになく賑やか。今日から我が家は人口が3倍、いよいよ「酒とバラの日々」ならぬ、「おさんどんの日々」の始まりです。



 写真は祇園新橋のお地蔵さん。


2012_1221_114413pc210049  12月28日(金)雨のち曇り。昨夜、真ん丸の月が出ていた。昨日は十四夜、今夜が満月らしいが、雲が晴れてくれるかしら。いきつけのガソリンスタンドが店じまいするというので、最後の給油に行く。京都に来てからずっと世話になった店だ。たまたま名前と生年が同じだったせいで親しくなり、車の調子が悪いときなど診てもらったりした。古くなったガソリンスタンド地下タンクの改修を義務づける消防庁のお達しが出たが、多額の工事費を負担できないので廃業することにしたとのこと。たとえ補助金をもらって改修しても、いまのような厳しい時代に採算がとれる見込みはないと。ただでさえ町からガソリンスタンドが消え、残ったところはほとんどがセルフ式。頼りにしていたこの店がなくなったら、どこへ行けばいいのか途方にくれる。だが最近我が家の車は車庫に入れっぱなし。月に2、3度しか走らないのだから、もう脱原発ならぬ脱マイカーもいいのかもしれない。今でも旅先ではレンタカーを利用していることだし。などと考えながら師走の街を走る。それにしても京都市内はまだしも、過疎地のガソリンスタンドが消えたら住民の暮らしはどうなるのだろう。公共機関が身近にない地域ではマイカーは手放せないし、灯油の配達もしてもらえなくなる。所によっては20キロ離れた隣町のガソリンスタンドまで給油に行く、という話を聞いて情けなくなった。



 芭蕉に「何にこの師走の市にゆく烏」という句がある。何を好んでごった返す師走の市なぞへ飛んでいくのかカラスよ、というくらいの意味だろうか。自分を烏になぞらえて、独りでいるのが好きなのだが、なぜか賑やかな市井にも惹かれるとでも言っているのだろうか。こちらは世間並みに年末年始の準備に追われている。何にこの師走の市にゆく身かな・・・である。お正月が待ち遠しかったのは子どものころだけ。若いころもまだ楽しみがあった。炬燵に入って好きなだけ本が読めたからだ。結婚してからはただ忙しいばかり。今年もまた。



 数日前、ふと見上げると、師走の空にアドバルーンならぬアド飛行船が浮んでいました。


Photo  12月27日(木)曇り。平安貴族の一人、中御門右大臣・藤原宗忠の日記『中右記』の承徳元年(1097)正月朔日の条は、「朔日、丙戊、朝間時々天陰、飛雪粉々、随風飄飄、但不及庭湿、早旦従内有召・・・」と書き出されている。道長(『御堂関白記』)もそうだが、当時の貴族の日記はその日の天候を記すことから始まるのが多いようだ。この二人に比べると神経質で万事に細かい実資の日記『小右記』には天候のことはあまり出てこない。儀式をやるのに晴天と雨天だと、晴儀・雨儀とやりPhoto_2 方が異なるので、その場合に記されたくらいか。宗忠日記の康和5年(1103)元日には「一日、辛巳、天晴、但宿雪留庭、」とあるから、雪が溶けずに残っていたらしい。27日の京都は曇り、京都盆地をとりまく山々には白く雪が残っている。明日から子どもたちが帰省するので、今日までに宿題を片づけなければならない。午前中、銀行へ行ってあちこちへ貧者の一燈(カンパ)を送る。今年も路頭に迷うことなく、無事に一年を過ごせたことに感謝して。体力が衰えるのは残念だが、年をとるということはそんなに悪いものではない。以前も書いたことだが、もう誰にも期待されることはないし、競争することもない、物欲もないし、世間に出ていくこともない、これからが本当に好きなことをやれる、報われないことに力を注ぐことができるというもの。此の世と冥界を往ったり来たりしたという小野篁ではないが、半分はもう世外という気分なり。



 写真上は清水坂にある五龍閣。大正時代(1921年ごろ)、実業家の邸宅として建てられたもので、現在は老舗豆腐料理店が経営するカフェとなっている。設計者は京大建築科卒の武田五一、国の登録有形文化財。中には竹久夢二の絵が飾られて、なかなかレトロな感じ。観光客用。



 写真下は今宮神社参道にあるあぶり餅屋。江戸時代の雰囲気を残してして、時代劇のロケ地としても有名。あぶり餅をいただく機会はないが、春の今宮神社のお祭りには出かける。大徳寺や船岡山にも近いので、散策するのにいいところなり。


2012_1227_105233pc270011  12月26日(水)曇り。四条河原の高島屋の前で、今年も救世軍の街頭募金が行われている。軍服を来た年配の男性がラッパを吹きながら街行く人たちに募金を呼び掛けている。社会鍋に私も貧者の一燈を献じてきたが、この冬空に家もなく過ごす人たち、親と別れて過ごす子どもたちにどうか届きますように。夜、今年最後の月例会に出席。雪がちらついていたが、帰るときはやんでいた。札幌のHさんから帆立が送られてきたので、お礼の電話をする。「こちらは積雪が70㎝」というのでびっくり。毎年お礼に長崎の葉つきミカンを送るのだが、これが今時珍しい木箱入り。この夏、つれあいを亡くしたHさん云はく、「毎年ミカン箱を開けるのは夫の役目だった。私だと無理なのよ」。それにマンション住まいだと釘抜きを使って開けるのも、木箱を処分するのも大変だというので、来年からは段ボール入りに変更することにする。ずいぶん遠慮していたのだろう、申し訳ないことなり。



 ●松本仁一『兵隊先生ー沖縄戦、ある敗残兵の記録』(新潮社)を読む。沖縄戦で負傷し、瀕死の状態で読谷村の人たちに助けられた日本兵が、米軍占領下の村で密かに村民として生き延び、捕虜収容所に収容されるまで教師として村の学校運営に尽力した・・・こんな稀有な体験をした日本兵がいたのだ。筆者はその兵士の息子(兵士は帰還後、戦士した兄の妻と結婚し、遺児である筆者を育てた)で、実に詳細に67年前の父親の足取りを辿り、当時の父の姿を再現している。瀕死の父を助けた村の人たちは、ある家の女主人に「戦争にいけなかった智恵遅れの弟」ということで世話を任せ、米軍の探索から守り通す。銃撃を受け負傷した父は村民が潜むガマ(洞窟)に逃げ込むこともあったが、見知らぬ兵士の姿に怯えて泣く赤ん坊をその母親が手にかけたことを知って、ガマを去る。どこのガマでも遠慮がちに「兵隊さんは出て行ってくれないか」と言われるのだが、それも仕方がないと父は思うのだ。沖縄の人たちを巻き込んでいつまでも勝ち目のない戦を続ける軍部に瀕死の兵士は疑問を抱かざるをえない。父は戦後27年ぶりに沖縄を訪ね、当時の関係者たちと再会し、2009年87歳で亡くなるまで再び沖縄へ行くことを願っていたという。米軍の捕虜収容所での日々を描いたくだりでは、大岡昇平の『俘虜記』が重なってしかたがなかった。戦後67年にしてなお、このような本が書かれるということの重さを思う。



 写真は近所で見かけたネズミモチの実。6月ごろ真っ白の花が咲きます。


2012_1227_112350pc270015  12月25日(火)曇り。今日、12月25日は与謝蕪村(1716-1783)の命日。蕪村は摂津毛馬の出身だが、36歳で京に上ったあと丹後に逗留、40過ぎて京に落ち着き家庭を持った。蕪村は俳諧師というより画家として知られていたようで、なりわいは絵師だったにちがいない。「楠の根を静かにぬらすしぐれかな」、「鴛(おしどり)に美を尽くしてや冬木立」などの句からは、その情景が目に浮かぶよう。仏光寺通りを烏丸から西に入ったところに、「与謝蕪村宅跡(終焉の地)」がある。いまここは和装を扱う商社になっているが、その建Busonn物の前につつましく碑が立っている。蕪村は54歳の時、俳諧の師である夜半亭の名を継いだ。夜半亭一門は上田秋成とも交流があり、秋成の書に蕪村が序文を寄せたこともたびたびだった。秋成も摂津加島の出身で、毛馬生まれの蕪村と同じく淀川に親しんで育った。大阪で育ち、京で生涯を終えたこの二人には似たところがあると思うのだけど、うまく言えない。うまく言えないが私はこの二人が好きなのだ。京の町を歩きながら、250年くらい前、2人がこの辺りを歩いていたのかなと思うとそれだけで胸がいっぱいになる。われながら変だと思うのだけど。



 「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」蕪村終焉の句。



 いろいろあったけれど、いまは晴れ晴れと死を迎える・・いい人生だったよ、という蕪村の声が聞こえそうな句ではないだろうか。 



 写真上は中京区仏光寺通烏丸西入ルの「蕪村終焉の地」。下は近くにあるおかき店にかけられた蕪村の句。季節ごとに替えられているようで、いまは冬の句。この店の壁には蕪村の代表作「夜色楼台図」(国宝)がいっぱいに描かれている。まあ、もう著作権はきれてますが・・・。


2012_1223_162741pc230001  12月23日(日)曇り。朝から上空にヘリコプターの音がするので、この日が高校駅伝の日だと気付く。わが故郷からはどの高校が出ているのやら。この日の京都は風もなく、曇天だが寒さも和らいで駅伝にはもってこいの日和。コースは我が家のすぐ近くだが、駅伝はTVで応援することにして机に向かう。年末の仕事が山積というのに、せっせと史料読みが続く。目下は10世紀末から11世紀初めの古記録を読んでいるのだが、元号を西暦になおす癖が抜けないので実に厄介。西暦999年から1099までのたった100年間に、元号が24回も変わっているのだ。永長など、元年が1096年、翌年の1097年には承徳に改まり、その承徳だって1099年には康和に改元されているのである。やれやれ。その点、近代は明治・大正・昭和・平成と覚えやすいから楽。西暦から、明治なら67、大正なら11、昭和なら25を引けば、各年代が出るから数えやすいが、平成は少しややこしい。1989年が平成元年だから88をひけば年代が出るのだが、2012ー88は何故か計算しにくいのだ。私は未だに今年は昭和87年、などと計算してしまう。『歴代残闕日記』、『中右記』、『拾芥抄』、『後二条師通記』などをひもとく。中世にまとめられた百科事典『拾芥抄』に目を通しながら、『舟を編む』ではないが、昔から人は辞書を編み、百科事典をつくってきたのだなあという感慨をあらたにする。



 夕方からつれあいと外出。京都駅地下の文具店で買い物をしたあと、地下鉄で四条烏丸まで戻り、いつもの寿司屋で美味しい魚とお酒をいただく。駅も町もすごい人出であった。



 写真は京都駅ビルのクリスマスツリー。コンサートのリハーサル中、クリスマスソングが流れていました。


Photo  12月22日(土)曇り。金曜日の夜、近所のシネコンのレイトショーで「レ・ミゼラブル」を観た。ロングラン舞台劇の映画化で、音楽もそのままだそうだが、俳優たちの歌唱力に圧倒された。2時間40分はあっという間で、終了後、すぐ席を立つ人がいなかったのは余韻に浸る人が多かったせいか。エンディングのクレジットまで、みんな静かに画面を見続けるというのも珍しいことだった。全編(台詞も)歌、という文字通りのミュージカルだが、21世紀の楽劇らしくCGを駆使したスピード感あふれる画面は目まぐるしくて年寄りにはちょっと辛い。恋人たちのデュエットや三重奏、四重奏などのシーンにかつての「ウエスト・サイド・ストーリー」を思い出させられたりしたが、もっと静かな画面を観たいと思ったのも事実。アナログ老人としては、ますますハリウッドの新作映画から足が遠ざかるという感じがしました。



注文していた本が届く。



●水村美苗『母の遺産』(中央公論新社)



●ハンス・マグヌス・エンツエンベルガー『数の悪魔』(晶文社)



●松本仁一『兵隊先生』(岩波書店)



 ●三浦しをん『舟を編む』(光文社)を読了。辞書編纂に携わる若者の物語。言葉に深い思い入れを持つ(「こだわる」という言葉は不適切だそうです)人たちの明るい青春物語なり。30年ほど前に読んだ高田宏の『言葉の海へー大槻文彦伝』を思い出しました。



 写真は四条河原の呉服屋「ゑり善」のショーウィンドウ。一足先に新春気分。




2012_1221_100907pc210042  12月21日(金)曇り。21日は空海上人の月命日で、東寺の弘法さんの日。12月は最後の市「しまい弘法」で、正月用品を買う人でいつもより賑わう。今年は一度も行く機会がなかったが、終い弘法は覗いてみようかと朝からでかけてきた。京都駅を出ると、東寺へ向かう道路は文字通り人の波。団体の観光客が修学旅行生のように、道路の半分を占めて並んで行く。ひところに比べると骨董屋が少なくなった。その代わり増えたのが手作り品の店だろうか。やきもの、袋物、金物、アクセサリ2012_1221_095538pc210034ー、木工品、漆器、布細 工・・・。おじゃこ、すぐき(漬物)、塩干物、干し柿、餅などの食品をはじめ、植木、盆栽、花屋も多い。お正月飾りもいろいろと出ていたが、私はいつもの店でおじゃこ(ちりめん山椒)を買い、隣に出ていた「宮崎県椎葉村の特産品店」で、干し椎茸やゼンマイなどを購入。すぐきとちりめん山椒の店には長い行列ができていた。弘法さんには1200余の店が出るそうだ。25日は菅原道真公の命日で、北野天満宮に「天神さん」の市が立つ。こちらも今月が終い天神。弘法さんが晴れると天神さんは雨、と言うが、今日は曇り。



 帰りの電車で台湾から観光に来たという幼児連れの若い夫婦と同席になる。台湾の友人と結婚した日本人女性に日本語を習っているとのことで、奥さんがカタコトで日本の印象などを話してくれた。「日本ノ町ハキレイデスネ」。昨日は奈良に行ってきたそうで、1歳半になる娘さんが奈良公園の鹿にびっくりしたと嬉しそうだった。シカという日本語が出てこないで、しきりに頭の上にツノらしきものを示す。deer、と共通語が出て、ようやくわかった。台湾には降らない雪を観たいというので、寒いから風邪ひかないようにいい旅を、と言って別れた。



 写真上は東寺の弘法さん。下は御影堂。法要のためお坊さんたちがお堂に入るところ。


Photo  12月20日(木)曇り。一日、図書館行き。北山の総合資料館で古記録の写本を閲覧す。江戸時代の写本らしいが、風格のある書に見とれる。筆はおろか、最近はペンさえなかなか手にしない身としては、歳月を経ても色あせない水茎の跡が眩しい。総合資料館ではちょうど「国立公文書館所蔵資料展」が開催中で、明治以降の公文書がいろいろと展示されていた。民選議員設立建白書や大日本帝国憲法(睦仁、黒田清隆、伊藤博文、大隈重信、榎本武揚などの署名あり)などのあとに、1945年8月15日に放送された「終戦の詔書」もあった。「堪へ難キヲ堪へ 忍ビ難キヲ忍ビ・・・」という玉音放送の詔書。読みながら、どうしてもっと早く降参、と言ってくれなかったのかと思ってしまう。そういえば、●落合恵子の『てんつく怒髪』(岩波書店)に、こんな話が紹介されていた。デンマークの陸軍大将フリッツ・ホルムが考えた「戦争絶滅受合法案」と呼ばれるもので、「戦争が始まったら、10時間以内に次の順番で最前線に一兵卒として送り込まれる・・・という案。その順序とは、①国家元首、②その男性家族、③総理大臣、国務大臣、各省次官、④国会議員、⑤戦争に反対しなかった宗教界の指導者、以上」、というもの。こんな法律があれば、戦争を起こすことはなくなると、ホルムは考えたわけで、この案を日本に紹介したのは長谷川如是閑だとあった。なかなかいいアイディアだと思うのだけど。



 総合資料館から太秦にある右京図書館へ廻る。右京図書館は4年前、新しい区役所の3階にオープンした。入り口に「入館者300万人達成」の掲示あり。一日の来館者数は約2000人とのこと。大阪や滋賀の公共図書館と比べると寂しい部分もあるが、職員さんの仕事ぶりには頭がさがる。図書館もやはり「人」なのですね。 


Kaeru  12月18日(火)曇り。凍えそうに寒い一日。 例会で岡崎行。終了後、府立図書館へ調べものに行く。見たい資料はほとんど書庫にあるので、まとめて出してもらう。ホームページでは蔵書の有無しか判らないので、でかけるに如くは無い。いくつかの(肝心の)資料はここには無く、北山の総合資料館にあるという。府立図書館の不便なところは、所蔵資料が本館と資料館に分散していることだろう。それぞれに複本としてあればいいが、歴史資料はあちらとこちらに分散しているので、利用者ははるばる訪ね歩かなければならない。せめて隣どうしであればいいのに、と恨めしい。明日、あらためて訪ねることにして帰宅。帰りて●車谷長吉『人生の四苦八苦』(新書館)を読む。この十年ほどの間に発表されたエッセイや講演、インタビューなどを収めたもの。エッセイや講演では、繰り返し同じ話が語られているが、この人にとっては自分の来し方を語るのがいちばんなのだと納得す。NHK「こころの時代」での話「文学という救い」では、自分は人間の悪やどうしようもない苦しみを書いてきた、といい、しかし自分にとって書くことは自分の救済になっていると語っている。神経を病み、血を吐く中で長編小説を書きあげ、その作品で直木賞を受賞して生活は安定したが、病はまだ完全に癒えていないという。後世に残る文学作品を書いた作家として、「小川国夫、富岡多恵子、松谷みよ子」の3人の名をあげていたが、自分が死んだ後も作品が残ればそれで本望というのは本心であろう。もう私小説は書かないそうだが、この人の真骨頂はそこにあると思うのだけど。とにかく常に読む者をギョッとさせる人ではある。 



 夕方から厳しい冷え込み。雪になるのではないかしらん。


2012_1213_132033pc130028 12月16日(日)曇り。総選挙。午後、立命館大学朱雀キャンパスで開催される「陽明文庫講座」に行く。東京大学史料編纂所主催の講座で、今年で3回目。この日の話は芳村弘道氏の「陽明文庫の漢籍について」と朧谷寿氏による「藤原道長と御堂関白記」。文庫所蔵の漢籍については初めて聞くことばかりだったが、道長と御堂関白記の話は馴染み深いものだけに楽しく聴いた。陽明文庫に伝わる道長の日記『御堂関白記』は自筆の日記としては日本最古のもの。長く左大臣をつとめた最高権力者の日記だけに当時を知る一級史料なり。国宝指定もむべなるかな。去年ユネスコの世界記憶遺産に推薦されたそうだが、こちらは如何。



帰りて●前田勉『江戸の読書会』(平凡社)をようやく読了。江戸時代、さかんに行われた会読について書かれたもの。中国では科挙のためにみんな必死で学んだ、学ぶことは立身出世の手段であった、しかし身分制が確立していた江戸時代の日本では、学ぶことは自己研鑽、あくまで自己を高め、人格者となるためのものであった。中国では忘れられた儒教本来の「聖人への道」を求め、実利と離れた「遊び」として学問にいそしんだのである。純粋に知を求める者同士が身分の上下に関係なく対等な立場で自由に論じ合える場が会読だった。この会読は幕末も盛んに行われたが、維新後はすたれた。というのも明治政府が学問を行うのは立身出世のためと定義して学制を敷いたからである。しかし近年、読書会がブームとなっているそうで、各地でさかんに行われているという。そのわけは著書いわく、①学校での勉強とは異なる自由な学問を求めて。②仲間との自由な論議はテキストの討議にととまらず、徒党を組むことで現代の閉鎖状態を打破することができるのではないか。③いろんな人の自分と異なる意見を知り、それを受け容れることで、独善的になることを避け、寛容の精神を養い、自らの視野を広げる場となること。つまり、意見の違いを尊重し、認め合うこと、みんなが対等で自由であることが読書会の条件であり、魅力でもあるようです。



 写真は八坂神社。まだ紅葉がきれいです。


Photo  12月15日(土)雨。昨日も今日も家に籠って史料読み。2日間で1000歩も歩いただろうか、実に体によくない。医者から運動するようにうるさくいわれているのに。気晴らしに広げた『蕪村集』の「名月摺物ノ詞書」にこんな一節あり。江戸での友人と京で再会し、「虹竹のぬし、榲桲(まるめろ)を袖にして供養せられければ、即興、まるめろはあたまにかねて江戸言葉」(丸い果実のまるめろを供養されたが、その名は我らの頭に兼ねて言えば、”頭をまるめろ”で、あなたも頭をまるめたのですね、Photo_2 聴きなれた江戸言葉が懐かしいでしょう) 榲桲を”頭をまるめろ”という江戸言葉に掛けた即興の句だが、はて、まるめろとはどんな果物かと気になった。植物図鑑によると、マルメロはバラ科の果実で、我が国には1634年に渡来したという。蕪村が「名月摺物ノ詞書」を記したのは宝暦元年(1751)だから、もう我が国にマルメロが渡来して100年は経っていたことになる。同じバラ科で似た果実にカリンがあるが、カリンは中国原産、マルメロは中央アジア原産だそうだ。どちらも香りはいいが、果実は固く、生で食べるものではない。京都の建仁寺近くのお寺にカリンの大木があって、秋ごろそばを通ると、音を立てて実が落ちてくることがある。強い風が吹いた翌朝、道路に固い実が落ちているのを見かけることもある。カリンもマルメロも名前の響きはいいが、食する機会はなかなかない。蕪村のころは一般的だったのかしらん。



 小沢昭一さんが亡くなった。彼がレギュラーだったラジオ番組のテーマミュージックが浮かぶ。新聞のコラムに追悼文があったが、そこに小沢昭一の言葉が記されていた。「戦争ってものは、なっちゃってからでは止められません。なりそうなときでも駄目。なりそうな気配が出そうなときに止めないと」。いまはどのような時でしょうか。



 写真は近所の町家で見かけた鍾馗さん。家の守りです。 


Annmonaito  12月13日(木)晴れ。2週間ほど前の新聞にこんな記事があった。「五島~北海道 カメの旅 五島で放流後、5ヶ月かけて北上」。長崎県五島列島沖で今年6月に調査のため放流された2歳のアカウミガメが、11月始めに北海道の興部町沖で保護された、というもの。黒潮(対馬海流)に乗って北上したのか、それにしても5ヶ月で2000キロ以上の旅をしたアカウミガメが保護されるのは珍しい。このニュースに以前読んだこんなカメの話を思い出した。「1億年くらい前、アトランティス大陸が裂けてヨーロッパとアメリカに分かれるころのこと。アオウミガメは裂目にできた細い水路を泳ぎ、食事のときは大陸の岸の草原にいて、産卵のときは水路の中にある小さな島まで泳いでいった。哺乳類から卵を守る為に、離れた島に産卵したのだ。そのうち大西洋は少しずつ広がっていき、産卵をしにいく島は少しずつ遠ざかっていった。長い長い時がたった現在、カメは南米のレシフェから2000キロメートルも離れた大西洋の真ん中にあるアセンション島まで産卵をしにいく。2000キロの旅をするにはどんなに頑張っても80日はかかる。餌場と産卵場を別々にするというアオウミガメの習性が、大陸が移動して長い旅をしなければならない現在も続いているのだ。なんという本能の不思議さだろう・・。この話を読んだのはもう20年以上も前のこと(たしか東大出版会のPR誌『UP』で読んだ)だが、カメを見るたびに思い出しては切なくなる。今回北海道で保護されたアカウミガメは産卵のために泳いでいったわけではなさそうだが、カメに旅の話を聴いてみたいような・・・。 日本海側にある東北・北海道の縄文遺跡から沖縄や九州各地の貝や石器、土器が出てくるのも不思議ではありませんね。



 写真は京都水族館のオウムガイ。生きた化石といわれるカイで、静かに水中に浮んでいます。英名ノーチラス。ジュール・ヴェルヌの『海底2万里』の潜水艦の名前ですね。


2012_1212_131436pc120010  12月12日(水)曇り。Fさんに誘われて最近評判の「祇園にしかわ」で昼食。石塀小路近くの路地の奥にあり、改装して間もないのか何もかも新しい。案内されたカウンター席は、目の前がオープンキッチンのように見通せて、板前さんたちの働きぶりが見えるのがいい。壁に散らした古裂や断簡、カウンターの端には茶道具一式もあり、店主の心意気が伝わる。この日いただいた料理はいちばん手ごろなコースで、先付は柿のしらあえ、白味噌仕立てのブリ大根、お造りは山芋と辛味2012_1212_151513pc120015 大根でいただくマグロ、焼き物はサワラの西京焼き、海老芋の揚げたの添え、それから季節料理でタイ入りの温かい蕪蒸し、安納芋のご飯と味噌汁、御漬け物が出て、最後にあたたかいわらびもちと冷たい抹茶シャーベットがでた。(まだ何かあったかもしれないが覚えているのはこれだけ) 色とりどりの小さな金平糖も供されたが、ビールグラスが錫だったり、ガラスの醤油さしが小さくてアクセサリーのようだったりと、料理だけでなく器も楽しめた。隅々まで神経が行き届いて、店主のセンスの良さがしのばれたが、あらためて京料理は料理と店のしつらい、もてなしの総合文化、と思われたことだ。この日カウンター10席に男性はたった一人、夜は逆転するのかもしれないが、東京などからの遠来の客が多いとのことだった。



 昼食のあと、仕事に戻るFさんと別れて北野の天満宮へ行く。来年の干支・巳を描いた絵馬がかけられたと聞いたので写真を撮りに。本殿前では修学旅行の生徒たちが神妙な顔でお参りしていた。



 この日は小津安二郎(1903-1963)の命日。12月12日はこの人の誕生日でもあり、命日でもある。何年か前、京都の文化博物館で小津作品の連続上映があり、『麦秋』、『早春』、『晩春』、『彼岸花』などを初めて観て、昭和30年代の日本の良さを再認識したものだ。『東京物語』はいうまでもない。山田洋次監督の『東京家族』は小津作品へのオマージュだそうだが、はたしてどんな出来なのかしらん。



 写真上は祇園にしかわ入口。下は北野天満宮の大絵馬。


Pc100001  12月10日(月)曇りときどき雪。今日、12月10日は太田垣蓮月(1791-1875)の命日。伊賀上野の城代家老藤堂良聖の子として生まれた蓮月は、生後すぐ太田垣家の養女となって成長。しかし少女のとき、養母と養兄が病没、17歳で結婚したが、3人の子どもを相次いで亡くし、夫と離婚。養父の望みで再婚し一女を得て平穏な日々を送るも、夫が病死。夫の死後養父とともに知恩院で出家、以後蓮月を名乗る。しかし2年後、娘も病死。養父を看取ったあと、岡崎に移った蓮月は42歳でやきものづくりを始める。数年前、京大の総合博物館で大学構内の遺跡発掘調査展「幕末の北白川」があったとき、蓮月尼作の陶器がたくさん展示されているのを見た。大学病院がある旧聖護院村に蓮月尼は1861-1864年ごろまで住んでいて、さかんに手づくねの陶器を作っていたという。当時流行った煎茶趣味の茶器や酒器などで、器に自作の歌が釘彫りされているのが特徴。蓮月尼の短冊も見たが、まろやかでのびやかな文字にゆかしい人柄がしのばれた。幼い富岡鉄斎を侍童として手元で育てた、という逸話くらいしか知らなかったが、杉本秀太郎の『太田垣蓮月』(筑摩書房)で蒙を啓かれた。陶器をつくり歌を詠み、自らはつつましく暮らして、私財を投げ打っては社会に尽くした。鴨川に橋(丸太町)を架けた話は有名で、メセナの嚆矢ともいえるのではないか。西賀茂の神光院には尼最期の住処となった茶所が残っている。実に簡素な建物で、尼の人柄そのままにつつましくも清々しい。尼のお墓はここから数百メートル西の西方寺にある。大きな桜の樹の根もとに富岡鉄斎の字で「太田垣蓮月墓」と刻まれた自然石があるだけ。桜の根に持ちあげられて、墓石が傾いているのが気になるが、墓参に來る人が絶えないようで、いつも新しい花や線香が供えられている。「無用の者が死んでゆくのに多用の人を煩わすには及ばない」と死後の準備はすべて整えてあったという。無私の心で世に尽くし、いわば「おひとりさまの老後」を見事に生きた人、今日は西賀茂を向いて、「花をたてまつる」。



 写真は「太田垣蓮月」が収められた『蔦の細道ー杉本秀太郎文粋(4)』(筑摩書房)。


2012_1209_124744pc090072  12月9日(日)雪。朝起きて外を見ると一面の銀世界。さて、どうやって京都へ戻ろうかと思案す。この日、JR北陸本線の特急電車はまたもや運休。なんとか動いている電車で敦賀か米原まで行くという案もでたが、幸いまだ雪が深くないので、チェーンを入手して高速で帰ろうということになる。出発前、ラウンジでコーヒーを飲んでいるとフロントのYさんが「キャンセルが出たのでお部屋の用意はできます」という。足止めを余儀なくされた客が少なくないらしい。駐車場の雪かきをしてもらって、そろそろと車を出す。幹線道路には融雪装置があり、走行に不安はない。加賀温泉駅近くの車用品店でタイヤチェーンを購入し、加賀ICから北陸道に乗る。周りは雪景色だが高速道路は普段通りで快適に走る。やがて小雪になり、福井県の南條S・A手前で交通規制の点検あり、ここでタイヤチェーンを装着。雪の中、震えながら何とかチェーンを付ける(私は見ていただけ)。南條~今庄~敦賀~木ノ本間は雪・雪だった。かつて紫式部が父親とともに越えた越前の山を見上げながら雪の道を走り抜ける。



 木ノ本を過ぎると空は晴れ、陽がさんさんと照って、山には雪ではなく名残の紅葉がまだ赤く、先ほどまでの雪景色が嘘のよう。北陸(北日本)の冬の厳しさを実感した一日だった。紫式部が日野山を眺めて京に戻る日を待ち侘びたという気持ちがよく判りました。



 ●高田衛『上田秋成研究序説』(図書刊行会)が出た。1968年に出版された本の復刻版なり。本著は未読、この機会に読まなければ。


2012_1208_184156pc080023  12月8日(土)曇り。年末恒例の山中行。京都は薄日が射す天気だが、北陸は暴風雪の予報。我が家の車はノーマルタイヤなので迷ったが、ままよとばかり出発。北陸道に入ったあと、敦賀~今庄間の路肩に少し雪を見たが(山は真っ白だった)道路は平常通りで、およそ3時間で山中温泉に到着。早めのチェックインをしていると、フロントのYさんが、今日はJR北陸本線が暴風のため、特急電車のサンダーバードもしらさぎも運休になり、キャンセル続出ですという。雪の予報のため、車はやめてJRで行こうかとずいぶん迷ったが、2012_1208_151013pc080008 JRは動かなかったわけだ。やれやれ、いささか無謀だったかとニュースをみていると、北陸道は道路規制で冬用タイヤかチェーン着用とのこと。間一発で間に合ったわけだが、さて明日の帰りはどうしよう。夕方から降り出した雪でみるみる外は銀世界となる。最悪の場合はホテルに足止めかと覚悟を決めて夕食にする。加賀橋立漁港のカニを頼んでおいたのだ。(そのために無理して走ってきた)。活きたカニは「橋立」のタグ付きで、刺身と焼きガニにしてもらう。ささやかな誕生祝いなり。かにみそにほぐした身を混ぜて食べる「大名食い」を堪能しました。



 この日の夕方、山中座で「山中節四季の舞」を見る。毎週土・日だけの上演で、舞台に立つのはベテランの芸妓さんたち。この劇場は小さいが内装は山中塗という見事なもの。上演時間は約1時間で、7つほどのお座敷舞が披露されるのだが、大ベテラン座員さんの熱演に対して客の少なさが気の毒に思われた。この日は空模様と道路情報ばかりが気になって、いつも覗く漆器店や芭蕉堂に寄る余裕もなかった。



 この日は71回目の開戦記念日。「徴兵は命かけても阻むべし 母・祖母・おみな牢に満つとも」という歌を思い出す。



 写真上は橋立ガニ。下は山中座で見た加賀温泉のポスター。「レディ・カガ」とは、うまいフレーズですね。


Photo_2  12月7日(金)承前。もう十年近い前になるだろうか、季節はちょうど今頃のこと。夜、何かの集まりのあと、祇園の友人の店へ寄ろうと四条通の南座の前を歩いていたら、横の路地から男性が出てきてぶつかりそうになった。トレンチコートを羽織った男性で、「ごめんなさいよ」と言う顔をみると、勘三郎(当時はまだ勘九郎)だったのでびっくり。顔見世の舞台が終わったあとで、食事にでも行くところではなかったか。この人の舞台は数えるほどしか見たことはないが、声よし姿よし役者としての色気Photo_3 あり、素顔もなかなか華やかという印象を受けた。先だって大阪松竹座で長男勘九郎の襲名披露舞台を見たばかり、2人の息子の成長ぶりが何よりの供養ではないか。それにしても惜しい。歌舞伎界きってのマルチタレントだったのに。



 日曜日に録画しておいた関東大学ラグビーの早明戦を見る。この日、リアルタイムで観戦していたのだが、後半急用ができて外出したため夜になるまで結果を知らずにいた。32-19で早稲田が勝っていたので、これはもう早稲田の勝かと思っていたのだが、なんとロスタイムに逆転、33-32で明治が勝っていた。インタビューに答える明治の吉田監督の目がうるんでいたが、故北島監督の「前へ!」のラグビー復活かと思ったことだ。(現役時代の吉田が活躍した早明戦の数々・・・早稲田には堀越や今泉という名選手がいた・・・を思い出した)。



●関川夏央『東と西 横光利一の旅愁』(講談社)を読む。



 写真上は、にほひ袋店のウインドウ。右上の香袋は来年の干支の巳(紅白)。下は和紙店のウインドウ。巳の絵入りポチ袋など。


Photo  12月7日(金)晴れ。今週の始め、京都市内の主要道路には警官の姿が目立った。今年は明治天皇の没後百年にあたり、両陛下が御陵参拝で上洛されたため。明治天皇は東京で亡くなったが、遺言によって京都に葬られた。伏見に御陵があるが、同じ伏見には平安京をひらいた桓武天皇の御陵もあり、始めと終わりの(明治天皇は江戸時代の生まれゆえに)天皇が伏見に眠っているといえる。没後百年といえば石川啄木もまた今年が没後百年で、ゆかりの地では去年から記念の行事が続いているようだ。久しぶりに歌集をひもといたが、26歳の死はいかにも早すぎる。昨日、諫早の友人からメールあり、「今度の選挙の行末を思うと、啄木じゃないけど」とあり、「『何もかも行末の事みゆるごとき このかなしみは拭いあへずも』」という啄木の歌が記されていた。思うことはいずれも同じか。



 ●前田勉『江戸の読書会 会読の思想史』(平凡社)を読む。



 写真は散歩の途中、押小路通りの大江能楽堂辺りで見かけた町家。格子もさまざまです。


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