2013年09月

2013_0929_061726p9290035 9月30日(月)晴れ。先週末、ある会の研修旅行で宮島へ行ってきた。夕方宮島に到着、ガイドの案内で厳島神社へ。ここは平安時代の建築様式をよく伝えていて、寝殿造りを想像するのに格好の建物。回廊を巡りながら『御堂関白記』や『小右記』を思い浮かべる。厳島神社は宗像三女神を祀る安芸国一の宮。創建は6世紀末といわれ、平安時代には平家一門の崇敬を受けて栄えた。清盛が奉納した「平家納経」はいまに伝わる宝物。この日の夜、琵2013_0929_061859p9290038_2


琶法師による「平家物語」の奉納があるというので、南庭にあたる舞台で準備の最中だった。宮島を訪れるのは2度目だが、前回は日帰りの駆け足訪問で、今回ようやく宮島に投宿。ホテルは厳島神社のすぐ裏手にあって、玄関近くでは、鹿が出迎えてくれた。
 食事のあと、琵琶を聴きに行こうかと思ったが、ロビーでピアノの演奏があるというので、琵琶はやめてサティやドビュッシーを聴く。演奏者の女性はかなりのベテランで、若いころ留学したフランスの思い出などを演奏の合間に語って、なかなか楽しいものであった。サティのジムノベディ、ドビュッシーの月の光など、定番の曲を軽やかに弾いてくれた。


 ●日野啓三対談集『創造する心』(雲母書房 2001年)を再読。


写真は日曜日の朝、散歩に出て神社の周辺を撮影したもの。これから潮が満ちてくる時間でしょうか。


2013_0927_104533p9270025 9月27日(金)晴れ。府立図書館へ調べものに行った帰り、烏丸二条のお香の店に寄る。店の前に藤袴ともう一つ、初めて見る花の鉢が並んでいる。買い物のついでに花の名を尋ねると、「かりがねそう(雁金草)」とのこと。クマツヅラ科で、京都府レッドデータカテゴリーでは準絶滅危惧種なのだそうだ。日差しは強いが日陰を行くぶんには爽やかので、あちこち寄り道しながら歩いて帰宅。コーヒーブレイクの後、コピイして


2013_0927_102735p9270023_4きた資料を読み直す。本命は後回しにして、ついでにとってきた記事を読む。「群像」1974年3月号にあった「『昭和40年代作家』の可能性をさぐる」と題する座談会の記録で、語り手の評論家たちは、入江隆則、高橋英夫、平岡篤頼、松原新一の4名。いわゆる内向の世代の文学について語っているのだが、入江隆則は、「第三の新人である遠藤周作や安岡章太郎などは、落伍者というか脱落者というか、そういうところに視点があって、弱者の正当化と言う面がどこかにある。しかし40年代作家ーー阿部昭、古井由吉、黒井千次、後藤明正、高井有一、森内俊雄など――には弱者の自己正当化と言う姿勢は全然ないですね。もっと根本的に自然だと思う」と語っている。それに対して松原新一は「内向の世代の文学はやっぱり高度成長下の飽食の文学だと思う」と言い、「自分の読書経験をしていえば、石牟礼道子や森崎和江、上野英信などの文章に感銘を受ける」と発言している。このとき松原新一は34歳、新進気鋭の文藝評論家だった。その松原新一氏が、この8月13日に亡くなられた。お盆休みは京都を留守にしていたので、(新聞を見なかったので)訃報に接したのは9月に入ってからのこと。『幻影のコンミューンー「サークル村を検証する」』(創言社 2001年)を読み返していたところだった。


 写真上はかりがねそう。下は二条大橋から鴨川上流を望んで。台風18号の日、この川の水嵩が4、5メートル増して、土手の遊歩道は冠水しました。


2013_0926_143503dsc01050 9月26日(木)晴れ。今朝はずいぶんと涼しくなった。開けた窓から、吹き過ぐ風が肌に心地よい。あの地獄のような暑さが嘘のよう。
 『野呂邦暢小説集成』第2巻「日が沈むのを」が出た。今回は収録作品が多く、ページ数が増えた。装幀の美しいこと、第1巻と並べてその清澄なたたずまいに見とれる。第2巻にはタイトルとなった「日が沈むのを」や「鳥たちの河口」、「水晶」など、私の好きな作品が収録されている。「日が沈むのを」は作者自身も気に入った作品だったようで、特装本を作ったりしている。野呂邦暢には女性を語り手にした場合、いい作品が生まれたようで、代表作の「諫早菖蒲日記」がそうだし、「落城記」しかり、この「日が沈むのを」しかり。「日が沈むのを」を読んで、まるで自分のことのようだとつぶやいた独身女性を私はかなり知っている。独り身の女性が身につまされる話・・とでもいおうか。いや、独身女性とは限らない。私はこの主人公に独りで生きる人間の孤独や諦観、というものを色濃く感じるのだが。「鳥たちの河口」は野呂の4回目の芥川賞候補作である。これで受賞すると思っていたのだが、受賞は次の「草のつるぎ」だった。「鳥たちの河口」にはいまはない諫早湾の河口風景が登場する。干潟の海が主役のような小説で、その情景描写は何度読んでも見事としかいいようがない。豊饒と荒涼が同時に存在する風景。野呂文学の原風景である。


 写真は『日が沈むのを』(文遊社 2013年)


 


 


 


2013_0922_113050p9220040 9月22日(日)晴れ。久しぶりに祇園のFさんと奈良行。修復工事中の薬師寺東塔の水煙が公開されているというので、見に行く。薬師寺はもと藤原京にあったもので、平城遷都にともない現在地に移された。東塔は当初よりあるもので、この水煙も1300年の歴史を持つ。現在、塔は解体工事中で、相輪や水煙が建屋の中に安置されている。水煙を間近に見るのは初めてで、花筥を


2013_0922_134828p9220054_2手にした飛天や笛を吹く飛天の姿にしばし見とれる。薬師寺に来るのは10数年ぶりのことではないか。薬師三尊や聖観音菩薩などを拝観し、玄奘三蔵院伽藍を見て、隣りの唐招提寺へ足を延ばす。金堂の前に満開の萩の花。この日、西ノ京はどこを歩いても萩と彼岸花が美しかった。御影堂には今年作成された鑑真和上の身代わり像が安置されていた。古色もそのままに写された本物そっくりの御像。木漏れ日の下、土塀に沿って廟まで行き、鑑真和上にお参り。よくぞ海を渡って来てくださいました、それも5度も航海に失敗しながら・・・。昔芝居や映画で観た「天平の甍」を思い出す。唐招提寺の金堂はおおどかでオリエンタルな感じがする。金堂内の巨大な三尊像も見事なもの。
 唐招提寺を出たあと、法華寺に寄り、十一面観音(本尊は厨子の中で、身代わり像)を観て帰途に就く。
 写真上は薬師寺東塔の水煙。修復工事が終わると、この水煙は地上30数メートルの塔の最上部に立つ。写真下は唐招提寺の金堂と萩の花。


2013_0919_140051p9190027 9月19日(木)承前。永源寺は1361年の創建。当時の近江守護職佐々木氏の庇護のもと、寂室元光が開いた。湖東三山の南にあり、ここも紅葉の名所として知られる。永源寺の奥には木地師の里小椋があり、惟高親王を祀る社もあるが、台風の後の山道が不安なので、この日はパス。愛知川の河畔にある門前の茶屋が、先日の大雨で冠水したため、大掃除の最中だった。石段を上り、山門を過ぎて方丈、仏殿、開山2013_0919_141748p9190043_2堂などを巡る。方丈は茅葺の大きな建物で、前庭に真っ白の萩が咲きこぼれていた。モミジはまだ青々としている。開山堂近くに芭蕉の句碑あり。「こんにゃくの さしみもすこし 梅の花」。永源寺はこんにゃくが有名なのだ。参道の片側は岩崖になっていて、崖壁に十六羅漢さんが座っておられる。最初は気がつかなかったが、帰途、見上げてびっくり。建物は江戸時代のもので、古くはないが、禅寺らしい質実さがある。
愛知川沿いに走り、八日市インターから名神高速に乗って京都へ戻る。


●富岡多恵子・安藤礼二『折口信夫の青春』(ぷねうま舎)


●森まゆみ『「青踏」の冒険』(平凡社)


●上野誠『書淫日記』(ミネルヴァ書房)


が届く。深夜、ぱらぱらと目を通す。


2013_0919_111047p9190002 9月19日(木)承前。IさんとMIHO美術館に行く予定だったが、臨時休館のため、行き先を変更して東近江市の日登美美術館へ行く。ここは当地出身の事業家が1992年、自分のコレクションをもとに開館したもので、バーナード・リーチのコレクションとしては日本一という。同行したIさんは日本民藝協会の会員なので、リーチの作品には詳しいが、「これだけ多種多様なリーチを見るのは初めて」。この日の企画展は浜田庄司。別の部屋には滋賀出身の画家野口謙蔵(1903-1944)の作品が展示されていた。この人の作品は滋賀の近代美術館で見たことがあるが、まとめて2013_0919_132339p9190006_2


見るのは初めて。なかなかいい絵だ。あとで聞くところによると、東近江市には野口謙蔵記念館があるそうだ。日登美美術館はワイナリーに併設されていて、リーチの作品を見たあと、天然酵母のパンやワイン、オリーブオイルなど買い物を愉しんだ。ここは紅葉の名所の永源寺に近いので、これからは賑わうことだろう。せっかく八日市まで来たので招福楼で昼食をと電話をいれたら、「あいにく今日はご予約の方でいっぱいで」と断られた。永源寺はこんにゃくと豆腐が名物というので、近くにある郷土料理の店を紹介してもらいそこで「近江定食」なるものをいただく。こんにゃくの田楽が美味。揚げ出し豆腐や、ゆばも美味しかった。食事のあと、永源寺へ向かう。国道421号線は三重との県境の道がこの前の台風による土砂崩れで不通となっているため、普段より車が少ないとのこと。永源寺の話はまた次に。


 写真上は日登美美術館。下は永源寺の彼岸花。


Photo 9月19日(木)晴れ。昨日は例会で岡崎行。いつものように地下鉄に乗ろうとしたら、「御陵駅が浸水したため地下鉄は烏丸ー天神川間を往復運転中」という張り紙あり。烏丸からは代行バスが運行中とのことだが、地下鉄は止めて市営バスで行くことにする。京都周辺の国道や高速道路に通行止の箇所がいくつもあり。台風18号の被害は相当なもののようだ。浸水した地下鉄御陵駅近くに住むSさんの話では、あっという間に小川が氾濫して、道路が川になった、とのこと。近所の民家が床上浸水したそうで、今朝、ぬれた家財道具が家の前に出してあったという。近くを流れる疎水は氾濫しなかったそうだが、山からの流れが溢れたらしい。それだけ雨量がすごかったということだろう。「これまで経験したことのない雨量」と警報にあったが、自然が相手では完璧に防ぐことが難しいだろう。折れ合っていくしかない。
 信楽のMIHOミュージアムへ、開催中の「根来展」を見に行こうとしたら、周辺道路が通行止めのため24日まで臨時休館とのこと。何か所かで崖崩れがあったらしい。急遽予定を変更す。


 夜、空に大きな月が。14夜。今日19日は中秋の名月、しかも望月。
「こよひ君いかなる里の月を見て 都に誰を思ひ出づらむ」(馬内侍)、もちろんこの私を、ですよね。


 写真は嵯峨野広沢の池。かつて平安貴族が舟を浮かべて月を愛でたところ。向かいの山は遍照山(朝原山とも)。10世紀末、この山のふもとに花山天皇の勅願によって建てられたのが遍照寺。現在は池の南に移っているが、平安時代、広沢の池は月見の名所で、湖畔には月見堂や釣殿があったそうだ。12月になるとこの池の水は干されて、鯉や鮒、モロコなどが売り出される。嵯峨野における暮れの風物詩の一つ。


Photo 9月16日(日)雨のち曇り。早朝、緊急連絡のメールで目が覚める。大雨特別警報で「これまで経験したことのないような大雨になるところがあるので、最大級の警戒をしてください」とある。15分ほど遅れて、同じメールがまた届く。最初のは京都府、次のは京都市からのもの。これまで経験したことのないような大雨なんて想像もできない。我が家はマンションの10階にあるから、鴨川が氾濫しても大丈夫だろう、とベランダからまだ暗い外を眺める。15日は地域のおまつりがある予定だったが、台風のため16日に順延となっていた。それもこの暴風雨のため中止。模擬店の準備をしていたのだが、あの食材はどうなるものやら。ニュースで京都の嵐山が冠水、という。TVをつけると、泥水に洗われる渡月橋が映っている。橋の両側も一面の水。以前(1995年の5月)、大雨で増水した桂川(大堰川)から水が溢れ、河畔のホテルが冠水したことがあった。が、そのときも渡月橋が水を被ることはなかった。被害に遭った料理店の主人が茫然とした様子で、「自分はここで生まれてここで育ったが、こんなことは初めてですわ」。ベランダから嵐山の方を眺めると、上空にヘリコプターがいくつも音を立てて旋回しているのが見えた。桂川は少し下流でも氾濫した様子。桂川の上流にある日吉ダムはこの日の午前中に360%の貯水率に達したというが、この数字も不思議。
 TVのニュースでたびたび報道されたせいか、各地の友人知人より電話やメールあり。地上30メートルのところにいるから大丈夫よ、と答えると、「(野次馬で)出かけて川に流されたりしてないかと思って」だと。


 ●服部達『われらにとって美は存在するか』(講談社文芸文庫 2010年)を読了。定本となるものは1968年の出版で、本文が書かれたのは1954~56年。服部達は1956年、八ケ岳で死亡。今年の夏、服部達の遺体発見の現場と思われる小海線の鉄橋近くを歩いてきた。この本には「新世代の作家たち」と題する第三の新人たちの評があるが、個人としては「大岡昇平」「堀田善衛」「伊藤整」論が収められている。半世紀以上も前の文章だが、少しも古びてはいない。惜しまれた死だったと思う。


 写真は近所のお寺の境内で、たわわに実った栗。台風18号の暴風にも負けませんでした。


2013_0906_154811p9060003 9月15日(日)激しい雨。台風18号の影響によるもの。久しぶりに庄野潤三『前途』を読む。前回、島尾敏雄が海軍に入隊するとき、伊東静雄の詩集『春のいそぎ』を持っていった、と書いたが、いつそれを手に入れたのか、また伊東静雄は島尾敏雄の『幼年記』をいつ贈られたのか、『前途』に記されているのではないかと思って。『前途』は庄野潤三が自身の学生時代(戦時中)の日記をもとに書いたもので、昭和17年11月~18年9月までの日々が記されている。自分や島尾敏雄の名前は変えてあるが、恩師である詩人伊東静雄は実名で登場する。この作品によると、昭和18年(1943)8月30日、博多の庄野潤三の下宿で、島尾敏雄ができたばかりの自著『幼年記』に「伊東静雄先生 どうかお読み下さいますように 小高民夫」と書いた、とある。小高民夫=島尾敏雄は『幼年記』を遺書のつもりで書いたらしく、このとき他の古い友人たちの分にも署名して、(庄野に託して)帰っていった、とある。9月に島尾敏雄が海軍予備学生として入隊、その後庄野は大阪の自宅に戻っているから、そのとき伊東静雄に『幼年記』を渡したのではないか。
 一方、伊東静雄の詩集『春のいそぎ』は同年10月に完成した本が伊東静雄のもとに届いている。静雄の日記によると、11月1日に「島尾(旅順)に発信」とあるので、そのとき詩集を送ったのではないかと、推察しているのだが。


 『前途』には緊迫した戦時下の日常が淡々と記されている。すぐれた師に出会えることは、若者にとって何よりの贈り物ではないか、と思われる作品。


 写真は白い彼岸花。近所の家の庭先で。


2013_0908_072040p9080007 9月10日(火)曇り。新聞に「長崎に特攻艇の資料館開館」の記事あり。長崎県川棚町に旧日本軍の特攻艇「震洋」の模型や写真を集めた資料館が開館したという。記事によると、教官だった故人のNさんの「命を失った多くの若者の記憶を風化させたくない」という遺志を受け継いだ地元の住民たちが開設したとのこと。戦後68年、記憶の風化は進む一方だが、こんな動きもあるのか。震洋は1~2人乗りのベニヤ板製のモーターボートで、約250キロの爆薬を積み、米軍の艦船に突撃した。戦争末期に開発された海の特攻である。しかし多くは敵戦艦に当たる前に爆沈、2500人が犠牲となったという。こんな小さな記事に目がとまったのは、この川棚の魚雷艇訓練所が島尾敏雄の「魚雷艇学生」の舞台だからだ。昭和18年、海軍予備学生となった島尾敏雄は翌年2月、第一期の魚雷艇学生となり、横須賀ついで川棚で訓練を受けている。同5月には少尉となり、秋には震洋隊の指揮官となって奄美の加計呂麻島に赴いた。わずか半年足らずの訓練でいきなり特攻艇の指揮官となるのだから、心中穏やかならぬものがあっただろう。しかし島尾敏雄の「魚雷艇学生」には大村湾の穏やかな風景が描かれ、死と向き合う若者たちの姿に翳りは感じられない。「まわりの風景は全くの農漁村で、顔を挙げて遠いあたりを眺めると、いつもなだらかな山々の稜線が目にはいってきた」。それは「なぜかそんなのどかな時間にはもう二度と立ち会えまいという、思いつめた心情とかさなっていたわけではあるのだが。
 魚雷艇訓練所があった川棚には孔雀園やキャンプ場のある半島があって、夏にはよく日帰りで飯盒炊飯などを愉しんだものだ。68年たったいまも、川棚の海や山の風景はそんなに変ってはいないのではないか。島尾敏雄は海軍に入るとき、岩波文庫の「古事記」と伊東静雄の詩集「春のいそぎ」、林富士馬の詩集などと共に、ボードレールのデッサン集とシナ童話集を持参したという。そんな島尾に出発は遂に訪れなかったわけだが、多くの特攻兵が海の泡となった。その記憶を風化させないためにーーこれはすべての犠牲者にいえることだろう。


2013_0908_124849p9080054_2 9月8日(日)承前。湯浅の町を散策。湯浅は醤油発祥の地だが、蜜柑の町でもあって、JR湯浅駅前には紀伊国屋文左衛門の像あり。醤油醸造所がある一画は江戸時代の面影を残す町並みが続く。日曜日というのに人影なし。昼食をと思うがこれという店も見当たらず、醤油店で金山寺味噌を買ったきり。町の一角に大きな石柱あり。江戸時代の熊野古道の道標なり。かつてここは熊野古道の宿場だった。
湯浅といえばまず思い浮かぶのは明恵上人だろう。明恵の母は湯浅宗重の娘で、明恵はこの近くの有田で生まれた。出家したあと、明恵が初めて庵を構えたのが湯浅の白上の峰。そこから湯浅湾に浮かぶ鷹島が見えるのだが、明恵はこの鷹島の浜で拾った小石を常に傍に置いて愛でたといい、「吾れ去りて後に偲ばん人なくば 飛びて帰りね鷹島の石」という歌をのこしている。湯浅の町家の表には古い歌や句を書いた行燈が飾られていて、この歌や、「山はみな 蜜柑の色の 黄になりて」という芭蕉の句もあった。


 
 夕方京都に戻る。


TVをつけると2020年のオリンピック開催地が東京に決まったというニュース。経済効果をしか言わないコメンテーターたちになんだかねえの気分。東北の復興とフクシマの安全を忘れないでほしいなあ。


2013_0908_115258p9080026 9月8日(日)承前。京都へ戻る途中、広川と湯浅に寄り道をする。阪和道の広川ICを降りて湯浅へ向かう途中、廣八幡神社(国重要文化財)の看板が目にとまり、寄ってみることにする。南紀男山廣八幡神社とあり、楼門は鎌倉時代という。本殿に祀られているのは誉田別命、足仲津彦命、気長足姫命の三神。本殿は室町時代の建立らしい。本殿、摂社ともに立派なもので、祭も盛大におこなわれているもよう。境内に「稲むらの火」の資料が貼りだしてあって、ここが有名な濱口梧陵ゆかりの地と知2013_0908_115436p9080028_3る。幕末、村を大津波が襲ったとき、稲わらを燃やして村人を高台に導き、救ったという話。梧陵が村人を導いて避難させたのがこの神社の境内だったそうだ。東北大震災のあと、梧陵の功績が大きく見直され、教訓として甦ったのだろう。


この一帯は男山焼というやきものの産地らしい。どんなものか実物をみることはできなかったが。京都の石清水八幡宮も男山にある。八幡さんは男山という地に縁が深いらしい。


 道草もまた良し、の日。


2013_0908_100227p9080023 9月8日(日)承前。ホテルを出て、南方熊楠記念館へ行く。田辺の自宅跡にも立派な熊楠館があるが、白浜の記念館は小さいながらも豊富な資料が展示してあって私はこちらの方に親しみがある。急な坂道を上ったところに熊楠を詠んだ昭和天皇の歌碑がある。「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」。1929年、熊楠は田辺湾神島に天皇を迎えて粘菌などに関する進講を行った。在野の研究者による講義が印象深かったのだろう、のちにこの地を再訪した天皇が詠んだのがこの歌。資料館には御進講の際、熊楠が標本を収めて進献したというキャラメル箱(と同じもの)や当日熊楠が着用したフロックコートなどが展示してある。子どものころ知人の家で読み、帰宅後記憶をもとに書写したという「和漢三才図会」や「本草綱目」などもあり、博物学者の萌芽は10歳にして既にありと感動させられる。写真は柳田國男宛ての葉書。細かい字が表も裏もびっしり。書いた日時を何時何分まで記すのが熊楠らしい。熊楠は大いなるヴィジョンを見た人、博物学者の頭の中にはどれだけの宇宙が収まっていたものやら。 


2013_0908_073043p9080011_2 9月8日(日)曇り。土曜日の午後から白浜行。京都から白浜まで約200キロ。通る高速道路は、新名神ー第二京阪ー近畿道ー阪和道ー湯浅御坊道ー阪和道と目まぐるしい。たびたび料金所があって、ETCがなければ(あってもそうだが)うるさいことだろう。夏休みが終わったので、ホテルは平常にもどっていたが、まだ親子連れの客多し。一時期は寂れていたが、最近少し持ち直したのか町が小奇麗になっているという感じ。早朝、浜へ出て見ると、渚に人影あり。気の早い若者たちがもう水遊びをしてい2013_0908_071442p9080004_3た。浜辺近くに「有間皇子之碑」あり。有間皇子(640-658)は孝徳天皇の子。父帝孝徳は646年、都を難波に移したが、それに反対する皇太子の中大兄皇子が皇極や間人皇后、大海人皇子らを連れて大和(飛鳥)に戻ってしまう。皇后にまで去られ、独り難波に残った天皇の心中はいかばかり、やがて父帝が難波で崩御すると、政争に巻き込まれるのを怖れた有間皇子は心病と称して療養のため牟婁に行く。しかし謀反の疑いありとされて藤白坂で処刑されてしまう。のちの大津皇子を思わせる何とも哀れな話である。謀略、殺戮、政争の歴史のなんと虚しいことか。いま和歌山の海南市からみなべ町にかけて熊野古道を行くと、有間皇子の足跡がいくつものこされている。


 写真上は早朝の白浜、下は浜辺近くにある有間皇子の碑。


 


Dsc01049 9月6日(金)晴れ。ここ数日、FMラジオでホロヴィッツ(1903-1989)を聴いている。今年が生誕110年にあたるのでその特集。ホロヴィッツといえば、1983年の初来日コンサートは評判が悪かった。チケットが数万もしたことから、演奏が終わったあと、「ブラボー」ではなく「ベラボー」の声もあった、と誰かが書いていたのを覚えている。3年後に再来日し、この時の演奏は素晴らしいもので、大芸術家の面目は保たれたようだが。今年はワーグナーとヴェルディの生誕200年というので、各地でこの二人の作品が上演されている。琵琶湖ホールでも今月21、22日に「ワルキューレ」をやる。ワーグナーもいいが、ヴェルディもいい。「アイーダ」は映画にもよく使われていて、古くは「鞄を持った女」(1961年 クラウディア・カルディナーレ演じるヒロインの名前がアイーダだった)でドラマティックに登場した。しかしヴェルディはやはり「椿姫」。耳に馴染んでいるせいか。



 9月1日(日)付毎日新聞の「今週の本棚」は青来有一さんの選だった。青来さんによる「この3冊」は、野呂邦暢の作品で、『諫早菖蒲日記』(梓書院)、『夕暮れの緑の光』(みすず書房)、『野呂邦暢・長谷川修往復書簡集』。代表作『諫早菖蒲日記』とエッセイ集『夕暮れの緑の光』は近年出たもので入手できるが、『野呂邦暢・長谷川修往復書簡集』(葦書房 1990年)はどうだろうか。芥川賞を受賞する前の野呂と下関に住む作家の長谷川修の間で交わされた手紙をまとめたものだが、「小説の感想や解説、新作のアイデア、方法論、創作の悩みなどが記されている。希望と不安にゆれながらも、ふたりの作家の文学への情熱に圧倒される」と青来さんが書いているように、その中身は徹底して文学に関することのみ。いかに作家とはいえ、これほど徹底して文学を語り合うということがあるのかと驚いたものだ。野呂の没後10年・長谷川修の没後11年の年に出版されたこの本には当時少なからぬ反響があったが、なかでも川村二郎さんが新聞の文芸時評で大きく取り上げてくれたのは嬉しいことだった。「文学に対して真剣論議、目を見張る新表現意欲」というタイトルのその評は実に好意的なもので、「二十年以上も前の文学状況を、流行の面から見れば、古めかしい色合いが浮かんでくるのは否定できまい。だが、ボルヘスに早くから注目したり、作品に数学の”不完全性定理”を導入しようと試みたりした二人の作家の努力は、現在でも古びるどころか、むしろその先鋭性においてさらに積極的に評価される意味がある」として二人の作家の苦闘ぶりを称えていた。文学を志す人たちに読んでほしい本だが、はたして入手できるものやら。できれば改訂版の実現を、と願っているのだが。


Photo 9月3日(火)曇り時々雨。谷川健一の『独学のすすめ』には、南方熊楠、柳田國男、吉田東伍、中村十作、笹森儀助、そして折口信夫の6人が登場するが、巻末に収められた6人の年表を眺めると、熊楠、信夫、國男の3人はほぼ10年おきにこの世を去っていることがわかる。今日、9月3日は折口信夫(1887-1953)の命日。去年の春、能登を訪ねたとき、羽咋の気多へ行き、折口信夫父子の墓に詣でたことを思い出す。
昨日、古いスクラップブックを開いたら、高橋たか子が新聞に書いたエッセイが出てきた。「輪廻転生をめぐって」というタイトルで、遠藤周作は晩年の作品「深い河」で輪廻転生というテーマを手さぐりしていた、とある。自分はキリスト教の正当な線上にいるので、そこからはみ出る輪廻転生をまったく信じていないが、あの世のすこし手前にある領域には人類すべての記憶が堆積しているのではないか、と彼女は書く。「人はあの世から生まれてくるときに、それらの記憶のうちの何かを拾ってくる」のではないか?と。そして高橋たか子は次のようなジュリアン・グリーンの言葉を引用している。「一人の子どもが地上に生まれるとき、それはたった一人の存在ではなく、数千人もの存在がその子どものうちに再生する」。無意識の世界には人類共通の体験や記憶が堆積していて、そこを通る新しい生命に伝えられる・・・と言いたいのだろう。彼女は「自分が小説を書こうとすると、実際には体験しなかったことばかりが何処からかどんどんでてくる。それは想像力が盛んだということではなくて、自分が地上に生まれたとき、かつて生きたさまざまな人の体験が埋まっている深層との呼吸関係を与えられてきたせいかもしれない」と書いた。人類の記憶の堆積する集合的無意識の世界こそ、あの世とこの世の境界にある世界ではないかしらん。若いころの私は同じようなことを考えている高橋たか子に親しみを覚えていたに違いない。



 写真は京都の中京区、文化博物館近くにある平楽寺書店。創業は慶長年間(1596-1615)というから400年になる。仏教書専門の出版社で、建物は昭和2年(1927)建築の登録有形文化財。


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