1月30日(木)雨。京都の町を歩いていると、街のそこかしこで史蹟を示す標識や案内板に会う。石碑や駒札が多いがこの写真のように銘板も少なくない。これは四条通りの南側、大丸デパートの真向かいビルにある「東五条第跡」を示すものである。東五条第は藤原冬嗣(775-826)の邸宅で、冬嗣の娘で仁明天皇の女御となった順子の邸宅となり、彼女はここで文徳天皇(827-858)を産んでいる。この順子の邸の西対にいたのが藤原髙子(842-910)で、彼女のもとに通ってきていたのが在原業平(825-880)だと『伊勢物語』第4段にある。髙子はいずれ天皇の后にと予定された女性だったから、いかに業平でもかなわぬ恋であった。これが原因で業平は「京にありわびてあづまに行きける」(第7段)ということになった。いわゆる業平の「あづまくだり」。光源氏ー朧月夜ー源氏の須磨下り、のモデルですね。さて、夜な夜な業平が通ったという東五条第から業平の邸までどのくらいの距離があったか、実際に歩いてみました。御池通り間之町通東南角に「在原業平邸址」の碑が立っているところまで、直線で900mくらいでしょうか。いまはもうビルが建てこんで、当然のことながら昔をしのぶよすがとなるものは皆無です。
『伊勢物語』第4段には、「むかし、東の五条に、大后宮(順子)おはしましける、西の対にすむ人(髙子)ありけり」。そこへ通う男性(業平)がいたが、正月10日ほどに女性はいなくなった。居場所はわかっているが、普通の人間が通えるようなところではないので、辛いがどうしようもなかった。一年たった正月の梅の花盛りのころに、女が住んでいた西の対に行き、女をしのんだ。
「立ちて見、ゐて見、みれど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に、月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる。
月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」
歌だけみると何のことやら、という感じですが、詞書とあわせて読むと、なんとも切々として印象深いものがあります。ちなみに髙子は業平の前から消えたあと、父親や兄弟の願い通りに無事清和天皇の女御となり陽明天皇を産みました。
四条通りのこのビルの前を通るたびに、月やあらぬ、とつぶやくのですが、銘板はビルの隙間にあって影薄く、気が付く人は滅多にいないようです。
写真上は「東五条第跡」銘板。下は五条第跡にあるビル。ビルの隙間に銘板あり。