2014年01月

2014_0128_114125p1280004 1月30日(木)雨。京都の町を歩いていると、街のそこかしこで史蹟を示す標識や案内板に会う。石碑や駒札が多いがこの写真のように銘板も少なくない。これは四条通りの南側、大丸デパートの真向かいビルにある「東五条第跡」を示すものである。東五条第は藤原冬嗣(775-826)の邸宅で、冬嗣の娘で仁明天皇の女御となった順子の邸宅となり、彼女はここで文徳天皇(827-858)を産んでいる。この順子の邸の西対にいたのが藤原髙子(842-910)で、彼女のもとに通ってきていたのが在原業平(825-880)だと『伊勢物2014_0128_114201p1280006語』第4段にある。髙子はいずれ天皇の后にと予定された女性だったから、いかに業平でもかなわぬ恋であった。これが原因で業平は「京にありわびてあづまに行きける」(第7段)ということになった。いわゆる業平の「あづまくだり」。光源氏ー朧月夜ー源氏の須磨下り、のモデルですね。さて、夜な夜な業平が通ったという東五条第から業平の邸までどのくらいの距離があったか、実際に歩いてみました。御池通り間之町通東南角に「在原業平邸址」の碑が立っているところまで、直線で900mくらいでしょうか。いまはもうビルが建てこんで、当然のことながら昔をしのぶよすがとなるものは皆無です。


 『伊勢物語』第4段には、「むかし、東の五条に、大后宮(順子)おはしましける、西の対にすむ人(髙子)ありけり」。そこへ通う男性(業平)がいたが、正月10日ほどに女性はいなくなった。居場所はわかっているが、普通の人間が通えるようなところではないので、辛いがどうしようもなかった。一年たった正月の梅の花盛りのころに、女が住んでいた西の対に行き、女をしのんだ。


「立ちて見、ゐて見、みれど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に、月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる。


 月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」


歌だけみると何のことやら、という感じですが、詞書とあわせて読むと、なんとも切々として印象深いものがあります。ちなみに髙子は業平の前から消えたあと、父親や兄弟の願い通りに無事清和天皇の女御となり陽明天皇を産みました。


四条通りのこのビルの前を通るたびに、月やあらぬ、とつぶやくのですが、銘板はビルの隙間にあって影薄く、気が付く人は滅多にいないようです。


写真上は「東五条第跡」銘板。下は五条第跡にあるビル。ビルの隙間に銘板あり。


2014_0116_122759p1160005 1月28日(火)承前。もうずいぶん前のことだが、ある結婚式でお祝いのスピーチをする人が、吉野弘の「祝婚歌」を披露したことがある。なかなかいい詩だなと思っていたら、その後出席した別の披露宴でもこの詩が読まれたので、いまや定番なのかと感心したものだ。しかしどんなに手垢がつこうとも、この詩はいい。


「二人が睦まじくあるためには
 愚かでいるほうがいい
 立派すぎないほうがいい」とか、


 「正しいことを言うときは
 少しひかえめにするほうがいい
 正しいことを言うときは
 相手を傷つけやすいものだと
 気付いているほうがいい」


とか。立派であろうとか、正しくあろうとか考えず、ゆったりゆたかに日を浴びているほうがいい」――と詩人は云うのだが、そのためには世の中が平和でなければなりませんね。


 先日新聞に、「キリシタン禁圧大量の史料」と言う記事あり。バチカン図書館で江戸時代のキリシタン関係の資料が大量に見つかったというもの。これは1930~50年代に大分で布教していたイタリア人神父が収集した臼杵藩などの資料で、戦時中、空襲を避けるため本国に送っていたものらしい。これからバチカン、イタリアの研究者に日本からも歴史・文学・語学などの研究者が参加して調査が始まるそうだ。資料は2万点近くにのぼるというから、調査は長期にわたるのではないか。資料を収集したマレガ神父は自分でも「豊後切支丹史料」という研究書をまとめていて、それによると、寛文8年(1668)ごろの臼杵藩の人口は約5万8000人で、そのうちの1万5000人がキリシタンだったという。調査が完了し次第、資料をインターネットで公開するというから、何年先になるかわからないが愉しみにしておこう。いまのところ調査期間は2019年までの6年間が予定されているというが、長引くことは間違いないだろう。


 写真は祇園の骨董屋のウインドウに飾ってあった馬の置物。今年の干支です。


Photo 1月28日(火)晴れ。この数日、人並みに風邪をひいて籠っていた。友人たちからのメールにも、ノロウイルスで往生しましたとか、インフルエンザで寝込んでいました、とかいうのがあって、この時期は誰もがなかなか大変らしい。人混みを避けて、大人しくしているのがいちばんなのだが、そうもいかない。先日はマスクをして大阪行。用事を済ませるとどこへも寄らずに真直ぐ帰宅。電車やビルの中の暖房が効き過ぎて、体温調整に苦労する。コートを脱いだり着たり、マフラーを巻いたり外したり、そのたびにマフラーや手袋をどこかに忘れそうになる。ぼんやりしているので、外出のたびに何かを失くす。
 籠っている間、友人のYさんから電話あり、「朱雀さんの予想は外れましたね」。このブログで、ラグビーの大学選手権で早稲田が勝つかも、と書いたことと、岩城けい「さようなら、オレンジ」が芥川賞を受賞するだろうと書いたことを言っているのだ。残念ながら予想ははずれましたね。ラグビーは来月16日から日本選手権が始まり、大学選手権のベスト4、帝京・早稲田・筑波・慶応が社会人チームと対決する。トップリーグの4チームはパナソニック・サントリー・東芝・神戸製鋼。あと2チームが参加するが、これはまだ決まっていない。ヤマハ発動機かNECか、トヨタか近鉄か。名フルバック五郎丸がいるヤマハに出て来てほしいなあと思うのだが、ここのところ外れっ放しの予想屋としては何も言わない方がいいだろうな。


 ●黒岩比佐子『パンとペン』(講談社文庫)を読む。教えられること多し。これは著者の遺作という。つくづく惜しい人を失くしたと思う。


 写真は大阪中之島に憩うユリカモメ。別名都鳥。


 名にし負はばいざこととはむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと 在原業平


 


2014_0116_130726p1160017 1月23日(水)曇り。おお寒、こ寒。午前中例会で岡崎行。朝、出かける前にFMラジオを聴いていると、ハイドンの弦楽四重奏曲が流れてきた。ハ長調作品76「皇帝」。第2楽章は現在のドイツ国歌になっていて、オリンピックの時によく聴く。時間がないので、あとは車の中で聴くことにする。20日、クラウディオ・アバドが亡くなった。享年80歳。最後はどこを指揮していたのか、私がいちばんよく聴いたのは彼がロンドンフィルにいたころのだろう。手元にそのころの録音によるCDがある。メンデルスゾーンの交響曲4番「イタリア」。輝くような光に満ちた・・・出だしがいい。藝術家が短命だったのは昔のこと、現代は音楽家も画家も作家もみなさん長生きですね。


 ●草森神一『記憶のちぎれ雲 我が半自伝』(本の雑誌社 2011年)


 ●赤坂憲雄『北のはやり歌』(筑摩書房 2013年)


を読む。草森神一の半自伝は、出会った人々とのかかわりあいとそのころの自分をあわせて書いたもの。古山高麗雄や田中小実昌、中原淳一などとの交流も興味深いが、本著の半分を占める伊丹一三(十三)との思い出が面白い。ちょうど大江健三郎の『晩年様式集』を読んだばかりだったので、両方に登場する伊丹十三の描かれ方の違いを面白く読んだ。


 写真は祇園新橋通にあるお地蔵さんの祠。この通りは祇園発祥の地で、寛文10年(1670)、祇園社領の中の弁財天町などが開かれて今日に至っているという。


Dsc01073 1月22日(火)曇り。寒い。油断して風邪をひいた。熱はないが咽喉が痛い。こんなときは暖かくしてじっとしているのがいちばんだというので一日籠居。だが、家にいると電話がしきり。


●小沢信男『捨身なひと』(晶文社 2013年)を読む。これは著者が出会った人たちとの思い出を書いたものだが、書かれる人たちが花田清輝、中野重治、長谷川四郎、とあれば読まないわけにはいかない。しかも最後の一人は辻征夫。(あと一人、菅原克己という詩人も登場するが、この人については恥ずかしながら知識なし)。辻征夫には『俳諧辻詩集』という魅力的な詩集があって、わが愛読書の一つ。詩人は著者たちと句会をもっていたそうで、そこから生まれた詩集らしい。花田清輝や長谷川四郎との思い出は、あちこちで語ったり書いたりしたものがまとめてあるので、重なる部分が少なくない。だが、著者の記憶にある作家や詩人の仕事ぶりや人となりは時代を反映してそれは鮮烈。あとから来た世代としては「羨ましい」限り。福井県丸岡町にある中野重治記念文庫へは時々立ち寄るが、本著の中の「死者とのつきあい」を読んで、丸岡町と遺族の間で小さなトラブルがあったことを知った。記念文庫は町(現在は坂井市)立図書館に付属するような形で存在しており、図書館の許可を得て見学できる。作家の書斎がそっくり復元されていて、中野重治を知る人には貴重な空間にちがいない。また、函館へ行くたびに文学館を訪ねることにしているが、長谷川四郎の展示をもっと充実してほしいなあと思うのは私だけだろうか。


2014_0119_092102p1190097 1月19日(日)雪。昨夜降り出した雨が、夜の間に雪になったようで、朝、窓の外は一面の銀世界。ビンゴ!車で来なくて正解だった。琵琶湖の湖面を鴨が群れをなして飛んでいく。入江の岸近くに着水して黒いかたまりになって浮ぶ。この辺りにユリカモメの姿は見えず。長浜は鴨料理で有名だが、ここで出される天然鴨は新潟で獲れたもの。琵琶湖は禁猟区なのだ。朝食後、駅まで送ってもらい、電車で京都へ戻る。大津が近づいても雪があるので、この分では京都市内も積雪したのかなと言っていたら、その通りで、鴨川の河原に雪があり、見上げると比叡も愛宕山も真っ白だった。


 いざさらば雪見にころぶところまで 芭蕉


 誘われたとしても、もうそんな元気はありませんね。


●笹沢信『藤沢周平伝』(白水社)が届いた。書評に、「前作の井上ひさしの評伝『ひさし伝』と同じく、活字資料だけを用いて書いたもの」とあり、「見聞をしたり顔に語ったりせず、資料をして語らしめる姿勢に謙虚な人柄がにじむ」とあったので、注文したもの。著者は作家と同じ山形出身で、「藤沢さんの享年69を越え、私も死の射程内に入りました。山形の視点で書き残したかった」という言葉に少し心動かされる。


 写真は雪の長浜城。天正3年(1576)ごろ羽柴秀吉によって築かれた。1615年に廃城となり、解体されて彦根城の築城に用いられた。現在の城は30年ほど前に復元されたもので、歴史博物館となっている。 


Photo 1月18日(土)曇り。湖北長浜行。雪の予報だったので車はやめてJRで行く。姫路近くで事故があったらしく、列車のダイヤが乱れている。急ぐ旅でもなし、とホームに着いた電車を乗り継いで長浜へ。骨休みが目的のつれあいを定宿に残して、街を散策す。駅近くにある「盆梅展」会場の慶雲館の前に、白梅が花をつけていた。思わず門をくぐる。明治時代、天皇行幸の際、この町の豪商が建てた邸だそうで、庭に巨大な芭蕉の句碑があった。


蓬莱に 聞かばや伊勢の 初便り」はせを


2014_0118_133912p1180022_2 かたわらの案内板に「元禄7年(1694)正月に詠まれた句、この年の10月に芭蕉没」とある。日本最大の句碑だとも。これまで何度も見かけているのに、今回初めてこれが芭蕉の句碑だと知った。初春にふさわしい句ではないか。芭蕉の句碑を見たが、梅の花といえばやはり蕪村だろう。蕪村には梅を詠んだ句がたくさんある。辞世の句もしかり。


白梅に 明くる夜ばかりと なりにけり」蕪村


 冬の梅 きのふやちりぬ 石の上


という句もある。館の近くにある長浜市立図書館に寄って一休み。あれこれ本を手にしていたら時間が過ぎて、さざなみ古書店に寄る時間がなくなってしまった。


 写真上は慶雲館の白梅。下は庭にある芭蕉の句碑。


Photo_2 1月17日(金)晴れ。今日、1月17日は阪神淡路大震災が起きた日。19年前のその日のことはいまも鮮やかに脳裡にある。その年の3月に私は京都へ移り住んだのだが、飛行機が伊丹空港に近づくにつれ、眼下に青い点々が目立つようになり、それが家々を覆うビニールシートだと気付くのに時間はかからなかった。阪神地区の被害は想像を絶するものだったが、大阪や京都には平穏な日々があり、その落差に驚いたものだ。阿鼻叫喚のすぐ隣に平和な日常があるという驚き。阪神淡路大震災では6434人もの人が亡くなった。そのあとも孤独のうちに亡くなる被災者が絶えない。生きている間に二度とこのような災害に遭うことはないと思っていたが、東北の大震災はさらにひどいものだった。二度あることは三度ある。三度目を見ないですむといいのだが。


 このブログは2006年の1月17日に始めた。当時、怪我をして外出が叶わなかったので、自分の無聊を慰めるために始めたものだ。とりとめもない自分のための備忘録だが、8年が過ぎた。『インドで考えたこと』ではないが、これからも「京都で見たこと、考えたこと」をぽつり、ぽつりと書いていきたい。


●大江健三郎『晩年様式集』(講談社 2013年)を読む。これまでモノローグだった劇がこの作品では複数の出演者による語りが重なり合い響きあっているのが面白い。「3・11」に打ちのめされた作者に追い打ちをかけるように複数の女性たちが異議申し立てをする。これまで作家によって一方的に書かれてきた妻や娘、姉たちが、作家に反論し、それぞれが自分の言葉で語り始めるのだ。さらにこれもかつて作品の重要人物として書かれてきたギ―兄さんの遺児がやってきて、作家や作家にかかわる女性たちへのインタビューを記録し始める。その仕事に協力するなかで、それぞれの言葉が記録され、小説は五重奏か六重奏的な様子を帯びてくる。大江健三郎は自分を後期高齢者と記し、自分亡きあとの障害を持つ子どもの行末に思いを巡らせる。その息子は福島の原発事故による放射線物質に恐怖を感じている。『新しい人よ目ざめよ』は核時代を生き延びる人々を励ますものだったが、この『晩年様式集』も同じで、絶望的な状況の中にあっても希望を持つこと・・・と記される。
 これまで書かれた作品や親しかった人々についての記述あり、回想録的テイストもあるが、まだまだそんな境地ではあるまい。ガルガンチュアではないが、「幸せを待ち侘びる哀れ世の人々よ、勇を鼓して吾の語るを聞き給え!」とあってほしいものだ。


Photo_15 1月14日(火)曇り。朝9時にホテルを出て那覇へ向かう。空港へ行く前に首里城へ寄る。前回発掘調査中だった場所に新しく石垣が積まれ、建物が建っている。外側の城壁も拡張しているように見えるが、どうかしら。書院もあったかしら、などと首を傾げながら見学。外へ出て、アガギの大木が繁る公園へ廻る。クワズイモやオオタニワタリなどの茂みの奥に、旧日本軍第32司令部跡の壕が見える。1945年5月、ここから司令部が脱出したためにその後の悲劇が起こった(と思う)。このとき降伏していたら、ひめゆりの悲劇もなかったし、集団自決もなかった(と思う)。
Photo_16弁財天堂がある池に近づいたら、足元に見慣れぬ水鳥が集まってきた。赤い鼻、白い体に黒い斑紋のアヒルに似た鳥。ハアハア鼻息荒く寄ってくる。通りかかった地元の人(らしい)が、「ははは、これはバリケンですねー」という。なんとも面妖な鳥だが、餌をねだっているようなので、バッグから昨日買ったサータアンタギーを出して与えた。


 国際通りの牧志公設市場で生ものを買う。今回は紅型、やきものの類はパス。きりがないので。沖縄は観光立国、京都も同じだが、京都にはまだ産業があるし、大学もある。沖縄が自立するためには観光だけではなく、先進医療や老人医療の先進地になって、長生き


Photo_17したい富裕層を呼ぶといいと思う。(あの『吉里吉里国』のように) 


 ガソリンを満タンにしてレンタカー店に車を返却し、空港へ。ANAラウンジで最後のコーヒーを飲み(私はビール)、三日ぶりに新聞を手にする。京都の気温は7度とのこと。年々、暑さ寒さが堪えるようになった。ああ、冬は沖縄、夏は北海道という暮しを早く実現したいものだなあ。


 よく遊んだ。このブログには遊んだことしか書かないのですよ。


写真上は首里城。中は首里城公園の中にある旧日本軍司令部跡。壕の入り口が小さく見える。下はアダン。田中一村の絵を思い出しますね。ネスパ?


2014_0113_101701p1130190 1月13日(月)雨のち曇り。お天気が悪いので博物館や資料館を廻ることにする。まずは観光地の琉球村へ。以前来たときは寂れた印象があったが、今回は団体客が多く、少し活気が感じられた。団体客の多くが台湾、韓国からのツーリストのようで、二つの言葉が飛び交っている。ここには古い沖縄の建物(民家)が移築されていて、シーサーが乗った赤瓦の家を観るだけでも楽しい。中の一軒に94歳になるおばあさん(オバア)がいて、来館者に記念撮影のサービスをしている。頭に泡盛の一升瓶を乗せて、三線を弾く。また別の家では


Photo沖縄のお茶がふるまわれ、やはり三線を弾きながら島唄を聴かせてくれる。どの家にも三線の奏者がいて、リクエストをすれば唄ってくれるのが嬉しい。甘えて「十九の春」や「てぃんさぐの花」をリクエストした。
 那覇の県立博物館へ行く。以前は首里城下にあったが、2007年、現在地に新築オープンした。開館から7年にもなるのに、訪ねるのは今回が初めて。博物館は美術館との複合施設だが、うまく棲み分けているのだろう。今回は博物館だけ見学す。映像とモノを駆使して、沖縄の成り立ちから現代までの歴史が分りや


2014_0113_162004p1130216すく展示されている。17000年前~8000年前のものといわれる港川人の骨と復元された人型が目をひく。復元された港川人は153㎝と小さめ。自然史、考古、歴史、美術工芸、生活など、全体の展示が福島県立博物館によく似ているなあと思う。館内のカフェで休憩したあと、ミュージアムショップに寄って沖縄の自然に関する本や一筆箋などを購入。


 雨が上がったので南部まで足を延ばすことにする。以前も寄った糸満の道の駅でモズクを購入し、国道331号をひたすら南下、大きな亀甲墓を横目に見ながら平和の礎に到着。崖の上から青い海に向かってしばし黙祷。再び国道331号に戻り、海沿いに半島を廻る。途中、垣花樋川や斎場御獄に立ち寄り、南風原北ICから高速に乗り読谷のホテルへ戻る。この日の夕食もホテルのレストランで沖縄料理をいただく。ロビーで高校生の群れに会ったので、どこからかと尋ねたら、「東京の小金井からです」とのこと。みんな行儀よく、なかなか礼儀正しい高校生たちだった。


 写真上は琉球村のオバアさん。中は移築された古民家。下は糸満市の平和の礎。沖縄戦で犠牲となった国内外の20万もの人名が刻まれている。


Photo_12 1月12日。承前。古宇利島からうるま市の平安座島へ行く。ここには四つの島を結ぶ長い海中道路があるのだ。うるま市も平成の合併で生まれた新しい市で、以前は具志川、与那城、勝連などといった。平安座島は石油基地で石油タンク以外見るものはないが、いちばん奥にある伊計島には縄文遺跡がある。2500年ー2100年前とされる仲原遺跡で、沖縄最大の竪穴式住居跡が出た。現在石積みや竪穴式住居が復元されていて、私たちが訪れたときはアメリカ人らしい家族がその穴の中に入って縄文人の体験をしているところだっ


2014_0112_162946p1120147_2た。駐車中の車がYナンバーなので、基地に勤める米国人なのだろう。父親と目があったので、笑顔で挨拶する。「暗くて狭い。料理するのは大変だ」と笑って穴から這い出してきた。
 沖縄の歴史は本土のそれとはずいぶん異なる。旧石器のあと本土(日本)では、縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良、平安、鎌倉時代と続くが、沖縄では旧石器の後は貝塚時代が12世紀ごろグスク時代が始まるまで続くのだ。いわば縄文からいきなり中世になるという感じ。沖縄に残るグスク(城)はこの時代のものらしい。それらのいくつかが世界遺産になっPhoto_14ているのだが、この日の城巡りの最後は読谷村の座喜味城。読谷村は元日に日本一人口の多い村になったそうで、それを記念して夜のライトアップが始まったばかり。暗くなるのを待って城を訪ねるとカメラを持った先客が数人。半時間ほどいたが、その間に来た人は10数人もいただろうか。午後7時ごろ、さとうきび畑の中の道をホテルへ向かう。ホテルが近づくと、壁いっぱいに「2014年」の文字の電飾が。ホテルのレストランで沖縄料理をいただいたあと、ロビーで琉球舞踊を観る。琉装の女性が舞う四竹や谷茶前節など。ここでも最後はみんなでカチャーシーとなり、手をひらひら。


 写真上はライトアップされた座喜味城。中は伊計島の仲原遺跡。下は名護市役所。柱にたくさんのシーサーが。


Photo_7 1月12日(日)晴れ。朝、レンタカーで那覇を出発、名護へ向かう。寒緋桜が咲いていると聞いたので、今年最初の花見をするつもり。那覇から名護までは約70キロ、高速だと80分くらいで着く。道路は空いていて走りやすい。休憩なしで終点の許田ICまで行き、国道58号線へ。名護城の並木の桜はまだポツポツという感じ、高台から名護の町を見渡していると、市役所の広報が聴こえてきた。市内中にアナウンスしているらしい。「今日の午後3時から成人式があります。成人のみなさまはぜひご参加ください」に始まって、いろいろと注Photo_10


意が続く。「会場にはお酒の持ち込みは禁止します」「あおり行為は禁止します」等々、延々と禁止事項が続くのには笑ってしまった。名護市役所の前に会場があるのだが、気の早い成人たちがもう派手なオープンカーで乗り付けていた。金色の袴に真っ赤な羽織、リーゼントの頭にサングラス、なるほど、これが沖縄の成人式スタイルなのか、仮装大会のような通過儀礼なり。今帰仁城のほうが桜が咲いていると聞いたので、名護城から今帰仁城に回る。城を降りたところに山羊料理店あり。しばらく走っていると、「あひる肉あり」「ダチョウ肉あり」「アグー豚肉あり」などの看板が次々に現れる。今帰仁城の手前に運天という港あり。


Photo_11平安末期、保元の乱で敗れた源為朝(1139-1170)が伊豆大島から逃れる途中嵐に遭い、ここに漂着したという伝説がある。今帰仁城は14世紀、琉球王国の成立以前にあった北山王の城で、現在沖縄の世界遺産の一つ。以前は草深い山城だったが、世界遺産になったせいか、見違えるほどきれいに整備されていた。石灰岩を積み上げた石垣のカーブが美しい。本丸跡に立ってエメラルド色の海を見やる。城へ昇る石段の両側に寒緋桜が濃いピンク色の花をつけていた。


城のあと、昨日の男性に薦められた古宇利島へ向かう。今帰仁~屋我地島~古宇利島へと二つの橋を渡る。橋の両側に広がる海の色に目を奪われる。陸に近いサンゴ礁はペパーミント、リーフの沖は青。貧しくとも自給自足できるなら、この自然があるだけでいい、と思ってしまう。名護ではこの日、市長選がスタートして候補者を乗せた宣伝車を見かけた。米軍普天間飛行場の辺野古移設問題が争点らしい。何とかいい解決方法はないものか、住民同士が分れて争うのは実にやりきれない。


 写真上は古宇利島のビーチ。手つかずの美ら海です。中は今帰仁城の寒緋桜。下は今帰仁城本丸からの眺め。


Photo_2 1月11日(土)晴れ。午後の飛行機で娘と二人、沖縄行。お正月に沖縄を訪ねるのは3年ぶりのこと。ホテルへチェックインしたあと、国際通りへ。牧志公設市場がまだ開いていたので、市場を一巡する。以前見かけた小さな古本屋を探したが、見つけることができない。魚屋、肉屋、島野菜屋などを覗き、最終日に買って帰るものをあらかた選んでおく。市場の二階にある食堂は満員だったので、国際通りにある沖縄料理屋で夕食。3連休の初日とあって、どの店も観光客でいっぱい。国際通りには島唄を聴かせてくれるライブハウスがたくPhoto_6さんある。夕食後、その一つに入って島唄を聴く。ワンステージ30分でチャージは500円という安さ。オリオン・ビールを飲みながら、「てぃんさぐの花」や「安里屋ユンタ」など、ポピュラーな島唄を聴く。テーブルの左右を占めていた団体客は本土からのツーリストで、「センセ」とお互い呼び合っているところをみると、教師が医者のグループらしい。店内は沖縄の伝統的な民家を写したもので、部屋の仏壇があるべきところに泡盛の瓶が並べてあった。波照間というその店の数軒隣に喜納昌吉のポスターを見かけて立ち止まる。「ライブハウスもーあしびchakura」とある。娘が面白そうだというので、中に入ってみる。こちらのチャージ料はさ2014_0111_174543p1110002っきの6倍。フロアは満員で、さかんに手拍子が聞こえる。喜納昌吉のステージは8時からというので、しばらく待つ。満席なので一人客の男性と相席になる。「観光ですか?」と尋ねると、「5年前に移住してきた。すぐ近くに住んでいるので、この店にはよく来る。喜納昌吉はいつもは出ない、今日はついてたね」とのこと。ホテルはどこか?と訊かれたので答えると、「いいホテルだ。天皇陛下も泊まった。本土から来る政治家はみんなそこに泊まる」という。やたらと長い名前のホテル(ANAクラウンプラザ沖縄ハーバービューホテル)なのだ。男性は、滞在中名護の方に行くことがあれば足を延ばして、ぜひ今帰仁の古宇利島へいったらいい、と勧めてくれた。定刻を少し過ぎてライオン丸のような頭をした喜納昌吉が登場。「昨日までシンガポールにいた。あの国は人種もさまざま、宗教もさまざま、だけどうまくいっている・・」と語りだす。私はこの人のことは「花」と「ハイサイおじさん」の作者だとしか知らない。社会時評(?)の合間にオリジナル曲を歌い、母上をステージに招いてみんなに紹介する。客の半分は常連で、半分がわれわれのような観光客のよう。「ハイサイおじさん」が始まると、客の半分が総立ちになって踊りだした。これがカチャーシーか、同じアホなら踊らにゃ損そん、というので、両手をひらひらさせて、見よう見まねで踊ってみた。いわゆる旅の恥はかきすて、ですね。京都にもライブハウスはたくさんあるが、一度も行ったことはない。JAZZは好きだから、機会があったら聴きにいってみよう、と思いつつ手をひらひら。約1時間、演奏を愉しんで店を出る。正直な感想・・・あの「しゃべり」はいらないなあ、唄だけで十分。


 夜、無事マレーシアに着いたとつれあいからメールあり。同じ関空発で、つれあいは午前中の便で、われわれは午後の便だった。前の日、マイナス6度の札幌から帰洛したばかりで、すぐにプラス30度のマレーシア行で「体がもたない」と珍しく弱音。京都と沖縄の温度差は10度くらいか、申し訳なし。


写真上は那覇国際通りにある牧志公設市場。中はライブハウスChakura、中央座って三線を弾いているのが喜納昌吉さん。下は那覇のモノレール。


2014_0106_101639p1060066 1月11日(土)晴れ。今日は鏡開きだが、我が家はとうに松飾りも外し、お鏡も片づけてしまった。我が家の松の内は7日まで。三条商店街に買い物に行ったついでに武信稲荷にお参り。この一帯には平安時代初期、有力貴族が運営する学問所があった。和気氏の弘文院、藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、在原氏の奨学院などで、武信稲荷は藤原氏の医療施設延命院と学問所である勧学院の鎮守社だったという。社を創建したのは、延命院をつくった右大臣藤原良相(813-867)というから、この社は1150年近い歴史がある。この一帯は1100年前から文京地区だったわけだ。近年、近くに立命館大学や仏教大学の新しいキャンパスが建ったが、昔に戻ったと思えば納得できる。本殿の横にそびえるエノキの大木は、樹齢850年、京都市内でも有数の大きさと古さをもつ。伝承では、平重盛(1138-1179)が安芸の宮島厳島神社から苗木を移植したものという。榎は椋の木とともに京都盆地に古くからある樹、古い神社には必ずこれらの大木がある。昨年の台風18号で、大きな枝が折れたため、冬枯れの景色が少し違って見えた。


 暮れに急逝した大滝詠一を聴く。初めてこの人の曲「恋するカレン」を聴いたのは、もう30年も前のことではなかったか。失恋の曲でいいなと思うのはこの「恋するカレン」と松任谷由美の「翳りゆく部屋」か。「さらばシベリア鉄道」を聴く。大滝詠一もついに「12月の旅人」になって、帰らぬ旅に出てしまった・・・。


 12日に放送される大学ラグビー決勝戦を録画予約しておく。今年は早稲田と帝京大。ここ4年、帝京が連覇しているが、今年の早稲田はなかなかいい。もと早稲田監督の清宮さんが指揮する社会人チームヤマハ発動機の胸を借りて練習したというから、帝京のスクラムにも簡単には負けないだろう。


 今日からしばらく京都を留守にします。今年最初の遠出です。旅のお供は森本哲郎さんの『月は東に』にしましょうか。では、行ってきます。


2014_0110_070902p1100067 1月10日(金)晴れ。今年いちばんの寒さ。朝、ベランダへ出て見ると、植木鉢の底に溜まった水が凍っていた。写真は今朝の愛宕山。朝陽が当たって山は茜色に染まり、まだ日陰にある家々の屋根はうっすらと白い。早朝の京都盆地はまるで冷凍庫の中にいるよう。


●安岡章太郎『僕の東京地図』(世界文化社)を読む。安岡章太郎が60代半ばのころに書かれたこの本は、こんな文章で始まっている。


六十になったら蕪村を書きたいと思っていた。」


何故蕪村かと言うと、作者は続けて書く。「つまり、蕪村は必ず負けるのである。何をやっても一番には決してならない。俳句なら芭蕉、南画なら大雅、蕪村はつねにそれらの二番手であり、何となく後列にまわされる。しかし、そういう蕪村に、僕は芭蕉や大雅にない魅力と親近感をおぼえる」からだと。まるで私がブラームスを愛する理由と同じ。ブラームスは何をしても二番手であった。交響曲はベートーベンに、歌曲はシューベルトに、室内楽はモーツアルトが先にあり頂にあった。ブラームスを聞くと憂鬱になるという人がいるが、それは二番手に甘んじるしかない作曲家の諦観がなせるのか・・・と私は思うのですが。諦念こそわが人生。私がブラームスを愛する理由はそこにある、などといったら笑われるかと思いつついま、ブラームスの交響曲2番を聴いています。


 安岡章太郎はその後蕪村を書いたのかしら、不勉強で調べていないが、わが書棚には安東次男の『与謝蕪村』や森本哲郎の『月は東に』がある。蕪村を愛したその森本哲郎さんが5日、亡くなったという。88歳。紀行の名人だった。


 さて、つい先ほど箕面のUさんよりメールあり。映画「ペコロスの母に会いに行く」が2013年度のキネマ旬報ベストテンでトップになったという報せ。原作者の岡部雄一さんは長崎在住の作家で、森崎東監督や主演の岩松了さんをはじめ、この作品には長崎県出身の映画人がたくさん参加している。新年早々何ともめでたいニュースで嬉しいかぎり。岩松了さんは撮影中、禿頭のメイクに毎日3時間も要したという。苦労が実りましたね。おめでとう!


Photo_5 1月9日(木)曇り。●大庭利雄『最後の桜 妻・大庭みな子との日々』(河出書房新社 2013年)を読む。日経新聞社から刊行された『大庭みな子全集』全25巻に収められた「回想解説」をまとめたものだが、58年に及ぶ一心同体の日々が切々と記されていて、ここまで夫に慕われる大庭みな子という作家に思いがゆく。この本を読み、自分は長年、大庭みな子の作品を読んできたが、彼女について何も知らない、と思うばかり。晩年の11年間は夫の介護なしには暮らせなかった妻の、まさに手となり足となって仕事を支えた利雄氏の言葉はもう作家の言葉そのもの。病に倒れたあとの晩年の作品は夫婦合作といってもいいのではないかとさえ思う。


花の盛りの青春時代を、苦しいながらも未来の明るさを信じて生きた二人の時代背景と、今、溢れる物に囲まれながらも先を見越せぬ暗い時代に生きる世代の苦しさの背景とは次元も違うものであるかもしれないが、後に続く世代の人たちも、人間も動物も同じように雌雄の共同作業こそが生命の糸を繋いでゆくことだと信じて生き続けて欲しいものである。」


 という利雄氏の言葉が切ない。還暦を過ぎたころから、大庭夫妻は「来年はどこの桜を見るかしら」と毎年の春を楽しみにしていたという。そういえばお正月に年賀の電話をしてきた友人が同じようなことを言っていた。「今年は京都の桜に会いに行くわ。そのうちにといってたら、どちらかがはかなくなった、ということもあるから」と。不吉なことを、と私は笑ったが、胸の中では「全くその通り」だと思っていたのである。


 写真は近所の民家の軒に立つ鍾馗さんならぬ大黒さんと恵比須さん。京都の町家の軒には疫病除けの鍾馗さんが勇ましく立っているが、この家には七福神のお二人が鎮座。恵比須さんといえば今日は十日戎の日。祇園のゑびす神社は賑わっていることだろう。


Photo_4 1月8日(水)雨。今年最初の例会で岡崎行。早めに終了して府立図書館と市立図書館をはしごする。そのあと所用で油小路を五条へと下っている途中、山本亡羊読書室の前を通る。庭木が繁る古い屋敷の前に「山本亡羊読書室旧蹟」の碑あり。山本亡羊(1778~1859)は江戸時代の儒医で、本草学者としても活躍した。いわゆる博物学者で、この読書室で医学や薬学、儒学、国学、歴史、地誌などを教えた。5人の優秀な男子があり、それぞれ専門分野を担当して親の後を継いだという。こjこには万巻の書があったそうだが、それらの蔵書はいまはしかるべきところに収まっているのだろう。ここのところあれこれ読み散らす日々で、「読書亡羊」を嘆き、反省もしていたので、「亡羊読書」という文字が目を突いたらしい。
 午後からこのほどマンションに生まれたシニア会に出席。これは地域社会の構成員として義務の一つ。わがマンションでも独り暮らしの高齢者が増えつつある。顔馴染みになることが孤立を防ぐための一歩かなと思うのだが。高齢者といっても人それぞれ、一人一人歩んできた道が異なるのだから、赤ん坊のように一律にというわけにはいかない。それぞれの生き方を尊重し、押し付けにならないよう、まずは愉しい集まりにすることが先決か。昔は60になれば老人だった。いまは65歳からだが、これはもう無理。70歳から、いや75歳からを高齢者とすれば、高齢者問題のおおかたは消えるのではないかと思うのですが。


Photo 1月7日(火)晴れ。朝、ラジオから「今日は上賀茂神社でハクバノセチエがあります」の声あり。はて、ハクバノセチエとは何ぞやと思うに、どうも「白馬の節会」のことらしい。しかし「白馬」の読みは「ハクバ」でも「シラウマ」でもなく、「アオウマ」のはず。この日青馬を見ると年中の邪気を払うという中国の故事から、古代日本の朝廷でも始まった行事だが、日本では白が神聖というので白馬を用いたらしい。上賀茂神社では神山号という名前の白馬がこの日、神官に牽かれて境内を一巡する。数年前に見物に出かけて、ついでに神社の柱に飾ってあった「卯杖」も見た。


 ●宮本常一『見聞巷談』(八坂書房)に「絵馬」というエッセイあり。日本人は信仰する社寺や貴族たちに贈物をする風習があり、贈物に馬がよく使われていた、ということから、馬を贈るのは年中行事の一つで、八朔の日に主人に馬を贈ったという記録が中世文書によく出てくるとある。平安時代の貴族の日記には、各地にある朝廷の牧から8月15日に馬が献上される「駒牽」の記事がよく出てくる。とくに有名なのが信濃望月牧から来る望月の駒で、逢坂の関神社には紀貫之の有名な歌、「逢坂の関の清水に影みえて いまやひくらむ望月の駒」の碑がある。この碑を見るたびに、はるばると信濃や武蔵あたりから馬が牽かれてきたのかと思い、供の人たちの苦労がしのばれるのだ。宮本常一のエッセイは、実物の馬を奉納できない人たちがかわりに絵馬を納めたということから各地の絵馬について記されている。平安時代の貴族にとっては馬は最大の贈物だったようだ。文字通りの「引出物」で、馬を贈るという記事がたびたび出てくる。


 この日は祇園の始業式。芸舞妓たちが正装で式に出て、そのあと各お茶屋へ挨拶に回る。髪飾りの初穂がいい。雀が寄ってきはしないかといつも心配になる。


Photo_2 1月6日(月)晴れ。4日の土曜日に子どもたちが引き揚げ、今日からつれあいの仕事が始まって、ようやくわが新年も平常に戻る。静かになった部屋の中で独り、年賀状を読み直し、溜まった新聞や書簡類に目を通す。
 「図書」1月号に偶然だろうが、高村薫と池澤夏樹が、「『古事記』を読んでいる」と書いていた。高村薫さんは「日本人であること」というタイトルで、「日本人のいのりのかたち」について考えてみたい、と言う。自分にはなぜ信心がないのか、という素朴な疑問からだと。一方の池澤夏樹のエッセイは「数え年にして69の手習いで『古事記』を読んでいる」に始まり、「今さら諸賢に言うまでもないことだが実に面白い」と続く。ここでは詩と散文の関係について語られているのだが、『古事記』は神話ゆえ面白いのだろう。古来、神が人をつくったのではなく、人が神を造ったわけで、神話には古代社会の姿が反映されている。歴史そのままではなくても、当時を推測する手掛かりにはなる。高村さんは大正教養主義の申し子だった両親に育てられたので、伝統文化とは無縁だったというが、戦後生まれの私も親たちは信心深かったのにもかかわらず、神事や仏事をスルーするという気分があった。京都の町を歩いていると、年齢を問わず通りかかった人たちが、お地蔵さんの祠の前で手を合わせているのをよく見かける。誰にと言うわけではなく、1日の無事を感謝するという気持だろうか、その姿をいいなあと思うようになった。


 写真は今宮神社。西陣の神様です。


 


Photo_3 1月3日。承前。子どもたちの希望で、近江八幡のあと彦根へ廻る。彦根は近江八幡から20数キロ北にある。彦根が近づくにつれ家々の屋根の日陰部分に白い雪が目立つ。彦根城は初めてという子どもたちは櫓を覗き、天守閣に上り、城内の隅々まで探索して満足気であった。城の展望室から真っ白に雪をかぶった伊吹山が見える。あの山の麓が関ヶ原で、石田光成が捕えられたのはあの山のあの辺りだと子どもたちの歴史談議は果てしない。戦国時代はさっぱりの当方、早々に庭に下りて、寒中に咲く二季桜の花を愛でる。満開を少し過ぎていて、さすがに花びらは小さい。午後3時過ぎに帰宅。早めの夕食は近江牛のすきやき。子どもたちの食欲、恐るべし。1キロの肉が半時ももちませんでした。


 夜、今年最初の読書会用テキスト●岩城けい『さようなら、オレンジ』(筑摩書房)を読む。オーストラリアと思われる南半球の国に住む日本人女性とアフリカ難民である女性の話。母語と異語の間で揺れる二人の女性の姿に胸打たれる。異国で、母語ではない言葉を獲得することは生きるための最低の条件なのだ。難民としてその国に渡ってきた女性サリマが言葉を獲得し、仕事を得て、生き生きと成長していく様子が魅力的に語られている。久しぶりに小説らしい小説を読んだ。もっともこの小説は主人公サユリが書いた創作とも読めるのだが、(話の中にたびたび指導教官への手紙が挿入され、それによって彼女が先生に創作を提出することがわかる)もしそうだとしても、この作品から受ける感動が減じることはない。まさに「はじめに言葉ありき」。この作品は今回、芥川賞の候補になっているそうだ。受賞するのではないかしら。


 写真は彦根城。国宝の天守閣です。


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