2014年08月

2014_0826_115442p8260006 8月29日(金)曇り。●野里洋『癒しの島、沖縄の真実』(ソフトバンク新書)によると、沖縄に住む本土出身者には3つのタイプがあるという。「一つは沖縄のすべてが好きという沖縄フリークで全体の1割くらい。二つめは沖縄に馴染めず嫌いという人で、全体の2.3割。三つめはその中間でどちらともいえないという人たち、全体の半分くらい」。これと似た分析に沖縄病というのがあるそうだ。まず大好きになり、移住したら嫌いになり、最後は諦めるというふうに病状が進むものだとか。私も四半世紀ほど前、初めて沖縄へ行ったときに、この病にかかりました。沖縄のすべてが好き、沖縄の自然、食べ物、音楽、やきもの、紅型、歴史、沖縄本、沖縄では方言によるラジオ番組があるのに驚いたものですが、建て替わる前の首里にあった県立博物館に日参し、島の古い城址を巡ったものです。那覇の国際通りの裏には、沖縄独特の巨大な亀甲墓があり、そのせいで、繁華街を一歩入れば深い緑の周りになにやら精霊の気配がしたものです。赤瓦の家、デイゴの並木、真冬というのに町にはブーゲンビリアやハイビスカスの花が咲いて、旅情をそそられました。でも近年、那覇の町は本土並みの景色に変っていって、新しい町からは沖縄色が消えつつあるのが残念。これも振興費のせいでしょうか? 


●諸田玲子『王朝小遊記』(文藝春秋 2014年)を読む。いまから1000年前の京を舞台とする痛快活劇。私がいま読んでいる藤原実資の日記『小右記』をもじったな、と思いつつ一気に読了。当時の庶民の生活を記したものは少ないが、歴史上の事件や人物は実名で出てくるので、時代考証はなされているのだろう。失うものは何もないところまで追いつめられた5人の男女が疑似家族となって、魑魅魍魎のごとき悪人と闘うという話だが、彼らにそれを命じるのが、藤原実資とその息子の僧良円。実資の唯一の跡取りである娘千古を守るため、彼女に災いをなす敵を探索し倒すというのが5人の任務なのだが、敵が誰なのか、当時の史実を背景にいろんな貴族たちが登場して実に賑やか。この時代を舞台にした小説は少ないので、まあ面白く読んだが、痛快活劇は誉めすぎか。この人の作品では『奸婦にあらず』(日経新聞社 2006年)が印象に残っています。


 写真は近所に咲いている酔芙蓉。昼前はこんな色ですが、夕方には紅色になります。


2014_0825_115110p8250001 8月28日(木)曇り。●下川裕治・仲村清司『新書 沖縄読本』(講談社現代新書)を読んで、蒙を啓かれる思いがした。この本の巻末に収められた、「沖縄をもっと深く知りたい人のためのブックガイド」を参考にいくつか読んでみた。なかでも日経新聞那覇支局長だった大久保潤の『幻想の島 沖縄』(日本経済新聞出版社 2009年)は、沖縄にある経済格差の問題や米軍基地の問題、沖縄移住者ついてなど、具体的かつ客観的に記されていて、格好の手引書であった。何度も訪ねる沖縄ファンだが、自分は通り一遍のことしか知らなかった、と気づかされた。とくに、復帰後沖縄に注ぎ込まれた莫大な補助金や振興費のせいで、自立する力を削がれたようにみえる沖縄、軍用基地の地主に落ちる莫大な借地料も私たちの税金から出ているとは、知らなかった。 先日、8月27日の新聞に「沖縄振興費3794億円」という記事があった。平素は気にもしないで見過ごす記事だが、この本を読んでいたので、どれどれと読んでみた。


「内閣府は26日、2015年度予算の概算要求で、沖縄振興費を14年度比293億円増の3794億円とする方針を固めた。14年に引き続いて3000億円の確保を求めていた仲井沖縄県知事の要望に増額で応える形。11月の知事選で三選を目指す仲井氏を後押しする狙いもありそうだ。安部首相は昨年12月、沖縄振興費について、2021年度まで毎年度3000億円台を確保する方針を表明している。沖縄県が使途を自由に決められる「沖縄振興一括交付金」は、110億円増の1869億円を計上」(2014年8月27日付 東京新聞)


 沖縄振興費は復帰後40年目の2012年に終了したとばかり思っていたが、まだ続いているのだ。そういえば昨年の暮れ、3000億確保したというので得意げに破顔する仲井知事の顔をTVニュースで見た覚えがあるが、このことだったのか。ああ、さもしいなあ、と思ったものだが。この振興費がいったい何に使われているのか、県民の暮らしが豊かになったという気配がないのが不思議です。


 東北の復興は未だならず、というのに、あちこちに振興費だの補助金だのと結構な大盤ぶるまい。国の借金はとうに1000兆円を超えたというのに。


 言っても詮無い、と思いつつ。


 写真は姉小路通にある表具店の暖簾。


20140705053105 8月27日(水)曇り。昨夜は珍しくクーラーをつけずに休んだ。今朝、窓を開けると、外の空気が少しひんやりとしている。酷暑・猛暑の夏もそろそろ終わりに近づいたか。年々、暑さ寒さが堪えるようになった。モグラではないが、夏の眩しい日差しの下には出ていく気力もない。だが、今朝の風に少しほっとする。


 土近く 朝顔咲くや 今朝の秋  虚子


 という気分。朝顔といえば、


「知らず、生れ・死ぬる人、何方より来りて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰が為にか、心を悩まし、何によりてか、目を悦ばしむる。その主と栖と無常を争ふさま、言はば、朝顔の露に異らず」(『方丈記』)


 無常の世に、人が自分と住居の変遷を続けている様は、朝顔の花とその露のようーーーと鴨長明が語ったように、朝顔ははかない命の象徴。万葉の時代に「あさがお」といえばムクゲやキキョウを指したそうだが、ムクゲにしても花は一日ももたない。いずれも儚い命である。 


朝顔や 一輪深き 淵のいろ   蕪村


子どもの頃、夏休みに朝顔を育てて、「観察日記」を記したのを覚えています。毎朝起きるとすぐに鉢を見て、開いた花の数をかぞえるのが楽しみでした。そういえば亡き母は朝顔づくりが上手でした。


 


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 8月26日(火)曇りのち晴れ。今年の夏は天候不順で、すっきり晴れ上るという日が少なかった。京都は何度も集中豪雨に見舞われたし、広島、礼文の惨事はいうまでもない。TVニュースで女性アナウンサーが「今年は日照り不足で野菜の生育に影響が出ています」というのには、びっくりした。「日照り不足」なんて言うかしら? 斎藤清明『今西錦司伝』が面白かったので、日野啓三対談集『創造する心』(雲母書房 )を再読。この中に1982年に行われた今西錦司との対談も収められているのだが、そのなかにこんな話がでてくる。


今西錦司は以前から、「いずれ単独生活者の時代が来る」と予言していた。「女性が経済的に自立して育児の問題が解決されれば、女性が単独生活能力を取り戻して霊長類本来の姿に戻る。そうなれば、単独生活者には町中の2DKでいいわけで、郊外の畑をつぶして建てている二階建て住宅など要らなくなる。戦後男女共学になったが、女の子の方が成長が早いから男の子は心理的に抑えられる。そんな男の子は年頃になっても女性に興味を持たなくなる。そんな若い男が増えてるな」――という今西の言葉は、30年後のいま、結婚しない若者が増えて、国内に空家が820万戸という現実を言い当てているよう。それにしてもこれだけの空家を活用する方法はないものか。


 夕焼や 生きてある身の さびしさを  花衰 


 写真は21日の夕方、ベランダから見た京都西山の夕焼け。右から愛宕山、一つおいて嵐山、松尾山、画面にはありませんが、小塩山、ポンポン山と続きます。山越の阿弥陀様、西方浄土を毎日眺めています。 


2014_0818_113301p8180185 8月19日(火)晴れ。昨日に続いて寺町を歩く。以前の寺町は老舗が並ぶ静かな通りだった。近年、四条通り近くは若者向きの店が増えて賑やかになったが、その分歩きにくくなった。しかし御池通りから北へ上ると、以前のまま京都らしい佇まいが残っている。御池通の手前には鳩居堂やとり市、竹苞楼(古書)、亀屋良永(和菓子)などがあり、上っていくと、錫器で有名な山中清課堂や三月書房、墨の古梅園、お茶の一保堂などがある。梶井基次郎の「檸檬」に登場する果物店が閉店したのは寂しいことだが、最近は新しい骨董屋やセンスのいいカ


2014_0818_113540p8180186フェなどがオープンして、町歩きの愉しみが増えた。この日は久しぶりに三月書房を覗く。よく古本屋に間違えられます、とご主人は苦笑されるが、新刊の古書店を目指すというのが創業者の言葉ではなかったか。人文書の品揃えは相変わらず抜群。こんな図書館があったらな、と思う。


 帰宅後、●斎藤清明『今西錦司伝』(ミネルヴァ書房)を再読。今西錦司は1985年、83歳のとき、日本1500山登頂を達成している。この情熱とエネルギーはどこからくるのだろう。たしか、長崎の長与の山で、「今西錦司登頂」の標識を見た記憶がある。三角点を訪ねたものではなかったか。私は登山には縁なき衆生である。平らなところは何時間でも歩く自信はあるが、登るのは全く駄目である。重力に逆らう動きとは無縁なのです。


 写真上は三月書房。下は錫器の清課堂。ここの屋根に立つ鐘馗さんは、錫製のようですよ。


2014_0818_100500p8180134 8月18日(月)晴れ。寺町の紙司柿本に便箋と封筒を買いに行く。店員さんが、「いま、下御霊さんで例祭をやってはりますよ」というので見に行くことに。下御霊神社は上御霊神社と共に御霊信仰の代表的な社で、承和6年(839)の創建。古代は非業の死を遂げた人が怨霊となり世に祟りをなすと信じられていたので、霊鎮めのために御霊神社がたくさん建てられた。最大のものは菅原道真を祀る天満宮だろう。そして最強の怨霊といえば『保元の乱』に登場する崇徳天皇か。讃岐に配流となったあと、朝廷に送った写経本が返却されたのに怒って、「日本


2014_0818_103616p8180147国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」と血文字で記した。崇徳天皇の没後713年目の1868年、明治天皇はその霊を祀るため、京都堀川今出川に白峰神宮を建てている。700年経ってもその怨霊が怖れられていたのだろう。昔は天変地異、自然災害、疫病、禍はみな誰かの祟りだというので、御霊信仰がさかんだった。さて、その下御霊さんの例祭を初めて見た。寺町通に面した門を入ると、式次第はもう始まっていたが、参詣客は30人もいるだろうか、みなさん思い思いに木陰に佇んで、例祭を見物(?)しておられる。私も木陰に


2014_0818_104733p8180177並べられた椅子に座って、「修祓、開扉、献鐉、祝詞奏上」を見る。次第の中には神馬牽廻もあり、馬が舞殿の周りを3回廻る。平安古記録を読んでいると、神拝や賀茂祭などのとき、神社で必ず廻馬・十列を行っている。これはその名残か。そのあと、四人の舞人による「東遊」があった。「東遊」は神事舞の代表的なもの。唐楽や高麗楽とちがって、純国風の雅びな舞である。舞人は武官の束帯姿で、青摺の袍を着けている。四人の舞人は「駿河舞」のあと、右肩を脱いで再び舞殿に上り、「求女子」を舞った。ゆるやかな動き、長く裾を引いた優美な姿に見とれてしまった。また例祭では式次第の間じゅう、雅楽が奏でられて、なかなかによきでした。


 例祭の最中も、神社の井戸水を汲みに来る人が絶えない。私も祭のあと飲んでみたが、癖のないまろやかな水でした。京の地下水は健在のようです。


●下川裕治・仲村清司著・編『新書 沖縄読本』(講談社現代新書 2011年)を読む。沖縄は良くも悪くも気になる島である。琉球共和国として独立すればいいのに、と思うのだが、叶わぬ夢でしょうか? 


2014_0815_055349p8150065 JR小海線の甲斐大泉駅は標高1158メートルのところにある。小海線の駅の中では3番目に高い地点にある駅である。(最高地駅は1345mの野辺山駅で、2番目は1274mの清里駅)。朝早く散歩に出て駅へ行くと、駅舎の中は大きな荷物を持った若者でいっぱいだった。まだ6時前だというのに、いかにも早い出発ではある。ホームに出るとカメラを抱えた撮り鉄らしき夫婦連れあり。やがて霧の中から小淵沢行の電車がやってきた。キハ111-109の文字あり。人気のハイブリッドカーではなかったが、一時間に一本しかない電車に会えた。もっとも撮り鉄らしき夫婦は電車が遠ざかるまでその姿を追っていたが。2014_0815_060015p8150068


 この日、朝は霧が深かったが、昼前には晴れて、うっすらと富士山が姿を見せた。富士山は独立峰なので、空の中に屹立して見える。世界遺産になってから富士山を訪れる人が急増しているそうだが、ここからは登山客は見えない。やはり♪冨士は日本一の山♪なり。


 帰宅してから知ったが、この日、穂高や南アルプスで登山客が遭難していた。山の天気は急変するというから、少しでも不安なときは、登山を中止したり、引き返す勇気を持たなければ。


 京都に戻ると、集中豪雨に見舞われて、またもや福知山の町が浸水、嵐山も水浸しだった。TVニュースではいまにも溢れそうな鴨川が映し出されていたが、実際、川床のすぐ下まで茶色の水が渦をまいて流れていた。去年に続いての水難で、福知山の人たちは心が折れそうなのではないか。21世紀になっても自然災害はなくならない。地方復興が掛け声で終わりませんように。


 写真上はJR小海線の甲斐大泉駅。下は散歩道。白樺と霧。


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 8月16日。承前。軽井沢は宣教師によって拓かれたので、どことなくピューリタンの気質が感じられる。清里や上高地もそう、我が国の避暑地は宣教師たちによって拓かれた所が多い。「善良な風俗に清潔な環境」とは軽井沢の合言葉だが、他の避暑地にも通じるだろう。林の中に点在する隠れ家のような店や別荘は静かで、人を寄せ付けない。それにしても信州や八ケ岳の涼しさといったら、湿度が低いせいで木陰にいると真夏だというのが嘘のよう。なだいなだ展が開催中の軽井沢高原文庫では、24日に加賀乙彦さんの講演会があるそうだ。2014_0815_140055p8150101_2数多いる軽井沢ゆかりの文学者を紹介する集まりもあるらしい。立原道造、北杜夫、遠藤周作や、中村真一郎、福永武彦、加藤周一らのマチネ・ポエティクなどが思い浮かぶ。


 軽井沢の中にはラウンドアバウトと呼ばれる円形交差点がある。時計回りに円形の交差点に入って、目的地への道へ出る。これだと右折左折がないから衝突の心配がない。イギリスをレンタカーで回った友人がこのラウンドアバウトが便利だったと話してくれたのを思い出した。また、今回行けなかったが、中軽井沢駅に同居する図書館を見たかった。中軽井沢の交2014_0815_140022p8150100差点に車が止まったとき、道の奥にある駅舎を


遠望しただけ、あまりの渋滞の為、寄り道は不可能だった。


 今年は天候不順のため、楽しみにしていた花々が少なかった。シカによる食害もあるのだろうが、山野草が少なくなっているのが心配。明野のひまわり畑も例年なら100%開花して、一面黄金色に輝いているのだが、今年は台風のせいか、開花が遅れていた。それでもツリガネニンジン、ナツスイセン、ワレモコウ、ルリタマアザミ、ヤナギラン、ウメバチソウ、ヤマハハコ、オミナエシ、フウロソウ、マツムシソウ、キンミズヒキ、ミズヒキ、マツムシソウなど、いつも会う花々と会えて、嬉しかった。


写真上は軽井沢の聖パウロカトリック教会。中は軽井沢のマンホール(さかさまですが)。下はキツリフネソウ。


Photo_4 8月16日(土)曇り。朝の気温19度。朝食をとりながら、小諸から上田へ廻ってみようということになる。昨年は高速で諏訪~安曇野~上田と時計回りに走行したのだが、今回はR141号で、反対周りに小諸方面へ行くことにする。国道141号はJR小海線と並行して走っている。海ノ口、海尻など、山の中なのに「海」のつく地名が出てくるのが不思議。途中に「海ノ口城址」があり、ここは武田信玄の初戦の地といわれている。なんでもこの城を攻めあぐねた父親が退去したとき、しんがりをつとめた信玄が、わずかの兵で敵を奇襲して勝利をおさめ


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た、とのこと。武田氏の信濃攻略の要所となったというが、私にはさっぱりである。また途中の佐久穂の馬流(まながし)には「秩父事件戦死者の墓」の標識あり。地図を広げると、ここは長野だが、山の向こうは群馬で、そのすぐ隣は埼玉秩父なのだ。ふうん、長野、群馬、埼玉って、こんなに近いんだ、と認識をあたらにする。(われながらあまりの無知蒙昧を恥じ入りましたが)  すぐそばを千曲川が流れ、標高800~900を走る道はなかなかいいものでしたが、小諸が近づいて道路標識に「軽井沢」が出たとき、軽率にも行先変更して軽井沢へ行くことに。追分までは


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すいすい走ったが、中軽井沢が近づくにつれ車が増え始め、旧軽井沢へ入るとノロノロ運転になる。夏場の避暑地に車で入るなんて、まるで桜と紅葉のときの京都嵐山みたいね、と嘆きつつ、何とか駐車場へ入る。軽井沢は中山道の宿場町だったところ、国道や汽車が通るようになって寂れかかったとき、英国人宣教師が教会を建て、それがきっかけとなって外国人の避暑地となった。軽井沢銀座とよばれる通りを歩いて老舗をいくつか覗いたが、なんともすごい人通りで、祇園祭の宵山もかくやと思われるほど、これでは銀座ではなく渋谷じゃないかしら、と言いつつ、浅野屋でパンを買い、茜屋でコーヒーを飲みました。(ミーハーですね) とにかくすごい人通りでしたが、通りの端にあるつるや旅館を過ぎると店がないせいか、人影もまばら。「避暑地軽井沢発祥の地」といわれる日本聖公会ショー記念礼拝堂は静寂そのもの、深い緑の中にありました。


 軽井沢といえば堀辰雄、その堀辰雄文学記念館は追分にあるが、今回はパス。町で見かけたポスターの「なだいなだとフランス」展に心惹かれたが、これも今回はパス。開催地の軽井沢高原文庫には、堀辰雄の山荘や辻邦夫の山荘、野上弥生子の書斎などが移築、公開されているそうだ。そういえば野上弥生子の山荘は北軽井沢にありましたね。ここでの隣人が哲学者の田辺元で、2人の間に交わされた往復書簡は実に読みごたえがあります。


 写真上は日本聖公会ショー記念礼拝堂。中は軽井沢高原文庫の「なだいなだ」展のポスター。下はショー礼拝堂近くにある芭蕉の句碑。芭蕉は元禄元年(1688)の「更級紀行」でこの地に寄り、「馬をさへ ながむる雪の あしたかな」という句を詠んだ。それほど趣のある朝だったのでしょうね。


 


2014_0814_153509p8140053 8月15日(金)曇り。北杜市の考古資料館へ行く。八ケ岳山麓には縄文遺跡が多く、そこからは無数の土偶が出土している。長野県側には有名な遺跡がたくさんあって、5つある国宝土偶のうちの二つが長野県茅野市出土のもの。縄文のビーナスや仮面の女神と名付けられたそれらの土偶を、先年、東京上野の国立博物館「土偶展」で見た。毎年訪ねる井戸尻遺跡の資料館にも見事な土偶が展示してあるが、今回初めて訪ねた北杜市考古資料館のものも楽しい。てびねりの粘土細工のような土偶。縄文人が何を思いながらこれらの人形を2014_0814_153316p8140052作ったのか、想像するだけでも楽しい。目玉は縄文晩期の金生遺跡(国史跡)だろうか。ここからは住居跡、墓、祭祀跡の三つがセットで出てきた。祭祀跡には大規模な配石遺構があり、大量の土偶が出ている。八ケ岳を見上げながら、どんな祈りをささげていたものやら。


 資料館に隣接して谷戸城址(国史跡)がある。甲斐源氏の祖・逸見氏の城があったところだそうだが、戦国~江戸時代の甲斐国のことは何も知らないので、眺めるだけ。清里、小淵沢には美術館が多い。そのうちのいくつかを巡る。俳優で野鳥の会の会長でもある柳生博さ


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んが運営する八ケ岳倶楽部でお茶。柳生さんが数十年かけて再生したという自然林が美しい。


 この日は終戦記念日。300万の犠牲者の霊に黙祷。同じ戦争犠牲者でも、軍人軍属以外は全く補償はなし。全国各地の、空襲による死者たちは浮かばれまい。せめて自分が生きている間は、彼らのことを忘れずにいよう。


 写真上・中は北杜市考古資料館の土偶。下は八ケ岳倶楽部のギャラリー。 


Photo_2 8月14日(木)雨、ときどき曇り。気温18度。外遊びが無理なので、それぞれ好きな場所へ出かけることになる。われわれは八ケ岳高原ヒュッテの音楽堂へ。春の連休と夏休みの間だけ営業している高原ヒュッテは元尾張徳川家邸で、以前は目白にあったのを移築したもの。夏の間はギャラリーになっていて、やきものや染物などが展示されている。クラフトやガラス製品など、しゃれたものが置いてあった。カフェでコーヒーをいただく。晴れていたら庭でいただけるのだが、雨のため室内で。外は雨に洗われて緑がいちだんと美しい。白いリョウ


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ブの花や、薄紫の百日紅の花が見える。この日、音楽堂での演奏会はなし。24・25日に天満敦子のヴァイオリンリサイタルがあるという。ヒュッテを出て、南牧村の図書館へ。図書館は野辺山の宇宙電波観測所の隣の、南牧村農村文化情報交流館の中にある。一階にはレストラン(蕎麦がおいしい)やプラネタリウムなどがあり、二階が図書館になっている。この日は雨のせいか親子連れで賑わっていた。二階の図書館の名前は「はしばみ」という。なんでもこの辺りはハシバミの森だったそうで、それを開拓して電波観測所や図書館ができたという。


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ハシバミは別名ヘーゼルナッツ。アメリカ産の実を加工したものが、ここの売店に売ってありました。


 午後から北杜市高根町にある「朝川伯教・巧兄弟資料館」へ。朝鮮陶磁の研究に生涯を捧げた兄伯教と、農林技師として朝鮮の地に没した弟巧の業績を紹介する資料館。朝鮮陶磁の美を柳宗悦に教えたのは浅川伯教で、伯教は自らもやきものをつくった。彼の茶陶が展示されていたが、「云さ古」という銘の斗々屋茶碗がよかった。この二人の生涯は「白磁の人」という映画になっている。展示物で二人の足跡を2014_0814_150856p8140049辿りながら、いまの日韓両国の間にある微妙な空気を思った。未来の展望は歴史を正しく学ぶことからしか始まらないが、何が正しいのか、真実が歪められつつあるのではないか、なんとももどかしい気分になる。
 資料館と同じフロアの半分は図書館になっていて、木のぬくもりのある館内では、戦争の絵画展が開催中だった。


 10数年、通っているのに、甲斐の国の歴史はさっぱり、ただ八ケ岳は縄文遺跡の宝庫で、黒曜石の産地ということぐらいは知っている。ホテルの近くに考古資料館や縄文遺跡があるというので、明日、覗いてみることにする。


 新聞もテレビも見ないが、なんの不便もなし。自分にとって知る必要のない情報が多すぎるのだろう。隠れて生きよ、情報から遠く離れて・・・。


写真上は八ケ岳高原ヒュッテの喫茶室。中上は南牧村図書館ハシバミの読書室。中下は高根町の浅川兄弟資料館。下は高根図書館。


Photo 8月13日(水)曇り。朝6時に京都を出て八ケ岳に向かう。高速の上り車線は格別の渋滞もなく、11時前に小淵沢着。横浜から出てきた子どもたちと甲斐大泉にあるホテルで合流し、一休みのあと、夕方までそれぞれ好きに過ごすことになる。子どもたちが馬に乗るというので、私も同行することに。子どもたちが馬に乗るのは年に一度、八ケ岳に来たときだけだが、年々馴れて手綱さばきも様になってきた。子どもたちが森の中を一回りする間、留守番の馬と遊ぶ。馬の目は大きくてやさしい。賢そうな目をみていると、いまにも語りだすのではない


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かと思われる。そういえばもうずいぶん前のことだが、友人の大学の先生に、馬に乗って通勤している人がいると聞いたことがあるが、あの先生はまだ健在かしらん。
 山梨は今年の春、大雪に見舞われ、ホテルも2日間閉鎖した。「お客様も雪で車が出せないので缶詰になられたのですが、私たちといっしょに雪かきをしてくださいました。雪は初めてという外国の方もおられて、楽しそうでした」とはフロントの女性の話。周辺のコンビニからは、いっせいに食料品が消えたそうだ。
 このあと白州・尾白渓谷で涼をとり、夕方ホテルへ戻る。外気は24度。小淵沢の町のそこかしこに盆提灯を見る。雲が低く、駒ヶ岳は見えない。南アルプスも富士山も、今日はおめもじかなわず。残念。ペルセウス流星群が観察できるかと期待していたが、夜になっても雲が垂れ込めて、月も星も見えず。


 夜、ホテルのラウンジで地元の高校生たちによるギターの演奏会があった。例年行われているもので、これも夏休みの楽しみの一つなのだ。北杜高校のギター部は、全国大会で優勝している実力あるクラブ。クラシックからポップスまで、幅広い選曲で、ギャラリーを楽しませてくれた。この夏でクラブを卒業する三年生のメンバーが演奏後泣いていたのが印象的。ああ、自分にもあんな時代があった・・・。


 夜、南の空に小さく花火が上がるのが見えた。遠い花火は誰かからの信号のよう、束の間闇の中に輝く灯を見つめる。


Dsc01269 8月13日(水)お盆休みに入ったので、今日からしばらく京都を留守にします。つれあいの亡き両親の精霊は京都の我が家のお仏壇に帰ってくるのでしょうが、迎えるべき家主は留守なのです。なんとも親不幸者ですね。でも昨日、近くのお寺に灯篭を奉納して迎え鐘を撞き、水塔婆もあげてきましたから、お許しあれ。
 今年も夏休みは子どもたちと八ケ岳の南麓で過ごします。宿は標高1100mのところにあり、気温が京都とは10度も違うのです。夏休みを甲斐大泉で過ごすようになってから15年になります。去年はここを拠点に、安曇野や上田、諏訪などを廻りました。今年は東の方、小諸や望月の方に遊んでみましょうか。このたびの旅のお供は奥本大三郎の『本を枕に』(集英社文庫)。では、行ってきます。


2014_0811_201335img_0102 8月12日(火)雨のち曇り。本居宣長の『在京日記』を読んでいる。これは宝暦2年(1752)~7年(1757)まで、宣長が医学を学ぶため京都に滞在した時の日記で、宣長22歳~27歳までに書かれたもの。医学のほか、国学や漢学も学び、本草網目会などの研究会にも参加、歳時記を追い、季節の行事を見物し、実によく学び、よく遊んでいる。最終年の宝暦7年7月の日記には、


九日、けふあすは六道まいり也。夜に入てすすみかてらまふてはやと思ひて、四条を東へ出侍る。いと多く人の出ること也。祇園町藪の


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下を過て、安井の御前をとをり、松原通に出侍れば、此道はいたう群集して、とをりうへうもなし。東へ東へとまいるは、清水へまふつる也」ーー「7月9日(太陽暦の8月5日ごろ)。(盆入りで)今日明日は六道まいりなので、夜になって涼みがてら詣でようと、四条通を東へ出たらすごい人出であった。祇園町の藪の下を通り安井金比羅宮の前を通って松原通に出たら、ここはすごい人の群れで、通れそうにない。みんなが東へ向かっているのは、清水寺へ詣でるところなのだ」


 十六日は大文字の送り火を見ようと三条大橋へ出かけたが、いろいろと用事を済ませているうちに時間に遅れ、三条大橋の東で山を望んだときは、もう「大文字も船も妙法の字も、まなとく消えはてて跡もなし」という状態であった・・・と記している。しかし見上げると、「華頂山の松の梢より、いとさやかなる十六日の月なかはさし出たるさま、絵にかく共筆及ぶべくもなし」と十六夜月の美しさを愛でている。


 宣長が見た大文字の送り火は360年後の現在も同じようにともる。宣長の在京日記はいささかも古びていないのが楽しい。同じころ、与謝蕪村も京都にいた。ただし蕪村は宝暦4年(1754)~7年(1757)まで丹後の宮津に滞在して、絵を描き、句を詠んでいる。この二人が京都ですれ違ったことはないのだろうか。


 写真は昨夜(11日)の「京の七夕」。上は二条城でのプロジェクション・マッピング。下は堀川遊歩道の七夕飾り。「いと多く人の出ること也。堀川辺も二条城周りもいたう群集して、とをりうへうもなし」状態でした。


2012_0808_125125p8080006 8月11日(月)晴れ。台風一過、今朝の京都は昨日までとはうってかわって快晴。毎年、8月の始めには五条坂の陶器市へ出かけるのだが、今年は忙しくて行けなかった。同じときに六道珍皇寺で迎え鐘を撞くのだが、それも今年はなし。我が家のお精霊さんは迷わず帰ってこられるかしらん。台風のせいで、いろんな行事が中止や延期となった。今日から始まるはずの下鴨神社での「納涼古本まつり」も準備ができず、明日からのスタートという。納涼とは名ばかり、緑陰は多けれど糺の森も暑い。だがいい本に出会えたら、暑さも忘れるにちがいない。


 七夕飾りを見て、『伊勢物語』を思い出した。交野に狩りへ行った業平が、天の河のほとりで詠んだ歌。


 狩り暮らしたなばたつめに宿からむ 天の河原に我は来にけり  (『伊勢物語』82段)


 夏休みはまだ半分残っているけれど、季節はもう秋。


●斎藤清明『今西錦司伝』(ミネルヴァ書房)を読む。京都学派の一人、偉大な生態学・文化人類学者の評伝。これまでいくつかこのスケールの大きな学者について書かれたものを読んだが、この本が決定版になるのではないか。今西錦司や梅棹忠夫という型破りの学者を生んだ京都の西陣というところも面白い。今後同じような人物が出て来るかしら、いまのように窮屈な世の中では無理かしら。 


2014_0810_190034dsc01264 8月9日(土)雨。69回目の長崎原爆忌。京都は台風11号が接近中とて、外は風雨強し。6日もそうだが、京都のお寺の中には、この日原爆投下の時間に慰霊の鐘を撞かせてくれるところがある。6日の朝8時過ぎ、お寺の鐘の音が聴こえてきてハッとしたのだが、この日は雨のため、自宅で追悼することに。先日新聞に、「エノラ・ゲイ搭乗最後の一人死去」という記事があった。広島に原爆を落とした爆撃機の搭乗員12人のうちの最後の生存者だったセオドア・バンカーク氏が93歳で死去したというもの。長崎に原爆を投下したボックスカーの搭乗員は既に全員が死亡しており、これで核攻撃に携わり、その惨状を上空から目撃した歴史の証人はいなくなった、とある。バンカーク氏は回顧録に「日米双方の犠牲を最小に抑え、戦争を終結させた」と原爆投下の意義を記したが、「核兵器は二度と使われてはならない」と強調したという。


 被爆者、戦争体験者が減っていくいま、どのようにその体験を次の世代に伝えていくか、記憶の伝承には切実なものがある。長崎在住の作家青来有一さんは戦後生まれの作家として、その問題に果敢に立ち向かっているようだ。2006年に書かれた『爆心』(2006年)がそうだった。このたび「文學界」7月号に発表された「悲しみと無のあいだ」は亡くなった父親の被爆体験に思いを巡らす息子の話だが、全編に「生きる悲しみ」が感じられる力作。宮沢賢治やフォークナー、アンリ・デュナン、クロード・シモンなどの引用、また、長崎の被爆者や林京子、松尾あつゆきなど被爆した作家たちの名も出てきて、思いの深さが伝わる。死者を乗せた車が家に帰る道すがらの長崎の風景は、私にも馴染み深いものがあり、それだけに主人公の虚無感が痛ましく思われた。亡くなった父親から被爆体験を聴いていなかった主人公が、想像力によってその体験を描こうとするくだりに、文学の力を感じた。全編に「存在の悲しみ、生きる悲しみ」が通底していると思うのは私だけだろうか。父親の「どげんもならん」という絶望感、虚無感は読者である私も共有していて、このごろはとくに新聞の一面を見るたびに、「どげんもならん」と言いたくなる。とくにこの日、長崎での平和式典のTV中継で総理の言葉を聞いたとき、「どげんもならん」という虚無感に襲われてしまった。しかし亡くなった人たちは彼らを記憶する人間がいる間は此の世に生き続ける、私の亡くなった祖母がよく言っていたーー「死んだ者はそん人を思い出すもんがいる限り、この世におっとよ」――この小説の最後にそれと同じような言葉が出てくる。生きる者を励ます言葉ではないか。


 ●今年の8月9日はこの「悲しみと無のあいだ」と、高瀬毅『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』(文春文庫)を読んだ。原爆で破壊された長崎の浦上天主堂、煉瓦造りのその教会が保存されていたならば、広島の原爆ドーム同様に、被爆の惨状を伝える証言者として大きな存在になったにちがいない。一時は保存されることになっていたのが、どうして取り壊され撤去されたのか、長崎出身のジャーナリストによる詳細な調査記録。占領下の日本を知るための必読書でもある。


Dsc01268 8月7日(木)晴れ。九州から出てきたMさんと京丹後行き。日本の中世史が専門のMさん、何を思ったのか丹後の古墳に興味があるというので、与謝野にある郷土資料館へ案内することに。夕方の新幹線で上京するというので、慌ただしい行程なり。朝9時、京都駅前でMさんをピックアップしてひたすら丹後へ。車の中で「丹後王国論」のあれこれを語りながら、約2時間で天橋立IC着。郷土資料館ではいま「大海中に倭人ありー遺跡でたどる古代丹後」展が開催中。縄文から古墳時代までの丹後の歴史を、出土品や写真で見せようというもの。丹後には4世紀ごろ造られたと思われる大型の前方後円墳がいくつもあり、中小のものを含めると古墳が6000基近くある。丹後は古墳王国といってもいい。弥生時代の古墳からは鉄製品やガラス製品、水晶、鏡などが出ていて、鉄やガラスの出土量は北九州や出雲などをしのぐという。中でも目を引くのは、「青龍三年」の銘のある四神鏡。青龍三年は魏の年号で、卑弥呼が魏に使いを送った景初三年(238)の三年前にあたる。ということから、この鏡は卑弥呼の使いが魏からもらってきた銅鏡100枚のうちの一枚ではないかといわれている。青龍三年の銘のある鏡は国内に3枚しかないそうだ。また国の重要文化財に指定されている黄金の環頭太刀も展示されていて、相当の勢力がこの地にあったことがうかがえる。館長さんに詳しく説明してもらったおかげで古代の丹後の様子を把握することができた。古代丹後の街道沿い(川沿い)に大型古墳があるのは、往来の人々にその権威を見せるためでしょう、昔は海や川などを行く船が陸の古墳を目印にしたといいますから、とMさん。神戸の五色塚古墳はまさにその例だろう。
 資料館を出て、すぐそばにある茅葺の家へまわる。ここは旧家を移築したもので、開け放たれた座敷で、古文書の整理が行われていた。丹後の大庄屋安久家に伝わる文書で、もう20年以上も続いている古文書解読作業だという。中心になっているのは千葉大学文学部の学生たちだが、卒業生や地元の歴史愛好家たちも参加している。学生の話では、地元の人に地域の歴史や経験を教えてもらえるので、文書解読に役立っているとのこと。毎年夏休みは丹後に来るのが楽しみだといいながら虫喰いだらけの文書を広げていた。なるほど研究室に持ち帰るのではなく、こうして現地へ赴いて解読していくというのは大変だがいい教育ではないか、網野善彦の『古文書返却の旅』(中公新書)を思い出しながら、とても読めそうにないが、のぞいてみたいものだと思ったりした。


 夕方、無事京都へ帰着。6時前の新幹線で東京へ向かうMさんを見送って帰宅す。門脇禎二の「丹後王国論」を読み直さなければ。


 写真は丹後1300年を記念して出版された『丹後王国物語』。和銅6年(713)、大丹波が丹波と丹後に分割されて丹後国が生まれたことから。 


2014_0806_082646dsc01263 8月6日(水)晴れ。今日、8月6日は69回目の広島原爆忌。そして考古学者森浩一さんの一周忌でもある。この一年、折に触れ森浩一さんの本を読み返してきた。文人学者、全人的な魅力ある学者であったと思う。学者の中にはいわゆる専門バカといわれる人が少なくない。自分の専門分野のことはよく知っているが、他のことはさっぱりという人が多くて残念に思われるが、森浩一さんは守備範囲が広かった。権威にとらわれず、真理を探究するという姿勢を第一にして、人に接した学者ではないかと思う。


峠三吉の『原爆詩集』(1951年)は、ずっと以前に北九州に住む知人から恵贈されたもの。毎年8月6日に読み返しています。


  


 ちちをかえせ
 ははをかえせ
 としよりをかえせ
 こどもをかえせ


 わたしをかえせ わたしにつながる
 にんげんをかえせ


 にんげんの にんげんのよのあるかぎり
 くずれぬへいわを
 へいわをかえせ   (『原爆詩集』)


 日本は唯一の核兵器による被爆国なのだ。2011年には絶対安全のはずの原発事故にも遭った。大江健三郎は『新しい人よ眼ざめよ』で核時代を生きる人へのメッセージを書いたが、それがこんなに早く現実のものになるとは。


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 7月30日(水)午前中、Sさんを紫野の今宮神社へ案内する。今宮神社は疫病鎮めと怨霊鎮めの御霊会のため平安時代に創建された社で、いまも春には疫病鎮めの「やすらい祭」が行われている。摂社に織姫社があり、西陣の人々による信仰があつい。この社の参道に二軒のあぶり餅屋があって、観光客に人気がある。子どもの頃食べた味が忘れられないので、というSさんとそのうちの一軒「かざりや」に入る。しばしば時代劇のロケ地になるだけあって、江戸時代の趣を残す建物。歴史を訊くと、「創業は平安時代だからもう1000年になりま


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す」とのこと。店の中にある井戸は創業当時からのものだそうだ。つきたての餅を小さくちぎって竹串に刺し、黄粉をまぶして炭火で焼き、甘い味噌だれをつけていただく。Sさんは懐かしそうに餅を食べ、「いやあ、これでわが郷愁は充たされました」。Sさんは京都生まれで、13歳になるまで京都で育っている。食べものの記憶がいちばん残っているそうだ。(あとはニシン蕎麦、いもぼう、琵琶湖のもろこ、貴船の鮎・・・)。


 ●五味文彦『「枕草子」の歴史学』(朝日選書 2014年)を読む。『後白河院 王の歌』、『後鳥羽上皇 新古今集はなにを語るか』、『鴨長明伝』に続く作品。歴史と文学の幸せな結合がもたらす実りを存分に味わわせてもらった。


 写真はかざりやのあぶり餅。上はいま仕込んでいるところ。これを炭火であぶり、味噌だれをつけて供したものが、下です。


2014_0729_172905p7290004 7月29日(火)晴れ。炎天下、外出が続いて、夏風邪をひいてしまった。40度近い屋外と27、8度の室内を出たり入ったりしているうちに、体調を崩したらしい。幸い発熱はなかったが、咽喉は痛いし、鼻水は出るし、体はだるいし、というので2,3日、おとなしく籠居していた。まだ咳がとまらないが、遠来の客あり、鷹峯の川床へ行く。紙屋川沿いの日本庭園の中に設けられており、青もみじも涼やかな、なかなか風情のある床である。客の要望で、食事の前にすぐ近くにある光悦寺を訪ねてきた。
 紙屋川に張り出した床の外は渓谷で、河鹿の声や鳥の声、虫の音などが届く。6月にはホタルが飛ぶと聞いて、来年はそのころに来ましょうと客が言う。では、太宰治ではないが、蛍のころまで生きていましょう、と答える。

 籠居していた間に読んだ本。


 ●宮崎賢太郎『カクレキリシタンの実像』(吉川弘文館 2014年)


 ●坪内祐三『昭和の子供だ君たちも』(新潮社 2014年)


 ●藤川義之『ある文人学者の肖像ー評伝・富士川英郎』(新書館 2014年)


 ●佐伯一麦『渡良瀬』(岩波書店 2013年)


 写真は鷹峯にあるしょうざんの川床。屋根しか写っていませんが。


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