2014年09月

Img_0413 9月25日(木)雨のち晴れ。京都では毎日のようにどこかで市が開かれている。手作り市やら骨董市、青物市など、その代表的なものに21日の東寺の弘法さんと25日の天神さんがある。今日25日は北野天満宮の天神さんの日で、散歩がてら久しぶりに覗いてきた。朝まで雨が降っていたせいで、露店の数が思ったより少ない気がしたが、いくつもある古着屋の周りは人だかりがしていた。ある古着店の前で、若者たちが紬の着物に袖を通している。山と積まれた古着の中から男性用の着物を選んで試着しているのだが、「袖が短すぎる」と云いあって


Img_0417いる。その様子を見ていた女性客の一人が、「男の人なら袖の下からシャツが出ていてもいいのよ」。若者たちは大学の落語研究会のメンバーで、「落語のときは袖からシャツが出るのは駄目なのです」という。いまの若者は体が大きいから、古着だと手も足もはみ出してしまうだろう。気が付くと周りは外国人観光客だらけ。「店仕舞いのため半額」と書かれた店には、古伊万里の染付が並べてあった。天満宮の「瑞饋祭(ずいきまつり)」が近いので、楼門に猿田彦と剣鉾が飾ってあった。天神さんの瑞饋祭では文字通り、ずいきなどの野菜で飾られたお神輿が出る。北野が畑だったころの名残でしょうか。


 ●松田哲夫『縁もたけなわ』(小学館)を読む。『編集狂時代』とも重なるが、とにかく面白い。作家にとってもそうかもしれないが、編集者にとってもいい時代だったのだなあ、と思う。


Img_0422 9月24日(水)曇り。●高島俊男『お言葉ですが・・・別巻⑥』(連合出版)に紹介されていた●たくきよしみつ『裸のフクシマ』(講談社 2011年)を読む。福島第一原発から25キロ離れた川内村に住む作者による記録で、被災直後からの現地の様子が詳しく記されている。震災後、多くのルポや記録が書かれたが、この本には現地に住む人ならではの生々しさと問題提起がある。被災後いち早く出たものだが、復興が思うように進まない原因や被災者の心身を蝕むもの(補償金)などについて言及されていて、やっぱりなあと思われたことだ。震災をテーマにしたフィクションも数多く書かれているが、●木村友祐『聖地Cs』(新潮社 2014年)はその中の一つ。初めて読む作家だが、この人が新聞のインタビューに、「被災地の状況はますます難しくなっている。東京五輪を開くことで、国は東北を切り捨てたのだと思う。お祭り騒ぎに目を向けさせて、今も24万人いる現実を見せないようにしている。浮き足立たずに、腰を据えて、この国の底知れぬ冷たさに対峙する作品を考えていかなければと思う」と応えていたのを見て、読む気になった。Csとはセシウムの元素記号で、『聖地Cs』には、事故後、被ばく地に取り残された牛たちを飼育する人たちが描かれている。実在する牧場をモデルにしたという。作者自身、その牧場でボランティアとして働き、そのときの体験がもとになっているそうだ。国は被ばく牛の殺処分をもとめているが、牧場主は牛たちを「原発事故の生き証人として生かして役立てたい」と言っているそうだ。
 被災直後の日本人の気分――「原発に頼らない生活をしよう」――はどこへいってしまったのか。


 写真は庭のコムラサキ。ムラサキシキブとも。以前、嵐山の和菓子屋の前で、この実を見た観光客が「あっ、これセイショウナゴン」と言ったのを覚えている。友人のおつれあいは、マーガレットの花を見て、「エリザベス」と言ったそうですが。


2013_0923_103603p9230006 9月21日(日)晴れ。午前中、伏見の羽束師にある運転免許試験場へ免許証の更新に行く。午前8時半から受付と云うので、少し早めにいったのだが、8時過ぎに着いたときにはもう窓口の前には行列ができていた。いつまで車の運転ができるものやら、と思いつつ列の後ろに並ぶ。申請書の注意書きに、次のような持病がある場合は記載するように、とあり、「認知症、統合失調症、てんかん、再発性失神、そううつ病」などと記されている。突発性貧血とめまい(?)、はないようだから何も記入せず。免許更新をすませたあと、近くの久我神社や道元の誕生寺へ立ち寄ってから帰宅。この辺りは平安から近世まで久我一族の所領地だったところで、ずいぶん前に京都大学で久我家文書展があったとき、一族の末裔である女優の久我美子さんが来て話題になった。
 帰ると東京のKさんより電話あり、11月に同窓会で大阪へ來るが、そのとき入院中の友人を見舞いに行くので同行するようにという。闘病中の友人のことは聞いていたが、詳しいことは知らなかった。中・高校と6年間親しくした友人で、「memories stay as near and dear as yesterday」(思い出は昨日のごとく我が胸に在り)なのである。その日は大事な予定があるのだが、病人には時間がないのよ、というKさんの言葉に頷いてしまった。


 余命いくばくもないと宣告された病人の見舞いほど辛いものはない。元気なころの活躍ぶりを知っているだけに、病み衰えた姿を見せたくないのでは、という躊躇いが先に立つ。これが反対の立場だったらどうだろう。あれこれ考えて、夜半まで輾転とす。


行き行きてたふれ臥すとも萩の原」(曽良)


 写真は鴨川べりの萩。


Img_0405  9月20日(土)曇り。メールが使えぬ相手に急ぎの郵便を出しに行く。三条通りを烏丸まで歩いて、土曜日も開いている中京郵便局へ。連休初日とあって、町には観光客の姿多し。速達を出したあと、いつもの店でお香を購入す。店の前にフジバカマとシュウメイギクの鉢が置いてあった。毎年見かける光景だが、昨年はここでフジバカマの花にとまったアサギマダラを見た。店員さんに、今年はまだ来ませんか?と尋ねたら、「今年はまだ姿をみせませんね。もうそろそろ現れるころなのですが。こんな町なかによく来てくれると感動します」とのこと。フジバカマに来るアサギマダラのことを、ここからさほど離れていない洛中の町家に住む杉本秀太郎さんが『火用心』(編集工房ノア 2008年)に書いていた。マンションが立ち並ぶ洛中にある杉本家は江戸以来の大店で、建物は国の重要文化財に指定されており、その庭も国指定の名勝となっている。その庭に咲くフジバカマに毎年アサギマダラがやってくるという。『火用心』は、富士正晴の思い出を記した巻頭のエッセイ、「富士の裾野」がいい。人文書院から『伊東静雄全集』を出すとき、桑原武夫から手伝うよう依頼があり、編集作業に参加した。そのとき初めて富士正晴に会ったが、初対面の日、杉本家に泊まりに来た富士正晴はすこぶる自然体で、一目で心を許せる相手だと思った・・・。


戦後の富士さんは、小説も、随筆も、そして詩も、すべてぶっつけで書き、ほとんど抹消も訂正もしなかった。こういう書き方のできた人は、私の知る限り、ほかにはアランあるのみ。けだし散文芸術はかくあるべしというお手本が、遠いフランスではない、すぐ身近にあった。私はいまだに千里の遠くをうろついてる。『日暮れんとす、灯を用意せよ』。富士さんの好きだったことばがよみがえる


 「富士の裾野」はこう結ばれている。


 写真は烏丸通・松栄堂の店頭にあるフジバカマ。環境省のレッドリストでは、準絶滅危惧種に指定されている。


Img_0392 9月16日(月)承前。大学の集中講義で上洛したMさんと、夜、先斗町で食事。予約するとき店のご主人に、「何がいただけるのかな」と尋ねたら、「名残の鱧に走りの松茸にしましょうか」との返事。期待して出かけたら、店の前で本を抱えたMさんといっしょになった。珍しくこの日は他に客がなく、ほぼ貸切状態。二人の話に女将も加わって、まるで女子会のような賑やかさ。まこと女三人寄ればなんとやら、である。土瓶蒸しは鱧と見事な松茸、蛤入り。Mさん曰く、「松茸が大振りすぎて、食べても食べても中身が減らない」。八寸もお造りも結構Img_0394_2なものでしたが、最後の焼き物は金目鯛と松茸。秋を満喫、の一夕でした。


 ●ヨルゲン・ランダース『2052』(日経BP社)を読んでいたら、未来予想の一つとして、「スコットランドが独立してニュー・ヨーロッパに参入」とあった。この本の副題は「今後40年のグローバル予測」。著者によると、今後米国は衰退し、世界の勝者となるのは中国だとある。また、世界中で都市化が進み、自然保護が疎かにされ、生物多様性は損なわれる、とある。40年後、朱雀子はもうこの世にはいないから、この予想が当たるのか外れるのか、見届けることはできない。


「しかしともかく、もう立ち去るべきときである。私は死ぬために、諸君は生きるために。しかしわれわれのいずれがより大きい幸福へ赴くことになるか、それは誰にもわからない。神様よりほかには」(『ソクラテスの弁明』)


Img_0391 9月16日(火)晴れ。先だってテニスの全米オープンで、錦織圭選手が準優勝した。彼が勝ち進むごとに報道もヒートアップして、決勝戦前にはいろんな解説者が試合の予想をしていたが、その中に福井烈さんの懐かしい顔を見た。テニスの名門柳川高校を出た彼が、全日本選手権で優勝したのは1977年ごろのこと、確か史上最年少だったと思う。福井烈さんといえばいがぐり頭に大きな目という印象が強いが、TV画面の福井さんは57歳という年齢相応の顔で、「自分が生きている間にこんな日が来るとは、夢にも思いませんでした」。体格的に劣る日本人選手が、世界四大大Img_0389会の決勝まで勝ち進んだなんて、夢のようだ、と何度も口にされた。長生きはするものですね。


 久しぶりに町の本屋さんをはしごする。写真上は四条河原町コトクロス4Fにある「ブックファースト」。ここには滅多に入りませんが、久しぶりに覗いたら、「岩波書店 僅少本フェア」が開催中でした。なかに『網野善彦全集』もありました。


下は四条通のジュンク堂書店で。文芸コーナーの書棚に並んだ野呂邦暢の本。


 ●瀬戸口宣司『「詩」という場所』(風都舎 2014年)を読了。井上靖、高見順、野呂邦暢、村山塊多の詩についての的確で緻密な論考。なかに佐藤泰志について書かれた「佐藤泰志を記憶に」と「佐藤泰志の詩」という文章あり。またあとがきには、41歳で逝った作家と個人的な交流があったことが記されている。小説家が詩を書くということについて、彼らにとって「詩という場所」がどういうものであったか、実作者ならではの生きた言葉に教えられること多し。


Img_0375 9月13日(土)晴れ。大丸京都店で「日本の色 吉岡幸雄の世界展」を見る。広い会場いっぱいに色とりどりの作品が展示されていたが、中でも「源氏物語」のコーナーに魅かれた。源氏物語に出て来る衣装の色を染めて、光源氏が女性たちに贈る「衣配り」を再現したもの。祇園に吉岡幸雄さんの店があって、通りがかりに時々覗くのだが、植物染料で染められた色の無限のひろがりにいつも目を奪われそうになる。この日も繊細な色のグラデーションに見とれた。蝉の羽のように薄い生地、天女の羽衣のようにふわりと軽い布が少しずつ濃さや明るさを変えて重なり合っている。色の名前も多彩な色の数だけあって、日本人の色に対する感覚の鋭さにいまさらながら驚かされた。写真上Img_0376は、紫の上に贈られた衣で、左は桜のかさね。右は紅花染のもの。写真下は「藤袴」。布の前にフジバカマの鉢が置いてありました。ちなみに私の好きな花散里は、浅黄色の衣でした。空蝉はあったかしらん。


 夜、遠来の客と祇園の「味ふくしま」で食事。こころゆくまで季節をいただいた、という感じ。最初に出た小鉢は、月にみたてたしんじょ(のようなもの)の上に、淡路島の由良のウニが乗っていた。対馬のグジ(甘鯛)、五島のなんとか、太刀魚はどこのだったか、タイ、アワビ、鴨、翡翠色のナス等々、いずれも見事な料理で、目も口も存分に楽しませてもらった。話に夢中になって、何を食べたか詳しく紹介できないのが残念。また近いうちに出かけましょう。


 ●佐伯一麦『日和山』(講談社文芸文庫)を読む。つい先日、若いころに書かれたという『渡良瀬』(岩波書店)を読んだばかり。ほとんどが自分のことを書いたいわゆる私小説だが、読後、静かな余韻がのこる。 


Img_0380 9月15日(月)晴れ。敬老の日。いま国内には100歳以上の人が58,820人もいるそうだ。勿論過去最多で、そのうちの87%が女性だという。同じマンションにも101歳になる女性がいるが、つききりで介護している娘さんは、家族を他県に残して単身京都へ来ておられる。留守家族を案じながら、もう意志の疎通もままならぬ母親の世話をしておられる。できるだけ自宅で看てやりたいという姉弟たちの希望で、彼女が介護役を引き受けることになったのだそうだ。敬老の日、マンションに住む高齢者へ自治会からの祝いの品を届けにいって、そんな話を聞いた。
 私たち夫婦は双方とももう親を見送っているので、親の介護問題で悩むことはないが、いずれ来る自分たちの最期については時々思わないでもない。いま、「一冊の本」に上野千鶴子が連載している「おひとりさまの最期」を毎月、関心をもって読んでいる。先月号の冒頭の見出しは「在宅介護へ舵を切った政府」だった。できるだけ最期まで住み慣れた場所にいたいと願うのは当たり前のこと、だがそれを実現するためには介護力のある同居家族や、地域医療のサポートが要る。政府が在宅介護へ方針転換するのなら、まず地域医療や訪問介護などの体制の拡充が先であろう。敬老の日というので、われにもないことを考えた。


 街なかの家の庭に彼岸花が咲きだした。花が咲くときは葉はなく、花が終わったあと葉が出るので、この花を「ハミズハナミズ(葉見ず花見ず)」と呼ぶところもある。ネリネ、曼珠沙華、篝花、いろいろ呼び名があるが、切り花にして部屋に飾ろうとは思わないのは、彼岸に咲くことから、あの世、「死」を連想させるからではないか。華やかだが、どこか暗い妖気を感じさせる。彼岸のころ奈良の明日香村へ行くと、この花が群れ咲いて、一面に赤い。


「かたはらに秋ぐさの花の語るらく ほろびしものはなつかしきかな」(牧水)


Img_0331 9月13日(土)晴れ。18日、スコットランドで独立の賛否を問う住民投票が行われるという。イギリスが連合王国だとは知っていたが、(イギリスの正式な名前は、United Kingdom ob Great Britain and Northern Ireland  グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)、スコットランドに独立の風がこんなに強く吹いているとは知らなかった。若い頃、仕事の関係で家族ぐるみの付き合いをしていたイギリス人たちがいた。彼らと話していて驚いたことは、だれもが自分を紹介するのに「イギリス人」だとはいわず、「ス


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コットランド」だの「ウエールズ」だのと言うことだった。無知な私は日本でいう、長州、会津くらいにしか考えていなかったのだが、そんな単純なものではなかったらしい。日本に滞在中、スコットランド人(!)のWさんに初めての子供が生まれたという報せがあり、みんなでお祝いをしたことがある。ちょうど、5月のお節句前だったので、「日本では男の子が産まれると、これを家の庭に揚げてお祝いします」と、鯉のぼりをプレゼントした。Wさんは驚いていたが、帰国後、自宅の前に揚げた鯉のぼりの写真を送ってくれた。(このときのことを「スコットランドの鯉のぼり」というタイトルで小説に書いたことがある。) Wさんは、スコットランドとイングランドの区別もつかない無知な私に、自国での暮らしぶりをいろいろ話してくれたが、その中で記憶に残っていることといえば、・・休暇をどう過ごすか、という質問に、彼が「生家に帰ってフォックスハンティングをする」と答えたこと、また、Wさんから「日本人の家を訪ねてみたい」と言われて、必死になって断ったこと。ではあなたの家はどんなものなのか間取りを教えて、と言われて困惑したこと。当時の我が家は2DKの借家で、イラストを見せても彼らが理解できるか自信がなかった。「ロッホ・ローモンド」や「蛍の光」、「アニー・ローリー」「マイボニー」など、スコットランド民謡を歌ってみせるのが精いっぱい、冬にはラグビー談議で盛り上がったのも忘れがたい。ずっとクリスマスカードをやり取りしていたが、いつのころからかそれも途絶えた。Wさんが夫人と鯉のぼりを贈ったときの男の子を伴って来日したのは、私が職場を離れたあとだったから、もうずいぶん遠い日のことになる。まだ健在なら今度の住民投票をどう思っているだろう。


 写真上は9月6日夕方の鳴門海峡。激しいうず潮が。下は9月7日朝の鳴門大橋。向こうが四国です。


Img_0161 9月11日(木)晴れ、ときどき俄か雨。淡路島から帰った翌日、持病のめまいに襲われて、昨日まで動けず。今朝、ようやく平常に戻る。休んでいる間は立てないし、目も使えないので、小栗判官状態。いまもまだ完全復帰というわけではないが、家事をする分には支障なし。ようやくパソコンを使えるようになったので、ブログを書いているところ。淡路島ではいくつか図書館を覗いてきた。小さい町の図書館だが、よく設計されていて、町民の拠り所となっている様子。二つほど記録しておく。南あわじ市の三原図書館は、一階が図書館で、二階に「淡路人形浄瑠璃資料館」がある。


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これは昭和40年代まで活動していた人形座の市村六之丞座を譲り受けて保存公開しているもの。江戸時代、淡路島の人形浄瑠璃は、徳島藩主蜂須賀氏の保護もあって、40以上の座があり栄えたという。島のいたるところに人形の看板あり。資料館の中には舞台がそのままで、巡礼お鶴と母親の再会場面が。
 階下の図書館には、「音楽・文楽」のコーナーがあった。


 ホテルは鳴門海峡を見下ろす高台にあり、そこから車で10分ほどのところ、福良港近くに南淡図書館がある。複合ではなく独立した図書


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館で、館内にピアノがあり、こどものためのお話の部屋があって、利用者に親しまれそうなライブラリー。佐賀の伊万里図書館を思い出した。


 全国各地の図書館を訪ね歩いたのはもう20年も前のことになる。いまだにその時の癖で、旅先で図書館を見かけると、つい覗いてみたくなる。近場でいえば、滋賀や大阪には、立ち去りがたい図書館がいくつもあるが、わが京都には・・・。自分の書庫代わりになる図書館が身近にあれば、自宅の本を減らすこともできるのだが。といってもわが蔵書など、いかほどのも


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のでもない。それでも積んでは壊し、壊しては積みの繰り返し、さながら賽の河原のごとし・・。ああ。動物は図書館などなくても生きるための知恵と知識はすべて頭の中にある。人間だけが膨大な情報を頭に収めかねて、外付けの記憶装置を必要としているのだ。人間が辿ってきた道のりを知るには、その記憶装置を頼りにしなければならず、図書館の存在理由はよってそこにある、と思われる。アメリカのワシントンにある国立公文書館の正面にはこんな文字が刻まれているそうだ。


「What is past is prologue, Study the past」(過去はこれからのプロローグ、過去を学べ)


 病み上がりゆえ、どうも支離滅裂な文章になってきたので、これで淡路島行きは終り。


写真上は南あわじ市三原図書館エントランス。右奥が図書館。左階段を上がると人形浄瑠璃資料館。中上も同じ。下二つは南あわじ市の南淡図書館。愛らしい親しみに満ちた図書館でした。


Img_0301 9月6日(土)承前。曇り空が一転して快晴に。強い日差しを避けて、「うだつまるサイダー」の看板がある店に入る。「うだつまる」とは脇町のイメージキャラクターで、町のそこかしこでその姿を見た。徳島名物「すだち」サイダーもある。ずらりと並んだ中から、うだつまるサイダーをいただく。見回すとここは魚屋で、店の奥に大きな俎があった。その店の近くにしっくい造りの脇町図書館がある。町並みにあった造りで、中に入ると蔵の中にいるよう、開架書棚はまるで細長い書庫のようだった。土曜の午後で、子どもたちが多い。成人コーナーに若者の姿あり。外ではお年寄りしか見Img_0310


かけなかったので、嬉しくなる。小さいが町の人たちの憩いの場となっている様子。


 図書館を出て、川向こうのオデオン座へ向かう。オデオン座は昭和9年(1934)の創建。周り舞台や奈落を持つ立派な芝居小屋で、戦後は歌謡ショーの公演や映画館として市民に愛されたそうだが、映画の斜陽化と共に寂れて閉館。取り壊される予定だったが山田洋次監督の映画のロケ地となったことから延命したもの。いまは貸劇場となっていて、内部が見学で


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きる。昔懐かしいレトロな芝居小屋だが、石積みの奈落はちょっと怖かった。 


 夕方脇町を出て、淡路島へ戻る。徳島自動車道を走っている途中、突然の豪雨となる。最近の気象は変だ。降り出すと一極集中の豪雨、穏やかに万遍なくというのがない。鳴門大橋を渡るとき、眼下にいくつもの大きなうず潮を見た。


 夜、ホテルで鯛しゃぶ、タコのカルパッチョ、ハモのてんぷら、淡路牛、たまねぎサラダなど、島の味を堪能す。


 写真上は脇町の飲み物。中は脇町図書館。漆喰の壁に「脇町図書館」の文字あり。下は映画のロケ舞台となったオデオン座。


Img_0239 9月6日(土)曇り。鳴門大橋を渡り、徳島へ。予定の時間までまだずいぶんあるので、近くの四国霊場へお参り。88か所のうちの10か所ほどが鳴門周辺にある。第一番霊山寺へ行くと、朝早いせいか、参詣客の姿はちらほらというところ。このお寺の納経所には、白い及摺、念珠、金剛杖、菅笠(同行二人の)、納め札など遍路支度のいっさいが販売されていて、ここでお遍路さんに変身、というわけだ。私は不信心者なので、普段着姿のまま。大師堂まで行って引き返し、ついでに2番(極楽寺)、3番(金泉寺)、4番(大日寺)、5番(地蔵寺)と廻ってきた。待ち合わせ場所のJImg_0258


R池谷駅へ行く途中、ドイツ館の看板あり、寄り道することに。行ってみると、ドイツ館の隣に賀川豊彦記念館あり。その前庭でフリーマーケットの準備中、まだ開店前なのに覗いて、酢橘(すだち)と柚子を購入(柚子は搾ったもの)。記念館も開館前のところを入れてもらい、見学す。(入館料200円でした)。賀川豊彦がノーベル文学賞とノーベル平和賞の候補になったということを知る。若き日の大宅壮一にも大きな影響を与えたそうだ。
JR池谷駅は鳴門線と高徳線の分岐駅。寂れ


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果てた無人駅だが、分岐点ゆえ特急(うずしお号)が停まる。ここで人と待ち合わせなのだ。
 無事待ち人と合流し、美馬市脇町へ。脇町は吉野川の水運を利用した藍の流通業で栄えたところ。うだつのある漆喰壁の重厚な家が並ぶ町並みで知られる。以前、山田洋次監督が「虹をつかむ男」という映画のロケを行ったことから、全国的に知られるようになった。そのとき舞台となったオデオン座という芝居小屋(映画館)がまだ残っている。国の重要伝統的建造物群保存地区で、江戸時代の建物が並ぶ様に、橿原の寺内町、今井町を連想した。


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 徳島は藍の産地、その藍を全国に販売していたのがこの脇町の豪商たちだった。各家には数十人もの使用人が同居しており、家々の裏には船着き場があって吉野川へと続いていた。近代化が進み、水運が寂れ、道路が一筋離れたところに新しく通るようになって、藍問屋の通りは忘れられた。高齢化とともに後継者不在の家は寂れ、空家が増えていたところに、町おこしのブームがおきて、町が甦ったというわけ。戦災に遭わなかったのも幸いしたのだろう。いまも後継者は都会に出てしまったという家が少なくないそうだが、市に委託・寄託して町並み保存を守っているようだ。しかし人影少なし。


 写真上は四国霊場第1番霊山寺。中上は鳴門市の香川豊彦記念館。中下はJR池谷駅構内。わかりにくいが、右側が高徳線のホーム。左側に鳴門線のホームがある。下は美馬市脇町。卯建(うだつ)のあがる家。


Img_0088 9月5日(金)曇り。土曜日に徳島行の予定あり、その前後を淡路島で過ごしてきた。久しぶりに明石大橋を渡る。生憎の曇天で、海峡の眺望悪し。淡路ICで高速を降り、まずは震災記念公園へ。島の西側山手には、一面に太陽光発電のソーラーパネルが設置されている。山の稜線には風力発電の風車が並び、淡路島は自然エネルギーの島という印象を受ける。棚田の稲はもう刈り入れ間近で、傍らにオレンジ色のナツズイセンが咲いていた。道すがら、白いセンニンソウの花や、瑠璃色のノブドウの実が目につく。Img_0094


 震災記念公園には、1995年の大震災の折り出現した野島断層が保存されていて、地球のエネルギーが生々しく伝わってきた。だが平日のせいか館内には人影なし。記念館を出て、少し南にある北淡歴史民俗資料館へ向かう。小さな建物に民俗資料がぎっしり展示されていたが、隣に茅葺の民家があって、そこにも民具が山のように収納されていた。小学生にもわかるように、ていねいな説明書つき。それによるとこの家は、第65代衆議院議長をつとめた故原健三郎氏の生家で、江戸中期に建て


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られた農家とのこと。部屋の真ん中に囲炉裏があり、廊下に繭を入れた大きな笊があった。いずれも古びて朽ちる寸前という気配、民俗資料の保存は難しいだろうなと思われたことだ。


 淡路島といえばまず思い浮かぶのが『古事記』にある国生み神話。食いしん坊の私には、淡路牛に玉ねぎ、タイ、ハモ、タコなどの豊かな海産物。百人一首の「淡路島かよふ千鳥のなく声に 幾夜ねざめぬ須磨の関守」(源兼昌)、それから人形浄瑠璃でしょうか。司馬遼太郎の『菜の花の沖』の主人公高田屋嘉兵衛の出身地でもあります。
伊弉諾神社から淡路島牧場へ。牛舎の前に、「乳牛にモーツアルトの癒しの曲を毎日8時間聴かせています」という看板あり。福島県喜多方市にも、麹にモーツアルトを聴かせて発酵させている酒造家がいたが。隣の建物では乳搾り体験ができるというので、数組の若い男女が待機していた。やがて乳牛が引かれてやってきた。張り切って仕事に向かうという足取りなり。別の柵内には、生れてまもない仔牛がたよりなさそうに横たわっていた。清少納言は、「牛は、額はいとちひさく、しろみたるが、腹の下、足、尾の筋などは、やがてしろき(がいい)」と言っているが、当時の日本には、まだホルスタインはいなかったのではないか。


 子どもの頃、馬は時々見かけた。まだ荷馬車が存在していたからだ。だが牛を見たのはもうずいぶん大きくなってからだったと思う。大人になって隣市に移り住み、山手でキジを初めて見たとき、どこの動物園から逃げてきたのかと思ったものだ。野性の動物に会うたび、いまだにそう思ってしまうのが情けない。


 写真上は色づいた稲穂とナツズイセン。中は北淡歴史民俗資料館。隣に茅葺の旧原家あり。下は淡路島牧場で、出勤中の牛。


2014_0818_114109p8180190 9月4日(木)曇り。カナダで開かれているモントリオール世界映画祭で、呉美保監督の「そこのみにて光輝く」が最優秀監督賞を受賞した。呉監督は受賞のスピーチで、


「この映画の原作者である作家・佐藤泰志さんは、芥川賞候補に何度もノミネートしながらも賞に恵まれず、不慮の死を遂げました。この賞を獲得し佐藤さんが報われたかなと感じています。佐藤泰志さんにおめでとうございます!」


と語っている。呉監督が言ったように、佐藤泰志は地味だが真摯な生を描き、評価されながらも文学賞とは無縁なまま、1990年に41歳で自死。新聞で彼の死を知った時、遺された妻と3人の子どものゆくえを思って、胸衝かれる思いがした。彼が残した作品を思い出したように読み返してきたが、近年、作品集が刊行され、作品が映画化されるなど、静かなブームが起きているのは嬉しいことだ。代表作『海炭市叙景』も映画化されたが、原作の雰囲気がよく再現されていて、不遇な若者たちの生きづらさや寄る辺なさがひしと伝わってきた。愚直に(真直ぐに)文学を信じた作家、という印象があるが、没後20余年を経て、新しい読者を得、映画化されることによって作品に新しい命が吹き込まれる・・・、決して明るい小説ではないが、共感を持つ若い読者は少なくない。映画「そこのみにて光輝く」は未見、再上映を待つことにしよう。


 ●沓掛良彦『式子内親王私抄』(ミネルヴァ書房)を読了。和泉式部と式子内親王を愛するという著書の式子論を興味深く読んだ。私もこの二人を女流歌人の最高位に置く。和泉式部の歌は実体験による、式子内親王は観念による、だが、和泉式部には深い諦念というものがあり、その哀しみが時代を超えて読むものの胸を打つ、と私は思っています。


 写真は寺町通りにあるうつわ屋さんの店内で。ガラスの器が涼やかでした。


2014_0829_151909img_0035 8月31日(日)承前。池田城跡は五月山の丘陵にある。五月山は一帯が公園になっていて、動物園やら植物園、ハイキングコースなどがあり、この日駐車場への道には車が列をなしていた。城址を出たあと、阪急池田駅近くにある呉服神社へ向かう。この地は古くは渡来人秦氏の拠点の一つだったそうで、平安中期に漢氏系の渡来人によって呉庭(くれば)の地と名付けられたという。伝承によると、応神天皇のころ、呉から兄媛、弟媛、呉織、穴織という4人の織工女を連れてきて、その内の3人を武庫に招いた。のちに穴織を伊居太神社の、呉織を呉服神社の祭神としたと2014_0829_160212img_0048


いう(『日本書紀』)。天皇の求めで大陸から織姫をつれてきたが、そのとき天皇は亡くなったあとだったという話は、垂仁天皇の命でトキジクノカグノコノミ(タチバナ)を大陸から持ち帰ったという田道間守を連想させる。呉服の里といえば織物が思い浮かぶが、池田は格別紡績が盛んというわけでもなさそう。再び五月山の麓に戻り、伊居太神社へ。参道は緩やかな石段になっていて、周りは鬱蒼とした雑木林。いかにも古びた社で、応神・仁徳天皇と穴織を祀る社殿の屋根はいまにも崩れ落ちそう。天正時代、戦火で焼失したが、のち豊臣秀頼の命により片桐且元によって再建されたという。ここは五月山への登山道になっているようで、崩れた塀の向こうをひっきりなしに人が通り過ぎるが、中に入ってお賽銭をあげるような人はおらず、境内は深閑としていた。池田市に現存する最古の社というのに、気の毒なことなり。しかし寂れた佇まいには、なんとも心落ち着かせるものがあって「よきかな」であった。なにごとも諸行無常、盛者必衰というわけですね。


 写真上は呉服神社。下は伊居太(いけだ)神社。


2014_0829_142717img_0028 8月31日(日)晴れ。久しぶりにFさんとの歴史散歩で池田を訪ねる。池田にある小林一三の美術館(逸翁美術館)を中心に、周辺の神社仏閣を訪ねようというもの。小林一三は山梨県韮崎の出身で、阪急グループの創始者。この池田の町も20世紀初頭、小林によって宅地開発されたもの。電車の沿線に住宅地をつくって利用人口を増やしていくという方法の嚆矢ではないか。逸翁美術館には小林が集めた美術工芸品が5000点近く収蔵されていて、いまは物語の場面を描いた「お話美術館」展が開催中。ポスターは蕪村の「牛若丸画賛」、ここには蕪村や呉春の作品がかなりの数あるようだ。なかでも呉春による「年中行事句画賛巻」を


Img_0073楽しく見た。呉春(1752-1828)は京都生まれ、蕪村に俳諧と画を学び、1781年、妻を亡くしたあと池田に転地。翌正月、池田(呉服の里)で春を迎えたことから「呉春」を名乗った。蕪村亡きあと帰京し、応挙亡き後の京都画壇の中心となり、その一門は四条派とよばれたーーということを今回初めて知った。そういえば、京都の錦市場近くに「呉春宅趾」の石碑を見た覚えがある。池田には「呉春」の名の清酒もあるそうだ。小林一三は今年創立100周年を迎えた宝塚歌劇団の生みの親でもあり、自宅跡の「小林一三記念館」には歌劇団に関する展示もあった。数十年前の舞台写真を懐かしそうに見ていたFさんは、つい先日、兵庫県立美術館で開催中の「宝塚歌劇100年展」へも行ってきたそうだ。関西に住んで20年になるが、宝塚歌劇団にはまだ全く縁がない。
 美術館の北方、山手に池田城跡あり。周りはマンションだらけだが、城址の東側には深い堀の跡が残り緑が濃い。この城は文保3年(1319)、池田教依によって築かれたという。池田氏は南北朝時代には有力な土豪だったらしい。1568年、織田信長の摂津攻めで落城、その後、摂津守となった荒木村重により三の丸を備えた城として整備されたが、村重の謀反により有岡城(伊丹)が陥落すると池田は秀吉の領地となり、城は廃棄された。現在は城址公園として新しい市民の憩いの場となっている様子。高台にあるので、眼下に猪名川が、向こうに六甲の山並みが見える。この辺りはあまり馴染みがないので、地図と見比べながら眺望を楽しんだ。


 写真上は池田城跡公園。下は逸翁美術館のチケット。蕪村の「牛若丸画賛」


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