2015年06月

Img_2965 6月19日(金)曇り。全国的に空き家が社会問題化しているが、京都も例外ではない。町を歩くと無人となった家屋をよく見かける。東山あたりなど、長屋がこぞって空き家というのも珍しくない。町なかでは空き家を京風店舗にリノベイトしたものを見かけるが、(それが人気)それだけではまかないきれないほど、空き家が増えている。人口が減っているのだから、新築よりも中古建物を再利用するほうがいい。京都は木造の町家がまだ多く残っているが、年々姿を消している。今日も取り壊された跡を見かけた。隣の壁にゴーストのように家の形が張り付いている。壁を共有していImg_2847るせいか、こんな風景をよく見かける。


 16日の新聞に、「文科相が国立大学の学長に国旗国歌要請」という記事あり。国立大学86校の学長に、入学・卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱を要請した、というもの。また、文系学部の廃止や組織改編を求めた、とも。補助金と権限を握る文科省からの求めに、学長たちからは困惑の声があがっている・・・とある。なんだかいやあな感じ、今上天皇は、「国歌国旗を強制しないように」と言われたと記憶しているが。文系廃止、組織改編というのもねえ。大学に実学だけというのは片肺飛行のようなものにならないかしら。一見無駄にみえるもののなかに、人間の未来があるということだってありうるのにねえ。


 市場に青い実山椒が出ていたので買ってきた。早速ちりめん山椒をつくる。ちりめん200gに山椒を50gほど。(たっぷりが好きなので) まずは実山椒をお掃除。なかなか細い茎がとれない。自宅用だからとそのまま使うことに。先日事故で亡くなったUさんは、このちりめん山椒つくりの名人だった。できあがったものを拡げて風で煽ぐと、さらさらとなると教えてくれた。Uさんの言葉を思い出しながら作業に集中。今年も美味しくできました。


 写真上は寺町下御霊神社あたりで。下は麩屋町通りで。こんな空き地が目立ちます。


2014_0622_143453p6220040 6月17日(水)曇り。午後から洛西の日文研行。少し早めに着いたので、同じ研究会仲間のYさんと近くの桂坂野鳥遊園へ行く。山裾に設けられた野鳥観察地で、池のそばの観鳥楼で休憩しながら自然観察ができる。Yさんは野鳥の会のメンバーで、鳥だけでなく自然に関してかなり詳しい。早速、カワセミを見つけ、目の前を飛び交うトンボの名前を教えてくれる。私にはさっぱり。池にはカルガモが遊び、燕が水面すれすれに飛び去る。緑に囲まれた静かなひととき。この日は研究会のあと、人事異動で職場がかわる職員さんの送別会に参加、若い人たちとの元気な会話を楽しみました。


●藤田孝典『下流老人 一億総老後崩壊の衝撃』(朝日新書)を読む。なんだかここのところ、文芸書とは無縁の高齢者問題の本ばかり読んでいるような気がする。つい先日は、男性介護の話を集めた『オトコの介護を生きるあなたへー男性介護者100万人へのメッセージ』(クリエイツかもがわ)などという本を読んだばかりだし。この本も確かに衝撃的だった。同窓会だの、いとこ会だのと遊んでさらいて(長崎弁で「遊び歩いて」という意味です)いいのか、と頭を殴られた感じ。誰もが安心して老いることができる社会であってほしい、と願ってはいるのですが。


2012_0627_060810p6270033 6月16日(火)曇り。楽あれば苦あり、旅から戻ると溜まった仕事を片づけるのに時間がかかる。郵便物の山、メール、留守電をチェックして返事を送る。そこにAさんより電話あり、共通の知人が亡くなったという報せ。13日に交通事故で、と。新聞やTVのニュースに出たというが、そのころ私は鎌倉にいた。今日の正午から告別式だというので、慌てて仕度する。よき家庭人で、困った人をみると放っておけない人だった。交通事故だなんて、避けることはできなかったのかと悔やまれるばかり。あまりにも突然のことで、ご遺族はいまだに茫然自失の態であった。
 ●ヨナス・ヨナソン『窓から逃げた百歳老人』(西村書店)を読む。なんとも荒唐無稽な物語に、笑うどころか呆れてしまう。よくもまあ、こんな出鱈目をと言いたくなるが、いやいや20世紀という百年の歴史を俯瞰しているのかも、と思い直す。この本のおかげで、別離の哀しみをしばし忘れることができた。


 写真は今年も山形のHさんから届いたサクランボ。東北からの初夏の味、最高です。


Img_3175 6月15日(月)曇り。ホテルを朝9時半に出て、一路布良漁港へ。幹事のTの奥さんの実家が布良にあり、Tがそこにセカンドハウスを持っているというので、みんなで立ち寄ることにした。房総の海岸は延々と続き、行けども行けども果てが無い感じ。人影はないが、豊かな海という印象。海岸に迫る山には黒々と常緑樹が繁り、長崎半島や紀州和歌山の海岸に似ている。布良は小さいが美しい海辺の町で、映画のロケ地によくなるそうだ。青木繁の代表作「海の幸」はこの浜が舞台だという。Tのセカンドハウスは古い蔵をリノベーションしたもので、Img_3185巨大な梁がそのまま活かされていた。T夫人の実家を継いだ弟さんご夫妻がもてなしてくださる。この地の名産という枇杷をご馳走になったが、これが球形なのにびっくり。琵琶の形ではないが、甘くておいしかった。夫人の曾祖父はこの地のリーダーだった人物で、内村鑑三に大きな影響を与えたといわれている。明治初めにこの地でアワビ売買を村の共有として、その収益で小学校を援助し、道路、水道、漁港整備などの公共事業を行った。当時のアワビ漁は相当収益があったようで、それだけ公共事業に使っても、村人に分配するだけのものが残ったという。水産伝習所の教師だった内村鑑三が布良を訪れたのは明治23年のこと。漁業調査で来たのだが、神田吉右衛門(T夫人の曾祖父です)に会い、彼の話を聴いて、教師をやめて宗教家・思想家への道に進むことになったという。子どもが減って廃校となった小学校の門脇に神田吉右衛門の顕彰碑があった。昔は貴族ではなくても、村のリーダーにはノブレス・オブリージュ精神が確かにあったのだ。
 いまこの町は高齢化と少子化で限界集落に近づいているとのこと。人口の半分が65歳以上で、1000人いる集落に小学生はたった2人。若者が働く場がないから、どうしても都会に出てしまう、出たらもう戻ってこない、と。高齢者のための施設が不足するから東京の年寄りは元気なうちに地方に移住せよ、という提案があるそうだが、なんとも乱暴な話ではないか。誰しも住み慣れたところで最期まで暮したいだろうに。


 館山を過ぎ、富浦から高速に乗ってアクアライン経由で羽田へ。羽田に午後4時着。みんなはJALなので第1一ターミナルへ、私はANAで第2ターミナルへ。空席ありというので、一つ前の便に変更し、早めの便で伊丹へ帰る。新聞もTVも見ない3日間でした。


 写真上は鴨川の海岸。下は布良でいただいた房州枇杷。大粒でまんまるです。だれかがタンクタンクロー枇杷と言いました。半分は「それなに?」でしたが。南房総はいいところですが、遠いなあというのが正直な感想。でも海を身近に感じて幸せな3日間でした。


Img_3143 6月14日(土)雨のち曇り。朝早く、宿の近くを散歩。近くの鎌倉文学館や和田塚などを見る。文学館は早朝ゆえまだ閉門中。近くの民家のアジサイを眺めながら古い家並を歩く。前日訪ねた本郷とはまた少し趣が異なるが、鎌倉にもたくさんの文人たちが住んでいた。彼らにとって、住みやすい環境だったのだろう。いまはどうかしら、いまも文人たちに愛されているようだが、昨日のような人混みが続くと・・。地図を見ると、少し遠いが護良親王を祀った鎌倉宮(大塔宮)がある。つい先日この宮の話をしたばかり、訪ねたいが時間がないので次の機会Img_3156に。


 この日は幹事のTの提案で、成田山経由で南房総の鴨川行。鎌倉から鴨川へ行くには羽田沖からアクアラインに乗って館山まで高速で行くのが最速ルートなのだが、今回は湾岸道路から成田へ遠回りして行くという。まあ、東京湾を見物しながらいくのもいいかと、みんなでマイクロバスに乗る。私には初めてのルートで、横浜のベイブリッジを渡り、羽田の滑走路下のトンネルを通り、右にディズニーランドを見ながら東関東自動車道路へ。民俗博物館がある佐倉、いい公共図書館がある四街道を過ぎ、成田の成田山新勝寺へ。ここは真言宗のお寺で、本尊の不動明王は弘法大師開眼という。平将門の乱を平定するため、本尊を都からこの地に遷して寺が開かれたと伝えられている。そもそもの始まりはここでも京なのか、と思う。境内に「二宮尊徳開眼之地」の石碑があった。現世御利益という点で、西の伏見稲荷、東の成田山新勝寺という感じか。


 成田から房総半島の真ん中をひたすら南下すること3時間弱、ようやく鴨川着。海辺の宿は典型的なリゾートホテル、でも海に面した露天風呂はなかなか佳きでした。夕食も海の幸尽くし、繊細な京料理とは違った、豪快で盛沢山の海鮮料理を楽しみました。


 写真上は鎌倉文学館門前。下は成田山新勝寺の山門。 


Img_3119 6月13日(土)年に一度の「いとこ会」で鎌倉へ。品川から横須賀線に乗るもグリーン車は満席に近い。なんとか坐れたが沿線の駅や跨線橋にはカメラを手にした鉄道マニアが鈴なり。この日は横須賀でレトロ列車が集まるのりものフェスタがあるらしく、そういえば後ろの席の親子は電車の絵のTシャツ姿なり。鎌倉駅に着くと駅はもうあふれんばかりの人。祇園祭の宵山もかくやと思われるほどの人出で、タクシーは待っても待ってもやってこない。古都鎌倉にはタクシーはいないのかしら、では人力車でもと思ったころようやく一台やってくる。道路Img_3133_2が渋滞して車が動かないのだろう。ちょうど紫陽花のシーズンで、長谷寺などに紫陽花見物の観光客が押し寄せたらしい。由比ヶ浜近くの宿で全員集合、休憩したあとぶらりぶらりと大仏さんまで歩いて行く。大仏さんまでの道もすごい人、なるべく裏道を選んで行く。「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」与謝野晶子の歌の通り。鎌倉の大仏さまはなかなかの美形。それにしてもこの人混みはどうだろう。京都で観光客の群れには馴れているものの、たじろぐほどの混雑ぶり。長谷寺への参道もまるで初詣のような人の波。一同「やめよう」と即決、由比ヶ浜経由で宿へ戻る。稲村ケ崎を見て、「♪七里ガ浜の磯伝い 稲村ケ崎名将の 剱投ぜし古戦場♪」が口をついて出る。この唱歌を知っているのは、われわれの世代が最後か。由比ヶ浜では海の家が設営中。曇り空の下、灰色の海ではウエットスーツ姿のサーファーがたくさん波乗りを楽しんでいた。


 夫婦とも大学教師のKが来春そろって退官という。退官バブルでうるおうので、長期旅行に出るという。閑さえあれば旧街道を歩いているそうで、来年のいとこ会は「街道をゆく」にしようという。このいとこ会も今年で25年目。みんな齢をとった分衰えているから、果たして歩けるものやら。ちなみにいとこ会の一番年長者と年少者の年齢差は20歳です。


 夕食時、いとこ会25年の旅の記録が配られて、話に花が咲く。海外勤務者が何人もいたので、彼らに会いにヨーロッパへ出かけたこともあった。25年の間には親を見送り、既に2人のいとこが鬼籍に入っている。みんな、years roll by,and memories syay  as near and dear as yesterday(歳月は過ぎゆくも、思い出は昨日の如くわが胸にあり) といった面持ちになる。


 写真上は鎌倉の大仏さま。下は由比ヶ浜のサーファーたち。右端は設営中の海の家。


Img_3107 6月12日(金)承前。夕方、江戸表に出張中のつれあいと押上で落ち合い、おのぼりさんコースを体験す。〇〇の高登りよろしく、スカイツリーの展望台へ上る。あいにくの曇り空で眺望悪し。それでも一番近い緑の一画が上野だというのはわかる。京都タワーが出来た時、京都でいちばんいい場所は京都タワーの上だ、なぜならタワーが見えないからだと誰かが言ったそうだが、このスカイツリーも同じか。都内の思いがけないところからぬっと見えるが、目障りに思う人もいることだろう。全国各地にある巨大な建造物(観光用の観音像だの五重塔など)はいやでも目に入るわけで、迷惑なことだ。ランドマークだという人もいるが、加賀や淡路島の観音像など何度見ても慣れることがない。話のタネにと誘われたのだが、今回限りになることだろう。
 浅草のすし屋通りにある蕎麦店に寄る。ここのおかみさんは「浅草おかみさん会」の創設者で、いまやその活動の舞台は全国的。東京オリンピックのあと、浅草は寂れて暗かったという。その寂れた町を元気にしようと1968年に生まれたのが「おかみさんの会」で、女性たちが知恵を絞って町起こしに奔走したという。カーニバルをやったり、ジャズフェスティバルをやったり、二階建バスを走らせたり・・。自分の店だけが栄えても地域全体が繁栄しなければダメ、というのが口癖で、これは宮沢賢治の「世界ぜんたいが幸せにならなければ個人の幸せはない」と同じか。この春彼女が率いるおかみさんの会が、京都南座で公演中の若手歌舞伎役者を応援するため大挙してやってきた。役者を囲んで遊んだ、その時のご縁で、表敬訪問となったもの。半時ほど、おかみさんや店の若い人たちと談笑す。NHKの連続TV小説「おていちゃん」(1978年放送)は浅草出身の女優沢村貞子の半生記を描いたドラマだが、そのとき台詞のモデルをつとめたのがこの女将だという。脚本家の寺内小春が、おかみさんの会話をせっせと録音したそうだ。花森安治も彼女の心意気に惚れこんで、『暮しの手帖』で大きく紹介したことがある。『暮しの手帖』に載った彼女の写真―縞の木綿の着物を着て、颯爽と歩く彼女の姿―を覚えていると言うと、おかみは喜んで、その時の『暮しの手帖』を引っ張り出してきた。42年も前の雑誌、新婚時代のわが虎の巻。花嫁修業とは無縁だった私は、家事のほとんどをこの雑誌で学んだ。料理も洋裁も編み物も、さまざまな手仕事のすべてを。この雑誌に載った人物紹介で覚えているのは、彼女と北海道遠軽にある家庭学校の留岡幸助。何故かこの二人のことは記憶に残っている。


浅草をあとにして今夜の宿・品川の東京マリオットホテルへ。


 写真は浅草寺の境内からスカイツリーを見て。


Img_3084 6月12日(金)曇り。朝の便で東京行。偶然にも前日から上京中のYさんと御茶ノ水で落ち合い、本郷へ向かう。Yさんといっしょに編集者のKさんにお会いする。初めてお会いするKさんはおっとりと穏やかな笑顔の持ち主で、小柄な体のどこにあれだけの仕事をこなすエネルギーが潜んでいるのかと思われたことだ。極めて優秀なエディターなのである。帰途、本郷を少し案内してもらう。意外にも坂が多いのに驚く。その坂(菊坂)の途中に案内板があり、本郷に住んでいた文化人・作家の名が記してあった。地図上に散らばる作家の名は、Img_3085宮沢賢治・石川啄木・広津和郎・徳田秋声など、最も知られているのは樋口一葉だろうか。彼女が通ったという質屋はいまも健在だそうだ。職場に戻るKさんを見送り、駅でYさんと別れたあと、地下鉄で渋谷まで行き、井の頭線で駒場に向かう。駒場公園にある日本近代文学館や近くにある日本民芸館へは何度も行ったことがあるが、旧前田家の文化財を収めた尊経閣文庫を訪ねるのはこれが2回目。ここは古典籍、古文書の宝庫なのだ。駒場公園は旧前田家の邸宅跡で、日本家屋と洋館(いずれも重要文化財)が保存されている。どちらも昭和初期の建築で、当時は100人をこえる使用人が働いていたというからすごい。日本家屋は耐震工事中で見学は不可だが、洋館の方は一般公開されている。(この日も時間がなくて、立ち寄れず)


 駅から駒場公園までは瀟洒な住宅街が続いている。以前訪ねたのは桜の時期で、そこかしこに桜吹雪が舞っていた。道沿いに林檎の花が咲く家もあった。水無月のこの日、家々にはバラが咲き、ジャスミンが甘い香りを漂わせている。大都会の中の緑豊かな一画。東京は京都に比べると町の中に緑が多いと思う。京都は山が近く、町なかに神社仏閣が点在するので緑が多いように感じられるだけではないか。


 写真上は駒場公園に隣接する加賀前田家の尊経閣文庫。下は駒場で見かけた緑に覆われた家。夏は涼しいのではないかしら。


Img_3079 6月12日(金)雨。三条烏丸にある三井ガーデンホテルの前に大きなナツツバキの樹がある。昨日の午後、その前を通りかかったら、大きな樹いっぱいに、はかなげな白い花が咲いていた。この時期はヤマボウシやナツツバキ(シャラ)、ユリノキなど、好きな花が次々に咲いて、町歩きが一段と愉しい。ナツツバキはあちこちに咲いているが、九州にいたころはこの花のころ、伊万里の大川内山へよく出かけた。やきものを見るついでに花を愛でたというのが正しいが。京都ではこの花をお釈迦様の涅槃した時そのそばにあった沙羅双樹に見立てて、お寺で沙羅を愛でる会などが行われImg_3075る。本物の沙羅双樹はどこかの植物園にあるらしく(琵琶湖の水生植物公園みずの森にあります)、5月ごろ花が咲いたとニュースになったりする。散歩の途中、町かどで好きな花に会うと、ああ、また一年が過ぎたかと思う。あっという間の一年、若いころに戻りたいとは思わないが、できれば現状維持を願いたい。


 急な用事ができて、今日からちょっと京都を留守にします。ではまた来週に。


写真は三条烏丸近くのナツツバキ。はかなげで涼やかな、お茶花です。


Img_3048 6月10日(水)晴れ。●勝又浩『私小説千年史』(勉誠出版 2015年)を読む。表紙裏の紹介文には「長年私小説の研究を行ってきた第一人者による、私小説研究の総決算、日本文学の底流には「日記」があるという視点から、近代の私小説に至るまでの日本文学史を書き換える!」とある。日本文学の基礎には個人の心境を綴った平安女流文学の「日記」があり、世界でも珍しい「日記の幸ふ国」である。その精神風土が近代になって「私小説」を生んだ。日記の好きな日本人であるゆえに私小説も好きで、それを高度な文学に展開してきたのだ、と著者は語る。和歌や俳句をImg_3053_2好む理由は「日記」を好み、私小説を好む理由と同じものだと。後半では代表的な私小説作品について書かれているが、(田山花袋、岩野泡鳴、川端康成、伊藤桂一、志賀直哉、辻潤、牧野信一、小島信夫など)伊藤桂一の私小説は未読で、少し興味をひかれた。


 作家にとっては「よく知っていることをもとに、虚構を描く」というのが創作の手法ではないかしら。「神は細部に宿る」ではないが、どんなに壮大なテーマを持つ作品でも、細部の描写にリアリティがなければ作品としての力は無い。白紙に未知の世界を描くのが創作者だとしても、物語の舞台や人物には自分がよく知る世界を使っている。本当のような嘘を創るのが物語作家で、小説の中の本当と思われるのが嘘で、嘘のような部分が本当だとよくいわれたものだ。大江健三郎などはそのいい例ではないか。しかし最近読んだ青来有一さんの『人間のしわざ』(集英社)を何といえばいいのだろう。これはまるで中世の語り文学の世界だ、いや、最も新しい幻想文学だと、まだ衝撃が続いている。


 写真は京都市の御池通り。上は南側、下は北側に咲くあじさい。南側は白く、北側は青。クチナシの白い花がいい香りを漂わせています。


Img_3062 6月9日(火)曇り。この前、つれあいの同窓会で聴いた話。メンバーの一人、滋賀県に住むMさんはNPO法人で福祉事業を運営しているのだが、いまイモ発電に取り組んでいるそうだ。サツマイモを発酵させて取り出したメタンガスを燃料にして電気を起こすもので、もう実際にイモを育てているところだという。土地を有効利用するため地面にではなく、3段の木棚に苗を植えた土の袋を並べて栽培しているそうだ。木くずなどによるバイオマス発電は聴いたことがあるが、イモ発電とは。Mさんの施設では、太陽光発電も行っているが、イモ発電だと、人手がいるところがいいという。たくさんの人がかかわって(そこに障碍者も参加できる)、これも地産地消の一つになると。実際、宮崎県のある酒造では、イモ焼酎のカスで400万㌔ワットを発電し、売電もしているという。問題は、イモを発酵させる温度で、夏場はいいが、冬場には発酵させるためのエネルギーが別に要るかもしれないという。滋賀県には競馬馬の訓練所があるが、そこから出る馬の糞をバイオマス発電に使えないか、琵琶湖の葦は使えないのかしら、などとしばらくみんなで談論風発。自給自足の暮らしは夢のまた夢だが、自分が住む地域規模でこんなことができると楽しい。Mさん、応援しています。


 写真はナデシコの花の蜜を吸う蝶。神宮道の和菓子屋の店先で見かけました。


Img_3066 6月8日(月)午後、「平家物語」を読む会に。前回に続いて今日もまた、熊野詣に出てくる「御師」と「先達」についての話。前回は御師の初例として、藤原宗忠の『中右記』を教えてもらったが、今回はこの二つの言葉の初見を示される。『兵範記』久安5年(1149)11月30日条と、『水左記』承暦4年(1080)11月26日条の記述。そこから話は『太平記』に移り、後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王の話になる。護良親王は尊雲法親王として天台座主となっていたが、父親の後醍醐が鎌倉幕府討幕運動(元弘の乱)を起こしたので、還俗して父親のために参戦した。十津川や吉野、高野山と転戦し、ついには京都の六波羅探題を滅ぼしたが足利尊氏と相反。建武の新政では征夷大将軍となったものの、父親の醍醐天皇との間に不和が生じ、鎌倉に幽閉されたのち足利直義によって暗殺された。講師のU先生は、


 「鎌倉幕府打倒の最大の殊勲者は護良である。隠岐に流された後醍醐天皇の代わりに、武士や寺社を組織、そのため土地を寄進し、恩賞を与えた。それが天皇の権限を犯すものとされ、後醍醐との対立の原因となった。護良が皇位を奪おうとしているという尊氏の讒言により、護良は鎌倉に幽閉され暗殺された。護良は義経に似ている。日本武尊にも似ている。『太平記』の護良の行動は、能の「安宅」に通じるものがある。護良の部下村上義光は、義経における武蔵坊弁慶ではないか」。


 かねがね、頼朝はずるい、自分は鎌倉から動かず平家討伐を弟に任せて、弟がそれをやり遂げると邪魔にして殺してしまうとは、と思っていたので、なるほど、歴史は繰り返すのだなあと妙に感心してしまった。義経の場合も平家討伐後、判官となり、都で力を持ったのを頼朝に警戒された(ここでも讒言する者あり)のであろう。後だしジャンケンではないが、何事も同じか。無名時代のアーチストを支え応援してきた人が、芸術家が世に出た後ひっそりと隠れているのをいいことに、後から来た者が支援者としてアーチストを支配する、という姿をいくつも見てきた。無名時代のアーチストを全く評価しなかった人たちが、掌を返すような言動をとるのを見ると、人間不信に陥ってしまう。護良親王や義経の無念はいかばかり・・・格別この二人を贔屓するわけではないが、この日のU先生の語りには熱が感じられました。


 護良親王が転戦した紀伊半島の和歌山県、奈良県には、大塔村という名の村があったが、近年の市町村合併で消えてしまった。和歌山県の大塔村は現在田辺市、奈良県の大塔村は五條市に編入されている。『太平記』はなんとなく敬遠してまだ読破してないが、その舞台はいくつか訪ね歩いたことがある。笠置や河内、十津川、大塔村、桜井の駅、この前は鳥取県の琴浦町など。1333年、足利尊氏が六波羅を攻める際、旗上げをしたという亀岡市の篠村八幡宮には、旗立場がいまも残っています。


 写真は綾小路通新町西入ルの杉本家。5月27日に亡くなられた杉本秀太郎先生のお住まいです。


Img_3039 6月5日(金)曇りのち雨。午後、歴史学者K先生の案内で、木幡の宇治陵を歩く。JR奈良線の黄檗から木幡駅にかけての東側の山手一帯は平安時代以来藤原氏の墓所で、宮内庁が指定した37の陵が点在している。道長は寛弘2年(1005)、ここに浄妙寺三昧堂を建立した(現在の木幡小学校グラウンド)。木幡駅の近くに天皇の皇妃となった藤原氏の女性たちを祀る陵(1号)があり、ここが総遥拝所となっている。そばには藤原北家の、基経から頼通までの名を刻んだ石碑があって、道長は関白と記されていた。(道長は摂政にはなったが、関白にはなっていない) 37の宇治陵のほとんどは〇〇号というだけで、埋葬者の名は特定されていない。だが、これが道長のものとされるものがあって、それが32号だというので、雨の中、探して訪ねた。陵とされるものはほとんどが6世紀ごろの古墳で、わずかなマウンドに適当に番号をふっていったのではないかと思われる。(宇治陵が指定されたのは明治になってからのことである) 32号陵を見てみんながっかり。「この世をば我が世とぞ思ふ」道長の墓にしてはなんとも侘しい。陵が指定されたころのこの地は緑の丘だったのだろうが、いまはびっしりと家が立ち並ぶ住宅地となっていて、そこに点在する陵は案内板もなく、打ち捨てられた感じ。これが「栄華物語」に描かれた藤原氏の墓所だとは、諸行無常の気分になった。浄妙寺は中世には廃絶したらしいが、体育館建設工事の際、小学校のグラウンドから三昧堂と多宝塔の基壇が出て来て、場所が確定した。『御堂関白記』に書かれた記述が考古学の見地からも実証されたのである。古記録を読む愉しみは、現場を訪ねて検証できることにもある。この日の歩数13000歩。楽しい一日でした。


 写真は宇治市木幡の宇治陵32号。道長のものと推測されているが、K先生はもっと小学校に近い丘の方にあるはずだと言われた。晴れた日に、再訪してみたい。


Img_3021 6月3日(水)近畿地方も梅雨入り。横浜から来客あり。待ち合わせで京福電車(嵐電)の嵐山駅へ行く。嵐電に乗るのは久しぶりのこと。以前はこの近くに住んでいたので、この時期は夕食後よく渡月橋のあたりまで散歩にきていた。夏など鵜飼の船が出るのを河岸に座って(缶ビールを飲みながら)見物したりしたものだが。写真ではよく解らないが、橋の向うに法輪寺が見える。いまは十三詣りで有名なお寺だが、平安時代は虚空菩薩の信仰厚く参詣者の多いお寺だった。清少納言も『枕草子』で、「寺は」の段にこの寺の名をあげている。清少納言Img_3031も参詣に来たに違いない。


 『梁塵秘抄』にもこのように歌われている。


 「いづれか法輪へ参る道 内野通りの西の京 それ過ぎて や 常盤林のあなたなる 愛敬流れ来る大堰川」


 「嵯峨野の興宴は 山負ふ桂 舞う舞う車谷朝が原 亀山法輪や 大堰川 ふち吹く風に 神さび松尾の 最初の如月の初午に富くばる」


写真上は嵐山の渡月橋。この橋を境に上流は大堰川、下流は桂川。写真下は嵐電嵐山駅。友禅模様のポールがたくさん立っていて、なかなか華やかです。


Img_3012 6月8日 同窓会旅行の2日目は天橋立行。それぞれの車でまずは丹後一宮籠神社へ。私たちは先月来たばかりで、そのとき神社の裏にはすずらんが咲いていたが、この日はハコネウツギが咲き、放置された果樹園には色づいた枇杷の実が鈴なりになっていた。みかんの花も咲いていたが、みかんも枇杷も全く手入れがなされていないので、藪も同然。果樹園だけでなく見回せばあちこちに耕作放棄地があり、思わず「勿体ないなあ」。農地は住宅地の100分の一くらいしか税金がかからないから放置しても苦にならないのだろう。最近、里山資本主義とかで、農業をやりたい人たちが耕作放棄地を借りて野菜や果物を作るのが流行っているようだが、快く貸してくれる農家に出会えるのは容易ではないらしい。京都市内にも空き家がわんさかあるが、その空き家を活用したという人がいても、大家はなかなかうんと言わないらしい。高齢者のサロンや地域の人たちの集会所などにすれば楽しいだろうが。
 籠神社の本殿前に大きな茅の輪が設けてあった。京都市内では6月30日に行われる夏越の祓が、ここでは一ケ月前に行われるようだ。案内通り、8の字に茅の輪をくぐり、半年分の厄を祓ってきた。
 夕方には京都へ戻る。


夜、●藻谷浩介『里山資本主義ー日本経済は「安心の原理」で動く』(角川新書 2013年)を読む。東北大震災の原発事故以来、エコロジーへの関心は深まったと思う。これまでのような使い捨て消費オンリーの生活を見直そうという気分は広がったと思うが、何をするにもお金が要る町生活者にとって、里山資本主義は羨望の対象であっても即実行とはいかない。薪ストーブなど考えられないマンション生活では、自給自足は夢のまた夢なのだ。町暮らしでもできるエコ生活を心がけるのが精いっぱい、思想としては共感するが、実行には遠いというのが本音か。寂しいことだが。


Img_3000 6月8日 先の週末、つれあいの友人たちと夫婦同伴で一泊二日の旅をしてきた。関西に住む同窓生たちとの年に一度の旅で、もう20回目。今年は海外出張中の一組が欠席のため10人の参加で、行先は天橋立。夕方ホテルに集合ということなので、京都から京北の西鯖街道を経由して行くことにする。国道162号を走るのは久しぶりのこと。青もみじが美しい高雄を過ぎ、北山杉の木立を眺めながら京北へ。美山に入ると、川沿いに白い花をつけた樹が目立つ。エゴノキの白い花、葉の一部が白いマタタビ、谷を覆うように咲いたウツギの白い花、だがこの花の名がわからない。写真を撮って、図鑑で調べることにする。福井県名田庄の道の駅で一休み。ここは土御門家ゆかりの地で、暦博物館がある。土御門家は安倍晴明の子孫で、幕末まで暦博士(陰陽道)をつとめた。水上勉の一滴文庫がある大飯町からR27号を西へ。東舞鶴~西舞鶴~丹後松島といわれる美しい海岸沿いの道を一路栗田半島へ。東舞鶴にはシャッターを下ろした店が多く、寂れた様子だったが、由良海岸から宮津へ行く途中の国道沿いにあった料理屋が揃って閉店していたのには驚いた。きっと京都縦貫道が出来てからみんな高速でまっすぐ天橋立へ行くようになったので、客が激減したのだろう。
 夕方、一年ぶりにみんなの顔が揃う。20年前と比べるとみんな年をとって、その証拠に男性陣の酒量が落ちた。部屋に戻っての団欒も、午後10時には早々とお開きになった。以前は果てしなく宴が続いたものだが。(話は毎度同じ、男性たちはみんな幼馴染とあって、昔話を聴くのは楽しかった。これもまたラベルのボレロの如く、延々と続く繰り返しなのだが)


 帰宅してから植物図鑑で調べたら、この樹はエゴノキ科アサガラ属のオオバアサガラでした。京北の山の谷沿いにたくさん咲いています。


Img_2971  6月8日(月)曇りのち雨。元禄2年(1689)のこの日、芭蕉は「奥のほそ道」の旅で、白河から矢吹に入っている。


「心なき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ。「いかで都へ」と便り求めしもことわりなり。中にもこの関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なほあわれなり。卯の花の白妙に、茨の花の咲き添ひて、雪にも越ゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改めしことなど、清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。
 卯の花をかざしに関の晴れ着かな  曽良」(『奥のほそ道』「白河の関」)


 芭蕉のころは旧暦なので、この日は元禄3年4月21日。昨年のいまごろ東北へ出かけて、芭蕉が歩いた時と場所を同じくして歩いて来た。須賀川では真っ白に咲いた卯の花を背にした芭蕉と曽良の像を見、安積の山では、「花かつみ」が一輪だけ咲いているのを見た。白河の関ではまさに卯の花と花茨が白く咲いて、芭蕉が言うように、「雪景色の中を越えていくような」気がした。今年はすべての花の開花が例年より早いので、いまみちのくではもう卯の花も花茨も散ってしまっているのではないかしら。芭蕉は白河の関へ到着して初めて、「旅心定まりぬ」という。わが「おくのほそ道」はまだみちのくで止まったままです。


 ●五味文彦『後鳥羽上皇 新古今集はなにを語るか』(角川選書 2012年)


 ●美川圭『後白河天皇 日本第一の大天狗』(ミネルヴァ書房 2015年)を読む。


後鳥羽上皇に関しては丸谷才一の『後鳥羽院』があるが、歴史家による文化人後鳥羽を書いたものとして五味文彦氏の著は刺激的であtった。


  写真は近所に咲いているスモークツリー。わたあめのような花です。


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