2015年08月

P8220001 8月26日(水)曇り。九州各地で台風15号による被害あり。博多と長崎に「大丈夫?」と電話する。これまでにない激しい風で怖かったけど何ともなかった、との返事。
 昨日に続いて、●高橋弘希『朝顔の日』(新潮社)を読む。前作「指の骨」は1942年のニューギニアが舞台だったが、この作品は1941年の東北三本木が舞台。幼馴染どうしが結婚して夫婦になったものの、妻が結核を患い町の病院(サナトリウム)に入院する。夫は仕事のかたわらせっせと病院に通うのだが、そこでの見聞や二人の日々が静かな筆致で描かれている。繊細で抑制のきいた文体には野呂邦暢というより、梶井基次郎を思わせるものがある。医療に関すること、たとえば人工気胸術など専門知識が必要と思われる場面がたびたび出て来るが、どのシーンも細部まで緻密に描かれていて、それらはまるで細密画を見ているよう。当時の風俗もよく再現されており、古風な言葉遣いもしかり、新しい歴史小説といってもいいほど。経済的にも人間関係にも恵まれた二人に破綻はないのだが、不治の病といわれたTBが唯一重くて暗い存在。死に近づいていく妻を見舞う夫の物語だが、少し長すぎるという感じがした。決して冗漫というわけではないのだが。前作「指の骨」でも感じられたが、主人公がどこか傍観者的なのが気になる。いやそれはあくまで観る人に徹しているからだといえばいえるのだけど。最近の若い人の作品をあまり読んでいないので比較はできないのだが、文章力は抜きんでているのではないか。ただきれいすぎるのが物足りない。患者や医者の人物造形はなかなか魅力的だったが。
 よく〈できた作品で、前作に続いてこの作品も芥川賞候補となったそうだ。芥川賞は話題の作品が受賞して200万部を突破する勢いとのこと。いやはや思わぬところから救世主あらわる、という感じ。「朝顔の日」の作者の次作を期待したいが、またまた一昔前が舞台となるのかしら。30代の作者にとって太平洋戦争は、私などにとっての第一次世界大戦という感じだろうか。全く想像もできない世界をよく調べて作り上げたものだ。その必然性が感じられるともっとインパクトがあったと思うのだが。


 写真は今月21日、改装オープンした京都BALの地下にある丸善書店。梶井基次郎の「檸檬」に出てくる本屋で、地下一階に檸檬を置いたこんなコーナーが設けられていました。


Img_2968 8月25日(火)曇り。台風15号の影響であやしい空模様。●高橋弘希『指の骨』(新潮社)を読む。昨秋、新潮新人賞を受賞した作品。最近は文芸誌を読む機会がなく、新しい小説とは縁遠くなるばかり。先日、このブログにコメントを寄せてくださった方に薦められたので読む気になった。作者は35歳の男性だが、『指の骨』は1942年のニューギニアを舞台とする戦争文学である。太平洋戦争で南方戦線に送られた兵士の戦場での体験、野戦病院での日々がリアルに描かれている。戦場で死んだ兵士の指が切り落とされて遺髪と共に奉公袋にしまわれる、仲間の兵士が亡くなるたびにそばにいる誰かがそれを行う。主人公がオーストラリア軍兵を殺す場面、飢餓との戦い、人喰いの予感、仲間の兵士たちの人物像など、「野火」や「遁走」などを思わせるシーンがいくつもあるが、戦争を知らない世代にも想像力によってこれほどリアルな戦争文学が書けるのかと感心した。友軍との予期せぬ銃撃戦で仲間の兵士が死ぬシーンで、野呂邦暢の『丘の火』を思い出した。ただ「丘の火」には戦場の真実を探るというテーマがあったが、この「指の骨」からはそういう切実なものは伝わってこない。情景描写も確かだし、登場人物もそれぞれ丁寧に描かれていて不満はないはずなのに、なぜ「戦争」なのかが見えないのがもどかしい。文章は的確で描写もすぐれている。カナカの人たちに真田兵士が日本語を教えるシーンは牧歌的ですらある、主人公の周りにいる者たちが次々に死んでいくところはどこか予定調和的で、残酷なシーンにも拘わらず血なまぐささが感じられないのが不思議だった。「指の骨」は想像力の勝利ともいえる作品だが、それをいうなら青来有一さんの『悲しみと無のあいだ』(文藝春秋)を一番に挙げたい。戦争を知らない世代による被爆体験が見事に描かれたもので、この作品には読む者を圧倒する「切実さ」がある。何故いま戦争か、何故いま原爆なのかが伝ってくるのである。「指の骨」にそれを求めるのは愚かなことだろうか?


 写真はよく行く昆布店。市場でいい魚(鯛やヒラメ)が手に入ったら、よく昆布〆を作ります。この前は祇園の料理屋で紅芯大根の昆布締めをいただきました。真似してみようかしら。


Dsc06886 8月24日(月)晴れ。読書会のテキスト、宮崎かずゑ『長い道』(みすず書房)を読む。著者は1928年生まれ、10歳のとき長島のハンセン病療養所愛生園に入園。以後、70年余をこの地で過ごし、80歳のころワープロを覚え文章を書きはじめる。70年余の島での暮らしが慎ましくも素朴な文章で綴られ、患者どうしの結婚生活、主婦らしいさまざまな暮らしの工夫が細やかに記されている。幼いころの思い出も詳細に記録されていて、そこには家族の愛情に包まれた幸せな日々が記されていて胸打たれる。先だって初めて北条民雄の『いのちの初夜』を読んだ。川端康成が強く推して1936年文学界に掲載された作品だが、隔離病棟に入院するハンセン病患者の苦しみに圧倒され、読むのが辛かった。北条民雄は1914年生まれだから宮崎かづゑより14歳年長になる。二人の入園時期は10年も違わないと思われるが、文章から受ける印象には大きな距離がある。『長い道』の著者は十分な教育を受けることができなかったが読書によって自分の世界を広げてきた。彼女が「武田百合子さんは『富士日記』も大好きですけれど、ロシア旅行のことを書かれた『犬が星見た』を読んで、なんとまあすごい文章を書く方なんだなと思いました」というくだりに共感す。彼女の母親は亡くなる直前まで年に2回、会いに来てくれたという。家族と縁を切った(切られた)ような人ばかりだったからみんなから羨ましがられたようだ。周りを刺激しないように母子の面会は目立たぬものであった。戦中・戦後の苦労、入園者どうしの摩擦、病気の苦しみなども書かれてはいるが、全編を貫いているのは感謝と日々の喜び。らい予防法が廃止されたのは1996年、だが患者たちの社会復帰は困難だという。とくに高齢の元患者たちは帰る場所もなく、いまだに療養所暮らしを続けているそうだ。


Dsc06832 8月23日(日)晴れ。京都の町には辻辻にお地蔵さんの祠がある。その数5千ともいわれるが、8月の終わりごろ、この地蔵さんの前で子どもたちの健やかな成長を願う「地蔵盆」が行われる。なにしろ辻辻にあるので、この日は大路以外の小路のあちこちが通行止めになる。少子化が進んだ近年は地蔵盆に集まるのは老人ばかり、という所もあるが、我が家の周りではまだ子供たちが健在で、赤い提灯を巡らした祠の前でお参りするお坊さんや数珠廻しをする子どもたちの姿が見られる。祇園祭、大文字、そして地蔵盆が過ぎると夏休みも終わり。


●島尾伸三編『検証 島尾敏雄の世界』(勉誠出版)を読む。長男である伸三さんの言葉、「お父さんと呼べる人が私にはいたのだろうか。あの物静かな男の人は、生きている時からなんだか理解の出来ない世界に住んでいて、尊敬できるし大切な人だとも思えるし、子どもながらに彼の為につくしてきたけれど、身近な気持ちにはなれなくて、いつだって他人に接するような遠慮をしてきました」「狂ったおかあさんの精神を治すために、おとうさんはおかあさんの故郷の奄美大島で暮らす決心をしたみたいだけれど、おとうさんとおかあさんが死んでしまった今になって思い返すと、おかあさんの病気はついに治らなかったような気がします」
 『死の棘』の日々が幼い子どもたちにもたらした苦しみを思う。


2014_0717_110057p7170071 8月19日(水)晴れ。音戸山の病院へ友人の見舞いに行く。私が京都を留守にしている間に緊急入院したらしく、連絡を貰ったときはもう手術を終えて一段落しており、声は元気そのもの。驚いて様子を見にいったのだが、病室から電話で仕事の指示をしているところは全く普段通りで、安心した。とにかく忙しすぎるのはよくない、しばらくペースを落としてゆっくりしたらどう、と言ってきたが無理な話だろう。彼女の代りが務まる人は、なかなかいるまい。
 病院前の道路を南に入ったところに保田與重郎邸がある。邸のそばに文徳天皇陵がある。御陵を廻るように池があり、


池畔にはあしびが多く、あしびの花は早々と春の花のさきがけとする。文徳天皇は惟喬親王の御父、從って業平がこの陵に詣で嘆いた伝説は当然の話であらう」(「京あない」保田與重郎)


わが山荘は市内から車で十分、市内電車の駅から歩いて五分、山の相をしているからか、うぐひす、ほととぎすを始め、大瑠璃などもくる。この冬はをしどりが数羽或ひは十数羽群れてきた。」(同)


 昭和39年(1964)、與重郎は「藝術新潮」にこう書いた。鳴滝音戸山はいま住宅がひしめいているが、野鳥の声はいまもしげく、文徳天皇陵を廻る池の佇まいは昔とそう変わらぬと思われる。


 ●美川圭『後白河天皇』(ミネルヴァ書房)を再読。著者は崇徳天皇が白河天皇の子だという噂を流したのは、鳥羽天皇の皇后美福門院得子の意を受けた藤原忠通ではないか、という。同じように、平清盛が白河天皇の落胤だという説を流したのは清盛本人ではないかとも。それによって自己の正統性を主張できるからだ、と。なるほど、倉本一宏氏が『平安朝 皇位継承の闇』に書かれたのと同じ。陽成や冷泉、花山天皇等の狂気を必要以上に伝承したのは、皇位継承者の正当性を主張したかったから。ことほど歴史を読むのは難しい。それゆえ面白くもあるのだが。


2011_0812_123723p8120079 8月16日(日)晴れ。朝の外気は18度。クーラー無しで過ごせるのが嘘のよう。湿度が低いので、日差しが強くても日陰に入ると爽やか。早朝、ホテルを出て、甲斐大泉の駅まで散歩する。駅は標高1158mの地点にあるので、往きは上り。駅に着いたとき、ちょうど小淵沢行きの始発電車が出たところだった。時刻表を見ると、電車は一時間に一本あるかないか。もちろん無人駅で、ホテルの人によると、一日の利用客は百人にみたないとのこと。(これで成り立つのかと不安になる)。


Img_4048 ホテルの周辺を散歩、毎年同じところに同じ花が咲いているのを見ると嬉しくなる。ルリタマアザミ、マツムシソウ、フウロソウ、レンゲショウマ、ナツズイセン、ヤマブドウ、スイカズラ、ツリフネソウ。


 帰る前に八ケ岳高原ヒュッテへ行く。カフェの庭でコーヒーをいただく。庭の隅の木陰に大きな犬が二匹、つながれたままご主人を待っている様子。私たちが目をやると、甘えた声でなく。相手をしてほしいのだろう。やがてご主人が現れると、ちぎれんばかりに尾を振りしきりに


Img_4090吠える。名前を尋ねると、「すみれ」と「さくら」だという。可憐な名前とは遠い面貌に思わず笑ってしまう。すみれにさくらちゃん、許してね。


 そのあと、横浜組と別れて一路京都へ。往きも帰りも渋滞なし、快適なドライブで大文字の送り火前に帰宅。我が家の精霊さんたちを無事送ることができました。


 写真上はマツムシソウ。中はルリタマアザミ。毎年同じところに咲いています。下は八ケ岳高原ヒュッテ。山田太一原作のTVドラマ「高原へいらっしゃい」のロケ地だそうです。


2011_0813_124334p8130141 8月14日(金)晴れ。北杜に滞在中はいつも安曇野や上田、軽井沢などへ足を延ばすのだが、今年は遠出はせずにゆっくり過ごすことに。子どもたちが馬に乗りに行ったので、ふと思い立って明野町のひまわり畑を見に行く。途中、高根の図書館に寄り、同じフロアにある朝川伯教・巧兄弟資料館を覗く。朝鮮陶磁の魅力を日本に伝え、柳宗悦らに大きな影響を与えた人。明野のひまわりは最盛期。夏休みで花見客多し。ここから北へ10キロほど行ったところに「三代校舎おいしい学校」があるというので、行ってみることに。青い実をたわわにつけたりんご畑の中を抜けると古い校Img_4014舎が見えた。三代とは明治・大正・昭和のことで、それぞれの時代の校舎が並んでいる。一番古いのは明治8年建築の校舎で、昔のまま保存されている。校舎の2階は歴史資料館になっていて、慶応四年三月に発令された太政官定書が展示してあった。いわく「切支丹宗門之儀は これまで御制禁の通り 堅く可相守事  邪宗門之儀は堅く禁止の候事」。慶応4年は明治元年、キリシタン禁止令が解かれたのはそれから5年後、明治6年のことである。(長崎ではその間に浦上のキリシタン3394人が流罪となる「浦
Img_4039上四番崩れ」がありました) 
 昭和の校舎は地元の野菜などを売る販売所となつかしの給食を食べさせる食堂になっていて、順番待ちの親子連れが列を作っていた。野菜売り場にひょうたんを太くしたようなユウガオがある。中年の女性が購入したので調理法を尋ねると、「冬瓜と同じように、薄味で炊きます」とのこと。京都にもあるかしらん。
 三代学校がある津金は山梨における林檎の産地とのこと。販売所にも早生リンゴがたくさん並べてあった。大きめのリンゴが7個入って1000円でした。
 写真上は明野町のひまわり。中は旧津金小学校(明治8年建築)。松本にある開智小学校に似ています。下はまきば公園(標高1400m)。ここでヤギや羊、ポニー、牛たちと遊ぶのが楽しみなのです。向うの山は茅ケ岳(深田久弥終焉の地。深田久弥は1971年3月21日、この山を登山中に脳卒中のため急死)。晴れていたらこのすぐ右側に富士山が見えるのですが。


2011_0812_131810p8120093 8月13日(木)曇り。連日37度の京都を脱出して、八ケ岳へ向かう。お盆休みを横浜に住む娘たちと山梨で過ごすようになって15年になる。赤ん坊だった男の子がもう来年は高校生、身長は175センチを超えた。横浜からは150キロもないが、道路渋滞のため、数時間はかかる。京都組は朝6時に家を出て、10時前に諏訪湖S.Aに到着。いつものようにここで一休み。諏訪湖を見ながらおやきを食べ、コーヒーで一服。ここまでの走行距離は約320キロ。15日の夜行われる諏訪湖花火大会の看板に、当日道路は5時間渋滞とあり。ここは岩波茂雄の出身地で、湖のそばに2013_0814_111326p8140080_2戦後出版された岩波書店の本をすべて所蔵する「風樹文庫」がある。決して広くはないが、書棚に並ぶ馴染み深い本の数々に、幸せな気分になる。いつ行っても館内は清々しい空気にみち、立ち去り難いものがある。岩波茂雄が座右の銘としていたワーズワースの「低處高思」(暮らしは簡素に、志は高く)はわが世代にもまだ生きていたはずだが。岩波、みすず、筑摩、理論社、etc... 志のある出版人に信州出身者が多いのは風土性によるのか。


Img_3998 小淵沢ICを降りて、標高1080mにあるホテルへ向かう。外気は27度。湿気がないので実に爽やか。夜、ホテルのロビーで、北杜高校ギター部による恒例の演奏会あり。全国大会で2年連続最優秀賞を受賞した実力を持つだけあって、クラシックから軽音楽まで聴きごたえのある楽しい演奏会であった。この夏限りでクラブ活動を終える3年生が演奏後目をうるませていたのが印象的。毎年見かける光景なれど、毎回新鮮に映る。クラブの演奏はアンサンブルがすべて、独りを怖れず、しかし仲間がいればより楽しい、という人生を。


 写真上は清里のサンメドウズ。標高1800m。向かいの山は八ケ岳の一峯赤岳。中は諏訪市風樹文庫の「低處高思」。下はホテルのロビイで演奏中の北杜高校ギター部。


2013_0716_070505p7160021 8月12日(水)晴れ。花園の法金剛院へ蓮の花を見に行く。このお寺は蓮の名所で、花の時期は朝7時から開門している。白、黄、赤、薄桃と色とりどりの蓮が咲く池の畔には、ブルーベリーの木もあって、ちょうどいまいっぱいに実をつけている。このお寺は鳥羽天皇の中宮で、後白河・崇徳兩天皇の生母である待賢門院璋子(1101-1145)によって開かれた。開基は大治4年(1129)、璋子はここに女院御所を設け、ここで落飾した。佐藤義清(のちの西行)が出入りしていたのは、いつごろのことか。女院は寺の背後にある五位山の中腹に葬られている(花園西陵)。のちに起きた保元の乱(1156)では、彼女の二人の息子(後白河と崇徳)が争うことになるのだが、平安末期のあだ花のような、いや大輪の蓮の花のような女性である。彼女自身には何の罪もない(悪いのは白河上皇?) 彼女について書かれた本は少なくないが、角田文衛『待賢門院璋子』(朝日選書)が何と言ってもいちばん信頼がおけるのではないか。ただし著者はあくまで崇徳を白河の子だとしているが、最近はそうではないという論もある。


 私の好きな藤原実方にこんな歌がある。


 底清く心の水を澄まさずは いかが悟りの蓮をも見む  (『拾遺集』巻二十)



 さて、明日からお盆休みで京都を留守にします。今回の旅のお供は●川村二郎『日本文学往還』(福武書店)。時々、無性に読み返したくなる本です。では行ってきます。


Img_3992 8月9日(日)晴れ。70回目の長崎原爆忌。朝、長崎からのTV中継番組を見る。11時2分、原爆投下の時間に西方を向いて黙祷す。いま長崎では寺や教会の、あらゆる鐘がならされていることだろう。船の汽笛、列車の汽笛も同じく。その音は長崎の町を囲む「なみよろう山」にこだまして、人々の胸に響く。今年の長崎市長の平和宣言は例年以上に真摯なもので、訴える力があった。被爆者の平均年齢が80を超えたという。今年の被爆者代表谷口稜曄さんも85歳。谷口さんは16歳のとき、郵便配達の途中被爆、真っ赤にやけただれた背中でうつ伏せに横たわる谷口少年の写真は教科書にも載った。あれほどの傷を負って、よく今日まで生き延びてこられた! だがそれは決して平穏なものではなかったにちがいない。


 夜、壬生寺の万灯会へ行く。我が家はここの檀家ではないが、毎年お盆にはこの寺に精霊迎えの灯籠を献じることにしている。日没後、1100個の灯籠にあかりがともる。我が家の灯篭もあった。この日は壬生六斎念仏が上演されるので、本堂の前に舞台が設置されていた。本番の前に、小学生(朱3六斎キッズ)による六斎念仏があった。みんな相当練習したのだろう、太鼓のばちさばきも堂に入ったもので、感心した。京都には地域ごとにいくつもの六斎念仏があり、お盆には各地で上演される。祇園祭と同様、子どもから年寄りまで出番があり、しっかりと伝統芸能が伝えられている。京都は民俗芸能の宝庫だと思う。子どもの出番のあと、大人たちによる壬生六斎念仏が行われるのだが、その前に寺をあとにする。六斎念仏を見るたびに、江戸、いや中世の京都に紛れ込んだような気になる。


 写真は壬生寺の万灯会。舞台は子どもたちによる六斎念仏。


 


Img_3928 8月7日(金)晴れ。1週間の滞在を終えて、子どもたちが京都を引き揚げた。帰りは子どもたちだけで飛行機に乗る。上二人は海外旅行の経験があり余裕があるが、飛行機に乗るのは今回が初めてだった末っ子は落ち着かない。だが空港で最後の買い物をすると、意気揚々とゲートをくぐっていった。上空は真っ黒の雷雲で時々稲妻が走る。無事飛ぶかしらと案じていたが、予定通り離陸するのを確かめて京都へ戻る。途中、豪雨に見舞われ、リムジンバスは高速道路の経路を変更して京都へ。バスがImg_3945_2京都へ着く直前、子どもたちから「いま着いたよ」「楽しかった!」と電話あり。子どもたちの母親も出て、「みんな、まだ帰りたくなかった、と言ってます。ありがとうございました」。子どもたちの声を聴いた途端、安心して力が抜ける。


 3・4日の両日、子どもたちに付き合って泊りがけでUSJに行った。(夜のパレードを見てから京都に戻るのは体力的に無理だろうというので、ホテルを予約したのだが、正解だった) ものすごい人出に驚いたが、その商魂の逞しさにはさらに驚いた。ホテルもべらぼう、USJ内での出費もべらぼう、子どもたちのためとはいえ、こんなのあり?と年寄りは内心穏やかならず。いやこれもGNPアップのため、景気浮揚のためといわれれば言葉はないが、一方で生活保護受給者数が最多更新などと聞くと、申し訳ない気がする。テーマパークなどには全く関心がないので、牛に引かれて善光寺参りの気分であったが、もう暑いのなんの、人混みでもみくちゃになり、昔人間には拷問のような二日間でした。とはいえ子どもたちの楽しそうな顔を見ると、疲れも吹き飛ぶという具合で、なんともだらしのない年寄りです。


Img_3993 8月5日(水)晴れ。●青来有一さんの『悲しみと無のあいだ』(文藝春秋)が本になった。去年の夏、この作品が「文學界」に載ったときすぐに読んで心揺さぶられたが、本になったものを読み、あらためて感動した。戦後生まれの世代にどのようにして被爆体験を伝えていくかはいまや切実な課題なのだが、そのために想像力があるのだということを証明してくれた作品。被爆体験のない者が原爆について書いていいのかという作者のためらいは、先輩作家であるHさん(林京子)の「自由に書いていいのですよ。小説は自由です」という言葉で払拭されたという。だが、戦争を知らない世代にとって原爆は余りにも重すぎるテーマで、なぜ彼らが死ななければならなかったか、生き残った者たちの「生きる悲しみ」をどう伝えるか、作者の苦悩は続く。被爆者であった父親の死をきっかけに父親の被爆体験に思いを巡らせ、ついには父親が体験した8月9日を創作する。私はこのくだりに作者の作家としての力と切実さを感じずにはいられなかった。まさに作家の想像力の勝利の賜物、想像力が産んだ最上の作品ではないか。戦争を知らない世代に訴えかける大きな力を持つ小説の誕生を讃えたいと思う。


Img_3994_2 8月3日(月)晴れ。北海道を旅行中に、鶴見俊輔さんの訃報に接す。享年93歳。『言い残しておくこと』、『思い出袋』、『もうろく帖』、『ぼくはこう生きている 君はどうか』など、数年前からこの日があるのをみこしたような本を出していた。次の世代にその思想や哲学をバトンタッチするための『語録集』も出ている。鶴見さんが住んでいるというだけで、岩倉は特別な土地のような気がしたものだ。松田道雄、森毅、森浩一、杉本秀太郎、そして鶴見さん。京都の町から魅力的な先人たちが消えていく。寂しいかぎり。鶴見さんと仕事で縁があった友人から電話あり。「がっかり。ただがっかり。覚悟はしていたけど、もう言葉にならないほどがっかりしている」。
 鶴見さんは追悼文を書く名人だった。それらは『回想の人びと』(ちくま文)や追悼文集『悼詞』(編集工房SURE)にまとめられている。鶴見さんの追悼文には故人への深いリスペクトがあり、人間愛に満ちている。たった一言で、亡くなった人の、人となりが浮かび上がる。その人ならではの魅力が伝わるのだ。


私は運動論でも、体系としてかっちり立てるのがいやなんだ。人が生きているのは全部あいまいだ。だから私は総括とか除名を好まない。「思想の科学研究会」でも除名はないんです。」(『期待と回想』 ちくま文庫)


  『日米交換船』、『戦争が遺したもの』、『読んだ本はどこへいったか』、『象の消えた動物園 同時代批評』、膨大な著書のほんの一部、最近読み返したもの、いくつか。


 鶴見さんは常に胸の奥底に「哀しみ」を抱いていた、と言うと笑われるかもしれない。偉大な哲学者に私は何故か悲哀というものを感じる。見えすぎる人の悲哀であろうか。


Img_3792 8月2日(日)晴れ。猛暑。昨日は八朔で、祇園では芸舞妓さんたちが黒紋付き姿でお茶屋などに挨拶回りをする日だった。芸舞妓に見習いさんまで揃ったFさんの家に寄せてもらうつもりだったが、1日は九州行で折角の八朔に訪問できず。1日、空路九州へ向かい、子どもたちを連れて帰洛。この日から我が家は民宿と化し、民宿のおかみさん(私のことです)は1日中台所に立づくめ。子どもたちは京都へはもう何度も来ているが、まだ行ったことがないというので金閣寺へ案内することに。外は熱風、灼熱の日差し。それでも金閣寺は大勢の参詣者で賑わっていた。そのほとんどが外国人ツーリスト。北海道もそうだったが、京都も同じ。周りを飛び交う外国語を耳にして、ここはどこの国?という感じ。一巡りのあと、境内にある茶店のかき氷で一息つく。清水寺へ周るつもりだったが、あまりの暑さにたじろいで、もうどこへも寄らず帰宅することに。子どもたちも即同意す。
 帰宅後、冷房の効いた部屋でみんな思い思いに読書。中学生は漱石。小学生たちはミヒャエル・エンデとモンゴメリ。私は●高橋源一郎の『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書)。


 子どもたち(3姉妹)との会話は楽しい。10歳になる末娘は「何故? それどういう意味?」が口癖。彼女に問われるたびに、電子辞書片手にしどろもどろの私。いやはやまだ耄碌してはいられません。


Img_3671 7月31日(金)晴れ。38℃。今月は2日と31日の2回、満月が見られるという。2度目の満月を稀な月という意味でブルームーンというそうだ。最近夜空を見たことがないので、今夜は月の出を待つことにしよう。


 写真は札幌にある知事公舎。館内や庭は開放されていて、この日も親子連れがピクニックに来ていた。写真右側の大きな樹は朴の木。柳田國男が愛したという朴。左奥に梨の木があって、青い実をいっぱいにつけていた。広い庭にはハルニレなどの大木が繁り、竪穴住居跡などの遺跡もあって、自然豊かな公園になっている。庭園西側に三岸好太郎美術館や道立近代美術館がある。道立近代美術館ではいま「フランス絵画展」「日本が逍遥展」が開催中でした。


 夜、東山から出た満月を見る。ちぢにものこそ哀しけれ、と思うには忙しすぎて、心ここにあらず状態であります。 


Img_3782 7月26日(日)曇り。午後の飛行機で京都へ戻る。京都の上を飛ぶとき、眼下に八幡の三川合流地点が見えた。木津川、宇治川、桂川(鴨川)が一つになって淀川となるところ。合流地点の細長い緑は背割堤で、春には桜並木で白い筋となる。右側の緑の丘は石清水八幡宮がある男山。 八幡のそばの橋本には昭和の初めごろまで向う岸の山崎へいく渡し船があったという。橋本は京街道の宿場で、山崎は西国街道の宿場町。橋本には昭和33年まで遊郭があり、その面影を残す建物があったが、いまはずいぶん変わってしまったようだ。
 飛行機の中で持参した阿部謹也『北の街にて』(洋泉社)を読み返す。ここに書かれた北の街とは阿部謹也の勤務地だった小樽のこと。阿部謹也は昭和39年から12年余、小樽商科大学に勤めており、そのときのことを記したのが本著。歴史学者の思索の跡が読み取れ、その孤独や迷いなどがときに胸に迫る。


 帰宅すると宅急便の不在連絡票が束になっていた。留守電、留守メールをチェックし、急ぎのものには返事を送る。京都は地獄の暑さ。北海道へ戻りたくなった。


Photo_2 7月25日(土)曇り。天気予報ではこの日道央は大雨というのでずいぶん迷ったのだが、Tさんより雨天決行のメールあり、予定通り出かけることに。朝6時半、ホテルにT夫妻が迎えにきてくれる。札幌は小雨が降っていたが、離れるにつれ空が明るくなり、雨雲はどこへやら。前回T夫妻に会ったのは4年ほど前のことで、その時は弟子屈にある夫妻のセカンドハウスに泊まり、知床で遊んだ。ヒグマに遭い、川を遡上する鮭の群れを見た。今回は道央の花を楽しもうという企画。富良野へ行く途中の山道で、さくらんぼ売りを見かけるとTさんは早速車を停めて購入。店主に「こんなPhoto_3山の中で寂しくはないですか?」と尋ねると、店主云はく「寂しくはないけど、クマが怖いので、時々花火をあげている」とのこと。さくらんぼはそれは美味しかった。Tさんは、その後もメロン農家を見かけると車を停めて「食べよう」といい、とうもろこし農家があると寄って宅配便を頼むという按配。車に乗るとただひたすら目的地に向かって走り続けるわがつれあいとは大違いなり。もっともTさんの奥さんに言わせると、「この人がいっしょだとせわしくて。目的以外の荷物がやたらと増えて、帰ってからその始末が大変で2013_0726_120023p7260038す。


 富良野のラベンダーは盛りを少し過ぎていたが、まだまだ美しかった。しかしここもチャイニーズツーリストでいっぱい。できるだけ人のいないところに行きたい、誰もが行くところはもうたくさん、みんなそう思ったのか、では最近の穴場というので美瑛の青池へ向かう。予想に反してここも観光客で一杯だったが、露店などなく駐車場があるだけ。青池を半周したあと、Tさんが若いころよく登ったという十勝岳へ行く。ここの八合目くらいに国民宿舎があって、そこに北海道最高地点の温泉があるという。「いつもこの温泉に入って、山を下りた。どう、みんなで入りましょ、いいっしょ」というので立ち寄り温泉に。露店風呂からは、目の前に雪が残る十勝岳が迫り、天空にいる気分でした。午後7時にホテル着、4人ですぐ近くの食事処へ。またもや海の幸づくしの夜でした。富良野、美瑛では、ドーンドーンという砲撃の音が絶え間なく聞こえて、最初は驚きました。自衛隊の演習だということでした。


 写真上は富良野の富田ファーム。中は美瑛の青池。下は美瑛の蕎麦とひまわり畑。北海道はいま蕎麦の花が咲いて、どこまでも真っ白の畑が広がっていました。 


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