2015年10月

Img_4033 10月26日(月)晴れ。倉本一宏さんの『「旅」の誕生』(河出ブックス)に刺激されて、というわけではないが、思い立って伊勢へ出かけてきた。どうせ行くなら平安時代の斎宮群行のコースを辿ってみようというので、京から勢多(瀬田)~甲賀~垂水(土山)~鈴鹿へ、途中土山宿と関宿に寄り、松坂を経て明和町の斎宮歴史博物館へ。斎宮跡は137ヘクタールもの広大な史跡で、博物館の他にもいろんな施設がある。今回はメインの博物館を見学。入ってすぐ「斎王群行」の映像を見る。長暦2年(1038)9月、後朱雀天皇の良子内親王が斎王として伊勢へ旅立ったときを再現したもの。時に内親王は8歳、この時の群行の責任者は


Img_4003藤原実資の養子資平で、その息子資房も同行して日記「春記」に記録を残した。その記録をもとに映像化されたものだが、よく作られている。発掘調査で判明した斎宮の復元図や再現模型、出土品の数々などが展示されており、理解の手助けになった。斎王といえば業平の恋や、源氏物語の六条御息所母娘などが思い出されるが、本人にとってはあまり喜べない任務ではなかったか。ここに来る途中立ち寄った土山宿に斎王の仮宮である頓宮跡があった。土山は東海道49番目の宿。ここは初めてだったが、立派な本陣跡があり、町並みもそれらしい風情あり。次に寄った関宿は東海道47番目の宿で、ここには江戸時代の町並みがそのまま残されていて、(以前に比べるとずいぶんきれいになっていた)なかなか風情あり。
 土山では名物のお茶を購入し、帰りは高速で京都へ戻る。


 写真上は斎宮歴史博物館の展示。斎王と女官。下は土山宿で。


Img_4076 10月25日(日)晴れ。平安古記録のうち藤原道長の『御堂関白記』、藤原行成の『権記』に続いて、藤原実資の日記『小右記』の現代語訳が出た。いずれも訳者は倉本一宏氏で、前の二つは講談社学術文庫だが、今回は吉川弘文館からハードカバーで出た。『小右記』は大日本古記録版で全9巻、現代語訳は全16巻の予定だという。(年2巻出るとして、終わるのは8年後!)。古記録の読解は大学などでもやっているだろうが、註釈書が出ているのは『御堂関白記』などほんの一部にすぎない。『小右記』は右大臣を長く勤めた実資の日記ゆえ、当時の貴族社会を知る一級史料である。同じ時代を書いた『大鏡』や『栄華物語』はあくまでフィクション、歴史を知るには古記録読みは欠かせない。この本には原文や読み下し文は無い。翻訳書を読むのと同じか。この巻には貞元2年(977)~永延2年(988)まで11年分の日記が収められている。実資21歳から32歳まで、右少将からやがて蔵人頭となり、円融・花山・一条天皇に仕える日々の記録である。


 実は私も友人と『小右記』を読んでいる。われわれが読んでいるのは治安元年(1021)、65歳の実資が右大臣になる年の分(『大日本古記録 小右記(6)』)。平安人の気持になって読まなければ理解できないことが多々あり、現代の常識で読み解くのは誤りだと痛感す。ただ平安貴族の日記には、当時の女性や庶民の暮らしに関する記述はほとんど出てこないから、こちらは『今昔物語』などを覗くしかない。


 古記録を読んだあと現代の本を読む。1000年の時空を往ったり来たりの日々です。


Img_4129 10月24日(土)晴れ。明け方、母の夢を見た。亡き母が夢に出て来るのは何年ぶりのことだろう。まだ50代半ばの若い母で、楽しそうにニコニコ笑いながら我が家に手伝いに来たという。「あなたのお産の手伝いに。今度はゆっくりできるよ」。目が醒めて何とも不思議な気持ちになる。命日が近いので、思い出させようと夢に出たのかしら。(母の命日は11月7日)
 北山の総合資料館へ、開催中の「東寺百合文書展」を見に行く。藤原道長の日記『御堂関白記』に続いて、東寺百合文書が今月、世界記憶遺産に登録された。この文書は東寺に伝わるもので、百合とは文書を納める百個の桐箱のこと。加賀前田家五代目藩主前田綱紀は東寺文書の保存に尽力し、1685年、文書を納める桐箱を寄進した。その後の度重なる火災や戦乱、盗難などをくぐりぬけて今日まで伝わった文書は2万5千通。そのほんの一部が展示されている。京都に来た当初、この「百合文書」を「ゆりもんじょ」と読んで笑われたのを思い出す。でも、あの歴史家五味文彦センセイだって、学徒だった若き日、同じ間違いをしたそうだから・・・。
 解説書片手に展示の文書を見る。西妙という比丘尼が八条大宮の土地を東寺に寄進したときの文書はすべて仮名書き。これが今回出ている文書の中で唯一の仮名書き。文書の文字はどれも丁寧で(解説書にある活字体に助けられながらだが)、何とか読める。長保2年(1000)の焼亡日記案(控え)というのがあった。長保2年といえば道長の時代、道長の娘彰子が一条天皇の中宮となった年である。ここにも千年を生き延びた書があるのだと嬉しくなった。


 ●辻原登『Yの木』(文藝春秋)を読む。死が深くかかわる物語で、いつもはこの人の作品にすみやかに入り込めるのに、今回はどこか上の空のままで終わった。もう少し時間をおいてから再読したい。


Img_3965 10月23日(金)晴れ。せんの日曜日、つれあいを誘って大文字山へ登った。久しぶりの山登りとはいえ、上りはじめるやいなや息も絶え絶えとなり休憩の連発、後から老若男女がぞろぞろと登ってくるのでリタイアもならず、なんとか頑張ってようやく火床に到着。わずか40分の山登りで半死半生の態とは、我が身の衰えぶりに茫然となる。積年の運動不足と〇飲〇食ゆえか。反省するのだが咽喉もと過ぎれば・・・で、猿にも劣る次第。うなだれつつも目を上げればここからの眺望の素晴らしいこと。わが京の町が一望できるのだ。あれは真如堂、向うが吉田山、その向うが京都御苑であの緑は二条城、さらに北に船岡山、平安京を東から眺めている。目の前にススキの穂が揺


Img_3959_2れ、足元に赤いイヌタデの花が。大文字山の頂上まではさらに半時間ほど登るのだが、今回は標高320mの火床をゴールとす。写真を撮ってすぐに下山。銀閣寺の登山口まで25分で降りてくる。登山口近くにある八神社の境内に神輿が並んでいた。午後からお神輿が出るという。銀閣寺の参道は観光客でいっぱい。スニーカーに着物姿の外国人観光客をかきわけるようにして歩く。紅葉の枝先が色づいて、青空に映える。今年は紅葉が早いのではないかしらん。


 ●三島邦弘『失われた感覚を求めてー地方で出版社をするということ』(朝日新聞出版)を読む。京都市内にオフィスを持つミシマ社の社長の体験記。ユニークな本作りをしている出版社らしい。


Img_3936 10月22日(木)晴れ。先だって古記録研究会の先生たちと枚方を訪ねた。枚方の田口という所に、仁明天皇の外祖母である田口姫の墓があるというので、まずはそこへ向かう。バス通りの横に狭い生垣に囲まれた一画があり、そこに墓石と標識があった。駒札には「仁明天皇外祖母(田口姫)墓」とある。田口姫は橘奈良麻呂の子清友に嫁ぎ、嘉智子をもうけた。嘉智子は嵯峨天皇の皇后(壇林皇后)となり仁明を生む。仁明天皇が833年に即位すると田口姫は外祖母となり正一位を追贈された。交野のこの地は姫の生地だという。かつては広い領地だったのだろうが、1200年後のいまは住宅と工場、車の行き交う道路となってい
Img_3921て、よほど注意しないと気がつかない。田口姫の墓を後にして、さらに百済寺へ向かう。寺址は交野ケ丘の高台にあり、いまは史跡公園となっている。寺址に隣接して立派な百済王神社があり、礎石しか残っていない百済寺に比べると、こちらが主役という感じなり。しかし金堂、講堂、食堂、東西の塔跡に残る礎石を見ていると、1300年の時を超える気分になる。百済寺は750年ごろ、百済王敬福によって建立されたとされる。敬福は陸奥守だったころ、かの地で発見した金を聖武天皇に献上し、河内守に昇進している。そのとき交野を本拠地としたのだろう。各地にいまも百済王を名乗る人たちがいるそうだ。(西九州に多いとのこと) 


 写真上は百済寺の西塔跡の礎石。奥に見えるのは百済王神社。下は枚方市田口バス停そばにある田口姫墓。


Img_3911 10月21日(水)晴れ。友人のMさんにお祝い事があったので心ばかりを送っていたら、昨夕、お返しに松茸が届いた。エビで鯛を釣った気分。とり市の包みを開けたら部屋中に香りが広がった。さて、どう料理しようか・・・その日のうちにいただきました。一本は松茸ごはんに。一本は土瓶蒸しに。一本は焼きものに。(たっぷり裂いてすきやきに、といきたかったのですが)。Mさん、おご馳走さまでした! 


 ●池内紀『本はともだち』(みすず書房)を読む。前半の「会いたい人と会うように」には、心に残る本の著者のことが記されている。江藤文夫、辻征夫、森浩一、木田元、中尾佐助などの名前を見て、プチジャン神父に信仰を告白した長崎浦上の隠れキリシタンではないが、「私の心、あなたと同じ」と言いたくなった。(ちと大げさですが)。
●長田弘『本に語らせよ』(幻戯書房)を読む。今年の5月に亡くなった詩人の読書録。若いころこの人の『私の二十世紀書店』(中公新書)を読書の指針としたことがあった。ここに紹介された本を読破しなければと思った時期もあったが、半分も読めていない。だがそれでいいのだ。年をとったいま、読むべき本にはちゃんと出会うべき時に出会うのだと思っている。今日読んだ本はまさにそう。ずいぶん慰められた。私にとっても、本は友だち、である。


Img_4122 10月20日(火)●小熊英二『生きて帰ってきた男』(岩波新書)を読む。1925年生まれの父親の半生を聞き取り記録したもの。北海道生まれの父親は早稲田実業を出て応召し、旧満州に出兵。終戦後、シベリアに抑留され、帰国後は結核を患い長期の療養所生活を余儀なくされた。病が癒えたあと就職するが、何度も転職を繰り返すなど、ままならぬ人生を送っている。父親が人並に社会人となったのは30歳の時である。彼の20代の10年間は戦争とシベリア、そして結核療養所に奪われた。この本が世に流布される戦争体験者の記録と異なるのは、語り手の生まれてから今日までが具体的に語られていて、当時の人々の暮らしぶりや社会の移り変る様子がよく窺えることだろう。主人公の出自、育った環境、応召までの日々、そしてシベリア体験、さらに帰還してから社会人として世に出ていくまでの日々がつぶさに記されている。主人公は決して大きな声では語らない。シベリア体験も結核療養所での体験も淡々と語られ、ことさらに自分を主張することがない。生きるのに精いっぱいだった戦後、彼が上京した1956年、「もはや戦後ではない」と言う言葉が流行っていたが、彼には全く実感がなかったという。戦争とシベリア抑留で大企業の職を失い、病のため転職を余儀なくされる彼は自分を社会の「下の下」だとし、浮上する機会はないと思っていた。この父親がビジネスチャンスをつかみ、高度成長期に事業主として独立する。この父親の読書体験のくだりがいい。33歳のころ五味川純平の『人間の条件』を読み、長編だがリアルで共感できた、という。しかし「実際に軍にあれだけ反抗したら半殺しになるし耐えるのは難しいからスーパーマンの話だと思った」。また、野間宏の『真空地帯』は「レベルが高すぎてよくわからなかった。斜め読みするには適さないが、忙しかったので精読できなかった」。映画『二十四の瞳』も「テレビで見たがおセンチだと思った」。「英雄物語じみた戦争映画は自分の体験した実感にあわず、くだらないと思った。ドラマみたいなものは好戦的であろうが反戦的であろうがだめだ」。この父親は1983年に戦友の最期の様子を遺族に伝え、肩の荷を下ろして助かったような気がしたという。戦争や病気など逆らい難い災難に見舞われながらもめげることなく、懸命に生きてきた男の89年、人を押しのけたり、邪魔をしたりすることなく、自分の力の範囲で精一杯生きてきた人の言葉は実に重い。この父親は1980年代に入るころからささやかな社会活動に参加するようになる。アムネスティ・インターナショナルの会員になり地域の自然を守るNPO会員になる。さらに「不戦兵士の会」に入り、シベリア抑留者のための平和記念事業特別基金に関し、同じ収容所にいた朝鮮系中国人の元日本兵のため戦後補償裁判にかかわることになる。父親は請求するつもりはなかったが慰労金10万円を受け取ると、半分を元関東軍兵士呉雄根に送る。戦時中日本人として戦場に狩り出しシベリア抑留を体験させたのに、戦後は日本人ではないというので何の補償もしないのは申し訳ない、というのが父親の気持だったのだろう。いつの場合もこの父親の気持は真っ直ぐである。控えめだが一途。いつも大義名分などない、ただ自分の気持に従って、というのが胸を打つ。
 最期に父親は人生の最も苦しい局面で最も大事なことは何だったかという質問にこう答えている。 「希望だ。それがあれば、人間は生きていける」。


 昭和の90年とそっくり重なる時間を生きてきた男性の、真摯な人生の記録。聞き取りをした息子にとってこれ以上の贈り物はあるまい。すくなくとも「自分はどこから来たのか」を確認できただろうから。感動の一冊でした。




 



Spo15101210420012p1  10月19日(月)承前。落ち着かない日々が続いていたが、ようやく一段落したので、録画していたワールドカップ・ラグビーの試合を観る。日本は3勝したのに決勝リーグに進めなかった。(3勝して決勝リーグに進めない初めてのチーム、ということだ)。初戦で南アフリカに勝ったとき、「奇跡」だと言われた。だが奇跡なんかではない、選手たちは勝つために世界一厳しい練習に耐えてきたのだからこれは必然なのだ。そう言えるだけの力をみんなが持っていた。体力的に劣る日本人選手が猛牛のような外国人選手と対等に戦うためには、ぶつかっても負けない体を作ることと、ボールを支配し、プレイのスピードを失わないこと。ジャパンの選手たちはスクラムでも負けず、よく球を支配し、フォワードもバックスもよく走った。なんといってもタックルがよく決まっていたのがいい。リーチや五郎丸の果敢なタックル、そしてスクラムハーフ田中の判断の良さ、瞬時にパスの相手を決めて確実に回す。15人、いや30人全員が持てる力を存分に発揮して、それぞれが最高のプレイをしていた。佐賀工高時代から応援してきた五郎丸選手の勇姿(早稲田には名キッカーが多い)、冷静なフッカーの堀江、山田のダイビングトライ、全員の判断の良さが光る試合だった。監督の指示待ちではなく、選手の一人一人が自分の頭で考え、納得するプレイをやる、それが勝利につながったのではないか。勿論、それを実行するだけの力をつけていたからこそ、可能だったわけだが。


「新しい日本ラグビーの歴史を作りました」、帰国後の記者会見でエディ・ジョーンズ監督は開口一番こう言った。本当にその通り。監督に感謝、そしてベスト8入り目指して苛酷な練習に耐えてきた選手たちに感謝。この7月に亡くなった上田昭夫さんもどこかで見ていたにちがいない。2019年、ラグビーワールドカップが日本で開催される。どんな大会になるのか楽しみ、日本選手の活躍を期待したい。


Img_3890 9月19日(月)晴れ。谷川健一の『常世論』(平凡社叢書 1983年)の序章はこんな文章で始まっている。「日本人の意識の根元に横たわるものをつきつめていったとき「常世」と呼ばれる未知の領域があらわれる。それは死者の国であると同時に、日本人の深層心理の原点である。いやそればかりではない。日本人がこの列島に黒潮に乗ってやってきた時の記憶の軌跡をさえ意味している。仏教やキリスト教の影響による世界観や死生観が支配する以前の日本人の考え方を「常世」の思想はもっとも純粋かつ鋭敏にあらわしていると私には思われる」。南の島の人たちは死者が行く世界を常世(ニライカナイ)と呼ぶ。ニライカナイは水平線の彼方にある。30年も前に読んだこの文章を思い出したのは、外海で西方に広がる青い海を見たからだ。長崎駅前からバスで約1時間、海岸線に沿って西彼杵半島の西部を行くと、かくれキリシタンの里として知られる外海に着く。行き交う人もまばらな静かな村に、教会や資料館が点在している。資料館には禁教時代に信者たちが用いた祈祷書やオラショの数々が展示してある。心を無にしてそれらを見る。誰にも会わない。すぐ近くの岬の上に、「遠藤周作文学館」がある。そこからの眺めは素晴らしい。ちょうど雲の切れ間から光が海に射して、まさに「ニライカナイ」を思わせる光景。遠藤周作文学館では、企画展「遠藤周作と歴史小説――『沈黙』から『王の挽歌』まで」が開催中。私はペドロ岐部の生涯を描いた『銃と十字架』という作品が好きなのだが、企画展では触れられていなかった。静かな場所を求めて外海に来たのだが、その願いは十分満たされた。姉は常世へ渡った、でもまだいましばらくは私たちの傍にいる、いや、これからもずっとそうにちがいない。その人のことを覚えている者がいる限り、亡くなった人の魂はこの世にある、年寄りの言葉がいまほど実感されたことはない。


 写真は外海の出津教会。ド・ロ神父設計、1882年竣工。


Img_3616 10月14日(水)晴れ。先週、姉と最後のお別れをしてきた。姉は病から解放され、穏やかで安らかな顔で眠っていた。病気が見つかった時、余命三か月、と医者に言われたのだが、10か月生きた。酷暑の夏を乗り越えたから、この分ではもう一度お正月を迎えられるのでは、と期待したのだが。短い入院はしたものの、ほとんど自宅療養で気ままに過ごしたのがよかったのだろう。子どもたちが交替で付き添い、話相手になってくれたのもよかった。自分の病が末期ガンと気づいていたものやら、時々「もう思い残すことはないのよ」などと言い、実に恬淡としていた。もともと何事にせよおよそ執着心というもののない人ではあったが、病気を恨むでもなく、また自棄になることもなく、したがって身近にいる者に当たるということもなかった。最後はホスピスに入ったが、うまく言葉が出なくなっても、話しかけると目で応え、微笑みをみせた。もっと我儘を言えばいいのにと思うこともあったが、もう心はほとんど世外にあったのだろう。子どものころから、この姉が何かに怒るという場面を見た記憶がない。いつも穏やかで、気に入らないことがあると静かにその場から離れるというふうであった。この姉のやさしさに私はどんなに甘え、助けられてきたことか。
 姉を見送り、京都に戻ってきたものの、まだぼんやりしている。いまごろ姉は、一足先に彼岸に渡った義兄と再会できただろうか。「お父さんと仲良くね」棺を覆うとき、次男坊が姉にそう言ってお別れをした。



 石棺のうえに
 そっと自分をおいていった
 枯葉よ


 そよとも吹かぬ風のなかで
 おまえは そのまま詩だ


 秋は深くなりました
 星と星のあいだには
 もう栄光の差なんてありません


 どうか わたくしも
 この枯葉のようでありますように    「秋の祈り」 鮎川信夫 


Dsc01317 9月30日(水)晴れ。●『杉浦明平 暗夜日記 1941-45』(一葉社)を読む。2001年に87歳で没した杉浦明平の28歳から32歳までの日記で、前途が定まらぬ若者が見た戦時下の暮らしが細やかに記されている。一高時代(寺田透・猪野謙二・中村真一郎・丸山真男ら)、東大時代渡辺一夫・花森安治・中島健蔵・森有正ら)、短歌アララギ関係(斎藤茂吉・土屋文明・高安国世ら)、興亜院関係など、多彩な友人たちが登場するのも興味深い。文学青年だった明平が、一日300頁の読書を自分に課していたという話は有名だが、彼は友人立原道造の死後、その詩集を編纂して世に出してもいる。
 この日記の前半には独身の若者らしい女性への憧れ、何人かの女性への淡い恋心のようなものが描かれていて微笑ましい。『渡辺崋山』や『夜逃げ町長』などしか知らない読者には、新鮮ではないだろうか。この日記には、戦時下の統制で生活物資の入手が困難になっていく様子や何かと不自由な暮らしの様子も率直に記されている。ちなみに1945年8月15日の日記には、


戦争が終わるのではないかという期待がふくれ上っていつまでも眠れない。戦争がすめば第一、召集の心配がない。恐らく今度は永遠にない。従って在郷軍人なんて厄介からも解放されるだろう。第二に、義勇戦闘隊などという愚劣なものになって洗車の下敷になるおそれがなくなる。つまり敵前上陸の不安が解消する。もちろん空襲、艦砲射撃の恐怖もなくなる。母や千鶴子のおそれおののくのを見なくてすむ」


とある。
 『明平さんのいる風景 杉浦明平生前追悼集』(風媒社)は1999年、まだ作家が元気なときに出ているが、その2年後に明平さんは亡くなった。


 9月も今日で終わり。明日から暦の上では冬となる。


Img_3598 9月29日(火)晴れ。連休前、南座で中村獅童・尾上松也による新作歌舞伎「あらしの夜に」を観た。席は最前列の中央で、熱演する役者の体から飛び散る汗がふりかかりそうなほど近い。絵本が原作とのことだが、主役の狼を演じる獅童が惚れこんで舞台化したという。その思い入れの深さが、舞台を降りて観客席を走り回るという熱演ぶりからも伝わった。話は狼とヤギの友情物語で、可憐なヤギを演じるのが尾上松也。終演後、この松也くんを囲んで食事をしたのだが、疲れているにもかかわらず丁寧な応対で、さすが若手花形役者と感心した。BS放送で10月から始まる旅番組の収録が翌日の早朝あるというので、24時前には解散。春には若手の役者もいっしょで、この時は賑やかだったが、この日は単独行動ゆえか少し控え目。新作なのに仕込は一週間ほどしかなかった、と聞いてびっくり。あの膨大な量の台詞をよく覚えられるものだ。私など何事にせよ覚える端から忘れていくというのに。11月は松竹大歌舞伎の巡業で全国を回るそうだ。11月1日の埼玉に始まり、北海道、東北、四国などを経て、11月24日が諫早、25日の大分で終わるという。旅は大変だけど、楽しみもあります、と笑顔だった。26日の千秋楽の日、南座の前を通りかかったら、ちょうど昼の部が終わったところで、会場を出る人、入場を待つ人で南座の前はごったがえしていた。


 ●『私の「戦後70年談話」』(岩波書店)を読む。「日本は自由貿易をしないと食べていけません。だから日本人ほど、世界の中で平和を希求する国民はいない、原爆を落とされ、原発事故も起して、世界でいちばん平和を望んでいるのは日本人なんだ。憲法を守り、他国民を殺さないことで、日本は世界からリスペクトされるような理性的国民だということを示してきました。それをどうして壊そうとするのか。まったく理解に苦しみます」とは丹羽宇一郎の言葉。


Dsc01316 9月28日(月)朝、5時に起きて窓の外を見やると、西山の上に大きな月がかかっている。昨夜は中秋の名月だった。電気を消すと、月の光が部屋中に満ちて明るい。月が山に隠れるまでそうしていた。
 カズオ・イシグロの『忘れられた巨人』(土屋政雄訳 早川書房)を読む。4,5世紀ごろのイギリス(ブリテン島)を舞台に、アーサー王伝説を下敷きとした老夫婦の愛と冒険の物語。前作『私を離さないで』は一種のSFだったが、今回の作品はファンタジー。サクソン人とブリトン人は竜によって戦争の記憶を失いいまは平穏に暮らしている。しかし竜が死んだことで忌まわしい記憶が甦り、再び争いが起こる予感がする・・・。人々にとって大事なのは、何を忘れ、何を記憶するか、ではないか。本を読み終えて思ったこと、戦争の記憶、震災の記憶、原発事故の記憶、忘れてならないことがいくつも。カズオ・イシグロは5歳まで長崎で育った。石黒一家と親しかった知人から幼いころの彼の話を聞いたことがある。カズオ少年の父親は東山手にある海洋気象台に勤めていて、一家は新中川町に住んでいた・・・。
 ファンタジーといえば乏しいわが読書体験の中でまずあげたいのはル・グゥインの『ゲド戦記』だが、この『忘れられた巨人』はイギリスの人々に、自国の伝説や民話をあらためて思い出させるのではないか。この本を読んでいる間じゅう私は、以前読んだローズマリ・サトクリフの『第九軍団のワシ』(岩波少年文庫)を思いだしていました。


Img_3683 9月27日(日)晴れ。「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりのこずゑども、遣水のほとりの叢、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり」 『紫式部日記』の書き出し。時は寛弘5年(1008)秋、一条天皇中宮彰子は初めてのお産のため、里である父藤原道長の邸、土御門第に退出していた。彰子に仕える女房の紫式部も付き添って土御門第に滞在、お産の次第を記録することにな


Img_3684る。この時生まれたのが敦成親王(のちの後一条天皇)で、道長の日記『御堂関白記』には、「9月11日、午時、平安男子産給」とある。式部も「午の時に、空晴れて朝日さし出たるここちす。たひらかにおはしますうれしさのたぐひもなきに、男にさへおはしましけるよろこび、いかがはなのめならむ」と記した。道長の土御門第は現在の仙洞御所あたりか。
 知の会の京都散策で、北大路通にある紫式部の墓所を訪ねた。ちょうどいま、入口のムラサキシキブが美しい色の実をつけている。室町時代に書かれた『河海抄』に、式部の墓は雲林院白毫院南、小野篁墓西にある、と記されていることから、ここが式部の墓所とされたらしい。「源氏物語」千年紀の2008年に、京都市内では平安京関連の遺構標示がずいぶん進んだ。1000年の時を往ったり来たり、京の町歩きの楽しみはそれに尽きます。


 写真は堀川通北大路下ルにある紫式部墓所。上は入口。下は墓。東隣は小野篁の墓。


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