2015年11月

Img_4390 11月29日(日)曇り。午前中、京都市美術館へ行く。開催中の「フェルメールとレンブラント展」を観るため。入館料1500円。開館と同時に入ったので、ゆっくり観ることができた。この展覧会は正しくは「17世紀オランダ黄金時代の巨匠たち」展というもので、フェルメールやレンブラントと同時代に活躍した画家たちの作品を展示したもの。ポスターにもなっているフェルメールの作品「水差しを持つ女」は45×40という小さなものだが、静謐が凝縮したという感じ。美術館を出たあと、すぐ向かいにある動物園に入る。つい最近リニューアルしたばかりの動物園は見違えるよう。明るくスマートでモダンな園内は親子連れや若いカップルでいっぱい。小さな子どもたちをかきわけて、お目当てImg_4416のゴリラと象のもとへまっしくらに。ゴリラの家にはオスのモモタロウとメスのゲンキ、子どものゲンタロウがくつろいでいた。飼育員さんの話。「モモタロウは母ゴリラの愛情をたっぷり受けて育ったので人間に興味はありません。でも子どものゲンタロウは産まれたとき体調がよくなかったのでやむなく人間の手で育ちました」。ゲンタロウは観客がへばりついているガラスの前で、いろんな行動をしてみせるが、モモタロウは遠くで背を向けたまま動こうとはしない。みんな生まれも育ちも動物園なのだが、野性本Img_4410能はそれぞれ。ゴリラと人気を二分しているのが象たち。ラオスから贈られた4頭の子象たちが愛らしい。村上春樹に動物園の象の体が縮んでいき、ついには檻を抜け出して姿を消してしまうという話があった。タイトルは何だったか。目の前の象たちにはそんな怪奇現象は起こりそうにない。


 束の間童心に返った日曜日。帰るといくつも留守電あり。ややこしい話、嬉しい話、哀しい話、伝言のあれこれを聞きかえしながら、今年もあと一月、と思う。今年は紅葉を観る暇もなかった。


 写真上は京都美術館。中は動物園のゴリラ、モモタロウ。下はアジアゾウたち。


Img_4386 11月26日(木)曇り。寒くなった。『ヴァレリー全集』にこんな言葉があった。


「われわれは後ずさりしながら未来に入ってゆく」


 水の上をボートで行くときは目的地に向かって後ろ向きに進んでいく。そのことからヴァレリーはよく「われわれは後ろ向きに未来へ入っていく」と語ったそうだ。また、この言葉に続けて、


「私にとって”歴史”の最も確実で重大な教訓とは、この点なのです。というのは”歴史”とは二度と繰返さないことに関する学問だからです。繰返されること、再びなすことができる経験、次々と重ねられる観察は、”物理学”や、またある程度までは”生物学”に関することです。歴史とは、おそらくわれわれに予見する力を与えることは殆どないが、精神の独立と結びついた時、よりよく〈物事を見る一助とはなりうる、と言うことです。世界の現状を熟視してください。そしてフランスを熟視してください。フランスのおかれた状況はまことに奇妙なものです」(「歴史についての講演」『ヴァレリー全集(11)』)


 1932年7月、ジャンソン・ド・サイイ高等中学校でのヴァレリーの言葉だが、おぞましいテロ事件の後に読むと、少しも古びていないと思われてならない。過去に背を向けるのではなく、しっかりと見て学べ、ということか。それにしても過去に学ばない政治家というものは・・・。


 写真は京都駅ビルの大階段に設けられたクリスマスツリー。


Img_444211月25日(水)曇り。「喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます」というハガキをようやく発送す。既に友人知人から20通近い喪中ハガキが届いている。葉書を受け取って初めて亡くなられたことを知るケース多し。親しい人にはお悔やみを伝え、当方も喪中だと書き添える。


●落合恵子『積極的その日暮らし』(朝日文庫)にこんな一文があった。


「生けるものがこの世に遺せる/最後のものは、いまわの際まで生き切るという/そのプライドではないか」


 長田弘の「三匹の死んだ猫」という詩の一節だそうだが、亡くなった姉を思い出してあふれるものがあった。姉はいまわの際まで見事に生き切った、はたして自分には出来るだろうか。


 ●藤井省三『魯迅と日本文学』(東京大学出版会)を読む。中国からの研究生Sさんにプレゼントすることにしよう。


Img_4354 11月22日(日)晴れ。友人のFさんと丹波行。丹波市のモミジの名所を廻ろうというので、まずは高源寺(臨済宗)へ。丹波屈指の紅葉の名所なのだが、この日、赤い葉は一つも目にできず。今年は色づく前に葉が茶色に縮んで散ってしまったとのこと、真っ赤な紅葉に包まれた山門の写真を見て想像するのみ。お寺の境内にある食事処で昼食をとる。次から次に紅葉目当ての客がやってきてお店は盛況だが、肝心のモミジは・・・。高源寺を出て、丹波紅葉三山の一つ、円通寺(曹洞宗)へ向かう。ここは南北朝時代、足利家と近衛家の男子が初代と二代目の住職を務めたというだけに格式を感じさせる寺。丹波地方の寺院は明智光秀の丹波攻めの際、焼失したところがImg_4377_2多いそうだが、ここは助かっている。面白いのは源融が884年ごろからこの地に滞在し、賀茂大明神を建立したという説明版が池の畔にあったこと。こんなところで嵯峨天皇の皇子の名を見るなんて。


 どこもお寺の門前に地元の人たちによる市が立っている。覗くと、ついつい丹波名物の黒豆や焼き栗に手が出てしまう。野菜、餅菓子、花まで買って、紅葉狩りだか買い出しだかわからなくなった。


Img_4379 最後は高山寺(真言宗)へ。ここは人少なし。だが、やはり紅葉は見られず。時期が遅かったのか、この日観た紅葉は、円通寺のドウダンツツジのみ。高山寺は天平年間の創建で、ご本尊は十一面観世音菩薩。平安末期の兵火で焼失したが、文治5年(1189)源頼朝の命を受けた重源上人によって中興された。東大寺を復興させたあの上人ですね。最近修復されたのか色も鮮やかな山門に新しい壁画が描かれていて、それが何とも・・・。


帰りは篠山~亀岡経由で戻る。京都市内に入った途端、ナビに表示された道路が渋滞マークで真っ赤になる。主要道路はどこも大渋滞なり。やれやれ、三連休の中日というのを忘れていた。裏道をぐるぐる走ってFさんを送り届け、さらに半時間ほどかかってようやく自宅に到着す。普段なら10分もかからない距離なのに。


この日の夜に読んだ本。


●井上理津子『親を送る』(集英社)。身につまされました。
●高木智子『隔離の記憶―ハンセン病と命と希望と』(彩流社)。ハンセン病に関して自分は何も知らないということを痛感しました。 


 写真上は高源寺。門前には団体客を乗せた観光バスが並んでいましたが。中は円通寺の参道のドウダンツツジ。下は高山寺の山門。


Img_4347 11月21日(土))晴れ。今年はいつまでも暖かだったせいか、紅葉の色つきが悪いようだ。例年なら11月半ばを過ぎると、赤く色づいて山手の方から鮮やかな紅葉が見られるのだが、今年は一向に紅葉のたよりが届かない。天神さんの紅葉はいかがかと散歩のついでに寄ってみたが、この日観ることができたのは黄色く色づいたイチョウのみ。肝心のモミジはといえば、茶色に枯れているか、赤でもない緑でもないぼんやりとした色をしているだけ。冷え込みが続くと少しは彩もよくなるのかもしれないが、今年は大外れといっていいのではないかしら。お土居堀のモミジを上から眺めただけですぐに出てきてしまった。


Img_4349 天神さんのすぐ隣に評判のポルトガル菓子店があるというので、覗いてみた。蔵を改造した店内には喫茶コーナーもあり、レジの前には長い行列が。なんでもここの主人は長崎の老舗松翁軒でカステラつくりの修業をしたのち、ポルトガルで開業、その後再び来日して、京都でポルトガル菓子専門店を開いたという。食文化比較体験セットというのを薦められたので、いただくことに。ポルトガルの各地方で食べられているお菓子が4個、出てくる。珈琲はエスプレッソのみ。長崎の繊細でしっとりとしたカステラを食べ馴れているので、かの地ではこんなふうなのかとその素朴な味わいを意外に思いました。


Img_4447先だって芥川賞を受賞した羽田圭介『スクラップ・アンド・ビルド』(文藝春秋)を読む。現代っ子による介護ごっこを書いたものかと思っていたが、案外シビアな部分あり。失業中の主人公が健康保険料は納めるが、年金は将来あてにならないので国民年金の保険料不払いを決めるところ、わかるわかる。過剰な介護は高齢者の自立を妨げる、という説も同感。しかし主人公はそれを逆手にとって、過剰な介護で祖父の自立機能を衰えさせ、尊厳死へ導こうと考えるのだ。面白いのは、その祖父がもしかすると要介護老人ではないのかもしれないということで、それは謎のままなのがちょっと気がかり。最近の若い作家の作品を読むのは久しぶりのことだが、芥川賞に関していえば同時に候補となった高橋弘希『朝顔の日』(新潮社)を取りたいという気分。『朝顔の日』を読んでいる間じゅう、私の頭には宮崎駿の映画「風立ちぬ」が浮かんでいたのだが。


 写真上は北野天満宮の銀杏。中は「カステラ・ド・パウロ」でいただいたポルトガルのお菓子。


Img_4312 11月14日(土)曇り、時々小雨。姉の七七日忌。前日の夜、長崎入り。法事は午後からなので、午前中、長崎県立図書館を訪ねて開催中の「野呂邦暢展」を観てきた。没後35年を記念して行われているもので、11月8日には岡崎武志さんが講演をされた。近年の野呂文学再読ブームのきっかけとなったのは、岡崎武志さんと山本善行さんの『新・文學入門』(工作舎 2008年)ではないかと思う。その前から岡崎さんはいろんなところで野呂文学について語ったり書いたりしておられたが、この本の巻末に収めた架空企画!「気まぐれ日本文學全集」の中に「野呂邦暢」をあげておられた。若い世代に野呂文学の魅力をPRして、読者を掘り起こしてくれた最大の貢献者なのだ。8日は伯母の葬儀と重なったため長崎へ行けなかったが、講演を聴いた友人から詳しい手紙が届いた。それは楽しいお話だったとのことで、これから岡崎さんの本を読みます、とあった。


Img_4326 写真は長崎市八幡町にある宮地獄八幡神社の陶器の鳥居。佐賀県有田市の香蘭社製で1888年につくられたもの。陶器の鳥居は珍しく、この他には、有田の陶山神社、佐賀の松原神社、愛知県の瀬戸神社にしかないと傍らの説明書にあった。この神社の近くにあるお寺で法事が営まれたのだが、寺院が立ち並ぶ通りはかつての私の通学路で、それは懐かしかった。


 写真上は長崎県立図書館で開催中の「野呂邦暢展」のポスター。下は宮地獄八幡神社の陶器の鳥居。


Img_4441 11月30日(月)晴れ。長いことブログを休んでいた。パソコンを開いても、ブログを書く気にならなかったからだ。先月亡くなった姉はこの拙いブログを読んでくれていて、3日も怠けると「具合でも悪いの?」とよく電話をくれた。意識はしなかったが、京都の街角の風景や季節の花、読んだ本に観た芝居のことなど、姉が喜びそうな話を書いてきた。それが語りかける相手がいなくなって、虚脱状態、放心状態なのである。そんなとき荒川洋治の『文学の空気のあるところ』(中央公論新社)を読んだら、こんな文章に会って、ますます落ち込んでしまった。


「いまはもう、読むということよりも書くことに、人の関心がある。(中略) 最近はブログもありますからね。ブログは書いたら書いたまま、チェックも入らない無法地帯。書く人の天国。自分では自分の正直な姿を書いているつもりでしょうけど、それは幻想、思い込みでしょう。自己表現をしていると錯覚する人も多いが、何もしていない。何もしていないことをつづけているということになる。そのような時間があるなら何か他のことをしたほうが、自分のためになるように思います」


 正直、お馬鹿さん、と頭を叩かれたような気がした。いやはや恐れ入りました、という感じ。しかし日が経つにつれ、「何もしていない」でもいいではないか、自分のための備忘録なのだから、と思うようになった。ささやかな備忘録。


 というわけで、久しぶりにブログを書いている。怠けていた間のことをいくつか記しておくことにしよう。


Img_4302 11月11日(水)晴れ。咽喉が痛くて鼻水が止まらない。霞がかかったようで頭が重い。予定をキャンセルして大人しく在宅。ひたすら溜まった本を読む。しかし2時間もそうしていると、目が霞んできて辛い。いよいよ「もうろく」か。


●現代思想「鶴見俊輔」特集号を読む。南伸坊と黒川創の対談がいい。桑原武夫が鶴見俊輔をスカウトしたころの京大人文研はすごかった。海千山千の猛者ぞろいで、共同研究は華やかだった。現在はどうだろう。
 鶴見俊輔さんが「もうろく帖」をつけだしたのは69歳のときだったという。まだ老人の範疇にはないころのことだ。しかしもう自分のもうろくを自覚して記し始めたらしい。津野海太郎の『百歳までの読書術』の最後に、鶴見さんの「もうろく帖」と、赤瀬川原平の「老人力」が紹介してある。いずれもこれからのわれらが世代の指針となる本にちがいない。さて、あと何年読書を楽しめるだろうか。せいぜい目を大事にしておかなければ。


 伯母が亡くなった11月7日は私の母の命日でもあった。また息子のお嫁さんの父親の命日でもある。身近な人たちの命日が重なるのは偶然とはいえ、不思議な気がする。宇野浩二と広津和郎の命日が年こそ違うものの同じ9月21日だということを思い出した。この二人は終生の友だったから、呼び合ったということもあるかもしれない。今週末は早いもので、亡姉の七七日忌である。いよいよ中陰も終わる。


Img_4301 11月10日(火)曇り。先週の金曜日、K先生たちと平安京法興院跡を訪ねた。法興院は二条京極にあった藤原兼家の邸二条院で、正暦元年(990)、法興院と改名された。この寺にあった積善寺という御堂で一切経供養をしたときのことが『枕草子』に出てくる。『枕草子』の中でも最も長い一段で、「關白殿、二月二十一日に、法興院の積善寺という御堂にて、一切供養をせさせたまふに、女院もおはしますべければ・・」に始まる260段で、当時の中の関白家の栄華を描いたもの。いったいに清少納言は『枕草子』に自分が仕えた中の關白家の没落のことは書かなかった。書かれているのは徹頭徹尾、關白家の栄耀栄華の様子のみ。さて、法興院の場所には候補地が二つあって、一つは河原町二条にある現在の法雲寺、もう一つは(こちらが本当らしいが)市役所北側寺町二条あたりの一画。というので両方を訪ねた。市役所北側、消防署の西隣では目下発掘調査中、写真奥の白いテントの向う側が法興院跡らしい。隣のビルの屋上から全体を見たいというのでK先生はビルの持ち主に交渉にいったもののうまくいかず諦めることに。だが、俯瞰図、鳥瞰図を常に頭において現場を歩くという態度に教えられる。
 日頃から京都の町を歩くときは古地図を携帯する。幸い現在の京都の町は平安京の大路小路をほぼ踏襲しているので、平安時代の貴族の邸などを比定できるのだ。業平が歩いた道、道長や実資が馬で行った道などを想像しながら歩くのは楽しい。いい一日でした。


Img_4151 11月7日(土)曇り。高校の同窓会で大阪行。数十年ぶりに会う人あり。名前を聞いても俄かには思い出せない。卒業以来、滅多に同窓会には出ないので、浦島太郎の心境。会の終わりごろ携帯電話に、九州に住む伯母が亡くなったという報せあり。二次会を断って、まっすぐ京都へ戻る。電車が京都へ着くころ、「日曜日に通夜、告別式は月曜日」との連絡あり。いやはや、翌日の会合に欠席する旨を連絡しなければならない。あちこちにメールしながら、ここのところ毎月のように身内の葬式に出ているなあと思う。結婚式は予定が立つが、お葬式は突然のことなので、予定変更で実に難儀なことである。この日も遅くまで連絡かれこれに時間を費やす。


 11月8日(日)雨。新幹線で博多へ。雨の中、まっすぐ斎場へ向かう。甥や姪の子どもたちも神妙な顔で集まっている。みんな大きくなった。通夜のあと、みんなに断ってホテルへ戻る。せっかく九州へ来たので新鮮な魚を食べたいという食欲に負けたのだ。イカやアジの活きづくり、カワハギや馬の刺身、etc.... (斎場に残ったみんな、許してね)。


 11月9日(月)雨。伯母の葬儀で子どもたちがそれぞれお別れの言葉を語りかけたのはよかった。しかし一人っ子同士の夫婦に生まれた子どもは、叔父伯母やイトコというものを持たず、その存在を全く知らないわけで、そうなると葬儀はずいぶん寂しいものになるだろうな・・・ふとそんなことを思う。晩年の伯母は姪たちの子どもを自分の孫のように愛して、それは猫可愛がりした。迷惑なこともあったが、伯母にとっては幸せなことだったと思う。
 夕方の新幹線で京都へ戻る。新幹線の中で咽喉が痛くなり、しきりに鼻水が出る。やれやれ、風邪をひいたか。夜、喉の痛みでなかなか眠れず。夜半何度も起きてうがいす。
 博多まで行きながら、駅と斎場を行き来したのみ。さすがに疲れました。 


Img_4250 11月5日(木)晴れ。淀川を船で遡る舟運の旅に参加してきた。出発地点は大阪天満橋の八軒家浜。かつて熊野街道はここが始点だった。大阪と京を結ぶ水運の起点でもある。芭蕉や蕪村も行き来したであろう淀川舟運を一度体験したいと願っていたのが叶った。もっとも上流の到着地点は大阪の枚方湊で、京の伏見ではない。枚方より上流の淀川は溜まった土砂のせいで水深が浅く、舟の航行は無理とのこと。この日乗った船はアクアライナーと呼ばれる水上バスで、案内人の男性が一人、途中で舟歌などを披露してくれた女性が二人が同伴。Img_42682時間半の船旅の間、淀川の歴史や大阪の町のあれこれを語ってくれるのを興味深く聞いた。与謝蕪村生誕地近くにある毛馬の閘門は、水位が異なる二つの川(淀川と大川)を船が行き来できるようにしたもので、この日はおよそ2メートル近い水位差を調節した。大阪は水の町だというが、大川から淀川まで出る間に10もの橋をくぐった。大川こそ本来の淀川で、毛馬閘門から西の川は人工的に掘削されたものだという。川の両側にはワンドと呼ばれる緑の湿地帯が続く。ここは水生動植物の宝庫だそうだ。寝屋川付近の堤は日本で最初の人工堤、仁徳天皇が築いた茨田の堤で、枚方付近の文禄堤は秀吉によって築かれたもの。蕪村が旅をしていたころは動力船ではないから、川岸を引手が曳いて上っていったのではないか。大阪から京まで丸一日かかったという(下りは半日)。安東次男の『与謝蕪村』(講談社学術文庫)は”「澱河歌」の周辺”に始まる。枚方で舟を降りて京阪電車で京都へ戻り、本棚から『与謝蕪村』を取り出して再読す。晩年の蕪村は、淀川を船で下ることに密かな楽しみをいだいていたのではないか、と安東次男は書いている。船が伏見までとはいかなくても、せめて橋本、淀辺りまで遡上できるようにならないかしらと夢見ているのだが。
 この日は快晴、風もなく最高の船旅日和だった。川から眺める沿岸の風景もよきもので、ひととき憂き世を忘れさせてくれました。途中の川岸に「くらわんか舟発祥の地」の碑あり。昔、淀川を行き来する舟を相手に、酒や餅を売る小舟を「くらわんか舟」といった。「餅くらわんか、酒のまんかい」と呼びかけたことからついた名だが、このとき用いられた陶磁器のほとんどが長崎県波佐見産のもの。当時もいまも庶民的な雑器です。


 ●『粕谷一希随筆集(3) 編集者として』(藤原書店)を読む。去年の5月に亡くなった名編集者の随筆集。自分がかかわった中央公論社に関することよりも筑摩書房に関する記述多し。古田晃、臼井吉見、唐木順三ら、創業メンバーの人間的魅力が描かれている。以前読んだ、座談『書物への愛』も良かった。


 写真上は八軒家浜船着き場。下は大川に架かる橋。


Img_4247 11月3日(火)曇り。日頃の運動不足解消のためと称して、洛北一乗谷にある狸谷山不動院へ行く。鞍馬電鉄一乗谷駅から東へ詩仙堂・八大神社を経て、ひたすら上っていくと250段の石段の上に懸崖造の本堂がある。途中、ほら貝を吹きながら山伏姿の修験者たちが上ってきたので何かと尋ねると、この日はお寺の秋まつりで護摩焚きがあるとのこと。せっかく来たからと、まつり見物をすることに。境内は比叡山の西麓、この日の気温は11度くらいか、汗がひいた途端、肌寒くなった。まつりは旅の修験者との問答に始まり、ちょっとした寸劇を見ているよう。どこで知ったのか、外国人観光客の姿も少なからずいて、みんな興味深そうに眺めている。護摩焚きのあと参拝客にふるまいがあると聞いたが、寒くなったので途中でリタイア。上りは息があがったが、下りは風のごとく(?)降りてくる。詩仙堂の門前に、山茶花の白い花が散りしだいていた。


 ●奥本大三郎『奥山准教授のトマト大学太平記』(幻戯書房)
 ●奥本大三郎『散歩の昆虫記』(幻戯書房)を読む。


 奥本センセイの本はいつもながら何とも楽しい、とくに自分の体験をもとにしたと思われる『トマト大学太平記』には笑ってしまった。受講者が減る一方のフランス文学、いまどきの大学生とセンセイの問答の愉しさ、フランス語を駆使して何とも洒落た会話が続く。学生たちが理解できようができまいが、センセイには関係ないのだ。文部省が人文系学部の縮小を主張すれば、トマト大学のフランス語教室の運命はいかに?などと思いながら読了。フランス語での洒落を教えてもらいました。面白くてためになる本です。


Img_4203 10月31日(土)晴れ。ある会のグループ旅行で熊野行き。平素は単独行が多いので、連れがいる旅は勝手がちがう。貸切バスで京都を出て、白浜で昼食(クエ料理)、熊野本宮~速玉大社と周り、那智勝浦のホテルへ投宿。海に面した露天風呂はよかったが、館内は台湾・香港からの団体客多く(日本人はもちろん)、修学旅行のような雰囲気。修学旅行ならここで枕投げが始まるのだろうが、還暦すぎの良い子は10時前にもう白河夜船でした。この日、白浜まで行きながら熊楠館に寄らなかったのは残念。Img_4183 
 翌日は那智大社~青岸渡寺~那智瀧を回り、太地くじら館~串本の橋杭岩を見て帰路に着く。紀伊半島は遠い。中上健次は故郷新宮に帰るのに、新幹線で名古屋まで行き、そこから新宮へ行くのも遠い、また白浜空港まで飛行機で行き、そこから新宮まで車でさらに2,3時間かかる、いかにも熊野は遠い、とエッセイで嘆いていた。その遠い熊野に平安時代の上皇たちは何度も出かけている。最高は後白河の33回、後鳥羽の29回がそれに続く。後鳥羽の熊野詣に供奉した藤原定家は、「路せまク、笠ヲ取ル能ハズ、蓑ヲ著ク。輿ノ中、海ノ如ク、野


Img_4174ノ如シ」と日記『明月記』に記して旅の難儀を嘆いた。高速道路が半島の南端近くまで延伸していたが、さて全線貫通はいつになることやら。


 写真上は那智の滝。中は速玉大社にある「熊野御幸の碑」。下は速玉大社そばにある佐藤春夫記念館。


 


Img_4146 10月30日(金)晴れ。友人に誘われて、久しぶりに河原町今出川にある京料理屋Hで昼食。なかなか予約がとれなかったが、行ってみるとカウンターも座敷もいっぱい。カウンター席につき、主人の包丁さばきに見とれながら料理をいただく。ここは料理も見事だが、使っている器がいい。紙のように薄いグラスや漆器など、洗い場さんはさぞ緊張するだろうなあと同情したくなる。自らもやきものづくりを手掛ける主人が集めた食器類は自宅や店に収まらず、さるお寺の蔵を借りて収納しているとのこと。なかなか予約がとれないとこぼすと、有り難いことですが本当に申し訳ない、と。食後、友人と別れて近くの植物園へ寄る。園内はバラやコスモスが花盛りでした。南門前のプロムナードの欅並木が美しく色づいて、いよいよ紅葉シーズン到来という感じ。


●津野海太郎『百歳までの読書術』(本の雑誌社)を読む。先だってある新聞に「本が売れないのは図書館のせい?」という記事が出て話題になった。なんでも全国図書館大会に出席した新潮社の社長が、「図書館の貸し出しで本の増刷の機会が減っている、せめて新刊書の貸出を一年待ってもらえないだろうか」と発言したという。それに対して読者・利用者側からは、「図書館で本に出会う機会は大きい。手元に置きたい本はためらわず購入する。本の売れ行きが落ちているのは、どうしても欲しいという本が減っているからだ。いい本は買う。どうでもいい本は図書館で読む」という声があった。この論争はずいぶん前からあった。図書館が無料貸し出しをするから本が売れない、というのは出版社側の企画力の貧困さを露呈するものではないか。津野さんはリタイアをきっかけとして自分の読書状況が変化したという。現役の時はいくら高くても気になる本はためらうことなく買った、しかし最近はまず図書館にあるかどうか調べることにしている。調べものに必要な本、比較的かたい本は、たいていのことは地域の図書館ネットワークで間に合う。だが小説や人気のある作家の新刊の場合は予約が1000人を超える場合もあるからすぐ読むというわけにはいかない。何年も待つ根気はないから、どうしても読みたければ自分で買う。だが最近は読むのをあきらめる・・・・・ 私もそうだ。図書館に予約が殺到している話題の新刊書を読む必要がある場合は、買って読んだあとすぐに図書館へ寄贈することにしている。津野さんの語りは楽しい。本を増やさない法、は参考になりました。


Img_4094 10月27日(火)晴れ。午後、ある会合に出るため河原町五条へ行く。早めに着いたので、周辺を散策。高瀬川沿いの、河原町五条を下ったところに大きな榎の木があって、その根元に「河原院址」の碑あり。嵯峨天皇の皇子源融の別業で、その壮大さから『源氏物語』の六条院のモデルとされる。そこから南に下がっていくと、写真のような建物が並ぶ一画あり。仁丹マークの町名板を見ると、六軒通木屋町東入岩滝町とある。ここから鴨川まではすぐ、川に近いところは上口通加茂川西入とあった。会合の時間が迫ったので途中で引き返す。
 このImg_4085辺りは六条河原、鴨川をはさんだ向う岸に、元和キリシタン殉教の碑がある。元和5年(1619)10月、ここで処刑された52名のキリシタンのためのもの。京都に移り住んで以来、機会あるごとにこの町に残るキリシタンの跡を辿ってきた。私は特別の信仰を持つわけではないが、なぜか彼らの足跡から目を逸らすことができないのだ。2007年10月、日本で初めて列福式が長崎で行われ、「ペドロ岐部と187人の殉教者」が福者となった。京都の6条河原で処刑された52名のキリシタンもその中に含まれている。


 写真上は六軒通木屋町あたり、下は川端通正面上るにあるキリシタン殉教の碑。


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