2016年01月

2016_0122_110340img_4887 1月22日(金)承前。久しぶりに蛸薬師通りを歩いたら、知らない店がいくつも目についた。以前からあったのかもしれないが縁がなくて気がつかなかったのだろう。京都の町も最近は店舗の入れ替わりがしげくて、「世の中は何か常なる飛鳥川」という気分になる。新店舗になると、もうそこが以前何だったか思い出せないのも寂しいことだ。まさに有為転変。
  初雪が降った20日の夕方、午後には晴れて青空になったので、予定通り洛西の日文研へ出かけた。市中の雪はとうに溶けていたが、洛西には真っ白に雪が残り、日文研の周りは雪原のよう。古記録演習にベトナムからの研究者も参加しているのだが、室内でも外套を身2016_0122_110706img_4891_5に着けたままで「寒い」を連発。お国(ベトナム)では1月の気温が摂氏35度というから無理もない。蛸薬師通にベトナム国旗を掲げた店を見つけて、寒さに震えていた彼女を思い出した。
 そこからさらに東へ行く途中に、こんな店があった。店の名前が「cogito, ergo sum」。デカルトですね。お店はスタイリッシュなブティックのようです。勿論哲学とは無縁で、たとえば「絶対矛盾的自己同一」だの「いきの構造」だのという名前の食事処やブティックがあるようなものでしょうか。
 松栄堂でお香「花散里」を、寺町の紙司柿本で便箋と封筒を購入。河原町のBAL内の丸善で本をいくつか。いつもの花店でピンクのトルコ桔梗を求め抱えて帰る。北山は雪、でも久しぶりに歩いたせいで体が汗ばみました。


 拙ブログに珍しく続けてコメントをいただいた。読んで下さった方からの反響はなによりも嬉しく有り難い。言葉のラリーが続くといいなあと願っています。感謝をこめて。


2016_0112_152255img_4843 1月22日(金)晴れ。今年はなにやかやと取り紛れて、上賀茂神社の白馬節会や東寺で行われる後七日御修法に行きそびれた。国家安泰を祈願する御修法は真言宗最高の儀式で、かつては大内裏の真言院で行われていた。宮中では元日から7日間を神事、第2週目を仏事としたので、後七日御修法というそうだ。平安古記録には毎年一月の行事で登場する。なかなか荘厳なもので、結願の14日には、普段は非公開の灌頂院に入ることができるので、善男善女が詰めかける。今年は新年の行事をほとんどパス、長浜で十日戎に詣でたくらいか。
 写真は近所の商店街で見かけた寒中托鉢の一行。家内安全と無病息災を祈って聖護院の修行者たちが市中を廻るもの。全国各地から集まった修行者たちは鈴懸に結袈裟、頭布の山伏姿で、ほら貝、音声で町を行く。聖護院は左京区、東大路をはさんで京大病院の東側にある。近くにこの地の名がついた八ツ橋菓子の店があり、同じくすぐ近くの熊野神社には八橋検校の像や顕彰碑が建っている。昭和の初めごろ(昭和2年ごろ)、京大生だった伊東静雄がこの辺りに住んでいた。そのころ友人に送った手紙にはこんな詩が記されている。


  にはかなる夜冷えは樹々に
  こたゆらむ柿の実かたく地に
  おつる音              『伊東静雄青春書簡』(本多企画)


 寒中托鉢の修行者たちは普段はサラリーマンだったり、商家の主だったりするのだろう。私の身近にも銀行員だがお火焚きの時期は山伏になる人や、西陣の機織職人だが年に一度山伏姿で大峰山に行く、という人がいる。京の町には普段は仮の姿という人が多いようです。御修法は空海(弘法大師)が始めたそうなので、「南無大師遍照金剛」を唱えますが、寒中托鉢の修行者たちは「般若心経」のようでした。


Img_4874 1月20日(水)雪。暖かい新年だと喜んでいたら、昨日は厳しい冷え込みで、今朝は雪となった。遅い初雪だが、これでようやく京都の冬らしくなった。九州育ちには辛い季節だが、こんなときマンション住まいは有り難い。外がどんなに寒くても部屋の中(暖房なしでも)が18度を下ることはない。齢をとったらマンション住まいがお薦め。何と言っても家のメンテナンスなど管理をしなくていいいのがいい。マンションに移った時、庭の草むしりから永遠に解放されてどんなに嬉しかったことか。山野草が好きなので土いじりができないのは寂しいが、何もかも手に入れることはできない。一つを手に入れればもう一つは諦めなければ。それが人生というもの。(と常に自分に言い聞かせています) それに自分にはもうそんなに時間はないのだから、欲張るのは愚かなことなのだ。写真はいまの窓からの眺め。ここは本当に「眺めのいい部屋」で、晴れていたら真正面に愛宕山から天王山へと続く西山が見えます。(夏には五山の送り火も見えます。数年前、丑寅の方角にビルが建ったので、妙・法が隠れてしまいましたが)


  ●関幸彦『恋する武士 闘う貴族』(山川出版社)にこんな記述有り。ーー『平家物語』と『太平記』の違いについてーー前者において「死」は叙情的で、直接的な死の描写はない。対して後者は「勝って何ぼの世界」の現実主義で、強者や死の描写はリアル。なるほど、僅かな時代の差で物語の語り口や描写に大きな変化があるというわけ。貴族の世から武士の時代への変遷が窺える記述です。


 いざさらば雪見にころぶところまで  芭蕉


 とはいうものの、今日は一日家に籠って遠くの友人たちに手紙を書くことにします。


2016_0101_131836img_4763 1月17日(日)曇り。阪神淡路大震災から21年目の日。21年前のこの日、私はまだ以前住んでいた諫早の自宅にいた。朝、ラジオをつけると「地震地震」とアナウンサーの興奮した声が聴こえてきたので、慌ててTVをつけて大惨事が起きたことを知った。京都に単身赴任中のつれあいに電話するが全く連絡がとれない。その日の午後遅くになって、勤めていた会社経由で無事の報せが届いたものの、本人の声を聴いたのは翌日になってからだった。20世紀の現代社会に、地震で6434人もの犠牲者が出るなんて、茫然となったものだが。それから16年後にそれを上回る大災害に見舞われるなど予想もできなかった。自分が生きている間に二度と阪神淡路のような天災は起きないと思っていたが。ただし、東日本大震災は天災であると同時に人災(原発事故)でもあり、それが復興の障害になっているのがもどかしい。
 2006年のこの日、「朱雀の洛中日記」を書き始めた。毎年この日に書いていることだが、不注意で足の小指を骨折し、外出がままならぬ中で自分の無聊を慰めるために始めたもの。京都での読み、書き、歩きの日々を思いつくまま記している。「遊んでさらいて(長崎弁で”遊び回って”の意です)」の日々ですが、老いる一方の自分のための備忘録でもあります。今日から11年目に入りますが、これからもどうぞよろしく。


 写真は近所の町家の鐘馗さん。一文字瓦の上で家を厄難から護っています。


Photo1月15日(金)晴れ。今年最初の「知の会」で祇園のFへ行く。祇園の芸舞妓さんたちはこの日まで黒紋付きの正装で、髪にさした初穂がいかにも新春らしい。写真は芸妓の章乃さん。舞も上達して、ますます艶やかになりました。以前(1999年まで)は小正月のこの日が成人の日で、ラグビーの日本選手権の日でもありました。新日鉄釜石が連勝していたころは、スタンドに大漁旗が舞ったものです。釜石のあとは神戸製鋼が真っ赤なジャージイで活躍しました。社会人チームと大学チームとの実力差が大きすぎるので、いまは混在のトーナメント方式になったようです。でも学生が社会人を破って日本一になったこともあり、1986年、慶大がトヨタ自動車を下したときの試合は昨日のことのように覚えています。慶大の監督は当時トヨタ自動車に所属していた故上田昭夫さんで、監督としては嬉しいが、社会人としては複雑だったのではないかしら。究極のアンビヴァレント。


翌16日(土)は新しくオープンしたロームシアター京都(旧京都会館)へ「八花絢爛」を観に行く。シアター杮落し公演の一つで、京都の花街を支える「おおきに財団」創立20周年記念行事。京都の5花街と金沢、東京新橋、博多の3花街の合同公演で、会場となるシアターは着物姿の女性たちで2016_0116_140407img_4858それは華やかなこと。客席にも芸舞妓の姿が目立ちました。(長崎検番の姿がないのが残念。次回に期待しています)。


 終了後、久しぶりにわらじ亭で食事。自慢のおばんざいをいただく。京都の撮影所に来る役者さんたちがよく顔を出すお店で、人気役者が隣にいても誰も気にしないのがいい。数年前、名物女将が亡くなって寂しくなったが、料理の味が変わらないのが嬉しい。帰宅後、千葉に住む友人に長い手紙を書く。同人誌に載った友人の小説の感想文なり。眼高手低とはよくいったもので、批評はできるが、さて、自分が書くとなると全く、というのが正直なところ。虚構でしか書けない真実がある、というのが二人に共通する文学観なのだが、その虚構がいつもうまくいくとは限らないのが苦しいところ。


 写真上は祇園甲部の章乃さん。下はロームシアターで見かけたどこぞの花街の芸舞妓さんたち。


2016_0117_071753img_4870 1月14日(木)晴れ。長崎の友人Oさんから「楽」30号を贈られる。「楽」は長崎から出ている季刊誌で、そのクオリティの高さから創刊以来注目されている地域情報誌。特集記事の内容の濃さもさることながら、美しい写真が豊富に楽しめるのが嬉しい。今号のテーマは「長崎四季ごよみ」で、表紙の写真は長崎のお菓子。上から端午の節句用の鯉生菓子、中は桃の節句用の桃カステラ、下はお祝い事につきものの有平糖。いずれも他所では入手できないものばかり。季節の菓子はその時でないと買えないので、時期を待って送ってもらうしかなかったが、最近はネット購入が可能になった。「長崎四季ごよみ」を読みながら、長崎と京都の共通点を思う。いや、全国各地人々が暮らす町はみな似たようなものだろう。祭しかり、季節の行事しかり、その現れ方、形が少しずつ異なるだけではないだろうか。文化の同時発生説、伝播説、その両方とも人間が考えることに大きな差はないのではないかと思う。京都の祇園祭のちまきにまつわる蘇民将来の話には旧約聖書の過ぎ越しの祭が連想されるし。


 ●佐藤泰志『もうひとつの朝』(河出出版社 2011年)を読む。若いころの作品を集めたもの。その切実さにときどき、息詰まるような気分になる。


2016_0110_092549img_4807 1月10日(日)晴れ。朝9時に長浜港を出る船で竹生島へ渡る。風もなく波穏やかな琵琶湖を白い波を立てて船が進んでいく。湖上から見る伊吹山は山頂だけが冠雪して白い。30分ほどで島に到着。朝早いのに、かなりの乗客あり。(同じホテルに泊まっていたツアー一行も同船していた) 周囲約2キロのこの島には宝厳寺(弁財天)と都久夫須麻神社があるのみ。この島を訪ねるのは10年ぶり今回が2度目だが、つれあいは初めて。まずは拝観料を払い165段の石段の上にある宝厳寺へ。ここは西国三十三観音霊場の第30番札所で、白衣姿の巡礼を見かける。国宝の唐門と重文の観音堂はあいにく修理中で全貌を観ること2016_0110_175802img_4841ができない。秀吉の御座舟を利用したといわれる船廊下を通り、都久夫須麻神社(国宝)へ。本殿の前に日本五弁天の立札あり、それによると他の4つの弁天さんは、厳島(安芸)、黄金山(陸前)、江島(相模)、天川(大和)とのこと。同じく本殿脇に『平家物語』にある「竹生島詣」を記した札あり。木曽義仲を討伐にきた平経正がここに参詣して琵琶を演奏したら、感銘を受けた神仏が白龍になって姿を現した、というもの。竹生島には物語が生まれる何かがあるのだろう。いまはパワースポットだとかで、若者に人気があるそうだ。急な斜面に張り付くように建っているお寺と神社を一巡するのに半時間もかからない。早々に廻り、港でくつろぎながら船を待つ。長浜からの第2便は前回よりさらに多い客を運んできた。折り返し10時50分発の船で長浜へ戻る。島での滞在時間は80分だがこれで十分。観音堂の唐門は京都豊国廟の唐門(極楽門)を移築したものではないかとされているそうだが、それでなくても湖上の小さな島にこれだけの建築材を運び、立派な神社仏閣を建てた人々の苦労がしのばれた。信仰の力だけではない、相当の権力者がいないと、これだけのものは実現できないだろう。偉大な建築物・美術品の陰に専制政治家、独裁者あり。しかし、三朝の投入堂はどうだろう。あれは純粋に信仰ゆえと思うのだが。


 ホテルは今年も長浜市の成人式会場となっていて、港から戻るとロビイは晴れ着姿の新成人たちで花が咲いたよう。女性はほとんどが伝統的な着物姿で髪飾りも上品。お行儀のいい若者ばかりで、年寄りには好感が持てた。TVニュースで羽目を外した仮装大会のような成人式を見ると、もうやめてもいいのではと思う。私は成人式の日、友人たちと雪山登山をしました。初めて登山靴を履き、借り物のアノラックを着て。往事渺茫、遠い遠い日のことです。


 夜は鴨鍋をいただく(長浜に来たのは鴨が目的)。例年はホテル近くの料理旅館(浜湖月)へ出向いて鴨をいただくのだが、ここが昨年火事に遭い休業中のため今年はホテルで用意してもらった。鴨は新潟産の天然もの。「ときどき弾が残っていて、つみれを食べるとジャリと歯に当たることがあります」とは仲居さんの弁。ホテルの目の前は琵琶湖で、水面には黒い点をちりばめたように鴨が浮かんでいる。彼らは琵琶湖が禁猟地だと知っているのだろう、悠々と遊んでいる。琵琶湖にはいま冬鳥が飛来して越冬中。鳥が群れ飛ぶのを見て、同じように野鳥の天国だった諫早湾を思い出した。


 夜『コンニャク屋漂流記』を読了。いやあ、巻を置くあたわず、一気に読ませられました。


 写真上は竹生島の東端。都久夫須麻神社が見えます。


2016_0109_131551img_4776_2 1月9日(金)晴れ。天気予報によると湖北は雪というので、車はやめてJRで長浜へ向かう。去年の長浜行では大雪に見舞われ難儀したのでそうしたのだが杞憂に終わったようだ。長浜は青空が広がる快晴で、どこにも雪は無し。ホテルの人も「この冬はまだ一度も雪を見ていません」といい、「湖北のスキー場は苦戦しています」とのこと。九州生まれには冬が暖かいのは有り難いが、暖冬に悩む人たちも少なくないのだろう。長浜の町を散策し、豊国神社(恵比寿さん)にお参り。この日から十日戎で、境内は福笹を求める人で賑わっていた。長浜は秀吉が初めて一国一城の主となった町で、秀吉の色濃い城下町である。町のそこかしこに瓢箪マークが見られるが、なかでも2016_0109_144247img_4792_2目につくのがマンホールに描かれたひょうたんの図。いろんなパターンがあって楽しい。この日は長浜の中心街を歩き、さざなみ古書店を覗く。北九州出身の女性が5年前に開いた店で、この5年の間にしっかりとこの町に根付いた様子。細長い廊下の奥に店があるのだが、廊下に並べられた「暮しの手帖」のバックナンバーを手にして時間が過ぎてしまった。私は1969年から始まる第2世紀100号までを家事の虎の巻として大事にしていたのだが、京都に引っ越してくるとき、泣く泣く処分した。だが京都で全100冊譲ってくれる人に出会い再び書棚に収めたのだが、いまのマンションに入居するとき、再び泣く泣く手放した。もともと雑誌を保存するという習慣はないのだが、「暮しの手帖」だけは例外だった。それなのに、二度も手放したのだからもう手元に置くことはないだろう。思いがけなく1970年代の暮らしの手帖に会って、いっときタイムトラベルした気分になった。(喜びも悲しみも幾年月、という気分です) 


 ホテルに戻って、持参した●星野博美『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)を読む。これが面白くて夕食に遅れそうになった。コンニャク屋の屋号を持つ父方のルーツを探して、自分の生地東京から父の生地である房総、さらに房総へ渡ってきた先祖の地和歌山へと調査に飛びまわる日々を記したもの。とにかく血族のつながりの強いこと、その交流の濃いこと、いまや親族との縁が薄れる一方という読者(私です)には、驚嘆しきりの読書でした。房総御宿に住む友人にこの本をプレゼントしよう。彼女は今来の人だが、きっと興味を持ってくれることだろう。


 写真上は長浜の豊国神社(恵比寿宮)。下はさざなみ古書店入口。


Img_47731月7日(木)晴れ。仕事始も過ぎ、ようやく平常に戻る。早々と正月飾りを片付けて机に向かう。まずは『御堂関白記』長和5年(1016)正月の項を開く。藤原道長による、いまからちょうど千年前の記録である。「丙午、天地四方拝如常、家子・上達部・殿上人・家司等拝礼如常、参東宮并大内、無小朝拝、節会不出御、人々遅参、仍以東宮大夫爲内弁、・・・」。次いで、藤原実資の日記『小右記』の同じ日のくだりを読む。冒頭欠字多く、判じ読み。「依不可有小朝拝、依玉躰不豫欤、日晏参内、時々雨降、参從南御門、・・・」。正月29日に三条天皇の譲位が決まり、なんとなく浮足立った様子が窺える。三条天皇のあと、道長の娘彰子が産んだ敦成親王が即位して後一条天皇となり、ここから道長の「この世をば我が世とぞ思ふ」時代が始まるのである。さて、1000年後のこの世は如何ならむとTVをつければ「この世をば我が世とぞ思ふ」驕った政治家の顔が出て来てげんなりする。
 写真はこの正月休みに目を通した本。再読したもの、半分未読の本もある。昨年が戦後70年というので、戦争に関する本が目立つ。中でもいちばん印象深く読んだのは小熊英二『生きて帰ってきた男』(岩波新書)だろう。加藤典洋『戦後入門』(ちくま新書)は枕にしてもいいほど厚いが、著者の熱が伝わる書。川本三郎さんの『ひとり居の記』(平凡社)には慰められた。前著『そして、人生はつづく』(平凡社)では、妻を思い出して涙するシーン、何かといえば涙ぐむというシーンが多々あったが、今回の本にはそれが目立たなかった。歳月が薬、なのだろう。私も見習わなければ。香り高い文芸書がないのが寂しいが、たまたまです。カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』に、共同体(国)の記憶ということを考えさせられた。戦争での出来事に関して、一方に忘れたい人々がいて、一方に決して忘れない人々がいる。共同体が何を忘れ、何を記憶するか、戦争に即して考えると、この物語が伝えたいことが浮かび上がってくるようだ。慰安婦問題が決着というニュースにそういうことを思いました。


 写真にはないが、六車由美『介護民俗学へようこそ! 「すまいるほーむ」の物語』(新潮社)を楽しく読んだ。以前、この人の『驚きの介護民俗学』(医学書院)を文字通り驚きをもって読んだ。なにしろ大学准教授の職を投げ打って、介護の現場に飛び込んだ人のユニークな体験記で、民俗学の学徒だった経験をいかして、老人たちの聞き書きをするうち、老人たちが生き返ったように元気になるというのだから。デイサービスに集う老人たちはみな同じではない、それぞれ、その人だけの大事な人生を生きているのだ、という当たり前のことがわかる。小さなデイサービス施設だからできることかもしれないが希望を感じた。 


2016_0104_130916img_4769 1月2日(土)曇り。今年は漱石の没後100年、そして蕪村の生誕300年にあたる。黒川創の『鴎外と漱石のあいだで―日本語の文学が生まれる場所』(河出書房新社)に気付かされたことがあった。少女小説で知られる吉屋信子が著書『私の見た人』の巻頭に、幼いころ出会った田中正造の印象を述べている、というくだり。彼女の父親は当時栃木県下都賀郡の郡長で、足尾銅山の鉱毒汚染に悩む谷中村はその管轄にあった。鉱毒を沈殿させるため村を水没させるという案が浮上して郡長は心ならずも村人たちの説得に奔走する。田中正造が郡長の自宅を訪れたのはそんなときで、小学生の信子は白いひげのおじさんから頭をなでられた、という。母親は平伏して彼を迎え、父は正造を青いトウガラシと酒でもてなした。天下の義人とよばれた人が亡くなったとき、母は仏壇に線香をあげながら、「人のために働いた偉い人だったねえ」と言ったという。吉屋信子と田中正造という取り合わせを意外に思いながら読んだ。もう一つ、この本には漱石の『草枕』の那美のモデルとなった前田卓(つな)という女性のことが詳しく書かれている。卓の父親は元熊本藩士前田覚之助でのち案山子という名で自由民権運動の闘士となり、帝国議会議員にまでなった。卓は3度の結婚に破れたあと、上京して孫文らが結成した「中国革命同盟会」の事務所で働いた。漱石が卓と会ったのはそれよりずっと以前のことで、案山子が熊本県玉名市小天に持っていた別邸に熊本五高の教授だった漱石が泊まりに来たときのことである。ときに漱石30歳、卓は29歳。『草枕』はそのときのことを書いたもの。その後の卓のことを漱石は知らなかったのではないか。卓の弟利鎌が漱石を訪ねて木曜会の仲間入りしたあと、1916年には卓も漱石を訪ねて再会を果たしている。その年の暮れに漱石は亡くなったから、再会からそう長い時間は残されていなかったようだ。


 元日二日京のすみずみ霞たり  蕪村


京に住み、京で没した蕪村の足跡はいまも京都のそこかしこに残っている。今年もまたその後を辿ることだろう。毎日が旅の途上、「旅人と我名よばれん初しぐれ」(芭蕉)の日々です。


 写真は六角堂の蠟梅。馥郁たる香りがとどきました。 


2016_0101_130154img_4761 承前。元日とは思えない暖かさに誘われて、近所の神社に初詣に行く。新年特別拝観中の二条城の前を通ったら、外国人ツーリストが群がっていた。門前の大きな門松の前でさかんに記念撮影をしている。その様子を見ながら堀川通を東に渡り、御池通を下って高松神明社へ。小さなお社だが、ここは歴史上重要な場所なのだ。平安時代、源高明(914-983)の邸があった所で、この社はその鎮守社。高明は醍醐天皇の皇子で源姓を名乗り左大臣となったが、安和の変で失脚。その娘明子は藤原道長の妻となってこの邸に住み、高松殿と呼ばれた。道長には土御門第に同居する源倫子という正妻がいて、二人の妻はそれぞれ6人づ2016_0101_132702img_4764つ子どもを産み、道長の政権を支えた。だが子どもたちの待遇には差があり、明子が産んだ子どもたちは常に分が悪い。道長の日記『御堂関白記』に、ごくたまに明子が登場するが、彼女の全貌はなかなか伝わらない。気になる女性なのだ。その後この邸は白河上皇、鳥羽上皇の院御所となり、1155年、後白河天皇はここで位についている。以後後白河天皇の里内裏となり、保元の乱(1156)では天皇方の拠点となって、源義朝や平清盛らが参集した。平安末期に至るさまざまなドラマの舞台となった場所だが、いまは小さな社が残るのみ。鳥居が真っ白に塗られているのでいつからこうなったのかと不審に思っていると、奥から宮司さんが出て来て説明してくださった。「鳥居はもともと黒木・白木なのですが、それでは腐食が進んですぐに倒れてしまう。それで腐食を防ぐためにどこも丹を塗っているのです。丹には邪気の意味もありますし。わが社でも防腐のために鳥居に塗装していますが、神社は清浄な場所なので白にしました。最近観光客を案内してくるガイドの方が、「ここの鳥居が白いのは、源氏の社だからです」と説明しているのには困っているのですが」。なるほど。
 高松社のあと天道神社へ寄り、四条通の梛神社(元祇園社)・隼神社(平安京朱雀院の鎮守社)に参る。初詣客は軽装の近所の人たちばかり。何よりも平和な世の中を、と手を合わせる。


 写真上は姉小路通の高松神明社。下は天道神社の歳徳神のお札。以前もらったお札には宝船の絵と、「ながきよのとおのねふりのみなめさめ なみのりふねのおとのよきかな」という初夢の回文が記されていました。


2016_0101_122307img_4753 1月1日(金)晴れ。穏やかな元日。今年は喪中というので静かな新年、松飾りや鏡餅は例年通り飾ったが、おせちは控えめにして(手抜きという声もあり)夫婦水入らずでのんびりと過ごす。こんな静かなお正月を迎えるのは初めてのこと、いつもは暮れから我が家は民宿と化し、お正月休みの間じゅう、私は民宿のおばさんを勤めるのだが。おかげで溜まった本にゆっくり目を通し、年に数回しか出向かない映画館に2度も足を運んだ。観たのは「海難1890」と「杉浦千畝」。どちらも歴史的事実をもとに製作されたもので、国際的人道主義が基底にある。明治時代、遭難したトルコ艦隊を串本の人々が助けたのが縁で日本とトルコに友好関係が結ばれた。1985年にイラン・イラク戦争が勃発したとき、テヘランに取り残された日本人たちをトルコが救援機を出して救出してくれた。当時の緊迫した状況は記憶にあるが、日本政府やJALが、安全が確保できないとしてテヘランに救援機を出さなかったということは知らなかった。パリのテロ事件、飛行機の墜落事故、当時以上に世界には危険がいっぱい。「これからの君たちはコスモポリタンであれ」と語ってくれた恩師はいまの世界をどう見ておられるだろうか。
 日本のシンドラーと称される杉原千畝のことはよく知られているだろう。彼が助けたユダヤ人たちが上陸した敦賀港に杉原千畝記念館がある。本国の許可を得ぬままビザを発行したことで戦後杉原千畝は外務省を追われることになるのだが、彼に助けられた人々の声によって名誉回復がなされた。目の前に苦しむ人がいたら見て見ぬふりはできない、見捨てるようでは男がすたるーーとはペシャワール会の中村哲医師の言葉だが、二つの映画に同じような心根を感じた。何事にも報いを求めず、何事にも無私の心で・・・・。そうありたいものです。


 写真は元日の神泉苑。平安京がつくられたときから存在する池です。ここには歳徳神を祀る恵方社があり、その年の恵方を向いています。今年は南南東でした。


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