2016年12月

2013_1201_135407pc010044_2 12月30日(金)晴れ。早朝雨、大阪方面の空は晴れているのに、京都市内の西北は雲が低く山には白く雪が残っている。京都は日本海側気候だとつくづく思う。電車で大阪へ向かうとき、国境の大山崎辺りで空気が微妙に変化するのがわかる。極端にいえばしっとり感が薄くなるのだ。
 さて今年も今日と明日を残すのみとなった。eoblogのサービスが来春にはなくなるので、どこかに引っ越すかそれともこのまま終了するか、選ばなければならない。2006年1月からスタートしたので、もう10年、そろそろ11年になる。自分のための備忘録として、徒然によしなしごとを書いてきたが、最近は怠けることが多くなった。もう記憶に残らないことは、忘れてもいいことなのだと思うようになったせいかもしれない。10歳年長の友人が、「最近はたいていのことを”もういいか”と思うようになった。老化現象かしら、退化現象よねきっと」と電話で嘆いていたが、こちらも似たようなもの。昨日、部屋の大掃除をする際、もう何年も見ていない本や資料の山を処分した。頭の中に残っているものだけでもう十分、という気分になったからだ。その頭の中のものがどんどん消えていくのが怖いのだけど。
 今週のNHKFM放送はフルトヴェングラーの世界と題して、古い録音を流している。今年が生誕130年のフルトヴェングラーが残したものはすべてモノラル録音だが、アナログの懐かしい響きがあって楽しんで聴いている。28日はベートーヴェン第5番の一部を、1937年、47年、54年と三つの録音で聴き比べた。それぞれテンポも響きも明らかに異なっていて、同じ指揮者でもねえと思ったことだ。今朝は「交響曲を聴く」で、モーツアルトやシューベルト、ブルックナーが流れている。ベルリン生まれのフルトヴェングラーはベートーヴェンやブラームス、ワーグナーなどのドイツ音楽を得意としたが、とくにこの人のワーグナーは迫力があった。もちろんリアルタイムで聴いたわけではない。昔のレコードで、である。レコードもいまや遺物、転居の時、古いレコードは捨ててしまったが、最近は愛好家の間で復活しているとのこと。一時は針がなくなると言われていたが、まだ作られているのだろう。どの世界にも古いものを愛する人がいて、細々と技術が伝えられているのを頼もしく思う。それにしても電化製品の進化のめまぐるしいこと、なかでも記憶媒体の進化の速さにはとてもついていけない。ハードウエアがどんどん変化して、機械そのものが消えてしまうので、残したくてももう不可能。カセットテープもビデオテープも大量に処分した。そのうちCDやDVDも消えていくに違いない。


 今年も映画は数えるほどしか観なかったが、記憶に残ったのは、
●ジャ・ジャンクー監督『山河ノスタルジア』


 最近は雑誌を読まないし、文芸書を手にとる機会も少なくなった。もっぱら古いものばかり読んでいるのだが、印象に残った作品は、
●村田喜代子『焼野まで』(朝日新聞出版)
●津島祐子『夢の歌から』(インスクリプト)
●佐伯一麦『空にみずうみ』(中央公論新社)
 新刊書ではないけれど、
●熊田淳美『三大編纂物の出版文化史』(勉誠出版 2009年)


 今年は遠藤周作の没後20年というので、彼の作品を初期のものからずっと読み返した。私はこの人の作品を魂の文学と名付けているのだ。来年は野呂邦暢の生誕80年、野呂文学の再読ブームはまだ続いている、嬉しいことだ。この冬は青来有一さんの作品をまとめて読むつもり。最近は作風に変化がみられ、作家として一回りも二回りも大きくなっている。文学でしか表現できないものに挑戦し続けている作家の世界を存分に味わいたいと思う。


 写真は兵庫県養父市にある養父神社の狛犬。口を大きくあけた狼です。田畑の作物を荒らすイノシシやシカから作物を守るオオカミを守り神としています。


2013_1210_133358pc100013 12月27日(火)雨時々曇り。ようやく年賀状を書きあげて投函す。街角にいろんな募金、献金を呼びかける人々の姿あり。今年はまだ見かけないが、この時期になると四条河原のデパートの前に救世軍の社会鍋が出現する。軍服姿の男性がラッパを吹きながら歳末助け合い募金を呼びかけるのだ。今年は各地で天災が続いたが、この一年、無事に過ごせたことに感謝して、貧者の一灯を献ず。
 ついでに京大の芦生研究林基金にも一灯を捧げる。京都の北部に広がる芦生の森は野生動植物の宝庫となる貴重な原生林だが、その存続と環境を守るための資金が足りないという。われわれは森に生まれ、そこから野に出てヒトとなった、森は海とともに生物の命の故郷なのだ。芦生の森の豊かな自然が次の世代へも引き継がれていきますように。


 ●栗原康『村に火をつけ、白痴になれ』(岩波書店)を読む。アナキズム研究家による伊藤野枝伝だが、劇画調のなんとも元気のいい文章で、一気に読了。野枝の燃えるような生き方に圧倒されるが、さぞや生き辛かっただろうなあと溜息がでた。野枝のような女性を生んだ時代を思う。


 写真は富小路通にある「The salvation Army」(救世軍)教会。ヴォ―リス設計の美しい建物です。


Img_2482 12月26日(月)曇り。今月4日付の朝日新聞の「折々のことば」は、「昔日の客より感謝をもって」という野呂邦暢のことばが紹介されていた。若き日、通い詰めた古本屋で親切にしてもらった野呂邦暢が、芥川賞を受賞したあと店を訪れて店主に自著を贈った、その見返しに記されていたのが冒頭のことばであった。店主の名は関口良雄、多くの文学者に愛された古書店主である。昭和52年に亡くなったあと、「関口良雄さんを憶う」という追悼集が出た。野呂邦暢がここに「花のある古本屋」という「一文を寄せている。また『昔日の客』は著者の没後に出た随筆集で、この中に野呂邦暢との交流が記されており、そのタイトルが著書の題となった。


 写真の2冊はわが手元にある復刻版。名著をこつこつと復刻している夏葉社刊。『昔日の客』の帯には「古本と文学を愛するすべての人へ」とある。


 そういえば神田にある岩波ブックセンターが閉店するという。神田に行ったときは必ず立ち寄る店だった。書肆アクセスが消え、岩波ブックセンターもなくなると・・・寂しい限り。


2012_1227_112350pc270015 12月25日(日)晴れ。京都の烏丸四条を南に下がって仏光寺通から西に入ったところに、与謝蕪村宅跡の碑がある。天明3年12月25日、ここで蕪村は68年の生涯を終えた。天明3年12月25日は太陽暦でいえば翌年の1月17日である。蕪村の辞世の句は「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」、1月17日ならもう白梅も咲いていただろう。今年は蕪村の生誕300年というので、いくつか展覧会が開催されていたが、同じく生誕300年の若冲に比べると、ひっそりとしたものであった。


夜、一人窓の外に風の音を聞きながら、蕪村を読む。こんな句はどうだろう。


「しぐるるや 我も古人の 夜に似たる」


 夜、時雨の音を聞いていると、人生は「時雨待つ間の一宿り」といった宗祇や、それに共感した芭蕉の、無常観や風狂の心などが思われてならない・・・とでもいうのだろうか。いままた蕪村の句を読み、宗祇や芭蕉に連なる蕪村の心に思いを馳せている私もまた「我も古人の夜に似たる」一人なのだ。


 この日の午前中、高校駅伝の応援で西京極の競技場へ行ってきました。長崎県代表は女子が諫早高校、男子は鎮西学院、応援席には関西在住の卒業生たちが勢揃いして盛大な応援を繰り広げていました。京都に住んで21年になりますが、競技場へ行くのは去年が初めて、今年が2回目です。二校ともわが母校ではありませんが、楽しいひとときでした。


  写真は仏光寺通烏丸西入ルにある「与謝蕪村宅跡 蕪村終焉の地」。


 


 


Img_2384 12月21日(水)晴れ。冬至の日に東寺の終い弘法へ行く。北門から入ると、いつも立ち寄るちりめん山椒の店の前に長い行列ができている。12月の弘法市には正月用品が出ていて、すぐき漬け店の前にも行列が。ちりめん山椒、すぐき漬け、干柿や干椎茸、柚子、餅などを購入。今年最後の弘法市というので、いつもより人出多し。25日の天神さんもそうだが、ここでも団体のツアー客、外国人観光客が目立つ。20年ほど前、この東寺の骨董市でガマの油売りを見たことがある。人相書を示しながら客を相手に語る易者もいた。フーテンの寅さんのような香具師がまだいたのだが、最近はもう見ることはない。東寺は平安京が出来たとき


Img_2377から現在の場所にある。朱雀大路(千本通り)をはさんで西側に西寺があったが、いまは跡地に礎石が残るのみ。平安京はその上に町があり、現在までずっと人が住み続けているので、なかなか全貌をとらえることができない。もちろん地図はあるし、丸太町のアスニーにある平安京創生館には平安京を復元した詳細なジオラマも展示されていて見応えがあるのだが、奈良の平城京跡のように朱雀門や大極殿があったらなあと思ってしまう。その代り町を歩いているといたるところに「大極殿跡」だの、「清涼殿跡」だのという標があり、時空を超える気分になる。友人のFさんはよく「千年なんて、きんさんぎんさんを10人並べたら1000年なんだから、そんなに昔のことではない」と言う。確かに、だがこれからの1000年はどうだろう。いや100年先のことだって、もう予想もつかない。人工知能の社会になっていくのかしら。


 眼鏡を新しく作り直そうと眼鏡屋に行ったら、左目の矯正が難しいので眼科にいくよう勧められた。近くの眼科で診てもらったら、左目に白内障の症状あり、という。一年ほど前から左目が霞むようになっていたがそのままにしていたのである。普段は眼鏡無しでも不自由なことはないし、まだ裸眼で読書もできるのだ。だが長年酷使してきたせいか、また老化現象でもあるのだろう。いずれ手術をしたほうがいいでしょうと医者に言われて観念する。いずれがいつになるか決めかねているのだが、いずれ。


 久しぶりに●アンリ・トロワイヤ『チェーホフ伝』(中公文庫 1991年)を読む。伝記もいいが、やはりチェホフの作品を読むのがいちばん。それにしてもこの頃の中公文庫は充実していて良かった。 


 写真は東寺。


Dsc01416 12月18日(日)晴れ。うっかり風邪をひいてしばらく籠っていたが、夕方からロームシアターへ行く。井上愛子(四世井上八千代)13回忌追善の京舞公演を見るため。京舞井上流は祇園芸舞妓の流派で、追善公演には彼女たちも出演する。会場は色とりどりの着物姿の芸舞妓たちでなかなかあでやか。だがお茶屋の女将さんたちは追善公演ゆえ、地味な色目の紋付に地味な帯といういでたち。五世井上八千代家元の舞も見事だったが、最後にお家元と弟子で名取の芸妓たちが舞う「夕顔」が素晴らしかった。2時間ほどで終演、まだ頭がすっきりしないので真っ直ぐ帰宅す。
 この日、ロームシアターへ入る前、向かいの府立図書館に寄り、古い雑誌をいくつかコピイする。北山の総合資料館が閉館中なので調べものに不便なのだが、この日は本館で用が足りた。ロームシアターに入っている蔦屋で「文學界」の新年号を購入。この号に掲載されている青来有一さんの新作「小指が燃える」を読むため。


●黒板伸夫・永井路子編『黒板勝美の思い出と私たちの歴史探究』(吉川弘文館)を読む。大学の紀要のようなものかと思っていたら一般書だった。「平安時代の文学と仏教」という題のシンポジウム記録を興味深く読んだ。2000年に駒沢女子大学の日本文化研究所が主催した第一回シンポジウムの記録で、パネリストは黒板伸夫・永井路子夫妻に秋山虔、東隆眞。司会は現在日文研教授の倉本一宏氏。


 写真は桂離宮。修学院離宮と同じく、桂離宮も毎日当日受付ができるようになりました。運がよければ当日入ることができます。


Img_2352 12月14日(水)曇り。冷えこむ。夜、昨日に続いてNHKTV-BS1を見る。前夜たまたまつけたTVで古いラグビーの試合が放送されるのを見た。1989年1月15日に行われたラグビー日本選手権「神戸製鋼ー大東大」の決勝戦で、神戸製鋼が勝って初めて日本一になったときのもの。キャプテンは真紅のジャージーを着た26歳の平尾誠二。神戸製鋼はこのあと日本選手権で7連勝した。27年も前の試合だが、見ているうちに当時を思い出した。平尾をはじめ、林敏之、大八木淳史、広瀬良治らのフォワード陣、萩本・藪木のハーフ団、フルバックの綾城など、みんな同志社出身で、大学選手権の王者がそのまま神戸のメンバーとなっていた。あのころ関西ラグビーは強かったのだ。そういえば今年の大学選手権ではベスト4に同志社と天理が入った。早明慶がいない大学選手権大会は物足りないが、関西2校に期待したい。今夜は2006年2月12日の日本選手権「早稲田ートヨタ自動車」の試合を見る。名伯楽清宮監督が率いる早稲田が28-24で、初めて社会人を破ったときのもの。SO曽我部の活躍は記憶に新しい。このとき15番で次々とゴールキックを決めた五郎丸はまだ大学2年生だった。二晩続けて名試合を見ることができて興奮した。見終わったあと、録画すればよかったと後悔しきり。


●『与謝蕪村集』(新潮社)を読む。文章篇の最後は「歳末ノ弁」。


 「名利の街にはしり貪欲の海におぼれて、かぎりある身をくるしむ。わきてくれゆくとしの夜のありさまなどは、いふべくもあらずいとうたてきに、人の門たたきありて、ことごとしくののしり、あしをそらにしてののしりもてゆくなど、あさましきわざなれ。さとておろかなる身は、いかにして塵区をのがれん。「としくれぬ笠着てわらぢはきながら」。片隅によりて此の句を沈吟し侍れば、心もすみわたりて、かかる身にしあらばといと尊く、我がための摩訶止観ともいふべし。蕉翁去りて蕉翁なし。とし又去るや又来たるや。


 芭蕉去てそののちいまだ年くれず。」


 芭蕉を慕う蕪村の心情が伝わる文なり。


 写真は今朝の愛宕山。昨夜の雨が凍ったのでしょう、山が白く輝いていました。


Img_2353 12月11日(日)晴れ。夕方から先斗町歌舞練場へ顔見世を見に行く。例年会場となる南座が耐震工事で閉館中のため、今年は先斗町の歌舞練場での興行となった。いつもなら昼夜二部のところ、客席が減ったため朝・昼・夕と三部の公演となる。この日は夕の部で、片岡仁左衛門らの「引窓」と雀右衛門による娘道成寺。今年の顔見世は芝雀の五代目雀右衛門襲名披露なのだ。歌舞練場は座席数500ほど、舞台に近いので役者の動きがよく見える。娘道成寺を舞終わった雀右衛門が結んだ手ぬぐいを客席に向かってほうと投げたのが私のところに飛んできた。「大当たり」と受け取ったのが写真の手ぬぐい。


 パソコンの調子悪く、ネットがつながらない。メールができないのは困ったが、しばらく様子を見ることにする。


●『網野善彦対談集2 多様な日本列島社会』(岩波書店)を読む。対談相手は谷川健一、坪井洋文、司馬遼太郎、森浩一、宮田登、宮崎駿など。宮崎駿を除く全員が故人というのは寂しいが、どの対話も楽しくエキサイティング。教えられること多し。


Dsc06194 12月10日(土)晴れ。冷え込む。喪中欠礼のハガキが毎日のように届く。中にご主人を亡くしたというTさんからの葉書あり。驚いてお悔やみの電話をかける。折り返しすぐに返事があり、それによると2年ほど前から自宅療養中だったが、今年の10月初めに亡くなったとのこと。家族葬で見送り、49日を済ませてからみなさんには知らせました、と。ご主人は3年ほど前にリタイアして、悠々自適の生活を送っておられると聞いていたのだが。


●中島京子『長いお別れ』(文藝春秋)


●岸本葉子『週末介護』(晶文社)


を読む。どちらも老親を介護して看取る話。前者は体験をもとにしたフィクションで、後者はほぼ実体験の記録。私は親の介護をしないですんだが、老人介護の問題に無関心ではいられない。少子化と高齢化が急速に進んでいる現在、私たちの老後はたとえお金があっても介護要員がいないため十分な介護は望めない・・のではないか。今後ますますこの分野での人手不足は深刻になるだろう。『長いお別れ』は老々介護の両親と離れて暮らす三人の娘たちとの物語だが、母と娘の会話、また姉妹間のやりとり、父親の認知症がゆっくりと進んでいく過程など、なかなかリアルでなるほどと思わせられた。同じ認知症でも『週末介護』の父親は最後まで尊厳をもって暮らしていて、それを尊重し続けた子どもたちに敬意を表したくなる。それがいちばん難しいことだろうから。


 写真は鴨川のユリカモメ。名にし負はばいざ言問はん都鳥、です。


Img_2354 12月9日(金)晴れ。昨日は午後から洛西にある日文研で、今年最後の「平安古記録演習」会。会のあと、歓迎会に参加。いま精力的に本を書き、歴史学者として広く注目されているみなさんの話を身近に聞く。日文研は来年創立30周年を迎える。初代の所長は梅原猛で、教授には河合隼雄、山折哲雄、杉本秀太郎、村井康彦、山田慶児、井波律子、笠谷和比古、中西進など、また研究者にはD・キーン、落合恵美子、川勝平太など魅力的な学者がたくさんいた。いま人文系の研究は厳しい環境にあるらしい。学問に即効性や有効性ばかりが求められる中で、短期間で成果を出しにくい研究は退けられる傾向にある。いますぐ役に立たなくてもいつか必要とされる時が来る、とくに歴史学は。歴史を正しく学ぶことによってでしか私たちは未来への展望を拓くことはできないのだから。学者には研究と啓蒙活動の両輪を期待したい。だれもが抱いている「われわれはどこから来て、どこへ行くのか」という思いを満たしてほしい。そのためには多くの読者に届くよう、歴史学者のみなさんには平明で達意の文章を心がけてほしい。まさに井上ひさしではないが、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、書く」である。むずかしいことを難しく書くのは易しいが、難しいことをやさしく書くのは本当にむずかしい。自分がよくよく理解していないとかみ砕いて書けないからだ。論文とはちがう、平明で達意の文章を。「作家の成熟度は文章の平明さに比例する」と作家野呂邦暢は言っています。


 写真はこの日お会いした先生方の著書。大ベストセラーとなった『京都ぎらい』はじめ、話題作満載です。


Img_2348 12月8日(木)晴れ。太平洋戦争開戦の日。今年は我が国の総理大臣がアメリカの真珠湾へ行くという。昨年、オバマ大統領が広島を訪問したことへの返礼というわけか。不戦の誓いを表明してくれるといいのだが。12月8日は1980年に亡くなったジョン・レノンの命日。また1990年に100歳で亡くなった土屋文明の命日でもある。私はこの人の「少数にて つねに少数にて ありしかば ひとつ心を 保ち來にけり」という歌が好きなのだ。時代にあわせてものをいうのはやめよう、多勢にのっかるのもやめよう、マイナーでいい、常に少数派でいよう、と思う。
 開戦記念日に高見順の『敗戦日記』(文春文庫)を読む。八月十日にソ連の参戦を知り、鎌倉文庫へ行くと、川端康成らがいて、「戦争はもうおしまいーー」と言ったとある。十五日は正午からの重大発表を聞く。「やはり戦争終結であった。君ガ代奏楽。詔書の御朗読。やはり戦争終結であった。--遂に負けたのだ。戦いに破れたのだ。夏の太陽がカッカと燃えている。烈日の下に敗戦を知らされた。蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ」。
 戦争を知る世代がどんどんいなくなって、戦争の記憶が遠ざかりつつある。体験を伝えるのは難しいことだが、再び同じ過ちを繰り返さないためにも、記憶の伝承は大事だ。知らないではすまされないのが戦争なのだから。戦後生まれだから戦争と無関係だとは言えない。そのために人間には想像力が備わっているのだ。朝鮮半島からの凄まじい引き揚げ体験記録『流れる星は生きている』を書いた藤原ていさんが先月亡くなった。この記録も戦後日本の文化遺産だと思う。


 Sさんとの「小右記」を読む会は初心に戻って、大日本古記録『小右記』第一巻天元5年(982)正月から読み直すことにした。藤原実資26歳、円融天皇の蔵人頭。從四位上で中宮亮を兼任していた。のちに「この世をば 我が世とぞ思ふ」と詠った藤原道長は当時まだ17歳。道長の姉で円融天皇の女御詮子が産んだ懐仁親王が一条天皇となるのは4年後のこと、花山天皇の出家、一条天皇即位、と物語にも描かれた時代のとばぐちが記されているはず。


 何事も 無言の内は しずかなり    去来


 かたはらに 秋草の花の かたるらく ほろびしものは なつかしきかな  若山牧水


Img_2347 12月6日(火)晴れ。早朝、遠くに住む子どもたちから「お誕生日おめでとう」とメールあり。最近では誕生日は「冥途の旅の一里塚」のようなものだから、嬉しいような悲しいような。
 先日泊まった片山津のホテルで、「北國文華」という雑誌を見かけた。石川県の新聞社が出している季刊文芸誌で、たまたま手にした70号は、加賀前田家の客將だった高山右近の特集。『高山右近』の著者加賀乙彦や歴史作家井沢元彦などが寄稿している。高山右近は秀吉のバテレン追放令のあと、前田家に招かれてその後26年間も金沢にいたのだ。1614年、徳川家康によるキリシタン追放令が出ると、長崎経由でマニラへ渡り、熱病のため到着してからわずか40日後に死去。右近はマニラに渡る前、二か月ほど長崎に滞在した。彼がいたという長崎のトードス・オス・サントス教会は春徳寺という名の寺院になっている。私が通った中学校はそのすぐ近くにあった。毎日門前近くを通っていたのに、当時は右近のこともいっしょにマニラへ追放された内藤如安のことも、全く知らなかった。『北國文華』によると、右近は金沢で茶の湯だけでなく、いろんな文化を伝え広める役目を果たしたという。大名間の情報にも詳しい外交アドバイザーとしても活躍したのだろう。


 写真はこの日食事をした京料理店Hの御主人手製のからすみ。限定品ゆえ入手困難なのだが、今年は運よくゲット。これをいただいたらもう市販のものなど・・・。


2012_1229_104140pc290024 12月5日(月)晴れ。今年は与謝蕪村の生誕300年で、島原角屋では目下「蕪村と島原俳壇展」が開催中。ここには国の重要文化財に指定された蕪村の「紅白梅図屏風」をはじめ、たくさんの絵画、書、書簡、俳画などがあり、蕪村ファンには嬉しいところ。京都国立博物館でも蕪村展があったが、展示作品数が少なく物足りなかった。京都では今年やはり生誕300年を迎えた若冲が話題となっていて、展覧会も賑わっていた。この前松山を訪ねたときは夏目漱石の没後100年(来年が生誕150年)というポスターをやたらと見かけたものだ。そういえDsc_0273ば岩波からまたまた『夏目漱石全集』(全28巻別巻1)が出たが、漱石全集はこれで何度目かしら。広告には漱石全集最終決定版とあったけれど。生誕〇年、没後〇年がきっかけで、亡くなった人を思い出すのはいいことだろう。今年は作曲家柴田南雄の生誕100年、没後20年でもあった。私はこの人のエッセイが好きで、『聴く歓び』、『王様の耳』、『わが音楽、わが人生』などはよく読み返す。


 写真上は蕪村展を開催中の島原角屋。下は「若冲生誕300年」のポスターがさがった錦市場。いうまでもないが、若冲は錦小路にあった青物問屋の息子だった。最近の錦市場は外国人観光客に席捲されていて、市民の足は遠ざかる一方のようです。


Img_2294 12月3日(土)晴れ。毎年この時期には泊りがけで北陸加賀へカニを食べに行く。いつも車で出かけるのだが、数年前、夜のうちに雪になり、朝起きたら車が出せない(ノーマルタイヤだったので)という悲惨な体験をしたので、以来、JRを利用することにしている。今回もサンダーバードで往復、この日は滅多にないほどの快晴で、日本海は真っ青、加賀が近づくと、雪を頂いた白山が白く輝くのが見えた。漁港近くにあるカニ料理屋は予約客でいっぱい。カニが主役なので、もてなしは素朴。調理前にタグ付きのカニを披露してくれるのも例年通り。刺身、焼き、茹で、雑炊とフルコースでいただきました。窓の外には青い日本海が広がり、硲伊


Img_2309之助美術館がある加佐ノ岬の緑が見える。この日は時間がなくて岬へは寄らなかったが、ここにある硲伊之助美術館は一見の価値あり。ただし現在、ギャラリーの作品の多くは大聖寺にある美術館の方へ移っているようだ。硲伊之助に関しては澤地久枝さんが『わが人生の案内人』(文春新書)に書いていて、何年か前大聖寺にある美術館で講演をされたと聞いた記憶がある。マチスに師事し、豊かな色彩の絵を描く画家で、『ゴッホの手紙』の翻訳者でもある。大聖寺は九谷焼発祥の地だけに、やきものの絵付けにも腕をふるったようだ。
 この日は片山津温泉に泊まる。部屋から柴山潟や霊峰白山が見えた。夜、ホテルのバーラウンジで、ジャズのライブあり。女性ボーカルでスタンダードナンバーをいくつか。最後は「ジャズではありませんが、私が生まれる前にできた名曲です」と言って、「上を向いて歩こう」を歌ってくれた。永六輔、中村八大、坂本九という、いわゆる「七流れトリオ」もみんないなくなった。


 写真上はこの日いただいた橋立カニ。下は宿の部屋からの眺め。遠くに白山が見えます。


Photo 12月1日(木)曇り。今年もいよいよひと月を残すのみとなった。毎年同じことを言っているようだが、今年もまた。「ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬」清少納言の言う通り、この前新年を迎えたと思っていたら、あっという間に師走。芭蕉が元禄3年(1690)の師走朔日に詠んだ句がある。


 節季候の来れば風雅も師走かな


節季候(せきぞろ)とは江戸時代の門付けで、師走の20日ごろから町に現われて、各家を回った。この年は師走の一日からもう姿を現していたのだろう。
 一年を振り返るのはまだ早いが、今年もよく旅をした。そのうち「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」ということになるのではないかしら。
 今年のベストセラーNo.1は石原慎太郎が田中角栄を書いた『天才』だとか。新聞記事には、これで文芸書復活のきざしありとあったが、果たして・・・。先日NHKのETV特集で「路地の声父の声~中上健次を探して」というドキュメンタリーを見た。中上健次の長女で作家の中上紀さんが、36年前に父親が聞き取りをした新宮の女性たちを訪ねるというもの。中上健次が自分の故郷である路地(被差別部落)の女性たちを取材したのは33歳のころ。「岬」で芥川賞を受賞して間もないころであった。残されたテープの声が何度も出てきたが、明治40年代生まれの女性たちが、取材者である中上健次を信頼して自分の来し方を率直に語っている。当時は差別もありみんな貧しく、なかには5人姉妹の4人までが遊郭に売られた、という女性もいた。幼いころからよく知っている健次が相手だからみんな自分の過去を赤裸々に語ってくれたのだろう。『日輪の翼』のモデルとなったおばあさんたちはもうみんな鬼籍に入っていたが、その孫や子どもたちが目に涙を浮かべながら録音を聴く姿があった。私は数年前に新宮市の市立図書館を訪ねたことがある。そこに中上健次資料収集室があるというので行ったのだが、まだ準備中で資料公開はされていなかった。今年は中上健次の生誕70年、夏の熊野大学は賑わったことだろう。


 写真は長岡京市の光明寺。法然上人のお墓があります。京都にある金戒光明寺は通称黒谷さん、こちらは粟生光明寺と呼ばれています。


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