2月13日(月)晴れ。歴史に「たら、れば」はないと言われるが、それでも「もし〇〇が生きていたら、あの時死んでなければ」と思うことがある。京都は幾層にも歴史が積み重なった街だから、町歩きをしながらよくそう思う。今年は漱石没後100年というので、新しい全集が出たりしているが、もし漱石が京都に住んでいたら・・・と思うことがある。漱石は生前、4回ほど京都を訪れているが、最もよく知られているのが明治40年3月の滞在だろう。京都帝国大学の文科大学長だった狩野亨吉に招聘されたもので、狩野は漱石を京大に招きたかったのだが、断られている。根っからの江戸っ子だった漱石が京都に住んでいたら・・・と思うと愉し
い。学生たちは「ぞなもし」などとは言わなかっただろうが、短気な教師をじらしたりすることがあったにちがいない。明治40年3月、京都に滞在して狩野亨吉と比叡山に登ったときのことが「虞美人草」の冒頭に書かれている。二人の男が比叡を目指して歩いている場面で、歩くのに疲れた男が「今日は山端の平八茶屋で一日遊んだ方がよかった。今から登ったって中途半端になるばかりだ」と愚痴をこぼすシーンがある。とろろ汁で有名な平八茶屋はいまも山端にあるが、漱石はこれより以前に子規とこの店に来て、川魚料理を食べたことがあった。
読書家の友人が遊びに来たので、平八茶屋で食事をした。昼食は川を望む部屋でいただく懐石だったが、最後に麦飯ととろろ汁が出た。この店の創業は天正年間だというからもう440年近くになる。店の前にある大きな門は萩の寺から移築したもので、こちらは店より古いというので、漱石没後100年はまだ新しいね、と笑いあったことだ。
食後、店を出る前にもう一つの名物「かま風呂」を見せてもらった。近くの八瀬がかま風呂の本場だが、ここでも頼めば利用することができる。かま風呂は土造りのサウナといったふうで、清潔。お店の人が「壬申の乱の折、背に矢傷を負った大海人皇子がかま風呂で傷を養生した。八瀬の地名は矢背からきたといわれています」。なんと壬申の乱といえば7世紀、1400年も前のことではないか。創業440年に驚いていたのがおかしかった。
(漱石を招聘できなかったが、この時、幸田露伴や内藤湖南が招かれて京大で教えている。もっとも露伴は一年もいたのだろうか、さっさと江戸、いや東京に戻ってしまった)。
写真上はとろろ汁。下はかま風呂。