2017年02月

Img_2719 2月13日(月)晴れ。歴史に「たら、れば」はないと言われるが、それでも「もし〇〇が生きていたら、あの時死んでなければ」と思うことがある。京都は幾層にも歴史が積み重なった街だから、町歩きをしながらよくそう思う。今年は漱石没後100年というので、新しい全集が出たりしているが、もし漱石が京都に住んでいたら・・・と思うことがある。漱石は生前、4回ほど京都を訪れているが、最もよく知られているのが明治40年3月の滞在だろう。京都帝国大学の文科大学長だった狩野亨吉に招聘されたもので、狩野は漱石を京大に招きたかったのだが、断られている。根っからの江戸っ子だった漱石が京都に住んでいたら・・・と思うと愉し


Img_2721い。学生たちは「ぞなもし」などとは言わなかっただろうが、短気な教師をじらしたりすることがあったにちがいない。明治40年3月、京都に滞在して狩野亨吉と比叡山に登ったときのことが「虞美人草」の冒頭に書かれている。二人の男が比叡を目指して歩いている場面で、歩くのに疲れた男が「今日は山端の平八茶屋で一日遊んだ方がよかった。今から登ったって中途半端になるばかりだ」と愚痴をこぼすシーンがある。とろろ汁で有名な平八茶屋はいまも山端にあるが、漱石はこれより以前に子規とこの店に来て、川魚料理を食べたことがあった。
 読書家の友人が遊びに来たので、平八茶屋で食事をした。昼食は川を望む部屋でいただく懐石だったが、最後に麦飯ととろろ汁が出た。この店の創業は天正年間だというからもう440年近くになる。店の前にある大きな門は萩の寺から移築したもので、こちらは店より古いというので、漱石没後100年はまだ新しいね、と笑いあったことだ。
 食後、店を出る前にもう一つの名物「かま風呂」を見せてもらった。近くの八瀬がかま風呂の本場だが、ここでも頼めば利用することができる。かま風呂は土造りのサウナといったふうで、清潔。お店の人が「壬申の乱の折、背に矢傷を負った大海人皇子がかま風呂で傷を養生した。八瀬の地名は矢背からきたといわれています」。なんと壬申の乱といえば7世紀、1400年も前のことではないか。創業440年に驚いていたのがおかしかった。


(漱石を招聘できなかったが、この時、幸田露伴や内藤湖南が招かれて京大で教えている。もっとも露伴は一年もいたのだろうか、さっさと江戸、いや東京に戻ってしまった)。


 写真上はとろろ汁。下はかま風呂。


Img_2711 2月11日(土)曇り。今朝、6時半ごろ、カーテンを開けて外を見ると、西の空に丸い月が浮かんでいる。これまで見たことがないほど大きな月。満月は今夜だから、14夜の月か。愛宕山の西裾にひときわ輝いて、みるみるうちに隠れてしまった。町は家々の屋根が薄く雪化粧して、その様は蕪村の『夜色楼台図』のよう。
 今日、2月11日は亡き父の誕生日。母の誕生日は2日後の2月13日なので、両親が元気だったころは毎年二人まとめてお祝いをしていた。7年前に母が亡くなってからはもうお祝いをすることもない。今朝は二人の写真におめでとうと声をかけた。
 梅宮神社の梅が咲きだしたというニュースに、少し春ある心地す。「木の花は こきもうすきも紅梅。」とは清少納言のことばだが、『枕草子』を愛した兼好法師も、「梅は白き・薄紅梅。一重なるが疾く咲きたるも、重なりたる紅梅の匂ひめでたきも、皆をかし」(『徒然草』第139段)と書いた。桜のような華やかさはないが、凛とした梅の花を待つ心持は2月のものですね。


 写真は今朝の月。愛宕山と嵐山の間、小倉山の後ろに沈んでいくところです。


Img_2701 2月9日(木)曇り時々雪。終日山は真っ白。寺町通の店のウインドウに菜の花が飾ってあった。壺は古い丹波か信楽か。そこだけ明るく一足早く春が来た感じ。寒波襲来とて、京都市内でも雪がちらつく。「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ」という詩を思い出す。もう一つ、雪が降ると思い出す話に「徒然草」の一章がある。「『降れ降れ粉雪、たんばの粉雪』といふ事」で始まる第181段で、続けて「米搗き篩ひたるに似たれば、粉雪といふ。『たンまれ粉雪』と言ふべきを、誤りて『たんばの』とは言ふなり。・・・・・鳥羽院幼くおはしまして、雪の降るにかく仰せられける由、讃岐典侍が日記に書


Img_2708きけり」。鳥羽院が幼いころ、雪が降るのを見て、こうおっしゃった、と『讃岐典侍日記』にあるという話。讃岐典侍は鳥羽院の父である堀河天皇に仕えた女性で、堀河天皇の死後、その子である鳥羽天皇にも仕えてその日々を日記に遺した。彼女が幼い鳥羽の世話をしながらその父を思い出して涙ぐんでいると、鳥羽は「みな知りてさぶらふ。ほもじのりもじの事思ひ出でたるなめり」(「みんな知っているよ。ほの文字りの文字の事を、思い出しているんでしょ」)と仰せらるるは、堀河院の御事と、よく心えさせ給へると思ふもうつくしくて・・・」と讃岐は記しているが、まあなんともおませな幼帝だったことよ。
 夕方から洛西の日文研行。「左経記」長元元年(1028)に入る。洛西は京都市内より気温が低いのか、玄関前や中庭にまだ白く雪が残っていた。


 春の雪


 みささぎにふるはるの雪 
 枝透きてあかるき木々に 
 つもるともえせぬけはひは


 なく聲のけさはきこえず 
 まなこ閉ぢ百ゐむ鳥の
 しづかなるはねにかつ消え


 ながめゐしわれが想ひに
 下草のしめりもかすか
 春来むとゆきふるあした


(伊東静雄 『春のいそぎ』)


Img_2703 2月6日(月)曇り。三月書房の創業者である宍戸恭一さんが亡くなられた。享年95歳。阪神淡路大震災のすぐあとに移り住んだ京都で、真っ先に訪ねたのがこの書店だった。そのとき宍戸さんは店に出ておられたものやら、もう今の店主(息子さん)に代わっていたのではないか。どう見ても古本屋にしか見えないのだが、中に入ると人文書の宝庫で、マイナーな雑誌や詩集など、ここにしかない本をずいぶんと入手したものだ。消えた出版社の本が自由価格(たいていは半額)で並べてあって、小沢書店の本など手に入れることができた。吉本隆明の本が揃っているのは、店主とのつながりImg_2700_2


が深いせいだろう。三月書房が自分の書斎なら、と夢見る客は多いはず。私もいつもそう思う。これが自分の書棚ならと、うっとりと思う。三月書房がある寺町通りは最近、充実している。もともと骨董屋や老舗の茶屋、紙店、菓子屋が連なるしっとりとした通りだったが、近年、さらに洒落た店がたくさん生まれて、なかなか趣味のいい通りとなっている。
 通りにある下御霊神社に「社殿等修復事業御奉賛のお願い」の張り紙があった。この神社の寂れ方といったら、築地は破れ、壁は落ち、蔵は傾いていまにも崩れそう、本殿の屋根はグスグス、上御霊神社の立派さを思うにつけ、何故こんなになるまで放っておくのかと不思議でならなかったのだが。ようやく修復工事をすることになったのかと他人事ながら安心して、心ばかりの寄付をしてきた。下御霊神社は承和6年(839)創建の古社で、現在の本殿は宮中の内侍所を移築したものという。いまは白梅が満開だが、今月末には二本の紅梅が盛りとなる。「梅遠近南すべく北すべく」(蕪村)の日々となるのも間近。下御霊神社のすぐ南に、西国三十三観音霊場の一つ革堂(行願寺)がある。京の七福神の一つ、寿老神はここで、巡礼に交じって七福神めぐりの人の姿も見かける。
 この日は寺町通りにあるうつわや「直向(ひたむき)」で、中くらいの皿を入手。大阪でやきものづくりをしている中尾万作という人の手になるうつわ。白地にすっきりと黄色い円が描かれただけのもので、円の形がおのおの異なるのが愉しい。夜、早速豚の角煮を盛っていただく。使い勝手よし。明日は何を盛ろうかしら、楽しみが増えました。


 写真上は三月書房。下は向かいにある版画店の店先。もう春です。


Img_2691 2月4日(土)曇り。数年ぶりに集まる友人たちとの昼食会。岐阜からやってくるSさんを京都駅で迎えて、祇園の京料理屋へ向かう。昨年の秋に連れ合いを亡くしたMさんを励ます会なのだが、気丈なMさんが率先して冗談を言うので、会は湿っぽくならず、和やかなものであった。みんなが顔を合わせるのは数年ぶりのこととあって、お互い会わなかった間の報告がひとしきり。連れ合いを見送ったばかりのMさんは、まだ茫然自失だといいながらも、介護生活から解放されて、ようやく自分に戻れるとつぶやいて、複雑な胸のうちが思われたことだ。彼女は夫の遺言通り、戒名をつけてもらわなかったそうだが、菩提寺の住職はそれでもいいと認めてくれたという。亡くなる前におつれあいが自分で決めた通り、無宗教の音楽葬で見送ったとのこと。それを聴いてみんなが自分も音楽葬がいいと言い出し、曲は何がいいかという話になった。ブラームスの弦楽六重奏曲だの、ベートーヴェンの荘厳ミサ曲(これは私です)だのと出るなかで、Sさんが選んだのはワーグナーの「ワルキューレ」。「元気がでるでしょ」というのが理由だそうだが、お葬式にワルキューレとはね。


 写真は下御霊さんの梅。馥郁たる香が境内に漂っていました。


2012_0216_154026p2160191 2月3日(金)曇り。節分会。京都の町は神社仏閣を巡る人たちで賑わっている。今年は一日予定あり、どこの節分会にも行けなかった。夜、北北西の方角を向いて、細巻をかじる。恵方巻というそうだが、いつからこれが恒例になったものやら。22年前、京都に来たとき、節分に恵方巻を食べるのだというので、へんな習慣があるのだなあと思ったものだが。バレンタインのチョコレートと同じで、これもどうせ海苔業者、寿司業者が企んだものだろうと笑っていたら、近年は全国区の行事になっているという。恵方巻をかじったあと、窓を開けて「鬼は外、福は内」と形ばかり大豆をまく。子どもころは大騒ぎして豆拾いをしたものだが、今はベランダに少しばかりまいてそれでお終い。歯が弱ったので、年の数だけ豆を食べるなんて、とてもとても。


 ●ハンス・ヨーナス『アウシュビッツ以後の神』(法政大学出版局 2009年)を読む。青来有一さんの新作「小指が燃える」(「文學界」2017年1月号)にこの本の一部が引用されていたので。ヨーナスはドイツ生まれのユダヤ人哲学者。ハイデガー、ブルトマンのもとでグノーシス思想の研究をした。「小指が燃える」には、この本のなかから無力なる神の概念、「神が力を断念したのは、ひとえに人間の自由をゆるすため」という一行が引用されています。


 写真は近所の家の玄関に差してあった柊の枝。イワシの頭が刺してあります。


2012_0224_112020p2240016 2月1日(水)曇り。午後からFさんと宇治行。宇治で保育園を営むIさんを訪ねる。Iさんはいくつもの保育園を運営しているのだが、本部がある保育園を訪ねて驚いた。というのも、そこが藤原道長が建てた浄妙寺跡にあったからだ。10数年前、園の改築工事をしたとき、浄妙寺の西門にある門柱跡が出てきたという。そのとき出土した礎石のそばに「浄妙寺西門跡」の碑が建てられていたが、『御堂関白記』の読者としては少なからず感動した。道長が浄妙寺を建てたのは寛弘2年(1005)、ここ木幡の地が一族の葬送の地だったことから先祖の菩提を供養するために建てたもの。建築工事中、道長はしばしばこの地を訪れて、工事の進捗状況を確かめている。西門跡は園の駐車場の一角にあるが、1000年も前にここを道長が行き来したと思うと感慨無量のものがありました。

●杉本秀太郎『平家物語』(講談社)を再読。今日、行った場所の近くに頼政道というバス停があります。以仁王を奉じて反平家の挙に出た源頼政が最後の戦いに向かったとき通った道です。私は以前、頼政の事を、年甲斐もなく無謀な戦に挑んで、あたら若い以仁王らの命を奪った愚かな・・・、と思っていたのですが、頼政の歌を読み、歌人としての魅力を知るにつれ、彼が鵺退治をした武勇伝を持つだけの者ではないと見直したのでした。義仲にしてもそう、彼は乱暴な田舎者のように伝えられていますが、人間的魅力がなければ芭蕉があれほど慕うでしょうか。人間の評価が時代とともに変化する場合もあるということを思います。


 写真はセツブンソウ。待ちかねて写真を撮りにいきました。


Img_2677 1月31日(火)曇り。夜、夷川通のカフェ・モンタージュへ関西弦楽四重奏団を聴きに行く。ベートーヴェン弦楽四重奏曲連続演奏会の今回は8回目で、曲目は第11番「セリオーソ」と第7番「ラズモフスキー第1番」の二つ。開演半時間前に着いたのだが、もう7割近い入りで、仕方がないので階段に儲けられた席に着く。半地下のフロアが会場なのだが、キャパシティは数十人というところ。毎回満員で、階段にもびっしりの人なのだ。8回目となるこの日、「セリオーソ」は文字通り真剣さが伝わる曲。2曲目の「ラズモフスキー」はチェロによる主題の演奏があったり、同じくチェロの連打があったり、となかなかチェロが活躍して、(チェロ好きなので)連続演奏会の中ではいちばん満足したといってもいいだろう。例のごとく、演奏終了後はワインが供され、奏者を囲んでアフタートークが開かれたが、残念ながら今回もパスして真っ直ぐ帰宅。この日は京都コンサートホールでのリサイタルを翌日に控えたバイオリニスト豊島泰嗣さんも会場にいて、自分の演奏会のPRをしていた。ベートーヴェン弦楽四重奏曲の連続演奏会も来月が最終回となる。この演奏会も、美味しい料理を食べながら聴くのであればどんなに気持ちのいいことだろう、と思う。これらの曲が生まれたころは、実際そのような空間で演奏されていたのだろうから。映画『アマデウス』にそんな場面がたびたび出てきました。


 写真はこの日の午後、京都の北の空に立った虹。虹を見ると私の心は躍る、と詠ったのはワーズワースでしたね。


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