10月25日(水)雨のち曇り。10月25日は1977年に亡くなった稲垣足穂の命日で、今年は没後40年になる。足穂はまだ戦後の色濃い1950年(50歳になる年)に京都へ移り住んだ。尼僧の資格を持ち社会福祉司として働く志代と結婚するためであった。志代は文芸誌「作家」を主宰する小谷剛と昵懇で、文学と無縁ではなかった。戦後、足穂は『ヰタ・マキニカリス』を書肆ユリイカから出していたものの、生活は困窮を極めていた。彼の窮状を見かねたユリイカの伊達得夫の勧めで志代は足穂を引き受ける決心をしたという。その時伊達得夫が志代に言った言葉は「50人の不良少女の面倒をみるよりも、足穂の世話をしたほうが、日本のためになります」。当時志代は京都市右京区にある母子寮の寮母をしていた。足穂はその中央仏教学院染香寮に文字通り身一つで転がり込んでいる。その後、宇治の慈福院から恵心院へ、さらに志代の勤務先である伏見区桃山婦人寮に転居。1969年、次に移った桃山町養斎の家で『少年愛の美学』により第一回日本文学大賞を受賞。足穂受賞を強く推したのは選考委員の一人三島由紀夫だったという。足穂は常々、「自分の文学は『一千一秒物語』を書いた1923年に終わっている。それ以降の作品はすべてあの作品の註である」と言っていたというが、それが正しいのなら足穂の文学は23歳で完成していたことになる。幻想的で宇宙的な作品という印象が強いが、私は彼が京都に移り住んだあと書いたエッセイを好んで読む。全集に収められた「宇治桃山はわたしの里」もその一つで、幼いころから謡曲に親しんだ足穂がその舞台である鞍馬や金蔵寺などについて書いたり、土地にまつわる歴史や古典文学について書いたもの。それらを読み、紅葉のころ西山にある金蔵寺を訪れたことがある。ここには比叡山の僧侶と稚児が出てくる「秋夜長物語」の供養塔があるはずだが、この時は気がつかなかった。金蔵寺は淳和天皇陵がある小塩山の中腹にある。麓にある大原野神社や業平ゆかりの十輪寺などに立ち寄ったあと金蔵寺へ上り、目の覚めるような紅葉を愛でた。そのうち再訪をと思いながら10数年が過ぎた。いまはベランダから寺の辺りを遠望するのみ。
写真は足穂の弟子折目博子(1927~198)の著書『虚空 稲垣足穂』(六興出版 1980年)。彼女が足穂に初めて会ったのは1950年の暮れ、彼女23歳、足穂50歳のとき。仏教学院の母子寮に妻の志代さんとその娘都さんと共に暮している足穂を訪ねたのが始まりで、以後亡くなるまでの歳月、文学を志す者として通い続けた。彼女の夫は京大の社会学者作田啓一。ここに描かれた、志代さんに先立たれたあとの足穂の姿は痛ましい限り。足穂の後半生を支えたのは志代夫人である。二人の墓は法然院にある。墓の字は富士正晴が書いた。
『虚空 稲垣足穂』は倉敷にある古書店「蟲文庫」で入手した。探していたので、嬉しかった。2000円もしなかったと思う。
写真は足穂の弟子折目博子(1927~198)の著書『虚空 稲垣足穂』(六興出版 1980年)。彼女が足穂に初めて会ったのは1950年の暮れ、彼女23歳、足穂50歳のとき。仏教学院の母子寮に妻の志代さんとその娘都さんと共に暮している足穂を訪ねたのが始まりで、以後亡くなるまでの歳月、文学を志す者として通い続けた。彼女の夫は京大の社会学者作田啓一。ここに描かれた、志代さんに先立たれたあとの足穂の姿は痛ましい限り。足穂の後半生を支えたのは志代夫人である。二人の墓は法然院にある。墓の字は富士正晴が書いた。
『虚空 稲垣足穂』は倉敷にある古書店「蟲文庫」で入手した。探していたので、嬉しかった。2000円もしなかったと思う。