2017年10月

IMG_1600 10月25日(水)雨のち曇り。10月25日は1977年に亡くなった稲垣足穂の命日で、今年は没後40年になる。足穂はまだ戦後の色濃い1950年(50歳になる年)に京都へ移り住んだ。尼僧の資格を持ち社会福祉司として働く志代と結婚するためであった。志代は文芸誌「作家」を主宰する小谷剛と昵懇で、文学と無縁ではなかった。戦後、足穂は『ヰタ・マキニカリス』を書肆ユリイカから出していたものの、生活は困窮を極めていた。彼の窮状を見かねたユリイカの伊達得夫の勧めで志代は足穂を引き受ける決心をしたという。その時伊達得夫が志代に言った言葉は「50人の不良少女の面倒をみるよりも、足穂の世話をしたほうが、日本のためになります」。当時志代は京都市右京区にある母子寮の寮母をしていた。足穂はその中央仏教学院染香寮に文字通り身一つで転がり込んでいる。その後、宇治の慈福院から恵心院へ、さらに志代の勤務先である伏見区桃山婦人寮に転居。1969年、次に移った桃山町養斎の家で『少年愛の美学』により第一回日本文学大賞を受賞。足穂受賞を強く推したのは選考委員の一人三島由紀夫だったという。足穂は常々、「自分の文学は『一千一秒物語』を書いた1923年に終わっている。それ以降の作品はすべてあの作品の註である」と言っていたというが、それが正しいのなら足穂の文学は23歳で完成していたことになる。幻想的で宇宙的な作品という印象が強いが、私は彼が京都に移り住んだあと書いたエッセイを好んで読む。全集に収められた「宇治桃山はわたしの里」もその一つで、幼いころから謡曲に親しんだ足穂がその舞台である鞍馬や金蔵寺などについて書いたり、土地にまつわる歴史や古典文学について書いたもの。それらを読み、紅葉のころ西山にある金蔵寺を訪れたことがある。ここには比叡山の僧侶と稚児が出てくる「秋夜長物語」の供養塔があるはずだが、この時は気がつかなかった。金蔵寺は淳和天皇陵がある小塩山の中腹にある。麓にある大原野神社や業平ゆかりの十輪寺などに立ち寄ったあと金蔵寺へ上り、目の覚めるような紅葉を愛でた。そのうち再訪をと思いながら10数年が過ぎた。いまはベランダから寺の辺りを遠望するのみ。
 写真は足穂の弟子折目博子(1927~198)の著書『虚空 稲垣足穂』(六興出版 1980年)。彼女が足穂に初めて会ったのは1950年の暮れ、彼女23歳、足穂50歳のとき。仏教学院の母子寮に妻の志代さんとその娘都さんと共に暮している足穂を訪ねたのが始まりで、以後亡くなるまでの歳月、文学を志す者として通い続けた。彼女の夫は京大の社会学者作田啓一。ここに描かれた、志代さんに先立たれたあとの足穂の姿は痛ましい限り。足穂の後半生を支えたのは志代夫人である。二人の墓は法然院にある。墓の字は富士正晴が書いた。
 『虚空 稲垣足穂』は倉敷にある古書店「蟲文庫」で入手した。探していたので、嬉しかった。2000円もしなかったと思う。

IMG_1592 10月24日(火)曇り。今日が最終日というので慌てて太秦にあるギャラリーdddへ出かけてきた。先月からやっている「平野甲賀と晶文社展」を見るため。近くだからそのうちにと思っていたら最終日、11時の開館と同時に入る。壁に平野甲賀の文字が、会場内には彼の装丁による晶文社の本が展示されていて、思わず手にとりたくなった。ブレヒト、長谷川四郎、長田弘、鶴見俊輔、古川ロッパなど、馴染み深い本の数々。植草甚一や小沢昭一のシリーズも賑やかに揃っている。許されるならば一日座り込んでこれらの本を読み返したいものだが。このギャラリーは大日本印刷が関西での文化活動の一環として始めたもので、グラフィックデザインを中心とする展示を行っている。今回はグラフィックデザイナー平野甲賀の足跡を一望できる展示で、本の装丁がいかに大切かと思われたことだ。晶文社の本だとすぐわかる独特の文字、装丁よりも中身ばかり気にしていた自分を反省。
 夜、横浜に住むMさんより「ポルトガルに行ってたの」と電話あり。どうりで電話もメールもつながらなかったはず。
12時間の空の旅に耐えられる体力がまだあるのだ。こちらはもう2,3時間が限界である。

 写真はギャラリーdddの「平野甲賀と晶文社展」。懐かしい本がいっぱいでした。

php 10月23日(月)曇り。台風一過、強い風は残っているものの、時折雲の切れ間から青空が覗く。昨夜の強風で、あちこちの神社仏閣では大きな樹が倒れたというニュース。西本願寺や大将軍神社の大銀杏が折れ、植物園では100本近い木が倒れたとのこと。中には絶滅危惧のレバノン杉もあり、何とか起こして元に戻したいとある。ずいぶん以前に室生寺の五重塔が倒木で壊れたことがあった。あの時は全国から復旧資金が寄せられて、早期に再建がなったが、無名の神社仏閣であれば時間がかかることだろう。10月23日は5年前に亡くなった兄の命日。朝から義姉にメール。
 本を処分したあと、必要になって同じ本を再び購入するということを繰り返している。こんなとき古本ネットで検索し注文できるのは有難い。この日も3冊ほど注文。手放さなければよかったと後悔するのだが、シンプルライフを目指しているので、ついつい整理したくなるのだ。友人のIさんはこれまで一度も本を処分したことがないという。親から受け継いだ大きな家に住んでいるおかげで、どんなに本が増えてもまだ余裕があるとIMG_1587いう。ただもう何がどこにあるのか探すのに苦労するというが、贅沢な悩みなり。
 夜、京都コンサートホールへ、佐渡裕指揮のケルン放送交響楽団を聴きに行く。曲目はワーグナーの「ジークフリート牧歌」、シューベルト「未完成」、ベートーヴェン「運命」という、極めてポピュラーなもの。どれもそらでなぞれる曲だが、初めて聴くオーケストラの演奏はいかがと楽しみに席に着く。ケルン放送交響楽団は1947年創立、今年70周年を迎えた。1980年に初来日し若杉弘の指揮で演奏、以後いろんな指揮者とマーラーなどを演奏し、今回の日本公演は11回目とのこと。メンバーには日本人もいて、今回もヴァイオリン、ヴィオラに日本人奏者の顔が見えた。70人余のフルオーケストラで、管楽器が15人ほど、圧倒的な弦の響きが印象的だったが、もっとクリアで力強い響きを期待していたので、全体的にソフトな感じを受けた。日本公演は兵庫、大阪、京都、名古屋、東京と各地を巡るもので、この日は3日目。佐渡裕の指揮は情熱的、演奏直後にはブラボーの声が四方から飛んでました。アンコール曲は「フィガロ」序曲。軽やかで、小気味のいいおまけでした。
 帰途、真っ直ぐ家に帰るのがもったいなくて、連れ合いを誘って新町通蛸薬師のワインバー「ドゥ・コション」に寄り道。つれあいは白、私は赤ワインで演奏会の余韻に浸る。夫婦二人でやっているこのワイン・バー、町家を改造した10人も入ればいっぱいになりそうな可愛い店だが、フランス・ワインにこだわって、毎年、現地へ出向いて仕入れて来るだけあって、なかなか人気がある。来週からまたワイナリーを訪ねてフランス行きです、とのことなので、しばらくお店はお休み。どんなワインを仕入れてくるのか帰りを待つことにしよう。
 
 写真上はコンサートのポスター。下は今朝の京都市西北に架かる虹。ベランダからパチリ。ちょうど、大庭みな子の『虹の橋づめ』を読んでいるところでした。

DSC_0418 10月22日(日)雨。雨の週末を丹後~城崎で過ごしてきた。ある会の研修旅行で、台風接近といえどもキャンセルはできない。外歩きの予定は見合わせて、屋内行事優先の旅となった。丹後~城崎はしばしば周遊する地なので目新しさはないが、人任せの旅はラクである。ガイドさんが亀岡を過ぎるときは「明智光秀の亀山城と本能寺」について語り、綾部では「足利尊氏」のことを、丹後の由良川が近づくと「山椒大夫」の話をする。由良川を渡るとき、以前、どこかの老人会旅行のバスがここで洪水に遭い、バスの屋上で一夜を明かした、という話を思い出した。眠らないようにみんなで歌を歌い続けたそうだが、よくも流されなかったものだ。由良川の源流は京都府北部芦生の森にある。日本海にそそぐ由良川を見て、はるばると流れてゆく水の旅を思った。土曜日の宿は城崎温泉。雨のため、外湯を楽しむのはやめて部屋で休息。雨の「城崎にて」でした。
 帰宅後●酒井駒子の画文集『森のノート』(筑摩書房)を読む。2014年から3年間ほど月刊誌「ちくま」の表紙を飾った絵と文をまとめたもの。子どもを描いたものが多いが、IMG_1583静謐で奥行きのある世界を展開している。絵の一つ一つに物語が隠されているよう。
 
 夜、TVで選挙の結果を見る。政党名で投票する比例区では自民党の投票率は33%だった。これに対し、20%の立憲民主党と17%の希望の党の票を合わせると、票数ではこちらが200万票以上上回ることになるという。自民党は小選挙区での獲得数は48%だが議席数は75%を得た。そういう仕組みになっているといえばそれまでだが、これで本当に民意が反映されたと言えるのかしら。いっそ全国一区の比例制にしたらどうかしらん。

 写真上は雨の天橋立。下は『森のノート』。

IMG_1582 10月19日(木)雨。肌寒い一日。本の本を読む。●立花隆『読書脳 ぼくの深読み300冊の記録』(文藝春秋)。これは著者が週刊文春に連載しているものをまとめた書評集。1992年からいまも続いている連載で、6年分を収めた書評集のこれは4冊目になる。どんな本を選ぶのかというくだりに、「選ぶいちばんの基準は面白いということに置いている。といっても単なる娯楽本読み物本のたぐいは、いっさい排除している。フィクションは基本的に選ばない。20代の頃はけっこうフィクションも読んだが、30代前半以後、フィクションは総じてつまらんと思うようになり、現実生活でもほとんど読んでいない。人が頭の中でこしらえあげたお話を読むのに自分の残り少ない時間を使うのは、もったいないと思うようになったからである」とある。ゆえにここに取り上げられた本は歴史、政治、科学、経済、哲学、ノンフィクション、伝記などなど、いわゆるフィクション以外の分野の本が網羅されている。
 ●池内紀『本は友だち』(みすず書房) 疾風怒濤のような立花隆の本を読んだあとにこの本を読むと、過酷な旅から憩える我が家に帰ってきたような気分になる。この本のことは前にも書いたと思うが、取り上げられた本や人たちが私の嗜好と重なるので、どのページを開いても心が弾む。何度読んでも愉しい。また時間を置いて読むことにしよう。
●与那覇恵子編『大庭みな子 響き合う言葉』(めるくまーる)。今年が没後10年になる大庭みな子について書かれた大庭みな子研究会のメンバーの論文集。大庭文学の同伴者だった夫利雄氏や実娘優さんの文章も収められている。没後日経新聞から出た全25巻の全集がきっかけで研究会が生まれ、その成果としてこの本がつくられたという。詳細な年表や著書一覧は大庭文学ファンには有難いだろう。もう30数年も前、彼女の『霧の旅』を読み、こんなふうに書いてもいいのかと驚きながらも、大きく心が解放されたのを覚えている。大津市比叡平で書かれたという「啼く鳥の」も忘れ難い。ゆっくりと再読したい。

IMG_1433 10月17日(火)雨。先だって大阪の万博公園内にある大阪日本民藝館で「九州の民藝展」を見た。小鹿田焼の逸品を見て、窯元がある大分県日田市は夏の豪雨で被災したはず、窯元は大丈夫だったのかと案じていたが、この日新聞に「豪雨被災の窯元正念場」の記事があった。7月の豪雨で300年の歴史を持つ小鹿田焼窯元が苦境に立たされている、とあり、10軒ある窯元全てが被災し、土が採れる山が崩れ、道具も流失して、再開できたのはほんの一部という。今後数年かけて復旧作業を続け、作陶活動を再開したいとある。懸念した通り、やはり大きな被害に遭っていたのだ。やきものが作れないのは辛いことだろう。一日も早い復旧を祈っている。

●富山太佳夫『文学の福袋(漱石入り』(みすず書房)を読む。英文学者による書評集。漱石は留学体験をし、その国の文化を学んだにも関わらず、確固たるイギリス像を持ち得なかった・・・という指摘を面白く読んだ。

 写真は大阪日本民芸館で見た小鹿田焼の壺。
 

IMG_1581 10月16日(月)雨。999年前の10月16日、藤原道長は得意の絶頂にいた。三女の威子が後一条天皇の中宮となり、一家から三人の后が立つことになったからである。すなわち長女の彰子が太皇太后(一条天皇中宮)、二女の妍子が皇太后(三条天皇中宮)、そして三女の威子が後一条天皇の中宮。後一条天皇は孫、春宮も孫であるからには、今後も我が一家の政治的地盤はゆるぎないものと確信していたにちがいない。この夜の祝宴で道長はわが身の栄耀栄華を歌に詠んだ。それが有名な「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」。道長の日記『御堂関白記』には、自分が歌を詠んだことは書かれているが、歌は記されていない。この歌を後世に伝えたのは、藤原実資の日記『小右記』である。実資は自分の日記にこの日の事を詳細に記録していて、道長が自分を呼んで「此世乎は我世とぞ思望月乃欠たる事も無と思へは」という和歌を詠んだ、と書いた。(寛仁2年10月16日条) 陰暦10月16日は今年の太陽暦でいえば12月3日にあたる。来年は「この世をば」の歌が詠まれてから千年。日本の古代史の中で、道長ほど栄華を極めた政治家はいないのではないか。
 いま巷では選挙のただ中だが、現代にも「この世をば我が世」と言わんばかりの政治家がいる。ああ、欠けない望月なんてあるはずがないのに。

 写真は『藤原道長事典』(思文閣出版)。『御堂関白記』だけでなく同時代の記録を読む手助けになります。
 

IMG_1560 10月14日承前。明治村には小泉八雲避暑の家や幸田露伴の蝸牛庵があるが、文学者の家としては鷗外・漱石が住んだ家がいちばん人気がある。一丁目にあるこの家は建坪39坪の平屋で、漱石の作品にちなんで、家の中のいたるところに猫の像がある。借家だったこの家に鷗外が住んだのは明治23年(1890)から1年余のこと。その年の1月に処女作『舞姫』を発表した鷗外は、ここで雑誌「しがらみ草紙」を編集刊行、軍医のかたわら文筆活動に力を注いでいった。漱石がこの家を借りて住んだのは明治36年(1903)から39年(1906)までの約3年間。この家で『吾輩は猫である』を書き、『草枕』や『坊ちゃん』を世に出した。『吾輩は猫である』の舞台はこの家であろう。この日、家の中には見学者がいっぱいで、みんな思い思いに部屋に座り、鷗外や漱石のパネルと記念撮影をしたり、猫とIMG_1553ツーショットを撮ったりと愉しそうであった。私も負けずに漱石と並んで写真を撮り、書斎に座って「猫」の一節を思い出したり、帰ったら漱石の日記を読み直そうと思ったり。この春、松山へ出かけた時、町にあふれる漱石「坊ちゃん」に驚いた。「坊ちゃん」で漱石は松山を田舎者扱いしてさんざんな書きようなのに、なぜか松山の人たちは漱石を憎まず愛しているようにみえる。漱石が正岡子規の親友だったからか。
 とまれこの家に寺田寅彦や久米正雄、松岡譲、内田百閒、龍之介など、多くの弟子たちがやってきて、談論風発の時を過ごしたのだ。漱石は弟子にやさしかった。弟子にだけでなく、出会った人たちにはのちのちまで親切に遇している。近代化の波に抗いがたく、江戸文化と西洋文化の狭間で苦悩して胃病に苦しんだ漱石。漱石に熊楠ほどの豪胆さがあったなら、と思わずにはいられない。
 
 写真は明治村にある鷗外・漱石の家。日本近代文学の祖ともいえる二人の文豪が住んだ家は以外にも素朴で小さな家でした。下は書斎。机の前に吾輩猫が鎮座しています。

IMG_1509 10月14日(土)曇り。岐阜城公園の近くにある正法寺へ行く。ここは黄檗宗のお寺で、三階建ての立派なお堂の中に日本一の乾漆仏の大仏さまがいる。天保3年(1832)に完成した大釈迦如来像で、像の高さは13・7メートル。見上げるばかりの仏さまだが、これが木と竹を組み合わせたものにお経の紙を貼り、その上に漆を塗って金箔を施したものと聞いてびっくり。木像でも金剛像でもない、乾漆像だとは。不謹慎にもねぶた祭りの人形を連想してしまった。お堂の中には立体的な壁画があり、羅漢さんがずらりと並んでいる。道内を一巡し、羅漢さんに挨拶する。
 大仏殿を出たあと、犬山の明治村へ。以前一度だけ行ったことがあるが、1時間ほどの滞在時間しかなく、帝国ホテル周辺を見ただけで帰ってきた。今回は前回見そこなった京都の教会と漱石・鷗外IMG_1527の家を見るつもり。明治村は山の斜面に広がっていて、北口から入ると、たらたらと下りながら順序良く見学できる。長崎の伊王島から移築された大明寺聖パウロ教会堂、京都の河原町三条にあった聖ザビエル天主堂などを見る。たしか島尾敏雄がこの教会で結婚式をしたのではなかったか。このあと、京都河原町五条にあった日本聖公会京都五條教会も見たが、その立派さに驚いた。こんな見事な教会が町に点在していたとは、神社仏閣に混じって教会など洋風建築物が建ち並んでいた当時の京都の町を想像してみる。現況はといえば、町から近代建築や近代遺構が消えつつあり寂しい限り。
 夕方、この日の宿泊地・駒ケ根に到着。夜、雨が上がって、雲の切れ間から美しい星空が見えた。京都では滅多に見ることがIMG_1566できない星空なり。木曾駒ヶ岳はもう紅葉が見ごろとのことだが、雲が低く、ロープウエイで上がるのを躊躇っているうちに暗くなってしまった。宿の各部屋には山野草の名前がついていて、私の部屋は「美豆木」でした。
 
 写真上は岐阜大仏。日本一の乾漆仏です。中は京都河原町三条にあった聖ザビエル天主堂。中に大きな薔薇窓あり。下は河原町五条にあった聖ヨハネ教会堂(日本聖公会京都五條教会)。これは国の重要文化財。天井に竹の簀が使われていて、いかにも京都らしいなあと思ったことだ。設計者はアメリカ人ガーディナー。立教学校校長の傍ら建築家としても活躍した。これらの教会がいまも京都市内にあったならば、としばし夢みたことでした。

IMG_1452 10月13日(金)曇り時々雨。岐阜行。昼前に到着、岐阜城下に車を停めて、川原町にあるイタリアンレストランで昼食。川原町には長良川鵜飼の観覧船乗り場があり、芭蕉の「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」の句碑がある。一帯には古い町並みが残っていて、家々には岐阜提灯がさがり、古町家や旧銀行などの建物を利用したカフェやレストランなどがあって、散策するのに楽しい。岐阜城(稲葉山城)を見上げながら食事を済ませたあと、公園内にある歴史博物館へ。開催中の「レオナルド・ミケランジェロ展」を見る。23歳の年の差があるが、二人は永遠のライバルといわれていたそうだ。会場には二人のデッサンをはじめ、手稿、書簡、彫像などが展示されていたが、その精密さに目を瞠らされた。同じころ、日本は戦国時代、この300年ほど前に運慶がいたなあ、などと思いながら会場を巡IMG_1464る。
 いつも泊まるグランドホテルは満員で予約がとれず、近くの都ホテルに入る。なんでも関市で男子ゴルフのツアーが開催中というので、選手や関係者で満員らしい。夜、長良川畔にある「潜龍」で、岐阜在住の友人と会食。二階の部屋からは鵜飼が見えて、食事と鵜飼の両方を楽しめる。夜7時半に花火があがって鵜飼が始まると、川畔の建物の灯りが落とされ、篝火が川面に浮かび上がる。窓からライトアップされた岐阜城も見える。見上げれば城、目の前に鵜飼のかがり火、そして部屋の中には1キロのIボーンステーキが。話は尽きず、3時間があっという間でした。

 写真上は岐阜市歴史博物館。中は川原町。家々に岐阜提灯がIMG_1459下がっています。下は川原町にある芭蕉像。ここら辺りには芭蕉の句碑がたくさんあります。向こうの山が金華山で、頂上に岐阜城があります。この日、ロープウエイで岐阜城まで上ってきました。高さ300メートル余といいますから、長崎の稲佐山くらいでしょうか。ちなみに長良川の鵜飼いは1300年の歴史があり、6人いる鵜匠は「宮内庁式部職鵜匠」に任命されているそうです。なかなか格式高い鵜飼なのですね。
 
 

IMG_1579 10月12日(木)雨のち曇り。読書会のテキスト、島尾敏雄の『魚雷艇学生』(新潮文庫)を読む。これは1979年から1985年まで「新潮」にとびとびに連載されたもので、魚雷艇学生だった作者の体験を記したもの。島尾敏雄は1986年に亡くなったので、これは最晩年の作品ということになる。1943年、28歳で海軍予備学生に志願した島尾敏雄は旅順や横須賀で訓練を受け、翌年、魚雷艇学生となって長崎県川棚で訓練を受ける。そのあと特攻要員として奄美の加計呂麻島に赴任し、特攻出撃の日を待つ日々を送る。結局出撃命令が出ないまま終戦を迎えて、島尾は神戸に還るのだが、この作品は出撃を待つ日までで終わっている。重い内容だが、私は何故か川棚での日々を綴った第4章「湾内の入り江で」が好きで、時折読み返すのだ。魚雷艇という禍々しい兵器を扱っているのに、この章に描かれた川棚の風景はいかにものどかで、どこか神話に出て来る風景のような懐かしさがある。
 島尾敏雄が亡くなる半年ほど前、長崎の大学で彼の話を聴いたことがある。演題は憶えていないが、白皙の人、という印象は忘れがたい。「私たちには生命が地球に初めて誕生したときからの記憶が伝えられている」「記憶も体験もみんな遺伝するのです」「私たちはみんな無意識の世界を共有しています」という言葉に共感を覚えた。今年は島尾敏雄生誕100年の年、静謐さに満ちた島尾文学が再読されるのは嬉しいことだ。

IMG_1445 10月10日(火)晴れ。ハガキが62円になったことを失念し、52円切手を貼って出していた絵葉書が「料金不足」で返ってきた。同時に数枚出したのだが、返送されたのは2枚のみ、残りはどうなったかと不安になる。受取人が払ってくれたものか。迷惑をかけたかもしれないが、謝るすべがない。今後は注意のことと自分に言い聞かせる。最近、うっかりが多い。約束の日時を間違える、出かける時忘れ物が多い、ただでさえぼんやりなのにはてさてどうしたものか。
 今日は午後から日文研フォーラムに出かけてきた。今日の発表者はベトナム人言語学者のゴ・フォン・ランさん。「日本とベトナムのコミュニケーション文化」と題して、出会いや別れの挨拶、断りの言葉などにおける、両国のコミュニケーション文化の相違点などを紹介。ベトナムでは初対面の相手に、年齢や家族構成などを尋ねることが珍しくないが、それは目上かどうかを測るため、とのこと。コメンテーターの伊藤哲司さんは1967年生まれ。ベトナム戦争終結の1975年に小学2年生でしたとのこと。発表者のランさんは1973年生まれで、ベトナム戦争の記憶は皆無という。聴講者のほとんどはベトナム戦争の最中に青春時代を送った世代で、しばし往事渺茫・・という気分になった(のではないか)。

 3日から始まった『国宝展』を見ようと京都国立博物館へ行ったら、長い行列ができていたので入るのを諦めて帰宅。開期中(11月26日まで)に4回展示入れ替えがあるらしい。入館者が少なくなる時間を狙って出かけることにしよう。

 写真は発表中のランさん。ベトナム社会科学アカデミー東北研究所・日本研究センター所長というだけに、それは流暢な日本語でした。
 

2013_1029_132952-PA290002 10月8日(日)晴れ。夜、外出先まで乗ったタクシーの中で、何のことからか「長崎はいま文学賞づいている」という話題になった。長崎生まれのカズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞したというので、長崎は諏訪神社の祭り「おくんち」の賑わいにも増して盛り上がっているという。前日おくんち見物から戻ったばかりのつれあいがそう言うと、運転手が「この前は佐世保の作家が直木賞を受賞しましたね。佐藤正午さんと私は同級生なんです」。「彼の受賞作をすぐに読みましたが、よくわからなかった。時間が行ったり来たりして、今がどこなのかこんがらがってしまって」とのこと。『月の満ち欠け』(岩波書店)は『鳩の撃退法』に比べるとわかりやすいと思うのだが。早川書房はカズオ・イシグロの本を50万部増刷したらしいが、『月の満ち欠け』は12万部が出たという。佐藤正午さんは直木賞の授賞式を欠席したそうだ。10月号「図書」に、贈呈式に寄せられた佐藤正午さんのコメントが掲載されている。それによると、「62歳になったいま、体調と相談しながら執筆活動を続けている。もの書きを続けるために、慣れない長旅で体調を崩すことがあれば仕事ができなくなる。もうひと頑張りしたいので、佐世保に留まって仕事をしたい。ものを書く仕事を続けること、それ以外に直木賞という得難い贈り物への、お返しの方法はないと考えています」。
 これも一つの作家魂ではないでしょうか。

 写真は神泉苑の金木犀。この池は平安京が出来たときからここにある泉です。824年、弘法大師空海が祈雨を行い、見事雨を降らせた、と伝えられています。
 

IMG_1435 10月7日承前。民族学博物館の隣にある大阪日本民藝館では目下「九州の民藝」展が開催中。シーボルト展のあと立ち寄って、小鹿田、小石原、小代、古伊万里など、懐かしい九州のやきものに見とれてきた。この前の大分豪雨で、小鹿田や小石原あたりに被害はなかったのだろうか。熊本の小代焼にはあまり馴染みはないが、この辺りでとれる美味しいミカンならよく知っている。熊本在の友人が毎年送ってくれるからだ。以前九州に住んでいたころ、古い窯を訪ねて肥前や北九州辺りをまわったことがある。唐津周辺には近世以前の窯跡がたくさんあった。朝鮮半島から渡って来た陶工たちによって窯業技術が伝えられ、それまでの焼きものづくりが一層盛んになったのだろう。会場にはやきものだけではなく、竹工芸品や久留米絣なども展示されていて、日常使うものをIMG_1439手間暇かけてつくる職人技に感じ入った。古伊万里のそば猪口コレクションも楽しく見た。絵柄の多彩さ、我が家にもあるそれと比べながら。それにしても館内に入館者は私ただ一人、というのは寂しい。展示室を出て、一階にある民藝品コーナーで青い皿を購入。こんなことは滅多にないが、皿の色に惹かれて。出雲の窯元のもの。重く嵩張る荷物を下げて、まっすぐ帰宅。さあ、何を盛ろうかしら。料理が得意でもないのに、わくわくしたことです。
 
 夜、●糸井通浩・綱本逸雄編『地名が語る京都の歴史』(東京堂出版)を読む。

 写真上は民藝館で開催中の「九州の民藝」に展示されている小鹿田焼の壺と久留米絣。下は衝動買いをした直径25センチの出西窯の皿。

IMG_1419 10月7日(土)雨のち曇り。雨の中、大阪万博公園内にある国立民族学博物館へ行く。開催中の「よみがえれ! シーボルトの日本博物館展」を見るため。そのうち出かけようと思っていたら、10日で終わるというので、朝のうちに出かけてきた。江戸時代医師として来日したシーボルトは、二度にわたる来日時に日本に関する膨大な資料を収集して帰国した。帰国後は、日本を紹介するため本を書いたり、自宅を開放して展覧会を開いたりしていた。この度の展示は、シーボルト二度目の来日時のコレクションと、子孫が所蔵する資料などをあわせて、150年ぶりに「シーボルトの日本展示」を再現したもの。ミュンヘンの人々やヨーロッパの人々が初めて出会う「日本」にどんな感想を抱いたのか、興味をひかれた。シーボルト事件のきっかけとなった日本地図をはじめ、生活用具、工芸品、絵画などIMG_1431からは、幕末の日本人の暮らしが手に取るよう。有名な魚類や植物図鑑もさることながら、川原慶賀の人物画帳は風俗資料として貴重なもの。日常用品にいたってはこんなものまで集めたのかと溜息が出た。ライデン博物館所蔵のコレクションはよく知られているが、今回はミュンヘン五大大陸博物館所蔵のものが主体だという。渡辺京二さんではないが、『逝きし世の面影』を見るような感じでしたが、同時にシーボルトが日本に寄せる思いや情熱が伝わる展示でした。

 写真上は民族学博物館入口。この博物館は通称「みんぱく」で親しまれています。今年は博物館が開館してから40周年の記念の年。この博物館の前身は渋沢敬三のアチックミュージアム、宮本常一がいたところですね。下は万博公園にある岡本太郎作「太陽の塔」。これは裏側です。 

IMG_1415  10月5日(木)晴れ。今年のノーベル文学賞はカズオ・イシグロが受賞した。彼なら納得。1980年代半ばごろ、彼の『女たちの遠い夏』(筑摩書房・・・のち早川文庫版では『遠い山なみの光』に改題)を読み、その静かな文体に惹かれた。彼は長崎生まれで、5歳のとき、父親の新しい仕事先イギリスに家族で渡り、イギリスで育っている。長崎の女性を主人公とする『女たちの遠い夏』が出た当時は、まだ石黒一家を知る人たちがかなりいて、その一人だった年長の友人Oさんから、幼児期のカズオちゃんの話を聞いたことがある。その時の話では、海洋学者の父親は気象台に勤めていたという。以来、長崎生まれのイギリス人作家の仕事をずっと見てきたのだが、いちばん印象に残るのは、『日の名残り』と『私を離さないで』だろうか。近年の『忘れられた巨人』では、描かれた世界のスケールの大きさに驚かされたが、(人類の記憶の深さ、大きさにも)、臓器移植をテーマとした『私を離さないで』には衝撃を受けた。同じテーマで書かれた作品は他の作家にもあるが、これはSFではなく近未来を描いたもの、人間とは何かを問うもの、だと思った。読みながら大江健三郎の『治療塔惑星』を思い出したりしたのを覚えている。

 朝、肌寒さに目が覚める。慌ててタンスを整理して衣替え。四季折々の仕事の一つ、あと何回かとふと思う。

 写真は夕方、西の空に浮かぶ飛行機雲。飛行機が交差したのでしょうか、大きな鳥が飛んでいるかのよう。
 

IMG_1416 10月4日(水)晴れ。今日は旧暦8月15日で、今夜の月が中秋の名月。昨日は夕方から北白川の京都造形芸術大学にある春秋座へ行く。祇園の温習会を観るため。春の都をどりはレビューのようなものだが、秋の温習会は井上流京舞のおさらい会のようなもの。日頃の研鑽ぶりを披露するものとあって、舞台に立つ芸舞妓たちの緊張ぶりが伝わる。演目は端唄、地唄、長唄、一中節、上方唄など様々だが、私にはさっぱり、みんな同じに聞こえる。この日、舞妓たちが「黒髪」を舞ったが、これは舞妓が襟替えをする時に舞うもので、初めて見たとき、20歳前後の娘にこんな艶っぽい曲の心が解るのかしら、と疑ったものだ。艶っぽいといえば、この日の「近江八景」は江戸時代、大津唐崎で心中した男女を題材としたものだが、小稲役の芸妓さんがふくよかすぎて、悲壮感というか、哀感に欠ける・・・舞は素晴らしいものだけに、雑念が邪魔して残念でした。
 今年も早や十月。十月には必ずこの詩を思い出す。中野重治の「十月」
 
空のすみゆき
鳥のとび
山の柿の実
野のたり穂

それにもまして
あさあさの
つめたき霧に
肌ふれよ
頬 胸 せなか
わきまでも


 今朝の風はまさにこんな澄み切ったものでした。
 夜、中秋の名月を見る。手術をしたおかげで、煌々と輝く月がくっきりと見える。

 こよひ君いかなる里の月を見て 都にたれを思ひ出づらむ (馬内侍)

 遠くに思ひ人がいるわけではありませんが、月を観ればつい口をついて出る歌です。

 写真は南禅寺近くの瓢亭。玄関に月見の飾りがありました。瓢亭のお隣は山形有朋の別荘だった無鄰菴です。

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