2018年03月

IMG_2843 3月27日(火)晴れ。朝9時過ぎにホテルを出て大垣市へ向かう。関ケ原を過ぎ大垣が近づくと桜の花が目に付くようになった。長浜や関ケ原ではまだ蕾だった桜が大垣ではもう満開に近い。ナビの目的地を大垣城にしていたので、車は城の前に到着。春休みとて城内の公園は親子連れでいっぱい。城の広場も桜に包まれて、まさに爛漫の春景色。城の前に立つ騎馬姿の初代城主戸田氏鉄に敬意を表して、真の目的地である芭蕉の「おくの細道」結びの地へ向かう。川沿いに桜を眺めながら行くと、堀川湊に芭蕉と木因の像があった。向こう岸には大垣市のシンボルである住吉燈台がある。両岸のサクラ並木は満IMG_2859開でそぞろに歩く人の姿あり。近くの広場には食べ物の露店が出ているが、花見客はそんなに多くない。これが京都であれば、まず駐車場は満車で食べ物にはありつけず、人の波で歩くのもしんどい、ということになるのだが。広場の横に「奥の細道むすびの地記念館」があったので入館す。これが予想に反して立派なもので、「奥の細道」のルートを3Dで見せる映像あり、芭蕉の自筆による本や消息、句のノートなどあり、しっかりした学芸員がいるのだろうと思われたことだ。水門川湊にある芭蕉と木因の像もなかなかリアルなもので悪くない。ただ曾良の姿がないのが残念。だが思いもかけず満開の桜に会えて(しかもゆっくりと)満足して帰途につく。京都に戻ると鴨川沿いの枝垂れやソメイヨシノがもう見ごろになっていて、びっくり。鴨川沿いに桜並木の下を走り、たっぷりと花見をすませたあと帰宅。「ソメイヨシノは桜やおへん」という京都の友人の顔を思い浮かべながら・・。
 写真上は奥の細道むすびの地に立つ芭蕉像。下は桜と大垣城。ピンクの花は河津桜のようです。
 

長浜と桃 3月26日(月)晴れ。長浜行。湖岸道路を走るが、琵琶湖には春霞がかかって対岸が見えない。これはただの霞かしら、それともこの季節の名物、大陸から渡ってくる黄砂かしら。途中でいくつか用事を済ませて午後4時ごろホテルに到着。部屋から見下ろすと、桜はまだだが、長浜城の周りには満開の桃の花が。折角なのでホテルを出てお城の周りを散歩する。東側にそびえる伊吹山の雪は細く谷筋だけを残して消えていた。長浜城は秀吉の城、湖岸には太閤井戸とよばれる古井戸が遺っている。このお城は歴史博物館になっていて、秀吉時代の資料が数多く展示されている。戦国時代の歴史には疎いうえに、人間関係が複雑すぎて、この時代の歴史はなかなか頭に入ってこない。どうもどこかで無意識に拒否しているのではないかと思う。幕末維新も然り。
 今回の旅のお供は阿部昭の『単純な生活』(講談社文芸文庫)。選ぶのに迷ったときは野呂邦暢のエッセイ集か阿部昭のこの本にすることが多いのです。この本のおかげで穏やかな一日でした。
 写真は長浜城と桃の花。あと一週間もすればソメイヨシノが満開になるのではないでしょうか。

IMG_2832 3月24日(土)晴れ。エピクロスの「隠れて生きよ」をわが座右の銘だと言ったのは渡辺一夫ではなかったか。中野好夫も何かのエッセイでこの言葉に触れていた。確かめたいがその本が見当たらない。『酸っぱい葡萄』だったか、『人は獣に及ばず』だったか。10代のころこの言葉に会って以来、自分への戒めとしてきたが、いま、紛うことなき隠居の身となってみれば、「隠れて生きたるは、よく生きたるなり」。こちらは格別唱えなくても根っからの無名子、間違っても顕れることなどないのだが、残りの時間もたっぷりと「隠れて生きよ」。体力の低下は如何ともしがたいが、年をとるのは楽しい。何事も初めて、という気分なのだ。もしかすると忘れっぽくなったせいかしらん。
 ●東北学院大学地域共生推進機構編『震災と文学』(荒蝦夷)を読む。東北学院大学が2013年から2017年にかけて開催した連続講座「震災と文学」から13人の話を収めたもの。収録されているのは山折哲雄、赤坂憲雄、小森陽一、池澤夏樹、いとうせいこう、柳美里、和合亮一、平田オリザなどの作家、学者、演劇家、詩人などによる話。中でも池澤夏樹の「文学に何ができるのか」は話の内容が非常に具体的でこちらの胸に真っ直ぐ飛び込んできた。震災後南相馬に移住し、いまは小高に構えた自宅を本屋にして地域の人のたまり場にしたいという柳美里の話もよかった。本には収められていないが、佐伯一麦や外岡秀俊の講義録も読みたいと思う。地方の大学(とくに私学)がこのような取り組みをなしているのは何とも頼もしいことだ。学問だけではなく、豊かな文化や人脈の広がりを感じた。
 写真は都忘れ。野春菊とも東菊とも。
 

IMG_2807 3月23日(金)晴れ。気分がよくなったので衣笠にある堂本印象美術館へ行く。長いこと休館していたが、このたびリニューアルを終えて開館した。立命館大学行のバスに乗り、終点で下車。印象設計の建物はなかなかユニーク、この人の絵のファンではないが、この日見た若き日の作品はよかった。(伏見の里を描いた風景画) 印象は時代とともに作風が大きく変化していて、人物画や風景画などのあと大胆な抽象画に転じ、壁画や襖絵にはそれが多い。なかでも最高裁判所のために製作したという巨大な壁画には圧倒された。各地の寺院にも印象作の襖絵があって、私はIMG_2826以前、苔寺(西芳寺)で観たことがある。モンドリアンばりの明るい抽象画だった。東福寺の龍を描いた天井画も印象作ではなかったかしらん。庭にはベンチなどが置かれ、滞在型ミュージアムを目指しているのかと思われた。ミュージアムショップに印象の絵をモチーフとした羊羹があった。目で愛で、舌で味わい、の見本のよう。(いつか試そう) このあと再びバスに乗り、京都御苑へ旧近衛邸のサクラを見に行く。期待通り、近衛の枝垂れ桜は満開に近かった。いつも春の彼岸のころには見ごろとなるのだ。大勢の観光客が花の周りで撮影中。私も遠くからパチリ。IMG_2813もし戦後ここが占領軍の住宅用地になっていたら、この桜は残されただろうか。御苑を出て、百万遍の京大総合博物館へ行く。開催中の「足もとに眠る京都」展を観るため。市考古資料館との共催で、考古資料館では旧石器~古墳時代までを展示、京大総合博物館では飛鳥~室町時代までの歴史が展示されている。京都大学の構内には遺跡がたくさんある。まるで遺跡の上に大学が建っているかのよう。展示室を出て博物館のロビイに置かれたキリシタン墓を見る。京都市内から出土したキリシタン墓で、江戸初期のもの。どんな人のためにつくられたのか、しばし足をとどめて墓碑銘を読む。
 写真上は衣笠にある堂本印象美術館。中は京大総合博物館のポスター。下は京都御苑旧近衛邸にある枝垂れ桜。周りにある枝垂れ桜も揃って満開でした。

IMG_2783 3月21日(水)雨。春分の日。仕事が一段落して気が緩んだのか、風邪をひいてしまった。熱はないが喉が痛み、鼻水が止まらない。外出は無理というので一日薬を服んで籠居す。溜まった手紙に返事を書くも頭が朦朧として、ただでさえ鈍った頭は全く役に立たない。こんな時は本を読んでも目はページの上を素通りするだけ。手紙をやめてあちこちにメール、電話で返事を送る。夕方、薬が効いたのか少し気分がよくなったので、●西川裕子『古都の占領』(平凡社)を読む。「生活史からみる京都1945-1952」という副題にあるように、占領時代の京都が詳細な調査結果をもとに記されている。植物園が占領軍の住宅用地になったことは知っていたが、それが京都御苑とどちらにするか議論の末に決まったということを初めて知った。御苑に占領軍の家庭用住宅が立ち並ぶさまを想像するのは難しい。また、先日Fさんたちと訪ねた北野の木島櫻谷邸には戦後クルーガー文庫があったという。クルーガー文庫とは占領軍の司令官の名前に由来するもので、彼が寄付した図書をもとに開かれた小さな図書館のことだそうだ。戦後の記憶がある人が消えつつあるいま、証言者を求めて地道に調査を重ねた結実がここにある。
「わたしも主人公ではなく、読者といっしょに占領期京都のまちを歩く案内役になろう、と思った。それから時間をかけてこの本を書いた。80歳、90歳の人々の伝言を、「戦争をたたかわない思想」を今の18歳に伝えたいからである」「わたしは”死ぬな、殺すな、生きのびよ”を18歳に贈る言葉にして、ここでいったん筆をおきたい」という筆者の言葉に胸打たれた。今年81歳になる学者の渾身の労作です。
 写真は18日訪れた仁和寺の五重塔。我が家のベランダからこの塔の上部が遠くに見えます。もうすぐ周りがミツバツツジの濃紫に染まり、やがて御室桜一色になります。

IMG_2777 3月18日(日)晴れ。Fさんたちと5月の例会の下見をかねて歴史散歩。今回は高雄・槇雄~宇多野・鳴滝あたりの寺院や史跡を周るというので、まずは高雄方面へ車で向かう。西明寺、高山寺に参り、鳴滝の西寿寺、宝蔵寺へ寄って仁和寺へ。仁和寺の五重塔ではちょうど若いお坊さんたちが塔に入り何かの作業中で、開け放たれた扉越しに塔内を見ることができた。色鮮やかな柱の絵や静かに座る仏様の姿を垣間見ることができたのは幸せなことでした。それから嵯峨野方面へ走り、山越の佐野藤右衛門邸のしだれ桜を見る(まだ蕾だった)。再びきぬかけの路を戻り、IMG_2779途中にある食事処でランチをとる。和風の落ち着いた建物だが、中華料理がメインという不思議なお店。食事のあと、宇多野の妙心寺へ。数年前に訪ねたときより整備され、すっかり様相が変わっている。ご住職の丹精の賜物か。境内に大きな枝垂れ桜あり。満開のときはさぞやと思われたことだ。ここの寺域を二つに割くようにして村上天皇陵への参道がつくられていて、Fさんたちは参道を登っていったが、風邪気味の私は石段下で待機。ひとえに体力温存のためなり。
このあと近くの陽明文庫の場所を確認し、北野の木島櫻谷邸へ行く。日本画家木島櫻谷が住んでいた家が近年手入れされ期間限定で公開されているのだ。邸内には画家が使用していた画材や当時のカルタ、画家の手描きの友禅などが展示されていた。和洋折衷というのが当時の流行りだったのか、大津にある山元春挙の邸も趣向をこらした日本家屋と立派な洋館がある。北野まで出たついでに平野神社へ寄り、桜を見る。楼門近くの枝垂れが3分咲きというところか。
 狭い区域をぐるぐる回る一日だったが、久しぶりの運転は楽しかった。免許証返上はまだ先延ばしでいいかしらん。
 写真上は木島櫻谷邸に展示されている画家の手描き友禅。下は和風と洋風の建物。

IMG_2740 3月17日(土)承前。志賀島のあと、JRで大宰府へ行く。途中、水城址の傍を通る。大宰府駅で下車し、タクシーで政庁跡へ向かう。青空の下、広々とした政庁跡に家族連れが点々と憩っている。周辺にはまだ梅の花が白く咲き残り、ハクモクレンやレンギョウ、山茱萸などが色とりどりに咲いている。大きな礎石に沿って広場を一巡りする。ここに菅原道真や藤原隆家らがいたのだなあと思いながら。暖かな日差しに汗ばみながら、隣にある戒壇院へ向かう。戒壇院は761年、観世音寺に創建されたもの。鑑真和上を招いて創られた我が国おける三大戒壇の一つで、他の二つは東大寺、下野薬師寺にある。このあと観世音寺の宝物館を駆け足で拝観、帰りは西鉄太宰府駅かIMG_2762ら博多へ戻る。大宰府天満宮の参道は文字通り人の波、外国人の多さに驚く。外国人ツーリストは京都で見慣れているが、太宰府にもこれほど押し寄せているとは。天神さんには人が溢れているのに、隣の観世音寺には人影なし、なんとも勿体ない。夕方の飛行機で京都へ戻る。大阪上空にさしかかるころはすっかり日も暮れて、大阪城周りのイルミネーションが眩しいほどだった。
 機内で●高田宏『言葉の海へ』(新潮文庫)を再読。

写真上は大宰府政庁跡。下は戒壇院。人影なく静かでした。

IMG_2729 3月17日(土)晴れ。博多は寒かった。数日前まで初夏のような陽気だったので薄着して出かけ、難儀をした。とくに16日は冷え込んだうえに雨風はなはだしく、すこぶる往生した。この日は快晴となったので、午前中、志賀島へ行く。ここにある蒙古塚や火焔塚を見るため。どちらも鎌倉時代に起きた元寇の址で、国宝になっている金印出土地とともに、志賀島にのこる史跡。海の中道を通るとき、玄界灘に面した海辺でサーフィンを楽しむ人たちを見かける。蒙古塚は金印出土地の近くにあった。文永・弘安の役(1274・1281年)で戦死した蒙古軍兵士を悼むために昭和2年に建てられたものだが、2005年の玄海地震で被害にあったため現在地に移されたという。きれいに整備され、慰霊碑も新旧いくつか並んでいた。海を渡って攻め込まれたのは元寇が初めてではない。平安時代には刀伊の入冦があり、日本人が連れ去られたりした。だが、刀伊の入冦を示すものはどこにも見当たらない。K先生によると刀伊の入冦の故地は能古島や当時警固所となった筥崎宮でしょうか、とのことだった。
 写真は志賀島にある蒙古塚。ここからすぐ向かいに能古島が、その向こうにいま移住者に人気の糸島が見えます。
 

IMG_2674 3月15日(木)晴れ。新幹線で博多行。途中小倉で下車し、松本清張記念館へ寄る。記念館は小倉城のそばにあり、小倉駅から車で5分ほどのところ。平日とあって館内に人影はなく、ゆっくりと観ることができた。1992年に亡くなった松本清張の記念館ができたのは1998年のこと。東京杉並区にあった自宅の書斎や書庫が再現展示され、広範囲に創作活動を展開した作家の世界が俯瞰できるように工夫されている。詳しい年譜をはじめ、仕事のテーマ別に紹介されたコーナーなど、緻密な展示に感心させられた。東大阪にある司馬遼太郎の記念館を思い出し、二人の偉大な作家の仕事のあとに圧倒されたことだ。今年は記念館の開館30周年というので、いろんな作家からコメIMG_2675ントが寄せられていた。感心したのは研究会活動の充実ぶりで、研究発表会をはじめ研究誌の刊行など、その内容は文学だけでなく古代史、現代史、政治史など幅広い分野にわたっている。清張の作品はいまもドラマ化されることが多いが、作品が古びないのは時代を超えて伝えたいテーマがあるからだろう。私は若いころ「砂の器」や「点と線」を読んだきり、あとは専ら古代史をテーマとしたものを愛読した、遅ればせながら全集をひもといてみようかと思ったことだ。
 写真上は小倉城そばにある松本清張記念館。下は壁一面に展示された約700冊に及ぶ著書。これだけのものを40年余の間に書いたのかと思うと、なんとも言葉がでない。

IMG_2668 3月9日(金)曇り。古い友人たちとの集まりに出席するため夕方から大阪行。会合場所は本町近くにある日本綿業倶楽部で、国の重要文化財に指定された建物を見学したあと、館内のレストランで食事会というコース。話には聞いていたが、昭和6年(1931)に建てられたこのビルは村野藤吾も設計に参加、当時のお金で150万(現在の75億円ほど)かけて造られたというだけあって、見事なもの。大理石をはじめ装飾品など建材の殆どが輸入品で、各部屋ごとにフランス、イギリス、アメリカ流などスタイルが異なるのも面白い。とにかく贅沢に造られていることは確か、大阪大空襲も戦火をもまぬがれて、よくぞ生き延びてくれたと感嘆しきり。当時、綿業がいかに盛んだったかが偲ばれた。
 大阪行の電車の中で●福岡伸一『動的平衡』(小学館新書)を読む。微かにわかった積もり・・・微積分のような。
 写真は大阪の綿業倶楽部。本館の談話室。イギリスルネッサンス初期のジャコビアン・スタイルの部屋。タペストリーは京都泉涌寺の窯場で焼いたタイルです。綿業倶楽部だけあって、綿実が飾ってありました。

IMG_2666 3月7日(水)曇り。夕方から洛西の日文研行。授業のあと、今月末に帰国する外国人学者Rさんの送別会に参加。主役のRさんお手製のお国料理が出て一同感激す。彼女はお国に帰ると研究所の所長さんなのだ。同席した若い研究者たちの話を聞いていると彼らにはまだまだ永遠に時間があると頼もしくなる。だがもう一度若くなって人生をやり直したいかと尋ねられたら「ノー」と答えるだろう。もう若くなりたいとは思わない。せいぜい現状維持を願うくらいか。
 ●角田文衛『角田文衛自叙伝』(古代学協会 吉川弘文館)を読む。10年前に亡くなった古代学者の自叙伝。かねてからその著書に親しんではいたが、詳しい人となりは知らなかった。この本で角田文衛が学者というだけではなく資金集めの天才で学問力と同じくらい政治力も持った人だということを知った。なにしろ豊富にある自己資金を基に古代学協会を創設、日銀京都を買い取って平安博物館とし(現府立文化博物館)、一時は長岡京に大学を創立する計画も立てていたというからプロモーターとしの才能も抜群の人だったのだろう。京大で浜田耕作に師事し、考古学と文献学の枠を超えた「古代学」を提唱し実践した。歴史を学ぶには考古学と文献学のどちらも重要で、文献に書かれたことが土の中から出てきたときの喜びは例えようもないものがある(らしい)。たとえば道長の『御堂関白記』にある金峯山寺に埋めた経筒がのちに発見されたこと、など。私はこの人の『建礼門院璋子の生涯』や『承香殿の女御』、『紫式部伝』などをかつて興味深く読み、いまも時々読み返しているのです。

IMG_2634 3月5日(月)雨。昨日の日曜日、祇園に新しく見世出しした舞妓さんのお披露目の会に行く。前日の好天気とは一転してこの日は生憎の雨だったが、それを忘れさせるほど華やかな宵だった。舞妓さんは一年の見習い期間を経てようやくデビューする。10代の少女が親元を離れ、祇園の言葉やしきたりを覚え、家(やかた)の手伝いをしながら芸事の稽古を積み、晴れの日を迎える。前日の挨拶周りの疲れも見せず、新人舞妓ちゃんは晴れやかな顔で舞を披露してくれたが、いちばん嬉しそうだったのは家(やかた)の女将(おかあさん)だろう。とまれ新しい門出を祝って、おめでとう。
●谷崎潤一郎『朱雀日記』(中央公論社)を読む。谷崎潤一郎が明治45年、大阪毎日新聞に連載した京阪見物記ともいえる紀行日誌。この時が谷崎にとって初めての京都滞在で、連日、新聞社や在京知人の案内で名所見物に歩きまわっている。連日祇園の芸舞妓と遊ぶ様子が記されているが、あまり楽しそうではない。このころの谷崎にとって関西は「食べ物の味が薄く、芸舞妓は素朴」というものだったようだ。尤ものちに京都や神戸に住んで名作「細雪」を書くのだから、人はどのように変化するかわからない。京滞在記といえば私が好んで読むのは本居宣長の『在京日記』。250年も前に書かれたものだが、京都の行事や歳時記がいまもほとんど変わらずあることに驚かされる。谷崎の日記は少々精彩に欠けるが、宣長の日記は生き生きとしていまなお新しい。
 写真は今月4日にデビューした舞妓の瑞乃さん(左)と先輩の芸妓章乃さん(右)。二人で舞を披露してくれました。

IMG_2599 3月4日(日)曇り。四条河原へ出たついでにコトクロスビルへ寄ったら、4、5階にあったブックファーストが閉店していた。1月末に営業を終えたそうだ。ずいぶん行ってなかったが、向かいの阪急あとのマルイビル6階にあったふたば書店も消えてしまったから、四条河原から本屋がなくなってしまった。近くにはジュンク堂、丸善という大きな書店があるからいいが、それにしてもこの衰退ぶりは寂しいかぎり。私が京都に来たころ四条河原あたりには10軒近く書店があった。駸々堂、オーム社、京都書院、海南堂・・・古本屋も並んでいて、散策するには楽しい通りだったが。それらの書店はほとんど消えてしまい、あとにはゲームセンターだのドラッグストアだのが並ぶだけ、賑やかに観光客は行き交っているがこちらは素通りばかり。
 ゼスト御池のふたば書房で読書会のテキスト用の本を探す。平積みの新刊文庫から、高田宏『言葉の海へ』(新潮文庫)、原武史『松本清張の「遺言」』(文春文庫)、鴻上尚史『不死身の特攻兵』(講談社現代新書)、宮崎賢太郎『カクレキリシタン』(角川ソフィア文庫)を購入。帰りて早速目を通す。「言葉の海へ」は1978年に単行本が出ているが、最近辞典づくりが話題になっているので文庫版が出たものか。宮崎賢太郎の本も以前長崎新聞社から出た『カクレキリシタン』(2001年)に大幅に加筆したもの。前著に教えられるところ多かったので、改定版も期待して読んだ。このたびも著者の考えは変わらず、ここでも「現在の隠れキリシタンはもはや隠れてもいなければキリシタンでもない。日本の伝統的な宗教風土のなかで年月をかけて熟成され、土着の人々の生きた信仰生活のなかに完全に溶け込んだ、典型的な日本の民族宗教のひとつである」と言う。長崎県下のカクレキリシタン信仰の現在の姿を、日本人がいかにキリスト教を受容し、変容させていったかという視点から紹介したもの。平戸、外海など、かの地の風景を思い出しながら読了。長年のフィールドワークの成果に感服。
 テキスト決まらず。あらためて本屋を覗くことにしよう。
 写真はどちらも『カクレキリシタン』。左が旧著、右が改訂版の新著。

IMG_2928 3月3日(土)晴れ。桃の節句。一昨日、まだ固い蕾の桃を投げ入れて、内裏雛を飾る。もういっしょに祝う子どもたちもいないので、出すのはやめようかと思うのだが、年に一度は外の風に当ててやらなければ人形が気の毒な気がして。FM放送で春の曲特集を聴く。ヴィヴァルディの「春」、ベートーベンの「スプリング・ソナタ」、シューマンの「春」、メンデルスゾーンの「春の歌」、モーツアルトの「春へのあこがれ」、シュトラウスの「春の声」etc. 明るい曲の連なりにのびやかな心地になる。
2月28日の日経新聞に高橋鴿子という人が佐藤渓について書いた「妖しさ放つ放浪の画家」という記事を読んだ。湯布院にある由布院美術館の館長をつとめた人だそうだが、この記事で由布院美術館が6年前に閉館したことを知った。湯布院へ行ったときは必ず立ち寄る場所だったが、閉館したことは知らなかった。佐藤渓という独特の絵を描く画家の作品を展示した館で、円形の中庭を持つ建物としてもなかなかユニークな場所だった。画家のことは洲之内徹が「気まぐれ美術館」で取り上げ、またNHKの日曜美術館でも特集されたので知る人は少なくないだろう。円形の部屋に飾られた絵の中にあった、妖しい眼をした日本髪の女性像が記憶に残っているが、また会うことがあるだろうか。
 夜、木屋町のステーキハウスで食事。嬉しいことに今夜は長崎牛が出る。幻の、と言いかけて「島育ちね」。いいお節句でした。
 「箱を出る かほわすれめや 雛二対」 蕪村

IMG_2589 2月28日(水)曇り。ようやく懸案だった仕事に終止符を打つことができた。だが、まだ終わったという実感はない。やり残したことがあるのではないかという不安の方が強いからだ。気がかりな仕事から解放されたら、あれもしよう、これもしたいと思っていたが、いまは積読となっていた本を片端から手にしているだけ。まずは池内紀『記憶の海辺』(青土社)を読む。サブタイトルの「一つの同時代史」が示すように、これは著者の半生記だといっていい。なかにこんな文章がある。大学院に籍を置いたまま大学には行かず、翻訳のアルバイトで暮らしていたころ、一流企業に就職した同窓生と町で会い、彼に「まだ挽回できるからガンバレ」と励まされた時のこと。
 「私はべつに自分が落伍者とも、遅れをとったとも考えていなかった。何をしたいのか、わからなかったまでなのだ。映画や文学など熱中するものはあったが、それで生きられるはずはない。何をしたいのかはわからかったが、何をしたくないかはわかっていた。さしあたりサラリーマンになりたくない。生活は安定するだろうが、すべての時間をサラリーのために取られてしまうのは、自分を裏切るような気がした。」
 どこかで読んだような言葉だなと思ったら、これと同じことを野呂邦暢が書いていたのだった。野呂邦暢も20歳のころ、同じようなことを考えていた。定職にはつかずアルバイトで生活費を稼ぎながら、彼は文学修業に明け暮れていたのである。
 1968年、若き池内紀は奨学生としてウイーンにいた。そのときチェコの自由化運動「プラハの春」を見聞し胸躍らせたが、ソ連のプラハ侵攻でつかの間の春に終わったことを知る。かの地で彼は自分の終生のテーマを見つけ、帰国後の方向を定めたという。その後の活躍ぶりは誰もが知るところだが、筑摩書房の「ちくま文学の森」の編集者になって本づくりに関わったころの思い出が楽しい。編集者は他に安野光雅、井上ひさし、森毅がいて、編集会議では笑いが絶えなかったそうだ。森毅、井上ひさしが相次いで亡くなったとき、安野光雅が「あのころが人生で、もっとも幸せだった気がするねえ」と言ったそうだ。
このシリーズが100万部も売れたせいか、このあと「哲学の森」シリーズも出て、これには鶴見俊輔が編集に加わっている。
 友人のKさんに「誕生日おめでとう」とメールする。本当は2月29日なのだが、4年に一度しか巡ってこないので。Kさんはまだ16歳というわけだ。

2012_0224_112020-P2240016 2月25日(日)晴れ。東京マラソンの中継を見ながら資料読み。二位に入った設楽選手が見事に日本新記録を更新し、一億円を手にするという。記録を更新するのは並大抵のことではないだろうが、去年100メートルを9.98秒で走った桐生選手には報奨金なんてあったのかしらん? いずれにせよ超人的努力の賜物、もちろん資質がなければ叶わぬことですが。
●メイ・サートン『70歳の日記』(みすず書房)を再読。これはサートン70歳の誕生日である1982年5月3日から翌年までの一年間の日記。「今が人生で最良の時・・・年をとるのは素晴らしい」といい、「私はつねづね、人間はもうすぐ死ぬつもりで生きるべきだと考えてきた。そうすればおのずと何を優先させるべきかは明らかになる」と書く。どちらかといえば文壇のアウトサイダーだったサートンは執筆の傍ら教師をしたり詩の朗読会を催したりして生活費を賄う時期もあったが、この本を書くころは多くの読者を得て、各地での朗読会は大盛況だったという。日記には少なからぬ来客や集まり、各地への旅の記録が晴れやかに記されていて、独り居といいながら決して閑居ではない日々が想像されるが、彼女がいちばん時間を割いているのが庭仕事だということに驚いてしまう。日記に草花の名前が出てこない日はない。朝な夕な庭の手入れに奮闘するサートンに、友人のMさんを連想してしまった。思索と庭仕事、どちらも彼女たちの大事な仕事なのだ。
 写真はようやく会えたセツブンソウ。

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