2018年08月

IMG_5515 8月21日(火)晴れ。18日に児童文学者の大塚勇三氏が亡くなった。「スーホの白い馬」の原作者である。子どもたちと読んだ「長くつ下のピッピ」はこの人の訳によるものだった。「スーホの白い馬」には思い出がある。もう20年も前のことだが、モンゴルからの留学生と親しくなった時、「やさしい日本語の本がほしい。絵本でもいい」と言われたので、この本をあげた。これはモンゴル民話の再話というので、「お国の民話だそうよ」と説明したのだが、彼女は初めて読む話だと言った。私の好きな絵本なので、プレゼントしては買い足して、いま手元にあるのは10代目くらいになる。留学生の彼女は一年後に帰国したが、いまはかの国で優秀な学者になっているのだろうか。
 

IMG_5516 8月19日(日)留守中とめていた新聞を届けてもらい目を通す。旅行中は新聞もTVニュースも見なかった。11日付の新聞に松村久さんの訃報記事を見る。山口県周南市で古書店と出版社を営むマツノ書店の松村さんである。幕末維新に関する、とくに山口県(長州)関係の郷土史、貴重な資料や研究書を復刻出版することで知られていた。この松村久さんには1989年に出版された『六時閉店』という本がある。ここに書かれたご自身の読書会活動や図書館哲学、確固たるライフスタイルなどに惹かれて、私たちの読書会に来ていただいたことがある。当日徳山から長崎まで、松村さんは愛車を運転してやってきて、みんなにアン・モロウ・リンドバーグの「海からの贈物」(新潮文庫)をプレゼントしてくださった。松村さんの復刻出版のやり方は、徹底した予約出版ということ。必要とする顧客名簿をもとに案内を送り、刷部数は300部まで、定価は5000円以上を守って、堅実な出版事業を続けてきた。その業績が評価されて、2007年、菊池寛賞を受賞。写真はその直後に出た雑誌「嗜み」に紹介された松村さんに関する記事。このころ、長州出身の曽祖父について調べたいという友人を伴って、松村さんを訪ねたことがある。松村さんは文書館や図書館に案内してくださり、親しい研究者も紹介してくださった。徳山駅近くの料理屋で3人で食事をしたのだが、松村さんのお話は楽しかった。宮本常一の思い出を語るときは、心からの敬愛の念が滲み出るようだった。京都に戻ったあと、書店の名前にちなんで「松の翠」という日本酒を送ったら、「美味しくいただいた」と葉書が届いた。あの楽しい「火車日誌」がもう読めないと思うと寂しい。

IMG_5440 8月17日(金)晴れ。朝目を覚まして肌寒いの驚く。外に出て、ホテルのベランダにある寒暖計を見てびっくり。11℃しかない。さすが高原と嬉しくなる。しかしこの涼しさを満喫できるのも今日限り。今日は京都に戻らなければならないのだ。この7月に新しくオーナーとなった若夫婦にお世話になったお礼を伝える。滞在中、朝夕の食事のメニューが毎回替わり、美味しくいただけたのは嬉しいことだった。小さなホテルならではの行き届いたもてなしも有難かった。青々と広がる壮大な草原、さまざまな高山植物、澄み渡る冷気、ともお別れ。ホテルを出た後、八島が原湿原を再訪。キツリフネソウ、マツIMG_5478ムシソウ、ウスユキソウ、ヤナギラン、キンミズヒキ、シシウド、ツリガネニンジン、ヤマホタルブクロなどの花々に別れの挨拶を。霧ケ峰に戻り、八ケ岳や富士山を撮影。R152号線を経て諏訪ICから中央道に乗り、一路京都へ。途中のサービスエリアでお土産を物色、信州蕎麦、野沢菜漬、わさび漬、おやきなどを購入。この日は空澄み渡り、南アルプスがくっきりと見える。中央道を南へ走る間じゅう、左手に南アルプスの山々が見えた。こんなことは初めてだった。
 夕方京都着。あまりの暑さに今来た道を引き返したくなった。
 写真上は八島ケ原湿原。下は霧ケ峰の富士見から八ケ岳連峰と富士山。草原にはススキが一面に広がり、間もなく真っ白のススキが原になるそうだ。
 
 

IMG_5420 8月16日(木)雨。お天気がよくないので外歩きは諦めて、諏訪の方へ出かけてみることにする。前夜、諏訪湖では花火大会が開催されて50万近い人出だったらしい。大門街道とよばれる国道152号を南下すると茅野市街へ出る。そこから諏訪まではすぐで、思い立って諏訪大社下社春宮へ行くことに。この社のそばに万治の石仏があるのだ。岡本太郎や新田次郎がこの石仏に会い感嘆したことから、評判になったもので、機会があったら一度会いたいと思っていた。御柱が立つ下社春宮にお参りしてから、石仏に会いに行く。雨の中でも、訪ねる人が絶えないようで、私たちはIMG_5414その前で写真を撮るのにしばらく待たねばならなかった。万治というのは石工の名前ではなくこれが建立された年、万治3年(1660)からつけられたものという。下社の柱にしようと石工が鑿をいれたらそこから血が出たので、柱にするのは諦めて石仏にしたという話が伝わっている。いかにも岡本太郎が好みそうな容をした仏さまである。
 諏訪湖を出て車山へ戻る途中、信州に来たのにまだ蕎麦を食べてないというので、R152号線沿いの蕎麦屋に入って新蕎麦をいただく。八ケ岳産地粉だけを厳選使用して石臼で挽いた十割真そばというので大いに期待したが裏切られなかった。蕎麦屋は蘊蓄が多くてつまらんと言いながらも、つれあいは「うん、これはうまい」。このあと、茅野市八ケ岳総合博物館に寄る。八ケ岳の成り立ちから自然、歴史、民俗までさまざまに展示してある。八ケ岳の森を再現したジオラマはなかなかリアルで迫力があった。館内の一室がこの地出身のアイススケーター小平奈緒さんの記念室となっていて、幼いころの写真なども展示されていた。そういえば鎌田實さんが名誉院長をしている諏訪中央病院もこの近くにあるはず。作家の南木佳士さんもこの近くの病院に勤めていたのではないかしら、などと思いながら大門街道を上っていく。途中に「尖石縄文交番」という名の交番を見かけてびっくり。茅野市は縄文の町でした。
 写真上は万治の石仏。下は御柱が立つ諏訪大社下社春宮。

IMG_5399 8月15日(水)晴れ。73回目の敗戦記念日。朝5時に目覚める。ここでも野鳥の声が賑やか、その声に誘われるようにして散歩に出る。こんな時間に誰もいないと思っていたが、近くのホテルから高校生らしい男女の集団が現れて走り出すのに出くわす。陸上部の高地トレーニングだろうか、いや他の運動部の合宿か、若々しい一団を横目にこちらはのろのろと坂道を上る。上ったところが車山展望リフトの乗り場で、見ると駐車場にはいっぱいの車。入ってくる車を誘導している職員さんに尋ねると、「リフトは朝4時から動いている。山頂で日の出を見る人が大勢いるのでIMG_5370す」とのこと。なるほどねえ。ここからだと素晴らしいご来光が望めるだろう。話しているほんの数分のうちに山頂に白い霧がかかった。
 朝食後、車で外出。この日はビーナスラインを通って、霧ケ峰~八島ケ原湿原~美ヶ原高原を回る予定。ビーナスライン沿いの高原は美しい草原で、阿蘇の草千里を連想した。ここの草原も春には火入れをして野焼きをするという。霧ケ峰自然保護センターでこの地の歴史を知ったのだが、開拓農民がこの地を牛の飼料となる萱場とするため、樹木を伐り、美しい草原に変えて行ったという。この自然IMG_5375と景観は人の手によって守られているのだ。美ヶ原は和田峠を越えたずっと先にある。この和田峠は黒曜石が出ることで有名だが、峠の近くに中山道の標識を見かけた。あとで知ったのだが、標高1531mの和田峠は中山道最大の難所だったという。いまも旧街道を歩く人はこの峠を越えていくのだろう。美ヶ原には野外彫刻が散在する美術館や休憩所、食事処などあり、広大な駐車場は車でいっぱい、その賑わいぶりは京都の四条河原と同じ。ただ標高2000mからの眺望は素晴らしい。北東に浅間山、小諸や上田の町、はるかに善光寺平、北アルプス、木曾御嶽山、南アルプス、八ケ岳、中央アルプス、とぐるりを見廻して飽きない。ここで信州名物おやきとコーヒーで一息つく。
 目に見えるのは緑の山々の連なりばかり、京都での日常からは遠く離れてすこぶる快適な時間を過ごす。ここでも涼しいのがいちばんの御馳走。午後2時ごろにはホテルに戻り、静かな部屋で読書。一冊だけ旅行鞄に入れてきた島尾敏雄『日の移ろい』(中公文庫)を読む。いつ鬱に陥るかという不安を抱きながらも妻と平穏な日々を送る奄美での図書館長の日々が記されている。読後、しんと心が鎮まるという気分になる。
 写真上は美ヶ原からの眺め。中は霧ケ峰に群生していたマツムシソウ。下は霧ケ峰自然保護センター入口。この日の気温は17度くらいか。右の注意書きに「ここでは気圧が平地の5分の4、酸素も5分の4になります」とある。

IMG_5233 8月14日(火)晴れ。大泉に滞在中は、なかなか富士山を見ることができなかったが、今朝、朝日を浴びた富士山がくっきりと見えた。眼下は一面の雲海。白い雲(靄)の上に茅ケ岳や南アルプスの山々がその姿を現している。甲斐駒ヶ岳、北岳、観音岳、山々の連なりに感動す。朝食のあと、ホテルを出る。横浜へ帰る娘たちを見送って、われわれは次の目的地である車山高原へ向かう。いましばらく涼しい処にいたいというので、京都へは戻らず、場所を変えて帰宅日を延ばすことにしたのだ。八ケ岳でも茅野市方面は初めて、八ケ岳鉢巻道路、エコーライン、ビーナスラIMG_5258イン、などという高原道路を走る。途中、御射鹿池という小さな池に寄る。なんでも東山魁夷がこの池をモチーフに「緑響く」という絵を描いたという。緑が水面に映えて幻想的な雰囲気。この日は空気が澄んで山々がよく見えたので、途中、北八ケ岳ロープウエイで山頂まで上る。さらに車山でも展望リフトに乗り、1925mの山頂へ上る。ここは360度の展望がひらけ、八ケ岳、富士山、南、中央、北アルプスと見渡すことができる。この日は少し霞んでいたものの、かなり遠くまで見晴かすことができて、山に不案内の私もその雄大さに圧倒された。車山高原は、蓼科、IMG_5396白樺湖を過ぎたところにある。ホテルは標高1500mのところにあり、実に爽やか。白樺湖は箱根のような賑わいをみせるリゾート地だが、湖畔には閉業したホテルやレストランなどの建物が幽霊屋敷のように残っていて、バブル期の名残りかと思われたことだ。車山高原のホテルエリアにも閉業したホテルがいくつもあるのは、スキーブームがとうに遠ざかったせいだろう。全12室の小さなホテルはオーナーが交代したばかりで、新しいオーナーの若夫婦が細やかに接客してくれた。涼しいのが何よりの御馳走、草原を渡って来る風に吹かれながら飲むビールの美味しいこと! 部屋にはエアコンなど無し、夜は窓を開けていると肌寒いほどで、こんなところで育った人は京都になんぞ住めないね、と話したことだ。
 夜は本格的なフレンチをいただく。隣のテーブルの4人家族が、明日は白馬に登るので朝5時に出発しますと言う。白馬は標高2932mだそうだ。京都の大文字山にだってまともに登れない私は、登山とは一生無縁だろう。20年前に千日詣で上った愛宕山(924m)が自分の足で登ったわが人生最高登山なり。
 写真上はこの日の朝、ホテルの部屋から見た富士山。左は茅ケ岳(この山で百名山の深田久弥が亡くなりました)。中は東山魁夷の作品のモチーフとなった御射鹿池。下は車山山頂に咲いていたヤマハハコ。

IMG_5210 8月13日(月)晴れ。午前中、南牧村の八ケ岳高原ヒュッテへ行く。イギリス中世のチューダー様式のこの建物は、目白に会った尾張徳川家の邸宅を移築したもので、長年ホテルとして使われてきた。TVドラマの舞台となったこともあって、建物に見覚えがある人も多いのではないか。いまは春と夏休みだけ、レストランやカフェが営業、2階はギャラリーになっていて、木工や染織、アートフラワーなどの作品が置いてある。エリア内にはホテル高原ロッジや音楽堂があって、訪れる人も多いようだ。庭に出て白い花をつけたリョウブの木陰でソフトクリームをいただく。音楽堂は今年創設30年になるという。IMG_52131988年、リヒテルと武満徹のアドバイスにより竣工、設計は吉村順三。こけら落としにはリヒテルが来たという。その後、アシュケナージやペーター・シュライヤー、ミッシャ・マイスキー、ブーニンなどの海外組、千住真理子、山下洋輔、日野皓正、辻井伸行などの国内組をはじめ、多彩な顔触れによる演奏会が開催されている。今月も25,26日に天満敦子のリサイタルがあるとのこと。250席というホールは演奏者との距離も近く、非常に親密な雰囲気という。ここでの演奏会を優先するアーティストが多いそうだ。
IMG_2553 夜、ホテルのラウンジで地元北杜高校のギター部による演奏会が開催。毎年楽しみにしているもので、今年は2,3年生のみによる演奏会だった。来週横浜で開かれる全国大会に参加するそうで、その課題曲と自由曲を披露してくれた。優れた指導者のおかげで、高校生になって初めてギターを手にしたという子どもたちが素晴らしい演奏を聴かせてくれる。これが終われば部活もおしまい、という3年生が涙ぐむ姿も例年と同じで、こちらもつい目頭が熱くなった。

 写真上は八ケ岳高原音楽堂。中は八ケ岳高原ヒュッテ。下はホテルのラウンジで演奏する北杜高校ギター部。

IMG_5175 8月12日(日)晴れ。子どもたちが乗馬クラブへ出かけたので、娘と二人、気になるミュージアムへ行くことに。静養に来ているので、毎日出かけることもないのだが、部屋の清掃をしてもらうために午前中は留守にしたほうがいいのだ。まずは小海町にある高原美術館へ。安藤忠雄による設計建築で、白樺林の中にある。いまは「竹久夢二展」が開催中だった。竹久夢二はデザイナー、詩人、挿絵画家、装幀、独自の絵画と実に多彩な仕事を残していて、時代の寵児だったことがわかる。かかわった女性たちも彼にとって掛け替えのないミューズだったのだろう。各地をIMG_5179転々としながら独学でこれだけの仕事を成したのには驚く。なよやかな美人画だけの画家ではなかったのだ。時代の好みを先取りして雑誌の売り上げに貢献するなど、いまのようにタレントが満ち溢れる現代では想像もつかない活躍ぶりだったにちがいない。全国各地に竹久夢二ゆかりの場所やミュージアムがあるのが不思議でならなかったが、これで納得した。
 二か所目は原村にある八ケ岳美術館。ペンションや別荘が林の中に点在する高原リゾート地の一画にある。この村出身の彫刻家清水多嘉示の作品を収めるためにつくられたIMG_5190美術館らしい。あわせて民俗資料も置いてあり、八ケ岳の縄文土器や土偶がたくさん展示してあった。子どもたちのためのワークショップが開催中で、館内は賑やか。この美術館は建物の外観がユニーク。村野藤吾の設計で、連続ドームの形をしており、(例えは悪いが)まるで巨大な芋虫のよう。周辺にはいろんなアトリエがたくさんあるそうで、標高1350mの地はアーティストにはいい環境なのだろう。
 原村まで来たので、ついでに隣の茅野まで足を伸ばすことに。茅野市にある尖石考古博物館へ行く。国宝の土偶二IMG_5197つを持っているところだが、いま、両者は上野の博物館に出張中。館内にはレプリカが展示してあった。尖石考古博物館は想像したよりこじんまりしていたが、さすがに縄文に関する展示は充実していて、見応えがある。館内の土器つくり体験コーナーでは、十数組の親子が粘土と格闘中。火焔土器や仮面土偶などを手本に熱心に手を動かしている。縄文土器の魅力は、刻まれた文様を見ると、数千年前にそれを作った人がいたのだということが生々しく実感できることではないだろうか。数千年前に土をこねて複雑怪奇な文様をもつ土器を作った人が確かにいたのだ、彼らはIMG_5199何を考えながら、どんな思いでこんな奇妙な形をした土器をつくったのだろう。彼らがいて、命がつながったおかげで今自分がいる、ということを縄文土器は気づかせてくれる。
 尖石を出て、北杜市へ戻り、ついでに北杜市考古資料館へ寄る。ここでもたくさんの縄文土器、環状列石、土偶を見る。すっかり八ケ岳縄文文化に浸りきった一日でした。
 写真上は高原美術館の白樺林。中上は安藤忠雄設計の小海町高原美術館。中中は茅野市尖石考古博物館。中下は尖石博物館の国宝土偶「縄文のビーナス」(本物は上野に出張中なので、これはレプリカです)。下は展示された縄文土器。 

IMG_5172 8月11日(土)晴れ。子どもたちの希望で午前中、甲府行。なんでも武田信玄を祀る武田神社へ行きたいそうだ。折角涼しいところにいるのに灼熱の甲府盆地へ行くなんてと思ったが、近くに美術館や文学館があることを思い出して同行することに。武田神社は信玄の居城だったところにある。大きな鳥居のそばに「太宰治の愛でた桜」という案内版があった。太宰治は1939年1月から9月まで、新婚時代をこの地で過ごしている。ここで書いた作品に、武田神社の桜が登場しているという。井伏鱒二のサポートもあって死の淵から甦り、「富嶽百景」や「女生徒」など、この時期の作品には「明るさ」が感じられるようだ。IMG_5173その太宰は、今年が没後70年。若いころは誰もが一度は太宰病にかかるのではないか。だが麻疹のようなもので、成長するにつれて遠ざかる。それにしても時代を超えて好まれる文学者に東北出身者が多いのは何故かしら。宮沢賢治、石川啄木、太宰治・・・。神社のあと、美術館や文学館を回る。山梨県立美術館はミレーのコレクションで知られている。「種まく人」や「落穂拾い 夏」など、教科書で見た、と子どもは熱心に観ていた。
 帰途、毎年通っている乗馬クラブへ寄って、子どものために予約をいれる。「すっかり大きくなって、でも幼いころの面影はありますね」と倶楽部の主人に言われて、身長が180センチ近い子どもは照れ臭そうだった。明日は馬に乗り、一人で自由に森の中を散策するという。
 地元の新聞に「市立小諸図書館、一部業務民間委託の方針」という記事あり。職員確保が困難なため、蔵書の整理やフロア業務などを対象に、とのこと。昨日行った金田一春彦記念図書館にも、「図書館の仕事を手伝ってくれる運営ボランティア募集」の張り紙があった。どこも厳しい情況だなあと溜息が出る。

 写真上は武田神社にある太宰治の案内版。下は県立美術館。壁の写真はミレー。

IMG_5142 8月10日(金)晴れ。午前中、町の図書館へ行く。この町で夏を過ごしていた国語学者が蔵書を寄贈したことから、金田一春彦記念図書館の名をもつライブラリーで、「ことば」に関する資料と展示が豊富。入ってすぐのところに国語辞典がたくさん並べてあり、それぞれにニックネームがつけられ、イメージキャラクターが描かれている。定番は岩波だが、三省堂の明解あり、小学館あり、10種類ほどコンパクト辞典が紹介されていた。子どもたちが中学生になって最初に手にする辞典といえようか。ここで新刊書を眺めたあと、長坂の郷土資料館へ行く。清春美術IMG_5156館の向かいにあるスマートな建物で、町の歴史が判りやすくまとめて展示してある。いい学芸員がいるのだろう。ここは甲斐源氏発祥の地で、甲斐源氏の祖は源義光(新羅三郎)、その子孫が武田、逸見(へみ)を名乗ったそうだ。年表を見ると、9世紀末、壬生忠岑が陽成院の御使として甲斐に来る、という記述あり。また938年、甲斐の牧から京へ20匹の駒牽あり、とも。甲斐の黒駒は有名だが、平安京までの駒牽は大変だったにちがいない。駒牽といえば、大津の関清水蝉丸神社に紀貫之の「逢坂の関の清水に影みえて いまや引くらむ望月の駒」の歌IMG_5155碑があるが、甲斐の駒もこうして逢坂の関を越えたのだろう。
 資料館を出て、甲州街道の宿場台ケ原へ行く。ここにある七賢という酒蔵が美味しい糀のパンを出す、というので。ちょうど時分、アルコール分なしの甘酒や糀パンで軽いランチをとる。観光客がやってきては甘酒を飲んでいく。酒蔵特製のモッツレラチーズを買ってホテルへ戻る。
 夕方、横浜から娘たちがやってきたので、この日から夕食はバイキングとなる.。高校生の男の子はバイキングだというのに、ステーキや天婦羅、寿司などには目もくれず、甲州名物の「ほうとう」ばかり食べている。こんな客ばかりだと、ホテルはさぞ儲かることだろう。

 写真上は大泉町の金田一春彦記念図書館、中は台ケ原宿の七賢酒蔵。下は長坂の郷土資料館。八ケ岳一帯の歴史資料館は縄文土器の宝庫。

IMG_5043 8月9日(木)晴れ。長崎原爆忌。前日の雨が上がって、ホテルの部屋から浅間山がくっきりと見える。窓の外は池、その向こうにはゴルフ場のグリーンが広がっている。朝食の部屋も池に面していて、緑を見ながら行き届いたサーブを受けるのは旅の醍醐味か。食いしん坊としては毎日メニューが替わるのも嬉しい。 午後、軽井沢のホテルを出て八ケ岳へ戻る。途中、山岳ガイドのHさんに勧められた白駒池へ寄る。国道141号線の八千穂からメルヘン街道という名の国道299線に入り、ひたすら上っていくと、標高2100mの山中にある白駒池に着く。広い駐車場は満車に近く、中にツアーIMG_5055客用の大型バスも数台ある。こんなところまで団体客が来るのだと驚いたが、白駒池がある八千穂高原は蓼科や霧ケ峰、上高地と並ぶ人気スポットらしい。駐車場から池まで苔むした森の中を15分ほど歩く。足の調子がまだ完全ではないが、コメツガやダケカンバ、トウヒ、オオシラビソなどの林の中にしっかりとした木造の道が設置してあって、これなら安心と歩を進める。その道を小さなキャタピラ車がやって来るのには驚いたが、どうやら池の周辺にあるペンションや山小屋へ荷物を運ぶためのものらしい。苔の森は太古の世界を思わせるものがあって、もののけの森と呼ばIMG_5130れるのが頷けた。再び141号線に戻り、野辺山、清里を経て八ケ岳のホテルへ。ロビーにいたHさんに白駒池へ行ったというと、池を一巡りしたかと言う。足がこんなだから今回はパスと答えると、秋に再挑戦したらいい、紅葉がそれは素晴らしい、とのこと。
 白駒池の手前にある八千穂高原自然園で「シカの食害により消滅した高原植物」という掲示板を見た。ヤナギランやヤマユリ、マツムシソウなど10種類ほどの花の写真が貼ってある。シカによる食害は植物だけではなく、森の仕組みにも影響を与えているようだ。増えすぎたシカとどうIMG_5117共生していくかは全国的に深刻な問題で、京都も例外ではない。
 夜、ホテルのラウンジで星についてのレクチャーあり。このホテルは屋上に天体観測のドームを持っていて、深夜まで自由に見ることができるのだ。(早寝の私には無縁だが) 星の話のあと、シニアバンドによるオールデイズや懐かしいフォーク曲の演奏あり。メンバーは山岳ガイドのHさん、東京の精神科医Yさん、デザイナーのNさんの3人。この夜は浅草で活躍しているという女性2人が参加してボーカルとピアノを担当、なかなかのセッションでした。

 写真上はホテルの朝食。中上は部屋からの眺め。向かいに浅間山が見える。中下は標高2100mにある白駒池。下は白駒池への木道。この上をキャタピラ車が行き来していました。

IMG_5076 8月8日(水)曇り時々雨。前日から軽井沢へ来ている。今回は宿を駅の近くにとった。広大な敷地の中にホテルやコテージが点在している。したたる緑に包まれて、ホテルの中は静謐そのもの。この日は軽井沢駅から信濃鉄道で一駅隣の中軽井沢まで行き、駅舎と同じ建物の中にある図書館を訪ねる。この時期、町の住民だけでなく長期滞在の避暑客や旅行者の利用も多いのだろう。駅と同居という立地の良さもあってか、朝からかなりの人の姿あり。郷土作家コーナーに堀辰雄と室生犀星の写真があった。緑色の東洋文庫が揃ったコーナーもある。壁に「新しい世界文学IMG_5083へ」という軽井沢高原文庫のポスターを見て行くことに。高原文庫の館長は加賀乙彦、今回の夏季特別展は加藤周一・中村真一郎・福永武彦を特集するもので、三人の仕事が紹介されている。彼らは戦後この地でマチネ・ポエティク運動を始め、新しい文学の旗手となった。今年は中村・福永の生誕100年、加藤の生誕99年にあたるという。加藤周一のノートの文字の細かさに驚く。こんな緻密な文字列は南方熊楠以外に見たことがない。かつて彼の『日本文学史序説』を夢中になって読んだ者としては、なかなか立ち去り難い場所であった。
 IMG_5086このあと軽井沢駅前に戻って脇田和美術館へ。金沢にある石川県立美術館に脇田和の作品がかなりあって、以前、コレクション展を観たことがある。脇田家の出自が石川県ということから300点近い作品が寄贈されたらしい。好きな画家なので一度訪ねたかった美術館なのだ。住居を囲むように建てられた美術館は穏やかで静かな作品そのもの。二階の展示室にはグランドピアノがあって、時々演奏会が開かれる由。脇田和には児童のための作品もあり、いま再ブームの「君たちはどう生きるか」の初版本の挿絵は彼の手によるもの。生涯のモチーフとなった鳥が様々な容で絵IMG_5090の中にある。たっぷりと一人の画家の世界に浸れる、なんとも贅沢な個人美術館。その余韻を抱いてホテルへ戻る。軽井沢へ来ても銀座とよばれる賑やかな通りへは行かない。だが駅の南側に大きなショッピングモール(アウトレット)があって、そこはものすごい人出だった。
 この日乗ったタクシーの運転手の話。先日亡くなった作家の内田康夫さんは軽井沢に住んでいた、ドラマの舞台でこの町がよく出て来るが、TVドラマになると落ち着いてみることができない。場所の展開が不自然で、一瞬のうちに数キロ離れた場所に移動しているのが納得できないのIMG_5097で。今ここにいたのに、なぜ次の瞬間にあそこにいるの?と思うとドラマに集中できないそうだ。ああ、それなら京都も同じと応じる。
 この地に一軒だけある書店に行くつもりだったが、とうとう行きそびれてしまった。どこかで旅のお供を手に入れなければ。
 写真上は中軽井沢図書館の郷土作家コーナー。下は図書館がある駅の建物。下は高原文庫の庭に移設された野上弥生子の書斎。北軽井沢にあった別荘の離れ。下は展示されている加藤周一宛中野重治のはがき。下は脇田和美術館。

IMG_5015 8月6日(月)晴れ。広島原爆忌。朝、鳥の声で目が覚める。窓の外を見ると、高い木に野鳥の姿が見える。鳴き声はとりどり、だが名前がわからない。葉陰を飛び交う鳥の姿をカメラで撮影。午前中、明野町のひまわり畑を観にいく。一面のひまわり、少しずつ開花時期がずれるように植えたのか、満開のところもあれば、まだつぼみというエリアもある。風は爽やかだが強い日差しの中、夏休みのせいか親子連れ多し。このすぐそばに国史跡「梅の木遺跡」の看板あり。縄文時代の環状集落で、竪穴住居が復元されているという。八ケ岳は縄文の宝庫、とくに発掘された土IMG_5029偶や土器の多彩さには圧倒される。この日梅の木遺跡は見なかったが、滞在中、いくつもの歴史資料館に通って縄文土器に会ってきた。
 この後、清泉寮へ行き、自然ふれあいセンターを覗く。ここの展示は楽しい。動物たちのお尻が並ぶ壁には「だれかしりませんか」とある。シカ、キツネくらいならわかるのだが。名物のソフトクリームを食べながら木陰で一休み。標高1300mを吹きすぎる風は爽やか。椅子にもたれて読書をする人、眠る人、ペット連れの人多し。清里寮はもともと昭和13年、アメリカ人ポール・ラッシュがキリストIMG_5034教指導者を育成するための施設として創ったもの。彼はその後この地に教会をはじめ学校や医療施設なども建設し、「清里の父」と呼ばれている。上高地もそうだが、日本の山や避暑地となる高原は外国人によって開拓されたところが多い。しばし休憩のあとホテルへ戻る。途中、八ケ岳倶楽部に寄って、フルーツティをいただく。リンゴ、キーウイ、葡萄、イチゴ、レモンなど季節の果物入り。
 ●夜、持参した峠三吉の『原爆詩集』を読む。「にんげんをかえせ」、原爆だけではない、あの戦争で失われた310万もの命を思う。
 写真上は今朝の八ケ岳。いちばん高いのが赤岳2899m。中は俳優で野鳥の会会長の柳生博さんが営む八ケ岳倶楽部のギャラリー。屋根の緑がいい。下は倶楽部のカフェでいただいたフルーツティ。

IMG_4978 8月5日(日)承前。毎年夏のひとときを八ケ岳で過ごすようになって20年になる。3年目からは横浜に住む娘たちも合流するようになり、我が家における夏休みの定例行事となった。子どもたちはここで乗馬や渓流歩きを体験し、牧場の動物たちとの触れ合いを楽しむのだが、何年たっても虫が苦手なのは変わらない。この子たちの叔父さん(我が家の長男です)は子どものころ、真夜中懐中電灯片手に、自宅の庭で羽化する蝉を夢中になって観察していたものだが。さて、長野県と山梨県にまたがる八ケ岳の山麓は東から西まで高原リゾートが広がっている。いわく、佐久、八千穂、野辺IMG_4984山、清里、大泉、小淵沢、原村、蓼科、白樺、車山、霧ケ峰、八島ケ原、美ヶ原高原で、夏場はどこも県外ナンバーの車でいっぱい。我が家の定宿は大泉にあるのだが、今年は軽井沢や車山高原にも滞在する予定。朝6時に家を出る。盆休みにはまだ早いので、高速道路は渋滞なし。途中、伊那ICで降りて、高遠城へ寄り道をする。高遠城は桜で有名だが、この時期は人影もなく、駐車場も無料。空堀を渡り昭和11年建築の高遠閣を見る。蝉の声がかまびすしい。あまりの暑さに本丸跡へ上るのは諦めて、城の南側にある歴史博物館へ向かう。高遠は戦国時代、武田信玄が支配、江戸時代になって保科家の養子である保科正之が藩主となった。保科正之はのち会津に移り、会津松平藩の藩祖となっている。博物館の前庭に保科正之と生母静の像があった。言うまでもないが正之の父親は徳川家二代将軍秀忠。博物館の奥に絵島囲屋敷があった。絵島生島で知られる大奥物語の主人公だが、粛清事件でここに流罪となり27年間幽閉生活を送ったという。政争の犠牲者ではなかったか。
 高遠から杖突街道を経て国道20号線へ出、甲州街道を長坂まで走る。昼過ぎホテルへ入る。一年ぶりとて顔馴染みのフロントやラウンジの係の人たちがにこやかに迎えてくれる。誰もが「今年はいつもより暑くて」と申し訳なさそうに言うが、それでもこの日の気温は28℃。連日38℃の京都に比べると天国のようなものだが。何よりも湿気がないのが有難い。ホテル専属の山岳ガイドHさんが今年こそ山に挑戦しませんかと言うので、湿布した足を見せて、目下リハビリ中と応える。
 この日は雲多く、富士山も八ケ岳も南アルプスも霞の中。楽しみにしていたが、星も見えなかった。
 写真上は高遠城の旧大手門。下は復元された絵島囲屋敷。 

DSC08844 8月5日(日)晴れ。昨日の午後、用事をすませに町へ出て、ついでに古本屋を覗いたり、文具店に寄ったりして歩き回ったせいか、今朝、怪我をした方の足がまた腫れている。実にいやあな感じ。久しぶりの外出でつい油断したのがいけなかった。毎回書いているのだが、今年の京都の暑さといったら、まるでオーブンの中にいるよう、町を歩いているのは観光客ばかりで、四条河原にいつものような賑わいはない。今年も8月6日、9日、15日が近づいてきた。毎年夏になると読み返す本がある。福田須磨子『われなお生きてあり』(ちくま文庫)と高見順『敗戦日記』(文春文庫)。野呂邦暢の『失われた兵士たち』は折に触れ。今年出た鴻上尚史『不死身の特攻隊 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書)は9回出撃して9回とも生還を果たした特攻兵の話。二度目からは「必ず死んで来い」と言われ続け、それでも毎回奇跡的に生還した。優秀なパイロットだった本人は「死ななくてもいいと思う。死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させる」とひそかに念じ、戦果をあげながら生き延びるのだ。こんな兵士がいたなんて、と驚いた。「特攻が続いたのは、硬直した軍部の指導体制や過剰な精神主義、無責任な軍部・政治家達の存在が原因と思われますが、主要な理由のひとつは、「戦争継続のため」に有効だったからだと僕は思っています。戦術としてはアメリカに対して有効ではなくなっても、日本国民と日本軍人に対しては有効だったから、続けられたということです」と著者は述べている。悪しき精神主義、これはなかなかなくなりませんね。安岡章太郎は日本の軍隊の体質は戦後教育の場に残ったーー整列、号令、悪しき精神主義・・・と言いましたが、戦後73年経ったいまも、スポーツの世界にはこの精神主義が生きているようです。
 いま朝の4時、西の空にひときわ大きく赤い火星が輝いています。
 さて、今日からしばらく京都を留守にします。今回の旅のお供は向こうで手に入れることにします。では行ってきます。

IMG_4976 8月3日(金)晴れ。40日に及ぶ籠居生活を慰めてくれたのは本と音楽、TVドキュメントなどであった。何しろ外出できないので、買い物のほとんどはネットでということになる。これまで以上にネット依存となったのは仕方がない。デパートのオンラインショッピングを毎日のように利用した。本は通常通り、新刊案内を参考にAmazonで。毎日のようにポストに本が届くのは楽しいことだったが、月末の請求書がいささか怖い。CDは繰り返し同じものを聴いた。BACHとMOZART全集。もちろんブラームスも。ブラームスの曲の中には、ときどき胸を締め付けられるような気分にさせらるものもあって、病気のときに聴くのは考え物である。だが今回は外科ということもあって、諦念、諦観なんぼのものじゃ、という気分であった。音楽も読書といっしょで、現代のものには全く不案内なので、聴くのは専ら古いものばかり。そういえばボブ・ディランの来日公演があったと聞いたが、いつのことだったのだろう。(7月29日、新潟県苗場で開催されたフジロック・フェスティバルに出演したそうです。ラストソングはもちろん「風に吹かれて」)。
 足の怪我の経過がいいので、日曜日から予定通り遠出を敢行することにした。足首をテーピングして大きめのスニーカーを履くつもりだが、これではお洒落はできそうにない。まずは安全第一で行くことにします。

IMG_4973 8月2日(木)晴れ。朝、芭蕉の『奥のほそ道』を開き、今日はどこまで行ったやらと確かめることにしている。今日は新暦8月2日、旧暦の6月17日で、芭蕉は象潟にいた。「その朝天よく晴れて、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に船をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす」と「おくのほそ道」にあるように、この日芭蕉は象潟遊覧を楽しみ、西行ゆかりの桜木を見ている。暑いといっても芭蕉のころ、気温が38度を超すということはなかっただろう。京都はここのところ、連日38℃超えが続いている。
 ●渡辺京二『原発とジャングル』(晶文社)を読む。去年の熊本地震被災記も印象的だが、後半の短い評論、交遊録がいい。なかでも橋川文三について書いたものに心惹かれた。渡辺京二さんは「吉本隆明と橋川文三は私の大事な先生となった方だが、二人に出会うまで自分は中野重治と花田清輝の文章にいかれていた」という。吉本隆明と橋川文三に会って、それまでの日本の文人にない新しさを感じたという。その後渡辺さんは編集者として橋川文三と交流があり、その後もすくなからぬ縁が続いたようだ。「この人の書くものには、決して私を突き放さない心のひろさがあった。にもかかわらず、私はつねにこの方に言い知れぬ悲哀と断念のようなものを感じて来たのだった」と書く著者自身も同じ思いをある時期抱いていたのではないか。「辛酸と憂悶は人事のつねであって、ことさら言うべきものではないと覚悟しておられたと思う」、それはそのまま著者の胸のうちを語る言葉ではないかと私は読みました。
 あまりの暑さに冷房の効いた部屋にいながら頭が動かない。乏しい思考力は低下し続けて、このままでは読むのは可能でもハガキでさえ書けそうにない。まだ8月は始まったばかりというのに、どうなるのやら。
 写真はこの日の夕方、京都の西山に広がる夕焼け。シルエットの山は右から愛宕山、小倉山、嵐山、です。

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 8月1日(水)晴れ。S子に付添ってもらい、出町座まで映画を観に行く。出町柳商店街の中に小さな映画館が誕生したのは去年の暮れのこと。客席40の会場が二つ、一階には書店とカフェが入り、なかなかお洒落な空間が生まれた。これまで行く機会がなかったが、話題作「タクシー運転手」が面白そうだというので、S子に付添いを頼んで出かけてきた。この日は月初めの映画の日ということもあって、満員。若い人が多いのは夏休みの大学生たちか。1階の書店(書棚)の品揃えもなかなか面白そうだが、時間がなくてゆっくり見ることができず。映画館がある出町商店b910b81935746fa4街は小さな通りだが、そこに古本屋がいくつもあるのには驚いた。京都の古本屋地図もずいぶん変化しているのだろう。
さて、映画だが、予備知識無しで出かけたのがよかったのか、ただただ驚いた・・・。時は1980年の韓国、戒厳令がしかれ、粛軍クーデターが起きるなどの激動期に、光州で民主化を求める20万人規模の市民デモが起きる。軍は市民に発砲し徹底的に制圧するが、外部には一切その事実を伝えなかった。光州事件に関して私は詳しい知識を持たない。長いこと箝口令が敷かれ、闇に葬られたままではないかと思っていたが。主人公は人のいいソウルの個人タクシー運転手。彼がお金のためにドイツ人ジャーナリストを事件現場の光州まで案内するという話だが、辿り着いた光州で異常な光景を見たジャーナリストは残って取材をするという。真実を世界に知らせなければというジャーナリスト魂が彼をかきたてたのだろう。また現地で出会った人々が自分を犠牲にしてもジャーナリストを守り、彼に真実を伝えるよう頼むのだ。気のいいだけの主人公が命がけで現場に戻り、ドイツ人記者を空港まで乗せていくシーンはまさに手に汗にぎる活劇そのもの・・。これは実話をもとに作られたもので、昨年韓国では観客が1200万人を超える大ヒットとなったという。政治的な思惑はどうあれ、映画はよくできていた。制圧現場を見、自分も暴行を受けた主人公が、真実はどちらにあるかを悟り、ドイツ人記者を安全な地へと運ぼうとする、その心の変化が自然に描かれていた。わが身の危険も顧みず、義によって助太刀いたす、という心持といえようか。映画は淡々とジャーナリストや主人公のタクシー運転手の目に見えたものを映し出していく。38年前にこんなことがありました、それをどう捉えるかは観た人がそれぞれ考えることだと監督はいいたかったのかもしれない。タブーとなっている事件をテーマに一級の娯楽作品を作るなんて、と感心させられた映画でした。

IMG_4962 7月30日(月)晴れ。昨日小沢征爾が9か月ぶりに指揮をしたというニュース。昨秋から心臓の病で仕事から遠ざかっていたが、長野で開催中の自らの音楽塾の演奏会で急遽指揮をしたというもの。予定になかったので、演奏する塾生たちも会場の聴衆たちも大喜びだったそうだ。指揮をしたのはベートーヴェンの弦楽四重奏曲第16番。聴きたかったなあ。昨春、京都のロームシアターでオペラ「カルメン」が上演されたとき、最初の部分だけ指揮をするのを観たが、そのときもずいぶん衰弱した様子だった。意気軒高ではあるが、体の方はずいぶん弱られたなあと心配したものだ。家に籠っている間、せっせとCDを聴き、本を読んでいた。まあ、普段も同じようなものだから退屈に思うことはなかったが。
 ●川本三郎『「それでもなお」の文学』を読む。あとがきに「七十を過ぎた評論家として、いま相反するふたつの気持ちがある。ひとつはもう年齢なのだから現代の作家からは身を引いて、昔の作家の作品だけを読んでいたい。他方、こうも思う。まだこの時代に生きているのだから、現代作家の新しい作品も読んでいたい。この相反する気持ちが交じり合ったところに、本書がある」とあり、思わず頷いてしまった。日頃、私も同じようなことを思っているからだ。自分のアンテナが錆びたせいで、現代作家の新しい作品をキャッチすることができなくなっている。そうなるとどうしても慣れ親しんだ古いものを手に取りたくなる。こちらは言葉がまだ通じる・・という感じがするからだ。年はとりたくないが、昨日も『芭蕉文集』を読んで心安らかに一日を過ごした。芭蕉が死に際して、家族や弟子、友人たちに書き遺した手紙を読むと、芭蕉の心の細やかさが伝わる。彼があれほどみんなに慕われた理由がわかる気がするのだ。川本さんは相反する気持ちを抱きながらも古いものも新しいものもきちんと読んで、その良さを記している。ここでも野呂邦暢の「諫早菖蒲日記」に触れてあるのが嬉しい。川本さんは野呂邦暢が亡くなった後、折に触れ野呂文学の良さをPRしてきた方である。地味な野呂文学が忘れられることなく本好きの読者を引き付けているのには、川本さんの文章の力によるところ少なくない。
川本さんの新刊書を読み、紹介された本や作家のレパートリーを見て、今回初めて荒川洋治や池内紀に重なる匂いを感じた。でも「悲しみを抱きしめる」川本さんの評論はやはり独自のもの、いつまでも元気で書き続けてもらいたいものです。

IMG_4961 7月23日(月)晴れ。朝4時ごろ西の空に真っ赤な星が見えた。ipadのsky Guideで見ると火星なり。今年は火星が最も地球に近づく年だという。昨日の夕方は、日没直後の空に金星、木星、土星が並んで見えた。このsky Guideは便利で、現在の星空の様子が表示されるので、あの星はなにかが一目瞭然。刻々と変化する星空をゆっくりと追うことができる。とはいっても夜10時前には就寝してしまう私が夜空を見上げることなど滅多にないのだが。その代り朝は早いので、まだ暗い空に輝く星と対話することができるのです。
先だってNHKのBS放送で、訪問診療医の姿を追ったドキュメントを見た。今年80歳になる小堀鷗一郎という医師で、東大病院で外科医として活躍したあと、埼玉県新座市のある病院に赴任、在宅医療に携わって350人余の看取りをしたという。病院で亡くなる人が圧倒的に多い中、この医師は自宅で最期を迎えることができるよう患者や家族をサポートし、細やかに手を尽くしている。放送後、●小堀鷗一郎『死を生きた人びと』(みすず書房)を読んだ。TVのドキュメントは訪問診療のいくつかを紹介するものだったが、本には30件ほどの実例と在宅死の問題点が詳しく記されている。TVドキュメントでは、臨終を迎える患者(老人)とそれを見守る家族の姿が克明に画面に映し出され、日頃、死に行く人を身近に見る機会がない視聴者はギョッとしたのではないだろうかと思われたほど。最後は病院でと思ってはいるが、条件さえあえば自宅で自然死を迎えたいと願う人は少なくないだろう。末期ガンの場合は緩和ケア、ホスピスがある。だれもが自分が望む死に方で逝きたい。そのためには訪問診療医や看護師が地域にいてくれなければ困るだろう。全盲の娘が老いた父親を自宅で看取る、という超難度のケースをも、この医師は細やかな支援をしてやりとげさせるのである。小堀鷗一郎という医師は、その名から推察されるように、鷗外の娘・小堀杏奴の長男。看取るのは家族といい、最後の瞬間には家族の背後でひっそりとそれを見守るだけ。死は医療の敗北ではない、日本の医療は延命優先だが、果たしてそれが患者のためになるのか、鋭く問われていると思った。いかに死ぬか、漠然としていたがそろそろ考えておかなければ、死はもうそんなに遠いものではないのだから。
 ガンを患ったら終末期は鳥取の野の花診療所で過ごしたい・・・と思っているのだけど。

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