2019年01月

IMG_6868 1月22日(火)曇り。これまで富山へは何度も出かけたが、その殆どは氷見、高岡、砺波、立山方面で、県央富山市を歩いたことはなかった。今回初めて富山市内を散策し、いくつものユニークな施設に会った。前日訪ねた県美術館もそうだが、町の中心繁華街にある市立図書館本館にも驚いた。まずその外観のユニークなこと。きらきらとしたガラス板に覆われた建物で、名付けて「TOYAMAキラリ」。その中にガラス美術館と図書館が同居している。建物の中は地元産のスギ材がふんだんに使われ、各階の柱は鏡で覆われている。上階まで吹き抜けでエレベーターで上がりながら、各階の様子を見ることがIMG_6875できるのだが、内部の造りに目を奪われて、なんとも落ち着かない。ようよう郷土資料のコーナーへたどり着き、富山ゆかりの文学者に関する資料などを見たのだが、ガラスと鏡と木に囲まれてしばらく目が回りそうだった。設計者は現在建設中の新国立競技場と同じ隈研吾。ふんだんに木を用いるのがこの人の特徴か。
 館ではちょうど「ジブリの大博覧会」が開催中で、吹き抜けのフロアに大きな飛行船の模型が展示されていた。

 北陸は雪と覚悟して完全防寒で来たら、立山連峰は真っ白でしたが、町には雪はなく肩すかしを食ったようでした。ホテルの人もこの時期雪がないのは珍しいと言っていました。

 写真上は富山市立図書館の外観。下はその中。1階、3~5階が図書館。中央吹き抜け部分にジブリの飛行船が展示されていました。


IMG_6829 1月22日(月)晴れ。京都を朝8時41分発のJR特急サンダーバードで富山行き。サンダーバードは金沢までなので、そこからは北陸新幹線か私鉄に乗り換えなければならない。新幹線だと20数分で着くが、旧在来線だと50分かかる。新幹線ができる前は大阪発サンダーバードは富山が終点だった。新幹線ができて在来線は第3セクターとなり、金沢ー富山間はIRいしかわ鉄道とあいの風とやま鉄道が運行するようになった。新幹線ができると在来線は切り捨てられる、という見本だが、IRもとやま鉄道も踏ん張っているらしい。この日は急ぐ旅でもないし、何といっても倶利伽羅IMG_6854駅を通りたいというので、新幹線ではなく各駅停車の旧在来線で富山へ向かう。倶利伽羅峠は石川(加賀)と富山(越中)の県境にある。『平家物語』や『源平盛衰記』に登場する源義仲と平維盛との「倶利伽羅峠の戦」の地。この戦で源義仲は松明をくくりつけた牛を敵陣に放ち敵を壊滅させたとされている。芭蕉が愛した義仲ゆかりの地ゆえ、見過ごすわけにはいかない。駅には倶利伽羅峠の戦いの案内板と角に松明を付けた火牛像があった。
 富山駅に到着後まずは県美術館へ向かう。2017年に新館がオープンしたとき、かなり話題になった。ガラス張りの大IMG_6837きな建物で、運河公園のそばにある。この日は常設のコレクション展と美術評論家東野芳明展を見る。常設展には今回所蔵品の中から、ロートレックやピカソが出ていた。また富山出身の瀧口修造の展示室もあり、彼に贈られたいろんな作家たち(ミロやデュシャン、池田満寿夫など)からの作品がびっしりと並んでいて、思いがけない眼福を祝った。建物の内部にはふんだんに木が使われ、明るく広々とした館内は実に居心地がいい。女性館員のユニークな制服姿にも目を引かれたが、2017年3月にオープンしてから9か月後の2018年1月に入館者が100万人に達したというから驚く。集客力には館内のレストラン「日本橋たいめいけん 富山店」が大いに寄与しているという。東京で大人気のオムレツが食べられるというので、100万人の来館者の半分はレストランがお目当てらしい。金沢にある県立美術館も同様で、来館者の半分は館内にあるカフェ(有名なパティシエがやっている)が目的なのだ。ミュージアムへ足を運んでもらうには、展示企画もさることながら、魅力的な何かがなければ、と思わせられたことだ。
 写真上は倶利伽羅駅。源平合戦図と火牛像がありました。中は富山県美術館。下はポスターや本、絵画などの作品を紹介するタッチパネル式の大型ディスプレイ。

IMG_6777 1月20日(日)雨のち曇り。大寒。訃報が相次ぐ。市原悦子さん。若いころ、俳優座の舞台で彼女を何度か観た。いちばん記憶に残っているのは「セチュアンの善人」。あの声の素晴らしいこと、あれを上回る女優さんにまだ出会っていない。梅原猛さん。京都の友人たちと秘かに「寂聴さんと梅原さんのどちらが先か」と言い合っていたものだが。京都に来た年(1995)の5月、日文研で梅原さんの退官記念の講演を聴いた。梅原さんが日文研の初代所長に就任したのは1987年のこと。この日の演題は「哲学と私」というもので、「大学では西洋哲学を学んだが、その後日本の古代史に憑かれた。退官後は自然の本質を見据える環境と回帰の哲学を創造したい。私は最期まで哲学者でありたい」という言葉が記憶に残っている。その通り、氏は混迷する時代に光を与えるような哲学を生み出すべく語り続けて来られたと思う。心の底に哀しみを抱いて。15日には影書房の主・松本昌次氏が亡くなった。未来社の編集者を経て影書房を創立、全13巻の『戦後文学エッセイ選』を出版。2008年に出た聞き書き『わたしの戦後出版史』(トランスビュー)は貴重な記録。
 
 写真は15日、祇園の新年会で、芸妓章乃(ふみの)さん。それは艶やかです。祇園の芸舞妓さんたちが7日の始業式から着用している黒紋付は、この日が見納め。髪にさした初穂を一粒ずつ千社札で包んだものを「お守り」にいただきました。 

IMG_6804 1月18日(金)曇り。北山の京都工業繊維大学で開催中の「南方熊楠~人、情報、自然」を見に行く。これは2017年に東京の国立科学博物館で開催された「南方熊楠ー100年早かった智の人」展をもとに構成されたもの。東京での展覧会を見る機会がなかったので、楽しみに出かけた。展示物はこれまで田辺や白浜の資料館で目にしたことがあるものばかりだったが、熊楠の仕事が現代とどうつながるか、彼の思考がいかに時代を先取りしていたかがよく解る展示となっていたのが嬉しい。
 帰りて●玄侑宗久『竹林精舎』(朝日新聞出版)を読む。東日本大震災で両親を亡くした青年が出家して宮城の寺に入るという話。青年にはやはり僧侶となった友人がいて、彼との再会、恋人との再会など、若者らしい悩みや心の揺らぎが描かれている。しかし何より重いのは、原発事故による放射能汚染に悩まされる地元の人々のありようである。土地を離れざるをえない人、行き先のない人、数字に怯え、疑心暗鬼になる人たちの様子が描かれている。福島県三春の禅宗寺院の住職でもある著者にとって切実な問題を書いたものだろう。深刻なテーマだけに、読みやすいように恋物語と重ねてあるが、主人公の煩悩の部分はなくてもよかったかと、これは年寄りの感想です。 

IMG_6815 1月17日(木)晴れ。「あなたはあの時どこにいましたか」。1995年1月17日、私は諫早の自宅にいた。「神戸で大地震」というラジオの声に驚いてTVを点け、大惨事が起きたことを知った。その日は一日、仕事も手に着かず、TVの前から動けなかった。長崎大水害で300人近い犠牲者がでた時、文明社会の現代にこんなひどいことが起きるなんてと呆然としたものだが、阪神淡路大震災では6434人もの人が犠牲となった。その一人一人にそれぞれの人生があり、家族がいただろうと思うといまなおやりきれない。もうこれほどの災害はあるまいと思っていたが、16年後には東日本大震災が起きて2万人近い人が犠牲となった。わが国は戦後の73年間、再び戦争をすることなく平和な歳月を過ごしてきたが、自然災害を避けることはできなかった。阪神淡路大震災の2か月後、京都へ移り住んだ私は、京都の町が実に平穏なのに驚いたものだ。その後、神社仏閣で倒れた灯籠や仏様を見て、平穏ではなかったと知ったのだが。あれから24年になる。このブログは2006年のこの日に始めた。足の指を骨折して外出がままならぬ中、わが身の無聊を慰めるために始めたもの。最近は怠けがちだが、「長崎育ちの京都徘徊記」、きままな読み書き歩きを「ぼちぼちいこか」で綴りたいと思っています。
 写真は北山新宮神社の境内で見かけたタラヨウ(多羅葉)の実。葉の裏に文字が書けるので、この木は葉書の木とも呼ばれています。 

IMG_6787 1月12日(土)曇り。読書初には平安時代の貴族の日記を読んだのだが、ついでに『断腸亭日乗』や『富士日記』、『敗戦日記』などにも目を通す。●斎藤美奈子『日本の同時代小説』(岩波新書)を読了。帯に「純文学もノンフィクションも、ケータイ小説も、一冊でわかる! みんなの〈同時代文学史〉」とある通り、ここ数十年間に書かれた小説が紹介されています。即ち1960年代から2010年代までに世に出ておおいに読まれた小説を紹介し、それがどんな社会背景のもとに書かれたかを記したもの。ベストセラー本が多く取り上げられているのは、それがどんな時代に読まれたかを分析するためだろう。テンポよく、また歯切れのいい彼女らしい文章で、一気に読んだが、共感しながらも「そこまで言うか」というところも無きにしも非ず・・。いわく、

 「旧世代が長く信奉してきた文学(近代文学)とはどのようなものだったか。日本の文学の主人公たちは、概してみんな内面に屈折を抱えた「ヘタレな知識人」「ヤワなインテリ」でした」
 「桑原武夫の『文学入門』は岩波新書の一冊としていまも版を重ねているが、現役をとうに退いた骨董品と考えたほうがいいでしょう」
 「佐伯一麦、南木佳士、車谷長吉、西村賢太など、私小説に特化した純文学作家は何人か出ていますが、それは絶滅危惧種に指定されたカブトガニの生き残りのようなもの」
 
 などなど。純文学と大衆文学の違いについて書かれた下りに、昔中村光夫と廣津和郎の間で交わされた「How to live(いかに生きるか)」「What is life(人生とは何か)」論争を思い出しました。著者は2010年代をディストピアの時代と捉え、今後の日本文学に未来はあるかという問いには、「君たちはどう生きるか」がヒットしたこと、そこに希望を託しているようです。

2014_0103_102411-P1030016 1月9日(水)曇り。山は雪。今年届いた年賀状の中に、「賀状は今年限り」と書かれたのが数枚あった。いずれも老いを理由にとあったが、去年還暦を迎えたMさんは「十干十二支を一巡したのでこれを区切りとして」と書いていた。但しそれに続けて「今後はメール、フェイスブック、ツイッターにて発信しますのでよろしく」とある。私はフェイスブック、ツイッター、ラインの類はやらない(できない)し覗くこともないので、いささか寂しい。
 夜、食事会。Kさんが「今日は旧暦12月4日、藤原道長の命日ですね」と言う。道長は万寿4年(1027)12月4日に61歳で亡くなった。いまから992年前のことである。彼の歌にちなんで「望月忌」というのはどうかしら、などと言いながら鍋をつつく。
 帰宅後、宇田智子『市場のことば、本の声』(晶文社)を読む。那覇の公設市場の向かいに間口75センチの小さな古本屋を営む女性のエッセイ集。数年前、この人の『那覇の市場で古本屋ーひょっこり始めた〈ウララ〉の日々』(ボーダーインク)という本を読み、今度沖縄へ出かけたらぜひ訪ねてみようと思ったものだ。(その後沖縄へは行ったのに、ウララ書店には寄らないで帰って来た。休みだったのかしら、もう記憶にない) 沖縄の本屋と図書館ほど郷土資料が豊富なところはない。京都も似ているが、沖縄は突出している。著者は地産地消ではないが、そういう沖縄の本を大事にしていきたいのだろう。
 写真はお正月のお菓子「花びら餅」。ごぼうと味噌餡入り。古く宮中でお正月に行われた歯固めの儀で使われたもので、近年は初釜で出されます。

IMG_6754 1月8日(火)晴れ。昨日明日香村で見た都塚古墳が気になって倉本一宏『蘇我氏』(中公新書)を読み返したら、ちゃんとこの古墳のことが記されていた。いはく、欽明31年(570)に亡くなった蘇我稲目の墳墓とみるのが有力ではないか、と。この古墳は40m余の方墳で、高さが4.5m以上ある。しかも階段状のピラミッド型をした極めて珍しい形の古墳なのだ。私は石室に置かれた家形石棺ばかり見て、古墳の形には気がつかなかった。石棺の石材は二丈山産というから、滋賀県近江高島の鴨稲荷山古墳のものと同じ。
 朝、つけっぱなしにしているFMラジオからブラームスの交響曲4番が流れてきた。30年前の1月8日も一日中、この曲が流れていたっけ。いわゆるXデイにはこの曲をということになっていたのだろう。その前からお祭りは自粛、お笑いも自粛という日々が続いていたから、Xデイのブラームスはその仕上げだったのかもしれない。荘厳ミサ曲でもなく、だれやかれやのレクイエムでもなく、ブラームスの交響曲4番だったとは。
 7日正月も過ぎたので、正月飾りを片付け、食器類をしまう。毎年のことだが、塗り物の器を仕舞うとき、子どもたちにも一枚ずつ布で拭かせながら母がよく言ってた言葉を思い出す。「あと何回これができるのかねえ」――当時の母の歳をとうに過ぎた私も、毎年同じことを思う。

 写真は明日香村にある我が国最初の寺院飛鳥寺の本尊飛鳥大仏(釈迦如来像)。飛鳥寺は蘇我馬子が発願し、推古4年(596)に創建された。飛鳥大仏は我が国最古の仏像だが、火災など傷つき、幾度も補修されたらしい。ただ最古の仏様だということは確かで、説明してくれた寺の僧によると「1400年前に聖徳太子や蘇我馬子が拝んだ仏様がいまもここにおられるのです」。

IMG_6734 1月7日(月)晴れ。明日香村へ行く前に、橿原神宮へ初詣。神武天皇を祀る神社で今年は紀元2679年。まあ神話の世界だがここが国のはじまり、ということになっている。大きな絵馬の前で記念撮影。本殿の周り、広大な境内は黒々と葉を繁らせた樫木の森に囲まれて、足元には夥しい数の団栗が落ちている。ふと見ると白い装束姿の神官たちの行列が過ぎた。尋ねると「今日は昭和天皇のご命日なので、式年祭遥拝を行うのです」とのこと。そうか、今年は平成31年、あれからもう30年になるのだ。昭和64年は1週間しかなかった。橿原神宮を出て明日香村へ。この日はタIMG_6722クシーで定番の石舞台、岡寺、飛鳥寺などを回る。石舞台へ行く前、運転手さんが近くの都塚古墳へ案内してくれた。石舞台は封土も中の石棺もなく、積まれた石だけの剥き出しの古墳だが、ここは封土も石棺も残っていて石室の様子を見ることができる。運転手さんは細い坂道を上って、明日香村が見渡せる上居という所にも案内してくれた。柿畑の中の急勾配の狭い道を登るときは、車が落ちはしないかとハラハラしたが、確かに眺望は素晴らしかった。遠くに葛城、金剛山、二丈山が、近くに畝傍、甘樫丘、香久山が。そして眼下に石舞台や棚田、明日香全体が広がIMG_6742り、こここそ国のはじまり、という気がする。ここにはまだ未発掘の古墳もあるのではないか、でも発見したとしてももう開けたりしないでほしい。そっと未来へ遺してほしい。今は判らなくても、未来に解明できるということもあるだろうから。高松塚の壁画の現状を思うにつけても、開けないでねと思う。
 岡寺、飛鳥寺と廻り、昼過ぎの近鉄電車で京都へ戻る。

奈良はのどやか、京都の町は工芸品のようだが、奈良は自然でおっとりとしている(ように見える)。山辺の道や葛IMG_6693城古道はいつ歩いてものどかで、かつ色濃く歴史を感じさせる場所だし、記紀や万葉集を手に何度でも訪ねたくなる。この日も帰宅後『万葉集』をひもとき、ひととき古代に思いをはせた。

 いつもお正月休みが終わり、子どもたちが引き揚げたあと、のんびり骨休みに出かけるのだが、今年は奈良の仏様に会えてよかった。奈良のお寺は仏さま、京都のお寺は庭、とよく言われるが本当にそうだ。

 写真上は明日香村。遠くに二丈山、左下に石舞台が見える。中上は都塚古墳石室。中下は岡寺。下は前日訪ねた唐招提寺にある芭蕉の句碑。「若葉して御目の雫ぬぐはばや」 鑑真和上の開山堂前で。

IMG_6649 1月6日(日)曇り。子どもたちが引き揚げて、静かな日常が戻る。久しぶりにつれあいと奈良行。まずは去秋301年ぶりに再建なった興福寺の中金堂へ行く。701年、平安遷都と同時に創建されたお堂で、何度も焼失再建を繰り返し、1717年焼失したあと仮堂はあったものの本格的な再建はなされなかった。昨年秋の落慶法要の様子をTVの特集番組で観たが、荘厳な中にも華やかさがあって天平へのこだわりが伝わるようだった。再建なった中金堂は堂々たるもので、特に建物を彩るさびのある朱色がいい。この日はお正月ということで厨子の扉が開けられており、色鮮やかな吉祥天を拝観することができIMG_6653た。中金堂には法相宗の祖師14人の僧を描いた柱がある。無著・世親菩薩、玄奘三蔵、慈恩大師、玄昉僧正などで、描いたのは京都の日本画家畠中光亨氏。
 私は興福寺北円堂にある無著菩薩像が大好きなのだが、ここの扉が開くのは春と秋の数日間のみ。この日は国宝館で八部衆(阿修羅像など)や十大弟子像をじっくりと見て来た。八部衆や十大弟子像のお顔は現代人そのもの。なにかを堪えているような真摯な面持ちはいまなお新しい。
 興福寺から東大寺へ回り、大仏様にも新年の挨拶を。参道には鹿と遊ぶ外国人観光客が目立つ。大仏殿の前に「修正会」の看板があった。東大寺前からはタクシーで西ノ京へ向かう。薬師寺では薬師三尊にお参りし、平山郁夫の壁画IMG_6688を見る。10年前から解体修理中の東塔は建屋の中だが、もう組み上がっているらしい。来年の春には落慶法要というポスターが掲示されていた。興福寺の中金堂といい、薬師寺の塔といい、修復や再建には膨大な費用と歳月、人力が要る。これまで繋がってきたものを後世にも護り伝えていくためにどれほどの献身が必要か、溜息が出た。過去を未来に引き継ぐのが現在を生きる者の義務だと判っているのだが。
 薬師寺から唐招提寺へ。京都の神社仏閣に比べると人影少なく静かなこと。西ノ京へ来てようやく新年を迎えたという清々しい気分になる。鑑真和上の御身代り像が安置さIMG_6699れた開山堂では僧侶たちが読経の最中。その声を遠く聴きながら広い境内の中をゆっくり巡る。いつもは網戸越しにしか拝観できないが、以前、ここの金堂が開かれ廬舎那仏や千手観音、薬師如来などのお像を間近に観たことがある。何のときだったかと寺の人に尋ねたら、「観月讃仏会のときでしょう」とのこと。誰といっしょだったか漠として記憶にないが、闇の中に仏様が浮かび上がって、それは厳か、かつ幻想的なものだった。今年の観月讃会には出かけてみようかしらん。
 西の京から近鉄電車で橿原へ向かう。午後4時前に橿原のホテルへ入る。部屋の窓から畝傍山とふたこぶらくだのような二丈山が見えた。二丈山の山頂には悲運の皇子、大津皇子のお墓がある。

 写真上は興福寺中金堂。中上は中金堂の法相柱。中下は薬師寺近くのお寺。土塀も門の瓦屋根もぐずぐずで半壊状態というか、その寂れぶりはお見事。下は唐招提寺。

IMG_6635 1月2日(水)晴れ。子どもたちに誘われて近くの社に初詣に行く。神社の帰途、御池通の神泉苑へも初詣。去年の台風で潰れた恵方社が辛うじて立ち上がっていた。今年の恵方は東北東とのこと、節分にはその方角を向いて太巻寿司を食べることになるのだろう。(この風習は関西だけかと思っていたら、最近は全国各地でも行われているらしい。コンビニが盛んに宣伝しているからでしょうね)。帰宅後みんなで百人一首のカルタ取りに興ず。子どもたちが小さいころは専ら坊主めくりだったが、今やそれぞれが自分のおはこを持っていて、その歌が読まれるのをそわそわと待っているのがいじらしい。去年も書いたかしら、私のお気に入りは「ありま山 ゐなの笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」(大弐三位)。紫式部の娘が詠んだ歌です。
 TVで大学駅伝や大学ラグビーの試合を観戦。海外からの年賀メールに返事を書き、喪中の友人たちに寒中見舞いのハガキを書く。携帯電話に届いた写真付きの年賀メールを嬉しく眺める。

 写真は神泉苑の歳徳神。今年の恵方東北東を向いています。

IMG_6625 1月1日(火)晴れ。穏やかな年明け。暮れに帰省した子どもたちと賑やかに新年を迎える。お節料理を前に年の順にお屠蘇をいただき、今年の抱負を語るのも例年に同じ。家族が増えて暮れからずっと台所に立ちっぱなしとはいえ、手のかかる幼児はいないので、ずいぶんと楽になった。子どもたちが初詣に出かけたあと、読書始。これも例年通り、千年前の平安古記録『御堂関白記』と『小右記』の寛仁3年(1019)元日条を読む。
「一日、己未、四方拝如常、家拝礼、未時許摂政被来、是可来彼家拝礼人々遅来云々、而尚不来者、禮了参大内、供IMG_6592御薬、小朝拝等如常、入夜節会初、左大臣内弁」とは『御堂関白記』にある藤原道長の日記。3年前、娘彰子が産んだ敦成親王が9歳で即位し後一条天皇となった。道長が「この世をば我が世とぞ思ふ望月の」と詠んだのはその2年後のこと、去年の秋がちょうど千年目にあたる。摂政を長男に譲って隠居した道長はこの年の3月出家している。もう一つは右大将藤原実資の日記『小右記』の元日条。「正月一日、己未、四方拝云々、今年摂政無臨時客之儲云々、依坐近處、未剋許参入、先是被参大殿云々、仍参内、参上殿上、卿相同候、前太府出従大盤所、坐殿上、・・・」ほぼ道長と同じ記述だが、実資の日記はこのあとも長々と続き、節会に出席した公卿らの名前を記し、内弁の作法の違いを指摘したりと細かい。同時期に書かれたいくつかの日記を読み比べると、千年前の貴族たちの様子がよくわかる。
 夜、『断腸亭日乘』を読む。たまたま開いた昭和16年(1941)正月1日のくだりは、「風なく晴れてあたたかなり。炭もガスも乏しければ湯婆子(ゆたんぽ)を抱き寝床の中に一日をおくりぬ。昼は昨夜金兵衛の主人より貰ひたる餅を焼き夕は麺麭と林檎とに飢をしのぐ。(中略)去年の秋ごろより軍人政府の専横一層甚だしく世の中遂に一変せし今日になりて見れば、むさくるしくまた不便なる自炊の生活その折々の感慨に適応し今はなかなか改めがたきまで嬉しき心地のせらるる事多くなり行けり」とある。荷風は不便な生活にも哀愁の美感を覚えるといい、「かくのごとき心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とてもこれを束縛すること能わず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり」と記している。戦争前の不穏な時代を荷風はこのように生きたのだ。
 
 写真上は元日朝7時ごろの愛宕山。下は和気清麻呂を祀る護王神社の絵馬。

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