2020年09月

2036_1018_102112-IMG_0771 9月24日(木)曇り。朝10時、ホテルを出て京都へ戻る。途中、遠回りして加悦へ寄る。ここに蕪村の「夏河を越すうれしさよ手に草履」の句碑があるのだ。丹後は蕪村の母親の生地で、蕪村もこの地に逗留して絵を描き、句を詠み、あちこちに足跡を残している。手に草履を持ち、着物の裾をはしょって河を渡る蕪村の姿が目に浮かぶよう。国道沿いに真っ白な花が咲いた蕎麦畑を見る。そういえば蕪村に「故郷や酒はあしくとそばの花」という句があった。酒はあまりよくないが、おいしい蕎麦がある故郷はいま、蕎麦の花が盛りの時。早く故郷へ帰りたい・・・という気持ちが伝わる句。信州、北海道、蕎麦の産1600851101203地で見た蕎麦畑を思い出す。北海道のそれは文字通り「みはるかす」真っ白の・・・だった。
 途中、丹波の道の駅に寄り、キノコや栗、黒豆、枝豆などを購入。栗は初物でした。

 写真上は真っ白に花をつけた蕎麦畑。下は昨夜、夕食時に試した丹後のお酒。丹後の地酒が10種類セットになった利き酒セットです。それぞれ味わいが異なり、10杯合わせて300ml。私はそのうち3種類をいただきました。

IMG_2523 9月23日(水)曇り。台風12号が東へ逸れたので、予定通り丹後へ出かける。マンションの水道工事でこの日は一日断水というので、緊急避難することにしたのだ。春から自粛していたので、久しぶりの外泊。舟屋がある伊根で昼食をとろうというので、朝9時過ぎに出発す。京都縦貫道で亀岡、八木、園部などを過ぎるとき目を凝らしたが、今年は彼岸花が少ない。所々にポツンと赤い色があるのみ。宮津天橋立の一つ先にある与謝天橋立で縦貫道を降り、与謝の海沿いの道を伊根へ向かう。沿線の店に人影なく、休業中らしき店が目立つ。道IMG_2527中寂れた風景を見て沈んだ気持ちになっていたが、伊根に着くと舟屋に人多く、賑やかなのに驚いた。道路や駐車場が整備され、海岸沿いに新しい食事処や宿ができている。伊根はいまや人気の観光地なのだ。海を見ながら早速お目当ての魚料理をいただく。
 もう20数年も前になるが、初めて伊根を訪ねた日がちょうど八坂神社の祭礼の日だった。この祭は豪華な船屋台が出ることから海の祇園祭ともいわれている。また神輿を乗せた船渡御が行われることでも有名で、私が訪ねたときは船渡御が行われたあとだった。舟屋と舟屋の間の細い路地に長いテーブルが並べられ宴会中の町の人たちを眺めることになったのだが、その開放感がなんとも心地よかった。当時の光景を思い出しながら舟屋の道を歩いてきた。
 4連休のあとでホテルは宿泊客も少なく静か。4連休は半年ぶりに超満員だったという。あまりにも久しぶりのことで、スタッフの勘が戻るのに時間がかかって途惑ったとのこと。アルバイトや派遣社員はやめてもらったので人出が足りず、大わらわだったそうだ。だが元に戻るのにはまだ時間がかかるのではないか。
 写真上は丹後半島伊根の舟屋。下は天橋立。夜になると天橋立にイルミネーションが灯りました。週末には花火が上がるそうです。

1600593332255 9月21日(月)晴れ。爽やかな一日。古びた国旗を玄関に掲げた家あり。そうか、今日は旗日(敬老の日)なのだ。ポストに「国勢調査書類」が入っている。コロナウイルス対策のため対面による配布は中止、回答もインターネットか郵送でとのこと。これまでは自治会の役員が各戸を訪ねて配布回収していた。留守宅が多いと大きな負担となっていたから、今後もこの方針でやってほしい。
 ようやく秋らしくなってきた。散歩の途中でみかける草木に秋の花が増えてきた。昔の人も花を愛でたようで、『枕草子』67段には「草の花はなでしこ、おみなへし、桔梗、あさがほ、かるかや、菊、壺すみれ、竜胆は枝さしなどむつかしけれど、こと花どものみな霜枯れたるに、いとはなやかなる色あひにてさし出でたる、いとをかし」とある。『徒然草』139段にも、「草は山吹・藤・杜若・撫子。秋の草は、荻、薄(すすき)、桔梗、萩、女郎花、藤袴、紫苑、吾亦香、刈萱、竜胆、菊、蔦、葛、朝顔。いずれも、いと高からず、ささやかなる、垣に繁からぬ、よし」とあって、当時の人たちがどんな花を愛でていたのかがしのばれる。いまも同じ、ですね。
 写真は昨日の夕焼け。いま秋の彼岸で太陽は真西に沈みます。ちょうど嵐山と松尾山の中間あたりでしょうか。毎日こんな夕日を見ていると極楽浄土は近いという気になります。わざわざ天王寺に庵をかまえて西方浄土を夢見た藤原家隆に、京にいても山越の阿弥陀様は拝めますよ、と教えてやりたい気がします。ちなみに右端の高い山は愛宕山(891m)。あの明智光秀が「時はいま あめが下知る 五月かな」と詠んだ所です。

 2012_0922_095510-P92200209月19日(土)晴れ。朝の風が心地よい。ベランダに出るとはっとするほど肌寒い。先週までの暑さはどこへいったかと思われるほど。今日は秋の彼岸入り。我が家のお墓は九州にあるので、彼岸にお墓参りはなかなか叶わない。甘党だった義父のために仏壇に大きなおはぎを供える。
 午後、嵯峨野を散策、広沢の池周辺を歩く。後宇多天皇陵から嵯峨天皇陵へと続く小径を行く。向かいに嵐山、その前に広々と嵯峨野の田圃が広がる。「時は秋 日は午後 午後は2時・・・神空にしろしめす すべて世は事もなし」という気分。色づいた田圃の畔に彼岸花が咲いている。年々花が少なくなっているような気がするが、どうなのかしら。清凉寺(嵯峨釈迦堂)近くまで来ると、観光客に交じって墓参の人の姿が目につく。「人に言えない仏があって 秋の彼岸の回り道」などという人もいるかもしれませんね。
 今日は旧暦8月5日。「おくのほそ道」の芭蕉と曾良はこの日、山形の酒田にいた。三日前、酒田から象潟へ北上した二人は、8月3日に再び酒田へ戻り、1週間ほど滞在している。酒田には豪商も多く、俳諧も盛んで、芭蕉たちは歓迎されたのだろう。曾良の随行日記には何度も歌仙をまいたことが記されているが、「おくのほそ道」には象潟のことは詳しく書かれているのに、酒田のことは「酒田のなごり日を重ねて、北陸道の雲に望む」とだけしかない。2年前、初めて酒田を訪ねて芭蕉の足取りを辿った。最上川の河口近くにある日和山にのぼり、旅姿の芭蕉像や「暑き日を海に入たりもがみ川」の句碑を感慨深く眺めた。だがこの時の山形への旅で一番印象に残っているのは藤沢周平文学館(鶴岡)と土門拳写真館(酒田)である。またゆっくり訪ねたいものだ。

 

IMG_20200921_143548 9月17日(木)曇り。「ちくま」10月号が届く。表紙に描かれた女性はメイ・サートン。表紙裏にメイについての小林エリカの文章がある。「サートンは作品の中で同性愛を告白したことで大学での職を失う。その後、パートナーのジュディと35年間人生を共にし、やがてジュディの認知症が進行し衰えて別居に至る。日記ではいつも自分の小説に対する批評が酷いこと、作品がきちんと評価されないことを嘆き続ける。メイは不当な扱いを受ける。どん底まで突き落とされる。孤独になる。けれどどんな困難を前にしても、不死鳥のようによみがえる。その回復の過程こそが、何にも代えがたい作品として結実してゆく」。全くその通りだと思う。メイが残した日記を読むと、自分はアメリカの文学界ではアウトサイダーなのだ、としばしば嘆いているが、それでもつぎつぎに新しい詩をつくり、小説を書く。不死鳥こそ、メイ・サートンに相応しい、彼女の墓碑は不死鳥なのだ。
 午後、オンラインで平安古記録演習。午後5時半。講義の途中で早退す。この春、京都の女子大生になったA子らと祇園で食事会。入学式もないまま、学生マンションでオンライン授業を受けていたA子が、月曜日ようやく大学の門をくぐったというので、そのお祝いに。14日、初めて大学へ行ったというA子、早速友人ができたと嬉しそうだった。まだ講義の殆どはオンラインで、対面授業は週に2回ほどだそうだが、ようやく大学生になったという気分だという。ゼミ生の中には、週一回の対面授業のために京都に部屋を借りるのは辛いというので実家住まいを続ける人もいるそうだ。大学もこんなご時世なので学生の内情に配慮しているのだろう。
 この日いただいたのは牛肉の懐石料理。メニューによるとこの日提供されたのは長崎牛だった。蔵を改装した個室の二つの壁はワインセラーになっている(蔵の床下もワインセラーだった)。手入れの行き届いた日本庭園に面した部屋もあったが店内は実に静かで、この日、店の客は私たち1組のようでした。
 写真は「ちくま」10月号。

2013_0923_103603-P9230006 9月14日(月)晴れ。朝、窓から吹き込む風が昨日までと違った。昨日までは室内と外の温度は変わらなかったーー却って外気の方が生暖かかったーーが、今朝は涼しく感じられた。やや、これであの猛暑ともお別れかと嬉しくなる。このまま秋本番となってくれるといいのだが。
 朝の涼しい時、運動不足解消のため二条城の周りを散策す。朝顔、百日草、サルスベリ、向日葵、ヤブランなどの花を見かける。お濠にはカモやアオサギの姿が。土手にピンクのツルボの花が群れて咲き、その花の間をセキレイが忙しく行き来している。ついこの前まで真っ白の花を咲かせていたネズミモチはもうびっしりと実をつけている。街路樹のハナミズキの実が赤く色づいているのを見て、どんなに暑くても季節は移っていることを知る。水尾ではフジバカマの花が咲きだすころだろうか。アサギマダラも花を待ちかねているにちがいない。例年、9月末ごろ水尾でフジバカマ鑑賞会が開催されるのだが、今年はあるのだろうか? ようやくハギの花も咲きだした。
「秋風ははやはや吹き来芽子(はぎ)が花 散らまく惜しみ競ひ立つ見む」(万葉集 2108)
秋はやはりハギなのでしょうね。
 写真は鴨川のミヤギノハギ。 
 


IMG_2510 9月13日(日)雨のち晴れ。寺町のギャラリーヒルゲートへ開催中の「司修展」を見に行く。このギャラリーは水上勉ゆかりの画廊で、最近も水上勉の水彩画展があった。司修や安野光雅の小品展もしばしば開かれて、ここで安野光雅の小さな水彩画を贖ったことがある。作家が会場に来てギャラリートークをやることもあり、数年前には司修さんの話を聴いた。その時は本の装丁作品が中心で、小川国夫の本に提供された作品がたくさん出ていた。今回は「絵本との関係2020」というタイトルで、絵本の原画が中心。鮮やかなパステル画や油絵を楽しみながら見た。
 夜、『断腸亭日乗』を開く。昭和15年5月16日条に「余は日本の新聞の欧州戦争に関する報道は英仏側電報記事を読むのみにて、独逸寄りの報道、また日本人の所論は一切目にせざるなり。今日の如き余が身に取りては列国の興亡と世界の趨勢とはたとへこれを知り得たりとするも何の益するところもなくまた為すべきこともなし。世は唯胸の奥深く日夜仏蘭西軍の勝利を祈願して止まざるのみ」とあるのを見て、渡辺一夫(だったか)の戦時中の日記にも同じような文章があったことを思い出しました。  
 写真は司修「どんぐりと山猫」。

IMG_2502 (2) 9月11日(金)晴れ。大丸のギャラリーで開催中の「有元利夫版画展」を見る。没後35年を記念したもので、会場で作品を見まわして、もう35年も経ったのかと思う。没後、新潮社から出た『有元利夫全作品』を大事にしているのだが、この日展示されたエッチングも作品集の中にあった。忘れていたのは「一千一秒物語」。稲垣足穂の短編集にあわせて制作されたものだが、値段は7桁。いまだにすごい人気のようだ。有元利夫展で忘れられないのは、滋賀県の佐川美術館で開催された展覧会だ。会場には幕が巡らされ、照明が落とされた暗い室内に絵だけが浮かび上がる。会場には画家が好んだバロック音楽が静かに流れ、客はたっぷりと有元ワールドに浸るという趣向だった。39歳での死はあまりにも早すぎると思われたが、彼の作品はその何倍も生き続けるに違いない。
 夜、『断腸亭日乗』を開き、昭和12年9月の条を読む。9月9日の条に、前日母親が亡くなったことが記されている。享寿76。「泣きあかす夜は来にけり秋の雨」「秋風の今年は母を奪いけり」という二句あり。この年、荷風は58歳。ふと、自分の母を見送ったときのことを思い出した。もう10年になるが、まるで昨日のことのよう。years roll by, and memories stay as near and dear as yesterday・・・(歳月は過ぎゆくも、思い出は昨日の如く我が胸にあり・・・。)

IMG_20200911_141806 9月8日(火)晴れ。台風10号は無事に通過。京都にはあまり影響はなかった。九州の友人たちは夜中暴風に怯えたそうだが、早くから備えていたこともあり被害は少なかったとのこと。年々異常気象が拡大し自然災害が多発しているのはやはり温暖化のせいかしらん。自然と折り合いをつけて暮らしていくにはどうしたらいいのだろうと思いながら、奥本大三郎の『蝶の唆え』(小学館)と『本と虫は家の邪魔』(青土社)を読む。前者は「現代のファーブルが語る自伝エッセイ」で、後者は対談集である。どちらも実に楽しく、読後心が広々となる。思うに奥本ファーブル大三郎と初めて出会ったのは『虫の宇宙誌』(青土社 1981年)ではなかったか。以来、40年近く、この人の本を楽しく読み続けてきた。博覧強記、エスプリに富み、古今東西広い世界からの言葉の数々、子どものころの長い療養生活中にルビ付きの古い本を読み漁ったせいで、まるで荷風か漱石の時代の人かと思われるような(気品のある)文章を書く。仏文学者にして虫屋、それが昂じて千駄木に「ファーブル昆虫館」を開館、昆虫のための森を創る活動も続けている。古希を過ぎても子どもの心を失わないーーいや昆虫の心を失わない人か。
 『蝶の唆え』のあとがきに「人間は道具を造り出して進化したと思われているけれど、実は道具を得て退化したのである」とあって、全くと頷いてしまった。携帯電話を所持するようになって自宅の電話番号はもちろん、身近な人の電話番号は忘れてしまった。同じように、パソコン(ワープロが始まり)で文章を書くようになってから漢字を忘れてしまった。どんどん脳が退化して、そのうち猿以下になるのではないかしらん(サルに悪いかも)。最近はもう開き直って、頭に残っているものだけでいい、何でもどんどん忘れていいのだと思うようにしている。
 我が家にもかつて家族を心胆せしめた虫愛ずる姫がいましたが、成人したら普通のヒトになりました。でも片鱗は残っているようで、ときどき蛾をうっとりと眺めたりしています。

IMG_2500 9月6日(日)雨。一日家に。九州の友人より電話あり、「かつて経験したことがないほど大型の強い台風が接近中というので、庭を片付けている所」と言う。マンション住まいの別の知人は、雨戸がないから窓にテープを貼ったとのこと。みんな未知の事態に戦々恐々というところ。京都の我が家も例外ではないが、いまのところ風雨はなく、穏やかな日和なり。台風に備えて食料品もたっぷり買い込んだので、今日は一日籠城して相変わらずの読書三昧。古いノートを開いたら、こんな歌に会った。
「かの時に我がとらざりし分去れの 片への道はいずこ行きけむ」
美智子上皇后がかつて詠まれた歌。誰もが人生のどこかで、一度はこんな心境になったことがあるのではないか。私も一度ならず「片への道はいずこ行きけむ」という気持ちになったものだが、だからといって後悔はしなかった。武蔵ではないが、「我事において後悔せず」である。もっとも反省することは多いのだが。古いノートに転記された『昭和万葉集』の歌も紹介しておこう。
「世の中の記者の如くになりにしと 阿容(おもねり)の記事我は書きつつ」(北田寛二)
戦時下に詠まれたものだが、まるで忖度政治がまかり通る今を表しているようではないか。コロナ禍の世の中の様子はまるで戦時下のよう。島根県でコロナに感染した高校生たちがさんざん非難され罵詈雑言を浴びたという。島根から出ていけと言われたというので、いつからこんなことになったのかと情けなくなった。病人には何よりも「大変でしたね。お大事に」というのが先ではないかしらん。
 写真はsuina室町にある大垣書店の店内。「晶文社60周年記念フェア」と「出版社在庫僅少本フェア」が開催中。僅少本はみすず書房の本が中心でした。
 

IMG_20200911_141734 9月3日(木)曇りのち雨。台風9号が西九州に。
●岡村幸宣『未来へ』(新宿書房)を読む。副題の「原爆の図 丸木美術館学芸員作業日誌」が示す通り、埼玉にある丸木美術館学芸員の日誌だが、その内容の濃さに驚かされる。丸木位里・俊夫妻による原爆の図を展示するために創られたこの美術館は、小さいがその役割は実に大きいということをこの本に教えられた。この本には2011年から2016年までの日誌が収められている。一読して美術館の企画展の充実していること、また、「原爆の図」はじめここの収蔵品がひんぱんに各地に出品されていることに驚かされる。巻末に企画展・巡回展のリストや日誌に登場する人のリストが収められているが、その多彩さは感動的。2015年にアメリカで原爆の図の巡回展が行われ、12月にはニューヨークのパイオニア・ワークスで開催中の「原爆の図展」が、ブルックリンのアートシーンの年間第二位に選ばれている。1970年に「原爆の図」が初めてアメリカで展示されたとき、「ニューヨーク・タイムズ」には、「程度の悪い美術品よりもっと悪い。ある目的をもってつくられた芸術作品は、作者が真剣だからとか、意図が重要だからということで、正当化されるわけにはいかない」という酷評が載ったという。それから45年、時代は移り、評価は確実に変わっているようだ。展覧会には、ベアテ・シロタ・ゴードン(戦後日本国憲法の制定に関わった)の娘のニコルさんや、トロント在住の被爆証言者サーロ節子さんなども来た、とある。サーロ節子さんは、原爆投下を指示したトルーマン大統領の孫クリフトンさんと共に、アメリカで学ぶ外国の学生たちに話をしているという。
 埼玉の東松山にあるこの美術館に一度だけ言ったことがある。子どもたちがまだ小学生だったから、ずいぶん前のことになるが、壁いっぱいに展示された原爆の図に圧倒され、頭がくらくらしたのを覚えている。子どもたちはもっぱら、美術館のそばを流れる川で遊ぶのに夢中だったが。
 私立美術館のいいところは、お金はなくても自由に思うような運営ができることだろう。ここもボランティアに支えられている部分が大きいようだが、企画展の充実ぶりには目を見張るものがある。いつか再訪してみたい。

1598961114945 9月1日(火)晴れ。夜、鴨川の床で食事。コロナ騒ぎで足が遠のいていたが、このまま夏が終わるのは寂しいというので、久しぶりの床。思ったより川風が涼しく、おそれていたほどの暑さはない。午後7時ごろにはようやく黄昏て、東山の稜線がくっきりと浮かぶ。今夜は14夜、ほぼ真ん丸の月が上がるはず。去年の今頃もこの床で食事をしながら、「月の出を 仰ぎて待つや 鴨の床」という句を詠んだところ、友人のSさんから、「季語が二つもあるからダメ」と却下された。いくらダメといわれても気分はそうなんだもの。
 食事のあと、木屋町の立誠小学校跡に新しくできたホテルのラウンジへ寄る。8階にあるラウンジからは東山が見渡せて、清水寺の三重塔や八坂の五重塔が手に取るように見える。レストランの一部はオープンエリアになっていIMG_20200901_174707て、これなら三密の心配はない。京都には新しいホテルが次々に誕生しているが、コロナのせいでしばらくは苦戦するのではないかしら。でも烏丸御池近くの新風館跡にできたホテルは隈研吾の設計で、なかなか斬新。中庭に小さな緑の森があって、町なかにいることを忘れそうになる。今夜訪れた木屋町高瀬川沿いの立誠小跡に出来たホテルも、校舎跡に図書館や集会所などが併設されていて、この夜も人工芝の広場(グラウンド跡)には若いカップルが何組も飲み物片手に寛いでいた。二つのホテルに共通しているのは、地域に開かれているとことだろうか。同じ建物の中にいろんな店舗が同居していて、一つの街のような賑わいを生じている。日常的に訪ねる場所の一つになりそうなのがいい。
 安倍総理が病気のため辞任するという。この人が8年近い長期政権を続けることができたのは、ただただ野党の力が弱かったからではないか。森友・加計問題をはじめ、桜を見る会の問題も曖昧なまま、官僚も司法も首相におもねる忖度政治がまかり通るというひどい状況を解決できなかった。数の力で無理を通す、これが本当の民主主義かしら、三権分立が絵空事でありませんように。これで何もかもが有耶無耶になったりしませんように。
 写真上はゲートホテルのラウンジからの眺め。14夜の月が東山から上がりました。下は鴨川の床。向こうは三条大橋です。

IMG_20200830_191307 8月31日(月)晴れ。八月の晦。「古今和歌集」の夏歌の最後は、「みな月のつごもりの日よめる」という前書きで、「夏と秋と行きかふそらのかよひぢは かたへすずしき風やふくらん」(みつね)。今日はみな月のつごもりではないが、せめて歌で「かたへすずしき風」を感じたいと思って。今日は旧暦7月13日で、旧盆入り。芭蕉は元禄7年の6月に江戸の芭蕉庵で亡くなった寿貞尼を悼んで「数ならぬ身とな思ひそ玉祭」という句をおくっている。玉祭とは旧暦7月13~16日に先祖の霊を祭る盂蘭盆のこと。寿貞尼と芭蕉の関係は不明だが、浅からぬ縁があった女性だろう。寿貞尼が亡くなったとき、芭蕉は江戸にはいなかった。伊賀上野から京、膳所、大阪に滞在していたのである。そしてまた芭蕉もこの年の10月に病に倒れてこの世を去ることになるのだが。
 今年はコロナのせいで、お盆の行事も半分、子どもたちともオンラインで話しただけ、なにもかも例年とは異なる形となったが、まだこのような事態に慣れることができない。外へ出るとマスク、どこへ行ってもマスク姿ばかりで少しも寛げない。だが、昨晩は友人たちと嵐山の「廣川」へ鰻を食べに行った。食事を終わったころ、思いがけなく窓の外に花火が上がってびっくり。なんでも「コロナ禍に負けず頑張ろう」というので、嵐山で打ち上げられたものという。数十発の花火が夜空に開くのを間近に見ることができて、晴れやかな気持ちになりました。
 写真は携帯電話で窓越しに撮った、もう散りかけの花火です。

IMG_5233 8月27日(木)晴れ。7月5日のブログ(「夏越の祓」)に丸山健二全集が頓挫、ということを書いたが、今月24日の日経新聞に、「丸山健二、自身の「出版社」から新作」という記事が載った。版元の強い熱意があって全100巻の全集刊行に踏み切ったが、売り上げが伸びず刊行中止となったことで、人任せではなく自分の手で本を出そうと決心したという。出版社の名は「いぬわし書房」。この秋、出す新刊小説「ブラック・ハイビスカス」は手製本でヤギ革の装丁という豪華本、全4巻で2400ページ超、値段は10万円とのこと。限定50セットの予約販売で、予約が30に満たない場合は発行を見合わせるという。既に26件の予約があるそうだ。自分の手で自分の本を出すという作家の夢を実現させることができるか。丸山健二は「半世紀かかったけど、今でよかった。権威とも権力とも関係ない、真文学を日本に芽生えさせるーーそのための出版だ」。彼の作風が変わったと思われる頃、そのターニング・ポイントとなったのは1987年に出た「惑星の泉」ではないかと作者本人に問うたことがある。作家は微苦笑を浮かべて「そうかなあ」としか答えてくれなかった。もう30年も前のことである。
 写真は茅ケ岳と富士山。昨夏撮影したもの。去年の夏は八ケ岳のホテルの窓から毎日この眺めを楽しんだものですが。
「ステイホーム どこへも行けず 夏過ぎぬ」(朱雀) 
 
 

IMG_20200827_094645 8月26日(水)晴れ。面白い本を読んだ。馬部隆弘『椿井文書ー日本最大級の偽文書』(中公新書)。近畿地方の貴重な史料として学校教材や市町村史にも活用されてきた多くの文書が偽物だった。中世の絵図や家系図、手紙など、これまで歴史史料として扱われてきたものが、江戸後期の国文学者椿井政隆によって作られた偽書だったーーこれまでもその真贋を指摘する歴史家たちはいたが、偽書を根拠に書かれた市町村史までまとめて指摘したものは初めてという。歴史学の基本は真正な古文書から過去の姿を復元していくこと、ゆえに偽文書は厳密に排除されなければならない、と著者は云う。だから多数の研究者が当たり前のように偽文書である椿井文書を使うのが納得できないのだろう。何故このような偽文書が作られたか、作成方法や伝播の仕方などが詳しく記されていて、興味深く読んだ。あらまほしき家系図を望む人間やあらまほしき由緒が欲しい寺社仏閣があって、それに応えて書かれたものの多いこと。古い史料を写したということにしているので、紙が新しいのはごまかせる。いやはや考えたものだ。歴史家の五味文彦は偽文書について、「江戸後期や終戦時など人々が自らの由緒を求めた時期に偽文書は増える傾向にある。偽文書は作られた時代の空気を反映している。時代的背景を探る意味は大きい」と語っている。
 さて、ここで偽文書の引用を指摘された市町村史や郷土史はどう対応するのだろうか、知らん顔でこれまで通り、わが町の歴史を語るのだろうか、素人の読者はそこが気になります。

IMG_7150 8月25日(火)晴れ。旧暦7月7日の今日は七夕。さて「おくのほそ道」の芭蕉と曾良は、前日の7月6日に直江津に到着。その夜は直江津の連衆による俳筵興行に出席して、芭蕉は「文月や 六日も常の 夜には似ず」と詠んだ。芭蕉には「七夕や 秋を定むる 夜のはじめ」という句もあるが、こう猛暑続きでは、夜になってもとてもこんな感はない。今年は8月7日が立秋だったが、風の音に驚くどころか、あまりの暑さを嘆くばかりだった。
●高山羽根子の「首里の馬」を読む。先日芥川賞を受賞した作品。いろんなイメージを積み重ねたお話で、思い付きの意外さで読者を驚かせる。主人公は在野の民俗学者が作った島の資料館で働きながら、ときどきオンライン通信で離れた場所にいる未知の人間にクイズを出すという仕事もしている。沖縄の歴史が語られるが主題からは遠く、主人公の視点はどこか宙に浮いた感じ。孤独と閉塞感に包まれた主人公がいかにしてそこから抜け出すか。最後は台風の日に庭に迷い込んだ宮古馬を乗りこなし、消えゆく資料館に収められたすべての情報を保管して、過去と未来をつなぐ日がくるかもしれないことを予感させて終わる。近年、新しい小説から遠ざかっているのだが、正直言って心弾む読書、というわけにはいかなかった。もう一度読み返したら、また別の読後感があるかもしれない。
 写真は芙蓉の花。

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