2021年11月

IMG_4865 11月26日(金)晴れ。午前中、古文書読み。終わったあと、迎えに来たS子の車で大原野へ行く。前日、S子に大原野神社の紅葉の話をしたら、ぜひ見たいというので案内することになったのだ。大原野は京都市西京区、小塩山の麓近くに広がる田園地帯で、ここに藤原氏ゆかりの大原野神社がある。784年の長岡京遷都の際、藤原氏の氏神である奈良春日神社の分霊を勧請したもので、平安遷都のあと、藤原冬嗣が社殿を造営して大原野神社と名付けた。藤原氏の勢力が盛んだったころは多くの信仰を集め、皇族・貴族たちの参詣や奉幣が相次いだといIMG_4872う。藤原道長(『御堂関白記』)や実資の日記(『小右記』)にもたびたび出てくる二十二社の一つ。いまは静かな里の社という感じだが、境内には清和天皇産湯の清水という瀬和井があり、本殿前には狛犬ならぬ狛鹿があって、ゆかしい歴史を感じさせる。奈良の猿沢の池を模して造られたという鯉沢の池の畔にある茶屋でお団子つきのコーヒーをいただく。境内には結構な人出あり、驚いたことにその中に白無垢姿の花嫁が三人もいて、撮影スポットでは三組のカップルが代わる代わるカメラに収まっていた。この日ここで神前結婚式を挙げたものやら、それとも前撮りというものなのか。そのうち社殿裏からぞろぞろとハイカーたちが現われて驚いたが、どうやら小塩山から下りてきた人たちらしい。大原野神社のすぐ上には西行桜で有名な花の寺勝持寺があり、さらにそこから登っていくと、「秋夜長物語」に出てくる金蔵寺がある。小塩山の山頂には、墓などつくらず遺灰はこの山に撒くようにと遺言して亡くなった淳和天皇(786~840)の御陵がある。この帝はいわば散骨・散灰の嚆矢となる方といえるのではないか、京都市内から遥かに西山を遠望してはいつか自分も海に・・・と願っているのですが。
 写真上は大原野神社。下は狛犬ならぬ狛鹿。

IMG_4860 11月25日(木)晴れ。25日は北野天満宮の天神市、21日の東寺の弘法市へ行けなかったので、こちらを覗いてみる気になった。ちょうど天満宮から紅葉苑の案内が来ていたので、ついでに紅葉も楽しもうという魂胆。天神さんへ行くのは久しぶりのこと、天満宮が近づくと、通りに人が増え、ガイドに引率されたツアー客や修学旅行生の群れが目立つ。境内を埋める出店の数は以前に比べると少し減っているようだが、これはコロナがまだ完全に収まっていないせいだろう。一通り店を冷かしたあと、御土居の紅葉苑へ。お土居は1591年に豊臣秀吉が築IMG_4852いた京都を囲む土塁で、総延長22・5キロ。東は鴨川、西は紙屋川、お土居の外側には川やお濠があった。現在は市内各地にいくつかその跡が残るだけだが、この天満宮のお土居は構造がよくわかり、当時の様子が偲ばれる。紅葉は例年に比べるといま一つという感じだったが、(今年は雨が少なかったせいか、どこの紅葉も色に鮮やかさが足りない。茶色のまま枯れている所が多い)それでも満足した。
今月に入り、喪中のため年賀欠礼のハガキが毎日のように届IMG_4858くようになった。親御さんを見送ったという友人たちのハガキをみると、故人は殆どが90代、なかには100歳を超えたという方もいる。長寿国日本は嘘ではないのだ。しかし団塊の世代が90代を迎えるころはどうなるか・・・若い世代がギブアップしなければいいのだが。
 写真上は久しぶりの天神市。中はお土居上の紅葉。中央の大きな欅は豊臣秀吉お手植えの木と言われています。(これも3年前の台風21号でずいぶん傷ついて、枝が疎らになりました)。下は苑内紙屋川の紅葉。
 

IMG_4822 11月20日(日)承前。東大路から泉涌寺への坂道を上っていくと、御寺の手前に今熊野観音寺がある。以前、見事な紅葉を見た記憶があったので未景展へ行く前、このお寺へ立ち寄ってみた。京都の神社仏閣は3年前の台風21号で甚大な被害を被っている。平野神社の拝殿が潰れ、醍醐寺では寺域内の3000本もの樹木が倒れた。先日訪ねた法然院でもその被害の大きさを教えられ、愕然としたものだ。建物を包む樹々が疎らになって以前の景観が失われた所が少なくない。今熊野も例外ではないようで、紅葉の重なりが薄いという感じがした。それIMG_4823でも見ごろを迎えた紅葉は美しく、境内に出された床几は客でいっぱいだった。今熊野観音寺は西国三十三観音霊場の第15番札所。参拝者の中には巡礼中の人もいたのではないか。
 帰りて●藤原辰史『縁食論 孤食と共食のあいだ』(ミシマ社)を読む。著者は農業史・食の思想史を専門とする研究者で、いまその書くものが最も注目されている一人。『戦争と農業』、赤坂憲雄との往復書簡集『言葉をもみほぐす』(岩波書店)、『分解の哲学 腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社)などと読み進めてきたが、『分解の哲学』はなかなか消化できず、要再読の棚に仕舞ったまま。『縁食論』では、市井の人たちがどのような食の場を持っているのか、現場を歩き、人びとの話を聞き、食を巡る現状を精査する。子ども食堂、炊き出し、居酒屋、町の食堂、弁当の思い出・・個人的な体験談も盛り込みながら多彩な現状が記される。食で結びつく緩やかな関係ー共食は共助にもつながるのではと、思ったことだ。
 写真上は今熊野観音寺。下は境内の紅葉、色とりどりに。

IMG_4830 11月21日(日)承前。泉涌寺は皇室の菩提寺で御寺(みてら)と呼ばれている。背後の山周辺には御陵がいくつもあって、その一つが一条天皇皇后定子の鳥辺野陵。泉涌寺の境内の一角、その御陵を見上げる場所に清少納言の供養塔と歌碑がある。清少納言の「枕草子」は彼女が定子に仕えたときの栄華に満ちた日々を記したもの。才気渙発、清少納言の当意即妙な言動は定子を喜ばせたが、周囲の誤解がもとで、少納言が里へ下がっていたことがあった。少納言のもとに定子から出仕するようにと催促の手紙が届く。それはただ山吹の花びら一重が包まれたもので、開くと「言わで思ふぞ」とあった。この元歌は『古今和歌六帖』にある詠み人知らずの「心には下行く水のわきかえり いはで思ふぞいふにまされる」。定子の胸のうちを受け取った少納言が再び出仕したことは言うまでもない。『枕草子』の143段によると、この時少納言はこの元歌を思い出すことが出来ず苦労したとある。「いはで思ふぞ いふにまされる」なんといい言葉だろう。「言わぬは言うにいや勝り、逢わぬは逢うにいや勝る」という江戸時代の端唄を思い出しました。
 写真は泉涌寺の境内にある清少納言の歌碑。「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」が刻まれている。

IMG_4826 11月21日(日)晴れ。今日から泉涌寺で開催される「未景展」に行く。33名のアーティストによる祈りの展覧会ということで、泉涌寺を舞台にさまざまな作品が展示されている。現代アートが中心だが、女性を描いた天井画や床一面に並べられた「散華」などを面白く見た。展覧会のメインテーマである「あかるい水になるように」は、詩人岬多可子さんの詩集のタイトルからとられたもの。この日のオープニングイベントには、岬さんと関西在住の二人の詩人による鼎談と詩の朗読会があった。日頃心を刻むようにして言葉を紡ぐ三人の詩人たちにIMG_4842よる語りを興味深く聴いた。岬さんは穏やかな表情の中に、勁い芯を秘めた・・という印象で、揺るぎのなさを感じた。いい時間を持てたことに感謝して退去。
 ●梨木香歩『家守綺譚(新潮社)』を読む。この人の本は以前に『西の魔女が死んだ』を読んだことがあるだけだが、最近読書会のテキストで『やがて満ちくる光の』(新潮社)というエッセイ集を読み、興味を引かれたので。幻想小説といっていいのだろう、「雨月物語」をちらと思い浮かべたが、いやいや村上春樹の「品川猿」に近いかな、などと思いつつ読み終える。友人のMさんから、この人の『ほんとうのリーダーのみつけかた』(岩波書店)という本のことを教えられ、いま読んでいるところ。こんな本も書くのだ、と作家の堅い背骨に感動す。
 写真上は東山にある泉涌寺、御寺(みてら)と呼ばれています。下は展示作品の一つ、「散華」

IMG_4808 11月20日(土)晴れ。伊勢丹へ買い物に行ったついでにホテルのラウンジへ寄ってきた。駅ビル15階にあるラウンジはリニューアルして広くなっている。市内にはここより高い建物はないので、15階からの眺望は素晴らしく、しばし空中散歩を楽しむ。駅はすごい人出だった。駅前のバス停に大行列ができているのを久しぶりに見た。インバウンド無しでもこんなに混み合うのかと驚いたほど。紅葉シーズンに入ったせいもあるが、コロナが下火になった安堵感もあるのではないかしら。ほとんど人影がない駅を見慣れていたので、今日の賑わいにはIMG_4811びっくり。帰り嵯峨野線(山陰線)に乗ったら、ホームはあふれんばかりの人で、全車両が満員だった。まるでコロナ前に戻ったよう、あの、市民がバスにも乗れないオーバーツーリズムを思い出して、嬉しいような悲しいような・・・。
 写真上は賑わいが戻った京都駅。下はご存知京都タワー。ホテルのラウンジはビルの南側にあるので、ラウンジからこのタワーは見えません。
 

IMG_4807 11月19日(金)晴れ。今日は旧暦10月15日で満月。午後6時ごろには月蝕が見られるというので、東の空を眺める。午後5時ごろから欠け始め、6時過ぎにはほとんど隠れてしまった。次に見られるのは一年後ということだが、その日が晴れるとは限らないから、今夜見ることができたのは良かった。国立天文台のホームページには、今夜の月蝕は、「ほぼ皆既の部分月食」とあった。西の空には金星や木星が明るく輝いている。
 先日読んだ『すごいトシヨリ散歩』には、池内紀さんと川本三郎さんがお互いの著書について語る場面が度々出てくる。この二人の本はたいてい読んでいるつもりだが、未読のものがいくつかあった。そのうちの2冊、川本三郎さんの『あの映画に、この鉄道』(キネマ旬報社)と『台湾、ローカル線、そして荷風』(平凡社)を手に入れて読む。後者は『そして、人生はつづく』、『ひとり居の記』に続く三冊目の日記。いずれも「東京人」に連載されたもの。メイ・サートンのように毎年のように日記を読者に届けて、老後の豊かな孤独を語り続けたい、とある。読者もまた人生の同伴者、日々の積み重ねを楽しみに待っているのですよ。
 写真は19日午後6時17分の月蝕。

IMG_4788 11月18日(木)晴れ。寺町通で買い物をすませたついでに、京都御苑を散策してきた。南側の間之町口から入り、今出川通へ抜けようと北へ向かう。九条邸跡にある拾翠邸は修復工事中、池はと見れば水位が下がって水際の石組みが露わになっている。ここも修復工事中なのだろう。歩いていると、黄色く色づいた銀杏やエノキの葉がはらはらと散りかかる。桜の葉はもう散ってしまったようだが、カエデやモミジの紅葉はいまからという感じで、まだ茶色が多い。それでも松や楠など常緑樹の間から赤く色づいた樹々が見え隠れするのはいい眺めだ。歩いていると汗ばむくらい暖IMG_4797かな午後とあって、苑内を散策する人たちはみな軽装。ベンチや芝生の上に寛いでお弁当を広げる人の姿もかなりあった。次に来るときはおやつを持参するのを忘れないようにしよう。
 帰りてYou Tubeで、「Spring X ナレッジキャピタル おもしろ日本を解き明かそう」を見る。14日に放送されたものだが、当日はライブで観ることができなかった。日文研の倉本一宏教授による「日本人とは何か」は、縄文人と弥生人、現代人のDNAから解き明かされ、緩急自在の語り口で実に面白かった。先だって、福井の恐竜博物館で人類の歴史を見て来たばかりだったので、なるほどと得心。
 ●中山博喜の写真集『水を招く』(赤々舎)を読む。著者がペシャワール会の活動に参加して数年をアフガニスタンで過ごしたときに撮影したもの。現地の様子が細やかに映されているが、中でも人びとの姿がいい。干上がって砂漠に戻った大地に水路が築かれ、水が引かれる。やがて砂漠が緑の大地に生まれ変わり、農作業に勤しむ人々に笑顔が戻る。重機を運転する中村哲さんの姿もある。水路に飛び込む子どもたちの姿もある。タリバンが支配しようとしているアフガニスタンの現在を思うと、胸が痛む。戦いは何も生まない。どうか平和をと祈らずにはいられない。
 写真上は仙洞御所前の紅葉。下は京都御所健春門前の紅葉。

IMG_4747 11月14日(日)晴れ。祇園のFさんが主宰する歴史散歩の会で、和歌山行。朝9時、八条口のパスプールでマイクロバスに乗り、まずは奈良県橿原市にある藤原宮跡へ向かう。藤原宮は694年、持統天皇に始まり、以後、文武、元明と三代の天皇の宮があったところ。耳成山、天香具山、畝傍山の大和三山に囲まれた藤原京跡はいま、広々とした原に閣門跡の柱が並んでいる。以前は大極殿址に石柱があるだけだったが、発掘調査が進み、柱の復元ができたのだろう。平安京遷都のちょうど100年前、ここに都が造られたのだ。平城京IMG_4759も藤原京も宮跡が広々とした原として残っているのが羨ましい。京都は平安京の上に町があり、1200年人が住んでいるから、宮跡などを復元することは難しい。「羅城門だけでもあの場所に復元できひんのかいな」とMさん。平安京はピンポイントで駒札がある遺構を訪ね歩くしかないようだ。
 藤原宮から和歌山県かつらぎ町にある丹生都比売神社へ。ここは空海が高野山をひらくとき、犬に姿を変えてその道案内をしたという比売神が祀られた神社。高野山の金剛峯寺などと共に世界遺産に登録されている。高野山との関係が深いIMG_4772せいか、仏教建築物など、神仏習合の遺構が数多く残っている。この日は七五三詣でで晴着姿の親子連れが多く、境内は華やかな雰囲気だった。
 このあと紀ノ川を渡り、粉河寺と根来寺へ。もう何度も来ているが、来るたびにその壮大さに感動する。粉河寺は770年創建で、西国三十三観音霊場の第三番札所。1585年、豊臣秀吉の兵乱で焼失、その後、紀州徳川家の保護により、復興再建なったもの。壮大な山門を見上げ、桃山時代に造られた石組による庭園に驚く。
IMG_4777 根来寺は真言宗のお寺。国宝の大塔は高さが40mあり国内最大とのこと。ここの大門も素晴らしいが、大伝法堂(本堂)の本尊大日如来と両脇侍の金剛薩捶・尊勝仏頂がそれは見事。いずれも3mを超えるお像で、兵乱にも焼けず、いまに伝わっていることに感動す。
 予定を終えたあと、夕食を予約している奈良の学園前へ向かう。午後6時前、店に到着、ここでマイクロバスとはお別れ。店内は予約の客で満席。季節の料理を美味しくいただきました。
 写真上は藤原宮跡。大極殿院閣門址の柱。中上は丹生都比売(にうつひめ)神社。中下は根来寺の大伝法堂(右)と大塔(左)。下は学園前でいただいた料理の一品。秋をいただきました。

IMG_20211119_081536 11月12日(金)曇り。冷え込む。午前中、「小右記」講座。帰途、くまざわ書店に寄って、新刊書をいくつか購入。真っ先に目に付いたのは池内紀・川本三郎対談集『すごいトシヨリ散歩』(毎日新聞出版)。本に映画、そして旅や町歩きに、年季の入った名人二人の対談が楽しくないはずがない。帰宅後、家の片付けも忘れて読みふける。二人のすぐそばにいて、ふんふんと頷きながら話を聞いている気分、でも池内紀さんが亡くなったいま、もうこんな楽しい対談を聴く(読む)ことはできない。
川本三郎さんの「あとがき」がいい。
「(これは)月刊誌『望星』の2016年3月から2019年9月まで、三カ月に一度、池内紀さんと対談したものをまとめた本である。池内さんは私のもっとも親しくしていた年上の友人で、またもっとも尊敬するもの書きだった。飄々とした人柄には会うたびに心がなごんだ。(中略)池内さんには一日が48時間あるのではと驚嘆した。それでいてあくせくしたところがまったくない。好きな仕事を自分のペースで楽しんでいるという余裕が感じられる。文章はうららかで、大言壮語、悲憤慷慨がない。決してルサンチマンでは書かない。権力や権威とは無縁で、偉ぶらず、どこか仙人のような飄然とした構えがある。「自慢ではないが、長と名のつくものをしたことがない」と笑っておられた。その生き方にも強く惹かれた。こんな素晴らしい人が、私などと長く付き合ってくれたのは本当にうれしいし、私にとって誇りになっている」
 なによりも二人に共通するのは、筆一本で生きてきたことではないか。池内紀さんは55歳の時大学を辞めて、筆一本の暮らしに入った。川本三郎さんはジャーナリストを辞めて以来、ずっと筆一本で誰にもまねのできない仕事を積み上げてきている。
 川本三郎さんのあとがきにある池内紀像は、そのまま川本三郎像でもある。川本さんには長生きして、「もっとすごいトシヨリ散歩」を書いていただきたいと思う。

 

IMG_20211107_152351 11月7日(日)晴れ。つい先日、友人のYさんからのメールで、丸山豊の『月白の道』が文庫になったということを教えられた。早速注文したのが、たったいま届いた。開いてみると、『月白の道』に、『丸山豊全散文集』などからの戦争・戦友に関する文章が加えられ、さらに、野呂邦暢・川崎洋・森崎和江・木村栄文・谷川雁の寄稿・追悼文なども収録されている。野呂邦暢をはじめ、巻末に収められた寄稿・追悼文の書き手は、いずれも九州にいたころ親しく聴いた名ばかり。身近にお話を聞いた人もいて、作品はもとより、その仕事ぶりを懐かしく思い出した。以前、野呂邦暢について書いたとき、野呂の仕事に大きな影響を与えた『月白の道』を未だ読んでいないことに気づいて、探したことがある。図書館に取り寄せてもらい、私が読んだのは1967年に出た増補版だった。
これは軍医少尉として従軍したビルマ、ミートキーナでの戦いの記録。「この一冊によって私は私の戦後をむすぶ。戦争の理不尽を訴え、同時に戦場において極限まで傷めつけられたヒューマニズムが、しかもなお美しく屹立していたことを語ったつもりである」と著者が記したように、激戦地での体験が淡々と記されている。戦場での真実を追究し続けた野呂邦暢が深く感銘したことは想像に難くない。彼は小説「丘の火」や戦記「死守!」を書くとき、この本が頭にあったはずだと思う。とくに戦争文学試論『失われた兵士たち』にはこの本が示すものが色濃く影を落としている。
早速『月白の道』を読むことにしよう。語り残してことはまたあらためて。

IMG_20211007_095754 11月6日(土)晴れ。四条烏丸のビルの中にあった大垣書店が閉店した。すぐ近くには同じ書店の本店があり、通りを上ったところには三条店があるので、閉店した店を利用することは滅多になかった。ビルの2階にあって込み合うことがないので、ここで雑誌など読むという友人がいたが、室町に本店が出来たときから閉店は予想されたことだった。町歩きのついでに本屋を覘くのが楽しみだが、四条烏丸近くで私がよく行くのは地下にあるくまざわ書店。ここには新聞書評で紹介された本のコーナーがあって、気になる新刊書を探すのに便利。先だっても読書欄の新刊案内に●美川圭『院政 もうひとつの天皇制』(中公新書)があったので買ってきたら、既に同じ本がわが書棚にあった。よくよく見たら、新刊は新刊でも増補版で、15年前に出た初版に20頁ほどが加えられたものだった。以IMG_20211009_105134前読んだときのことは覚えていないので、初見と同じ、興味深く読んだ。
 電子本にまだ馴染めないでいる。便利だとは思うのだが、本のどの辺りにあの記述があった、あのページの右上辺り・・などという記憶が電子本で刻めるかしらまだ心もとないので。始終、あれこれ調べものをするのに、付箋を貼った本を積んでおくのだが、電子本だとどうするのかしら・・・、このままだとアナログ人間のままで終わるのだろう。

●森まゆみ『海恋紀行』(産業編集センター)を読む。これまで発表された海にまつわる話を再編集したもの。北から南まで、全国各地の海近くの地を巡る紀行文だが、半分以上は私の体験と重なるので、楽しく読んだ。とくにその後彼女が足繁く通ったという竹富島や私もつい先日出かけたばかりの能登半島など。ずいぶん前に書かれたものもあるので、リゾートホテルが出来た竹富島など彼女が訪ねた時とは変わっているのではないかと思う。ここでは触れてなかったが、島にある岡部伊都子さんの図書室はいまも健在だろうか。

 写真上はくまざわ書店の「本と本屋の本」コーナー。ここは小さい店ながら、面白い本のコーナーに出会えます。

IMG_4669 11月2日(火)晴れ。京都国立博物館へ開催中の「畠山記念館の名品展」を見にいく。畠山記念館は荏原製作所の創業者畠山一清(1882~1971)のコレクションを収めた美術館で、東京白金台にある。即翁と称し、能楽と茶の湯を嗜んだ氏のコレクションは、茶道具を中心とした日本・中国・朝鮮の古美術が主で、国宝や重要文化財も多く含まれている。加賀前田家旧蔵の能装束の見事さ、茶人で知られた松平不昧公ゆかりの茶道具の数々に見入り、華やかな光悦や宗達ら琳派の作品を愉しんできた。三蹟と呼ばれる行成、佐理、道風IMG_4680や、公任、紀貫之などの書(断簡)も目を引かれたが、なかでも伏見天皇の宸翰「拾遺和歌集残巻」がいい。伏見天皇(1265~1317)が書写した三代集の断簡で、やわらかでのびやかな文字が読めるのが嬉しい。「天暦御時、故きさいの宮の 御賀をさせ給はむとて侍けるを 宮うせ給にければ、やかてそのまうけして、御諷誦をこなはせたまひける時」、また「実方朝臣 今日よりはつゆのいのちも おしからすはちすのうゑの たまとちきれは」など、平安かな文字のお手本を見るよう。茶人たちの交流や、名品蒐集にかける情熱など、数々のエピソードには興味深いものがあるが、それがあればこそこれらの品々がいまに伝わったのだろう。昔のお金持ちは偉かった、富を社会に還元していたのだから・・。個人のものでも私物化しない、後世に守り伝えてこそコレクターのレゾンデートル、というもの。以前、ゴッホの絵を何十億で手に入れた会社の社長が自分が死んだらこの絵をお棺にいれてくれと言ったというが、これは論外。
 写真は京都国立博物館。下は展覧会の図録(表紙を広げて)。「四季草花下絵古今集和歌巻」で下絵は宗達、書は光悦。

IMG_4651 10月31日(日)晴れ。昨日から百万遍の知恩寺で始まった古本まつりに行く。最近は新しいのも古いのも本はほとんどAmazonで買っている(非国民ですね)のだが、古本市と聞くとやはり足が向く。京都に来た当初は春・夏・秋の古本まつりに出かけては(連日通い詰めて)一度に何十冊も買い込んでいたものだが。いまはもう覗いたとしても買うのはせいぜい数冊から10冊程度となってしまった。この日も●橋本迪夫『廣津和郎再考』(西田書店)と●田中善信『芭蕉 二つの顔』(講談社)、●魚住孝至『芭蕉 最後の俳句』(筑IMG_4653摩選書)などを買っただけ。2時間近く眺めて回ったあと、岡崎公園へ移動。この日は岡崎公園で左京ワンダーランドというイベントが開催されているのだ。芝生広場に100ほど店が出、おりしも快晴とあって、親子連れなどで賑わっていた。この日はハロウイーンだったが、仮装した人はあまり目につかない。こだわりのコーヒーや、手作りのビーガン料理などが、結構客を集めている様子だった。近くの細見美術館のレストランで昼食。美術館ではいま「虫めづる日本の美 養老孟司×細見コレクション展」が開催中。ここは食事も美味しいが、ミュージアムショップがなかなか魅力的。ついつい長居してしまいました。
 夕方、関東に住む友人より電話あり。大腸ポリープの切除手術を受けることになった。悪性かどうかは検査しないと分からない、いままでお産以外で病院に入ったことなどないから、不安でしょうがない、と言う。自分の健康を過信しすぎていた、もう若くないのだから、年相応におとなしくしなければ、と。大丈夫よ、万が一悪性だったとしても、とってしまえば問題ないのだから、ノープロブレム、大丈夫、大丈夫と大きな声で私。年をとると金属疲労ではないけれど、体のあちこちにひずみが出てくるのは当たり前のこと。病気ともこれからは長い道連れと思っていくしかない。
 写真は百万遍の知恩寺。下はお寺の境内に咲いていた金木犀。例年より遅いのではないかしら。

IMG_20211031_150953 10月28日(木)晴れ。●恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)を読む。詩誌「感情」に瀬戸口宣司さんが連載している「俳句に徘徊ー久保田万太郎に添いながら」を毎回楽しみに読んでいて、この作家に興味を持っているのだが、その作品に触れたことはなかった。岩波から文庫版が出たので買ってきて読んでいるところ。久保田万太郎は小説、エッセイ、紀行文、劇作と幅広く仕事をしたが、本職はあくまで小説・劇作家で、俳句は余技(恋人)といっていたそうだ。だが、いまに読み続けられ、愛されているのは彼が遺した俳句の方で、本職の方には以前のような輝きはない(らしい)。一番知られているのは「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」だろう。この俳句集を読むと、前書つきのものがかなりあり、どんな時にどんな動機で詠まれたかが察せられる。
並行して、●藤田真一『俳句のきた道 芭蕉・蕪村・一茶』(岩波ジュニア新書)を読む。これはジュニア向けに書かれた俳諧入門書みたいなものだが、代表的な3人の俳人の生涯と作品を個性豊かに紹介してあって、大人が読んでも満足するものだった。藤田真一氏は蕪村に関する著書をたくさん持つ研究者で、この人の手引きで私も蕪村に引き寄せられたといってもいい。古典の素養なくして芭蕉や蕪村の句をよむのは難しいと教えられたものだが、この本でもまた。
 夕方からオンラインで「左経記」演習。長元7年11月を読む。伊勢御神託宣事、新嘗会事、東宮鎮魂事など。BGMにハイドンの弦楽四重奏曲やブラームスの弦楽六重奏曲をあるかなきかの音量で。

IMG_4618 10月25日(月)雨。今日、10月25日は稲垣足穂(1900~77)の命日。大阪に生まれ、明石で育った足穂は幼少から謡曲や仕舞いに親しむ一方、飛行機への関心を深め、飛行への憧れを抱いて青年となった。20歳のとき、自作の詩を持参して佐藤春夫を訪ね、知遇を得たのち、春夫の家の離れに住むことになる。22歳の時、代表作となる「一千一秒物語」を刊行。そのモダンで宇宙的な作風は先駆文学として注目されたが、その後文壇を離れ、戦時中は不遇な日々を送っている。戦後しばらくも着の身着のまま住所不定のような暮らしを続けていたが、1950年、縁あって京都の女性と結婚し、京都へ転居。そこから文学活動を再開し、1969年には「少年愛の美学」で第一回日本文学大賞を受賞(三島由紀夫や澁澤龍彦などの支持を得て)。1975年、献身的に足穂を支えてきた志代夫人が病死、その2年後に足穂も没。
 先日、掃苔のため訪れた法然院で、足穂夫妻のお墓にもお参りをしてきた。足穂は万人向けの作品を書かなかった。初期のモダンで前衛的な作品もいいが、私は京都に来てからの足穂の歴史に関する文章が好きだ(『宇治桃山はわたしの里』)。京都には足穂が幼いころから親しんできた謡曲の舞台がたくさんある。足穂の足取りを追って、京都山内から宇治、桃山と歩いたことがあるが、いずれも歴史物語の舞台となった所で、足穂が何を見ていたのか想像するのは楽しかった。
 足穂と志代夫人との出会いのきっかけは足穂の「ヰタ・マキニカリス」という作品。書肆ユリイカの社主伊達得夫が自社で出したこの本を文学好きの志代さんに送り、彼女が上京したおり二人を会わせている。彼は志代さんに「50人の不良少女の面倒をみるより、稲垣足穂の世話をした方が、日本の為になります」と言ったという。当時志代さんは京都府の児童相談所に勤めていて、足穂と結婚した当初は右京区の山内にある中央仏教学院染香寮に住んだ。足穂といえば晩年の、浴衣姿の海坊主のような風貌しか浮かばない。志代さんという慈母観音のような伴侶を得、多くの支持者を得、全集も出て、幸せな作家人生ではなかったかと思う。
 写真は法然院の新墓地にある足穂夫妻のお墓。

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