2021年12月

IMG_5083 12月27日(月)雪のち曇り。朝、カーテンを開けると、外は一面真っ白の雪景色。昨日も山々は真っ白に冠雪していたが、今朝は町も雪に覆われている。この寒さ、日本海側に大雪を降らせたようで、高速道路が通行止めになったり電車が運休したり、各地に交通マヒをもたらしている。日曜日、夕食にきた女子大生たちは今日、九州や北海道に帰省するといっていたが、無事、帰り着いたものやら。
 太宰治の小説だったかに、男が、夏用の着物を買ったから来年の夏までは生きようと思う、というような文章があった。なにかしら目的があると、とりあえずそれまでは元気でいようと思うのか。そういえば新聞の俳壇にこんな句があった。「生きるつもり一年分の新茶買う」(所沢 小林久子)。取り敢えず一年は大丈夫か、これが3年、5年となると、果たしてと思う年齢になった。「そのうちに」などと言わず、機会があれば逢いたい人には会っておくこと・・・そう思っているのだが、コロナのせいでそれもなかなか叶わないのが辛い。(そう言いながら11月には九州に出かけて、大切な友人たちに会ってきました!) 
 今年も残り4日、一年を振り返るのにはまだ早いが、もう昨日のことだって茫々・・・。文読む日々を重ねて今年も過ぎようとしています。●半藤一利『人間であることをやめるな』(講談社)を読了、墨子の言葉が21世紀の現代にもそのまま通じることに驚いています。墨子の言葉が普遍性を持つ所以でしょう。
 写真は今朝の愛宕山。左側の山は嵐山、雪の鳥居形が見えます。

2014_0225_134911-P2250042 12月24日(金)晴れ。19世紀のイギリスで活躍した詩人クリスティーナ・ロセッティに「どちらなの」という詩がある。「What a heavy? sea-sand and sorrow  What a brief? to-day and tomorrow  What a frail? Spring blossoms and youth  What a deep? the ocean and truth」子どもの頃少女向けの雑誌に載っていたこの詩のタイトルを私は「どちらでしょう」と覚えているのだが、三井ふたばこの訳では「どちらなの」となっているようだ。私の記憶にあるこの詩は、「どちらが重い? 海の砂と悲しみと  どちらが短い? 今日と明日と どちらがはかない? 春の花と若さと どちらが深い? 海と真理と」だった。
 ロセッティの詩を思い出したのは、友人と話していて「どちらが好き? 和泉式部と式子内親王と」と尋ねられたからだ。どちらも同じくらい好きだと答えて、「和泉式部は実体験の、式子内親王は観念の歌だ」という持論を伝えたのだが。実感にせよ観念にせよ、この二人の歌人が最後に辿り着いたのは、ある種の諦念ではなかったか。一見華やかだが、二人の胸の内には深い孤独の念があった。そういえば二人にはよく似た歌がある。
 亡くなる前、式子内親王が詠んだ歌に、「哀れ哀れおもへばかなしつひの果て 忍ぶべき人たれとなき身を」。内親王の孤独と諦念が伝わるような歌だが、和泉式部にも「しのぶべき人もなき身はある折に あはれあはれと言ひやおかまし」という歌があって、式部の冥い胸の内が窺えるようだ。私は式部の「暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」を彼女の絶唱だと思っているのだが、式子内親王の「生きてよもあすまで人はつらからじ この夕暮をとはばとへかし」「忘れてはうちなげかるる夕べかな 我のみ知りて過ぐる月日を」などにも胸打たれる。式部や内親王は自らの死に孤独の影を見た。二人の歌を読むたびに思い出されるのは1909年に若狭小浜で亡くなった山川登美子のこと。鳳晶子と共に与謝野鉄幹に歌を学び、将来を嘱望されていたが、22歳のとき親の勧めで結婚。だが夫が病で死去、結婚生活はわずか一年でしかなかった。その後彼女自身も病を得、29歳で病没。病床で詠んだ歌には孤独な魂の叫びが感じられる。
「海に投ぐもろき我世の夢の屑 朽木の色を引きて流れぬ」
「わが柩まもる人なく行く野辺の さびしさ見えつ霞たなびく」
時々朽木を通って若狭小浜へ出かける。小浜には山川登美子記念館があって、いまも薄幸の歌人を偲ぶよすがとなっている。

 さてどちらでしょう? どちらが好き? 清少納言と紫式部。道長と実資。秋成と宣長。蕪村と芭蕉。漱石と鴎外。熊楠と國男・・。なかなか難しい質問ですが強いて言うならいずれも前者でしょうか。でもあくまで強いて言うならで、後者も敬愛しています。

 写真は小沢征爾のサインと写真。かつて京都コンサートホール向かいにあって、いまはもうないカフェ(店名を失念)のカウンター前に記されていたもの。コンサートホールへ行くたびにこの店に寄るのを楽しみにしていたのですが。狭い店内の壁にいくつもセイジ・オザワのサインがありました。

1638506155308 12月23日(木)晴れ。録画していたNHKドラマ「あ・うん」を見る。このドラマは1980年制作、今年が向田邦子の没後40年というので再放送されたもの。岸本加世子主演のこのドラマ、リアルタイムで見た覚えがある。フランキー堺、杉浦直樹、吉村実子、岸田今日子、志村喬(吉村実子以外はみんな世外の人になってしまった)という芸達者による大人のドラマで、男女の微妙な心の駆け引きがうまく描かれていた。時代は昭和12年、以前見た時、戦前の東京はこんなだったのかと思ったものだが、今回も当時の風俗はじめ時代考証がよくなされているなあと感心した。向田邦子は昭和4年生まれ、彼女が昭和を詳しく描けるのは、記憶のいい母親に負うところ大という。「あ・うん」は戦友二人の家族ぐるみの交友を描いたものだが、戦友の妻に思いをよせる男の姿が何とも切ない。向田邦子はこのようにどうにもならない恋を実にうまく書いた。思いを寄せてはならない相手を愛してしまい、それを隠してひたむきに生きる・・そんな男女を描くとピカいちだった。だれもが思うように生きることはできない、でも一心に生きていかなければならない、自分の胸の内はひた隠しにして、誠実に生きる・・。彼女のドラマにはそんな男女がよく登場するが、それは自身の体験がもとになっていたのではないか・・彼女の死後、妹の和子が書いた『向田邦子の恋文』(新潮文庫)を読んでそう思ったことだ。
 写真は黒谷さん(金戒光明寺)の花手水。
 

IMG_5076 12月21日(火)晴れ。今年最後というので、東寺のしまい弘法に行く。毎月21日は弘法大師の命日で東寺に市が立ち、25日は菅原道真公の命日で天神さんに市が立つ。京都に来たころは毎月二つの市に出かけてはあれやこれやと買い込んだものだ。そのころ東寺の弘法さんにはまだ香具師のような売り手がいて、ガマの油売りや高島易者、猿回しなどを見た覚えがある。いまはこの骨董市で掘り出し物を探すこともないが、並べられた売り物(どう見てもただのガラクタにしか見えない)を眺めるのは楽しい。いつぞやしまい弘法に行き、ものすごい人出にIMG_5071巻き込まれ、ただただ押されて歩いただけという苦い経験があるので、この日は朝9時過ぎのバスで出かけた。しまい弘法はつね以上に買い物客で賑わうのだが、この日はまだ予想の半分ほどの人出で、店もつねの7割方しか出ていないという感じ。境内にはそこかしこに隙間があって、ゆっくり回ることができた。年末らしくいろんな正月用品が出ているのがしまい弘法らしい。正月用のお飾りや花、干し柿、おせち用の慈姑や金時ニンジンなどがよく売れている。いま流行りなのか、苔玉がたくさん出ていた。植木IMG_5075屋でショウジョウバカマやフクジュソウのポットを買う。漬物やちりめん山椒、小豆、この日の昼食用に鯖寿司とハモ鮨などを買い、11時過ぎに帰宅。
 ●松村圭一郎『くらしのアナキズム』(ミシマ社)を読む。帯に「アナキズム=無政府主義という捉え方を覆す、画期的論考!」とある。著者は1975年生まれというからまだ46歳。『人新世の「資本論」』(集英社新書)を書いた斉藤幸平は1987年生まれの34歳、若い論客が輩出しているのは頼もしい限りだが、老いた私の頭にはどちらもすんなりと入ってくれないのがもどかしい。よく分かるところまで、再読を重ねてみよう。どちらも気になる本なので。
 写真は東寺の弘法さん。苔玉の正月用活花がたくさん出ていました。下は並べられた商品の一部。ほんまにこれが売り物? アルミの弁当箱。そろばん。洗濯ばさみ。ただのやかん。スコップのようなもの。あとは・・・。

IMG_5052IMG_5061 12月20日(月)晴れ。思い立って一乗寺の金福寺まで蕪村のお墓参りに行ってきた。年の瀬になるとやたらと掃苔したくなるのは何故かしらん。蕪村が亡くなったのは天明3年12月25日で、もうあと数日で命日となる。金福寺には蕪村が尽力して再建した芭蕉庵があり、その周りに蕪村と蕪村所縁の俳人たちのお墓がある。展墓は数年ぶりのことだったが、お墓の周辺は見違えるほどきれいになっていた。いくつもある句碑や墓石、石碑などに墨の色も新しい説明版が設置されていて、心強い道しるべとなっている。以前は見過ごしていた虚子の句「徂(ゆ)く春や 京を一IMG_5066目の 墓どころ」に気づき、あらためて墓所からの眺めを楽しむ。気忙しい暮れにこんなところで遥か昔に亡くなった人を偲んでいるなんてと我ながら呆れる気がしないでもないが、ほかならぬ蕪村だもの。蕪村には芭蕉を慕う句がいくつもあっていずれも秀句だが、「時雨るや 我も古人の 夜に似たる」「薄枯て まねかずとても 帰花」「古池の 蛙老い行く 落葉哉」、なかでも最も知られているのが「我も死して 碑に辺(ほとり)せむ 枯尾花」だろう。蕪村が亡くなった時、弟子たちは師の思いをくんで、芭蕉庵のそばに師を葬った。大津市義仲寺にある芭蕉のお墓もいいが、この洛北金福寺にある蕪村のお墓もいい。芭蕉庵復興のため蕪村がこの寺へ通い、高台へのこの道を上ったかと思うと嬉しくなる。名古屋市博物館で開催中の「大雅と蕪村展」を見たいものだが。来年1月末までというから、年が明けてから言ってみようかしら。
 写真上は蕪村の墓碑。右は芭蕉庵。下は墓地からの眺め。遠くに愛宕山が見えます。
 

IMG_5015 12月18日(土)曇り。朝、京都盆地を囲む山々が真っ白に冠雪していた。昼過ぎにはほとんど消えてしまったが、雪化粧した山々を見ると冬到来の感が強くなる。こんな日はとても外出などする気にはならない。幸い、今日は一日オンラインで或るシンポジウムを聴講する予定。朝9時スタート、ランチタイムをはさんで午後5時まで合計13人の研究発表があるのだ。始まる前はいくつか興味があるものだけを聴くつもりだったが、始まるといずれも聞き逃すのが惜しいものばかりで、とうとう一日パソコンの前に座ったままだった。これでは寝たきりならぬ座りきり老人になるのではと案じられたほど。シンポジウムは「小右記」に関するもので、教えられること多く、日暮れて道遠しという言葉が身に染みたことだ。
 昨日、大阪で放火によるビル火災あり、24人もの犠牲者が出たという。2年前、伏見で起きた京都アニメーション放火殺人事件を思い出す。どんな心の闇が人間にこんな酷いことをさせるのだろう。死にたいなら遠くの山か海ででも独りで死ねばいいのに、と言いたくなる。平和な時代にこんな死を強いられるなんて、亡くなった人たちの無念を思う。

 「筆灌ぐ 応挙が鉢に 氷哉」蕪村。17歳年下の絵師の姿を詠んだもの。寒さにめげず制作に励む応挙の姿が目に浮かぶようだ。応挙と蕪村は近所に住んでいて、こんな機会があったのかもしれない。この句を詠んだとき蕪村は60代なかば、後進の才能を見つめる先輩絵師の目は温かい。近くにはまた池大雅や伊藤若冲もいた。京文化華やかなりしころ。

 写真は雪化粧した京都の北山。

 IMG_285012月16日(木)曇り。亡くなった杉本秀太郎さんに『太田垣蓮月』という名著がある。幕末の京都に生きた歌人の生涯を書いたもので、その縁で杉本さんは毎年12月10日に蓮月尼のお墓参りをしていたという。その日は尼の命日なのだ。杉本秀太郎さんが亡くなられてもう6年になる。先日思い立って西賀茂西方寺にある蓮月尼のお墓へ行ってきた。前にも書いたが、このお墓、以前は傍らにある桜の樹の根に持ち上げられて、墓石が傾いていたのだが、近年きれいに直されて一層清々しくなった。亡くなって150年近くになるが、彼女を慕ってお参りする人が絶えないのだろう、いつ行っても香華がある。10年ほど前には磯田道史さんが『無私の日本人』(文春文庫)という本で太田垣蓮月のことを書いた。歌人であると同時にやきものづくりでも知られ、得たお金は人のために使った。鴨川に橋を架けた(丸太町橋)話は有名。北斎ではないが蓮月尼も引っ越しを繰り返し、屋越しの蓮月と言われたそうだ。終の棲み処は西賀茂の神光院にいまも残っている。ここで蓮月は少年だった富岡鉄斎と暮らし、彼を育てた。亡くなった時、遺されたものは自分の経帷子と棺桶をおおう白木綿の布だけだったという。その白布は以前、鉄斎が蓮と月を描いたもので、そこに辞世の歌が書き加えられていた。「願はくは のちの蓮の花の上に 曇らぬ月をみるよしもがな」。京都の友人に私が「太田垣蓮月のお墓参りをしてきた」というと、「蓮月尼はんどすな」とやんわり返された。無私であることが難しい時代にあって、いまもなお蓮月尼を慕う人たちがいることを頼もしく思ったことだ。
 写真は西方寺にある蓮月尼のお墓。墓石の文字は鉄斎筆によるもの。

IMG_20211219_115443 12月14日(火)晴れ。12月14日は赤穂浪士の討ち入りの日。毎年、山科の大石神社では「義士祭」が行われ義士に扮した市民の行列が出るのだが、今年は中止になったようだ。コロナのせいで季節の行事はすべて中止、祭がないと日常のメリハリがないばかりか時の流れがのーぺらぼーになって締まりがない。暑さ寒さで月日が過ぎるのは分かるが、彩が感じられず、何とも無味乾燥という感じだ。この状態が来年も続くとしたら・・・
 日曜日の新聞にこんな俳句が載っていた。俳壇の欄にあったものだが、「著者逝けり冬立つ書架に愛読書」(岡山県 藤井雅史)。愛読する本の書き手が亡くなって寂しい、というものだが、そういえば今年もいろんな先人がこの世を去った。作家でいえば半藤一利、小沢信男、坪内祐三、関千枝子、瀬戸内寂聴、立花隆、高橋三千綱、それに色川大吉、益川敏英・・。これまではたいてい自分よりもずっと年長者の訃報が多かったのに、最近はそうだとばかりはいえなくなった。
 ●半藤一利『墨子よみがえる ”非戦”への奮闘努力のために』(平凡社ライブラリー)を読む。2011年に出された本に中村哲さんとの対話を加え、新たな本として出版されたもの。孔子・孟子・荀子あたりはいくつか読んだことがあるが(『論語』は繰り返し読んだ)、墨子は未知の人でこの本で初めて詳しく知った。孔子と同じころに活躍した思想家で、彼が説いたのは、兼愛(人類愛)、非攻(平和)、人間平等など。徹底した非戦論者で、その思想は今の世にこそ求められていると思う。半藤一利さんは非戦論者として知られているが、その思想的バックボーンは墨子にあると教えられた次第。中村哲さんこそ現代の墨子、と断言する半藤さんにはもっと長生きしてほしかった。半藤さんはこの本の中で、座右の書の一つとして丸山豊『月白の道』をあげている。長い事絶版のままだったこの本が最近中公文庫となって出たのも・・・と思ったことだ。「われわれの生きている時代は、まさに、小林一茶の句にいう「世の中は地獄の上の花見かな」のような危うさにあるのである。しかも人類はそれに気づこうともしない。いや、気づいても知らぬふりをしている」という半藤さんの言葉が胸を刺す。 

IMG_4984 12月11日(土)承前。夕方、女子大生たちが遊びにきたので、早めの夕食をすませて嵐山へ出かけた。彼女たちが、毎年この時期行われている花灯路を見たいというので。できるだけ人ごみには近づきたくないのだが、この行事も今年が最後というので同行することにした。予想通り、電車も満員なら嵐山周辺もすごい人出。一方通行になっているので、人の流れに従いて野々宮~竹林~亀山公園~大堰川~渡月橋~中島公園と進んでいく。あちらこちら色とりどりにライトアップされて、なかなか幻想的。夜7時になると中島公園でランタンが放たれた。IMG_5011といっても紐付きなので空に舞い上がることはないが、なるほどねという感じ。厳寒の時期なので一度も見に来たことはなかったが、それなりに楽しめた。本音を言えばランタンよりも花火を上げてほしかった。
 ●高村薫『作家は時代の神経である』(毎日新聞出版)を読む。「サンデー毎日」に連載中の時評をまとめたもの。タイトルの「作家は時代の神経である」は、開高健の言葉だそうだが、私は「炭鉱のカナリア」を連想した。最後の項は2021年5月30日付で「憲法に対する政治の不実 自由が強奪される危険性」というもの。「改憲に賛成であれ反対であれ、私たちはそれぞれもう少し言葉を持たなければならない。なぜ改憲が必要なのか。先般の集団的自衛権行使容認だけでは足らないのか。9条に何をどう書き足すべきなのか。あるいは、改憲はなぜ不要なのか。自衛隊を明記しなくてよいのか。改憲賛成の人も反対の人も、自民党が新たに創設を狙う緊急事態条項の中身を正確に理解しているだろうか」とあるが、私はその緊急事態条項なるものも知らないのだ。このまま何もかもあなた任せでいいものだろうか、間違いに気づいたときはもう手遅れということにならなければいいのだが。
 写真は花灯路の嵐山。月と金星も。下は中島公園に放たれたランタン(紐つきゆえ、これ以上高くは上がりません)

IMG_20211211_100336 12月11日(土)曇り。昨日のブログに漱石のことを書きながら、12月9日が漱石の命日だということを思い出した。漱石が亡くなったのは1916年、そして1989年の同じ日に開高健が58歳で亡くなっている。さらに2015年のこの日には野坂昭如も逝った。三人に繋がりはないが、時代を書いた作家ということでは共通するものがあると思う。命日にはその人の本を読み直すことが多いのだが、9日に読んだのは嵐山光三郎の『生きる!』(新講社)。週刊朝日に連載したエッセイをまとめたものだが、その序章が面白い。
「若いころは、いつ死んでもいいとカッコつけていたが、歳をとると欲が出て、「生きる!」と念じるようになった。長生きすればこの世がどうなっていくか、それを見定めるまで生きていく。人間はこの世に生を得た以上、生きることを至上の命題とする。当たりまえのことです。「生きる!」という一点が、人間の最大の目標だ。未練がましくなるのはいやだが、生きるだけ生きて、生きて、生きて、「愉快な日々」を過ごしましょう」
 というわけで、中身は実に愉快な老人の日々が記されている。なかでも共感を持って読んだのは、坪内祐三(「薄皮めくれば冥界のあんこ」)と池内紀(「池内紀通信」)について語ったくだり。「読書という文化のサイクルが終わろうとしている、だけどその終焉は逆に新しいサイクルの始まりでもあるかもしれない」と坪内祐三は語っていたそうだ。あれほどの本の虫でもいまの読書(本)を取り巻く状況を危ぶんでいたのか。せめてまだ当分は生きて、本の世界がどうなっていくか見定めたいものだ。光三郎さんらしいパラドックスと洒落に満ちた帯文「いっそ死ぬ気で生き切ってみよう!」が何ともいえませんね。

IMG_4956 12月10日(金)晴れ。午前中「小右記」講座。午後からバスで龍安寺方面へ行く。7日、雨の中を広沢の池まで行った帰り龍安寺の前を通ったら、それは見事な紅葉が見えたので、あらためて見物に出かけたのだ。龍安寺前でバスを降りて紅葉はいかにと見ると、「三日見ぬ間の桜」ではないが、残念なことに参道の紅葉は既に散っていた。参道を進んで門前に着くと、大きな紅葉が半分ほど散り残っている。門は閉ざされていて「拝観停止」の看板が。よく見ると石庭の土塀屋根の修理工事のため、来年の3月末まで拝観停止とある。ただし、境内にあIMG_4960る湯豆腐店は営業中なので、門の中に入ることはできる。実際に何組かカップルが入っていったので、私も庭の様子を見に行く。鏡容池の周りの木々が赤や黄色に染まって水に映えている。赤い柿の実は渋柿かしら、と眺めてきた。
 この季節、柿を食べるたびに子規の「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」が思い出されるが、この句はフィクションだという説が有力なのだそうだ。1895年10月下旬に法隆寺を訪れてこの句を詠んだことになっているが、当時病で歩行困難だった子規が法隆寺まで出かけることができたのか。その日、実際には東大寺近くの旅館にいた子規が聴いたのは東大寺の鐘ではなかったか、という説が有力らしい。そういえば子規の親友である漱石に、「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」という句がある。子規の「柿食へば」より3カ月も前に詠まれたもの。漱石の句にヒントを得たのかなと思うのも楽しい。
 写真上は龍安寺の門前。拝観停止の看板あり。下は鏡容池。12月に入ってからもまだまだ紅葉は美しいようです。 

IMG_4949 12月8日(水)曇り。最近はこの日が近づいても格別の報道がなされることはなかった、当日も目立ったニュースになることもなかったが、今年は違った。80年という区切りの年だからだろう、数日前からドキュメント番組や回顧録などが放送され、新聞にも連載記事が掲載された。あの戦争が何であったか、戦争体験者が年々いなくなる中、証言を得ることができるもうぎりぎりの年なのだろう。今日、12月8日は80回目の開戦記念日。日本がアメリカの真珠湾にある米軍基地を攻撃して、太平洋戦争が勃発した日。あの戦争は何であったか、戦争に至るまでの様々な動きを膨大な資料から紹介する番組をTVで見たが、あんなことが再び起きることがあるか、あるとしたらその始まりはどんな形でやってくるのか・・・などと考えてしまった。自由にモノが言えなくなる・・みんなと同じを強制される・・監視と密告が日常になる・・・非生産的人間は排除される・・おお、だとしたら、非生産的人間の私など真っ先に排除されるだろう。平和ボケといわれるが、有難いことではないか。などと知人に話したら、「へえそうか、今日は12月8日、ジョン・レノンの命日ですね」という返事。レノンの「イマジン」を聴きながら、大岡昇平の『レイテ戦記』(中公文庫)を再読。いまの平和は(少なくとも徴兵制度はない)あの戦争での310万人もの犠牲の上にあるということを忘れずにいたい。
 写真は近所の家の軒に立つ鍾馗さん。刀を持っていますが戦争とは無縁です。

 IMG_4937 12月7日(月)雨。5日(日)の朝、愛宕山の山頂が真っ白に冠雪していた。毎年、私の誕生日前後に見られる眺め。しばらくすると雲に隠れてしまったが、いよいよ冬到来の感あり。日曜日はTVで大学ラグビーの早明戦を観戦。その前に今年で最後となった福岡マラソンも見る。自分はスポーツとは全く縁がないが、亡くなった兄が若い頃ラグビーをやっていたせいで、ファン歴はもう半世紀近くになる。私だけでなく母や姉、妹も同様で、暮れからお正月にかけてTVでラグビーの試合があると応援でそれは賑やかだった。試合中、関東(母やIMG_4945妹)と九州(姉)、そして京都(私)の間で電話、のちにはメール、ラインが飛び交ったものだ。その母も11年前に逝き、2年後には兄が、5年後には姉もこの世を去った。早明戦を見ながら、「ああ、誰ト共ニカ 昔ヲ語ラン」という心境になる。晩年の母が「昔話ができる相手がいないのが寂しい」とよく嘆いていたが、いま痛いほどその気持ちがわかる。遅すぎるが。
 7日、雨が降っているが、鯉揚げが始まった広沢の池の様子を見に行く。毎年いまの時期、池の水が抜かれ、春から育てた鯉があげられる。水が減って潟になった池に鳥たちが集まって小魚を狙う。紅葉した遍照山が影を落とす水面に点々と鳥の姿があった。雨のせいか人影は無し。こんな日に池を見に来るとは、われながら物好きなこと。
 この広沢の池は渡来系氏族・秦氏がため池として造ったものとも、また宇多天皇の孫・寛朝僧正が遍照寺を創建した際に庭池として造ったものともいわれている。平安時代から観月の名所とされ、西行や江戸期には芭蕉も訪れて歌や俳句を詠んだ。いま、年末の鯉あげは京都の歳時記・風物詩の一つ。愛宕山の初冠雪に合わせて師走の楽しみな風景です。
 写真上は冠雪した愛宕山。「ここらあたりは山家(やまが)がゆえ、紅葉があるのに雪が降る・・・」という歌舞伎の台詞を思い出します。下は遍照山と水が減って潟が拡がった広沢の池。

1638586870597 12月4日(土)曇り。アフガニスタンで人道支援に取り組んでいた中村哲さんが襲撃され亡くなってから2年になる。政情不安でいくつものテロ組織があるアフガニスタンでの活動は常に生命の危険にさらされていることをあらためて思い知らされた事件だった。医師として赴任したパキスタンでアフガニスタンの難民たちのことを知り、彼らを苦しめる干ばつの対策として用水路建設に取り組んだ。「百の診療所より、一つの井戸を」を合言葉に、自ら重機を繰り、砂漠に水を引き、緑の農地に変えていった。代表は凶弾に倒れたが、ペシャワールの会は哲さんの志を継いでいまも活動を続けている。元気なころ哲さんは年に何度か帰国して各地で現地報告会を開いていた。何度か聴いたが、なかでも京都の法然院での講演会が忘れられない。会場はお寺の本堂ではなかったか。哲さんの背後に本尊阿弥陀如来がおられて、思慮深く哲さんの話を聞いているようにみえた。哲さんはクリスチャンだが、よく自分は三無主義者だと言っていたそうだ。それは「無思想(思想信条に捉われない)、無節操(だれからも寄付を受け取る)、無駄(無駄を赦す気持ち)」。彼らしいユーモアが感じられる。歌手の加藤登紀子さんは哲さんを評して、「穏やかな厳しさ、恥ずかしそうな優しさ、強そうに見えない逞しさ、これが哲さんの生き方の極意」と言っていた。友人のMさんは、哲さんを「小さな巨人」と呼んでいたが、彼の話をするときはいつも最後に「どうぞご無事で」と言っていたものだ。哲さん亡きあともその遺志は引き継がれ、ペシャワールの会はさらに支援者が増えたという。哲さんが大切にしていた言葉「一隅を照らす」は、たとえ片隅であっても自分がいる場所でできることを精一杯やる、という意味だろう、誰に知られずとも自分にできることをやる・・・忘れずにいたい。
 写真は京都御苑の銀杏。

IMG_4930 12月3日(金)晴れ。午前中古文書読み。帰り南座の前を通ったらまねきが上がっていた。昨日から顔見世が始まったのだ。今年は坂田藤十郎三回忌追善で、「曽根崎心中」を雁治郎と扇雀が演る。先日、吉右衛門が亡くなったばかり、歌舞伎の世界も世代交代が進んでいるが、味わい深い役者がいなくなるのは寂しいことだ。吉右衛門は酸いも甘いもかみ分けた、豪快だが、どこか屈折した人物・・を演じさせたら天下一品だった(と思う)。TVで演じた鬼平は実に魅力的だった。池波正太郎も喜んでいたのではないか。いまごろ二人手を取り合っているのではないかしら。
 帰りて赤坂憲雄『性食考』(岩波書店)を読む。東日本大震災のあと、被災地では数カ月もしないうちに民俗芸能が復活しはじめていたという。そのうちの一つ、水戸辺地区を訪ねた著者は、そこで鹿踊りを見る。ここでは鹿踊りは死者供養の踊IMG_20211128_092925りとして継承されているので復活が早かったという。著者はそこで中尊寺建立供養願文を思い出す。そこには、ヤマト王権の軍勢とそれを迎え撃つエミシの敵味方なく、生きとし生けるものすべてのいのちの供養という思想が語られている。著者はそこに東北の敗者の精神史の流れを見る・・・敗者の精神史、なるほど、行くたびに自分が東北に惹かれる理由はそこにあるのかもしれない、と思う。宮沢賢治・太宰治・石川啄木と、日本人が好きな文学者が揃って東北人だというのも気になる。(もっとも私は賢治は好きだが、太宰はうまいと思うが好きではないが。) いろいろと気づきを与えられた本でした。
 写真上はまねきが上がった南座。 

IMG_4924 12月2日(木)雨のち曇り。お天気がよくないので、早めに金沢を出発することにする。朝食後、少し近くを散策、尾上神社からオヨヨ書店(まだ開店前)、玉川図書館へ。市内にいくつかある用水に沿って歩く。尾上神社は明治6年の創建で祭神は初代加賀藩主前田利家と妻まつ。ステンドグラスのある神門が有名で、境内には母衣を背負った勇ましい利家像がある。神社の前の通りを下がったところにあるオヨヨ書店は開店前でまだ閉まっていた。通勤通学の人たちに交じって、用水沿いの道を玉川図書館へ。公園のケヤキはすっかりIMG_4913葉を落としてレーIMG_4917ス編みのような細やかな枝がシルエットになっている。ガラス越しに館内を覗くと、書棚の整理をする職員さんの姿が見えた。この建物の設計は金沢出身の建築家谷口吉郎・吉生父子によるもの。今回金沢での目的はこの谷口親子の実家跡に建てられた「谷口吉郎・吉生記念建築館」を訪ねるというものだったが、現在企画展はなし、ということだったので次の機会に、とした。(雨風に負けたというのが正直なところ)
 散策のあと駅へ直行す。金沢を10時前に出るサンダーバードで帰路に着く。京都へは12時08分着。金沢を出るとIMG_4919並行して新幹線の高架が続く。遠くの山並みはもう冠雪して、ひときわ白いのは白山だろう。新幹線の高架は在来線の線路に沿ったり遠く離れたりしながら、敦賀付近までもう繋がっていた。北陸新幹線は2023年末に金沢ー敦賀間が開業するという。そのあとの大阪までのルートは未定というが、どうなることやら。
 風が吹いたら運休と決まっている湖西線を通るので、大丈夫かしらと案じられたが、無事、湖西経由で京都着。今庄や木之本付近では積雪あり、師走を実感。
写真上は玉川図書館。中左は前田利家像、右は尾上神社の神門。下はオヨヨ書店。

IMG_4906 12月1日(水)雨。朝起きると、目の前の海に白波が立っていた。窓を開けるとものすごい風で、部屋の露天風呂に入るのは諦める。朝食後、チェックアウトして10時14分和倉発のサンダーバードで金沢へ。帰りの特急券を買うため窓口へ向かうも、券売機の前には長蛇の列。和倉はのと鉄道駅なのだ。それにしても駅にはどこからこんなに・・と思われるほどの人。ウイークデイなのにねえ、とつれあいと顔を見合わせ、いやいや自分たちだってと気づいて苦笑す。
 無事サンダーバードに乗り、1時間ほどで金沢着。この日の宿に荷物を預け、まずは石川県立IMG_4895美術館へ。金沢へ来たときはいつもここを起点にして動くことにしているのだ。ここの1階にあるカフェ「ル・ミュゼ・ドゥ・アッシュ」でいつものように、ケーキとコーヒーをいただく。大きな窓に紅葉やケヤキの色づいた葉が落ちて、模様をなしている。散り残る紅葉を愛でていると、音を立ててみぞれが降り、大きな霰が落ちてきた。外歩きは見合わせようかと館内を眺めていると、『「金沢芸妓の舞」本日空席あります』の貼り紙あり。会場は美術館のホールで、金沢芸妓の踊りが見られるという。一人千円を払って、早速会場へ。金沢には「ひがし」「にし」「主計町」と三つの茶屋街があり、それぞれに芸妓たちがいる。同じ花街芸妓でも、京都はみやび、金沢は粋、とはこの日の司会の弁。その粋な舞と太鼓捌きを1時間ほど楽しんだ。主催が「芸妓の技能向上実行委員会(石川県文化振興課内)」というのがいい。
 美術館を出たあと21世紀美術館へ寄り(ここもいっぱいの人)、ミュージアムショップで新作のハンカチやノートなどを購入。来年の干支「寅」のグッズが愛らしかった。水曜日で行きつけの寿司屋はどこもお休み。初めての店だがタクシーの運転手が薦めてくれた名物おでんやへ行く。まずはセコ蟹(カニ面)を売り切れる前にゲット、それから刺身、バイ貝やタコのぬた、シロエビや金沢蓮根のから揚げ、そして名物のおでんを。旅行前の定期検診で、医者から「血糖値と中性脂肪値が高い。運動と摂食を」と厳しく言われていたのだが。
 金沢の町はコンパクトでいい。お城を中心に見どころが集まっていて、歩いて回るのにほどよい広さ。京都もそうだが、金沢も街あるきを楽しむにはもってこいの町だ。この日は風雨強く、食事のあとは早々に宿へ戻って休みました。
 写真上はお寺の塀の菰かけ。下は「金沢芸妓の舞」。町の木々には雪吊りが施され、北国の冬の備えが窺われました。

 

IMG_4884 11月30日(火)晴れ。誕生祝いは旅先で、と決めたのはもう10年ほど前のことだったか。その日が無理なら前後してどこかへ出かけようというので、つれあいの誕生日がある10月は九州(長崎や唐津のくんちに)や東北に(早めの紅葉を見に)、私の誕生日がある12月は北陸へ(カニを食べに)出かけるのが恒例となった。12月の北陸は雪に遭うこともあって、一度ノーマルタイヤで出かけて往生したことがあり、以後、この時期は列車の旅と決めている。少し早いが今年も誕生日が近づいたので、北陸へ出かけることにした。30日のIMG_4885朝、京都発11時10分のサンダーバードで和倉行。JRの特急サンダーバードは大阪発金沢行なのだが、一日に数本だけ和倉行があるのだ。これだと和倉着が14時30分、迎えの車で宿まで直行すれば、ちょうどいい時間になる。列車内は空いていたが、金沢からどっと乗ってきて、結構な入りとなった。金沢からの乗客は多分、新幹線で来た関東からの人たちだろう。和倉へはつい先月、つれあいの誕生日に来たばかり。前回は車で来て、能登半島を巡った。そのとき次もここでと決めて予約をしていたのだ。宿の人たちも覚えていて、歓待してくれた。夜はカニをいただきました。コロナはまだ収束していないのに、いいのかなあなどと言いつつ・・・。天気予報では明日の北陸は雷・暴風雨とのこと。七尾湾は内海なので波穏やか。どうか予報が外れますようにと祈りながら休む。
 写真はこの日いただいたカニです。上はセコ蟹。下はズワイガニの温泉蒸し。

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