2022年02月

IMG_5262 2月25日(金)晴れ。朝、外気は氷点下でこの冬いちばんの寒さ。新潟の津南町では積雪が4mを超えたというニュースに震え上がる。いったい4mもの積雪の中でどうやって暮らせるものやら。いったいに東北の人たちが忍耐強いのは、厳しい冬場を生き抜いてきたからかしらん。冷え込みは厳しいが穏やかな日差しに誘われて午前中、北野天満宮の梅を見に行く。この日は梅花祭と毎月恒例の天神市も開催されており、これまでにない人出だった。梅林の梅はまだ蕾だったが、境内はもう半分ほどが見ごろとなっている。お詣りしたあと天神市の露店をIMG_5256見てまわる。お天気がいいせいか、この日は古着を出す店が目立った。漬物やちりめん山椒を買い、園芸コーナーで花の苗を購入。アフリカ産という多肉植物を並べた店で若い男性の店主から育て方などを教えてもらう。「アフリカでも寒いところで育つ植物なので、冬場は水をやってもいいのですが、夏場は休ませないとへたります」。初めて見る緑の粒粒みたいな植物。隣にいた女性が「珍しいのね。アフリカ生まれのこの子たちには何語で話しかけたらいいのかしら」、本当に。
 本殿前の飛梅はまだ開いていなかった。「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」。
 写真上は梅花祭野点の席に控える上七軒の舞妓さん。太閤秀吉がここで大茶湯(茶会)を開いたのは天正15年(1587)のこと。それにちなんで毎年、梅花祭の野点が開かれています。下は境内の牛と白梅。今年は寒さが続いているせいか例年より梅の開花が遅いようです。それでも馥郁たる香りの白梅に「少し春あるここち」がしました。

IMG_5251 2月21日(月)晴れ時々小雪。朝、外は薄っすらと冠雪。陽がさしだすとすぐに消えてしまったが。前日のコロナ感染者の数、京都府は1769人で、なかなか収まりそうにない。3回目のワクチン接種は済ませたが、まだ用心のため家籠りを続けている。一日座りっきりのせいか、いざ歩こうとしたら足元のおぼつかないこと。それをコロナフレイルというのだ、一日最低5000歩は歩くように、とS子に叱られる。いまのままでは老化が加速度的に進むのではないかしらん。物忘れは既にどんどんです。
●『大庭みな子 響き合う言葉』(与那覇恵子編 めるくまーる)を読む。大庭みな子、若い頃、この人の文章にどれほど勇気づけられたことか。この人の言葉でどんなに心が解放されたことか。これは作家の没後に生まれた「大庭みな子研究会」の会員たちによる作品論を集めたもの。若い頃の作家の日記や書簡、彼女の片翼だった夫の大庭利雄さんの話なども収録され、巻末に詳しい年譜がある。年譜を見ると、昭和58年10月、女性作家たちと共に長崎の「おくんち」を愉しむ、という項あり。世界中を旅したが、日本の古典を読むなら関西に住まなければというので比叡平に別荘を持っていた時期もあった。大庭文学の底の底には少女時代に体験した広島原爆がある、と思う。読後、『霧の旅』、『啼く鳥の』、『寂兮寥兮(かたちもなく)』などを読み返す。これらの作品に初めて出会ったころのことを思い出す。
 写真は北野にある聖ヨゼフ修道院門の家。大正9年(1920)建築で、もとは住友家京都別邸の門衛所だった。登録有形文化財。ここを少し上がったところに桜で有名な平野神社があります。

菜の花 2月18日(金)曇り。なんとも切ない本を読んだ。●岸政彦『リリアン』(新潮社)。最近は滅多に小説を読まないのだが、なんとなくタイトルに惹かれて読んだ。去年、織田作之助賞を受賞した作品だそうだ。大阪在住の30代半ばのベーシストが主人公で、バーで知り合った和歌山生まれの女性との淡い日常が語られている。描写というより、全編これ会話といってもいいほど、二人の会話が続く。しかも見事な大阪弁。舞台となる大阪の町が身近なものだけに、会話の後ろにある風景が目に浮かぶよう。二人の間に交わされる会話には「」がなく、その他の人との会話にはちゃんと「」があるのが面白い。家族とも離れ、いまだに独身で子どもを持つこともないだろうという主人公が住んでいるのは大阪市の一番南のはずれにある街。彼はベース奏者で、楽器店で講師をする傍ら週末には北新地のバーで演奏をしている。独り身の自由を満喫しているようだが、そういう自分を持て余してもいる。バーで出会った10歳年上の女性もまた独り身の寄る辺なさを漂わせていて、彼女が過去に独りで育てていた娘を事故で失くしていたことがぽつりぽつりと語られる。二人が夜の万博公園にこっそりと居残って夜を過ごす場面がいい。大阪弁の語りは文楽の語りを聴いているようで、内容はともかくリズミカルで心地よい。作者の本業は大学の教師で社会学者だそうだ。タイトルのリリアンは子どものころ流行った編み物のこと。ジャズ用語がたくさん出て来るが、知らなくても楽しめる。私は昔、クラリネットを吹いていた兄が同じようなことを言ってたなあ、と懐かしく読みました。都会の片隅に寄り添う、よるべなき大人たちの切ない物語でした。
 写真は琵琶湖大橋を渡ったところにある守山なぎさ公園の菜の花。向こうは雪を被った比良の山々です。
 

IMG_5243 2月17日(木)晴れ。冷え込み厳しい。日本海側は大雪とのこと。今夜は満月だが、果たして見ることができるかしら。●黒川創『旅する少年』(春陽堂書店)を読む。名著『鶴見俊輔伝』(新潮社 2018年)の著者は子ども時代、恐るべき「旅する少年」だった。1961年生まれの黒川少年は小学6年生のときから一人旅をはじめ、休みのたびに汽車を乗り継いで全国各地を訪ねている。彼が鉄道の旅に憑かれていた1973年から76年ごろ、やはり日本中の国鉄を乗り尽くす旅を続けている男性がいた。中央公論社の編集者だった宮脇俊三で、この旅の記録『時刻表2万キロ』(河出書房 1978年)はベストセラーとなった。鉄道ファンがひしめき始めたのもこのころからではないか。黒川少年はそんなブームが起きるずっと前に、一人で時刻表を繰ってルートを作成し、学割切符を入手して鉄道の旅を繰り返していたのだ。当時の乗車券や写真が掲載されていて(よくもまあ保存してあったものだ)、半世紀前のローカル線の様子がよくわかる。旅の途中に出会った大人や大学生たちとの交流、北海道や九州での彼らとの再会など、小学生ながら年長の人たちと対等に向き合い、語り合っていたことがよくわかる。評論家の父北沢恒彦の思い出や子ども時代に書いた「思想の科学」の原稿のことなども記されていて、思想的に早熟だった少年を取り巻く環境に思いがいく。
 鉄道ファンといえば身内にも元鉄道オタクの男の子がいた。1970年生まれの彼は小学5年生のころから一人旅を始め、学校が長い休みに入ると関東の自宅から列車を乗り継いで九州の我が家へよくやってきた。我が家を拠点にあちこちローカル路線を乗り回り、大人に交じって鉄道談義をしていたらしい。幼稚園児のころから時刻表を愛読し、漢字はすべて駅名で覚えたといい、学齢前にはたいていの漢字が読めた。自室の天井には大きな鉄道地図が貼ってあり、部屋中に鉄道グッズがあった。いつだったか彼の家を訪ねたとき、飛行機で来たというとものすごく怒られたのを覚えている。『旅する少年』を読んで、久しぶりに彼のことを思い出した。もう50をすぎたはずだが、元気でいるかしらん。
 黒川少年の旅の記録には半世紀も前の記憶が幾重にも重なりあっている。旅で出会った人々、自分を取り巻く大人たち、友人たちとの思い出、時とともに早熟な彼が思索を深めていく過程が窺える。父親の友人だった高史明とその息子岡真史の思い出も印象深い。その後も彼はこのときの旅を続けているのではないか、読み終えてそんな感想を抱いた。

IMG_5239 2月13日(日)曇りのち雨。昨日訪ねた植物園は2年後の2024年に開園100周年を迎えるそうだ。公共の植物園としては日本最古とのこと。最近京都府が植物園の周辺をもっと人が集まる場所にしようという「北山エリア整備計画」を立てたら、貴重な自然環境を守ってという市民の声があがったという。府としては、北山エリアにある府立大学やコンサートホール、植物園、歴彩館などをもっと一体化して、アリーナやカフェなど集客場所をつくり、にぎわいを生みたいらしい。植物園を巡ってそんな動きがあっているとは露知らず、呑気に花や野鳥を眺めてきたのだが、意見を求められたら「現状維持を」と答えるだろう。これまで訪ねた植物園でいちばん好きなのは札幌にある北海道大学の植物園だ。ここは開拓以前からある植生がそのまま残されていて、札幌の町なかにあるとは思えないほど深々とした緑が残っている。京都の植物園も何とかいまのままの姿で続けられないものか、近年、度重なる台風で園内の巨木が倒れたり傷ついたりと大きな被害に遭っているが、それも自然の姿、人為的に植物をなくすのは避けてほしいと思う。(エリアの賑わい造りをというなら、総合資料館あとに図書館などをつくったらどうかしら)
 ●小沢信男『暗き世に爆ぜ』(みすず書房)を読む。一読後、胸に迫るものがあった。小沢信男は1927年生まれで昨年の3月に亡くなった。訃報を聞いてすぐに書棚から『東京骨灰紀行』(筑摩書房)を出して読んだものだが。『暗き世に爆ぜ』は没後に出たもので、「みすず」に連載した「賛々語々」などエッセイが収められている。芭蕉から風天(渥美清)、変哲(小沢昭一)まで、いろんな人の句をひいて徒然なるままに書いた「賛々語々」は「みすず」連載中に楽しみに読んだものだが、巻末の遺稿となった「花吹雪」には大きく頷いてしまった。小沢さん、全く同じ心持ちですよ、と。

 池内紀や坪内祐三が居なくなった・・・と記したあとに、
「思えばそういう人々が、年ごとに増える一方です。さかのぼれば花田清輝が亡くなって約半世紀、葬儀で骨を拾っているものの、享年65の人の猫背気味の背中に、ながらく畏怖を覚えてきました。同年生まれの長谷川四郎は享年77。ぶっきらぼうな背中が懐かしい。老来かえって幼馴染が甦ったり、あの人ともこの人とも、生者も死者もごちゃまぜで長い歳月を、なにかと脳裡で付き合ってきた。いまさら気づけば、おおかたがもはや死者ではないのか。現況は芥川賞も直木賞も関心がなくて知らぬ人ばかり。つまり私は、おおかたあの世の人たちと共に生きている。後期高齢者に通例のことか。神や仏とは関係ないね。忘れえぬ人を想うときに、その気配がたなびいて当然ではないですか」。
 
 遺稿となったこの文章の前に「東京の人・坪内祐三」という一文がある。同じ東京っ子の坪内を悼む文章だが、その最後はこう締めくくられていた。
「池内紀さんの仕事ぶりは一日が48時間もある人みたい、と評判でした。その伝でいえば、あなたは享年122かもしれないよ。池内さんも坪内さんも、もう出会えないなんて信じられない。私もまもなく消えますので、またお会いしましょう外骨忌で」。
 そう書いてから10カ月後に小沢もまた世外の人なった。

IMG_5236 2月12日(土)晴れ。穏やかな日差しに誘われて、久しぶりに植物園へ出かける。植物園は柔らかな日差しの下、家族連れで賑わっていた。広い園内を一巡したが、ちらほら咲き出した梅以外、花らしい花には会えず。セツブンソウがほんの一輪白い花をつけていたが、よほど注意して探さないと気が付かないほど。花には会えなかったが、ジョウビタキやイカルなど野鳥に会えた。
 午後からコンサートホールの南側にある歴彩館へ行く。ここは以前あった総合資料館が府立大学の図書館などといっしょになって新しく開館したもの。京都に関する資料を収蔵しており、隣の府立大学図書館も利用できるので、開館直後は何度か利用したが、以後ほとんど出向いたことがない。この日は京都仁丹樂會の下嶋一浩氏の話を聞くのが目的。会場はほぼ満員。私も京都に来てから、町のIMG_5229角々にある仁丹マークの町名板に興味を持て、写真を撮ったりしていたので、町名板で知る京都の歴史などを楽しく聴いた。
 終了後、同じフロアで開催中の「与謝野鉄幹・晶子、吉井勇展」を見る。吉井勇(1886~1960)は1938年から1960年に亡くなるまで京都に住んでいた。京都の文人たち(谷崎潤一郎や新村出、川田順など)と交友し、京都を詠み、芝居の脚本を書いた。祇園を詠んだ「かにかくに」の歌はとくに有名で、毎年歌碑がある祇園白川ではかにかくに祭が催されている。高瀬川沿いにある喫茶ソワレへもよく通ったそうで、「珈琲の香にむせびたるゆうべより 夢みるひととなりにけらしな」の歌碑がある。1907年には与謝野鉄幹や北原白秋らと九州に旅をして(いわゆる「五足の靴」)長崎へも訪れた。戦後歌碑が建立されるとき、夫人と共に長崎へやってきたときの写真が展示されていた。「(昭和)27.5 長崎大浦天主閣」と記されているが、これは「長崎浦上天主堂」の間違い。浦上天主堂は被爆して破壊したが、まだこのころはレンガ造りの建物の一部が残っていたようだ。背後の鉄骨は被爆した給水塔ではないか。昭和27年、連合軍による占領が終わって日本は独立したものの長崎はまだ戦後ただ中だったにちがいない。
 写真上は吉井勇展に展示されていた浦上天主堂の写真。見えにくいかもしれませんが、拡大すると日付と場所を記した文字が読み取れます。下は植物園の「春の花」コーナー。
 

IMG_5181 2月10日(木)曇り。朝、いつものようにネットで野鳥観察のライブカメラを見ると、軽井沢は真っ白の雪。その雪の中にいろんな鳥たちが群れている。見慣れた姿はカワラヒワ、シジュウカラ、ヤマガラ、イカル、いちばん多いのはアトリか。入れ替わり立ち代わり、雪の中をやってきては餌をついばんでいる。小鳥たちの姿は見飽きないが、それでは仕事にならないので、IPadでライブカメラを見ながらパソコンを繰る。
 今日も一つ、会合が中止となった。もう半年あまり延び延びになったままのもの。オンラインでやれるのならとっくにそうしているのだろうが。なんとか一日も早く疫病神には退散してほしいもの。近所の家に鍾馗さんと元三大師のお札を見る。魔除け、疫病祓いの鍾馗さんは屋根付きで屋根の上に。厄除けの元三大師(角大師)は軒の下に。祇園祭には厄除け粽が出て、これも軒に下げられる。京都の家の軒はなかなか賑やか。前日9日の京都のコロナ感染者数は2996人、見えざる敵とどう対峙していいものやら。
 午後、説話集『古事談』を拾い読み。ゴシップが真実のように伝えられるというのは昔も今も同じか、フィクションはフィクションだと承知して読まなければ。
 写真は近所の家の鍾馗さんと元三大師。
 

IMG_5175 2月9日(水)晴れ。今月2日に開館した大阪中之島美術館が評判になっている。構想から実現まで40年もかかったというのも話題の一つだが、運営が民間というのは気になる所。自由な発想で思い切った企画が実現するといいのだが。中ノ島には東洋陶磁美術館や香雪美術館、国立国際美術館など、個性的なミュージアムが既にある。既存の美術館とうまく連携してより魅力的なエリアになればいいなと思う。さて、わが京都のミュージアムはといえば、岡崎公園内にある国立近代美術館と京セラ美術館(市立美術館)が代表的なものだろうか。市内には自然、科学、産業などの博物館も含めると公私あわせて200余ものミュージアムがある。以前は町あるきのついでにいろんなミュージアムを覗いたものだが、コロナのせいで、そういう機会が激減した。いま京都国立近代美術館では岸田劉生展が開催中。新しくまとまって収蔵品となった劉生の作品を紹介するもの。どこの美術館も自慢の収蔵品というものがあるが、ここには長谷川潔のコレクションがあるのだ。最近はなかなかまとめて展示される機会がないのが寂しい。
 そうそう今日、市バスに乗ったら停留所で客が降りるたびに運転手がこんな声をかけていた。「暗いニュースが続く今日このごろですが、みなさまにはこの後も明るく幸せな一日でありますように。どうぞお気をつけてお過ごしください。ありがとうございました」。何かのアナウンスかと思ったが、バスのドライバーの挨拶だった。ちょっと感動しましたね。
 写真は岸田劉生展が開催中の京都国立近代美術館。

1643770122101 2月8日(火)晴れ。平安京には朱雀大路の東西に東寺と西寺があった。東寺はいまも同じ場所に健在だが、西寺は早くに焼失し再建されないまま今に至っている。この西寺跡には大きな礎石があるのみ、賑やかな市街地にあってぽっかりと静寂な空間を保っている。何もなく寂れた佇まいがいい。ここから少し東へ行ったところが羅城門跡。ここはといえば小さな公園になっていて、そこに侘しく石碑や看板があるのみ。何度か遠来の客を案内したが、みな一様に「がっかり」。もう少し、平安京をしのばせる空間(史跡)にできなかったものか。遊具などあって生活感というか、日常感いっぱいの羅城門跡なのだ。まあ、1200年余も人が住み続けているのだから、地下に眠る都を再現するのは至難のことと承知しているのだが。
IMG_5163 あやしいメールがいくつも届く。アカウント無効のお知らせ、アカウントが削除されます、利用のお知らせ、本人認証方法の変更について、などなど、全く利用したことがないところからのメールは即、削除するも、利用しているところのものだと迷ってしまう。だが、これらがカード情報のフィッシングだというものなのだろう。用心、用心。
●倉本一宏『平安京の下級官人』(講談社現代新書)を読む。著者は平安古記録研究の第一人者で、『御堂関白記』『権記』『小右記』の現代語訳を手掛けている。この本はこれら三つの平安古記録や同時代の古記録から貴族ではない下級官人たちの素顔を取りだして紹介したもの。説話文学(たとえば「今昔物語」や「古事談」「宇治拾遺物語」など)には庶民の姿が数多く描かれているが、倉本先生は文学作品は史料としては扱わないという態度で一貫していて、あくまで事実にこだわっている。歴史学者としては当然なのかもしれないが、見事なものだと思う。ここに紹介された下級官人たちの素顔にはお気の毒としかいえないものが多いが、1000年前を想像する有力な手掛かりにはなる。時代を超えて今もなおと思える箇所もあるが、いや、こんな時代に生まれなくて良かったと思うばかりでした。
 写真上は九条唐橋にある西寺址。冬枯の木立が廃寺跡によく似合っています。

IMG_5209 2月4日(金)晴れ。立春。今年は旧正月が2月1日なので、一月遅れで新旧暦の日付が重なってわかりやすい。今朝は冷え込んだが、マンションの部屋の中は暖房なしでも20℃を保っている。もともと冬場、朝起きたときの室温が18℃を下がることはなかったが、数年前、すべて二重窓にしてから一層快適になった。老後の住まいはマンションがいちばんだとつくづく思う。家の管理をしなくてもよくなってからどんなに気が楽になったか。庭の草むしりから解放されてどんなに自由になったか。失うものもあるが、得たものの方が(私の場合は)大きい。マンション住まいだとモノを増やせないのもいい。もう物欲はないから大丈夫なのだが、すっきり住むにもマンションは最適。増える本を定期的に処分しなければならないのが辛いが、これも仕方がない。すべてこの世は仮の宿り。「いかにしていかにこのよにありへばか しばしも物を思はざるべき」(和泉式部)です。
 写真は昨日お詣りした北野天満宮の花手水。色とりどりの花がきれいです。手を浄めて思わず、「袖ひぢてむすびし水のこほれるを 春立つけふの風やとくらん」(紀貫之)が口をついて出ました。

1643858677826 2月3日(木)雨のち晴れ。節分。人ごみは避けようと思いながら、壬生寺の節分会へ行ってきた。四条通から坊城通を南に入ると細い道の両側に露店が並び、寺の境内はかなりの人出。前日の護摩炊きの名残りか、境内に黒く煤のあとあり。今年は壬生狂言が上演されるそうだが何故か夜間のみらしい。混雑を避けるためだろうか。例年通り炮烙を納め、お地蔵さまにお詣りして寺を出る。久しぶりの外歩きで心が弾んだせいか、ついでに天神さんまで足を伸ばすことに。天神さんの梅はいかがと尋ねてみると、大鳥居のそばの紅梅が8分咲きというだけで、境内の梅はまだつぼみ。本殿前の飛梅も同じく堅い蕾だった。ここでも鬼やらいの行事があるのか、舞台づくりの最中だったが、まだ時間がかかりそうなので待たずに帰路に着く。
IMG_20220203_115408帰りて●藤田真一『俳句のきた道』(岩波ジュニア新書)を再読。ジュニア向けのものとはいえ、芭蕉・蕪村・一茶という江戸時代の三俳人の人となりと作品がわかりやすく、また魅力的に語られていて、大人が読んでも楽しい。それぞれの個性が手に取るようにわかり、気づかされることが多いのだ。三俳人に思いを馳せながら午後のひと時を過ごす。至福の時なり。

 写真上は壬生寺にて。いずこの花街の舞妓たちやら、愛らしい姿がありました。

IMG_5197 2月1日(火)曇り。旧正月。朝、今日が誕生日のKさんに「おめでとう」のメールを送る。先日、地下鉄の中でおよそ一年ぶりくらいに顔を合わせたばかり。そのときゆっくり話ができなかったので、お互い長いメールを交換す。近況報告はもとより、いまとりかかっている仕事のこと、気になる本のことなどをそれぞれに。離れていても同じような心を持つ友人がいるのは嬉しい。最近は話し相手が家族(といってもつれあいのみ)しかいないから、言葉を忘れていまいそうだと書いてやったら、「お互い、歌を忘れたカナリアやね」。IMG_5198ま、炭鉱のカナリアではないことは確か。長生きしてこんな世の中を見るなんて、と嘆いたら、ほんま、まるでSFの世界だものね、とKさん。先の戦争でも敗戦国にすぐれた文学作品が生まているから、コロナのあとを楽しみにしましょうと言うので、それまでもたないかもという返事を送る。
 春節祭の今日から長崎ではランタンフェスティバルが開催されるのだが、コロナのせいでいろんな行事は中止らしい。町にランタンは飾られるが、華麗なオブジェは無しという。神戸や横浜の中華街も静かな旧正月になるようだ。何であれ、祭が中止になるのは寂しい。季節感が失われて、まるでのっぺらぼーという感じ。年寄りの感性は鈍る一方、老化に加速度がつく感じ。
●『原爆後の75年ー長崎の記憶と記録をたどる』(長崎原爆の戦後史を残す会 書肆九十九)を読む。長崎原爆についてはいろんな団体や個人によって被爆証言などが記録されてきたが、戦後の経過記録は少ない。戦後は占領軍による報道規制があって、被爆状況を語ることは禁じられていた。被爆者が体験を語り始めたのはずいぶん後のことだ。被爆者の団体はいくつもあるが、この本によってそれぞれの団体が生れた経緯から現状までを知ることができた。各団体に聞き取りを重ねたもので、被爆者運動・平和行政・記録運動など、長崎の原爆記録に関する事項を網羅したもの。なかに、長崎原爆資料館の館長を務めた中村明俊さん(青来有一さん)の話もあって興味深く読んだ。長崎原爆被災史の総合目録として貴重な資料になるにちがいない。
 写真上は三条通で見かけたリフォーム会社の壁に描かれた楽しい絵。下はあるマンションの前にあったクロガネモチの樹。真っ赤な実が美しい。

IMG_5193 1月31日(月)晴れ。一時減少していたコロナ感染者が再び増加している。今度はオミクロン株による感染だという。29日、京都府の感染者は2754人で過去最高だった。できるだけ人混みは避けて、芝居やコンサートなどは諦め、家籠りを続けているが、「片雲の風にさそわれて、漂泊の思ひやまず」。そろそろ動きたいが、目に見えない敵がどこに潜んでいるやもしれず、まだしばらくは用心の日々か。自宅から半径1キロほどの中を散策する日々。この日は四条烏丸のくまざわ書店で、新刊案内を見る。朝日、日経、京都新聞の読書欄と、そこで紹介された本が並べてあるのだ。新書IMG_5194をいくつか購入したあと、東洞院通を上って「八百一」で買い物。この八百屋のビルの屋上には菜園があり、年中、青々とした野菜の姿が見られる。最近は都会のビルの屋上を緑化するのが流行っているが、ここは本格的な農園。しばらく緑を楽しんでから1階の食料品売り場で買い物。帰途、近所の居酒屋の前に鮮魚売り場が出来ているのを見かけて立ち寄る。「コロナで店がやれないので、魚を売ることににしました、刺身や焼き魚など料理済みのものもたくさんあります」という。アカムツ(のどぐろ)、イトヨリ、コチ、アジ、サバ、アオリイカ、イシダイなどは長崎産、富山のキンメダイ、兵庫のナマコ、他にアナゴ、マトウダイ、生ワカメ、ウニなどがある。この日は刺身用のイカとナマコ、ワカメを買って帰宅。久しぶりに町を歩いたら、店名が変わっていたり、店が消えて更地になっていたりとその変り様に驚くやら胸を衝かれるやら。
 写真上はくまざわ書店の新聞読書欄コーナー。下は八百一ビルの屋上農園。 

IMG_20220131_150016 1月29日(土)曇り。生まれ育った長崎の町には明治以降に建てられた近代建築物がたくさんあった。教会、学校、領事館、病院、西洋人の住居など、観光用ではないこれらの建物が身近にあった。時代とともにそれらの多くは消えてしまい、いま残るのは歴史的建造物として保存されるものばかり。居留地に残る洋館の一つは市民による保存運動のおかげで生き残ることができた。建物も生き物であるならば老いに抗うことはできないが、古い建物が残る町にはやはり魅力がある。いま住んでいる京都にも近代建築物がたくさん残っていて、町あるきの楽しみとなっているのだが、それでもこの30年余でずいぶん姿を変えた。先日写真を載せた府立図書館もファサードだけを残して本館は新しくなっている。町にあったレンガ造りの銀行のいくつかもデザインをそのままに新しく建て替えられている。古い建物を見て、ほろびしものはなつかしきかな・・などと思うのはIMG_5195私くらいなものか。
 ●小川格『日本の近代建築ベスト50』(新潮新書)を読む。著者は大学の建築学科を出て長く建築雑誌の編集に携わってきた人。その著者が個人的に好きだというものを選んだのだろう、私ならあの建物を・・と思いながら読んだ。(例えば私なら、金沢の鈴木大拙館や酒田の土門拳記念館を入れたい) ここにあるのはいずれも20世紀以降のもので、フランク・ロイド・ライトによる自由学園明日館に始まり、西沢立衛の十和田市現代美術館まで50の建物が選ばれている。このうち私が訪ねたことがあるのは半分ほど。金沢市立玉川図書館や名護市役所、安曇野の碌山美術館があるのは嬉しい。十和田市の現代美術館は町ぐるみという感じがよかった。
 京都は神社仏閣もいいが、近代建築を訪ねるのもいい。写真は三条通りにある京都中京郵便局。1902年建設のものだが、1978年にファサードを残して内装を新築。この三条通は近代建築が並ぶ通りとして有名です。

IMG_5189 1月27日(木)曇り。二条城のお濠に沿って歩いていたら、陸にあがって草を食んでいる鴨たちを見た。茶色の頭をしたヒドリガモのようだ。鴨川まで行けば、ユリカモメやマガモ、ホシハジロ、キンクロハジロなど、いろんな冬鳥が見られるのだが。以前住んでいた家の庭には、冬になるといろんな野鳥がやってきた。メジロ、ジョウンビタキ、シジュウカラ、コゲラは常連で、たった一羽で毎年やってきたのがツグミとアオジ。まさか同じ個体ではないと思うのだが、毎年同じ時期にたった一人(一羽)でやってきて、半日遊んでいた。我が家の庭は雑木林のようなものだったから、鳥たちには居心地がよかったのかもしれない。いま賑やかな市中のマンションで出会えるのはスズメにカラス、ヒヨドリ、セキレイ、コサギ、トンビ、時々美しい鳴き声を聴かせてくれるイソヒヨドリに、椿の花の蜜を吸いにくるメジロくらいか。鳥たちに会えないのは寂しいので、YouTubeとやらで野鳥観察のライブカメラを時々覗いている。軽井沢の個人の家に設けられたものだが、来るわ来るわ、一日中野鳥の姿が絶えない。いまはシジュウカラ、カワラヒワ、ヤマガラ、イカル、ゴジュウカラ、最近はアトリが群れて来る。
 昨日、ZOOMでEAAシンポジウム「仏教と哲学の対話」を聴く。レジュメが手元にないので、ひたすら耳を傾けるが、半分も頭に入ったかしらん。講師は守中高明と下田正弘氏。
Mさんに薦められた●佐野静代『外来植物が変えた江戸時代』(吉川弘文館)を読む。日本の岸辺がどのように利用され、植生が変化していったか、琵琶湖や瀬戸内海、奄美大島での調査をもとに詳細に記されている。琵琶湖ではいまも水藻や蘆が刈り取られ利用されているが、昔、水藻はアブラナの栽培に肥料として欠かせないものだったそうだ。藻を刈ることで水質保全にもなったという。近江の人たちは琵琶湖の水を守るため、いろんな努力をしている。恩恵を受けている京都人としては感謝あるのみ。
 写真は二条城の堀端で憩うヒドリガモたち。

IMG_5173 1月25日(火)晴れ。久しぶりの青空。調べものがあって府立図書館へ出かけたら、前日から館内整理のため来月3日まで休館中。折角出てきたので近くの美術館(国立近代美術館や京セラ美術館など)でも覗いてみようかと思ったが、あまり気が進まず、引き返すことに。地下鉄を降りる時、車内にKさんを見かけて声をかける。コロナのせいでずっと休会している歴史の会の仲間だが、その間に彼女はせっせと歌づくりに励んでいるとのこと。詳しくはラインでね、と声を交わしてドアの外へ飛び出す。いろんな集まりが休会したままなのが寂しい。話すことで頭の中が整理され文字になる、書くことと話すことは車の両輪のようなものなのに、いまはそのどちらも休業中とあって、もはや脳死状態。Kさんはいい歌を詠んでいるらしく、閉じこもっていても頭は活性化しているようだ。二人で毎月の例会ごとに句を詠むことを宿題といていたこともあったが、半年も続かなかった。彼女は五七五では物足らず、三十一文字に自分の世界を託したのだろう。
 帰宅後、●梨木香歩『炉辺の風おと』(毎日新聞出版)を読む。八ケ岳高原暮らしを記したものだが、ああ、あの辺りかと風景が目に浮かんで興味深く読んだ。毎夏、私も八ケ岳滞在中に何度か足を運ぶところで、冬はマイナス20度にもなると聞いてぞっとしたものだが。著者は標高1600mの自然環境と折り合って、上手に過ごしている。この人の禁欲的なほどの生活ポリシーにも感服す。
 写真は京都府立図書館。右手の像は書を読む二宮金次郎。この金次郎さんは薪を背負っていませんね。

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