2022年04月

IMG_20220427_114427 4月27日(水)曇り。久しぶりに車で外出。用事が思ったより早くすんだので、そのまま京丹波方面へ足を伸ばしてきた。コロナ自粛で出不精になってしまい市外へ出るのは久しぶりのこと。目的がないまま京都縦貫道を北へ走る。山は眩しいほどの新緑、まだ白っぽい緑の山肌のそこかしこに紫色のフジの花が見える。白いブラシのような花をつけているのはウワミズザクラだろう。まだヤマザクラも咲き残っていて、そこだけぼーっと白く浮かびあがっている。窓から吹き込む風はもう初夏のもの。京丹波のSAで休憩し、ついでに野菜や米を購入す。ここの名物黒豆豆腐や大黒しめじも忘れずに。SAの隣にマリオット系列のホテルができていた。金髪女性が二人、テラスでコーヒーブレイク中。ツーリストだろうか、外国人を見かけるのは久しぶりのこと、それにしてもこんな所にと思っIMG_20220427_114410てしまったのだが・・・。
 帰りて●津野海太郎『最後の読書』(新潮社)と『かれが最後に書いた本』(同)を読む。嵐山光三郎の『生きる!』(新潮社)ではないが、最近はちょっと先輩たちの本ばかり読んでいる。津野海太郎さんが『最後の読書』に、「年をとるにつれて小説というフィクションを楽しむ力が失われ、それにつれて、いつしか歴史や伝記や回想録や日記などを好んで読むようになった」と書いていたが、全く同感。いまわが座右にあるのは荷風の『断腸亭日乗』や漱石の日記、『御堂関白記』や『小右記』などの平安貴族の日記、そして芭蕉や蕪村の小文・書簡集。長く編集者として活躍した津野海太郎さんの本と人に関する話は実に面白い。交遊録が点鬼簿となっていくところ、ちょっと泣かされましたが、本が「本」であった時代のいい話がいっぱい詰まっていました。これから何度でも読み返すことになりそうです。

IMG_20220427_114402 4月24日(日)雨。午前中、長岡京まで朝掘り筍を買いに行く。いつもこの時期だけ訪ねる農家の庭先にまだ土がついたままの筍が並べてある。最近は皮むきや茹でるのが大変という人が多いそうで、納屋の奥の大釜で筍が茹でられていた。ずっしり重い筍を抱えて帰宅、早速皮むきにとりかかる。筍一本分の皮はゴミ袋一袋分にもなる。この時期だけしか出番のない大鍋を出して筍を茹でる。春の香りが部屋中に漂う。去年はイノシシに先を越されて往生しましたとのことだったが、今年は無事だったのかしらん。
 ●小林信彦『日本橋に生まれて』(文藝春秋)を読む。「週刊文春」に20余年続いた連載をまとめた最終巻。この連載の第一巻目は「人生は五十一から」(1999年)で、以後一年分がまとまって単行本となり、3年後には文庫になるというスタイルで続いてきた。雑誌を読む習慣がないので、このシリーズは本になってから読んできた。文庫本が出ると単行本は処分(書棚のスペースの問題で)を繰り返してきたが、いよいよ最終巻となった。作者は数年前に脳梗塞を患い片手で書いてきたが90歳近くになって、連載を終えることになったのだろう。社会批評の歯切れの良さ(あの橋本治にも負けない)を小気味よく思ったものだが、もうそれが読めないのは寂しい。同じ時期に「週刊文春」に連載された高島俊男『お言葉ですが』も本になるのを待ちかねて読んだものだが、こちらは一足先に連載終了となり作者は昨年鬼籍に入ってしまった。年々、楽しみが遠ざかるという気がしてならない。池内紀、小沢信男もいなくなったいま、川本三郎さんや津野海太郎、嵐山光三郎には頑張ってもらいたいものだ。

IMG_20220417_112829 4月22日(金)曇り。中国文学者一海知義(1929-2015)の『ことばの万華鏡』(藤原書店)を読んでいたら、こんな一文にあった。著者が加藤周一と対談したときのこと、中国古典の話になったので、李白と杜甫のどちらが好きか尋ねたら、加藤周一は「圧倒的に杜甫だ」と答えたという。フランス文学者の加藤周一は漢文を読み、古典を読むのを日課としていたそうだ。だからこそあの名著『日本文学史序説』が生れたのだろう。この本で、加藤周一が亡くなった時、『聖書』と『論語』が棺に収められたということを知った。加藤周一の蔵書は立命館大学に寄贈され、「加藤周一文庫」となっている。大学にはまた「加藤周一現代思想研究センター」があって、研究活動と同時に広く講演会なども行われている。今年は5月に姜尚中さんの講演会があるそうだ。
IMG_20220411_111849 一海知義は京大で吉川幸次郎に学んでいて同期の一人に高橋和己がいた。この本には恩師吉川幸次郎について書かれたものも多く、「吉川幸次郎先生と洛北高校校歌」もその一つ。吉川幸次郎は母校である神戸高校から校歌の作詞を依頼された時、「日本語の詩は作ったことがない」と断ったが強引に説き伏せられたという。息子が通う洛北高校の校歌を作ったのはその数年後で、それは「千年の森かげに 一頃の緑もえ 真理をおもう ひとみいくばく ここにむれ ここにつどえば めじとおく くもはゆきかい ふるきみやこの北にして あたらしきつちここにあり」というもの。全27巻の『吉川幸次郎全集』に和文の詩はこの二つの校歌しか収められていないというから、貴重なものだ。いま埼玉に住む義姉はたしか洛北高校の卒業生だったはず。まだ覚えているのなら歌えるのではないか、聴いてみたいものだ。この義姉は高校生の時、東京オリンピックがあって、聖火ランナーの一人として京都市内を走っている。新聞に大きく写真がでたのよ、と聞いたことがある。
 この本は著者が亡くなったあとに出ている。著作集や単行本に未収録のものの中から「ことば」に関するものや書物や人物に関する思い出などが収められている。加藤周一はじめ壽岳章子、岡部伊都子など懐かしい名前が出てきて嬉しく読んだ。
 写真は散歩中見かけたシャクナゲとアケビの花。ベニバナトキワマンサクはもう終わりました。 

IMG_5604 4月20日(水)晴れ。Kさんと京都国立博物館へ「最澄と天台宗のすべて展」を観に行く。比叡山に延暦寺を開いた最澄(伝教大師 767~822)の1200年遠忌を記念する展覧会で、既に東京、九州での開催を終えてこの春京都での開催となったもの。最澄は弘法大師空海と並ぶ平安仏教の祖だが、最澄も天台宗に関しても私は通り一遍のことしか知らない。毎日仰ぎ見ている比叡山の歴史を一から学ぶつもりで観てきた。幸い古代史研究の専門家であるKさんがいっしょなので心強い。全国各地から出展された仏画や仏像、伝えられてきた宝物などは初めて見るものが多かったが、なかでも文書の類に目を奪われた。最澄が中国で何を学び、帰国の際に何を持ち帰ってきたか、当時の書付(目録など)がたくさん現存していて、(そのほとんどが国宝)墨の色も鮮やかなのに驚いた。平安古記録で1000年前の藤原道長による自筆の日記がいまに伝わっているのに感動させられるが、最澄の書はそれよりさらに200年以上も前のものなのだ。「伝教大師度縁案並僧網牒」や「伝教大師入唐牒(通行許可証)」にある最澄の書に見とれると同時に、同じ書面にある中国の役人の文字の立派さに溜息がでる。漢字は中国が本場なのだとあらためて教えられた。これらは勿論漢文だが楷書や行書なので何とか読める(判じ読みだが)。難しいところはKさんに読んでもらう。何とも頼もしいこと。会場に最澄、円仁(慈覚大師)、円珍(智証大師)の入唐求法の旅のルートを記した大きな地図が掲示されていて、1200年も前に海を渡った僧たちの苦難の日々が思われた。最初の文書で時間を費やしたせいで後半は少し駆け足になったが3時間半余で今日の観覧は終了。次の予定の時間が迫っていたので、後期の展示に再訪を約してKさんと別れる。天台宗についての知識はさっぱりのままだが、展示物の豊富さ(内容も質も)に圧倒された一日でした。
帰宅後、枕のように厚い図録を開いておさらいをしています。比叡山の根本中堂には比叡山に学んで自分の宗派を立てた各祖師の肖像画が掲げてある。いわゆる鎌倉仏教の祖師たちで、法然(浄土宗)、栄西(臨済宗)、親鸞(浄土真宗)、道元(曹洞宗)、日蓮(日蓮宗)、一遍(時衆)など。京都には各宗派の寺院や学校があり、さらにキリスト教系の学校もあって、なかなか賑やか。毎年のようにだれかの遠忌があって、全国から人が集まるのも京都ならではです。円仁の『入唐求法巡礼行記』や源信の『往生要集』をひもとく必要がありそうです。

IMG_5597 4月17日(日)晴れ。今朝5時ごろ西の空に黄色い真ん丸の月が輝いていた。山の端近くになると朧月になったが。暦を見ると今夜が望月とある。今夜は晴れそうだから、満月が見られるのではないか。地上より少し高い所に住んでいるので、窓から見える空や山が一番の友だ。空と言えば昨日の朝7時ごろ、西の方に大きな虹が立った。それと気が付かないほど薄い色だったが、半円を描いてしばらく浮かんでいた。ワーズワースではないが、思わず「私の心は踊り」ました。

IMG_20220417_110644IMG_20220417_110515IMG_20220417_112338あまりにも爽やかに晴れているので、午前中植物園を散歩してきた。日曜日とあって親子連れが目立つ。スケッチや花探索のグループもそこかしこに。お目当ての植物生態園にはカメラ片手の老若男女たちが咲き出したイチリンソウやイカリソウを撮影中。私も仲間入りしてパチリ。目の前のアベマキの木にヤマガラが飛んできた。鮮やかなオレンジ色のお腹を見せて。広場ではムクドリやセキレイたちが忙しそうに芝生をつついていた。この平和をウクライナの人たちに届けたいものだ。こうしている間にも無辜の人々がミサイルに脅かされていると思うと、堪らなくなる。思うだけで何の役にも立てないのが辛い。

 写真上は昨日の朝の虹。ほんの数分、薄っすらとかかりました。下はユキモチソウ、イカリソウ、ニリンソウ。イチリンソウは文字通りまだ一輪しか咲いていませんでした。

IMG_5574 4月15日(金)曇り。夜のうちに雨が降ったらしく、朝見るとベランダが濡れていた。鉢植えの花が大きな露を溜めてうなだれている。愛宕山も西山も白い雨雲に半分覆われている。山肌に白く点々と浮かんでいた山桜の跡はもう消えて、クリームイエロウの若葉の色が濃くなっている。春はもう半分過ぎた。
 今日4月15日は薄幸の歌人山川登美子(1879-1909)の命日。福井県竹原町(現小浜市)に生まれた登美子は少女時代から和歌の手ほどきを受け、やがて大阪の梅花女学校に入学。21歳の時、「明星」に歌が載り、新詩社の社友となって与謝野鉄幹や鳳晶子と知り合う。だがその年の秋、父が縁談を進め、翌年歌に心を残したまま東京で結婚。次の年には夫の結核が再発して暮れに死去。24歳のとき婚家を離れ生家に戻る。その後再び大学へ入り、新詩社の集まりにも参加、鉄幹や晶子との交流も復活する。たくましい晶子とは違い登美子は蒲柳の人で、腎臓炎や肋膜炎を患い京都で静養したのち小浜の実家へ帰り、病臥の日を送ったあと恢復しないまま29歳で永眠。登美子の「後世は猶今生だにも願はざる わがふところにさくら来てちる」は亡くなる前年に「明星」に掲載されたもの。彼女の絶唱といっていいだろう。毎年、散り始めた桜を見るたびに、この歌を思い出す。もう逃れようのない死を覚悟した断念と諦念に満ちた歌。その諦念の強さで私には忘れられない歌人なのだ。生きている間にもう自分の死後の世界をみているような、そう思われてならないのです。
 写真は白川に架かる一本橋と桜。

IMG_5592 4月13日(水)曇り。久しぶりに古記録ゼミのkさんと嵐山でランチ。コロナのせいで研究会がオンラインとなったため、もう長い事会っていなかった。食事をしながら近況を聞く。新しく取り組んでいる仕事のことや最近読んだ論文のことなどあれこれ語るkさんに、元気を貰ったという感じ。コロナ禍で自粛の日々が続き、日常の買い物以外ではもう外に出るのも億劫になっていたことに気づかされた。食事のあと二尊院まで足を伸ばす。途中、落柿舎近くを通ると、舎前の広場半分ほどが青々とした麦畑になっていた。桜は終わり、楓が瑞々しいIMG_5594新緑の枝をそよがせている。二尊院の門を入ると、楓のトンネルが目の前に。本堂にあがり二尊(阿弥陀仏と釈迦仏)を拝し、庭の普賢櫻やシャガなどを愛でる。嵐山のバス道や渡月橋あたりは観光客でいっぱいだが、ここはほとんど人の気配はなく静謐そのもの。kさんに二尊院の縁起や歴史などを教えてもらう。さすが専門家、年代も人名もすらすらと出て来るのには感心した。何事も先達はあらまほしきこと、ですね。
「ひっそりと家で暮らせる安らかさ コロナ自粛はわれに合ってる」(大阪 川原篤)という歌に大きく頷いたものだが、たまには外歩きをしなければ頭が錆びついてしまうのではないかと反省しきりの一日でした。
ここ数日間に読んだ本。
●高橋英夫『五月の読書』(岩波書店)
●梨木香歩『ここに物語が』(新潮社)
●カティ・マートン『メルケル 世界一の宰相』(文藝春秋)
●佐藤亜沙『手の倫理』(講談社)
●湯川豊『丸谷才一を読む』(朝日新聞出版) 

 写真は新緑の二尊院。楓のトンネルの前にシャクナゲとリキュウバイを活けた竹の花器がありました。

IMG_20220217_134128 4月11日(月)晴れ。新聞で長崎にある5つの被爆者団体の一つ「被爆者手帳友愛会」が3月末で解散したことを知る。この友愛会は1979年に「被爆者手帳友の会」から分かれて発足したもので、被爆地域外で原爆に遭ったため被爆者と認められていない被爆体験者の救済を求める活動を続けてきた。解散の理由は会員の高齢化や財源不足によるものという。被爆者の高齢化はずいぶん前から言われてきたことで、今後、他の団体でも深刻な問題になるのではないか。長崎の被爆者団体の歴史や活動の内容については、先日読んだ『原爆後の75年』(長崎原爆の戦後史をのこす会編 書肆九十九)で詳しく知ったばかり。今年は敗戦から77年、赤ん坊の時被爆した人がもう80近くになるのだ。戦争や被爆体験を語ってくれる人がいなくなる時がいつかは来る、覚悟しておかなければと思う。IMG_55661974年に『われなお生きてあり』の作者である福田須磨子が亡くなったとき、「被爆者がいなくなる日を待っている者たちがいる」と誰かが新聞に書いていた。被爆国である日本が未だに核兵器禁止条約に署名しないのは、そういう人たちが(政府の中枢に)いるせいではないかしら。
 いつまでも寒いせいで花が遅いとこぼしていたら、真夏のような暑い日が続き、春の花がいっせいに開いた。ソメイヨシノはあっという間に散り、いまは遅咲きのしだれ桜やサトザクラ、ハナミズキ、ヤマブキ、リキュウバイなどが色とりどりに花盛りとなっている。写真は植物園のショカッサイ(オオアラセイトウ、ムラサキハナナ)。イカリソウも可憐に咲いていました。 

IMG_5412 4月10日(日)晴れ。埼玉に住む義姉が姪のJ子と共に来訪。義姉は京都生まれで、今回は両親のお墓参りも兼ねての里帰りだという。義姉は三人姉妹の末娘で、実家にはいま中姉夫妻が住んでいる。「来るたびに京都の町は様変わりしてびっくり。町はいたるところホテルだらけ、それなのにまだまだ新しいホテルが建つんでしょ。大阪万博をあてにしてるのかもしれないけど、思惑通りにいくかしらね」と他人事ながら危ぶんでいる様子。全く、コロナでインバウンドがゼロになったというのに、京都のホテル建設ラッシュは続いている。最近は海外資本の富裕層向けホテルが目立つ。コロナ後を狙っているのだろうが市民生活が脅かされるような賑わいはご免だ。「子どもの頃は自宅の2階から大文字の送り火が見えたのだけど、もう周りじゅうにマンションが建ったせいで見えなくなった、ほんかなんわ」、昔話をするうちに義姉はたちまち京言葉に戻り、辛辣で柔らかな京おんなになりました。前日から仕込んでいた料理もきれいに片付いて、嬉しいこと。毎日曜日、夕食に来る女子大生たちもいっしょに食卓について、揃って昔話を愉しんでおりました。
 みんなが帰ったあと、友人が送ってくれた歌誌をひらく。中にこんな歌あり。
「鳥たちを深き緑に養いて 欅は天を仰いで立てり」(愛知 谷口富貴子)
まだ我がマンションの庭の欅はようやく新緑となりつつあるところだが、もう一月もすれば、この歌のような情景が見られるのではないかしら。楽しみ。
 写真は円山公園の柳(欅ではありません)。やわらかに柳あおめる円山の・・です。

IMG_20220408_075529 4月8日(金)晴れ。灌仏会。4月8日は2008年に80歳で亡くなった小川国夫(1927-2008)の命日。小川国夫は内向の世代を代表する作家といわれ、静かで透明な文章の奥には生を見つめる確かな目があった。島尾敏雄に推奨された『アポロンの島』で文壇にデビューしたとき、小川国夫はもう40歳に近かったが、その後も自分のペースを崩すことはなかった。長く同人誌を拠点として文学活動を続けてきた小川が、心を許して付き合っていた作家の一人に立原正秋(1926-80)がいる。まだ文学修業中だったころの二人はさかんに手紙を交わし、時にはお互いの家を訪ね合ったりして友情を深めていた。二人が交わした手紙をまとめたのが『冬の二人』(創林社 1982年)で、タイトルの「冬」には世に出る前の、という意味が隠されているのだろう。お互いの作品について感想を述べあったり、IMG_20220408_101727仕事のやり方について相談したり、試行錯誤の日常を吐露しあったり、二人の間にある信頼感の深さが伝わってくる。ここに収められた書簡は1961年から1968年までの計180通。1980年に立原正秋が亡くなった後、小川国夫が編集して本にした。1990年に『野呂邦暢・長谷川修往復書簡集』(陸封魚の会編 葦書房)を出すとき、参考にしたのがこの本だった。『野呂邦暢・長谷川修往復書簡集』も西日本に住む二人の作家の、いわゆる「冬の時代」に交わされた手紙を編んだものなのだ。前者には文学論の合間に日常や家族の話などが記されているが、後者の場合、書かれているのは徹頭徹尾文学についてのみという徹底ぶり。野呂文学と長谷川文学の真髄を知るには欠かせないものになっている(はずと思う)。
 小川国夫さんには1991年の秋、ある大学の集中講義でお会いした。キリスト教と文学(芥川龍之介の話をされたと思う)についての講義のあと、数人で作家を囲んで親しく話をしたのだが、お酒での失敗談など磊落な一面ものぞかせて、静謐な作家の素顔を見る思いがした。もうそのころは大坂芸術大学で教壇に立っておられたのではないか。のちには京都でも話を聞く機会があったが、最後まで静かで確かな人という印象は変わらなかった。今日は久方ぶりに小川国夫の本を読み返すことにしょう。

IMG_5506 4月6日(水)晴れ。4日、巨人に負けた阪神が9連敗というので、「またも負けたか八連隊 それでは勲章九連隊」というざれ歌を思い出した。たしか田辺聖子のエッセイにあったと思う。八連隊は大坂出身者による連隊で、九連隊は京都だそうだ。命がけで戦っている戦場の兵隊さんたちを思うと気の毒な気がする。阪神よ、頑張って挽回しておくれ。(野球に興味はないのだが、関西にいるといやでもあのタイガーカラーが気になるのです)
 午前中、府立植物園へ行く。植物園の西側、賀茂川沿いのなIMG_5552からぎの道にあるベニシダレの並木を見に。土手のソメイヨシノは満開だが、ベニシダレはまだこれからというところ。植物園の桜苑には多種多彩な桜がまさにいまが盛りと咲いていた。薄墨桜、豆桜、十月桜、さまざまな枝垂れ桜・・・。桜をカメラに収めながら年配の男性が「もう一生分の桜を見た気分だね」。たしかに。
 帰りて●黒川創『京都』(新潮社)を再読。以前読んだときは作者の過去の見聞をもとに書かれた物語だとしか思わなかったのだが、数年ぶりに読み返して、自分史のような部分IMG_5547もあるのだと思った。京都の町が持ついくつもの顔のうちの、何ともいえぬ部分の一つを見た気がした。誰もが知っているのに語ろうとしない顔を。主人公が住む町を、商店街の名や通りの名など詳細に描いているところ、タイムスリップしているような気分になった。

 写真上はなからぎの道と賀茂川。中と下は植物園の桜。何度も言うように、ここも4年前の台風21号で大きな被害を受けた。200本以上の大木が倒れ、残った木も枝が折れ、惨めな姿となった。写真の桜たちもかつての艶やかな姿からは遠い。つい以前の姿と比べて嘆きたくなるのです。

IMG_5433 4月4日(月)晴れ。関東は真冬並みの寒さらしいが、京都は春らしい陽気。TVニュースで雪が積もった山中湖畔を見てびっくり。横浜に住む娘から「寒くて寒くてエアコン(暖房)をつけてます」とラインあり。昨日の日曜日、南座へ女子大生たちと都をどりを観にいく。二年間、中止していたので久しぶりの公演。いつもなら客席にお座敷着姿の芸舞妓の姿があるのだが、まだ以前のように宴会がないのか華やかな姿が見られないのは残念なこと。ただし舞台は十分華やかで、「これで京都もいよいよ春どすなあ」という気分になIMG_5471る。女子大生たちは宝塚のレビューみたいだとか、大人の学芸会だのと生意気なことを言っていたが、同年齢の舞妓たちの姿をどう見たことやら。南座を出たあと木屋町のM屋へ。部屋の窓から鴨川の桜を眺めながら食事を愉しむ。食事中、地震あり。3月31日の真夜中にも地震があったばかり。娘たちに、いざという時の避難所を尋ねたら「大学に駆け込む」とのこと。近いし広いし、それが一番かも。
 桜の季節になると芭蕉の「さまざまの事思ひ出す桜かな」が思われる。そして京に住んで花を愛でた蕪村の句に、いまIMG_5490の自分を重ねてしまう。「きのふけふ高根のさくら見ゆるかな」の蕪村のように、私も遠く嵐山の峰が白く花色に染まっていくのを朝夕眺めて過ごしている。嵯峨野へ花見に出かけたときは、帰り道、遠くへ出かけた嵯峨野の住人たちが戻ってくるのに出会い、「嵯峨へ帰る人はいづちの花に暮れし」という気分になる。全く、花の名所の嵯峨野に住みながら、いったいあなたたちはどこで花見をしてきたのか。などと言いながら、「花に暮ぬ我すむ京に帰去来(かへりなん)」と嵯峨野を後にするというわけ。蕪村と違うのは、電車に乗れば半時間もしないうちに我すむ京の家に戻れるということか。
 花の時期は落ち着かない。花のさかりに会おうとすれば仕事は先送りになるし、約束ができない。まさに「春風の花を散らすとみる夢は さめても胸のさわぐなりけり」(西行)なのです。
 写真上は岡崎疎水の花見船。中と下は龍安寺の駐車場の桜。

IMG_5446 4月2日(土)晴れ。今年は寅年で諏訪大社(長野県)の御柱祭がある。これは寅と申の年に行われる祭で、山から伐り出した巨木を氏子たちが人力で運び、各神社に立てる勇壮な行事。とくに山の斜面を巨木とともにすべり落ちる「木落とし」では、過去に死者やけが人を出したほど荒々しいもので、それだけに見物人も多い。今年はコロナでこの「木落とし」は中止になったそうだ。また、巨木もトレーラーで運ぶことになり、その様子がTVニュースで流れていた。長野在住のYさんは、トレーラーで運ばれる御柱をどう見たことやIMG_5447ら。会うたびに「寅と申の年が待ち遠しい」と聞かされていたが。
 午後、二条城の桜を見に行く。門前には入場券を買う人たちの大行列ができている。コロナの蔓延防止が解除となってからというもの、ちょうど桜も見ごろというので、京都はどこも人がいっぱい。以前のようなインバウンドはいないもののどこへいっても人、人、人の波。観光客に交じって城内の桜を楽しむ。ここの庭には山桜をはじめ、しだれ桜、大島桜、ソメイヨシノなどいろんな桜があって、色も形も様々なIMG_5448桜が楽しめる。京都の友人Fさんはいつも「ソメイヨシノは桜ではおへん」と言う。ヒガンザクラかベニシダレがいいらしい。彼女に感化されたのか私もそう思うようになった。もっとも私が好きなのはヤマザクラだが。ちなみに京都府の花はしだれ桜で、京都市の花はサトザクラ。
 遠い山の中腹に、時期が来るとぼーっと白く浮かび上がって咲く山桜、ああ、今年も会えましたね、と声をかけたくなる、そんな桜が好き。そんな桜があの山とこの山にある、と思うと幸せな気分になる。まさに「深山木のその梢とも見えざりし 桜は花にあらわれにけり」(源頼政)という心持。『平家物語』に出て来る頼政は、以仁王を奉じて平家追討の兵を挙げたものの、敗れて宇治の平等院で切腹して果てた。若い頃の私は頼政のことを、「年甲斐もなく無理をして挙兵IMG_5451したものの、以仁王を道連れに敗れた思慮のない年寄り」とばかり思っていたのだが、彼がこんな歌を詠んでいたことを知ってからは、その人となりに惹かれるようになった。彼にはまたこんな歌がある。「近江路や真野の浜辺に駒とめて 比良の高嶺の花を見るかな」。真野の浜辺も比良の山々も親しい今の私には、この歌の情景が鮮やかに目に浮かぶのだ。そのうち深山木の桜に会いに行かなければ。
 写真は二条城の桜。ここの桜も4年前の台風で大きな被害を受け、殆どの木が枝を伐られ樹勢が衰えて以前の姿を知る者にはもう哀れでならない。いちばん下の写真の桜がまさにそう。健気に咲いているだけに痛ましくてなりません。

IMG_5486 4月1日(金)晴れ。昨夜Oさんから電話あり、M神父が亡くなられたとの報せ。コロナに感染して入院しておられたが、以前から弱っておられたこともあって、恢復は絶望的と聞いていた。Oさんによると、「ゆっくりと静かにともしびが消えるように、そして全てが終わり、これでいいねというように天国へ召されました」とのこと。電話のあと、M神父の清らかなお顔を思い出しながらしばし黙祷す。Oさんを通じて親しくさせてもらったが、信者でもない私にもそれはやさしく丁寧に接してくださった。2017年に出版された『ザビエルに続く宣教師たち 神父さま、なぜ日本に?』(女子パウロ会)という本には戦後、日本各地で宣教につとめてきた15人の神父たちが紹介されている。上智大学で死の哲学を教えたアルフォンス・デーケン神父や日本国籍をとって作業現場で働きながら人々にキリストの福音を語り続ける茨木留土神父などとともに、「心のともしび」運動に従事されたM神父(グレアム・マクドナル神父)の名もある。M神父は身をもって無私の精神を示してくださった。いまが盛りと咲く花に、1100年前の上野岑雄ではないけれど、「深草ののべの桜し心あらば 今年ばかりは墨染に咲け」と呼びかけたいと思う。
 891年、関白藤原基経の死を悼んだ上野岑雄がこの歌を詠んだところ、寺の桜が墨染色の花をつけたという。いま深草の墨染寺にその子孫と言う桜樹が伝わっている。ウクライナで殺された人たちを思うにつけても、桜よ、今年ばかりは墨染に咲けと思わずにはいられない。
 写真は龍安寺の池に浮かぶ島に咲いている桜。

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