2022年05月

IMG_20220513_121352 5月8日(日)母の日。小林信彦が週刊文春に書いていたエッセイ「本音を申せば」は昨年の暮れに連載が終了した。1998年に始まったこのシリーズはいま全23巻の本になっている。最初のころは鋭い政治批判や切れ味のいい社会批評を胸のすく思いで読んだものだが、近年は映画とその周辺の話題がほとんどになっていた。TVやエンターテインメント業界の草創期に関わり、芸人たちとの交流も深いだけにこの人ならではの話題も多く、興味深く読んできた。小林信彦は1932年生まれ、津野海太郎は1938年生まれ、野呂邦暢は1937年生まれ、この世代にとって娯楽といえば読書、映画ではなかったか。この3人とも実に映画に詳しく、よく語っているからだ。
 今日、小林信彦の『とりあえず、本音を申せば』(文藝春秋)を読み返してIMG_20220513_123419いたら、こんなくだりに気が付いた。
故野呂邦暢氏の『野呂邦暢ミステリー集成』という本(中公文庫)が送られてきた。この作家と新宿で一夜語り合って、ホテルまで送っていったことを想い出した。野呂さんは文章にきびしい方だった。長崎が出てくる良い小説を書かれた方で、若くして亡くなった。「失踪者」というミステリアスな短編など、秋の静かな夜に読んでみたいと思う
 野呂邦暢が亡くなったあと、「文學界」(1980年7月号)に小林信彦の追悼文が掲載された。「十日前の会話」と題するもので、亡くなる10日前に東京で会ったときの印象などが記されている。それが初対面だったが、二人は映画と推理小説について、のべつ、手紙で意見を述べあっていたといい、その時も小説と映画の話をしたという。野呂はしきりに「時間がない」といい、小林は「どうしてあんなに時間がないのだろう」と不審に思ったそうだ。あとで野呂が月に500枚も書いていたという週刊誌の記事を読んで「わが眼を疑った、野呂さんの文体で月に500枚書くのは無理である」とある。確かに早すぎる野呂の晩年の仕事ぶりには感嘆するしかない。
 写真は『野呂邦暢ミステリー集成』(中公文庫)。下は母の日に届いた花。ありがとう。

IMG_5662 5月7日(土)晴れ。今日、5月7日は野呂邦暢の42回目の命日。作家の故郷諫早では毎年5月の最終日曜日に彼を偲ぶ菖蒲忌が行われるのだが、コロナのせいで今年も会は中止、当日は文学碑の前で献花が行われるとのこと。野呂が生きていれば今年9月の誕生日には85歳になる。生きていた歳月と亡くなった後の月日が同じとなった。野呂が亡くなった42年前は、その著書の多くが絶版品切れのままで本を入手するのは至難のことであった。古本屋で見つけるのも稀で、神田の古本屋でエッセイ集「古い革張り椅子」見つけたときは大喜びしたものだ。確かな愛読者はいるのだがもともとベストセラーとは縁がなく、出版部数が限られていて入手した愛読者は手放さないので古本屋に出る機会は少ないのだ。野呂文学の魅力を知ってもらいたい、もっと多くの人に読んでもらいたいと願っても肝心の本がないというジレンマに長く悩まされてきた。だが、みすず書房から岡崎武志編『愛についてのデッサン』が大人の本棚シリーズの一つとして出たのがきっかけで、野呂文学の再読ブームが起きた(と私は思っている)。その後、みすず書房から『野呂邦暢 随筆コレクション』(全2巻)が出、文遊社から『野呂邦暢 小説集成』(全9巻)が刊行された。作品の力もあるが、読み巧者たちの支持があって、その後いくつもの作品が文庫版や新版で出たのは望外の喜び、野呂文学をリアルタイムで読んできた読者の一人としては、こんな日が来るなんて、本当に「長生きはするもの」であった。
 今日、四条烏丸の書店で野呂邦暢の文庫本「愛についてのデッサン」を見た。書店員によるポップ付きで、そこには「古本屋の若き店主は古書を通して恋や絡み合う人間模様を解き明かしていく。1960年代から70年代のLPレコードを聴いているような懐かしさがある文章だ」とある。もう40年も昔のことになるが、文芸評論家の山下武さんがあるところに「古本屋が主人公の小説はまだない」と書いておられたので、「野呂邦暢の『愛についてのデッサン』がありますよ」と手紙を書いて送ったことがある。すぐに丁寧な返事が届いて却って恐縮したのだが、当時はそんなことも見過ごすことができなかった。その『愛についてのデッサン』はこの文庫を含めていくつ新装版がでたことか。本好きに愛されて読み継がれる、なんと幸せな作品だろう。ちなみに古書に関する著書を数多く持つ山下武さん(1926ー2009)はあの柳家金語楼の長男、弟はロカビリー歌手の山下敬二郎、ちょっと異色の評論家でした。
 写真は四条烏丸大垣書店の店内に積まれた『愛についてのデッサン』(ちくま文庫)

IMG_5631 5月5日(木)承前。今宮神社の神幸祭を見たあと、上賀茂神社へ行く。まずは境内のナンジャモンジャの花を見、本殿にお詣りしてから馬場へ。埒に沿って設けられた観客席は既に満席。離れたところから緑の馬場を眺める。馬場の奥にある大きな桐の木が紫色の花をいっぱいにつけている。平安古記録によく「競馬(くらべうま)」や「手結(てつがい)」という言葉が出て来る。平安時代の競馬は、単なる競争ではなく、先行する儲馬と後発の追馬の二騎が、いかに相手の騎手や馬を邪魔して先にゴールするかが審査の対象となった。この日の競馬はその形をそのまま伝えているそうだ。木蔭にいたつもりだったが、かなり強い陽射しを浴びたせいか軽い眩暈がしたので用心して早めに帰宅することに。競馬を見ることはできなかったが、雰囲気だけは十分味わうことができた。夕方のTVニュースで、この日行われた上賀茂神社の競馬と藤森神社での駆馬神の様子が報じられていた。IMG_5627藤森神社の駆馬神事はいわゆる流鏑馬といわれるもので、なかなか勇壮。騎手にはどんな人がなるのかしら、地域や大学の乗馬クラブの若者たちかしらん。まさか本物(プロ)の騎手ではないでしょうね。
 ●池澤夏樹『いつだって読むのは目の前の一冊なのだ』(作品社)を読む。700頁近いこの本は「週刊文春」に掲載された16年分の書評をまとめたもの。2003年に始まり2019年までのもので、池澤夏樹は2019年の夏に「私の読書日記」を降板したため、今後この本の続きが出ることはない。この人の書評本は『読書癖』(全4巻 みすず書房)や『風がページを・・・』、『室内旅行』などを愛読してきた。今回の書評は短く、選ばれた本の大半が翻訳書や理系の本というのを面白く読んだ。興味を惹かれる本が載ったページに付箋を貼っていったら付箋だらけになった。これでしばらく読む本選びに不自由しないだろう。
 写真上は上賀茂神社競馬(くらべうま)の馬場。奥の高い樹は満開の花をつけた桐の木。下は境内に咲いていたナンジャモンジャ(ヒトツバタゴ)の花。 

IMG_5652 5月5日(木)晴れ。端午の節供。昨日の午後、新幹線で帰る子どもたちを見送り、ようやく我が家に静かな日常が戻る。この連休は3年ぶりにコロナの制限がなかったせいで、観光地はどこもものすごい人出だったようだ。京都も例外ではなく、観光地はコロナ前に戻ったような賑わいぶり。インバウンドなしでもこれだけ人がやってくるなら大丈夫ではないかしら。コロナで中止していた各地の祭も規模を小さくしたり制限したりしながらそろそろ再開されるというので嬉しくなる。7月には祇園祭の山鉾巡行も行われることになった。今年は196年ぶりに鷹山が復興IMG_5636し、巡行に参加するというのでいやでも町の期待は大きい。京都では年中どこかで神社仏閣の祭礼が行われているが、5月の連休にはとくに多い。この日は上賀茂の競馬、西陣の今宮神社の神幸祭が行われるというので、午後から出かけてきた。今宮神社の神幸祭は例年なら車太鼓や剣鉾、旗を先頭に神馬や花車、牛車が続き、獅子や三基の神輿が出たあとに華やかな少女たちや稚児行列が続くのだが、今年は神馬、車太鼓の後ろに一基の神輿が出ただけ、いつもなら騎馬で行く神官がオープンカーに乗って行列の最期を行くのには不謹慎ながら笑ってしまった。今宮神社は西陣の鎮守さん。この今宮祭は正暦5年(994)6月、疫神の霊を慰めるために営まれた御霊会が始まり。4月に行われる、疫病のあと花の霊を鎮めて無病息災を祈願した「やすらい祭」もこの神IMG_5647社の祭礼。いずれも疫病退散の祭だから、コロナのいまこそ盛大にやってほしいのだけど。
 写真は神社の前を巡行する神輿。中は神馬。いつもなら牛車を引く牛が出るので楽しみにしていたのだが、残念でした。以前見たときの牛は丹波から出張ってきた牛で、大勢の人に囲まれてそれは落ち着かない様子でした。
 この神社の参道両側には向かい合って有名なあぶり餅店があります。元祖と本家でしょうか、どちらもたくさんの客で賑わっていました。TVドラマ「鬼平犯科帳」のラスト、エンディングに毎回ここが出てきます。江戸時代の趣がいまも残る場所です。

IMG_20220502_173634 5月2日(月)晴れ。連休が始まった29日、子どもたちが総勢5人でやってきた。京都を拠点に金沢、大阪を回るとのこと。30日の朝から5人揃って金沢へ出かけていたが、今夕、無事帰洛。少し涼しいが夕食を鴨川の川床でとることにする。夕方少し雲が出てほんの少し通り雨があったせいか、予約した店の川床は急遽お休み、残念ながらいつもの部屋での食事となった。子どもたちは窓から外を眺め、3つほど隣の床に食事する客の姿を見つけて、「やってるところもあるね」と残念がっていたが、外気が10℃というので諦める。いつもは賑やかに人が行き交う河原には修学旅行生たちの姿がちらほらあるくらいで、肌寒いせいか人影は少IMG_3481なかった。
 この日の午前中、静原へナンジャモンジャの花を見に行く。まだ真っ白には咲いていなかったが、今年も花に会えた。静原神社では三年ぶりにお祭りをやるというので、近所の人が集まっていたが、この地区の小学校は子どもの数が減ってこの3月に閉校となった。残った子どもたちは隣の市原小学校に通っているとのこと。京都の周辺でも少子化と過疎化が進んでいることを実感す。
 
 写真は鴨川の床。向こうの橋は三条大橋。この日は夕方雨が降ったせいで、床はお休み、部屋での食事でした。下は昼間の鴨川河原。弦楽トリオが練習していました。鴨川の河原ではいろんな楽器の練習風景に出会えます。バイオリン、尺八、トランペット、ギター、ドラムス、先だってはほら貝を吹く人を見ました。たいていソロ演奏ですが、この写真のようにセッションをやっている人たちもいます。 

IMG_2842 4月27日(水)承前。今年もこの旅の時期になった。芭蕉の「おくのほそ道」の旅である。芭蕉は元禄2年(1689)3月27日(陽暦5月16日)、深川から船で出発し「おくのほそ道」の旅へ向かった。本文は「弥生も末の七日、明ぼのの空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かにみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。 行春や鳥啼魚の目は泪 是を矢立の初として、行道なをすすまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし」。元禄2年の3月27日は陽暦5月16日だが、今年2022年の暦だと旧暦3月27日は4月27日にあたる。今年は現在の暦を使うつもりなので、わが「おくのほそ道」追体験の旅は本日がスタートとなる。これから約150日余、芭蕉と曾良の足取りを追う日が続く。私が実際に「おくのほそ道」を訪ね歩いたのは白河以北の陸奥、出羽、北陸から大垣まで。それ以前に日光や那須へ行ったが、その時芭蕉のことは頭になかった。芭蕉の目を意識して旅をするのとそうでないのでは風景を見る目が異なる。コロナが治まったら今度こそ深川から歩いてみたいと思う。
 写真は「おくのほそ道」むすびの地・大垣市にある芭蕉像。ここから船で伊勢へ向かうところで「おくのほそ道」は終わっている。芭蕉の「おくのほそ道」はフィクションでもある。実際はどうだったかを知るには曾良の『随行日記』を読むのがいちばん。というわけで、今回も旅の手引書は●工藤寛正『おくのほそ道 探訪事典』(東京堂出版)、●金森敦子『「曾良日記」を読む もうひとつの「おくのほそ道』(法制大学出版)、●穎原退蔵・尾形仂訳注『おくのほそ道』(角川日本古典文庫)。そして今年は●小澤實『芭蕉の風景』上下(ウエッジ)が加わって、いざ出発です。

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