カテゴリ: 日記・その他

IMG_20240329_143314 3月25日(月)雨。昨日、本居宣長の『在京日記』を読んでいたら、宝暦6年(1756)3月の条に、こんな一文があった。(濁点をつけて写します)「三月 三日の朝は雪降りて、さむきことはなはだし。上巳に雪のふることはいとめづらかなり。雪は朝ばかりにてやみぬ、さすがつもるとはなし。ひねもす風ふきしぐれたちて、霜月のころの空のごとし、又正月こそきぬらんなど、礼にくる人共いひたはむる」。また「七日 藤重藤伯、大田左膳などを供なひて、東山長楽寺の花見にまかりし。花は今をさかり也けるが、いとう風ふき時雨たちて、冬のそらにことならず」。宣長の日記によれば、この年の3月3日の桃の節句には、雪が降ったとのこと。旧歴3月3日は今年でいえば4月11日にあたる。宣長のころでも桃の節句に雪が降るのは珍しかったのだろう。西行の「吉野山さくらが枝に雪降りて 花おそげなる年にもあるかな」という心持か。この月、宣長は西本願寺で能を観ている。演目は「嵐山、八島、西行桜、松風、歌占、邯鄲、百万、船弁慶など」とある。一日でこれだけ観ることができたのだろうか。この中で私が観たことがあるのは、「八島、百万、船弁慶」くらいか。桜の頃に「熊野」を見たが、あれは悲しいけれど舞台が華やかでいい。
 午後から洛西の日文研へK先生の退官記念講演を聞きにいく。雨の中、満員の聴衆でいまや時の人であるK先生の人気が思われた。日文研には日本史の磯田道史、呉座勇一というベストセラーをものとする学者がいるが、このたび退官されるK先生(倉本一宏さん)も平安古記録研究の第一人者として注目される存在。NHKの大河ドラマ「光る君へ」の時代考証を担当して、関連書が矢継ぎに出版されているのもすごい。この日は「紫式部ーその第三の人生」と題して、藤原実資の日記「小右記」に登場する紫式部(藤原為時女)を紹介、その後も彼女らしき女房の記述を拾い集めてその存在を検証された。紫式部を中宮彰子と実資を取り次ぐ「申次女房」と命名されたのも印象ふかい。ここでも「歴史を語るのに、歴史文学を根拠としてはならない」と力説、史料の扱いの大切さを繰り返された。日文研の講演会に初めてきたのは1995年5月のこと。そのとき梅原猛所長の退任記念講演を聴いた。山折哲雄の司会で、伊東俊太郎、上田正昭、河合隼雄の話もあった。「新しい哲学を生まなければ」という梅原猛の言葉が記憶に残っている。 

1711328646322 3月23日(土)雨。今年は2月に異常なほど暖かな日が続いた。この分では春は早いかと思われたが、3月に入るや寒い日が続き、お彼岸には雪が降った。20日の春分の日は凍るような寒さで、翌日は晴れたが山は真っ白に冠雪していた。21日は用事があって大阪へ出かけたのだが、急いでいたため関空行の特急はるか号に乗ったら8割が外国人だった。いまはどこへいってもこんなふうで、京都の市営バスも同じ、自分の町にいながら国籍不明という感じ。バスの中でも町を歩いていても聞こえるのは外国語ばかり。
 例年ならもう満開になる京都御苑の近衛桜が今年はまだちらほら程度だという。毎年いちばん早くここの桜を楽しんできたのだが、この寒さではやむをえまIMG_7781い。
「枕草子」ではないが、「空さむみ花にまがえてちる雪に すこし春あるここちこそすれ」の気分。いつもなら花を追って京都のそこかしこを巡っているころなのだが、こういつまでも寒いと出歩くのが躊躇われる。
●津村記久子『水車小屋のネネ』(毎日新聞出版)を読む。いわゆる毒親がいる家を出て、新しい生活を始めた姉妹の40年にわたる物語。ネネと言う名のインコ(ヨウム)がキイパーソン(鳥だからキイバードか?)で、物語は静かにそして穏やかに語られる。人間の言葉を操る鳥が中心にいて一見ファンタジーになるところを、シリアスな人間関係がリアリティをもたらしている。近年、小説とは縁遠くなっていたが、久しぶりに読んだこの物語には、少なからず心を動かされた。     
 写真は京都御苑旧近衛邸のイトザクラ。上の写真は今日のもの。下は去年の同じ日に撮影したもの。満開でした。

line_137257804924405 3月15日(金)晴れ。卒業シーズンとなり、毎日のように袴姿の女子大生を見かける。京都市内には40近い大学・短大があり、145万市民の10人に一人が大学生なのだという。単純にいえば、毎年3万人を超える新入生がやってきて、同じ数の学生が巣立っていくというわけ。我が家に来ていた女子大生たちもいよいよ卒業し、引っ越し準備に追われている。彼女たちが入学した年はコロナ発生の時で、入学式もなく、授業もほとんどリモートだった。京都にいながら他大学との交流もできず、旅行もはばかられたようで、気の毒なことだった。最後の年度はコロナも落ち着いたおかげで自由に動けたようだが。
 大阪に住むKさんから手紙が届く。「3月12日は伊東静雄の命日でした。氷雨が降る寒い日でしたが、三国ヶ丘を散策してきました」とあり、静雄の詩「春の雪」が記されていた。

「みささぎにふるはるの雪
 枝透きてあかるき木に
 つもるともえせぬけはひは 
 
 なく聲のけさはきこえず
 まなこ閉ぢ百ゐむ鳥の
 しづかなるはねにかつ消え 

 ながめゐしわれが想いに
 下草のしめりもかすか
 春来むとゆきふるあした」

 堺市三国ヶ丘では毎年伊東静雄を偲んで「菜の花忌」が行なわれている。7年ほど前、そこで小さな話ーー詩人の故郷である諫早が生んだ詩人伊東静雄と作家野呂邦暢についてーーをしたことがある。和やかで温かな集まりで、みなさんの親和力に感動したものだが。今年も開催されたのだろうか。
 写真は卒業式へ向かう女子大生。折口信夫の歌をまたここで。
「桜の花ちりじりにしもわかれ行く 遠きひとりと君もなりなむ」  

IMG_9558 3月11日(月)晴れ。東日本大震災から13年目の日。神戸も東北の大震災もまだ記憶に新しいのに、いままた能登の惨状が生々しく迫って、やりきれない思いでいる。神戸も東北も町は復興したとはいえ、人々の心に受けた傷が癒えたとは到底思われない。あの時、当たり前の日常がいかに大切かということを、いやというほど思い知らされた。しばらくは緊張した日々を送ったものだが。能登の知人からメールあり。住まいは半壊したが、なんとか復旧して仕事を再開したいとあった。みんな疲れ果てている、いまはまだ気持ちも張りつめているが、これがいつまで保つことか、とあった。中途半端な慰めは何の役にも立つまい。とにかく体を壊さないように、きちんと食べ、ちゃんと休んで、英気を養って・・と書いて送る。手間いらずの食糧を明日にでも送るつもり。  
 ●大岡信『うたげと孤心』(岩波文庫)を読む。なかでも後白河院について書いたくだりを面白く読んだ。後白河の今様狂いと後鳥羽の和歌への打ち込み方には想像を絶するものがある。両院の時代には遊女が皇子を産んだりもしていたのだ。このころの天皇の即位年齢は8歳、5歳、3歳など(数え歳で)、六条天皇などまだ生後7ケ月だったというから、ひどい話。『うたげと孤心』を読んだら、またもや丸谷才一の『おっとりと論じよう』を読みたくなった。古典の世界へ遊びたくなるのは、一種の現実逃避もあるのかもしれない。やれやれ。
 写真は近所の花屋の店先で見かけたミモザの花。3月8日の国際女性デーの日、この花をあちこちで見かけた。早春はサンシュユやマンサク、エニシダなど黄色い花が目立つが、なかでも最も輝いているのがこの花ではないだろうか。

IMG_9564 3月9日(土)晴れ。昨日は寒かった。関東は雪だったようで、TVニュースはどこもそればかりだった。あのくらいの雪で大騒ぎするなんてと北国の人たちに笑われたのではないかしら。久しぶりに青空が見えたので、朝のうちに花見にでかけることにした。淀の水路沿いにいま河津桜が満開だという。去年も見たからいいかと思ったが、家籠りが続いて座り切り老人になりかけているので、少しは歩かなければ。京阪電車で淀へ着くと、目の前の競馬場が一新していた。いまだに入ったことはないが、広大な公園になっていて、競馬場というより、お洒落IMG_9566なテーマパークのよう。若い人や家族連れが来るのを期待しているらしい。水路沿いに植えられた河津桜は満開だった。花の下を1キロほど歩く。途中、長園寺という浄土宗のお寺あり。この門前に「鳥羽伏見戦幕府野戦病院の地」や「戊辰之役東軍戦死者之碑」の碑がある。去年歩いたときこの碑を見かけて胸衝かれたものだ。お寺の門前にはひと月早いが、花まつりの幟と釈迦像が立っておられた。
 ●木山捷平『酔いざめ日記』(講談社文芸文庫)を読む。時々思い出したように読みたくなる本。旧知の編集者の名前などがたびたび出てきて嬉しくなる。地味な作家だったが、没後全集が出版され、故郷笠岡市に彼の名を冠した文学賞があったりして根強い愛読者がいることがわかる。幸せなこと。

DSC06578 3月3日(日)晴れ。桃の節句。年に一度は外の空気を吸わせてあげなければと、今年もおひなさまを出す。去年は前日に飾って、さすがに申し訳なかったので、今年は早々と並べた。我が家のおひなさまは内裏雛のみ。夕食に女子大生たちが来るというので、ちらし寿司を作る。彼女たちが来るのもそろそろ終わりになる。みんな卒業していよいよ社会人となるのだ。それぞれ就職先に移り、みんな離れ離れとなる。折口信夫の歌をはなむけに。「桜の花ちりぢりにしもわかれ行く 遠きひとりと君もなりなむ」。  
 桃の節句というが、まだ寒い日が続いている。今日、3月3日は竹内好(1910~77)の命日。前年の秋に学生時代からの盟友武田泰淳が亡くなり、自らもガンを患っていた竹内好は一気に弱ったらしい。泰淳を見送って半年も経たないうちに亡くなった。「中国文学研究会」の仲間はよほど結びつきが強かったのか、竹内好の葬儀で弔辞を読んでいた増田渉はその途中で倒れ、数日後にみまかっている。(友引という言葉を思い出しました)。そういえば平安時代のことだが、藤原道長が亡くなった日に権大納言の行成も死没。二人の長い道のりを思うと、ここまで付き合うことはないのになあと言いたくなる。
 ●石牟礼道子資料保存会『残夢童女 石牟礼道子追悼文集』(平凡社)を読む。残夢童女というタイトルを考えた渡辺京二さんもすでにない。会いたい人、話をしたい(聴きたい)人の多くは世外の人なってしまった。寂しい限りです。

IMG_9555 3月1日(金)曇り。今日から3月、春も間近と思えば少し心が弾む。二条駅近くの佛教大学キャンパス前にミヤマガンショウの白い花が咲いている。毎年ひなまつりのころ、4本あるうちの一本が満開になるのだが、今年は揃って満開となった。いつも早く咲く木はもう盛りを過ぎている。ミヤマガンショウは中国産のモクレン科の木。あまり香りはしないがマンサクと同じで、我が家の周辺では真っ先に咲く花なのだ。この花が咲くと、ようやく周りのコブシや沈丁花のつぼみがほころびはじめる。まだ寒い日が続いているので、余程のことがない限り家籠りを続けている。古いスクラップを読み返したり、積んだままになっている本に目を通したり、家にいても退屈することはない。このまま座り切り老人になっても「なんのことがあらすかえ」だ。友人に教えられて、You tubeで佐々木閑という人の『ブッダの教え 仏教哲学の世界観』という講座を視聴する。京都には学僧、お坊さんで大学の先生という人が少なくないが、この人もその一人のようだ。仏教の歴史がわかりやすく語られていて、興味深く聴いた。
 ●秋山虔『古典をどう読むか』(笠間書院)を読む。副題が「日本を学ぶための『名著』12章」とある。著者が選んだ名著は、藤岡作太郎『国文学全史 平安朝篇』や、西郷信綱『日本古代文学史』など、私がこれまで読んだことのない本ばかりだが、巻末にようやく馴染みの名前があった。寺田透『源氏物語』、大岡信『あなたに語る日本文学史』、竹西寛子『日本の文学論』の三冊。そのうち読んでみることにしよう。  
 写真はミヤマガンショウ(深山含笑と書くのでしょうか?)の花。

IMG_7673 2月24日(土)曇り。ロシアによるウクライナ侵攻から2年目となる日。いまだ終戦の見通しはたたず、TV画面に瓦礫となったウクライナの町が映るたびに居たたまれぬ気分になる。能登半島地震の被災地の様子も同じで、気が晴れぬことおびただしい。明るいニュースといえば、身近な若い人たちが無事大学を卒業して社会へと出ていくことになったことか。かれらが代わる代わるやってきて晴れ晴れとした表情を見せてくれるのが嬉しい。これからどんな道が待っているのか、理不尽なこともあるだろう、納得できないこともあるやもしれない、でもまずは謙虚に学ぶこと、知らないのが当たり前なのだから何度でも聞いて、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」など当たり前のことしか言えないのが情けない。
 この日は恩ある先生の誕生日。大病を患い、難しい手術をされたのがこの日だった。手術は成功し、無事生還されたこの日が先生の第二の誕生日となった。いのちの重さをひしと感じる日でもある。

 東日本大震災のあと、石牟礼道子さんが書いた「花をたてまつる」を読み直す。

「春風萌すといえども われら人類の劫塵いまや累なりて 三界いわん方なく昏し
 まなこを沈めてわずかに日々を忍ぶに なにに誘わるるにや 虚空はるかに 一連の花 まさに咲かんとするを聴く ひとひらの花弁 彼方に身じろぐを まぼろしの如くに視れば 常世なる仄明かりを 花その横に抱けり (中略) 灯らんとして消ゆる言の葉といえども いずれ冥途の風の中にて おのおのひとりゆくときの花あかりなるを この世のえにしといい 無縁という
 その境界にありて ただ夢のごとくなるも花
かえりみれば まなうらにあるものたちの御形 かりそめの姿なれども おろそかならず ゆえにわれら この空しきを礼拝す 然して空しとは云わず 現世はいよいよ地獄とやいわん 虚無とやいわん
ただ滅亡の世せまるを待つのみか ここにおいて われらなお 地上にひらく 一輪の花の力を念じて合掌す」
 これは熊本の真宗寺で行われた親鸞聖人750年遠忌法要の際、「表白(仏への言葉)」として書かれたもの。石牟礼さんは真宗寺と深い縁があった。私が初めて石牟礼さんにお会いしたのもこのお寺においてだった。この表白を読むと、西行の歌が浮かぶ。「仏には桜の花をたてまつれ わがのちの世を人とぶらはば」。

 ウクライナの人々に、ガザの人々に、災害で亡くなった方たちに、「花をたてまつる」。 

IMG_9547 2月21日(水)雨。あちこちから梅のたよりが届く。今年は例年より開花が早いというので蕪村ではないが、「梅遠近(おちこち)南すべく北すべく」という心境。蕪村には梅の花が似合う。亡くなったのは陰暦の1783年12月25日、新暦でいえば今年は2月5日にあたる。蕪村の辞世の句「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」はちょうどいまごろの梅を思わせるよう。蕪村はこの句を弟子に書き取らせたあと、「この三句を生涯、語の限とし、睡れるごとく臨終正念にして、めでたき往生をとげたまへり」(几菫「夜半翁終焉記」)。梅の花といえば、拾遺和歌集にある「勅なればいともかしこしうぐいすの 宿はと問はばいかが答えむ」が思い浮かぶ。拾遺集には読み人しらずとあるが、「大鏡」によると、この歌の作者は紀貫之の女(むすめ)紀内侍という。詞書によると、見事に咲いた庭の紅梅を内裏から強引に求められたが、この歌を詠んで訴えたところ、梅の木は召されずにすんだという。そういえば藤原定家も自宅の庭に植えていた柳の木を後鳥羽院に持っていかれて、それは恨んだという。歌で抵抗はできなかったのですね。のちに定家が詠んだ歌が、この時のことを根に持って詠んだものではないかと疑われて、定家は蟄居させられている。だがそのおかげで承久の乱には巻き込まれずにすんだ(のではないかしら)。
 ●永江朗『消える本、残る本』(編書房)を読む。1997年から2000年にかけてベストセラーとなった本について「どうしてこの本は売れたのか」を解読したもの。およそ30冊ほどのベストセラー本が紹介してあるが、その中で私が読んだ本といえば、網野善彦『日本社会の歴史』、ベルンハルト・シュリンク『朗読者』の2冊のみ。昔も今も自分は世の流行とは遠いところにいるんだなあ、と改めて思ったことだ。ちなみに当時のベストセラー本の一部を記しておくと、『レディ・ジョーカー』『血と骨』『理由』『五体不満足』『ああ言えばこう言う』『永遠の仔』『だから、あなたも生きぬいて』『命』などです。

17081430312961708238574454 2月17日(土)晴れ。今年も招待状が届いたので、北野天満宮へ梅の花を見に行く。今出川通に面した大鳥居の周りには梅花祭の大きな幟が立てられて、華やか。参道を歩いていると、すぐに馥郁たる香りに包まれた。境内の梅はもう7から8分咲きというところか。梅林に入って、色とりどりの梅の花を愛でる。25日の梅花祭にはもう花は盛りを過ぎているかもしれない。うぐいすの声は聞かなかったが、メジロの姿は見た。花を楽しんだあと、上七軒の小さな料理屋で昼食をとる。梅が満開に近かったよと言うと、女将さんが「今年はなんでも早よおすな」。帰途、六軒町通を下っていきながら、この近くにあったカライモブックスを思い出す。
 午後から長崎のランタンフェスティバルの様子をYou tubeで見る。今年は長崎出身の人気歌手が皇帝パレードに出るというので、話題になっているらしい。仕事をしながら横目で画面を眺める。このパレードを見るのに全国から17万人もの応募があったそうだ。抽選に当たったのはそのうちの2万6千人とのこと。なにごとにせよ「推し」だの「熱狂」だのとは無縁の老体としては、羨ましいような、哀しいような。
 ●大江健三郎・小沢征爾『同じ年に生まれて』(中公文庫)に、大江健三郎が語るこんな言葉があった。「僕が思うのは、すごい学者や作家、詩人でも、だいたいその人が生きた年齢まで生きれば、その人の作品や思想は全部分かる、ということです。渡辺一夫は73で亡くなりましたから、僕も生きられたら73まで生きてやろうと思っているんです」。それに応えて小沢は「文学と演奏家とだいぶ違うと思うのは、やっぱり文学というものは書いたものが残ってて・・。音楽というものは、まあレコードなんか残るかもしれないけど、演奏しちゃうと終わってしまうという、刹那の芸術ですからね。これの違いがあるから、年に対する感覚はちょっと違うかもしれないですね」。なるほど、早逝した作家の作品を読むと(芥川龍之介の場合だって)「若いなあ」と思う時がある。でも当方、大江健三郎ほどの読み手ではないから、作家の年齢に追いついたとしても、全部を理解できるものやら。今日、その話をいっしょに『小右記』を読んでいるKさんにしたら、「私たちも藤原実資の年まで頑張って生きましょう」。実資の享年は90歳でした。90歳はまだまだ遠い先のことです(そうでもないかしらん)。  
 写真は北野天満宮(天神さん)の梅。

IMG_20240211_124713 2月11日(日)曇り。今日は亡き父の誕生日。生きていたら100歳を超える。元気なころはこの日が紀元節で祝日だったため、「みんなが僕の誕生日を祝ってくれている」などと冗談を言ったりしたものだが。この日が建国記念日になったのは1966年、理由は「神武天皇即位の日」だから。歴史学者の中には反対する人も多く、皇族の一人である三笠宮崇仁親王も強く反対した一人。歴史学も科学であるからには、神話を根拠とするのは納得がいかないということなのだろう。しかし歴史学者の中にはいまでも「今年は紀元2684年」という人もいて、授業でもそれを通すというから驚きだ。  
 昨日は一日小沢征爾のブラームスを聴いていた。わが手元にあるCDは、1989年9月にベルリンで録音されたサイトウ・キネン・オーケストラによる「ブラームス交響曲第4番」。これはサイトウ・キネン・オーケストラの第2回目のヨーロッパ公演のときのもの。第1回目は1987年、ウイーン、ベルリン、パリなどを回り、ブラームスの交響曲第1番を演奏している。毎回、聴衆に絶賛され、拍手が鳴りやまなかったという。サイトウ・キネン・オーケストラのメンバーにはヨーロッパ各地のオーケストラに所属する演奏家が少なくない。世界各地で活躍しているソリストたちをまとめて、素晴らしいアンサンブルを見せ、聴かせてくれた。当時、この時のドキュメンタリーがTVで放送されたのを見たが、全身音楽家小澤征爾の情熱に感動したものだ。昨日聴いた(今日も聴いている)このCDは最初カセットテープに録音して、それを繰り返し聴いた。テープが緩みはじめたら再録音して、を繰り返したが、テープレコーダーが壊れたためそれも終わり。
 ブラームスの交響曲第4番といえば、1989年1月7日を思い出す。昭和天皇が亡くなった日で、ラジオは一日中、この曲を流していた。
 写真は1989年、サイトウ・キネン・オーケストラヨーロッパツアーのCDの付録。若き日の小澤征爾。(この年44歳)

IMG_9540 2月10日(土)曇り。旧正月。小澤征爾が亡くなった。最後に指揮をする姿を見たのはいつのことだったか。京都のロームシアターでオペラの指揮をするのを見た(聴いた)のが最後だったと思う。もうずいぶん弱っておられて、形だけ指揮棒を振り、すぐに交代してしまった。毎年夏に松本で行われるサイトウ・キネン・オーケストラの演奏会でも、もう指揮棒を振ることはなかった。小澤征爾といえば忘れられないのが1978年6月、北京で行われた中央楽団との共演。当時TVで放送されたのをいまでもしっかりと覚えている。中国では文化大革命中(1966~76)、クラシック音楽はブルジョア音楽として追放され、演奏家たちは楽器を持つことができなかった。地方で肉体労働に従事させられたり、あるいは地下に拘束されたり。文革が終わって2年後、小沢征爾の指揮でブラームスの交響曲第2番が演奏されたのだが、TV画面に映る演奏家たちの表情に複雑な思いがした。黒い人民服を着た楽団員たちはみな一心に演奏するのだが、その表情にはどこか暗いものが混じっていて、底抜けの晴れやかさはなかった。指揮者の目に涙が滲んでいたのが忘れられない。その直前、生まれ故郷に戻ってきた指揮者は、「私は謝りにきた。私たちは中国のみなさんにひどいことをしました」と言ったという。そのとき北京の人たちの返事は「あれは軍国主義日本がやったこと。日本の人民には罪はありません」。46年前のこの演奏会以後、わたしにとって小澤征爾といえばブラームス。今日はブラームスを聴きながら、手元にある『ボクの音楽武者修行』(新潮文庫)、『同じ年に生まれて 音楽、文学が僕らをつくった』(大江健三郎との共著 中公文庫)を再読することにします。

 「つひにゆく道とはかねてききしかど きのふ今日とは思はざりしを」(『伊勢物語』)

 写真はヒュウガオウレン。府立植物園で。教えてもらってようやく会うことができました。枯葉に埋もれるようにして小さな花が顔を出してました。

IMG_9484 2月2日(金)曇り。今日から各神社仏閣で節分会が始まった。本番は明日なのだが、今日のうちに炮烙奉納をと思い立って、壬生寺へ出かけてきた。四条通から壬生寺への通りには露店が立ち並び、もう参詣客で埋まっている。四条通の入口には梛の宮と隼神社があり、この日はお神楽もあるというので、お参りの人がいっぱいだった。人の波におされるようにして壬生寺へ。ちょうど護摩焚き法要が始まる前で、山伏姿の修験者が入ってくるところだった。境内のテントの中には炮烙が山のように積まれている。久しぶりに手に取り、「世界平和 無病息IMG_9494災」と墨書す。この炮烙は春の壬生狂言のさい、舞台から落とされて粉々になるのだ。世界平和と書きながら、ガザやウクライナのことを思う。能登地震の被災者のことも。人災、天災、個人ではどうしようもないのが何とももどかしい。ノアの洪水が起きて、世界が一回「おさらい」になるしかないのだろうか。ふと思い出したが、「わが亡き後に洪水よ来たれ」とは誰の言葉だったか。

写真は壬生寺の厄除け炮烙。下は護摩供養。この日は風が強くて、風下で読経している僧侶や修験者の人たちは大変だっただろう。

IMG_20240122_103129 1月26日(金)晴れときどき小雪。ニュースで、一昨日(1月24日)、ビリー・ジョエルが来日公演を行ったことを知る。ビリーが来日するのは16年ぶりのことで、一夜限りのこのライブが彼にとっての最後の日本公演となるだろうとのこと。「Honesty」「Just  the way you are」「My life」「Piano man」「The longest time」など、何度聴いたことだろう。私の手元にある二枚組のCDは1985年発売のもの。これにはまだ「This night」は収録されていない。この曲は、ベートーベンのピアノソナタ「悲愴」の第二楽章をアレンジしたもの。ビリー・ジョエルはベートーベンが好きだったようで、他の曲にも「第九」のメロディが使われたりしている。一夜限りのコンサートには4万を越す客が集まったそうだが、いまもあの伸びやかな声は健在だろうか、聴きたいような、怖いような。この夜のプログラムに「This  night」はあったかしら。聴きたかった!
 写真はJR二条駅西にある駐車場の一角に立てられた「西三条第」の看板。西三条第は清和天皇のころの右大臣藤原良相(よしみ 813~67)の邸宅で、ずいぶん前から何度も発掘調査が行われていた。調査中、何度か見学に行き、池や泉、建物跡などが出たのを見た。その後、多数の墨書土器も出土して、その中には和歌が記されているのもあったと記憶している。清和天皇(850~81)が桜のころここに行幸し、満開の桜を愛でたことから、「百花亭」とも称された。いまは埋め戻され、駐車場となっていて、この看板はごく最近(昨年の暮れに)設置されたようだ。平安初期の貴族の邸宅が発掘調査された貴重な例だろう。案内板にも記されているが、『源氏物語』の「藤裏葉」に描かれた、冷泉帝の六条院行幸(光源氏の邸宅)を思わせる場所である。

 IMG_94321月17日(水)晴れ。阪神淡路大震災から今日で29年になる。未曾有の天災だと思っていたが、その16年後に東日本大震災が起き、さらにこのお正月には能登半島地震が起きた。大地は揺るぎのないものだと思っていたのに、なんと脆いものだろう。TVで被災地の様子を見るにつけても、他人事ではないという気がしてならない。今回の地震で被災した各地の様子が詳しく伝えられるようになって、かつて訪ねた寺社や名所旧跡がひどいことになっていることを知る。能登門前町の総持寺は2007年の地震で大きな被害を受け、長年かかってようやく復旧したところだったが、今回再び倒壊。案じていた輪島の時国家も大きな茅葺住宅が潰れたという。かつて網野善彦がこの家に伝わる数万点もの文書をもとに日本の歴史をよみなおし、独自の歴史観を築き上げた。七尾湾に浮かぶのとじま水族館では、飼育していたジンベイザメが二匹とも死んだという。大きな水槽の中を悠々と泳ぐ二匹を見たのは一昨年の暮れだったが。和倉温泉の宿もしばらく休業、七尾や能登を再び訪れる日はいつになることか。  
 今日、1月17日はこのブログ「朱雀の洛中日記」を始めた日。2006年のこの日に書き始めた。毎年この日が来ると記しているのだが、足の指を骨折してしばらく外出ができず、自分の無聊を慰めるために始めたもの。読書録や京都の町あるきのあれこれなどを自分のための備忘録として記した。遠くに住む姉や友人たちに、近況報告も兼ねて。その姉も亡くなり、年々、身辺寂しさを増すばかり。最近は休みがちだが、生存確認のためにぼちぼちでも続けていこうと思っている。
 写真は11日に訪ねた彦根城で。冬と春、年に二回咲くという二季桜。桜が咲くころには能登の人々にも笑顔が戻ると信じたい。

IMG_9410 1月10日(水)曇り。毎年、お正月休みが明けたあと、湖北長浜へ出かけることにしている。冬場は車で北の方へは行かないと決めているのだが、雪でなければ大丈夫だというので昼前に京都を出る。近江八幡に入ると田畑に白く雪が残り、家々の屋根も白と黒のまだらになっている。近江八幡の日牟禮八幡宮にお参りし、その先にある菓子店ラコリーナでコーヒーブレイク。神社の境内も菓子店の庭内にも雪が残っている。京都では一昨日の8日にこの冬初めての雪が降ったが、すぐに溶けてしまった。午後4時ごろホテルへ入り、夕食は町へ出て長浜名物の鴨鍋をいただIMG_9392く。鴨と言えば琵琶湖には無数の鴨が渡来して、黒い点となって水面に浮かんでいる。ここは禁猟区ゆえ、みな安心しているのだろう。長浜は去年が豊臣秀吉による「開町450年」というので、町中にその幟が立っていた。琵琶湖はいま80センチ近くも水位が下がっていて、岸がずいぶんと遠くなっている。そのせいで普段は水面下にある遺跡などが現れているという。長浜城近くの岸辺でも、太閤井戸と呼ばれる遺構が出現しているらしい(歩いて行ける場所なので見に行こうかと思ったが、寒いのでやめた。ホテルの部屋からその方角を眺めただけ 軟弱なのです) 久しぶりに長浜の町を散策す。コロナが落ち着いたせいで、町には少し活気が戻っているという印象を受けた。以前、この商店街に「さざなみ文庫」という古本屋があったのだが、店主が故郷九州へ帰ることになり、惜しまれながら閉店した。ここで鮎川信夫の『宿恋行』(思潮社)を手に入れた。この店があるので、長浜行が楽しみだった時期もあったのだが。  
 写真上は琵琶湖、雪を冠したマキノの山々を望んで。半島の上に浮かんでいるのは竹生島です。下は豊国神社の豊臣秀吉像。

IMG_20240104_134245 1月6日(土)曇り。神泉苑へ初詣に行く。ここには日本で唯一という、歳徳神を祀る恵方社がある。これによると今年の恵方は東北東とのこと。近年、ここが源義経と静御前の出会いのだ場というので、観光客が増えているそうだ。今日も外国人観光客が朱色の橋の上に群がって、池の鯉に餌を投げていた。神泉苑は現在東寺真言宗の寺院で、善女龍王が祀られている。これはいまから1200年前の824年、淳和天皇のとき、空海がここで祈雨の修法を行って雨を降らせたという伝承があることから。それで境内に「弘法大師御請雨1200年」の幟が立っていたのだ。京都では毎年のように神社仏閣などで〇〇から〇〇年記念という行事がある。各寺院では開山僧や中興の僧の生誕、遠忌、神社も祭神にまつわる記念行事、あるいは遷宮かれこれ。散歩の途中、そんな看板に会うたびに帰宅後歴史年表を開き、なるほどと納得するのだ。    
 今日は100年前に書かれた永井荷風の日記を読む。『断腸亭日乗』大正十三年(1924)正月のくだり。
「正月元日。晴れで風なけれど寒気の甚だしきこと京都の冬の如し。去年の日記を整理し、入浴して後椅子によりてうつらうつらと居眠る中、日は早くも傾きたり。松延子と晩餐を共にすることを約したれば、小泉を伴ひ山形ホテルに往く。市川荒次郎、河原崎長十郎、市川桔梗、市川筵八等と、黄金の盃を挙げて災後の新春を祝す。
 正月二日。晴れて好き日なり。お栄を伴ひ先考の墓を拝す。夜『五山堂史話』を読む。」
 前年の9月に関東大震災が起きたので、災後の新春というわけ。荷風がよく食事に出かけていた山形ホテルは俳優山形勲の実家で、彼は子どものころ客としてやってくる荷風をよく見かけたという。また荷風の先考(父親)は命日が1月2日なので、荷風は律儀に毎年この日は父親の墓参に出かけている。そういえば私の父の命日も1月2日だった。お墓が遠いので、いつも仏壇の写真に手を合わせるのみ。
 写真は神泉苑の恵方社。今年は東北東の方を向いています。

双龍111月5日(金)晴れ。元日の能登半島地震のショックからまだ立ち直れないでいるところに、2日、羽田の航空機事故。TV画面で事故の様子を見るにつけても、よくもまあ乗員乗客すべてが脱出できたものだと思う。事故は滑走路内にいた別の航空機に衝突、炎上したものだが、昼間ならその機体が見えたのではないか。夜の空港は青や赤の明かりが点々としていて、滑走路上の機体の灯は識別できなかっただろう。無事飛行機から脱出できた人がインタビューに答えて、「脱出の際には荷物は持たないでといわれたので、ポケットに入るだけ携帯電話やら財布やら入れて逃げました」。男性の服にはポケットがたくさんあるが、女性のそれには少ない。これから外出する際は大きめのポケットがある服を着ることにしなければ。
 七尾の能登演劇堂は地震の被害にあったらしい。またいつも行く和倉温泉の宿も無事ではなかったという。お正月で満員の客だったそうだが、全員を避難所へ誘導し、翌日金沢へ送り届けたとのこと。高山右近がいた七尾の本行寺や能登国分寺跡は大丈夫だろうか。輪島にある時国家は? 海沿いに車を走らせた道がそこかしこで分断されていると聞き、点在する小さな集落の姿が目に浮かぶ。孤立しているのではないか、援けが届かないのではないか。阪神淡路から29年、東日本から13年、熊本地震から8年、年々南海トラフが現実味を帯びてきた。地震国日本ということを思い知らされた年明けでした。
暮れに読んだ『ショック・ドクトリン』が実感されてならない。惨事につけこんで実施される過激な市場原理主義改革のことだが、油断は禁物という気がしてなりません。
 写真は京都建仁寺の天井画「双龍」(小泉淳作画・下絵)。一昨年訪ねた帯広の六花亭アートヴィレッジにある小泉淳作美術館で。画家が中札内村の廃校で制作にあたったことから、ここに美術館があります。
 

IMG_5115 (2) 1月1日(月)曇り。2024年の幕開け。あいにくの曇り空で初日の出は拝めず。帰省中の子どもたちと穏やかに新年を祝う。離れて住む子どもたちとはTV電話で挨拶を交わす。子どもたちが初詣に出かけたあと読書始で、倉本一宏編による論文集『「小右記」と王朝時代』(吉川弘文館)を読む。松尾大社・梅宮神社・上賀茂神社と三社詣をしてきた子どもたちが帰宅して、お土産の上賀茂のやきもちをいただいていたとき、部屋が揺れた。壁の絵の額が揺れ、これは危ないかもと椅子に座り直して揺れが収まるのを待ったのだが、かなり長く感じられた。(あとで震度4だったと知る)。すぐTVをつけて、地震速報を見る。「東日本大地震を思い出してください。TVを見ていないで、すぐに逃げてください」、切迫したアナウンサーの声が響く。年明け早々、大変なことが起きた。震源は能登半島、輪島や七尾、珠洲が画面に出るたびに、その地を訪ねたときのことを思い出して胸が痛くなる。能登の志賀には原発があるはず、大丈夫かしらと心配になる。能登半島では昨年も地震が続いていた。これは何かの前兆だろうか。
 去年読んだ藤原忠平(880ー949 藤原道長の曽祖父)の日記『貞信公記』にも「地震」の文字がよく出てきた。承平8年(938)4月の日記をみると、「4月15日、戌刻地大震、終夜有声振動」、「16日、今日振動不休、昨夜内膳司屋臥、死者四人、宮城四面垣多臥、京中人宅垣悉頽、自余損害多数」、「17日、地震不止、建礼門前有大祓事、」以後連日、「地震不止」の記事が続き、その年は12月15日まで「地震」の文字が記されていて、9ケ月も地震が続いていたことになる。  
 七尾の能登演劇堂は大丈夫だろうか、海辺に建つ和倉の宿はいかがならむと思いを巡らす。大変な年明けになりました。
 写真は上賀茂神社の宝船。

IMG_2607 12月30日(土)晴れ。平安古記録のいくつかを読み比べてみると、立場の違いが文章に出ているのがわかって興味深い。例えば最高権力者である藤原道長の日記『御堂関白記』を読むと、かなり省略があって自分さえ分かっていればいいのだとでもいうような印象を受ける。これが右大臣藤原実資の『小右記』になると、時には左大臣道長や摂政頼通のサポート役となり、あるいは痛烈な批判者となったりして、なかなか複雑。記述も詳細でおよそ儀式に関する実務家として誰からも頼られていたことがわかる。また藤原行成の『権記』は蔵人としての仕事ぶりはよく伝わるが、決定権のない立場ゆえ、大切なところがいま一つわからない。さらに大弁だった藤原経頼の『左経記』からは日々の業務の様子がうかがえるが、朝廷でのことはほとんどが伝聞で臨場感に欠ける。以上は極く極くほんの少し、古記録の一端を齧っただけの貧しい印象だが、ここでも「文は人なり」という言葉が実感されるのだ。写真は『御堂関白記』の一部分。寛仁二年(1018)正月二日、三日の部分で、この年、道長は53歳。前年摂政を辞し、太政大臣となっていた。またこの年の秋には、三女が立后(後一条天皇中宮)し、長女彰子(一条天皇中宮)、次女妍子(三条天皇中宮)と併せて一家三后を実現した。その祝いの宴で詠まれたのがよく知られる「この世をば」である。
 写真は道長の自筆本。千年前の道長の日記がいまに伝わる、しかも墨蹟鮮やかなままに、というのは奇蹟に近いのではないかしら。道長の字は自由奔放、だが読んでいくと以外にも繊細で気遣いの人だったことがわかる。

「二日、天晴、従摂政家上達部相引来、右府被来会、有礼、不立摂政、着座後、摂政着外円座、五六献後引(出)物、皆参内、着二宮大饗、摂政立列、不着饗所、余又同、而退出。」
(「二日。天晴。摂政家より上達部相引きて来たる。右府、来会さる。礼有り。摂政立たず。座に着す後、摂政、外の円座に着す。五六献の後、引出物あり。皆、内に参る。二宮大饗に着す。摂政列に立つも、饗所には着さず。余、又同じ。而して退出す」)

 わが「朱雀の洛中日記」も来年は18年目に入ります。いつまで続けることができるやら、心もとないものがありますが、ま、ぼちぼちと参ります。

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