IMG_20240915_121834 9月13日(金)晴れ。寺町のギャラリーヒルゲートへ「司修展」を観に行く。今回のテーマは「童話の世界」。宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」や「グスコーブドリの伝記」を描いた小品が並ぶ。どれも美しい細密画で、画面に近づいてしげしげと見入った。大江健三郎や小川国夫の本の装丁で馴染みがあるが、画家自身もすぐれた文章を書く。この人が岩波の「図書」の表紙を手掛けた時は、その間の表紙を手元に残して一冊にまとめたほど。もうずいぶん前になるが、このギャラリーで個展をされたとき、親しく話をすることができた。その時聴いた小川国夫の思い出話がまだ鮮やかに記憶にある。
 ギャラリーを出て、久しぶりに寺町通りを歩く。以前ここは老舗が並ぶ静かな通りだったが、近年インバウンドの増加に伴ってドラッグストアや古着屋、ファストフード店、土産物店など、派手な色どりの店ががひしめきあうようになって、足が向かなくなった。ごくたまに鳩居堂やギャラリーへ行く程度。この日も寺町通りには外国人観光客が溢れて、昔日の通りの面影は皆無。御池通りから北へ上ると骨董店やお茶の一保堂などが並び、京らしい町並みになるのだが。だが三月書房がなくなったいま、やはり足が向かなくなった。暑さのせいだけでなく出不精になったのは、年をとったせいかもしれない。やれやれです。  
 写真は司修展で。

IMG_0592 9月10日(火)晴れ。長崎の被爆体験者たちが被爆者健康手帳の交付を求めた訴訟の判決が昨日、長崎地裁で出た。それは原告44人のうち15人を被爆者と認定するというもの。判決理由は爆心地から東側の一部で黒い雨が降ったと認められたため、その地域にいた人のみ被爆者と認めるというもの。
「一部を認める」とは、なんと惨い判決だろう。原告たちを分断することにならねばよいがと思う。疑わしくは原告を助けるというわけにはいかないのだろうか。そもそも被爆体験者という言葉に抵抗を感じる。あの日、長崎にいた人たちはみな被爆者だ。今朝の日経新聞のコラム「春秋」にこの裁判のことが記されていた。「作家の野呂邦暢は1945年8月9日、長崎県諫早市にいた。小学2年生で、生まれ育った長崎市から疎開中だった。昼前、ふるさとの方角の空に太陽のような白い光球が現れる。やがて鈍い爆発音が地を揺らした。月並みな爆弾ではないと、すぐに察しがついたという。その直後のことである。どす黒い煙が立ちのぼる長崎の方から、風に乗って布切れや紙の燃え殻が次々に漂ってきたというのだ」。コラムの筆者は野呂の『失われた兵士たち』から被爆当日の体験記禄を引いたあと、「被爆体験者の訴えが一部認められたが、核の惨禍からまもなく80年、なお苦しむ人々に残された時間を思う。法廷に立てぬ人もいる。急ぎ救済の道を広げたい」と結んでいる。
 9月に入っても35℃という暑さは変らず。河原でオミナエシを見かけて、ほんの少し秋を感じましたが。

17262149198911726214971823 9月8日(日)晴れ。花園大学禅学研究所が主催する「水上勉没後二十年フォーラム」に参加して、若狭の一滴文庫へ行く。水上勉のいい読者ではないのだが、京都に住み始めたころ、この人が書いた京都に関する本をよく読んでおり、また、元気だったころの作家を京都の画廊で何度か見かけたこともあって何となく親しみを覚えて。そのころ水上勉は自作の骨壺や竹紙に描いた水墨画などを画廊に出しておられた。この日のフォーラムでは、禅学研究所顧問の芳澤勝弘さんや研究所の飯島孝良さんの話があり、その後、若州一滴文庫IMG_20240908_115920の方々との座談会などがあって、水上勉さんの思い出を聴くことができた。一休禅師に関してはとくに「狂雲集」という漢詩集をどう読むかで評価が異なるとのこと。森女の存在をあくまでフィクションとする人も少なくないというので、驚いたことだ。一休さんはいまだに謎の人である。若狭の一滴文庫を訪ねたのは20年ぶりのこと。ちょうど20年前、水上勉さんが亡くなった直後に訪れたのだが、玄関のテーブルに遺影と花が置かれていたのを覚えている。この日のために水上勉の『一休』(中公文庫)、『一休を歩く』(日本放送出版協会)、『私の履歴書』(筑摩書房)などを読んだが、人となりを知るには、息子である窪島誠一郎の『父水上勉』(白水社)が一番だった。没後20年というので、あちこちで水上勉に関する催しがあっている。京都文化博物館では水上勉原作の映画(「鴈の寺」や「飢餓海峡」など)が上映されているし、ギャラリーヒルゲートでは記念の展覧会が開催されていた。一滴文庫では11月に映画『土を喰らう十二カ月』の上映会があるという。縁のあった人たちには没後20年はまだ生々しい歳月なのかもしれない。
 写真は若州一滴文庫の玄関とフォーラム会場。図書館に野呂邦暢の本(『諫早菖蒲日記』『小さな街にて』『草のつるぎ』『鳥たちの河口』)がありました。

IMG_20240820_114147 9月5日(木)晴れ。九州から出てきたYさんと、御池通の喫茶店で待ち合わせてランチをとる。観光客に人気の店というので早めに店に入ったが、私たちで満員。名物のサンドイッチをいただきながら、よもやま話をする。Yさんは無類の読書家なので、最近読んで面白かった本のことなどを教えてもらう。親本は2006年に出ていて最近文庫化された●木村哲也『「忘れられた日本人」の舞台を旅する―宮本常一の軌跡』(河出文庫)や梯久美子『戦争ミュージアム』(岩波新書)などが話題になる。もっと話したかったが、店の外に並んで待つ人たちを見ると長居はできそうにない。一時間ほどで店を出て、燃えるような日差しの下で別れる。しばらく外出を控えていたので、炎天下を歩くのは辛い。よろよろへろへろ、息も絶え絶えで帰宅。だが、久しぶりにおしゃべりできてよかった。ただ言葉が出にくくなっている自分に気づいて愕然となる。ブログを書いている今も、なかなか思い通りの言葉がで出てこない。人名はもとより、思いを表す言葉が出てこないのは困る。「あれあれ、それそれ」で通じるのはつれあいくらいだろう。やれやれ。
でも、「朋有り遠方より来る 亦た楽しからずや」の一日でした。 
 写真は岡崎公園にある蔦屋の書棚。本に関する本のコーナー。
 

IMG_20240915_110307 9月3日(火)晴れ。もう10数年も前になるが、京都大学でパレスチナについての話を聴いたことがある。当時、京大教授だった岡真理さんが講師で、詳しくパレスチナ問題を語られたのだが、アラブ、イスラエル両方に関する知識のない私にどこまで理解できたものやら。ただ昔、イスラエル建国を描いた「栄光への脱出」という映画を観て感動したのを恥ずかしく思い出したことを覚えている。その後もパレスチナで紛争が起こるたびに、岡さんは緊急集会を開き、本も出しておられた。岡さんの話を聴きにいったのは、その前にガッサン・カナファーニーの『ハイファに戻って』(河出書房新社)を読み衝撃を受けていたからだ。この本(『太陽の男たち・ハイファに戻って』)のことは長田弘の『私の二十世紀書店』(中公新書)で知った。カナファーニー(1936~72)はパレスチナ難民として生活し、難民の声を明確にし続けた作家だ。国を追われ、家を追われたパレスチナ難民たちの無言の言葉を組織して書いた、と長田弘は書いている。それゆえイスラエル側にとっては邪魔な存在だったのであろう。1972年、カナファーニーはベイルートで死んだ。車に仕掛けられた爆弾が爆発して無残にも暗殺されたのだ。「ハイファに戻って」は酷く衝撃的な物語である。カナファーニーの死から半世紀たった今も、戦闘は続いている。一日も早くガザに平和をと願うばかりだ。
 写真は岡真理さんの新著。小山哲、藤原辰史らとの共著。副題に「中学生から知りたいパレスチナのこと」とある。

IMG_20240913_160050 9月1日(日)曇り。短歌の会『塔』の70周年記念シンポジウムに行く。場所は北白川にある京都芸術大学春秋座。ここはもと京都造形芸術大学といったのだが、数年前に名称変更して現在の名前になった。京都にはすでに古い歴史を持つ京都市立芸術大学があり、紛らわしいというので名称訴訟もあったのだが、旧造形大が「京都芸大」などという名称を使わないことを条件に和解したという。しかし未だに紛らわしく間違うことが多い。さて、この日のシンポジウムは台風接近中というので、当日まで開催が危ぶまれた。出演者の町田康、是枝裕和さんらは東京から8時間余もかけて京都入りしたとのこと。満員の会場は熱気に包まれ、門外漢の私も永田和宏さんの話を楽しく聴いた。この会に誘ってくれたのは「平安古記録」をいっしょに読んでいるSさんで、「塔」の会員でもある彼女の誘いで参加したのだった。現代短歌とも現代俳句とも無縁だが、週末の新聞に載る歌壇・俳壇には時々目を通すことがある。最近の短歌、俳句は自由だなあと驚いたりしながら。私は未だに勅撰和歌集なのだ。
 この日、会場のロビイに「塔」のバックナンバーが「ご自由にお取りください」という張り紙と共に並べてあった。70年の歴史はすごいなあと思いながら手にしたのが写真の号で、1985年7月号「高安国世追悼号」とある。前年に亡くなった「塔」の主宰者高安国世の一周忌にあわせて出されたもののよう。表紙は須田剋太。司馬遼太郎の「街道を行く」の挿絵で有名だが、1954年の創刊号から1991年に亡くなるまでの37年間、「塔」の表紙を描いたそうだ。バックナンバーを見るにつけても力強く、味わい深い画風なり。  
 この日、映画監督の是枝裕和さんはポツリポツリとしか話されなかったが、対談相手の永田和宏さんが聞き上手で、「映画で心理は撮れない、行為は撮れるが。隠しているものを伝えようと思うと、説明的になる。説明はいらないのだ」「表現は普遍性を求められがちだが、それだと力が無くなる。ドメスティック(Rocal)でいいのだ」という言葉が印象に残った。

IMG_20240912_162346 8月30日(金)晴れ。台風10号は京都を避けていったようで、この一週間、何事もなく過ぎた。TVで台風に備えるよううるさく言うので、京都は晴れているけどと思いながらも食糧を多めに購入。先日の停電の時は冷蔵庫に詰めこんだ食糧が無駄になるのではとハラハラしたが、幸い2時間ほどで回復しほっとした。能登地震では停電がひと月以上も続いたというから、寒い中、どんなに大変だったことか。ライフラインを断たれ、住み続けることを断念した人たちのことを思うとやりきれない。  
 ●梯久美子『戦争ミュージアムー記憶の回路をつなぐ』(岩波新書)を読む。戦争の記憶が遠ざかりつつある今こそ、見て、知っておきたい場所。日本各地にある平和のための博物館の中から14か所を選んで訪ねた記録。ここに記された14か所のうち、私が訪ねたことがあるのは、「大久野島毒ガス資料館」(広島県)、「戦没画学生慰霊美術館 無言館」(長野県)、「象山地下壕(松代大本営地下壕)」(長野県)、「長崎原爆資料館」(長崎県)、「舞鶴引揚記念館」(京都府)の五か所だけ。長野県阿智村にある「満蒙開拓平和記念館」は残念なことに訪ねた日が休館日で、その後再訪の機会はないまま。埼玉の「原爆の図丸木美術館」も一度行きたいと思いながらまだ果たせていない。私が訪ねた戦争の歴史の証人となるこれらのミュージアムは、どこも維持していくのに苦労があるようだ。だがみなさん、使命感をもって守っておられるのに頭がさがる。著者はあとがきにこう記している。
「戦争ミュージアムは、死者と出会うことで過去を知る場所であると私は考えている。過去を知ることは、いま私たちが立っている土台を知ることであり、そこからしか未来を始めることはできない。前に向かって進むには、歴史をかえりみて教訓とするしかないのだ」。
本当にその通り。この本を手に、残る9か所を訪ねてみたいが、そのためには元気でいなければ。

IMG_20240913_143414 8月25日(日)晴れ。夕方、激しい雷雨。午後、山形のHさんから「だだちゃ豆」が届く。「今年はサクランボが不作で送れなかったのでその代わりに」と同封された手紙にあった。箱を開けると、茶色の産毛をまとった小ぶりの枝豆がぎっしりと入っている。早速、たっぷりのお湯で茹であげ、塩を振っていただいたのだが、それは甘くて香りのいいこと。山形ではだだちゃ、仙台ではずんだ、枝豆も土地で呼び名が変わる。嬉しい贈り物でした。  
 書店に『百年の孤独』の文庫本(新潮文庫)が積んであった。私がガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読んだのはもう40年ほど前のことだと思う。何とも不思議な物語で、ラテン文学はみんなこんなものだろうかと戸惑ったものだ。だが、奇妙に惹かれずにはいられなかった。いま書棚から抜き出してみると、手元にある『百年の孤独』は1984年、20刷とある。初版が刊行されたのは1972年だから、52年たって文庫化したというわけだ。文庫を買っているのは若い読者なのだろうか、それとも半世紀前の読者が懐かしく手にしているのだろうか。この物語は簡単にいえば、僻地にマコンドという村を切り開いた一族の繁栄と滅亡を描いた破天荒な年代記。次々と起こる不思議な出来事にめまいがおきそうになる。1993年に出た池澤夏樹の『マシアス・ギリの失脚』(新潮社)を読んだとき、これは『百年の孤独』だと思ったものだ。いろんな作家に影響を与えた本だということは間違いない。
 夕方激しい雷雨があり、すぐ近くに落雷。直後電気が消え、停電は2時間にも及んだ。まだ暗くなる前だったので、ランタンや水、卓上コンロなどを用意することができたが、夜中だと慌てたことだろう。能登の人たちの苦難を思ったことだ。 

IMG_20240910_091748 8月23日(金)晴れ。近所の商店街にお米を買いに行ったら米屋の店頭から米が消えていた。生協の米売り場の棚も空っぽで、米の代わりにパック入りご飯が積んである。まさかと思っていたが、売り場から米が消えたのは本当のようだ。だが米が足りないはずはない。誰かが隠して米不足を煽り、値上げを目論んでいるのではないか。米がなければ麺かパンを食べていればいい。ただ育ち盛りの子どもたちがいる家庭は困っていることだろう。我が国の食料自給率は40%程度、100%自給できるのは米くらいしかないのに、それがこんなに不安定では。
 ●川本三郎『遠い声』(スイッチ書籍出版部 1992年)を読む。先月ベルリブロから出た川本三郎の短編集『遠い声/浜辺のパラソル』は過去の作品のアンソロジーだった。読んでいるうちに、ああと思い出したので書棚を見ると、元本の一つ『遠い声』があった。両方に納められた「救済の風景」という掌編に野呂邦暢のことが出てくる。
『「海でも川でもそこに水があれば私は惹かれる」という、いまではほとんど忘れられているNという作家の言葉を思い出した。Nは九州の小都市に住み、河や海の静かな風景によってのみはじめて慰籍される孤独な人間を好んで描いた。人と人の関係よりも人と風景の関係の方を愛した。そして六年ほど前にまだ四十代の若さで急逝した」「河口は懐かしかった。すべてを失っても自分には河口がある、と思った。それは男の救いになった」ーーNが見たその河口をいつか見たいと思った。私は自分がもうNが死んだ年齢に近づいているのを知った』
 作家が急逝して六年とあるので、これは野呂が亡くなった6年後の1986年ごろに書かれたのだろう。
没後6年になる当時は、「いまではほとんど忘れられている作家」だったが、それから30年後に再読ブームが起きて、野呂邦暢の本が続々と出た。小説集成、随筆コレクション、その他、新装版、文庫本、アンソロジーなど、数え上げるのが難しいほど。川本三郎は野呂邦暢が亡くなったあとも、ずっと野呂の作品に触れ、また野呂について機会があるごとに書いておられた。野呂文学再読ブームを早くから支えてこられた一人ではないかと思う。
 詩のような小説『遠い声』はいまなお瑞々しく、読む者に迫る。30年前、初めて読んだ時のことを懐かしく思い出した。

IMG_20240912_145319 8月22日(木)晴れ。猛暑。松岡正剛と石川好が亡くなった。松岡正剛はともかく、石川好はずいぶん以前に『ストロベリーロード』を読んだきり。だが死亡記事によると、秋田の美術大学の学長や酒田市美術館の館長をやっていたという。二人とも同世代といえるので、訃報に接して感じるところがあった。身近にも旧友が先に逝ったりして、身辺寂しきかぎりなのだ。良寛さんではないが、「手を折りて昔の友を数ふれば なきは多くぞなりにけるかな」という心境。いつも誰かが亡くなったらその人の本(作品)を読むことにしているので、書棚から松岡正剛『日本数寄』(春秋社)を取り出して読む。この人の読書ガイド『千夜千冊』はすごい。武蔵野ミュージアムの館長をしていたが、後任は誰になるのやら。
 京都は猛暑酷暑が続いている。年寄りには外に出るのは命懸け、というのでひたすら冷房の効いた部屋で読書三昧の日々です。
  
 

IMG_20240912_134918 8月18日(日)晴れ。留守中届いた郵便物に目を通したあと、山のように溜まった仕事を後回しにして、植物図鑑を開く。八ケ岳で出会った樹木や草花の名を確かめるため。この図鑑を揃えた時、ここに載っている植物の7割近くは未知のものだった(と思う)。いまはどれくらい実際に会いもし名前も知っただろう。まだその姿の記憶が新しいうちに、図鑑で再確認するのが楽しみ。八ケ岳ではアカマツやカラマツ、シラカンバ、スギ、ヒノキ、サワラ、コナラ、ホオノキ、サワグルミ、ウワミズザクラなどをよく見かけたが、針葉樹にはあまり馴染みがないので、名前が分からなかった。図鑑を見ても、それとは分からない。今後の宿題です。
●パク・キスク『図書館は生きている』(原書房)を読む。アメリカの図書館で司書をしていた著者が、世界各地の優れた図書館を訪ねてその魅力を記したもの。先進地アメリカの図書館が優れているのは読むまでもないが、あらためて羨ましく思うばかり。残念なことに日本の図書館は取り上げられてないのだが、訳者あとがきでそれが紹介されている。訳者の柳美佐さんによると、いまお勧めの図書館は金沢市にある石川県立図書館だとのこと。2年前の7月、この図書館がオープンした直後に訪ねた時のことを思い出す。館内は階段状に円形劇場のような造りで、テーマごとに本が並べてあり、館内には自由にくつろげるスペースがたくさんあった。パソコンを持ち込んで仕事(勉強)をする人もいて、わが京都の図書館と比べ利用者サービスの豊かなこと、我彼の違いの大きさに悲しくなったものだ。だが訳者あとがきの最後に「図書館についての疑問やレファレンスの依頼にいつも丁寧に対応してくださる京都市中央図書館の司書のみなさんとスタッフのみなさんに心から感謝します。あなたたちは我が街の誇りです」とあって、驚きました。

IMG_20240827_122420IMG_20240827_122357 8月15日(木)晴れ。夜に入って雨。79回目の敗戦記念日。台風7号の接近で、関東は豪雨。地震に台風とお盆休みで遠出をしている人たちは不安なことだろう。外歩きはやめて、部屋で持参した本を読む。毎年、この時期に再読する本ばかり。
●野呂邦暢『失われた兵士たちー戦争文学試論』(芙蓉書房)
●福田須磨子『われなお生きてあり』(ちくま文庫)
●高見順『敗戦日記』(文春文庫)
 今年は●丸谷才一『笹まくら』(新潮文庫)、●古山高麗雄『二十三の戦争短編小説』(文藝春秋)も再読。丸谷才一の『笹まくら』は徴兵忌避者の戦後を書いたものだが、世の中が平和になるにつれ生きづらくなる主人公の底知れぬ不安が伝わって息苦しくなる。私は丸谷才一の小説といえば、この作品が真っ先に思い浮かぶのだ。古山高麗雄の戦争短編集は戦場の日々が淡々と描かれていて、読むほどに厭戦気分と軍隊というものの理不尽さで胸がいっぱいになる。
●内田樹が『サル化する世界』(文春文庫)の中で、こんなことを語っていた。
「僕のSF的妄想は、1942年のミッドウエー海戦の敗北で、停戦交渉を始めたらどうなったかというものです。史実でも実際に当時の木戸幸一内大臣と吉田茂たちは、すでに講和のための活動を始めています。ミッドウエイ海戦で帝国海軍は主力を失って、あとはもう組織的抵抗ができない状態だった。この時点で戦争を止めていれば、本土空襲もなかったし、沖縄戦もなかったし、原爆投下もなかった。300万の死者のうち90%は死なずに済んだはずです。1942年時点で日本国内に停戦を主導できる勢力が育っていれば、戦争には負けたでしょうが、日本人は自分の手で敗戦経験の総括を行うことができた。日本人が自分たちの手で戦争責任を追及し、憲法を改定して、戦後の日本の統治システムを作り上げることは可能だった」。それができなかった理由を知るための本に●加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)がある。日本の近現代における5つの戦争(日清・日露・第一次世界大戦・日中戦争・太平洋戦争)について、詳しく語ったもの。中高生相手の講義をまとめたものだが、質疑応答のくだりでは、生徒たちの理解力と知識力の高さに感心させられた。漠然とした知識しかなかった私は教えられることばかりでしたが、歴史を正しく学ぶことの大切さを再認識しました。

 IMG_0676 8月13日(火)晴れ。朝、富士山がきれいに見えたので、折角だから近くまで行こうと河口湖へ行くことに。お盆休みに入ったせいで、高速道路も一般道も車がいっぱい。河口湖が近づくにつれ富士山の周りに雲が湧き出て山が隠れ始めた。ややや、残念だが風神でもないかぎり、あの雲を払うことはできない。仕方がないので湖畔で寛ぐことに。緑陰には爽やかな風が吹き過ぎ、何とも言えぬ心地よさ。対岸の富士の裾野辺りが鳴沢村で、あそこに武田泰淳の山荘があったのだ。百合子夫人の『富士日記』の舞台となった山荘が。近くIMG_0681には大岡昇平の山荘もあって、両家の行き来が日記には面白く書いてある。山中湖までいけば図書館や三島由紀夫文学館もあるのだが、今回はパス。湖畔の風が気持ちよくて、椅子に凭れているとうとうとしたくなる。小一時間もいただろうか、富士山はとうとう雲に隠れたままだった。西湖、精進湖の畔を通り、朝霧高原を経、甲府から中央道に乗って北杜へ帰る。朝霧高原の道は渋滞していた。西湖、精進湖は水遊びの人たちで賑わっていた。岸辺には色とりどりのテントがびっしりと張られ、湖上にはボート、ヨット、いま流行りの立って乗るサップボードなどが思い思いに浮かんでいる。そうかここは関東圏の人たちの遊び場なのだなあ、とあらためて思う。それにしても押し合いへし合い、町にいてもぎゅうぎゅう詰めで、遊びに来ても混雑とは、都会の人は気の毒だなあと思う。京都は一応人口145万人の都市ではあるけれど、景観条例のおかげで見上げるようなビルはないし、どこかのどかだ。いまはオーバーツーリズム気味で、町には外国人観光客がうじゃうじゃ、まるで外国にいるような気になるが。
 中央道を降り、清里経由で帰る途中、原っぱに鹿の群れを見る。いつもこの場所で見かける群れにちがいない。北海道の道東に住む友人がよく「オオカミを輸入して害獣退治をさせたい」と言っていたのを思い出す。このあと、八ケ岳美術館へ寄って「ミロ展」を観る。ここは会員制ホテルの中にある美術館で常設展示作品の数は少ないが、ロートレック、ピカソ、シャガール、ユトリロなど、よく選ばれた作品がかけてあって堪能した。  
 写真上は川口湖畔。富士山は雲の中。下は清里近くの草原に群れる鹿たち。

IMG_20240809_100546 8月12日(月)晴れ。清泉寮へ行く。木陰のベンチに座ってスケッチの真似事をする。遠くに金ケ岳(1764m)と茅ケ岳(1703m)が見える。真ん前にあるはずの富士山は雲に隠れてこの日は見えない。茅ケ岳は作家の深田久弥が登山中に脳卒中で急逝した山。1971年3月のことで、茅ケ岳には碑があり、毎年彼を偲ぶ「深田祭」が行なわれている。いまでも『日本百名山』は読まれているのだろう。私は田中澄江の『花の百名山』(文春文庫)を愛読しているのだが。
IMG_20240808_171102IMG_20240827_122450 この後、野辺山の平沢峠へ行く。ここは飯盛山への登山口で、この日もたくさんの登山者が来ていた。八ケ岳や南アルプスなどの本格的な登山と違って、飯森山(1653m)はトレッキング気分で登れる山らしく、登山者の装備も軽い。3時間もあれば余裕で往復できるというので、親子連れも多かった。ここには日本海と太平洋へ水が分かれる「分水嶺」の看板がある。登山口の周辺にマツムシソウやアサマフウロが群れて咲いていた。その中にネジバナ(モジズリ)もあり。
 写真上は清泉寮(清里高原)。下はイタリアンレストランで八ケ岳の野菜を食べる。右は川本三郎『遠い声 浜辺のパラソル』(ベルリブロ)。「平成幻影」掌編集とある通り、以前に発表された作品から選んだ小品集。新作かと期待して読んだのだが、期待は裏切られませんでした。 

IMG_0512 8月11日(日)晴れ。小淵沢にある薬用植物園へ行く。道中、道沿いにある馬場で乗馬をしている人たちを見る。馬術大会が近づいたので練習しているのだろう。中に私と同じ年ごろの女性騎手がいて、颯爽と駆ける様子に見とれてしまう。
 薬用植物園は馬の道近くにあり、入り口に朴の木の並木がある。この日はベテランの薬剤師が園内を案内してくれた。日差しが強いのでなるべく木陰を歩きましょうと、薬用樹林へ向かう。杜中、ノリウツギ、甘茶、棗、メグスリノキ、朴、トチノキ、カツラ、ミズキ、シナノキなど、それぞれの木の下で、樹木の特徴や効用などを教えてIMG_20240806_113028IMG_20240806_112943もらう。メグスリノキの、羽の形をした種をとって飛ばしてみたり、山椒の実を齧ったり。初めて口にしたセンブリの苦かったこと。花が終わったあとの樹では、オニグルミ、サワグルミ、ウワミズザクラ、アケビ、クコ、カキ、アーモンドなど、いろんな形と色の実を見た。樹林の下にはウバユリやヒオウギ、ウツボグサの花が咲いていて、ヒオウギは京都の祇園祭の花ですと言うと、「京都にも薬用植物園がありますよ、ぜひお出かけください」と。ハーブ園ではミント、肉桂、ターメリック、ウコン、ヘリオトロープなどの葉を手にして、様々な香を嗅いだ。最後に玄関前にある大きな樹が、バイオリンのストラディバリウスの材料となる木だと聞いたのだが、樹の名前は忘れた。ジャーマン何とかといったような。やはり先達はあらまほしきもの、密度濃い2時間でした。
 午後、小淵沢の駅前商店街で行われる「すずらん祭」に行く。町の若い人たちが町おこしの一環で開催しているのだろう、御神輿が出て、駅前の商店街に露店が並び、地元の子どもたちが運営を手伝っている。休憩所で町の人に尋ねると、「ここには百軒くらい店があったんだけど、いまは10軒あるかないかだね」とのこと。駅前商店街が寂れているのは、ここだけのことではない。清里も同様。この日祭のために臨時運行しているバスに乗って小淵沢図書館へ行く。
 写真はノリウツギ。説明板によると、「皮の内側がベトベトしていて、これを和紙を漉く時のノリに使いました。(ユキノシタ科)」とある。へえ、それで「ノリウツギ」というのかと合点。下は左がレンゲショウマ。右はフシグロセンノウ。緑の中でひときわ鮮やかなトキ色が目立ちます。

IMG_0614 8月10日(土)晴れ。朝食後、霧ヶ峰へ向かう。富士見高原、原村、尖石、蓼科を通り、ビーナスラインで白樺湖、車山高原を過ぎると霧ヶ峰はもうすぐそこに。標高1600mのところにある駐車場に車を止めて、自然保護センターへ入る。ここは行くたびにバージョンアップしていて、展示を見るのに時間が足りないほど。霧ヶ峰の自然や歴史、地質、動植物などが詳しく紹介されていて隅々まで見ても見飽きることがない。とくに壁に張り出された「最新開花情報」に目を引かれた。草原を歩いて花々に会ったあと、再度このパネルを見て花の名を再確認するのは楽しIMG_0628い。この日会った草花は、ウメバチソウ、ヤマホタルブクロ、マツムシソウ、フウロソウ、カワラナデシコ、ワレモコウ、ヤマハハコ、ツリガネニンジン、ヤナギラン、ヒヨドリソウ、シモツケソウ、ウツボグサなどなど。霧ヶ峰はニッコウキスゲが有名だが、近年、鹿の食害で山野草が激減しているとのこと。広い草原にいくつか鹿除けの冊が設けてあったが、その中に黄色いニッコウキスゲが僅かに咲き残っていた。広い草原にグライダーが何台も停まっている。近づくと、「今日はグライダーを飛ばすのに風向きが反対なもので、飛ぶのは諦めてこうしてみなさんに見学してもらっているのです」。見IMG_0633学者が代わる代わるグライダーに乗り込み、記念撮影に興じていた。動力を持たない飛行機はまさに風任せ、怖くないですか?と平凡な質問をしてしまう。
 今朝、部屋の中にトンボが飛び込んできた。先日の夜はカブトムシがぶんぶん音を立てて入ってきたが、なんだか「昆虫記」の世界にいるような気分。
 写真上は霧ヶ峰からの眺望。雲に隠れた南アルプス。左に同じく雲に隠れた富士山が。中はウメバチソウ。下はマツムシソウ。 

IMG_0567 8月9日(金)晴れ。長崎原爆忌。午前中、岡谷市にある蚕糸博物館へ行く。生糸は明治初期から昭和の初めごろまで、わが国の輸出の最大品目だった。製糸業は外貨獲得産業として発展し、富国強兵政策を支える大きな産業だったわけだ。富岡と並んで一代産地となったのが諏訪湖の西にある岡谷で、博物館に展示された古い地図によると、町の大半が製糸工場で占められている。館内には当時の製糸機が年代ごとに置かれていて、その歴史を見ると、外国の製糸機を改造して飛躍的に生産を上げ、品質を向上させていった過程がわかる。製糸工場といえば女工さんによIMG_0564る糸繰り作業が有名だが、いまでは絶滅したこの作業が(参考として)いまも行われていて、蚕から糸を取る場面を見ることができる。聞けば日本国内でいまも国産の蚕から糸をとっている会社はここしかないとのこと。いまやわが国で織られている絹布も原料の糸は殆どが外国製だそうだ。溜息をつきながら外へ出て遠くの山々に目をやる。あの野麦峠を越えて、たくさんの少女たちが諏訪周辺の製糸工場へ働きに来たのだ。岡谷が製糸の町だったということを今回初めて知った。いろんな種類の生きた蚕も初めて見た。いやはや驚きの連続でした。
 せっかく諏訪まで来たからというので、諏訪大社の下社春宮へお参りに。社の奥にある万治の石仏に会った後、諏訪市の信州風樹文庫へ。ここは岩波書店が出す本をすべて所蔵している日本で唯一の専門図書館。館内に岩波茂雄の座右の銘「低處高思」(暮らしは低く、思いは高く)の額が掲げられている。信州には出版人が多い。岩波書店、みすず書房、筑摩書房、理論社など、いずれも志を持った人たちによる出版社が少なくない。
 夜、ゆらりと部屋が揺れると同時にけたたましく携帯電話の警戒警報が鳴って驚いた。TVをつけると、震源地は神奈川県だという。前夜は九州宮崎で地震あり、南海トラフの警告が出た。夜、横浜の娘から電話あり、近所の店から食料品が消えたとのこと。地震に備えて、ということなのだろう。
この日の11時2分、風樹文庫の前で黙祷す。
 写真上は岡谷市の蚕糸博物館。手前はしだれ桑の木。下は蚕から糸をとる糸繰作業。

IMG_0501 8月8日(水)晴れ。八ケ岳に来ている間は新聞は読まない。TVもニュースをちらっと見るだけ。文字通りの隠居生活は、若いころからの座右の銘「隠れて生きよ」そのまま。山梨県立博物館や文学館、美術館へ行きたいと思うのだが、甲府盆地の猛暑を思うと足がすくむ。というのでこの日も涼しく過ごそうと、八ケ岳高原ヒュッテへ。ここは目黒にあった尾張徳川家の邸を移築したもの。以前はホテルだったが、いまはレストランや結婚式場、ギャラリーとなっている。この奥にある音楽堂は客席が250席しかないがそれは素敵なホールで、国内外のIMG_20240806_122042演奏家によるコンサートには多くの来場者がある。今年10月に予定されているブーニンのピアノリサイタルはチケットが既に完売となっていた。この建物にはいたるところに熊の彫り物がある。これは明治維新後、北海道の八雲村に開拓民として入植した旧尾張藩士たちが始めたもの。旧藩士たちの窮乏を見かねた徳川義親公が洋行先のスイスで土産物の熊の彫り物に出会い、これを八雲村の旧藩士たちに伝えたのが始まりだそうだ。のちにアイヌの人々と共に作った熊の彫り物は代表的な北海道の土産となった。
 帰り、八ケ岳倶楽部に寄って山野草に会う。ここも鹿の食害に遭っているのだろうが、足元にはアサマフウロ、フシグロセンノウ、イチリンソウなどが可憐に咲いていた。
写真上は八ケ岳高原ヒュッテ。標高1500m。下はキレンゲショウマ。
 

IMG_20240827_122437 8月6日(火)晴れ。夜に降った雨は早朝には上がり、今朝はひと際くっきりと南アルプスの山々が浮かび上がって見える。少し左に目をやると、富士山の姿も。あの山に毎日千人を超える登山客が昇っているなんて。目の前の駒ヶ岳にも大勢の登山客がいるのだろう。午前中、のほほん本舗へ出かける。この日はいくつか本を購入し、カフェコーナーでコーヒーをいただきながら、読書。友人に教えられたジャック・ロンドンの『ザ・ロード』(ちくま文庫)を読む。友人が「いま『ザ・ロード』を読んでいる」と言うので、ケルアックの『路上(オン・ザ・ロード)』だとばかり思って、「若い頃に読んだ」と答えたのだが、間違いだった。ジャック・ロンドンはケルアックに先行する冒険家で、ケルアックはロンドンに大きな影響を受けたという。ロンドンの『路上』は「アメリカ放浪記」という副題が示すようIMG_0603に、若き日のロンドンが、アメリカ大陸を列車にただ乗りしながら放浪した記録である。アメリカではこんな放浪者のことをホーボー(Hobo)と呼ぶ。私は「ほうぼうさすらうからホーボーと言うのだ」などと笑ったことがあるが、カタツムリのように荷物を持たず一所不在で生きるのに憧れた身としては、ホーボーには親しみがある。     
 今日は広島原爆忌。朝、8時15分、部屋のベランダから西の方を向いて黙祷す。夜、横浜に住む友人から「ようやく映画『オッペンハイマー』を見ました。」とメールあり。「科学者の中には悪魔と天使が両方住んでいるんですね」と。
 写真は『ザ・ロード』。下はワタスゲと赤とんぼ。

IMG_0487 8月4日(日)晴れ。朝、半時間ほど近くを散歩。周辺には民家や別荘、避暑客用の小さなホテルが点々とあるが、ほとんどは雑木林と緑の広場。林の中に続く馬の道もあって、夏場は早朝散歩していることが多いそうだが、滞在中、遭遇することはなかった。道端の野草の花を見つつ歩く。コオニユリ、ツユクサ、ツリガネニンジン、フウロソウ、イチリンソウ、ソバナなどなど。コムラサキの枝にぶら下がったカブトムシを見つける。この日は蓼科へ行く。途中、尖石縄文考古館へ寄り、「縄文のビーナス」と「仮面の女神」と呼ばれIMG_0524る二つの国宝土偶に挨拶す。この考古館は教育施設として充実しており、展示解説の分かりやすい事、ただ出土品を並べるだけでなく、さまざまに興味がもてるよう工夫がなされている。土器つくりや土偶つくり、縄文衣裳の着用など、体験コーナーもいろいろとあり、親子で賑わっていた。蓼科湖へは帰途寄ることにして、まずは北八ケ岳ロープウエイで2237mの山頂へ。ここからの眺望の素晴らしかったこと。晴れていたせいもあって、剣岳から穂高連峰、乗鞍岳、木曽御嶽山、木曽駒ヶ岳、南アルプス、八ケ岳と見渡すことができた。
 帰途、蓼科湖へ寄る。湖のほとりにあるそば屋で一時間待って昼食。待った甲斐があって、それは美味しい蕎麦だった。待っている間、店の壁にかかった長野の県歌「信濃國」を読む。「信濃の国は十州に境つらぬる國にして、聳ゆる山はいや高く流るる川はいや遠し」に始まる長歌。長野出身の友人が歌ってくれたことがあるが、信州人ならだれもが歌えるというのには驚いたものだ。
食後、北杜市に戻り、市の図書館(金田一春彦記念図書館)へ行く。日ごろ読むことがない文芸誌や雑誌を斜め読み。「本の雑誌」に連載中の沢野ひとし「小海線物語」を興味深く読む。見知った場所や風景が出てくるのが楽しく、去年、この連載記事で知った本屋を訪ねたりした。去年も図書館で読んだのだが、この連載は結構長く続いているようだ。夜は近くの郷土料理店で夕食。親子二人でやっているようで、のんびり料理が出てくるのがよかった。名物の山菜寿司というのを頼んだら、ネタはカンゾウ、ホタルブクロ、ツクシなど。イワナの刺身を薦められたが気が進まず、申し訳ないことだった。店の前には大きなもみの木があり、足元にはたっぷりと風知草が揺れていた。
 写真上は北八ケ岳ロープウエイからの眺望。右奥に木曽の御嶽山、真ん中あたりに木曽駒ヶ岳。手前に南アルプス。写真下は大泉町にあるブックカフェ「のほほん本舗」。なかなかいい選書。コーヒーもたっぷりと出てきます。 

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